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渡辺知明
1 「語り」としての話芸 わたしは以前から、表現よみの本質は日本の話芸の中では落語に近いものだと考えてきました。最近、桂米朝『落語と私』(1)を読んで、あらためて、その考えを裏づけてくれる思いがしました。解説によると、この本は中高生向きに書かれた落語入門の本なのだそうですが、一般の落語入門の本としても明快なものだといいます。 表現よみの本質を代弁するような内容が書かれているのは、第一章「話芸としての落語」の「しゃべり方でこんなにちがう」というわずか七ページの節です。 米朝はまずはじめにいろいろな話芸を取りあげて、その語り方を解説しています。 おじいさんやおばあさんの語る「昔ばなし」や「活動写真の弁士」は「対話を入れながらナレーションで筋をはこ」ぶものです。そして、「漫談」は「演者が聞き手へ語り聞かせる話法」、「講談」は「講釈師がお客に物語を聞かせる芸」だといいます。これら四つの話芸には、「聞かせる」という態度が共通しています。それに対して、落語はこれらの話芸とはちがった特徴があるといいます。 そして、米朝は「落語にも(中略)講談の話法をもちいることはむろんあります」とことわってから「落語が他の芸とちがったテクニックをもっている」ことを説明しています。その内容が、まさに表現よみの本質に通じるのです。 表現よみには講談のような要素もありますし、落語のような要素もあります。いわば、話芸のさまざまな要素がほとんど生かされるのが表現よみです。しかし、文学作品の理解を基礎にした表現ですから、なによりもまず読み手自身が文章の内容を理解することをめざします。そして、聞き手に聞かせようとする意識をさけるものです。 落語と表現よみと共通するポイントはいくつかありますが、それらをとりあげて表現よみの理論と実践に役立てる方向を考えてみましょう。 2 「演者」が消える 第一の問題は、落語における「演者」と表現よみの「よみ手」に共通する問題です。米朝は落語の演者について次のように言っています。 「落語もさきにならべた話芸とおなじく、その演者がお客に話しかけているには違いないのですが、とちゅうで演者が消えてしまうのです。」 これが表現よみと落語との共通性を考えるときに、もっとも重要な点です。「演者が消える」というと、一般には聞き手が演者を忘れてしまうほど物語の世界へ引き込まれるというようなことを想像するかもしれません。しかし、米朝はそういう意味ではないといいます。 「うまい、まずいではなく、演者がきえてしまう話法、おしゃべりのしかた自体が演者が出てこなくなっている」 この本を読んでから、わたしは柳家小三治の「大工調べ」をナマの舞台で聞く機会がありました。そして、なるほどたしかに浪曲や民話の語りやひとり芝居などとちがって、演者がうるさくないと感じました。表現よみで言うなら、「演者」が消えるというのは、読み手や作品の文章が消えて作品そのものの内容が聞き手の前に浮き出ることです。 しかし、表現よみでよみ手が気にならなくなるのはたいへんなことです。わたし自身、十数年前に表現よみの提唱者である大久保忠利氏との共同研究をしているころ、よくこんなことを言われました。 「君のよみは作品を表現しているのではなく、いつまでも君が居すわっている。作品が前面に出て、君の姿が消えなきゃいけない」 問題はよみ手が作品の内容と、その表現である文体を理解して、それにしたがった表現でよむということです。読み手のよみやすいような調子をつけて、作品の文章のもつ表現をねじふせてしまってはいけないのです。 3 はいる・なりきる・のりうつる 米朝は人物のやりとりを「会話」ではなく「対話」と書いています。ここにも、落語のセリフを生きた人間同士のやりとりと考える落語の特徴が感じられます。 落語の特徴は、他の話法のなかでも落語に近い講談と比較してみるとよくわかります。講談の話法は地の文と対話で構成されますが、落語の話法はほとんど対話ばかりの構成です。それぞれの人物のコトバの表現のちがいについて、米朝は次のように述べています。引用に出てくる「源七」は、話法の例話に登場する人物のことです。 「講釈師があくまで、講釈師として源七について語り、娘の状態を説明して話をすすめていくのに対して、落語家の場合は、源七のセリフを言うときは源七になりきってしゃべり、そのセリフを言いおわったとたんに娘になって、そのセリフをしゃべります。その設定された状態でのセリフを、感情を、盛り込んで言うのですから、役者がその役の人物を演技しているのとおなじで、ただ絶えず役が変化しているわけです。したがって源七の役からすぐ娘になり、すぐまた、源七にもどりながら話をすすめてゆきますから、演者自身は、消えてしまうということになるわけです。」 この解説は表現よみのスローガンでいう「はいる、なりきる、のりうつる」と重なります。ほかの話芸になくて、落語にだけあるのが、この人物へのなりきりです。しかも、その人物のなりきり方の表現は、講談よりずっと日常的でリアルです。また、演劇での人物のなりきり方ともちがって、あくまで「語り」であるという線をくずしません。 ただし、表現よみでは、文章のすべてにはいりきるというわけではありません。会話や、地の文のなかに埋め込まれた人物のコトバについては入ってよいのですが、ナレーションのように客観的によむべき文章もあります。つまり、文章の部分ごとにはいるところ、はいらないところがあります。それでも、バラバラの表現にならないのは、作品全体のよみ方をまとめるよみ手がいるからです。 