第十六番 東 光 寺 〜案内図はこちら〜
(現在 白山東光禅寺 臨済宗建長寺派 金沢区釜利谷南2−40−8)
とうこうじ みなみのうみも ここにして ひとつはちすの ちかひたのもし 東光寺は建仁年間(1200年頃)の創建で、もと鎌倉薬師ヶ谷(現 在の大塔宮)にあり医王山東光寺といいました。 開基は畠山重忠で、建長寺第六世大興禪師が弘安5年(1282) に開山しました。 鎌倉の旧位置は大塔宮護良親王が幽閉されていた土牢のすぐ前 にあったと言われますが、応仁年間(1467〜69)大塔宮から白山 道に移り白山東光禅寺と改めました。これは現在の位置よりも鎌倉 寄りにありましたが関東大震災で倒壊して現在の地に移転しました。 新編武蔵風土記稿の宿村の条、 東光寺の項には 觀音堂 門を入て左にあり、三間四方の堂にて、觀音は立像長二尺餘 惠心の作と云、金澤札所の内第十六番なり とあり、東光蝉寺が金沢札所第十六番だったことが分かります。 現在の東光禅寺がある旧白山道付近にはこの地を治め東光寺を 開基した畠山重忠や重忠の子六郎重保ゆかりの遺跡や伝承が多 く残っています。 |
畠山重忠の墓所 東光禅寺には重忠の墓、重忠愛用の馬具(鞍、鐙、轡)が寺 宝として残っています。白山道トンネルの釜利谷側には「六郎 ヶ谷」という地名や「六郎橋」跡が残り、六郎ヶ谷にある五輪 塔は六郎重保の墓といわれます。 畠山重忠は二俣川・鶴ヶ峯で北条義時の軍に敗れ、六ッ塚に 一族郎党と共に葬られたと伝えられますが、新編武蔵風土記稿 には “畠山重忠戦死舊蹟 境内西の方なる山なり” と記され、当寺の寺伝には “旧寺内の裏山には重忠公の墓がある” とありますが、今は東光禅寺の石塀を入ったところに移された 五輪塔は重忠が東光寺の開基であることから、ここに家臣が分骨 して埋葬したものか単なる供養塔かは説が分かれるところです。 畠山重忠ゆかりの地と言われているものは「吾妻鑑」などの限 られた記録以外は武将としての言い伝えや伝承に類する話が多く、 史実としては不明のものが多いといわれます。 |