最近のテレビに出演する若い人たちの発するコメント、発言を聞いていてよく思う。彼らは 映像に溢れた機器の恩恵を受けながらも、結局のところ何も学んではいないのだ、と。 手間暇をかけて お金を使って取材し考案し構成し作り上げてこられた映像とその世界の中に何を見いだしているのだろう か。 何かをつかみとろうとはしないのだろうか。あまりにもありすぎて、物事に無感覚、無感動になっ ているのだろうか。 価値判断を社会的な金銭感覚でしか行っていないのだろうか (これは若者に限った 話ではない。たとえば、『開運!何でも鑑定団』などはその例。) 。こちらでは毎週土曜日の 12:00 に始まる TBS 制作の『世界ふしぎ発見!』 (日立製作所がスポンサー) を見ていてよく思うのである。クイズ形式で進められる番組に回答者として出演する人たちの各場面での コメント・発言は楽しみの大きな部分を占めるのだが、ゲスト回答者として出てくる若い人たちには最近 よく疑問を感じる。答えの可否が問題なのではない。する質問や司会の草野仁アナウンサーにされる質問 へのその場での返答に失望することが多いのである。クイズをとおして問いかけるものに思いをいたさな いらしいのである。
レギュラー回答者の黒柳徹子さんや板東英二さんの返答は概して当を得ていて妙であるし、もう一人のレ ギュラーの野々村真さんもいかにもユニーク(独特)でよいのだけれど、ほかの回答者のいうことにはあ まり得るものがない。クイズとして楽しみそれを表現するのはそれでよいのだけれど、それに終始し、中 身に対する視点が見られない。ちょうど試験問題をやって答えを出し、それについてコメントするような ものなのである。視野を広げ視点を変えて見て考えるよい機会をお金 (出演料) を貰ってまで与えられて いるというのに、何か、小学生の算数のドリルの延長のようにやっているようにさえ見えてしまう (うが ちすぎか) 。 元より、深くは考えようとはしていないのであろう。
私たち視聴者は、 NHK なら NHK そのものに、民放なら出資者の企業の製品やサービスにお金を払って見 ている。何気なく点けたテレビのたまさかの番組でもそれなりに何かを、返ってくる対価となるものを得 たいと思う。なにがしかの見返りを欲しいのである。ただ払うだけ、そして好き勝手に貰った連中が使う 、その形は電波の占有を伴う放送には許されない。税金が湯水のように使われ無駄になったり、誰かの懐 にこっそり入って消えたりしたりすることを人々は許さないのと同様である。同様に、時間をかけて、た とえなぐさみであっても退屈しのぎであっても、見つめるテレビがつまらない意味のないものであっては 失望する以上に腹立たしくさえなるものである。限られた映像であってもそこは未知の世界や体験の難し い世界が広がるのである。そこに身の回りとは異なる何かを見いだしてこそ、それこそ「なんぼ」のもの である。払ったお金を価値のないものにして貰いたくはない。
若者たちは現代、多く刹那的である、と思う。ものも何もかも溢れすぎていて、小金をためれば簡単に手 にはいってしまう。薄っぺらい友人関係も、男女関係も容易に構築する。互いの接触の困難さや批判し合 う視点や考え思い悩む闇はそこにはないかのようである。ゲームなどというものにうつつをぬかす者達も 多いのは気がかりである。そこから得られるものなど全くない。時間とお金とエネルギーの浪費でしかな いのに。 欲しいものはいつでもちょっと工夫すれば入手可能、そんな社会が若い人たちを視野の狭い、 視点の乏しい、思考の浅い、そして何よりも危惧すべきことには、批判をしない従順な人間にしてしまっ ているように感じる。
そこにあるものはそれでよい、既成のものはそれでよい、既成の概念や構築物からの延長であることが正 しい、伝えられるもの、突きつけらているものはそのまま受容すればよい、疑いを差し挟んだり違ったも のを求めたりしてはいけない、偉い人たちのつくったもの・言ったことはそれが中心的で主流で間違いな い、そんなある意味で素直な心がその人自身をつまらなくし、ひいては社会を衰退させていく。
つまらないテレビ番組でも、そんな出演者の一言一言にかかってくる「学び」があると思う。それを視聴 者は自身の感じ考えたことと対比させながら異なった世界を知っていくのである。そんな視聴者も数多い ことを、特に若い出演者たちは知って欲しいと思う。ただお金が貰えるから出るのではなく、何かを彼ら 自身学んで、それを視聴者の誰かに伝えて欲しい。
雪印乳業による集団食中毒事件と「一連」の食品への異物や虫などの混入事例における一般消費者からの 苦情はしごく当然のことである。また、ロシア北方艦隊の原子力潜水艦クルスクがバレンツ海で沈没した事故に対する 大統領以下の連中の対応の冷たさ・遅さ・まずさへの批判もまったく当然のことである。さらに、銀行への支援や百貨店 そごうに限らない大量の税金の投入に対する批判と非難と不満もまったくもって当たり前である。しかし、問題なのは ”後が続かない”ことである。1989年の消費税導入の時も結局そうだったのだ。 不平と不満と苦情誰しもが何らかの不満を抱え不平をもらす。直接的なきっかけがあれば苦情としてしかるべきところへ述べ立てる。こ れはきわめて健全な姿である。自らの不満のはけ口を弱い立場の人や力の弱い人や抵抗できない人へ向けてしまう子供 や大人に比べたらこれはどんどんやるべき行為なのだが、それらは往々にして単発的で、また、声が小さくてまとまら ないことが多い。時として常日頃の不平が不満として形を成し、それが何人も巻き込んで暴発したり、一人でも大声で 叫んだりぶつけたりすることも起こる。周囲は驚かされるが、これは健康的な不満の解消として、抑圧を撥ねのけて出 た発散される不平の結果としての平衡追求の姿である。それが感情的であれば訴える効果も大きい。やっと自分を解放 したという喜びと共に、他の人にも聞いてもらえた、また、注目してもらえたことは、結果がどうあろうとも、一種の 満足感を一時的にではあっても伴うことで抑圧感、閉塞感が解消されていく。
これらは一方、主として個人的なものである。何人かであっても、個人的な出来事であることが多い。これもまた具体 的な形として、たとえば、食品への異物やごみや虫や有害物の混入などではっきりとした苦情となるとこれは感情を超 えて確かな訴えとなる。これは当該加害者(過ちであっても)に反省を促し改善へと導いてくれる。身近な形での社会 変革の小さな形態の一歩なのである。
到達と拡大
週刊誌ではないが、企業の担当者や販売者、行政の担当者にはそんなことをいちいち聞くことはない、重大視すること はない、よくあることだ、そういっているが嘘も多い、などと高をくくって対応しているものもしばしば存在するし、 内心そう考えているものは多いはずである。もし雪印乳業の事件がなければ、苦情は一対一でその場限りの「処理」(!) が成されておしまいだったろうし、そういう「処理」さえ成されない事例も数多いと考えられる。多くの人は、変なもの を買ってしまった、あたりが悪かった、今度は慎重に選ぼう、として終わりにするだろう。証拠立て、聞いてもらうた めに、保健所などに持ち込んできちんと調べてもらってから製造業者に苦情を言う、という面倒な手続きを踏む人は実際 多くはないだろう。たいていの人は直接電話をかけるなりし代替品をもらえれば御の字、うわべだけでも謝罪の一言が あるだけでよしとするものなのである。
評論家氏や識者(学識経験者)などが、雪印乳業の食中毒以降の苦情の広がりと表面化を「連 鎖反応」として片づけ、時期がくれば終息し、マスメディアも取り上げなくなる、と踏んでいるのは残念なこと である。むしろ、そういった諸氏は、この機会をこそ生かし、またとないチャンスと捉えて、苦情から批判とその増大を 企図すべきなのである。どう捉えるのか、どう考えるのか、そしてどうすべきかを人々に提示し、その道筋を説示すべき 役割を担っているからである。そうでなければ、どうして彼らを一般の人たちは飼っておけるだろうか。
一人に人の当然の声が問われるべきところへ届き、それが正当な声として取り上げられ、それを周囲も社会も支えて消 させないように守りより遠くまでより深くまで到達して扱われるべきこと、それが基本である。そして、そのような声が 各地各所で生まれ広がりあるいは束になりうることを誰も妨げてはならない。必ずそうなることこそ、そうなることが 当然視される社会こそ変革の土壌を醸成しうるのである。
一般の消費者の声だからこそ代表的な当然の声として認められるのである。その声を、またか、とか、よくある戯れ言 とか、たまさかマスメディアに取り上げられたから出てきただけだ、とかいったような捉え方をさせるような社会環境 ではなにもよくならないし、不健全である。一人一人の確かな認識と自覚の上の、そういった発言と行動への自負心こ そが改善の第一歩となる。
ロシア社会は不幸な共産党統治時代の抑圧と監視と隠蔽の常態化の中でも本来持つべき姿を忘れてはいなかったのであ ろう。今回の不幸な 118人 の犠牲にロシアの人々は声を上げることができたのだ。強健強圧の復活をもくろんだ大 統領ももはや過去には戻れないことを悟ったはずである(ロシアという風土には強い力が似合い、必要だ、などという 幻想ーーあるいは歴史的誤認識ーーは改めたい)。強さは確かに魅力だったろうが、犠牲をよしとはしない、いい加減 さを見過ごさない、人命を軽視しない、という当然の声が大きくなった。マスメディアはその役割を果たしたのである 。後進的風土からの脱却をロシアには求めたい。今回の災いを転機として本当の変革になによりも誰よりもその土壌か ら人々の力で取り組んでほしいと思う。
社会の変革
身近な、毎日口にする食品だから重要視され広く関心を集めているこの”一連の”苦情の「連 鎖反応」 はただ単に食品会社の安全と衛生の管理の再点検と改善だけで終わるのだろうか。終わらせてよいの だろうか。一方で私たちの暮らしを支える経済上の仕組みも放っておけない問題である。当たり前の仕組みが当たり前 に機能しているなら、それがよく知られ誰もがアクセスできる環境ならうまくいくだろうが、現実は違う。
政府による私企業の「救済」のための公的資金、つまり税金、の大量注入は強い批判を巻き起こしたはずなのに、小さ な縮小と振り分け、百貨店そごうの「救済」の取りやめ程度に終わることになりそうなのである。自民党の政治家はも とより、優秀だとどこかで言われる(^_^;)役人どもも平衡感覚はもちろん、正常な金銭感覚も持ち合わせていないよう である。単に大規模な企業だから、とかいうだけでなぜ億から兆にまで及ぶ多額の税金を平気で使えるのか、私には到 底理解が及ばない。もちろん、他に理由を取って付けても正当化できる税金の使途ではない。税金は必要性があるから 集められ納められ使うのである。彼らの使途にその必然性はない。
市場経済が正常に機能するならば、自助努力をよしとしそれを標榜し進める企業や政府が自らの失敗をどうして他人 の貴重な資金で穴埋めしようとするのか。規模が大きい、従って影響が大きい、という。それはそのとおりである。だ からなんなのか。その結果倒産する企業が増えてもそれは当然の成り行きである。仕組みをそういうふうに作り上げそ れを当然視してきたのは誰なのか。小さければ放っておき大きければ助ける、という。とんでもない。これは逆である 。自助努力の困難なところに救いの手を差し伸べることは社会の自然で健全な姿の一つである。もちろん、約束ごとや 了解が必要ではある。影響が大きいのは最初からわかっていたことである。それを理由に持ち出すのは過ちの尻拭いを 過ちで覆い隠すようなものである。もっというならば、犯罪で犯罪行為を正当化しているようなものなのである。
私たちの声はマスメディアをも通じ為政者にも届いているはずであると私たちはどこかで信じている。しかし、彼らは 食品という明らかに生命の維持に支障の出るものでないためにお金の使い道を改めようとはしない。ロシアの人々を見 習って私たちも激しく政府や官僚を非難すべきである。一時的なことで終えるのではなく、変えるまで、改めるまで、 あるいはやめるまで大声を出し続けるべきなのである。雪印乳業が仮に倒産したとしても自業自得である。私たちは代 わりを求めればよい。百貨店も銀行も同じことである。建設業者は求めなくともよい。減るなら大いに結構なことであ る。出したが最後、無駄に使われても文句の言えない、届かない税金など納める義務がどこにあるのだろうか。 自分たちの存立と存続のためだけに公共事業 とやらをやり続ける土建屋に税金を使わせる政府や自治体のやり方に疑問の眼を向けて批判、非難の声を上げることは 当然のことである。そして変えさせることこそ私たち自身の生活に関わること なのである。
直接自分たちの体に関わること故に、食品の変質や不良に苦情を言い続ける。その声が押しつぶされずに広まり届 いている、そういう健全さを持った社会で、なぜ、一方で生活に関わる税金に無頓着で為政者・行政担当者の税金の使 途に声を上げ広め続けようとしないのか。なぜそういう社会の存立と維持に逆行するお金の使い方をする連中を間接的 にせよ選んだり暗黙裡に支持したりするのか。これは不可解ではない。
私たちの認識が低いからである。大切さを自覚していないからである。そして、私たちにそうさせうるメディアに登場 する発言者たちの声があまりに保身的で弱く曖昧だからである。社会における教育におおきな”欠陥”があるのである 。批判的で懐疑的な、自立心の強い人間を育てる教育をしていないからである。団結と連帯をその当然の目的でしてい ないのである。弱者をいじめるのではなく、助け合い、声を大きくして立ち向かう、そういう方向に働くことが当然の ことである。そしてそうなったときはじめて社会は変わっていったことを私たちは歴史を通じて学んできたはずなので ある。
私達の生活は悲しむべきことに電気エネルギーに大きく依存してしまっている。その 供給のために発電設備の増設と発電量の増大を無理矢理押し進めてきた。それでよいのだろうか。
エネルギー源を他に多方面に求めると叫んでいても、使う形は電気である。これはおかしいし、そ れ以上に危険なことである。使用、利用形態が一元化されていることは、その供給方法や管理方法 によって支配的になる部分が生じると同時に非効率な伝達変換に起因する損失の等比級数的 (実際 はそれを凌ぐ) 増大と停止や断絶時の混乱以上の破壊 (命の破壊も含む) が生じる危険性が極めて 大きいからである。便利さの追求は進歩か
エネルギー源としての使用形態に電気を選んだのは、物理学者を自称する 者達が好んで計測、制御、データ収集に電気的な方法で電子機器を使う理由と同じである。ただ、 便利である、というだけである。しかし、その扱い易さと行き渡らされた広がりは代わる形態を維持 することも新たに違う形態を築くことも億劫にさせている以上に困難となり果てている。これは悲 しむべきことなのである。
人間は怠惰になり退化してきた。汗をかくこと (金儲けや自己満足や顕示欲などのための運動=ス ポーツ、などを除いて) を避けるようにして楽を覚えてきた。それを進んだ文明の発現として自画 自賛してきた。スポーツなるものにうつつをぬかすことが無駄なエネルギー消費、つまり浪費であることと、糧を 得るために、生活のためのちょっとした道具と工夫と作業継続のための汗かきを対位してはこなか った。スポーツは非生産的なものの代表なのを百も承知で健康のためだとか、それも自己実現の一 形態で必要 (悪) だからといって賞賛し推奨し、その行為者に大金を与えてまで奨励してきた。そ れも通常の労働の対価とは比べものにならないほどの額である。若いうちにしかできないことだか ら、と甘やかしてきたのである。それに比べて、そう、対比して考えて、日常のこまごまとした作 業から反復的で継続的で体力をも結構要する作業に対する評価は著しく低い。逆に、スポーツに対 し非難や攻撃的批判を加えることはタブーとしている一方で、一見非効率で単調に思われる多くの 作業やそれによって成り立つ仕事を無駄の多い進歩のないものとして扱ってきたのである。
そして、その「改善」のために多くの機器設備を作り続けてきた。その多くが電気仕掛けになりつ つある。その増加は留まることを知らないように見える。それはま他方でより多くの多岐にわたる 無駄を生み出していることを知っていても改めることはもちろん、認めようとさえしない。ただ、 需要の拡大に合わせてより多くのエネルギーが必要だから、と安全を二の次にして発電を押し進め ている。
必要性はあるか
電気仕掛けに対する必然性への疑問は種々の面で、また、いろい ろな実際の供用品で見いだされることは特に記することもないだろう。確かに、原材料を入れて調 整したら後はスイッチを入れるだけ、とか、いくつかのボタンやダイヤルをいじるだけ、というの は便利この上ない。米を炊くのも、コーヒーを入れるのも、冷暖房も、冷蔵や保温も調理も……。 留まるところを知らない電化製品、電気製品のパレードである。その広がる一方の増加の行進は背 筋をぞっとさせるものがある。
多くの人たちはそうまでする必要があるのか、という疑問をどこかで抱きながらもその快適さに身 も心も奪われて使い続けている (多分かく言う私めも) 。購入、設置、使用こそが文明のあるべき 進歩の結果と信じたがっている。しかしやはり、何でも電気仕掛けにすることへの疑問は残る以上 にこれまたどんどん膨れ上がっているのである。
それを声高に叫ぶことも非難することもないのは、いやその声が小さいのは、その元の電気エネル ギーの供給元への視程が絶たれているからである。考えるのは電気料金暗いであろう。その支払い のためにまた毎日電気仕掛けの機器をいじくり回しているわけである。その面だけでも、哀れな光 景である。電灯を遅くまで点けている生活や仕事を減らそうとは思わないのだろうか。非効率な熱源として
エネルギーの変換はその本質から、効率は1、つまり 100 % にはならない。無駄になるエネルギーの多くの部分は熱として失われる。それは地球上の大気圏 に事実上蓄積される。効率を追求してきても決して 100 % の転換は為し得ない。化石燃料の転換 はとりわけ効率が低い。外界への放出 (放射) される熱の割合が膨大なものになるからである。科 学者だけでなく、小学生でも知られるところである。そして、電気エネルギーへの変換もまた非効 率なのである。ただ扱いやすいから、制御しやすいから、という理由で電気エネルギーへの変換の 工夫に懸命になっている。愚かである。しかし、そこへ至る過程で放射されたりして失われたりす るエネルギーのことはあまり真剣には考えていない。多くの「一般人」にとってはブラックボック スと同じである。見えなければ同じである。探せば、調べればわかることなのに、どこにでも書い てあることなのに、知ろうともしてこなかった。現在の生活や作業の「便利さ」を「犠牲」にした くないからである。それ以上の実に多量の「犠牲」があるにも拘わらず。
