三浦半島の歴史 P2  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P2

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(旧石器時代) ;横浜の歴史(旧石器時代)

(T)旧石器時代(先土器時代) 三浦半島は今から約50万年前に海底から隆起して陸地になりその姿を現しました。 半島では2万5千年ほど前に人類の生活の跡が確認されており、狩猟や採集によって生活していましたが 食料を煮て食べることもなく、弓矢もなく動物を射るには槍を用いていました。

 <三浦半島の形成>
 三浦半島は今から約2500万年前に海底に堆積した葉山層群と呼ばれる地層や周辺海
底に2000万年〜1500万年前に堆積した三浦層群と呼ばれる地層が何度か上下運動を
おこして数十万年前に現在の半島の原形が作られ、海底から隆起して陸地になったの
は今から50万年ほど前のことです。

 <人類の出現>
 地球上に人類(猿人)が発生したのは今から約400万年前のことですが、日本列島に
ヒトが住み始めたのは氷河期(更新世)の20万年位前と考えられており、三浦半島では
2万5千年ほど前迄の人類の生活の跡が確認されています(横須賀市長井地区等)
 日本列島はこの時代は狩猟や採集による生産活動が行なわれましたが、まだ土器や弓
矢の使用がなく先土器時代とも呼ばれています。

 <地球の変動>
 旧石器時代の地球は温暖化・寒冷化を繰り返していましたが、現在に一番近い第四氷
河期の頃は、火山活動が盛んな時期で日本列島でも多くの火山が爆発していました。
 三浦半島の近くでも富士山や箱根山が噴火して、その火山灰が三浦半島に降り積も
り、海水面は現在より100メートル以上も低かったと考えられています。
 
海進と海退
火山灰が大気中に多量に含まれると太陽からの熱 が遮断され、地球の気温が下がり寒冷化すると考え られています。 地球の気温が下がると北極や南極、高山を覆う氷 が溶けず、川から海に流れ出る水が減り海水が減少 して海水面は低下し、陸地が拡大します(海退)。 三浦半島にヒトが住み始めた今から2万5千年前位 は海退が進んでいましたが、その後温暖な気候が訪 れ、6500年ほど前には反対に現在よりも気温が高く 、海水面は上昇していました。 更にその後の海進により三浦半島が現在の地形に なったのは1000年ほど前のことです。

海退(氷河期の海岸線)

海進(BC4000〜5000年頃)
<先土器文化>

 この時代の人々の生活の仕方を先土
器文化といいますが、まだ土器はない
ため食料を煮て食べることはありま
せんでした。
 動物を射るのには槍を用い、石器は
打ち欠いただけで形を整え動植物の
解体を行なっていました。長井打木原
では、これらに使ったナイフ片石器、
小さな石の破片を組み合わせて槍な
どに使う細石器、およびこれらを作る
時に出来る石屑が発見されています。
 発見された遺跡は三浦半島全体で十
数か所ですが、本格的に発掘された
遺跡は少なく未だ分からないことも
多いようです。 


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三浦半島出土の先土器時代の遺物
(横須賀市長井打木原遺跡他)

   略 年  表  


 BC30000


 このころ海面は
現在より100メー
トル以上も低く、
利根川の水は古
東京川に注ぎ、
現在の久里浜沖
から海へ流れて
いました。


 半島で人類が
生活(三崎水矢戸
[小網代]遺跡)



 BC10000
   (縄文時代)





 三浦半島の位置
 
  三浦半島は神
 奈川県の東南部
 にあって、西は
 相模湾、南は相
 模灘ににぞみ、
 東は東京湾や金
 田湾に囲まれて
 房総半島ととも
 に東京湾の喉元
 にあたります。
  最南部は城ヶ
 島の安房崎付近
 (北緯35度8分)、
 北部(北緯38度
 20分)は横浜市
 金沢区に接し、
 北西部は鎌倉市
 と接しています
  この海岸に突
 出した房総半島
 に近い地理的位
 置が古代には相
 の国府から安房
 の国府(館山)に
 渡る要路として
 利用され、日本
 武尊の東征もこ
 の海路を東北に
 いたる近道とし
 て選ばれました