第十五番 大道山 常福寺(廃寺) 〜案内図はこちら

(現在高栄山 宝樹院 真言宗御室派 金沢区大道2-7-1)


    むらびとの たのむちかひは じょうふくじ
               なもだいどうの やまをたづねて 

 常福寺は明治維新の際に廃寺となりましたが 新編武蔵風土記稿には
 
  常福寺
   境内年貢地、同所に在、真言律宗金澤稱名寺末、大道山と號す、
   足利持氏の祈願所にて古は寺分の地一圓に當寺領なりしと云、
   金澤稱名寺に蔵する應永廿九年の文書に、六浦庄の内 常福寺
   云々とあれば古刹なることは論なし、又【北条役帳】に六浦大
   道分とあるは則當寺の領せし所を云なるべし、後年次第に衰棄
   して寺領も皆失い、今は領主より阿彌陀免として鹽六斛づつを
  寄付せるのみなり、本堂三間四方東向き金澤札所第十五番と云、
  本尊彌陀を安す、坐身長三尺許行基作、脇士觀音勢至共に長三
   尺許、開山審覺永和三年八月十五日寂す
           (註 應永廿九年=1422 永和三年=1377)      
 とあり、 常福寺が金沢札所第十五番だったことが分かります。

 京浜急行金沢八景駅から鎌倉・大船行きのバスに乗って「大道」で下
車、数分歩い小高い丘に六浦大道生まれの政治家小泉又二郎氏及び
小泉純也氏(元首相小泉純一郎の父)の墓があることでも知られる宝
樹院があります。
  常福寺はこの宝樹院の南側崖下にありました。常福寺の本尊阿弥陀
三尊像は明治34年に宝樹院阿弥陀堂に移されました。今も阿弥陀堂
の中央に阿弥陀如来坐像、脇仏の勢至菩薩、観音菩薩と三尊像が安
置されています。本尊頭部の空洞から弘安5年(1283)修理の際に審
海上人の修理願文、経文、仏画などが発見され、その願文から常福寺
とその本尊の建立は久安3年(1147)までさかのぼることが判明しまし
た。また札所十五番の観音については住職の

 「常福寺の仏像で三尊像とは別に厨子に納められているもう一体
   の観音像(聖観音)が札所めぐりの観音様かもしれません」

 という話と、札所の観音は一人立ちものであることを考え合わせると
三尊像の脇仏の観音とは別の厨子に納められている観音が札所十五
番の観音と考えられます。
  山門の手前右にある二基の石塔 聖観音坐像(宝樹院蔵) 右の石塔には 観音 将軍持氏公 などと刻まれている

 常福寺は文永8年(1271)に称名寺の末寺となりました。金沢文庫
文書の中に称名寺の修理に充てるため、常福寺の門前に関所を設け通行
料を徴収したといういくつかの記録があります。鎌倉幕府の滅亡で称名
寺は後援者を失い末寺の常福寺も荒廃するばかりとなり、以後その管理
は宝樹院にまかせるようになったようです。
 宝樹院の表参道の入口近くに二基の古い石塔が建っており、その一つに
には次のように刻まれています。

   右側面 大道山常福寺

   正  面 観音 将軍持氏公
          弥陀 行基之作
          勢至 御建立之地

   左側面 享保二十乙卯年九月吉日

   後  面 願主 玄通建立之

 もう一基はかすかに「宝樹院」という刻字がよめます。
 

 
宝樹院
新編武蔵風土記稿には 「開山詳ならず、中興の祖永叫は萬治元年(1658)五月十八日寂」 とあります。 寺伝によれば、古くは三艘の谷戸にあったのですが、その寺が炎上し たため、慶安三年(1650)大道の現在地に移りました。永叫はそ の時の上人と考えられています。今でも三艘には寺畑、寺井戸などの 地名が残っています。(関連サイト・三艘に着いた金沢猫) この宝樹院の本尊は大日如来で、脇仏の不動明王は身代わり不動とも 呼ばれ、開扉すると眼がつぶれるといわれて霊験あらたかな秘仏とし て郷土の信仰を集めていると寺伝は伝えています。

         宝樹院本堂
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