どんどん組み入れられる相互の掛かり合いが増えて絡み合ってくると、一部の抜き取りや組み外し は困難になってくる。それも格好の電気エネルギー追求の言い訳である。さらに悪いことには、電 気製品、電子機器自体、大きな熱源である、ということも温暖化を叫ぶわりには顧慮されていない ことである。その発熱量はこれまた、今の製品・機器のはびこりから考えても、極めて大きなもの である。そう、発電の際に失われ放射される熱に加え、その伝送での損失、機器への侵入 (電源化) の際の損失、そして稼働する機器内 (上) での損失は等比級数的であるよりもさらに多い。
一元化の危険性
多く、一元管理が危険でかえって非効率であるのと同様に、電気 電子機器による一元的な制御と操作によるものごとの管理もまた危険で効率も下げる。分散設置と 個別制御の方が好ましいことは逆説的に知られるところである。極めてわかりやすい例は病院であ ろう。すべての電源が一つで、その伝送伝達経路と制御が一元化されていると、何らかの事故で停 止したときの混乱と危険は容易に想像される。命さえ「停止」する。情報や蓄積された医療データ の類についてはいうまでもない。
また、管理指揮系統が一カ所に集中していると、悪意での操作を容易に行うことが可能である。現 在進行中の「IT革命」とやらはその危険性を増大させことすれ低下させることはない。電気の扱い 易さは反面の事実 (裏面の現実) としての脆弱さと「乗っ取られ易さ」を持っている。電気機器の 組み込みは繋がりを作りその制御をその流れ (電流) の中に委ねてしまう。それがどこかの断線や 停止で動作不能にならしめるのである。一つの流れや組上げは一つの障害で止められ壊されてしま う。それが最も起こりやすいのが電気仕掛けなのである。せめて、多元化、独立した電源と機器設 置を進めるべきである。これはいまからでも可能である。
間接性の増加
電気仕掛けの便利さはその操作性の著しい「向上」と共に見えない 部分を急速に増やしている。その複雑な階層化・多層化は中身に対する理解をまた著しく困難にし てその組み上げの特化は修理交換を妨げている (どこのものでもいい、というわけにはいかない) 。
さらにはじめの原材料とおわりの成果との繋がりも知られなくしてしまっている。スイッチで得 られた結果だけをよしとしてその間の過程については省みることをしない。原材料への深い接触と 不帰還的な顧慮をしない。連続的な流れと全体的なものへの理解が妨げられているのである。どこ になにがあり、それがどうなっていくのか、そのためにはなにが必要か、失われるもの、邪魔なあ るいは余計なものは何か、改善するためにはどうすればよいのか、そういったことを考えることを なくさせてしまう。元を入れれば出てきた結果を鵜呑みにすることで事足れりとすることをよしと する傾向が強まっている。
間接性の度合いの増加は人間の人間らしさを阻害し失活させていく。その諸悪の根源が電化製品で あり、電子機器である。
科学における使用
科学者、特に物理学者 (以後物理屋) は電気制御・電子機器 の使用と組み込みをありがたがり、それを必然であるかのようにさえ主張する。確かに、頭脳明晰 で数理に長けた彼らの理屈は彼ら自身より彼ら自身の日常の研究活動にある電子機器による測定を 合理的にかつ正当化ならしめているようにみえる。それに寄りかかって、化学者も生物学者さえも 測定への電子機器の利用を誤りのないものとして見なしがちである。特に彼らは利用することで充 分なため、大もとへの疑問はあまり差し挟まない。偉い、賢い物理屋に刃向かうことは避けたいの である。
けれども、物理屋は本質を見失ってはいないだろうか。放送大学の『科学実験法』の講義で、京都 大学の教授は電子機器を繋いで人工的な物質の特性の測定を誇らしげに当然であるかのように行っ ていた。もちろん、おかしな測定をしないように測るべきものや測り方を考えての事だが、それに しても、それら機器を嬉々としていじる物理屋の姿は見ていていかにも滑稽であった。この物理屋 は本当に物理学者か、本当に自分が「測定」としているものを理解し、本当に物質の特性を直に測 っていると心底確信できているのだろうか、といった、「愚かな」疑問を感じたものである。もち ろん、私自身、実際に学生時代から、実験をとおして機器の使用とその特性等の理解をしてはいる つもりである。しかし……。
物理屋ではない私だからこそ、物理屋の実験・測定風景にはなにかしら疑問を感じてしまうし、そ のことを言えるのである。畏れ多い事ながら。物理屋が当然視するそれら測定も、前述の間接性と も連なり、本質的に誤りではないか、と疑ってしまう。本来、自然を知るために観察・観測を行う 。それはより直接的であることが望ましいし、そうであればより評価もしやすくより直接的に知る ことができる。段階を重ねるたびに失われる情報の増大は避けられない。測定誤差の伝播と重なり はいうに及ばず、そもそも実際に何を測っているのか、その直接的な伝達が先細りしてしまう。そ れを鑑みる必要がある。もちろん、物理屋はよく心得ている。わかっている。でも、どこか信じら れないところを感じてしまう。結果からそれを合わせるためにその特性を逆に説明する、というこ とも可能である。えっ……それはないでしょう……。何を得ているのか、電気仕掛けの電子機器で はもう一度、考え直す必要を感じる。物理学を信じても、電子機器は信じられない、そんなところ はありはしないか。
物理学が教えるごとく、観測はその観測により系の存在を乱し正確にすべてを知ることはできない のである。電気エネルギーの損失も電源供給の問題と相俟って、確実に測定系を乱している。その 重なりで本当に知りたい特性を直に測定し得ているのだろうか。自然から乖離した測定系は本当に 自然の姿を観測できるのだろうか。甚だ疑問である。
化学者の償い
化学はこの世に大量の有害物質をもたらしてきた。しかし、その過 程で得られた自然の物質とその系への理解は物理学よりむしろ多い (実際、数のうえでは凌駕する) 。なにより、効率を考えるのは化学者の得意とするところのはずである。近年、生物系への接近が 著しい化学者にとって、その手練手管は高効率で低発熱の系の構築に好ましい。今までの償いとし ての化学的な変換とその利用で新たに世界に貢献できるよい機会である。
かえって無駄の多い電気エネルギーとしてのエネルギー利用から、化学的な変換を元にして循環的 なエネルギー利用へと転換すべきなのである。熱さえも、化学的に利用可能であることを化学者は 知っているはずだからである。より直接的で多分岐的で循環的なエネルギーの利用形態に化学的に 取り組むべきである。一方向の流れの電気エネルギーの利用はやめるべきであろう。ごみとして吐 き出される電化製品や電子機器をなくすこともできるのである。以前にも書いたように、 基本的にごみでしかない電気製品はもう捨て去るべきなの である。
現在、衆議院議員選挙のため各候補者は相も変わらず名前の連呼と実行する気も中身 もない空手形を乱発している。彼らの目的は票であって改革でも再考でもない。議員となってはじ めてできるのだから、なるために支持の得られるあらゆる方策を採るのだ、とうそぶく。しかし、 個々の議員の存在はすべからく支持者のいる地域の目先の利益のためであり、それが実現されるの はよく知られているとおり最大公約数的な結果に結びつくものに限られる。昔からそれは変わらな い。議員が職業化しているのである。議員は地域の代表としてその利益や主張の代弁者であること はよいとしても、特定の地域や人たちのために行動したり発言したりすべきではない。つまり、多 数の声や圧力をかける集団やいわゆる”有力者”等のために働くことは議員の役割ではないのであ る。いうまでもなく、議員は国会では国家予算から、地方議会では各自治体予算からその「仕事」 のために支出割り当てをうけている。代表として為すべきは、大きな力を持った者たちや声の大き な者たちの利己的願望の実現ではなく、声が届かず小さな力しかない、集まることのない、あるい はそうすることを”誰か”に妨げられるような弱い人たちのために生きることの喜びを見出せる社 会を構成するための仕事である。当然ながら、選び投票する私たちは自らの目先の利益や願望のた め、自己の所為言動の正当化のため、に議員を担いではならないし、そうすることを叫ぶ候補者に 票を投じてはならないしそうする約束をしてもならない。
現実問題として当選しなければ声は届かないではないか、とか、主張の理解と実現がその強圧的力 によって成されなければ議員の意味がないではないか、といった主張が声高に叫ばれ当然視され悲 しいことに広くずっとこれまで受容されてきた。しかし、その結果はどうだっただろうか。限りあ る資源も国土も、社会の機構もいつも”誰か”のために壊され捻じ曲げられてきた。過去(の歴史) に学ぶこともなく、現在を深く広く且つ多面的に見ることもなく、これからを見通すこともなく、 それぞれの利益獲得のために、目先の利便性のために行うことが発展であり続けるのだというとん でもない履き違えで物事を進めてきたのである。そして現在、あらゆるバランス (均衡・平衡) が 崩れている。そのアンバランス (不均衡・不平衡) の修正のためにまた別のバランスを崩し (破壊 ) し、それがまた次のアンバランスを生じさせていく。だからその補正のために、人々は議員を担 ぎ圧力をかけまた無理な改変をさせていく。そうしてきたことを省みることも認めることも (誰も ) しないのである。
人と人との関係もまた同様である。力を振るう者はその行為による過ちを決して認めようとはしな い。声の大きい者は小さい者を文字通り封殺する。そのやり口は巧妙で狡猾であらゆる意味で暴力 的である。ひずみや誤りの原因を被害者や弱者にあると一方的に主張する。本来衡平でない関係か ら生じたそれらを被った側に帰してしまう。わざわざありもしないことを殊更に”欠点”としてあ げつらいまた粗探しをしそれらを弱い者や被害者の欠陥として決め付け何度も何度も繰り返し多く の声を使って思い込ませる。被害者にも落ち度があった、そもそも被害者側につけいられるきっか けや被るにいたる素因や素地があった、だから責任や原因ははじめは被害者にある、などというお そらく詭弁が力ずくで通ってしまう。
その力や金に物を言わせ、弁護士を使い裁判でさえ、「公平」な立場で言い放って平然としている 者が多い。基本的な誤りである。あたりまえ過ぎることだが、犯罪行為でもそうと法律 (の運用) 上みなされなくても、弱い人に対して為された、見かけは小さないたずらのようなものから (言葉 による精神的な暴力も含めて) 深刻な蹂躙行為まで (それを他の、周りの者たちは非常にしばしば ”大したことではない”ということが多い) 、それらの行為言動を為す側の者たちは必ずそのきっ かけさえも被害者やされつづける側にあるとして、自らの悪意や不熟 (幼稚) な精神性を認めよう とはしないことも決して正当化されることは許してはならないし少しであっても認めて受け入れて もならない。
彼らのおぞましいもうひとつの一方性の理由は、その裏に多い意図的計画的継続的反復的な誹謗中 傷誹毀毀損を中心的な行為とした変質的犯罪の隠匿と影の脅迫手段化にある。表面的にはまた、こ れもよく見られることだが、被害者のちょっとした過ちや見過ごし、取り違えなどをその被害の原 因だとして責めたてて自己の行為を正当化して当然と考える加害者が現実に多いことである。裁判 でなければ、弱い小さな側の人間は (そう、同等いや、それ以上の人間なのだ) その声を上げるこ とさえできない。
元来あるアンバランスの原因を弱い者に押し付け、さらには何も言わないからだ、とか、行動を起 こさないからだ、痛みを示さないからだとか言ってさらにその不均衡で不衡平な理由を強く押し付 けて拡大させる。本当に悲しいことは、それをやっとのことで相談に来ることができた被害者に対 し、受ける人がそう言うことがままあることである。弱い者はますます追いやられ、声を失い、力 も意欲も無くしていく。そうしてまたさらに畳み掛けるように、弱い人が声を聞いてもらえないの は、その人が嫌われているからだ、という。陰湿で巧妙なやり方で追い込んだり孤立させたり、助 力者を失わせたり思い違いや疑念を抱かせたりする。それをもって、その人はまさに嫌われている のだ、と認めさせようとする。そうやって声を奪っていくのである。
非難する側の強い声をもって、される側にその原因があるからそうされるのだ、という形でその悪 意のある非難を正当な主張として理由に仕立て上げる。同調者、協力者 (しばしば都合よく”証人 ”としてでてくる) の言でそれら行為言動の正当化をし、非難される被害者の原因を”立証”する のである。本当に、これはとんでもない、おぞましい履き違えであり、考え違いである。
”嫌われてるのよ”に代表される協力者や加害者のことばはすなわち彼ら自身の醜悪な姿そのもの である。本当は自分たち自身のことなのに、それは認めることは決してないため、それを他者、特 に声の上げられない、抵抗手段のない弱い人たちに向けてその身代わりとするのである。行為者に 組みし”証言”する者たちはその声を発すること自体、自らの悪意や犯罪行為を自白していること を知ることである。恥ずべきはそういった卑怯で卑屈で卑劣な協力者である。
日本人の悪しき特徴として、付和雷同性があり、同調しないと自分がつまはじきされるとか同じよ うな目にあう、といった怖れから弱い人や孤立した人をいっしょになってまさに”いじめる”(実 態は著しい人権の蹂躙) ことを背筋の寒くなるような表情でやってのけるところがある。これを加 害者は最大の武器として使うのである。効果的なのは、同じように”なりたくなければ”黙従した ほうがいいですよ、黙認が無難ですよ、という囁きである。そうやって従う者たちは被害者・弱者 ・孤立者を薄笑いを浮かべてさげすみさえ隠さない。変質的な加害者と同じく、彼らは人間を見な いという理由で彼ら自身、人間ではありえない。
日本の社会は犯罪者や強圧的な者たち、暴力を傘に着て脅迫する者たちに甘すぎる。あろうことか 、とりわけおぞましいのは、反復的に何のためらいもなく長期間に渡り行われる意図的計画的な行 為 (法律上、犯罪とみなされるかどうかが問題ではない) を止めることはもちろん、それこそ連帯 して、あるいは団結して防いだり立ち向かったりすることよりも、自分 (達) に降りかからないよ うに上手にやり過ごす、そしてその被害者や標的とされた人たちにより集中するように協力するこ とが賢明とみなされることである。
「目には目を」の対抗はこのような環境では無理である。また古来よく知られているごとく、それ 自体、次の報復を生み解決には至らない。非暴力、不服従、非協力、そして支えあえる連帯に心を 向けなければならない。力も「必要」なのだ、とか、従わせる、つまり暴力をなだめ飼いならすに 「必要」なのだとかいった姿勢は捨てることである。暴力を存続させる資金源もそういった連中の 生活の基盤も奪うことである。暴力を礼賛はしないまでも、表面的にでもテーマとした映画もドラ マもいいかげんにやめてほしい。「力は正義なり Macht ist recht (auf Deutsch)」ではない。犯罪者、加害者の主張があまりに大手を振ってとおりすぎる。初めから、その関係が不衡平で非条 理 (私はこのことばは好きではないしいまだに指し示すところに疑問を抱いている) で不合理なの に、どうしてそういった意図的計画的な行為者のことばばかりを声高に叫ぶのだろうか。力で抑え こまれて身動きできず、有効な抵抗手段をもてなかった被害者が混乱と困惑と精神的な地獄の中で ”しでかした”「過ち」を (しばしば加害者だけでなく傍観者や他の者たちはそう呼ぶ) 過失だと して相殺の理由としている。まず、バランスを回復すべきである。原状に戻すことなくそのままで 裁判さえも行おうというのはとんでもない「過ち」なのである。
現首相 (森喜朗) の発言を例に引き出すまでもなく、およそ日本人は反省の念に悲しいかな乏しい 。罪に対する認識も、現状に対する認識も低く甘い。自らの居住環境すら「快適さのために」破壊 と歪みの増大を必要な開発で生産の拡大と発展に導くために好ましいとさえ言う。これは身勝手で 私利私欲の追求は当然の経済社会の原理と方向性にそった行為としてはばからない企業やその利用 者であるいわゆる政治家たちにまた都合よく利用され歓迎され更なる追及の理由と基礎となる。特 に、「公共事業」と名づけられた多くの破壊的”建設”はその代表事例である。造り変えられ捻じ 曲げられた自然環境とそこにもとから立脚する社会環境はどんどん悪化してきている。ちょっとし た楽や不便という名の怠惰のすり替えの犠牲に二度と回復できない環境を壊しつづけている。その ためにバランスが崩れ悪影響が身近に見られたり身に降りかかってきたりしているのに私たちは改 めることも見直すことも振り返ることもしようとしない。
「公共事業」として必然性のあった工事という名の破壊・変造は本当にあっただろうか。その方法 は適切だっただろうか。事前の調査と影響の予測も事後のモニタリング (監視) もなされていない 事例がほとんどであった。そういった工事を仕事とする企業が多すぎる。違った視点から見直し知 恵を出し合いより調和とバランスのとれた環境の保全のために方策を考えるべきだったのに、ただ ”誰か”の強い大声により安易な企業存続のために、あらゆる場所で湯水のごとく税金を捨てて壊 してきた。一旦請け負う会社ができるとその被雇用者や関係会社の存続のために継続的に仕事、つ まり破壊・変造工事が必要となってくる。はじめから、すべてに限りがあることは誰もが知ってい る。わかり過ぎるくらいわかっていることなのに、振り返ることも、止めることもほとんどしよう としなかった。一旦足を踏み入れたらもうでられない泥沼である。しかし、その泥沼も底がある。 必然性それ自体、測る尺度が必要なのである。
