「実利行者立像の讃解読」  き坊のノート 目次




以下に電子化したのは、

  笹谷良造 「天保五年の大臺登山記」

                   「大和志」第2巻第9号(昭和10年1935 9月号)所収


の全文である。

この笹谷良造の論文は、仁井田長群「登大臺山記」の写本(和歌山県立図書館所蔵)を全文活字化して、世に紹介しようと意図したものであった。長群の父・仁井田好古よしふるの『紀伊国續風土記』と「登大臺山記」との関係や、同行した加納諸平の和歌などについて、前文に述べられている。また、後文に笹谷が底本とした写本についての記載がある。

大和志」は大和国史会が奈良で昭和9~19年(1934~44)の10年間にわたって発行した雑誌である。会長・阪本猷の「発刊の辞」がネット上に公開されているが、それによると「いやしくも、大和に関するものは諸家の論説、美術工芸、風俗伝説等各方面に渉つて登載せん事を期してゐる」とのことである。なお、復刻版『大和志』合本全9冊(吉川弘文館1982)が出版されている。

わたしは「登大臺山記」をぜひ読みたいものだと探していたのであるが、「大和志」昭和10年9月号に笹谷良造「天保五年の大臺登山記」が掲載されていて、それに「登大臺山記」が含まれていることを知らなかった。ところが、まことに思いがけないことに、「実利行者」に関する拙文を目になさった田村義彦さん(大台ヶ原・大峰の自然を守る会)が、この貴重な文献の抜刷を送って下さったのである。
このご厚意を独り占めすることにならないよう、わたしは田村さんにご了解をいただいた上で、ネット上にこの文献を公開する準備をただちに始めた(以下これを「大和志」版と呼ぶことにする)。

暫定版のつもりで拙サイトに「大和志」版をアップした頃、これも田村さんからの情報なのだが、奇妙なことに笹谷良造「天保五年の大臺登山記」が「大和志」版とほぼ同時期に日本山岳会誌「山岳」に掲載されているのだという(昭和10年7月31日発行で1月早く出版されている。以下これを「山岳」版と呼ぶ)。
そこにいかなる事情があったのか不明であるが、もし同一原稿が異なる誌上に掲載されているのであれば、当時は活字を拾い直しているはずであるから、笹谷氏の原稿を「対校」することができる資料となるはずである。わたしがもたついている間に田村義彦さんは「山岳」版のコピーを再びご恵贈下さった。(田村義彦さんは、「笹谷良造の「天保五年の大臺登山記」について」(2011年11月23日)で、「二重投稿」とも疑われるこの問題を指摘しておられる。)
日本山岳会 「山岳」(第30年第1号)(昭和10年1935 7月31日発行)
大和国史会 「大和志」(第2巻9号)(昭和10年1935 9月1日発行)
「山岳」版を一読して明らかであったが、同一原稿について活字を別個に拾っており(活字の字体が異なること、1行の字数が異なること、両版でいくつか異同があることなど)、わたしにとってはこれ以上は望めない「対校」資料が出てきたことになる。
なお、笹谷良造は奈良山岳会が昭和8年(1933)に創立される際の中心的な呼びかけ人で、当時旧制郡山中学の教師であった(田村義彦「大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる(1)」)。著書に『神々の世界 古代民俗基礎論』(桜楓社1969)など。

このような経緯があって、以下に示す笹谷良造「天保五年の大臺登山記」は「大和志」版を底本とし、「山岳」版で対校したものである。


凡例
  • 底本(「大和志」版の笹谷論文を指す)は縦書き2段組であるが、電子化するのに横書きとした。その際、1行の字数を底本と一致させ、また、段の区切りごとに空行をひとつ入れた。校訂がし易いようにである。(「大和志」版は1行27字で行末の句読点を省略している。「山岳」版は1行23字で行末の句読点を省略しない。そのために、句読点の異同が生じるが、それは示さなかった。

  • 旧漢字をできるだけ復元しようとした。JIS外の文字を使用する際は Unicode を用いた。字形の相違(例えば「晴」の「月」が「円」など)は厳密に見ていない。
    ■ は不明字であるが、幸いに数文字だった。

  • 撥音の「っ」(小さい“つ”)は底本では区別なく「つ」であるが、読みやすさを考えて「っ」とした。

  • 底本の細字2行分ち書きは[緑色字]にした。同じく底本の細字部分は注記で示した。つまり、いずれも実際に細字にはしなかった。

  • フリカタカナは原写本にあったもの、ふりひらかなは笹谷良造によるものである。

  • 黒字の「マゝ」は笹谷良造、茶色の「ママ」はわたし(校訂者)が付けた。
    ママ」の行外に注がなければ、その部分は「大和志」版と「山岳」版で同一である。行外に“「山岳」版では”と注があれば「大和志」版との異同を示している。わたしの誤入力ではないことを明示するために、やや余分に「ママ」をほどこしている。(わたしの難読個所にも「ママ」を施しています。お判りの方ぜひご教示下さい。

  • 注など、わたし(校訂者)が記入した個所はすべて茶色字で表している。


また附録のつもりで、同行した加納諸平の長歌「登巴岳時作歌」を末尾に加えた。また、なぜ加納諸平が大台山踏査に同道したのか、簡単に述べておいた。


とりあえず「登大臺山記」を読んでみたいという方のために、ふりがなを増やし漢字を減らして、

《できるだけ読みやすくした》   「登大台山記」

を別においたので、利用してください。



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    天保五年の大臺登山記

                         笹谷良造



    江戸期の大臺登山記

 大峰山登山の歴史は、たとへ確たる史上の證左はないにし
ろ、千年の古に遡り得るに反して、僅か數里の距離にある大
臺ヶ原山は、江戸中期に至って二三の地理書にその斷片的な
記述があるに過ぎない。登山記になると、私の知ってゐる限
りに於いては、江戸中期になって始めて世上に現はれる。正
確なる年次は明かではないが、寛政年間に南畫の大家たる紀
州の野呂介石が登山して、「臺嶽渉歷略記」を遺した。これが
大臺登山記の最初ではないかと思ってゐる。次いで同じく紀
州藩の本草學者畔田翠山の大臺ヶ原に關する詳細なる記述と
地圖とを載せた「吉野郡名山圖誌」がある。地理書であって
登山記ではないが、明かに登山によって得た記録であり、且
驚異に値する親切なる筆致である。この著述の完成年次も不