さらに、「なりきる」だけではなく、ある部分においてはよみ手が作品全体の思想や作中人物に対して、批評的な意識を持ちながらよむことになります。それがあるから、落語では笑いが生まれ、表現よみでは文体のよみ分けが可能なのです。 4「マクラ」と「地」 落語には、はなし家が登場したときに話す「マクラ」という前おきがあります。客へのあいさつをしたり、近ごろの世間話のようなことを話すものです。また、本題に入ってからも、会話ばかりではなく、会話と会話のあいだに注釈のような説明をはさむことがあります。 米朝は落語のはじめに置かれるマクラと、セリフのあいだにはさまれるナレーションのような部分の演じ方のちがいも述べています。 つまり、「マクラ」は「演者自身がお客にしゃべっているもの」ですが、セリフのあいだにはさまれる「地(じ)」はそうではありません。 「この部分は、やはり、演者個人にもどって、米朝なら米朝というはなし家がお客に語りかけるわけですが、この場合、ものにもよりますが、米朝という人間がしゃべってはいけません。無人格のナレーターとしてやるのが正しいとわたしは思っています。」 表現よみでは、わたしは作品の文章の語りのレベルとして次のような構造を考えています。 作者自身→作者→語り手→人物 この関係を落語と結びつけるなら、「作者自身」は「米朝というはなし家」、「作者」は「演じているときの米朝」で、「語り手」が「無人格のナレーター」ということになります。表現よみでは、「語り手」は「作者自身」や「作者」から一応は区別されたものですが、作品の文体や「語り口」によって、「人格」らしき特徴を持つものです。ですから、米朝のように「無人格のナレーター」といってしまいたくありません。 しかし、「無人格のナレーター」には、もう少し深い意味があるので、米朝の詳しい説明を聞いてみましょう。 「無人格のナレーターというのは、感情をまじえずにできるだけ素読(すよみ)をするという意味ではありません。どんなに無人格といっても、米朝はやはり米朝ですし、そして登場人物がしゃべっているのでない以上、米朝がお客にしゃべっているのにちがいありませんが、マクラの部分とはちがうのでして、もうその話が進展してきている、明治とか江戸とかいう時代の舞台へお客を案内してきている以上、昭和六十年の米朝が、お客に語りかけてはいけないわけです。その雰囲気をなくさないように、いやもっと出すように、その場合においての一番適切なナレーターをはさみこむべきなのです。」 この部分には、いくつか重要なことが述べられています。 第一点は、落語が根本的には、米朝というはなし家によらざるをえないように、表現よみでも「よみ手」が存在します。しかし、よみ手自身の考え方や存在を直接に聞き手にアピールするようなよみ方ではありません。いわゆる「語り」や「読み聞かせ」の分野の人たちは、語る人がジャマになるくらい目の前に存在するものです。 マクラが、はなし家が直接に今の思いを語るのだとしたら、対話の間の「地の文」にはどのような思いをこめて語るのでしょうか。感情をこめない「素読」であってはいけません。感情をこめないといっても、必ず何かしら感情はこもります。「無感情」も感情のうちですから、勝手に好きな感情をこめるのでなければ、感情をこめる手がかりというものがほしくなります。 米朝にとっての手がかりは「舞台」という考え方です。米朝が「明治とか江戸とかいう時代の舞台」とよぶものは、演じている米朝自身から離れて、その時代に入った「ナレーター」というわけです。それは落語の修業によって身につけられるものでしょう。 それに対して、表現よみでの表現の手がかりは、拙著『表現よみとは何か』(2)に書いたとおり、あくまで作品のテキストです。つまり、文学作品――おもに小説ですが、その文章に書かれている表現を理解してよみとることによって、よみの表現が可能になります。 ナマのはなし家が直接に客に話しかけてはいけないといわれると、朗読でも聞き手に直接に話すようなよみがあるのを連想します。朗読でよくあるパターンは、地の文は作品の内容からまったく離れたナレーションなのに、会話ではいきなり舞台でのナマのセリフといったよみ方があります。 「おい、お前は、どこへ行くのだ」 こんなセリフがあると、まるでいま読んでいる当人がナマの声で客席に向かって叫んだり、舞台で役者が演じているように読むのです。しかし、表現よみでは、そもそもセリフも作者の書いた作品の一部だと考えますから、セリフだけが舞台の台本になるわけではありません。会話も、いわば地の文につつまれて表現されるべき作品の一部なのですから、よみ手が語るという作品全体のワク組みからはずれてはいけないのです。 5 朗読のいくつかのパターン わたしは最近、朗読のパターンを次のようにいくつかに分けて考えています。「地の文」と「会話」のよみ方、また「地の文」の内部の構造をどのようによみとって表現するかによって分類できます。これらの多くに共通しているのは「地の文」の軽視です。会話ばかり引き立って聞こえますから、地の文ばかりの作品は、これらの朗読の立場の人には苦手です。
(1)アナウンサー風――地の文も会話もほとんど同一の平坦な調子で読む。
これに対して、表現よみでは、文学作品を会話と地の文というような外見で区分するのではありません。作品全体を「語り手」が語るものであるという考えから、会話も地の文も同列の文章として、語り手のコトバ、登場人物のコトバという区別から分析してよみます。つまり、よみ手は作品における「語り手」の声を代行するものだということになります。作者が作品を書くときに想定した語り手の声の調子をとらえてよむことです。落語ならばそれは、米朝がいう「その時代の雰囲気を背負ったナレーター」であるということになるでしょう。 |