「必要な公共事業」とは何をもっていうのか。本当に必要か。しないですみ、別の方法を考えよう としたか。そういったことをこれまで叫んだ政治家はいただろうか。現在最もまっとうな主張をす る日本共産党ですら公共事業の「必要性」を否定してはい ない。いいのだろうか。ごく最近になって小沢一郎氏率いる 自由党は特殊法人の”原則”廃止をうち出した。選挙向けながら、彼らの主張は最も (何を基 準にした尺度か(^-^;) 具体的な内容を持っている。しかし、彼らもまた公共事業自体はその主張に 当然のこととして含まれているようである (そのことばはしかしでてこない)。この2点は相反する 面があるのに。支持してもいいと思える内容はこれら両党にはあるのだが......。
この国ではやり始めると止めることをしない。何でも、やってしまえばそれで通る。既成のものご とは見直しもなくしもしない。そうすることを後戻りだとか、逆行だとか、退歩だとかいったこれ も誤った見方をして、よくても現状追認なのである。困ったものである。つまり、覆水盆に返らず 、を逆に利用し”正当化”しているのである。事業者や関係者のりえきこそその正当性の根拠なの である。共産党でさえ支持者の獲得と維持には、すでに”厳然と”存在する土建屋やその従業員な どの支持は「必要」なのである。
もちろん、その最大の享受推進者は子供でもしっているように、自民党である。それゆえに支持さ れ根を張って行く。政治家のいう”必要な”「公共事業」の所以である。馬鹿な私達はそれを当然 視し、破壊と改変を開発や発展、改良と見做し自身さえ欺き、便利になった、と喜んできた。一方 で、長く見つめている賢明な人たちほど周囲の悪化や事後の衰退、汚染、消失などに気づいていた はずである。しかし、一度はそういったことを好ましい結果で進展・進歩だった、と信じ、いくば くかの利益の分配とも相俟って、どちらにしても小さな声しか持たない、そして声を上げると他な らぬ周りの人たちに変な目で見られたり迫害を受けたりする小人である私たちは反省も再考も批判 さえも充分にしてこなかった。
「必要な公共事業」は本当にあったのだろうか。本来自然には存在せず、また時間や環境の変化に より劣化し悪影響をさらに与えてしまうことになる人工的な物質を大量に使った所為を私たちは本 当に必要としていたのだろうか。
増大する一方のごみの処分場に困って名古屋市が計画した藤前干潟の埋め立ても「公共事業」とし ての「必然性」は現状を私たちが変えないなら、極めて高いものであったはずである。しかし、こ れは中止された。しかしながら、この場所が避けられたというだけで、今のままではどのみち同じ ことである。その事業の「必然性」はいまだに悲しいことに存在しつづけているわけである。この 事例での環境庁長官の言、『...失われたものは二度と元には戻らない...』、によって表さ れるところの環境は、その外観の美醜によらずおよそすべての「公共事業」の対象地に当てはまる のである。
過去においても、現在も、身勝手な主張や欲望の実現のために、「必要性」や「必然性」は恰好の 口実となってきた。そして実行方法は常に力ずくで単細胞的である。「実利的」であるような企て は多く喜ばれ、目先の利益と利便性のために異論や反論や回避と転換の方策は排除されるのである 。過去の環境はどうだったか、現状はどうなのか、改変や喪失がどのような影響を及ぼすのか、そ ういったことは大規模な「開発」であれ、田舎のトンネルや道路の「建設」であれ、はたまた「護 岸工事」であれ、「土地改良」であれ、調査も周囲の考慮さえもされてはこなかった。もとより、 ただ実行することが目的であって、何もしない、そのままにしておく、そして別の環境の構築と構 成を考える、というようなことは問題外なのである。
大きな事故で作業員が命を失っても続けてきた例は山ほどある。やり始めて、おかしい、変になっ た、このまま続けてはよくない事態になる、と”誰か”が気づき声を上げたとしても、やり始めた ことは止めないのである。さらに、生じたアンバランスの補正も、誤った計画の結果に対する回復 手段の方策の議論さえ無駄なこととして葬る傾向がいまだに強い。
回復可能な、再構成によって調和とバランスを取り戻すことの可能な程度の改変 (そのものさしと 見積もりは問題だが) で充分だったはずなのに、初めから合目的的に「事業」を遂行するのが常で あったし、今もこれからもそうだろう。
1997年に制定され1999年に施行された環境影響評価法 (アセス法) や各地方自治体の条例等も遅き に失した感がある。すでに壊されてしまって元に戻らない環境が多すぎまた大きすぎる。その法令 等も不十分である。何より、それも「事業」の実行のためにあるようなものだからである。「何も しない (No Action) 」という選択を最優先せず、極めて消極的で話にならないものとしてしか見 ない、そんな計画者 (計画主体) がその中心にいるのである。「必要性」も「必然性」も人間たちの自己中心的な考えである。それを理由にさらに生じる歪みの ためにまたそれを持ち出し、工事を行いつづける。それを「仕事」だとして私たちは税金を使わせ る。雇用の確保や景気・経済を上向かせるために「必要」なのだ、という。もちろん、これは誤り である。次から次へと「公共事業」など「必要性」はないはずである。自己の行為の合目的化を仕 事にしている。そのために存在すべき会社 (土建屋や関係した”群がる”あるいは”たかる”会社 ) など、もともと「必然性」はなかった。壊し始めたら勝ちである。それゆえにその存在理由が確 固たるものとして正当化されてきた。
でも、遅くとも、いまからでも止めなければならない。そう、土建屋は、巨大企業 (彼らは蛭その もの) ちいさな会社もいらないのである。なくすべきである。破壊と変造と修復という名目の無意 味な繰り返しを業とすることなどにどうして「必然性」があろうか。そういう会社や業態を存立さ せることこそ罪悪である。今からでもなくしていくべきである。
破壊は社会経済をまた含んでいるからである。第一に、財政上の最悪の負担である。このことは至 る所で指摘されているとおりである。最近ようやく各大量伝達媒体 (マス・メディア) をとおして 語られその数値の大きさが”大きく”(まさに文字通り) 示されるようになってきた。しかし、私た ちはいまだにそのことに対しての意識も認識も低すぎる。触らぬ”神”に祟りなし、なのであろう か。暴力や獣の猛りをなくすにはその生存の源を断てばよいのだ。えさをやってはならない。それ どころか、経済上、”景気回復”のため、とか、雇用の確保のため、と言い続ける者たちがあとを たたず、そのために立ち「仕事」をする、と大声をだす候補者が馬鹿な有権者の支持をとり続ける 。その推進は進めるほどその「公共事業」にかかわるものたちの生活維持のために次を求め続けな ければならなくなることは火を見るよりも明らかなことなのに、それを大声でいう政府や官庁の関 係者はいない。その中から継ぐ”政治家”がでてくる。彼らもまたその利用者であり、「必然性」 をもっているからである。彼らを私たちは認めても、負の現実と真実を見ることも考えることさえ しようとはしてこなかった。私たちはとんでもない間違いをしてきたのである。
「公共の利益」のためならば、本当に”必要”ならば、何よりもまず、事前の調査と予測を行い、 その「必然性」とやらを再検討することである。時間をかけて、何度も何度もすべきである。環境 庁長官のことばどおり、一度壊してしまったら、元には決して戻らない。その検討と議論の過程で 違った方策を見出せれば幸いなのである。しないですむなら、それが最良の選択である。
改変や破壊は小さければ小さいほどよいのである。工事を業とする会社を必要とするような事業は 本当は必要はないのである。そんな専業の会社は存在の意味を失うようにすべきである。なんらか の理由で「必然性」を作り出してしまったら、その遂行は自治体等の関係者で特別に構成され、訓 練され、まさに「必要な」ときにだけ集まり、組織化して時限的に行うようにするのである。そし て、それは人々の分担と分業、交代と交換を基本とするのである。共同体としての私たちの社会の 「公共事業」はそういうものであるべきなのだ。
それらはまた一方でさまざまな面から視点や時間を変えて監視していかなければならない。問題に なるのは常に事後の変化だからである。「必然性」を主張するなら、その縮小化と回避をこそ最初 に前提にしなければならない。「必然性」がなくなればいちばんよい。本来バランスのとれた摂理 により、循環的に機能してきた自然の造りを私たちは自らの都合、つまり「必然性」と目先の利益 、つまり欲望のために無理やりやってきた。そのために生じた歪みは不便の解消という「必然性」 ゆえにさらなる破壊と改変の正当な理由としてきたのである。現実に現在顕著になりつつある種々 の様々な段階の障害はそうしてきた私たちに原因があるのである。
車であろうと、いや、実際には、徒歩であちこちを見て回るだけで、様々な醜さとあまりにも無残 な光景に出会う。放置された作業用の機器類はもちろん、削られた山肌も、作業用だとかいう文字 どおりの荒地も目を覆いたくなる姿ばかりである。すさんだ心そのものである。生き物たちはどん どん消えていった。それらを直すことは彼らはしないのである。それどころか、次の「公共事業」 のための資材や土・砂・石などの調達のために「必要」なのである、という。そして、彼らは、自 分達が”築いた”、あるいは”建設した”場所さえ、次のために使う。つまり、汚すのである。そ れは漸進的なその破壊を伴う。これもまた次の収入源になっている。愚かさはとうに超えている。 暴力を止めるのは暴力によってしか為されえないのであろうか。
物質的な豊かさや便利さの飽くなき拡大がまたこれも次の破壊と汚染を生み出しその除去修復のた めにまたいらぬものを造り続けようとしてきた。好例は人工合成高分子とその「ごみ」である。い まだに、大学の講義などでも、高分子の合成はすばらしい発見であり、生活を豊かに且つ便利にし てきた、などと誇らしげにのたまう偉い先生方がいらっしゃる。
彼らには反省はもちろん、その現実を先入観や基本的な視点からの再考さえ見られない。観察をし ない。現実の認識はただ別種の物質の合成と利用と”処理”に向いている。かつて、私は (化学科ながら) 良心から高分子化学の講義の選択 (幸い、選択で必修ではなかった ) を拒否した (良心的兵役拒否と似ている) 。他の化学科連中はとっていたにもかかわらず。その 後その関係の化学工場に勤めたこともある。基本的な知識はその気があればどこからでも得られる 。「実際」が問題なだけであるが...。
化学者は自然の探求よりも改変と破壊に、しかも先の見通しもなく進んできた。人工的な合成こそ 醍醐味であり、挑戦である、といってその方法の研究が化学であるのだ。アルフレッド・ノーベル は人工的に作ったダイナマイトを後悔した。なのに、その後、ノーベル化学賞に”輝いた”成果は 人工合成に多い。彼はあの世でどう思っているのだろうか。自分達自身の存在さえも脅かしつつあ る限りない種類と量の人工合成物質を工夫することにこの上なく喜ばしいと感じる才能ある人たち を「合成」し続けていいのだろうか。
結果はもはや誰の目にも明らかになっている。化石燃料の使用も、その原料の石炭、石油などから 次から次へとごみにしか結局のところなりはしない合成高分子の産物を作り出し続けてきた。彼ら は、その生産者は、その基礎をはきちがえ、ただ、その再利用にしか目を向けない。作ったことへ の反省も後悔も、作らないですむことへの転換も再考もしない。
化学者たちにとどまらない。行政担当者も、社会”科学”関係の研究者たちも、その存在を前提に しているのだから呆れ果てる。彼らにこそ、その生産や販売や終わりのない次の物質の追求を止め る担い手になってほしい。
本来不要だったもの、何もその先の害悪を考慮せずに利益追求のためだけに生み出されたものを、 あるから、できたから、使われるから、そんな身勝手で無分別な理由でその処理に多額の税金を投 じることに疑問を感じないのであろうか。なぜ一気に止めてなくすことを考えないのか。
かつて、といっても3年ほど前の NHK総合テレビの『ナビゲーション’97(98?)』(名古屋放 送局制作) という番組でごみの (処理の) 問題について取り上げていた中で、解説者として出演 していた大阪大学教授 (男性) は『...便利さを捨てて元にはもう戻れませんから...』という ことを当然のことのように言ったのである。税金で生活し、日本の社会のために仕事をしてその社 会の観察(観測)・分析・批判・改善への提言等をすべき人が現実をただ当然視してそのまま受け入 れ、場当たり的な対処を言ってみるだけである。呆れ果てた大学教授であった。国立大学教授なら 、何より、利害に左右されずにものを言える立場なのだから、そしてその時間を”好きな”研究に すべて使っていられるのだから、現実の害は必要悪だなどという視点からの追認と対症療法の示唆 などでお茶を濁すことのためにテレビ出演をすべきではない。そんなことしか言わない、言えない のなら、辞職すべきである。税金と時間の無駄遣いである。
エネルギー消費の拡大もまた、拡大する一方の生産とその販売・利用の推進にある。利益の確保と 維持のために作りつづけそのためのエネルギー消費を増大させ、その「必要性」のゆえにさらなる 破壊と無理な拡大とその存続・継続を行う。その図式はとどまりえないように見える。エネルギー 源を (主として電力として) 求め続け拡大し続けていくために社会の生産と「発展」を口実にして いる。そして、先の大学教授のごとく、もう元には戻れない、などと平然という。警告や注意さえ 発することなく、聞くこともない。自らの所為は「必然性」があるからである。それでよいのか、 という疑問は抱かないようである。存続と拡大ではなく、削減と変革を考えようとはしない。
社会の維持には構成員たる人々の生活が基盤となる。その雇用のためとしてあらゆる「仕事」が正 当化されている。そして、その雇用者はその存続と維持のために都合のよい労働者を一方的条件の 押し付けで選ぶのである。不適合者は不要であり、合わせないのが悪い、と断じる。それを私達の 社会では不法とも不合理とも言わない。法学研究者は逆にそれに理屈をつけることさえする。しか し、そのまま読んでも、民法上も基本的に、労働契約もまた対等で衡平であるべき根拠を定めてい る。契約の一つなのである。
はじめから著しく均衡を欠いた関係にあるのに、その圧倒的優位性で一方的な条件を設定し、受け 入れるか否か、好ましいかどうかで採否を決め付ける。そして、さらに基本的な憲法上の労働の権 利を奪うのである。決定権がすべて雇用者にあることに不合理性がない、というのはどこからくる のか。それを論理的に矛盾なく述べられるだろうか。他の片務契約も法学者はおかしな理由で説明 をするだけである。なくすこと、直すことに力を注がない。
企業もまた、社会があるがゆえに存在可能なのである。その利益は社会的にもたらされるのである 。それはすべからくすべての人々によって行われ賄われる。存続させたいのなら、自らを支えてく れている社会とその構成員である人々を第一にしなければならない。その雇用関係は本来的に対等 なのである。それを否定してどうなるのだろうか。
現に私はある製造会社に面接に出向いたとき、その提示条件、特に勤務時間は物理的な理由の (通 勤手段がない) ために無理があったのでそれは受け入れられないとした。通えない時間帯があるの なら、一時的宿泊場所があればいいが、このあたりにはない、という担当者 (工場長) の言で採用 は難しい、といわれ、数日後不採用の通知が届いた。そのあと(14日後)、職安には私の希望した条 件での求人票が出されて (ファイルされて) いた。悪条件で他に応募者がいなかったに違いない(:p)。 企業の雇用とはそういう身勝手なものである。”人が基本”と公言する会社は数多いが、基本的権 利を認めてはいないのである。この例に限らず、多くの場合、不採用の理由と問題は雇用者側にあ る。無理を通せば道理は引っ込む。あほかいな。
企業やその活動に対し私達は甘すぎる。厳しい監視と改善の要求を社会の仕組みとしてでもしなけ ればならない。空気や水や土と同様に、社会資産も経済的価値もまた本来共有されるべきなのであ る。働く場も時間も、その対価や生産物も (それ自体問題だが) 利益もより多くの人々に分かち与 えられるべきである。雇用者、経営者が大きな支配力のもとで独占したり成果を偏って収めたり、 さらには各被雇用者 (労働者) の一人あたりの時間を増やして支払いを減らすのは社会の維持、つ まり企業自体の存続と維持を足元から揺るがし削り続けて行くことになるのである。
さきに述べたごとく、支える人がいて社会を構成しその生活と活動があり、成立していることは企 業の存立そのものである。フィランソロピー (主として偽善的な慈善活動) だとか、寄付だとか、 社会活動への支援・協賛だとかをいったりしたりする余裕があるなら、何よりも被雇用者の生活の 維持と収益の分配、より多くの雇用こそ考え実行すべきである。見せ掛けの笑顔など見たくはない 。経済上の循環や安定的存在は社会の構成員の存在によっていることを再認識すべきである。
減らすことから始めて、少しでも不要なものを無くすこと、そして身の回りの生活環境から社会全 体まで変えていくこと、その気持ちを持ち過ちを、誤りを認めなおしていくこと、それは時として 非常な勇気がいることでも、恥をかいたり批判や非難を受けても、その原因を探り、知り、変えて いくことへ向けることは私達の義務である。破壊して奪い続けた人間の罪は私達自身の内から変え ていくことで償わなければならない。環境破壊は私達自身の存在を終には否定することになるから である。
...過則勿憚改。(論語、学而第一)
...過而不改、是謂過矣。(同、衛霊公第十五)
パラサイト ・ シングル
2000.4.28初稿、5.10追加誰が言い出したかはわからないが、標題の「パラサイト・シングル」(独身寄生、とでも いうのか) ということばが各種媒体を通じて流されている。これは、綿密で広範な調査などに基づいて 名づけられたことなのかどうか、甚だ疑問である。4月25日付け福井新聞12面への寄稿記事におい て、東京学芸大学助教授の山田昌弘氏の述べておられる内容は上滑りで本質から目をそらして的外れな 結語を導いているように私には思えた。主な内容は下記。
”定義”:成人後も親と同居して基本的生活を親に依存しリッチな生活を楽しむ未婚者少し以前にイギリスの BBC で報じられた ちょっとおかしな (weird, quizzical--I guessed) 見方にどこか似ている(”輸入”したのだろう か)。
・成人した親同居未婚者は男女500万人ずつ計約1000万人。(ほんまかい??)
・若者の社会意識(やる気、希望、夢といった感覚)に大きな影響を与えている。(そんなことわかるはずないでしょ!?)
・ランドルフ=ネッセ(Randolph Nesse)氏のことば『努力が報われるという見通しがあるときに希望は生まれ、努力が空しい と感じることが絶望を導く』(Social Research)
・パラサイトシングルが希望を失わせる状況を作り出しているのではないか(無理やりですな-_-;)
・社会的不公平を生んでいる(全く逸れています)
・享楽主義的生活(恐ろしいくらい拡大している^^;)
・自立を妨げる社会制度や慣習、ハンディを彼らに与えよ(自立の意味を誤っている:p)
自立ということばは社会的には経済的な生活基盤を持って独立した生計を営む能力を指し示すこと、と されている。それによってすなわち個別の住居を持ち親兄弟姉妹などから離れて暮らすことを意味しては いない。職 (働く場) を近隣地域で得られないがために生育地域を出て例えば都会域に居住しなければ ならない人たちも多いが、それをもってして自立とはいわないのである。基本的には、親たちと同居し て生活生計を共にしていくことは社会の維持という面からも好ましいことである。山田氏がどのような 調査に依拠して書かれておられるのかは知りえないが、成人 (20歳以上) の未婚者が親などと同居し ていることは経済的にみても共有できる生活を営み無駄な出費を抑え資源の浪費も少なくすることとし て望ましいことであり、それを自説の主張のために「寄生」などと呼ぶのはおかしいし奇異である。
自立というのは生活のすべてにわたっての独立を意味してはいない。精神的に自己を形成し成長させ文字 どおり成人としての社会的役割を果たしうる能力を持つに至ることが第一義的な意味である。互いに支え 合い協同して生活できるようになることこそ自立の実際の、本来の姿である。社会の構成の基本は家族であり、その生活基盤は広く深いことが安定した持続的社会を成り立たせる基礎 となる。核家族化は日本社会を良くしてきただろうか。職場の都会域への集中は好ましい結果をもたらし ただろうか。限られた土地に住宅をやたらに建築してきたことは破壊ではなかったのか。社会環境は近年 急速に悪化してきているように感じられる。若い人たちの人間や生物に対する姿勢や接し方には背筋の凍 るような思いを抱かせるところがある。つい最近でも、『人を殺す体験をしてみたかった』などという考 えがたいことばを吐いたという若者が出た。バスの中で、子供の目の前で首を切った者までいたのだ。 また、資源もエネルギーも (物理学的には同義である) 有限である。家族の分散離別、個別化は浪費と社 会の疲弊を招き破壊への道を突き進んでいくことになる。
社会的公正さとはすべての人にとって機会が均等で自由であることである。良くも悪くも特別扱いや区別 がないことである。山田氏の書いているようなハンディを与えることは論外である。公平な社会とはどの 地域においても同様の参画と活動の機会と場があることである。そのために負担を強いることは若い人た ちだけでなく、彼らを陰に陽に勇気づけ支えなければならない人たちや社会にとっても負の効果しかもた らさない。より高い生活水準や精神活動、またさらに社会的文化的価値の創出と育成にとっても余計な負 担となる。若い人たちはもとより、いくつになっても社会にはすべての人が貢献できる。それを互いに支 え合い助け合う環境を壊していくことを「自立」だとしてその参画と活動の基礎を崩していこうというの は不公平で無駄と犠牲があまりにも多すぎる。私の住む田舎では人口は減少傾向にある。それなのに住宅 数、世帯数は増加しているという奇妙な状況がある。そして、その生計の維持のためか、そこかしこで土 地の改変や整理変造が進められている。小川も道路も直線的になり、コンクリートやアスファルトで無理 やり固められせき止められ、陰日なたは消し去られ、豊かだった生き物たちの生育環境は無残にも破壊さ れ続けている (たとえばこのような)。調和も自然の輪廻循環 も急速になくなりつつある。そして、この地域には都会へと電力を供給するために危険で後の廃棄物のこ となどを考えない原子力発電所がいくつもあるのである。
山田氏の書いているところの享楽主義的な若者もいるだろうが、それは少数と信じる。特に田舎ではそん な余裕はないし、生活コストの高い日本の都会域においてもそんなある種の優雅さは小さな割合のはずで ある。木を見て森を見ず、といった「調査」に依存してはいないのだろうか。部分的表象からすべてを語 り決め付けているように思えてしかたがない。孤立化個別化を自立としてとらえ環境の悪化と破壊の進行 を社会の活性化といっているようにさえ思えるのは穿ち過ぎだろうか。社会の安定と発展はより循環的で消費の少ない形態で独占的な所有が減ることにより可能となる (共産主 義のことではないし、それはすでに失敗して崩壊した) 。富や人の集中と集中的で大量の生産形態は負の 遺産となるであろう。資源の浪費を進めるだけの家族構成の縮小と個立化は停滞どころか破壊へと至る。 集中させてきた物も人も分散させ、互いに助け合い支え合い見つめあえるような家族の存続こそ本当の意 味での社会の発展・進化と活性化につながるはずである。豊かさは共有し、資源やエネルギーの浪費を抑 えいや減らし、循環的に利用して社会を持続的に存続させていくためには、より多くの家族と呼べるつな がりのある人たちが生計生活を共にして無駄を減らしていくことが必要なのである。そしてそれを継承し ていくことこそ社会の公平性の維持の基礎となりうる。建築物も生活物資も少なければ少ないほどよいの である。増えること、あるいは山田氏の言うようになって増やすことは結果として廃棄物を増やし環境を 破壊する。
「努力が報われるという見通し」はその存立基盤の公平さこそ基礎となることは先に述べた。絶望と意欲 の喪失を招くのは社会的なアンバランスと権利の侵害、あるいはさらにひどく人権の蹂躙を生み出してい る現在の状況であり、それを平然として行う者たちの未熟さならぬ不熟さや幼児性と極めて低い精神性で ある。そしてそれを見てみぬふりをして知らず知らずに認容してしまっていることである。山田氏は引用 した文献やそのことばを (失礼ながら) 誤って使っておられるようである。
分散化と分立化は社会経済と機能において促進させられるべきなのである。若者の自立とは個別化ではな いし、それは社会環境を悪化させる。自立と公平の意味を山田氏ははきちがえておられるように思える。 これ以上社会を疲弊させ環境を悪化させ消費 (浪費) の増大と環境の破壊を招き進めるような、山田氏の いうところの「自立」、は勧めてはならない。精神的な (意識と社会認識の)向上と独立こそが社会を活 性化させその価値を高め真の意味での自立した人間としての若者を育てるのである (その逆の例) 。決して、「寄生」ではなく、今流行りのことばで いえば、「共生」の形態が一つの姿として望まれる。
恣意的手段としての雇用
2000.4.28福井新聞 4月23日付け朝刊で牧野隆守労相は『 28日発表の失業率 5%への上昇は一過性 のもの』との見通しを持っていることを報じていた。また、25日付けでは同労相が『有効求人倍率が 0.52 倍から 0.53倍に上がった』という発言を載せていた。どちらも、この労働大臣の雇用労働状況や実態につい ての実質的無知と誤認識から生じたものである。28日発表の総務庁の数字は 4.9%であったし、完全失業者 数は最悪の 349万人、4人に 1人は長期失業、とより深刻な状況になっている。こんな数字さえ現労働大臣 は理解していないように思える (他の政治家も首相も推して知るべし) 。労働省のお役人も算数は得意でも 真の実状には理解が及んでいない。失業の心配の無い公務員には何も実感できないのである。若者たちは現状に対する認識が乏しく甘い。若いゆえの楽観性と目的性がその原因の中心にあるようだ。 教育機関終了後の宙ぶらりんな生活もフリーター化もせっかく就いた職からの逃避や回避も先の見込みを 見誤っているのである。パートタイムの仕事をつないでいく生活でも困ることは当面はないだろう。しか し、基本的に不安定である。そういった仕事が多いのは彼らの流動的甘え意識に合致したからではなく、 企業側、雇用者側の手前勝手な都合によるのである。固定的定型的雇用形態からの変化は本質的にないに もかかわらず、若年就業者の道具化は社会を支える基礎を将来壊すことになるだろう。若者たちの考える 自由で束縛の無い形態は本来の自由とは違う。彼らは自分たち自身で将来を崩しつつあることに考えが至 っていないのである。
望ましい仕事がないのはいつでもどこでもどの年齢層でも同じである。職種職業の多様化と分化の進行に もかかわらず、就業領域の狭隘化と就業の場の減少が起こっている。仕事を選ぶこと、続けて働ける場を 捜し求めることはいつであれ誰であれ、また、田舎であろうと都会であろうと変わらぬ考え (想い) であり 行いである。決して「ぜいたくな失業者」はいないのである。種々様々な希望を抱けるような社会の形成 は未だ成らず、望みさえわからない若者はやはり昔も今も多いというのは至極当然のことなのである。社会 を構成して支えているはずの人たちがその役割を果たそうとしていないからである。私もまた転職を繰り返した。やっと決まった仕事を台無しにされて奪われたりもした。望む仕事を求めて 何度となく職業安定所に足を運び、各種媒体から提供される仕事にも応募してきた。しかし、多くは不採用 であった。門前払いも数多い。不誠実で一方的で理不尽で開いた口のふさがらないような身勝手な対応を (法に触れることもあった) 雇用者側は繰り返しているのである。こちらは抵抗手段もない。それに対し 改善と再考を強く求めるべき労働省の公務員たちもまた無為無策である。右から左にただ仕事を流すだけ にとどまらず、雇用者側の要求に従うことを求職者に半ば強いている。望まない仕事だから求めないので はなく、とても平均的で並みの生活さえ望めないからこそ、現実にある (提示される) 仕事を選べないの である。求人数がいくら多くても問題はその内容である。低賃金長時間労働 (休日数の少なさも含む) 悪 環境では働きたくても働けない。長期失業者が多いのは雇用条件が最大の原因である。経営者にとって都 合のいい条件でいくら求めても合致する人がいないのは当たり前すぎるほど当たり前のことなのである。 彼らもまた、現実を認識していない。能が無い以前の問題である。
失業者を増やしたのは雇用者側、経営者側である。省力化と効率的経営のため従業員をできる限り少なく してやっていくことは許されることだろうか。自分たちで決めて払ってきた賃金を減らし、従業員に著し い苦痛を与えあるいは仕事をさせない、居場所もなくす、といったやり方で半ば強制的にしかし形として は「自発的」に離職させたり、長期雇用を避けたり、不安定な就業を余儀なくさせたり、パートタイムでの雇用形態を増やしたり、賃金のカット理由を増やしたり、昇給を遅らせたりその額を減らしたり、解雇 事由を巧妙にまたは無理やり作ったり、と人減らしの方策は多岐にわたる。雇用者には人を雇うという意 識は基本的にない。営利活動の道具として使うことしか考えていない。求人票や各種求人広告は、いくら 監督官庁の指導や社会的要請があろうと、恐ろしく身勝手で利己的で人を見くびった内容である。不況だ から不景気だからというのも彼らにとっては極めて都合のよい理由にしかならない。そういう状況を作り だしたのは彼ら自身なのに、それさえ認識していない。失業者を増加させその状態を長期化させているの は企業側である。求める「人材」(ひどいことばである) が欲しい、などという身勝手な考えは捨て去るべ きである。また、求職者側も、企業にとって都合のよい、「求められる人材」になどなろうとすべきでは ない。恣意的で作為的な雇用形態こそ元凶だからである。
就業の形態を根本的に変えるべきである。生物学的にまた社会的に無理のある場合を除いて性差別はどち らの側からもなくすのは当然のことであるが、年齢や経験による区別は何よりもなくすべきである。また、 1人に多くの役割や仕事を求めたりさせたりすることは (こき使うことは) やめるべきである。どの人に も働く権利がある。だれかがだれかの仕事を恣意的に奪うことは許されてはならないし許しても見過ごし てもならない。仕事の量や質に応じて配置し配分し分担分掌させることを基本とすれば年齢も経験も問題 にはならないはずである。本来経験はして初めてつくものである。はじめからある、などということはあ リ得ない。経験がないのならさせればよい。積ませればよい。そうすれば次が生まれるのである。繋がる のである。年の功も重要である。年齢を重ねるごとに多くの人は賢明になり多くを知り学んでいくもので ある。それが生かせるのは社会と直接かかわるところである。いくつであろうと、就業を断る理由にはな らない。新規学卒者を優先し、学卒後すぐに就職できなかった人を差別するどころか事実上切り捨て、相 手にしない、といった道理からはずれた慣行もただちに止めるべきである。ブランクが何年あろうと (失 業もまた経験である) 仕事をすれば社会に貢献できるしそのことが社会を造り支えているのである。どの 人も社会を構成する人間であるのだから。企業活動は社会の一部であり、社会が存在するからこそ成り立 つ。それを支えるのは人である。各人に分かち与えてこそ社会の存立基盤が固まるのである。企業の存立 は共有の価値にこそおくべきものである。雇用に対する姿勢や考え方を変えてこそ変化に応じた活動がで きるのである。区別は、これをなくすべきである。
改むるに憚ること勿れ
2000.4.19昨今の好ましくない悪しき風潮に、間違いや過ち誤りを正したり直したり改めたり することをためらったり変えようとしなかったり正当化してごり押ししたりする、というのがあ る。これは意外に広がりと深みを呈していて、指摘することが悪いこととか、(指摘された人が 気分を害したりするとかで) 人間関係を悪化させるとかいったこと、とか、認めたりすることは 自分の弱みを他人に見せてしまう、握られて (知られて) しまうーそれでは上手に生きていけな いからとかで、、憚られて、結果として誤りや間違いが堂々とまかりとおり、それをしている人 もまた自らの過ちを正当化さえしてしまう、という空恐ろしい気持ち悪さが蔓延っているのであ る。私は最近 (4月初めから) CS デジタル放送 (SkyPerfecTV スカイパーフェクTV ー衛星テレビー) の放送大学 の無料放送講義をてなぐさみに視聴している。内容は全体に易しく、寝っころがっていてでも、 飲み物片手でも気楽に見聞きできる、という良さがあるのでよい。講師陣の先生方はそこそこ名 の知られた人たちなので、信頼を置けるところも良い。しかし、物理学関係の講義では、気になる ところがいくらかあった。その中でも、ことばの使い方や呼び方にひっかかる点がある (私たち は中身以上にそういったどうでもよさそうな(^^;) ことに気をとられがちである) 。数学でもそ うなのだが、アルファベット (英語での言い方、およそ26文字のこと) を物事やその対象など を指し示す場合に使うが、しばしばその副次的派生的個所の指標として、[´] (プライム、prime (英語)) を用いている。この [´] 付きの文字を、立派な大先生方が憚りもなく、「ダッシュ」 (dash(英語)) と呼ぶのである。これは、イタリア語の、”音を明瞭に区切って”を楽譜などで 示すときの staccato (´) を混同して文字に付いているのをそう誰かが呼び始めたのを悪い習慣 と知りながら呼んだものであろう。何度も何度も繰り返されるので、耳障りな上にいやになって しまう。テレビに向かって、『プライム!』などといって一人で講義ならぬ抗議をしてみてもは じまらないのだが、こちらもつい言ってしまう。このことは、市販の英和辞書にも、英米の国語 辞典 English Dictionary にもたいてい prime の項に明記されている。私の大学の学生のとき には講義の中で教授等の教職員がそう言うことには慣れてきたし、知ってもいた。大学の先生と もなれば当然であろう。なのに、日本を代表するとも言える (た) 放送大学の諸先生方が、英語 では「プライム」というべきを「ダッシュ」というのは変であるし、理解に苦しむ。一方通行の 放送ゆえ、指摘できないのは残念である。直す立場にいるはずの先生方が自ら間違いに気づいて 訂正されることを願うしかない。聞いているこっちは変に恥ずかしい。
また英語だが、中学校以来行われている米語教育のせいか、American English の発音や綴りや 表現などが正統として正しいとされる傾向がある。本来米国はその社会の存立の基本を diversity においていて、決して一律の固定的で定型的で変化の無いことを良しとはしていないはずだが、 日本での英語の先生たちの指導は統一的でかえって偏っているように思えることが多々あった。 一例として、often の発音がある。これは米国式には多く (あくまで多く、である) t は発音せ ず、「オーフン」のように発音することが普通とされる。それを先生たちは生徒に強要している ようにさえ見受けられる。一方、元々の English の祖国 (母国) であるイギリスでは、むしろ 正統な発音として一般的なのは「オフトゥン」である。代表的な放送局である BBC の国内向けテレビ放送や、海外向けの昔から続けられて いる短波ラジオ放送を聞いて いると、私の経験の範囲では、例外なく、「オフトゥン」であった。そう言った中学生が先生 に「オーフン」と発音するように、と注意され訂正させられた、という話を何度も聞いたしそこ かしこで読んだ。日本的である。一つのことに合わせてしまおう、支配的なものに従わせよう、 というのは寒々とする情景である。直すべきは多様性を否定する先生たちとそれを支持する社会 である。勇気ある中学生がそういう指摘をしたとして、果たして、改まるだろうか。
おかしな変音の強要は枚挙にいとまがない。例えば、IBM が出している自社製品のソフトウェア 「Via Voice」(音声認識)の呼称は日本語で「ビアボイス」だそうである。通常、via は「ヴァイア」 と発音することが多い。タイム・ウォーナー社の名称も、Warner を「ワーナー」などとやってい る。英米のニュースなどを視聴していると、明らかに、「ウォーナー」であった。SF やアニメ などで (啓蒙書や研究論文でもでている) warp の発音を「ワープ」と言って憚らない輩が多い。 これも困りものである。もちろん、「ウォープ」である。IBM や 携帯電話などの広告によく見ら れる。直すべきである。文句をいうべきである。農村の風景も田圃の耕作光景も悪く変わりつつある。私の住む地方の大部分では、水路はまさに 水路と化し、コンクリートの溝として、水を単に通すだけのものに成り果てた。土地改良だとか 耕地整理も実際は土や環境の破壊に過ぎず、とどのつまり、土建業者の金づる、という印象が強 い。農家の収益は減っている。農機具等の使用の効率化はあってもその所有と維持のための金銭 的負担の増加、有害な化学肥料や農薬の使用のための負担と土や水の汚染、結局のところ高年齢 化の進む農村や担い手の減少による手間暇のかかる作業の連続、など、得られたものはあまりな い。負の財産になっているかもしれない。それにも増して、生命の育まれる環境が壊された。循 環的な流転転生の姿が失われていっている。なんとも汚い (いやな臭いを伴うどろっとした灰色 の) 底の溝が増え、ごみがやたら目立つ。する前から誰にでもわかっていたはずなのに...。 今からでも遅くはない。「直す」べきである。良くない、とわかったなら、文字通り、「改良」 すればよい。土建業者は儲かるが。
企業やなんかに働き口を求めていくと、よくあるのが採否担当者や経営者の一方的で固定的でや みくもなものさしによる決め付けである。ステレオタイプの「好ましい人物」の押し付けで採否 や労働者 (従業員) の評価をしているのである。人はより多様化し変わった価値観と種々の能力 を持つようになってきている。本当に「人物本位」で面接をするなら、一方的で手前勝手な尺度 や価値観による眼で人を見るべきではない。どのような話し方だろうと、内容だろうと、仕事を 求めてくる人たちは皆それぞれそれなりに真剣であり、生活に困っているのである。基準は様々 である。第一に求職者の仕事の必要性であり、その度合いも求職者によるその表現の仕方も異な るのが当たり前である。『覇気がない』とか『それほどにはみえない』などという馬鹿で能無し の人事担当者が多い。失業の経験も社会経験も乏しいのに何をえらそうにいうのか、と怒鳴りつ けたくなる。彼らは自身を改めるべきなのである。
いつもはやるのが都合の悪いことの隠蔽とすり替えごまかし偽りである。最近目立つ警察にこと はとどまらない。命に関わる医療の場でも常にある。批判はありがたいのである。関心を持ち、 良くしようと見つめる心からの目は大切である。それにより改めれば、非難や排斥廃止にはつな がらないであろう。誤り過ちからの好転が良い循環となるよう、修正していくのである。それが 社会を「糺す」べき者たちの取るべき中心的仕事である。私もときどき間違う。つまらぬことで誤りをしでかす。しかし、気づけば努めて認め改めるよう にしているつもりである。問題なのは、指摘する人や見つける人が間違っていたりおかしな偏見 や先入観を持っていたりする場合である。そういう場合、多いのは誤りをまさに針小棒大にあげ つらうことである。恰好の攻撃材料とするわけである。つまらない誤りはしばしば大きな思い違 いを生み大きく見える間違いになってしまう。それをして、大切なことを理解していない、とか 基本的なことをわかっていない、などというのはこれもまた大きな誤りである。そうするのはそ の人の醜さ汚さ小ささの裏返しである。本当に、些細なことからそういう結果に至ることが応々 にしてある。しかし、それは直接的で的確で短い指摘で改まり修正され本質的な課題に戻すこと ができるのである。また、見つける人はこれまたよく、自身の過ちや思慮不足や誤認識に気づい ていないことが多い。それを逆に指摘すると、そういった人は先に誤った人の攻撃に終始して自 らを省みることをしない、といった性を示すことがよくあるものである。自分の誤り過ちを認め たくない、そういった保身の醜い姿である。悲しいことである。
こういったことは東京を中心にして都会の人たちに多く見られるようである (私のささやかな気 分の悪い体験からも)。知らないことは恥であり、間違うと笑われる、馬鹿にされる、されてひ どい攻撃排撃の対象とされる、といった怖れと不安があるからである。それを避けるには、なる べく他人に弱みや欠点を見せない、もちろん、過ちをおかさない、「決して」認めない、という 姿勢を求めつづける不健全な態度が必要とされる。ますますおぞましい環境に落ちていく。この 風潮は他地域に広がってきている。子供からお年寄りまで見られる傾向のようである。実際、そ ういう目にあうのは恐怖である。本質的でもない、本当に少し踏み外しただけなのに、さも重大 で致命的な欠陥や過ちであるかのように言われ、怖れおののき自身を低めだめだと思い込み苦し むことに追い込んでしまう。しかし、それでは相手の思うつぼである。そういうことをいったり したりする者ほど本質的なことをわかっていないことが多いものであるし、人を非難することし かしない者がされる人より偉いことも立派なことも賢いことも頭脳明晰であることも博識である ことも決してない。さきに述べたように、それ自体、醜い姿をその人にあからさまにみせている のである。言われたことを真に受けるべきではないのはそういう理由による。誤りは現実に誰もが例外なく経験する。どんな人も偉人と呼ばれる人もしてきた。もし名を残し た人が立派であったとしたら、それは月並みだが、自らの誤りを認めそれを改めることに努めて きたことにある。間違いは誰にでも必ずある。間違った、誤った、知らなかった、そういうこと 自体は恥でもなんでもない。気づかなかったら起こってしまった、後で気づいた、ならばそれで よいのである。その時点で改めればそれでよいのである。それこそが進歩である。知ろうとしな いこと、認めようとしないこと (先にあげた都会人のごとく) こそ過ちであり、ひどく恥ずかし いことなのである。
大先生や著名な人が言ったりしたりしたことは影響がどうしても大きく、多く、それがしばしば 支配的になってしまう。そういった印象を与え植え付けてしまう。それはしかし、誤りである。 批判する勇気、される謙虚さを持たなければならない。悪しき習慣は、最初の放送大学の例のよ うに、改めるべきである。上下老若の区別はない。
私は孔子や儒学・論語を崇めているわけでも詳しい知識を持っているわけでもないが、一応、 子曰、君子不重則不威。学則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。
無意味な砂遊び
2000.4.12今朝河口の橋あたりを通りかかったが、数日来続けられていた「改変」されたこの 町いちばんの幅20メートル以上の平野を流れ下り上水道の水源にもなっているきれいだった川の 河口の堆積した砂や石などの除去置き換え作業は今日も風の弱い暖かで穏やかな春の陽光のもと まだ行われていた。4月8日
4月13日
今までは川は海岸に沿って北東寄りの向きに曲がりその分比較的緩やか に流れて山裾の岩丘 (高さ 19 メートル、木々あり祠あり) 近くでうまく海に注いで混ざってい たのだが、1979年頃の流れ
この海岸の砂浜とふもとの集落帯とを分断していた川を無理やり埋め立て、川はこれ また無理やりまっすぐに海に繋げられてしまった。埋め立てたところは人工の堤と道路と人工的 に整備され芝生まで付けられ駐車場もあるというおかしな「公園」にされ、海浜には階段状のコ ンクリートの競技場のスタンドの幅広いもののような醜い傾斜場が造成された。
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その結果、新しい河口には強い波などで次第にときにすぐに砂や石やなんかが打 ち寄せられ堆積し、北風の吹く日には狭くなった川の水の出口のせいもあって、下流域200メ ートル以上が岸まで川幅いっぱいに半かん水で逆流しているような川の変化が常態化している。
中流域の方では、昨年 8月14日の集中豪雨で一部が崩れたりしたとかで、今ごろになって、川に まで重機をいれて弄っている。
現在も続いているが、その少し上の崖崩れの修復 (すでに粗方終えた) 後の造改とも重なり 、川の水は茶色や汚い灰緑色に濁ったままである。作り変える前から自明だったはずの水流や周囲 (環境) の悪化をまた作業の恰好の理由として新 たな砂山を作り上げている。よくない状況があるから、といって、変形を繰り返し、本来の姿は 全く跡をとどめない形で変造してきた。河川は水の流れのため、自然状態でも変化とそれによる 変容を生じつづける。それもまた土木工事を請け負う業者たちには願っても無い仕事と収入ある いは税金の獲得理由とされるのである。元の形を変えれば当然ながら循環してバランスの取れた 系が乱され障害を生じる。それは人間の種々の営みに弊害となって現れる。これは当然の帰結な のだが、これをまた利用しない手はないからである。そうして終わりのない変形と変造が始まる 。変成した状態もまた無理がかかりすぐに壊れたり歪みを生じさせる。しばらくするとまた、復 旧工事という砂遊び、変形が必要となり、かれらの収入のもととなる。かくして、仕事にあぶれ ることはなくなるのである。めでたし、めでたし、なのだろうか----- いうまでもなく、この結 果、環境破壊はどんどん進行し、費やされる税金は砂や砂利や泥や水にまみれてどんどん消えて ゆく。作業をしている彼等自身、百も承知の事実である。しかし、田舎ではそうそう建築土木工 事はないから、上手に仕事をつくりださねばならない。このことはこの町の各所に見られる。北 の海岸の砂浜の西端近く (東京資本のホテルの前) でもかくのごとしである。
必然性など全くない のにまた弄っている。何のためか。もちろん、お金のためである。将来どうなるとか、子供たち の生育環境なども眼中にはない。財政支出はこのようなところに多くを浪費してきた。破壊の進 行は誰もが目の当たりにして知っていることなのに、暴力的威迫さえありうる人的環境のせいか どうか、この反復行為は止むことがない。王様に『裸だ!』という子供さえいない。
今の社 会には多くの失業者がいる。生活にあえいでいる。リストラの名のもとの経営者などによる身勝 手で一方的な反抗さえさせない解雇や転職を余儀なくされてあぶれた人たち、長期失業で (再) 就職はどんどん遠ざかり希望の持てない人たち、そういう苦しんでいる人たち (私もその一人) が数多い。しかし、だからといって、いや、だからこそ、破壊と浪費を正当化していいと考える 理由はないのだ。一部の土木業者や道路工事を無理やりこさえて儲けるもの達に私たちは怒りた いのである。無意味な作業をする者たちだけが得をして安寧に暮らすことを快く思えるはずはな いのである。
子供たちの砂遊びはいろいろな形の砂の造作となるが、力のある者やからだの 大きな者はしばしばせっかくこしらえた造形を踏みにじったり壊したりする。また作り直せばい い、のだろうか。何度も何度もそれが繰り返されるとしたら、あなたはどう感じるだろうか。ど ういう思いがあなたの心に生まれ積み重なっていくだろうか。大人たちの砂遊びは元の環境を回 復不可能な状態に変えてしまう。変えてもなんの価値も意味もないのに。そうすることに彼らは なんの痛みも感じていないし認識さえも無い者もいる。誰かが血の滲むような思いで築き上げて きたものを壊して、さあ、はじめからやり直し、といってはばからない者たちがいる。心からの ことばを酷いやり方で否定し弱い、しかし耐えて歩きつづける人 (たち) を蹂躙して平然として いる者たちがいる。河川は日本のどこにおいても護岸工事だとか電力源だとか氾濫源の制御とか水利とかで改変や変 形の対象とされてきた。水田もまた生産性向上と省力化の名のもとに変形や変造ヶ進められて、 私の日記に書いたごとくおかしな風景を造って しまった。昔泳いでいた川魚たちや水溜りや淀みにたくさんいた小さな生き物たちは消えてしま った。植物の変化が貧しくなった。光と影と動くもののきらめきがなくなってきた。植物の広が りが一定だったり、違いに乏しかったりする環境はさらに昆虫や小鳥も小動物も遠くへ追いやっ てしまう。循環していたはずの滋養に満ちた豊かな水はいたるところで止められ、まったく出入 りのなくなっているところも多い。土には化成肥料や目先の都合だけのための農薬・薬剤散布、 川を通じた表土や養分の戻らない流出、岸辺の荒廃と固形化、消失、さらなる病害の反復的な広 がり、といったうまく循環利用に努めてきたはずの自然の産物に依拠した農業林業水産業の生産 形態は崩れより強い人為的変成を必要とさせていく。残るものよりも失うものの方が多く、破壊 の中に自らも組み入れられ含められることを私たちは充二分に知っていたはずである。
北の海岸の砂浜の東の部分の破壊に際し、議論検討はもちろん、事前の説明もなされたとはいえ ない (説明責任について(建設省)) 。 平々凡々な一員なればこそ、関係してきた町の中に作り変えられようとした大規模な事業 について知る権利もものを言う権利もあったはずなのだ。最近為されるおざなりの環境影響評価 (アセスメント) さえされてはいなかった。実際、多くの人たちが悪影響を考えられたし、わか っていたはずである。どの人にも (住民あるいは町民) 自由な発言の権利があったはずなのに。破壊は開発や建設といった肯定的な語 (ことば) によって正当化されてきた。しかし、その繰り 返しと増加はどこかで歯止めをかけないと取り返しのつかないことになる。生物が死んだら蘇生 は不可能なように、時間が一方向に非対称に流れ続けるように、バランスを人為的に次々と壊し ていく所為は存在の基礎を揺るがすのである。ヒトもまた自然の一部でなければならない。その 存在の基礎を自ら足元をすくうように壊していくのは愚かにも自らの存在を否定することである。
はじめからこうしたらどうなるか、を知っていて行うのはあまりにも愚かである以上に許され ない行為である。「覆水盆に返らず」、の諺どおり、一旦壊れたものは二度とは元には戻らない。 これは自明である。このことを私たちは私たちにとって長い歴史、地球にとってはわずかな時間 のうちに学んできた。人間の都合だけで自然に形成されてきた循環を短すぎる時間のうちに破壊 し戻せなくした。その過程に進歩がいまだにみられない。得るべきなのは精神的な面での向上で あり、それこそが進歩である。そのために社会があり、その中で種々の形で教育が行われてきて いたはずである。小手先の技術も考える葦であるヒトが工夫してきた。そこには観察の深化と認 識の進歩があるはずである。なのに、肝心のものを失っている。そして物的な変形と蓄積に自分 たちの存在を見出そうとしている。
それでは心は病んでいく。荒れた風景や場所や破壊の現場の増加は人間の精神さえ荒廃させてい く。他者を思いやる心はもちろん、その存在さえ何のためらいもなく否定しようとする。そうい う者たちが最近とくに増えてきた。結果が目に見えているのに、私たちの長い時間のうちに悪い ことと認識されてきた行為、反社会的行為、非人間的行為を繰り返す。そういう者たちが歴史を 否定するように増え蔓延っている。そのために他者が傷つこうが苦しもうが死に瀕しようがかま うことがない。誤りや間違いを改めるどころか、認めることさえ拒み、酷いことに、醜さ汚さを さえ、振り返ることなく、正当化しそれも暴力的に行う。種々の面で非人間的な行為言動を厭わ ないまさに異常で異様な者たちがそこらじゅうに蔓延り増えてきている。心無い人でなしが増殖 している。進化は環境への適応によってきた。その環境はもろく崩れやすい。あぶないくらいのバランスで 保たれてきた。誰かが一方的に意図的に利己的に壊してよいものではない。そこにあるバランス のとれた循環を守り育てること、それを知ってきたことが進歩である。そのための心の向上こそ 私たち自身を進化させていくことになるのである。
情報革命
2000.4.5新聞の一面を使って一週間分の FM 放送の番組と内容の一部を載せているが、 内容はやはり紙面の制約を表向きの理由として不充分なものであるのは残念である。特に、 NHK の FM のプログラムはそれぞれコマーシャルも なく、区切られた時間いっぱいに曲などをはしょる (端折る) ことなく流してくれるので、 なおさら、民放の FM 放送よりも曲名や内容をすべて知りたいという欲求を起こさせる。そ れを満たすためには、これまた残念なことに、お金をだして FM 雑誌などを買わないと (少 なくとも私たち一般人の田舎者は) 得られない。こういった不満やそういった情報へのアク セスやそのものの入手・獲得の手段が地域的にも不均衡な上に人によって違いがあって不衡 平である、という実感は多くの”普通の人”や”田舎の人”は抱いているものである。「情報革命」に期するのはそういう種類のバランスの是正にとどまるだけでなく、各所各人 の存在からの発信と伝達に向かうというところにある。それは物だけに限られない、人や種 々の機能を持った構成物の偏在の解消をもたらすものでなければならない。最近盛んに喧伝 されている IT 革命あるいは情報技術革命と総称されている技術開発の成果の内に実際に上 記を促進させうる機器、装置、道具等がある。しかし、それは多くの人々の工夫の結果であ り、それは人類 (Homo sapiens) と呼ばれる種の進化出現以来の知恵とその実現の蓄積の結 果の連続にすぎない。そこに「革命」などは実際にもない。「革命」といえるのはさまざま な技術的成果の集積と受け継がれ広められたところにより現実として可能となった考えや望 みや想いの大きな発展である。それは「革命」ということばの意味するところのごとく社会 や意識の変革をもたらすものでなければそう呼べないであろう。多種多様の情報が特定の人 や集団や機関等に握られ出し惜しみされ近づくことも触れることも見ることも聞くことも自 由でないような状況は社会の発達を阻害する。著しい不公平というだけでなく、本来的に許 されない誤りである。そのような人たちや情報の集積場所が一部地域に集中し一元化されて 存在ししかも一方的にその内容を決められ限定的に放たれる (知らしめる) のみ、というの では技術上の工夫やその広がりがいくら進んでも本質的には従来と何も変わらない。また、 流布発信元がさらにその中の一部の階層や部分に限られていたり偏在していたり秘密にされ ていたり (囲われていたり) するとしたらなおのことそれは許しがたく且つ恐ろしいことで ある。民主的社会はそれを好ましく思わないしそれ以上に許容はもちろん、推進したりはし ない。
基本的に、多くの人々が知るべき情報は共有の一つの財産である。誰かがそれを独り占めし たり一方的且つ利己的に操作したり内容を変えたりしてよい理由はない。すべての人にとり 直接のアクセスと接触・改変の自由もなければならない。自分自身に関する情報ならいうま でもない。はじめに書いた FM 放送番組表の場合、FM 放送局はその放送予定内容を当然なが ら無料で知りうる形態で提示すべきである。商業雑誌などの利益追求のためにその情報を流 してはならない。公共放送局である NHK ならばなお さらあたりまえのこととして詳細に新聞だけでなくファクシミリやインターネット (主として ホームページ) あるいは事前の音声電話などによる問い合わせに分け隔てなく区別無く答える 形、での提供をすぐにすべきである。特定の出版物やメディア (伝達媒体) の利益のために 私たちは NHK に受信料を払っているのではない。求め れば得られる、そういうアクセスの自由と公平で衡平な獲得・入手の手段を実現させることは 公共放送の NHK に限らず、割り当てられて独占的に 電波を使っている民放各局にも同様に求められることである。民放 FM 局は番組表をホームペ ージに載せているところが多いが、内容 (詳細や放送予定曲目など) は乏しく (実際ほとんど ないと思う) あまり役には立たない。生放送なら事後にすべて掲載すべきである。
上記例以上に重要で不可欠で必要な情報も多い。たとえば、環境モニタリングの結果なども、 一部の代表値や整理 (統計 (に限らないが) ) 処理された”きれいな”結果だけでなく、測定 した結果すべて (条件環境も) とサンプリング ((試料) 採取) や分析の方法もすべて詳細に示 し誰もがアクセスできるようにすべきなのである。多くの目があれば、測定者が気づかなかった ことも気づく場合があるものである。結果はしばしば悲しいことに、誰かの都合のいいように 変えられたり操作されたりしがちである。計算や導出は適正にされていてもその元がいい加減 でぞんざいであったり、特定の人 (々) や集団にとって都合のいいところだけから出されてい るものであったりしては何も意味をなさない。私たちが批判的に検討し議論すべきは、分析の 過程はもちろんだが、サンプリングそれ自体にある。その場所や方法、試料の取り扱い (運搬 保存など) などは分析を決定的にするからである。
情報公開法の制定と運用がすすむ行政上の情報もその重要度・優先度が非常に高いものである。 公的機関の保有する情報は基本的にすべてプライバシーに関わることは除いてすべての人のた めにある。多くの人々によるチェックと監視は公共の資財の適切適正な使用利用にとって不可 欠である。法が定めるような手続き (公開のため) は本来邪魔で不要である。自由で無料で無 条件であること、それが基本である。情報の一部地域や機関・集団への集中はますますその元であるところの人や物や構築物を集中 させる。その解消と分散はその方向性をばらばらに (ランダムに、任意に) していくはずであ る。道路 (網) の整備と伸長・稠密化と輸送手段経路の増加効率化はすでに物の流通を大きく 変えた。生産製造地の違いはもはやそれほどの障害にはなっていない。情報も、いや、情報だ からこそ、一極集中も特定の地域への分極集中もましてや一元化 (管理) もかえって伝達の効 率の低下やコスト (費用) 、エネルギーの上昇を招くことになる。現代にきてかえって進んで きた東京への集中あるいは各大都市域への集中はまた情報の配向が任意 (乱雑、ランダム) に ならず、無駄を生じさせている。インターネットがそうであるように、どこにも集中管理する ところのない、また、分極して偏った部分のない広がりと多元化・点在化はそのほかのメディ アでも可能である。方法手段はすでにある。過去からの積み上げの社会基盤はもちろん、新し く工夫され作り出された技術的成果はより損失・無駄を減らした手段を可能としている。進め るための知識や技術の流布もすすめなければならないし、それがまたこのことについての認識 を深め広める相乗効果がある。
出版社は本当に自社の活動の進展と収益の増大を望むなら、東京を去るべきである。文化の創 出と保存と向上のためにあると自負するなら、日本各地に分散すべきである。読者・利用者で ある一般の人々は東京の情報にも著名人 (誰が”著名”にしたか) の言動にも依存してはいな いしすべきでもない。特定の発信者や情報の形成者 (たとえばテレビ番組の製作者) に振り回 される理由はない。教育の浸透と継続と長期化深化は人々の思考や観察を高め、自律的になる はずである。各地の文化的 (伝統) 環境や形成にこそ出版社はその情報の発信を委ねるべきな のである。一つのものごとに惑わされも支配もされない、恣意的な流れや操作に従わない、自 由で独立した出版活動は多くの人々により支えられ支持されるはずである。情報の一元化一地 域的形成と発信は捨て去るべきである。出版物の流通はそれによりかえって促進され広がり、 コストも低下し社会の利益につながる。極のない流通は集中の弊害を取り除くはずである。そ して情報発信と流布と点在化多元化は受容者を増やす。
電波も電信も中継と分散と共有が可能である。何よりも、一元的な情報の一方的な伝達になっ ている現在の一部キー局 (東京に集中) によるネットワーク化や内容の均質化と同質化はなく さなければならない。民主的な社会にそういう現在の環境は不幸である。一方で多くの人々に 一度に伝えられる手段はあっていい。しかしながら、それは結果の伝達流布にとどめるべきで あろう。情報はもとよりどこかのだれかによりどこからともなく (多元的に、の意味) 発せら れるものであろうし、それを無理やり一つの見方で縛りしかも一方的に文字通り上から (”天 から”) 押し付けるように大量に有無を言わせず伝達させるのは非民主的で暴力的である。も のごとの判断も取捨選択も各人の自由であり、そのための情報の提供こそがメディアを操作す る人たちの役割である。構成製作にかかる恣意性を低下させるべく工夫しまた批判的に検討し またされてモニタリングを常時受けながら内容をできる限りその情報の素地に近い形で伝える 必要がある。取材したことからもまた、メディア上では共有されることになるからである。
分散し乱雑になっていくのは自然の摂理である。独占的な所有・操作・獲得を私たちは私たち 自身も含めてなくしていかねばならない。情報革命が革命の名にふさわしい姿になるとしたら それは偏りや寄り集まりがなくなり人々の意識が変わっていくこと高められることである。決 して退化させるような 群がりや欲得に私たち自身、走ってはならない。一つの好例として、イ ンターネットはその存在形態自体を含め現在知られている。しかし、通信基盤はそのコストや 一部事業者 (自明かと(^_^;)) の傲慢さも含めまだ未熟である。
退化する精神
2000.3.2422日の朝刊に埋められた小さな記事が目についた。日米のたばこ裁判での対照的な 判決を対比させたものである (福井新聞28面)。 日本国内では判事も含め、たばこによる喫煙者 自身の傷病は本人によるもので製造販売者には何ら責任はないものとされてきた。一方、米国で はその習慣性中毒は早くから実証されたがゆえにその健康を害する毒性を警告するのは義務であ ったとされ、怠ったタバコ会社は責めを負った。毒物や危険物あるいは (有毒な) 薬品や使途に 注意を要する医薬品など、また多くの化学品 (試薬から塗料やプラスチックスまで) はそれぞれ にその性質や毒性危険性等を表示するなどの義務が日本の国内法などでも決められている。たば こは日本においても多くの研究例があり、有毒性や中毒習慣性は指摘されているのである ( わかりやすい話、または 国立がんセンターの ページの 5) 、あるいは東京都 衛生局) 。およそ、たばこに限らず、化学物質や生物 (とその生産物) はその特にヒ トへの直接間接の影響や有毒性が可能性としてあるのなら、つまり疑わしいのなら、その使用摂 取はもちろん、生産や移動 (搬送) も止めるべきであることは、最近とみに注目されるようにな った内分泌撹乱化学物質 あるいは環境ホルモンの例を持ち出すまでもなく当然のことである。そういった認識が私た ちにあるかどうかは教育あるいは社会の進歩の度合いを測る尺度のひとつと考えられる。米国な どでは少なくともタバコにはあった。私たちは過去に学ぶはずである。歴史を知り真実を見出していこうとする姿勢が私たち自身の精 神の進歩につながるはずである。ところが、22 日の福井新聞朝刊 6 面の 日本たばこ産業 (JT) の水野勝社長の言はそれをはきちがえたことばとなっていた (JT の自己弁護)。
「... たばこについて、健康上のいろいろな問題が指摘されていることは十分に承 知しているが、たばこは長い歴史をもつ大人の嗜好品。どれだけ吸うかは、任意の選択でいいの ではないか ...」... 一方で多角化をすすめているという...(^^;)。 長い喫煙によりその慢性毒性や習慣性だけでなく、吸わない人たちへの著しい悪影響 (受動喫煙、環境煙草煙 (ETS)) が明ら かになっている。それをそれこそ長い歴史のなかで知るようになったのである。減らしていくこ と、なくすこと、それは現代の社会の義務である。消費量や喫煙人口の大きさがその生産販売を 正当化するのではない。その歴史は社会への警告である。害は大きくまたはびこる。だからこそ 、それを認識し改めることはたばこ会社だけでなく私たちの責務である。広がっていること、続 いていることをそのまま認容することが歴史を正統づけるのではない。歴史は教訓でもあり、進 歩への礎でもある。自分たちの営利活動を正当化せんがための自己目的化、自己弁護に使うのは まさに歴史の歪曲であり、悪用である。そういった主張に合理的根拠はない。歴史は起こったことの記述と集積であり、事実である。しかし、なにが事実か、なにが起こった かを後になって知ることは常に困難な上にたゆまない批判的な検討の過程で現れてくるものであ る。どのように事象を見出し関連づけ記述するのかがそれに対する認識を左右する。だからこそ 、誰かに都合のよい、誰かの所為の認容のために「歴史」をもちだし主張することは事実を否定 することになってしまう。そのような認識をもつことが私たちの精神を高め前進させるのである 。それぞれの主張を聞きバランスをとるとか (この言い方でいうバランスはその意味をはきちが えている) 、それぞれの折り合いをつけるとか、持ちつ持たれつだとかいうことを言い出す者も いる。しかし、それは現実にも背を向け事象を曲げてまさに都合のいいように作り変えてしまう 。そこに精神の進歩はない。思考は発展せず、視野を狭めてしまう。結果として残るものも残さ れるものもない。ただ社会を停滞させるだけでなく退化させてしまう。月並みなことばでいうと 、よりよいものへと変えていこう、改善していこうとする心こそが歴史に対する認識を進め社会 を進化させるのである (簡単にいいすぎだが) 。
これが現実である。道端の草の上に平然と捨てられた。周囲への影響
はもちろん、公衆道徳のかけらもない。吸殻のフィルターは自然界に
は存在しない物質である。吐いた唾が消えずにいつまでもその”姿”
をとどめているようなものである。
あたりかまわずこうされているのをいたるところで見かける。それは
誰もが知っている。禁煙法でも (製造、輸入、販売の禁止) つくれば
いい、とつい考えてしまう。禁酒法は必要もなく逆効果であったが、
禁煙法なら充分理由もあり、賛同する向きも多く、効果的かもしれな
い。NHK 総合テレビの3月6日の23:35からの、あすを読む、というコラム番組で (テーマは 「ゲームが進める情報革命」) 解説委員の山田伸二氏は (欧) 米に対する情報 (技術) 革命 ( IT (Information Technology) 革命?) の遅れを早急に取り戻すのに日本的で有効な方法とし だとして、”情報家電”の普及に言及していた。ゲーム機 (特に4日発売のソニーの PS2 ) や携帯電話などで操作の簡単なところから入ればいい、とのことだが、風見慎吾氏ではないが 、『ボク笑っちゃいます』(^.~;。家電製品の生産量も販売量もその普及度も極めて大きい。 それを利用しない手は無い、といいたいのだと思うが、これらは不必要な部分が多すぎる。ま た、修理したり差し替えや追加したりしての機能や操作性などの向上と継続長期使用をメーカ ー (作る側) も販売店 (売る側) も望まず、無駄になることが多い。基本的にごみなのである。 使い捨てを進めて (奨めて) きたのは使用者 (消費者) 側というよりは営利目的の前二者の方 である。次々と新製品を買わせるところに私たちが乗らされ頼り情報を (あるいはわが身を) ゆだねるというのは危険であまりにも無邪気で幼く、空恐ろしく、誤りである。情報そのもの も生まれては消えかつ結びてかつ消える泡のようなもの (... 淀みに浮かぶうたかたのごとく ... 『方丈記』(鴨長明) ) なのだから、運命を共にするのにちょうどよいのだろうか。
答えは否である。民主的社会での情報の意味するところは知的生産に限らず個々人にも隣近所 にも地域社会にもひとつの言語社会にも、さらには全世界にも有用で伝達されうるそれぞれの 思考や感覚的な産物なのである。ならば、その伝達の手段も方法も消費生産物の”藻くず”の ごとく打ち捨てられ打ち上げられるものに依存すべきではない。それらの所有はお金と現実に その扱いを買いうる者になってしまう。増えて広まれば安くなるからその普及によって情報技 術は私たちの望むものとなりうるのだろうか。何よりも、それが「革命」に相応する情報伝達 形態と民主的社会の発達のための道具や手段となりうるのだろうか。そもそも、”情報家電”なる珍妙な呼称 (”第二新卒”とどこか似ている(-_-;) の物品は、安 易で受容的なものへの群がりを期待しまた企図してつくられ売られてきたものである。安直な ものへの手出しをよしとする、そしてその所有者のほかへの、外への発信や発言やそのものへ の抵抗よりも、大量にかつ一方的に流し受容させる、そんなところに家電製品メーカー (製造 業者) の目的があったことは誰もがわかっていることである。
大衆がそのまま受け取って使うことを好ましいこととし、情報に対する疑いや選択や改変など をできる限りさせない従属的な組み込みこそ”情報家電”の目的だと考えるのは当然である。 もとより、娯楽や手抜きのための製品の中に本来求められる手段の共有と価値観の分別やその 多様性の認識を期するのは無理がある。送る側が操作しやすく扱いやすい形で御しやすい従順 な反抗しない人々が受け手に多ければ多いほど都合がよいのである。同じように考え感じる人 々の群れはこの上なく都合のよい存在である。つまり、家電ごみとかわらない。私たちは無批判に受け入れる人間になってはいけない。電気屋やその仲間に愚弄されることを よろこんではならない。多くの人は携帯電話にしてもその役割は限定的に理解している。しか し、テレビがそうであったように、知らず知らずのうちに、その影響が大きくなり、それによ り伝えられることどもにいつのまにか信をおいていたりするのである。疑問をかんじなくなっ てしまうのである。安易さや簡便さ、便利さに対する慣れと馴れによる不感症が私たち自身の 幼稚化と生来あったはずの器用さや種々の能力、思考を奪っていくことになる。そういったも のは使う人による改変 (改良、修正) や工夫の自由をどんどん奪っていく。そういったものご とに適合するかしないか、させるかさせないかが生活も人生も決めていってしまう。どの程度 か、どのようにかは、尺度により異なり判断されることである。極端な想像をすると寒々とす ることである。これは精神的に幼稚な社会をつくってしまう。
情報ということばに含まれるのはただのものごとの記述ではない。種々の生産の結果でありま た過程である。その伝達の目的は広い意味の知の共有にある。そしてそれをどう考え見つめる か、どう扱うかはその受け手にゆだねられる。だからこそ、大量伝達の一方的で変更の効かな い PS2 のようなゲーム機による「情報化」は革命にはならないし社会の進化にはつながらない 。より自由により参画の機会や手段方法が増えるのならともかく、その逆に自由度は減少して いく。ケータイ電話は小さいがゆえに特にお年寄りには扱いにくい。不幸にして傷害をもって しまった人たちにも不便である。現在は料金も高くつき、すべての人に共有されうる機器でも 手段でもない。かえって、扱いにくいとされてきた PC (パーソナルコンピューター) の方が キーも大きくソフトウェアやアダプタ (拡張ボード/機器) によりどうにでもなりうる。これ は多くの人の共有とすることもできるし、個々人の所有を前提としなくても共同での一時的な 共用という形態も可能となるからである。また、先の家電製品のような無駄が少ない。古くて もそれなりにあらゆることに使えるのである。さまざまな人がその人の目的に応じて使うこと ができる。”情報家電”のようにあらかじめ与えられて決められたものに従って使う、という 耐えがたい屈辱感は感じないですむし、組み込まれている、という強迫観念を抱かずにすむ。 改変の自由もその人に応じてあるのである。
つくってしまえば、広めてしまえば、押し付け押し切ればそれですべて通る、多ければそれで 支配的になるという恐ろしい傲慢さで (いい例が自自公と現在の首相) 物事を決めることには 反抗しなければならない。誰かに都合のいいこと、自己中心的な主張が認められることが民主 的社会のルールに則った結果ではない。そういったことに疑問を持ち、自ら観察し思考して何 がいいのか、よくなるのかを議論しながら決めていく、その最終的な形が多数決である。決し て何の考えも無い数の暴力ではないし、少数の否定でもない。存在はそれ自体代えることので きない主張である。存在するがゆえに我々はあるのである。そういったことを歴史を通し命を かけて学んできたのである。よくないものを、好ましくないものを知り、変えていくこと、そ れを通し過去のよさを知り見直すこと、再認識することは後戻りではなく、極めて明瞭な進歩 である。それを受け継いできた私たちはその精神を退化させてはならない。
ものごとを決めるのは私たち自身である。自分の力で扱えない、変えられないものに支配され ること、ましてや一方的情報に従わされたり決め付けられたりする「情報化」もその効果的手 段としての「情報家電」も拒否しなければならない。合理的思考も人間的 (生物的) 感覚もそ の具現化である科学もすべて技術にまさり、それを下に置く。道具は道具である。決めていく 精神を発達させていくより進化した社会を築くために......
哀しい踊り
2000.3.4ソニー (世界のSONY) がまた罪つくりなゲーム機 (総合娯楽コンピュータ:^.^;;) であるプレステ2=PS2 (プレイステーション2=PlayStation2) をつくり売り始めた。 4日の午前中のテレビ (日本テレビ系列) で行列まで作って買いにきている様子を映して いたが、これはなんともおぞましく哀しい光景であった。電器メーカーの一商品に群がり 踊らされていて、彼らは喜びを感じているらしく、情けなく悲しい。3月2日の新聞各紙 に「家庭情報機器の主役の座を狙う」と題して報じられていた内容はしかしどこか浅薄で 空しい。ネット (主としてインターネット) でのやりとりはどういってみたところでもと から空虚なものである。「情報のやりとり」に基礎をおく限りそこは本来的な社会の基盤 とは異なる。同様に、もともとゲーム機として製造されたところからの電気仕掛けの”手 軽な”娯楽器具につまりは収束する PS2 が 『社会を変える歴史的装置』(It's historic, a mass-market appliance that fundamentally changes society in the way the printing press did. ) ---トリッ プ・ホーキンス氏、Newsweekの記事、 日本語版は3月8日号 --- などであろうはずがな い (そんなことさせるものか) 。コンピュータを世界で最初にパーソナルに仕立て上げた二 人の内の一人、アップルのスティーブン・ジョブズ氏は 『5年後もネットは世界を変えない』---同じく Newsweek の記事 (日本語版3月1日 号) といっている。社会的な接触の希薄化と存在の孤立化 (逆説的だが) が進むかもしれ ないという意味では考えられなくもないが、PS2 やインターネットにもちろん限らない。 ネットへの差異障壁の小さな参画の実現での公平な環境はしかし有用である。自由で互い を認め合う討論の場があるならそれは社会を進歩させるに違いない。ゲームも映画も関連する事物も(商品も)個々の利用者にとっては消費の対象でしかない。 供給の方法や受容享受の態様に従来と少し違いを持たせても内容に本質的な変容は見られ ない。どうあがいてみても浪費である。エネルギーとお金をかけ時間を食いつぶす。刹那 的な作業の連続に創造も生産もない。多くの利用者は受容するのみである。インターネッ ト接続も同様である。パーソナルコンピュータ (PC) とは異なり自ら細かに作り上げ構成 し発信することは現状では期待できない。他人の営利目的の供給物に興じるところに寒々 とした空しさを覚える。結果として何を得るのだろうか。お仕着せにしか楽しみを見出せ ないとしたらあまりにも哀れである。やりとりがあると考えても、それは機器と操作者間 であり、たとえそこに別の人がいたとしても浅薄で間接的なのだ。大切な時間とエネルギ ーを、特に、子供たちが浪費していくことを利益追求に利用する製造者や販売者は罪人で ある。後先を考えず、身勝手すぎる。無意味で無益で無駄なのである。
子供たちが成長期の自由時間を過ごすのは直接周囲の事物や生物に触れて関わり合うとこ ろに求められるのが望ましい。何をしようか、どこへ行こうか、どのようにしようか、と いろいろなことを考え言い合いながら直に現在の環境で学ぶのである。遊びとはそういう ものである。つまらなければ工夫をし、場所を変える、という試行錯誤の中にこそ喜びと 楽しみがある。上からの、あるいはネットからのおしつけおしきせでは決して得られない 体験をするのである。やり直しのきかないことも、命の尊さもいっしょに体得していける はずである。どんなにリアルな映像や音声があろうとも、PS2 にはそのような経験をさせ る要素は全くないしあり得ない。仮想現実 (Virtual Reality) に見るのは空虚なイメージであるにすぎない。文字を通じて自ら読み進める本や語り伝えられることばから自分で考 え想像し形造る個々のイメージの豊かさとは大きな、本質的な差異がある。PS2 から出さ れるのはあらかじめ決められ企図されたものに限られてしまう。そこから派生しても超え られない。あまりにもつまらない。
子供たちも若者たちも自らの意思と思考で経験することに内なるエネルギーを注いで欲し い。その過程がたとえ好ましい結果に繋がらなくとも、生きていく糧となり血となるはず である。売りつけられる PS2 はいずれごみとなる。その時点で最新のものはその時のファッション と同様である。古くなる、廃れる、劣ってくる、と次を買い換えるようにしむけられる。 追加することを余儀なくさせる。それはまた浪費の積み重ねである。もたらされるものは なんだろうか。自然環境にとり有害で有毒、つまりヒトを含む生物にとり有毒、なプラス チックス、有機化合物、金属・非金属化合物 (広すぎる言い方です^^;) 等の廃棄物である 。はじめから、廃れたものの買い替えや廃棄に伴う処理と再利用を考えてつくられ売られ ているわけではない。リサイ クル法ができたからといって、ソニーが責任を持って少なくとも百万を超える物品を 処理する保証も約束もない (「家電製品」ではないようで^^; 対象外らしい)。 もともと 、売れたらそれで目的は達せられるからである。循環的な資源の再利用など彼らの念頭に はない。それだけ多量の製品 (廃品) を扱う再処理施設がソニーのどこに (日本のどこに ) あるのか。流行り廃れは初めから誰にでもわかっているところなのに、それで浪費され るものが何か、わかっているはずなのに、そのときよければそれでよい、当面の利益さえ 確保できればそれでいい、そういった考えしかないようである。ファッションとしての消 費はいいかげんにやめなければならない。浪費にしか繋がらない「総合娯楽コンピュータ 」はやめるべきだ。
よく言われることばに「ゲーム感覚」というのがある。人工感覚そのものである。人工物 から得られるのはそれだけである。自らの自然で直接的な感覚はそこにはおかれない。従 って、極端に走ると、身の毛もよだつ空恐ろしさが際立つようなことが起きることがある 。そう、生命の感覚に著しく欠けているのである。本当の生身の痛みを知り得ない。傍か ら見るとそれは気持ち悪さ気味悪さそのものである。何も感じないかのような振る舞いや 言動が生じ、悪い場合はそれが際立った形で現れる。ゲームに興じれば興じるほど、PS2 を通じたやりとりに (映画なども含め) 夢中になればなるほど、現実の姿や有様に無頓着 になり易くなる。予測や展開や関わるものごとの未知の世界とうまくやっていけないひど くいびつな状態と人工的形成に入り込んでしまう危険性を孕んでいる。あらかじめ決めら れた枠内での作業にうつつをぬかすところに本来の思考や感覚や学習はないのである。こ ういった「ゲーム感覚」がはびこり、その中にどっぷりつかって時間を無為に過ごす若い 人たちがこれからをつくり生きていけるのだろうか。どんなに技術の粋を集めようと極め ようと人工的なものは人造の皮相にすぎない。それは本質的に気色悪くいやあな感じがつ きまとい、おぞましいものである。生理的に嫌悪感を覚える。ゲームとはそういうものな のである。
他人がするから自分もする、行列を作っているから並び同じようにする、そういったこと に倣い馴れるような日常は捨て去るべきである。ファッションとして身に付け従うところ に孤立化はあっても個性化にはつながらない。そういう集団や集合には存立の意味も主張 もないのが普通である。意図的な商品に群がり踊らされて多くのものや時間やエネルギー (もちろんお金も) を浪費する、そんな元凶は案外利用者・使用者、あるいはプレイヤー 自身かもしれない。買わないで、使わないで、宣伝や流れに踊らないで欲しい。他者との 共存はファッション化ではない。共通ファッションに安住し安心するのは空しく、自らを 否定すること、存在を否定することになってしまうことに思い至って欲しい。失うのは自 らである。そこに本当の安心も安寧もない。心から安らぎ喜びを見出すべきはその人自ら の構築する生活の日常にある。自己の再認識と自己同一性はそういった生活の中から生ま れ育つ。子供たちや若者たちは利益追求を第一とした身勝手な製造者・販売者に踊らされ ず、自己を見つけていって欲しい。そうでないとすると、あまりに哀しい。
女だから...
2000.2.24残念なことに、悲しいことに、現代においてもなお、社会的に性差別が著しい。 そう、女性が男性より、一段低いもの、として扱われる場合が今なお多いのである。救いを求 めるはずの宗教においてもあるのである。とりわけイスラム教に顕著なようである。おぞまし いことである。賃金差別について、いまだにその役割に比して不当である、という内容の 報告 (リポート) を先ごろイギリスの BBC がして いて、再考したものである。社会的に世界を先導しているはずのイギリスでもなお、 「女だから」、という理由で低位に置かれつづけているのである。これは実際、女性 により不利な状況を生み、生活上も、精神的にも圧迫を与え続けている。女性は子供を生み育 てるのに欠くべからざる (というよりいなければ生まれない) 存在であり、代わることは不可 能である。そのため、労働とその代価の獲得に初めから不利になる理由があるわけである。一 方、男性はその子供の養育等には不充分な面が多々ある。その差異は生物学的に本来的なもの で、それをもって男性を優位に置くのは本末転倒で逆である。不利は不衡平であり、その埋め 合わせを対価として評価して支払うべきなのだ。
社会的な参画の場でも昔から女性は変な風に別扱いされてきた。ことに、信仰の場とか、儀式 だとか、相撲においてさえ、そうであった。今も、奈良の大峰山脈の山上ヶ岳などでは入山が 妨げられたりする。ある種の神事などでもまたそうである。かかわってはいけない、とうこと があるのである。相撲でも、土俵に入ってはいけないのだそうだ。もちろん、合理的な理由な どない。ありえない。表向きの理由の多くは、”不浄である”、というらしいが、本来不浄な のはそういう目で女性をみる男の方である。そういう主張をする男たちに清浄さをうんぬんす る資格はない。権利もない。何よりも、対等な存在として互いを尊重しあっていれば、”不浄 な” 関係になどならないだろう。生来の違いは生物としての存在価値なのである。それを当 然のこととして認識することこそ、社会を清浄にする第一歩である。古代では、女性は信仰や 儀式においては中心にいたのであった。女性は母たり得る存在だからである。
女性はしばしば都合よく利用される。先ごろの 大阪府知事選挙でも当選した太田房江氏は 女であるがゆえに東京の自民党にうまく担がれたのだ。太田 氏自身はまたそれを都合よく利用しているようにも思われる。その主張に特に際立つ清新さも まさに女性らしさも見受けられなかったし、総与党的相乗りの担ぎ上げによって成った知事に 果断な策を期待しようというのも難しい。太田氏が女性の社会的な地位向上に心から取り組み 認識させようとする姿勢はうかがえない。彼女自身は東大出の上級公務員として男性と変わら ぬ処遇を受けてきたから、体験的な主張も姿勢もないからである。就いたからには次 (の選挙 ) を考えずに、本当に女性や女性であるがゆえに支持してくれた人たちのために働くべきであ る。棚ぼたの知事の座にいるこの機会にできることを自民党などの圧力を跳ね返して進めなけ ればかえって失望は広がり次を失うことになる。そして、女性のイメージを上げて認知させる ことである。それこそ、イメージ選挙の感が強い大阪 (や大都市圏) で次をつくることにつな がるはずなのである。反発や反感、抵抗が大きいほど、多いほど、強いほど、力を振るう活躍 の場が広がるのである。前任者と違って有能で本物であることを自ら示してほしい。
女性でなければ事実上雇わない、という仕事が意外に多くある。男女雇用機会均等法 (自体、 本来不要な法律なのだが) があり、性差別はしてはならないのに、女性は、同種の比較的簡単 で単純な繰り返しの仕事をずっと続けることを暗黙裡に仮定して男性の雇用を事実上行わない 、したがって賃金も低く抑える、ということが慣行化している。体力的にも勤務上も (夜間は 女性には危険でよくない) 差異のない仕事でもおかしなことに女性を雇いたがる。男性にも生 活費を一家の大黒柱として稼ぐことを期待するならば、その逆であるべきはずなのに、慣行上 扱いやすく抑えやすいという理由で女性の雇用を優先するのである。そう、 「女だから」、なのである。奇妙なことである。これはまた、なんとなく雇いたくない 男性を職場から締め出すためにも使われている。区別なき差別、違いなき差別がはびこってい る。
対等であること、平等であることを互いに認め合い、当たり前のこととして受け容れることこ そ、衡平な関係の基本である。それこそ、始まりであり、進歩である。旧弊を打ち破り、慣行 を切り捨て新しい共同体とすべく社会への男女の差別のない参画を進めることが歴史から学ん だはずの前進である。後退は許されないと思う。
石原東京都知事の望まれた発表
2000.2.9七日に打ち出された外形標準課税の大手銀行への導入は小気味よい策である。奇襲だ、奇策だ、 突然すぎる、という第一声は、石原知事らには当初から折込済みの反応だったであろう。多く聞か れる賛意や賞賛は、何よりも、大規模銀行を中心に爾来行われてきた救済とか保護目的と称した甘 ったれた公的資金の導入策への人々の強い心理的抵抗と反発に依っている、といえるところにある (もちろん、日本長期信用銀行の問題は論外である) 。 無いに等しい預金金利のおかげで楽をし 、自ら招いた不良債権の処理に実質的に責任ある姿勢を示さないままにのうのうと生き長らえよう としている、と庶民には映っているのである。外形標準課税導入の初期の対象として、銀行は極め て適切だった、と感じる人は多いはずだからである。 また、現在の数の力を誇り無理強いを平然 とやってのける、信任のない野合そのものの自自公 (自民党+自由党+公明党) と、選挙で選ばれ た知事の主張とには本質的な違いがあるのである。課税される側の銀行業界、政府や関係省庁や与党側の反発は、出し抜かれたこと、そういった策 を実行できないがための嫉妬や羨望さえあるのでは、ということを勘ぐりたくなるようなところを 感じる。
1)、金融機関、特に大規模銀行だけへの課税は不公平ではないか、
2)、公的資金、つまり税金を投入した銀行にいやおうなく課することへの問題はないのか (整合 性) 、
3)、金融機関の (国際) 競争力の低下の恐れはないか、
4)、経済活性化のための積極財政と金融の流動化を企図した低金利政策と救済策の中での銀行へ の増税は景気回復を遅らせることになりはしないか、
5)、課税そのものを含めた影響の広がりへの警戒はしなくてよいのか、
など (中日新聞9日付け朝刊など) についてはそれぞれに押し返すだけの充分な理由と根拠がある と思う。
1)、については、もともと、金融機関が優遇されてきた上に、多額の公的資金導入というアンバ ランス (不衡平) が存在することが公平性を損なうという反論を否定する。 資金 (預金) の運用 使途についての方策と判断を誤り債権の焦げ付きや回収不能を異常に増やしたのはそれぞれの銀行 に責任のあることであり、その健全化と回復のための自助努力を怠り工夫をしない無能とさえいえ る神頼みならぬ (お) 上だのみのやり方が非難されるのは当然である。支払うべき預金金利分を事 実上なくしてもらい回収すべき債権をしないでいられるなど、その現在の不公正な扱いこそまさに 本来的に不公平なのである。
2)、余計な投入資金の回収という側面を示している。誤って実行された政策を修正して本来向け るべきところへ分配しなおすというところにその作用があり、これは税金の使途の適正化という点 で極めて調整的である。よって、整合性を保つ、という意味は十二分に出てくる。
3)、競争は衡平な土壌で公平で公正でなければ始まらない。過剰な保護と優遇策で甘やかされた 金融機関に競争力を海外のそれらに伍して求めても無理である。衡平でない上に対抗する能力がな く、育たないからである。基礎的な資金はもともとむしろ海外の金融機関より多いくらいである。 これも前記の保護策から生じた不公平な部分の補正という意味で正当である。
4)、そもそも積極型財政は時代遅れの (まさに、宮沢蔵相が自らのたまうがごとく遅れて来たケ インジアン) 愚策である。 ただ従来の政策を踏襲して繰り返しているのに過ぎない、とさえいえ る。すべきことは産業構造の改革と再構築に加えた新規の育成と流動化である。発展途上国の経済 とは本質的に異なる。 従来型の企業も自らの工夫と改革で今までとは違った業務形態に転換して いくことは可能であり、そういったことを進めることこそ社会経済の活性化と金融の流動性を高め 、結果として景気は上向きになり良くなることにつながるのである。 増税すなわち後退、とはあ まりに短絡的で進歩も改善もない幼い見方である。
5)、課税の広がりはかえって地域的にも衡平な再分配を促し、特に、いわゆる地方の活性化と財 政支出の適正化への効果的なステップになりうる (もちろん、決定する機関 (議会を含む) や使う 場所に大きな責任がある) 。 業種の広がりは各対象企業の生産活動の適正化への見直しにつなが るはずであるし、そうしなければならないであろう。 存否にかかわることである。 それは自身 の再構築に向かう。為すべきことを行うことになれば効果的である。無駄を省くのである。また、 やみくもに課税することは当然批判的に検討されなければならない。だからこそ、地方行政担当者 もまた適正化の工夫と従来の行いの修正につなげるべきである。 課税が産業を潰してはならない からである。
力は正義なり (Macht ist recht.) 、ではない。自らの意図と利益の実現のために集まっただけの 自民党、自由党、公明党と、はじめから変えていくこととその方法をある程度 (あくまで) 提示し て選ばれた知事とには民主主義のうえで対極にあり、決定的に違うからである。実際、前者たちの 前任者達が立法して制定した法に立脚するかぎり、彼らに後者の決定や主張に圧力をかけたりして やめさせたり、ないがしろにしたりすることは論理的にも道理上もできないのである。元来の東京 都の法人税収入の減少に理由があったとはいえ、すべきことをできるようにおこなうのは当たり前 のことである。
恐怖の犬 The Hound of Fear, 2000.2.3
夕方になると”犬の散歩”と称して出歩く輩がままあるようである。今日もいつものように 歩行 (ウォーキング) で川べり (の堤防) の道を歩いていた。その少し前に離れたところに犬 を連れた女がいたのを見ていたのだが、かかわらないようにして歩いていたところ、2、3分 後だったと思うが、後ろからおかしな息使いが聞こえたかと思ったら、すぐ右に体長は私と変 わらないくらいの犬が口を開けているではないか。思わず左に仰け反った。ぞっとした。恐し くて止まってしまった。その振り返りざまに女が近づいていたので、何とか (どうにかこうに か)、丁寧に、『 (つなを) 離さないで下さい。』と言った。そう言うのがやっとだった。女は ただ俯き加減に薄ら笑いを浮かべていただけだったのがやりきれなかった。「すみません」の 一言もなかったのである。犬を飼う (連れる) のは現在は自由である。しかし、守るべき暗黙の約束事がある。第一に 、放し飼いにしない、第二に、他の人に近づけない、第三に、糞便の始末・処理をする、など あたりまえのことがらである。
もともと、犬は狼だった。飢えていればヒトであろうと襲い喰らう。人間社会の中で飼い慣 らされて表面上はおとなしく、またその飼い方の基本として従属的である。しかし、やはり、 犬も野生の性質は捨て去ってはいないし、彼ら自身の意思も持っている。また、何かの拍子で 跳びかかる、といったこともある。実際、人間に噛みつく。そのために幼い子供はもちろん、 大人でも (特に老人など) 命を奪われる場合も珍しくない。そういった事例は、テレビや新聞 を通じてでも時折報じられる (警告の意味で) 。 犬に限らないのは、たとえば、この日 (3日 ) 起こった、飼い慣らされた従順でおとなしく甘えん坊のトラが25歳の男性を噛み殺した、 というニュースがあったこともその現実的で直接的な実例である。
さらにおそらく何よりも問題なのは、飼い犬などはその飼い主の命令に従うということであ る。飼い主が傲慢で利己的であり、気に入らないこと、あるいは自身の感情の鬱屈から、その 支配的な性向を前面に押し出し、ヒトを襲わせる、ということが現実にままあるのである。意 のままにしようとする性質を持った者に、悲しいことに、多いのである。現実に、私自身、その被害者である。ジョギングをしていたときのことだった。ゆっくりと 川べりを走っていた。その堤防の道の下の草むらから、突然、大きな犬 (シェパード!!) が 飛び出してきて、いきなり私の足に噛みついたのだ。倒れながら必死に逃げようとする私に執 拗にかかってきた。倒れたままの斜めの姿勢で見ると、なんと、その飼い主が立っていた。何 もせずに見下ろしていたのである。金切り声をあげながら逃げようとしていたのに、である。 どのくらい後だったかわからなかったが、『もうやめろ』 (だったとおもう) とかいうのが聞 こえたかと思ったら、その恐ろしい犬はぱたりと噛むのをやめた。血がながれて痛かった。ひ どい目にあった。その時のかみ傷はいまでも残っている。私は本当に単にゆっくりと走ってい ただけである。その犬とも飼い主とも一面識もなかった。もちろん、見てもいない犬とは障り のあるようなことは何もしていないしなかったのである。急に飛び出てきたのは犬の方である 。後になってスズキ (白身の魚) を持って謝りにきたが、その時の傷 (記憶) は癒えず、今も 犬には生理的に恐怖心と嫌悪感を抱いてしまう。
この日の数日前も、海岸を歩いていたら犬に出会った。首輪をつけていたが綱はなかった。 野良犬ならば、犬のほうから避けるかして違う方向へいってしまうものであり、こちらから、 「しっ、しっ」とすればたいていはどこかへ去るものである。変なちょっかいを出したり睨ん だりしなければ向かってくることはまずないのだが、その犬はこっちを睨み逃げなかったので ある。いうまでもなく、こちらが恐しくなったので、道を南に折れて別の道に下り遠回りして 再度海岸へ出たのだが、その途中、その飼い主らしき若い男が携帯電話で犬と私の様子につい て話をしていたのである (はっきり聞き取れた--数メートルしか離れていなかったし人はいな かった上に静かだった) 。 とんでもない男であった。私はもうただひたすら先へ進んだのは いうまでもない。
夜光る眼を見て恐怖に震えることもあった (経験のある方も多いと思う) 。何匹もの野良犬 が進んでいるのに出くわしたときにはぞっとしたものである。コナン・ドイル (Sir Arthur Conan Doyle) あるいは”ワトソン博士(はくし)”の『バスカービル家の犬』(The Hound of the Baskervilles) を思い起こす方もいるかもしれない。また、『ぶな屋敷』(The Adventure of the Copper Beeches) でもおわかりになるとおもう。人を恐怖におとしめて近づけないように する、とかいった悪意やよからぬ目的のために、従わせやすく、使いやすい犬、特に獰猛な類 の、しばしば大型の、犬がよく利用される。先に書いたように、支配欲の強い自己中心的な者 にその傾向が強いようだ。
朝、大き目のハスキー犬だかなんだかの犬を連れて海岸を歩く50代か60代の男性は、こ のあいだ、避けながら逃げるように歩く私に近づき、『この犬はヒトに噛みついたりすること はないですよ』と少し笑いながら言ったが、これもとんでもない考え違いである。もし飼い主 に忠実ならばなおさら恐しいのである。その飼い主の意のままに、あるいは思いに従おうとし て他者にかかってくることがあるのである。
そう、恐しいのは、人間のそういった心である。悪意や醜さをそのまま犬は映し出すのだろう。 もし、犬が人間の友達ならば、周りの人間もまた友達である、という気持ちを心に持っていな ければ犬を飼う資格も権利もない、と信じる。
看板はいらない 2000.1.27 + 2.1 ある店に出かけて戻る途中、折からの冷え込みでまた (数日前の数センチの降雪は消えて 晴れてきた次の日) 雪が降ってきたので傘をさして歩いていた。歩行者用の道路の標示に 忠実に従い内側を歩いていたのだが、郷市のJR駅前の交差点の信号近くで私の頭は突然 何かにぶつかり、一瞬、目の前は白から闇に変わった。そのまま半分からだが折れた形で 背面から倒れてしまった。幸い、数秒で我に返ったが、少し頭がふらつき、立ち上がるの にまた数秒かかったのである。いったい何に衝突したのか。傘を拾いながら立ったまま真っ直ぐに見つめると、なんと、 そのまさに目の前に、大きな看板が突き出ていたのである。前かがみの傘のせいで見えな かったのだ。ここで一句読めた。
看板にあたり失う雪のやみ
「あたり」は当たりと辺りの両義である。「やみ」は闇と止み (雪の) の意である。降って いる雪がその時止んで闇に変わったのである。冬なればこそ。
その看板は白っぽく目に映るが、彩色である。書いてあるのはどこかの会社の名だったはず だが、その立て方がひどい。人の背丈より低いうえに大きく (2平方メートル前後) さらに 頑丈なのである。びくともしない。恐ろしい。道路に突き出している。国道の幅すれすれに 近く、歩行者は当然ながら歩けば当たるのだ。犬はおそらく当たらない。こんな看板をなぜ 立てることができたのか。誰が許可したのか。しかも国道である。除けて歩けば車道を進ま ねばならない。そう、避けたいと思うほど邪魔な看板を誰が見るのか。そこの文字を誰が読 むのか。そんな会社を誰がこころよく思うのか。
およそ看板ほど迷惑で醜いものはない。風景、景観にそぐわない。よくいわれるように、美 観を損ねるうえに、なにより、危険なのである。上記の私のあぶない体験のごとくはいうま でもないが、大風や大雨などで倒れたり、火事の消火活動などでも妨げになる。さらに、う ちすてられたらごみになる。打ち付けられた釘や金具や剥がれかけた先などは危険このうえ ない。怪我のもとである。実際、道路に立って並んでいる様子は汚く醜い。ただでさえ、電 柱が邪魔して先が見にくいのに、覆い被さるようにあちこちから出ている。歩いて当たらな ければよい、というものではない。建造物の看板でさえ醜い、うっとおしいと思われるのに 、さらに畳み掛けるようにこれでもか、これでもか、と立てられ、出され、貼られている看 板。やめてくれ、と叫びたくなる。そんな形で表示された文字や図形にはひきつけられるど ころか、吐き気さえもよおしてしまう。ましてや、看板を目印にしたり、頼りにしたりして その店なり何なりに入っていこうなどということは全く思わない。決して誘われることはな い。
看板は無駄である。設置者の意図は見る人にはありがた迷惑である。伝えようとしているこ とは他で得られるのである。災害時に電柱に加えて、本来、必然性の全くない看板のせいで どれほど多くの人達が傷つくか、迷惑するか、そういったことを設置者や作成者は何も考え ていないのだろうか。私の当たった看板などは論外としても、その汚さ (文字通り外なので よごれる) 、醜さ、危険性、無意味さを認識して即刻すべての看板を撤去してなくすべきで ある。街は生まれ変わるはずである。
軽トラックをみればわかるとおり、白線の内側を 歩く場合 (駅での注意ではないが) もろに看板にぶち当たる。背丈は低いのは一目瞭然。これ にやられた。
白線上でも歩くと当たることが ある。道路に回らざるをえない。
どうしたって道路側にでてあるくことになる。
歩道にも出ていない。その 意味で問題のない設置。
看板を案内板とする、見なすのはかえって余計であり、誤りである。確かに、人気のない場所 での案内板は役に立つ。しかし、これら両者は異なる。後者は必要な事柄をただ知らせるのみ の目的で、実際、通行や作業の邪魔にはならない場所に立てられている。知りたい人はそこま でいってはじめて知りたい(知るべき)情報を得ればよい。一方、前者は、一方的な自己主張で あり、ほかを省みない。それゆえ、わざわざ邪魔になるように (目に無理やりいれようと) 作 られ置かれている。まったくもって困りものである。かえって避けられる、ということにも、 書かれたり描かれたりしていることなどだれも見ようとしないということにも考えが及ばない らしい。余計なものがなく、周囲と調和のとれたところこそ美しいのであり魅力があり、人を惹きつけ るのである。そういったところにこそ、多くの人は出向き、何より、そこにいる人たちとの何 気ないやりとりなどに楽しみや喜びを見出すはずである。求められるのは強要ではなく、互い に認め合える関係であり、直接触れ合える場所や環境である。看板はそれらを損なう。
冬 の 虫 2000.1.21 チッ、チッ、...、ジィリリリッ、ジュリリリッ、と真冬に虫の音(ね)かとおもわず 耳をそばだてた。いつも通る散歩ならぬ歩行(ウォーキング)の道すがら、小山のふもとの 草木の茂みから確かによく聞こえるのである。雨の降らない、意外に晴れ間のある日々に 聞かれる鳴き声である。19日の午後、久々子の寺山 (久音寺の裏山(西の背の山)) に出向いて下る途中、そ の音(ね)に出くわし、佇んで聞き入っていたら、急に嘴を尖らせて水平飛行をしてわずか に、しかしはっきりとその姿を窺がうことのできた鳥がいた。土の茶に近い茶褐色 (薄暗 かったので) でスズメくらいの大きさであった。まっすぐな胴体にして飛びのいたその姿 は眼によく残った。それがマキノセンニュウ (牧野仙入、ヒタキ科、Locustella lanceolata) だとまごうことなく認められた鳥である。
彼らはまさに冬の虫である。なりきっているようである。かなり長い間佇んでじっと 聞き入っていてもまず滅多に現れない。ただその冬の枯草と木々のわずかなぬくもりのよ うな篭りを大切に楽しんでいるかのようなのである。夏の夜や秋の夜長の、いわゆるバッ タの類 (バッタ目/直翅目--どの「鳴く」虫かはすぐにわかると思う) の擦り音とよく似た ジィリリリッ、チィリリリッ、は特徴的である。きっと、冬にこそ彼らの存在の証明がな され、知らしめているのだ。その居場所の心地良さを主張しているのであろう。
長くチッ、チッ、を繰り返し篭っている草木豊かな環境はその棲家としての役割を与 えている。人の住み活動するすぐ隣りにあるような、それでいて冬鳥たちの多く集う小山 や家囲い、藪囲い、低山、あるいは里山のふもとの一見何の変哲もない茂みも生き物のか けがえのない生活場所である。冬なればこそ静かで妨げられることなくその存在を我々に まで教えてくれる、マキノセンニュウたちの鳴く声は、奪われてはならない命の永続性を その時空間に置いておいてくれる。
残しておきたい、守りつづけたい、なんとしても壊さずに伝え継いでいきたい、小さ なぬくもりのある自然が同じ生物界の一員としての我々人間の営みの間近にあることを見 過ごして軽視したりしてはならない、とあらためて思いをつよくする晴れた冬の昼下がり であった。
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