明だが、弘化年間を去る事遠くないと思はれる點があるから
前述の介石の登山記よりも凡そ五十年後と思はれる。第三は
卽ち本稿に於いて紹介しやうママとするもので、紀州の儒學者仁      (山岳版は「しよう」
井田好古の長子たる長群が天保五年秋に登山した紀行であっ
て、「登大臺山記」と題する一書である。江戸末期の幕府採藥
使であった植村政勝も、大和一國を歩き廻ったが、大臺ヶ原
山には登らなかったらしいから、江戸時代の大臺登山記は前
述の三書が現在知られてゐる總てゞある。

   仁井田長群氏

 この登山記は、餘りに長文でない上に、指南器、千里鏡な
どを利用してゐる點で、中々面白いと思ったので、全文を掲
げて紹介する事にしたから、その内容は讀者諸氏の御精讀に
お任かせすることにして、その槪要をも説明する煩をさけよ

う。たゞ讀者諸氏のために二三の記事を録して御參考に供す
る事としたい。
 此の書をいち早く世に紹介せられたのは、河東碧梧桐氏で
あった。已に大正八九年頃、「吉野群山」といふ一文に其の一
節を引用せられたのであるが、どういふ誤解であったか、其
の著書を仁井田好古の著としてある。この點については更に
後に述べる積りであるが、私はこの碧梧桐氏の一文を讀んで
「登大臺山記」なるものが世ににママ存する事を知り、多年その        (山岳版は「に」
一讀を望んでゐたが、昨年末に至って和歌山縣立圖書館にそ
の寫本のある事を知り、漸くその渇を醫するを得た。今こゝ
に掲載したものはその寫本によったのである。長群自筆本の
有無については全く未知であるのはまことに遺憾である。
 父の仁井田好古は微賤の家より身を起し、紀藩随一の儒者
となった立志傳中の人であった。毛詩の研究では支那の學者
をさへ驚かしたと傅へられてゐる。然しその大業は何といっ
ても「紀伊國續風土記」といふ百冊に近い大著述で、數ある
地方誌でも稀に見るものである。著述の完璧は期する事困難
であるが、本書は紀州一國を記述して餘す所なしといってい

ゝもので、繙くものゝ常に想ひ起すのは、その著述の如何に
苦心を要したかの點である。「登大臺山記」も、續風土記編纂
のための一副産物なるを思へば、その眞摯なる態度には敬服
の他はない。
 「大臺ヶ原山」は和歌山とは正反對の、紀州東端に位する。
従って續風土記を編するに當って一應調査する必要があっ
た。卽ち迷信的に魑魅魍魎の住む境として恐れられてゐたた
めに、適當なる記述を見出すことが出來なかったのであらう
天保五年十一ママ月、仁井田父子及び國學者加納諸平の三人は、  (本文は天保五年十月
遙々と實地踏査に赴いた。然し父の好古は、老齢のためであ
ったか、探險の域を脫しなかった大臺登山行には加はらず、
山麓にあって待機し、若くして元気な長群と諸平とが行に當
った。文中家翁、家大人と稱するは卽ち父の好古の事である。

    諸 平 の 歌

 長群と行を共にした加納諸平には、登山記があるかどうか
知らぬが、或はなかったのではないかと思はれる。然しその
時に和歌を作った事は、已に長群の登山記にも一二首見えて
ゐるが、諸平の歌集「柿園詠草」には所々に載せられてゐる

この諸平の歌については、昨年の二月に「ケルン」誌上で京
都大學の新村博士が詳細に紹介せられた。短歌五首、長歌一
首で、博士が山岳文學の雄篇だと云はれてゐるが、まことに
珍らしいものである。たゞこの「柿園詠草」では登山年次が
出てゐないので、いつの登山の折の作であったか不明であっ
たが、私は前述の碧梧桐氏が引用された部分から推して、多分
天保五年だらうといふことを、その年の七月に同じ「ケルン」
に載せておいた。その後長群の登山記の全文を見るを得てそ
の點が確實となった他に、諸平の長歌ではどういふ順路を取
ったか、もう一つ判然としない所があったが、今この登山記
と對照して見て、不明の個所を明かにする事が出來て、何よ
りも愉快に思ってゐる。卽ち長群の登山記は、単に登山記と
して珍らしく且面白いのみならず、諸平の歌の註釋としても
役立つのである。出來るならば諸平の一百九十七句から成る
雄大なる長歌をも併せ載せて對照の便をはかるべきであるが
已に「ケルン」誌上に出たものであり、又「柿園詠草」は何
度も活版になってゐるから、煩を厭うて掲載を見あはせた。
心ある諸氏はついて對照の勞を取られたい。尚「柿園詠草」

には續編があって、それも近々出るといふ事である。この長
群の登山記に引用してある諸平の「臣の木」云々の歌は「柿
園詠草」には見えないが、或は續編にでもあるのであらうか
さうすれば尚他に大臺登山の和歌もあるかも知れない。

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   登大臺山記
                     仁井田長群撰

 大臺山は南方の高嶽にして紀勢和三國の堺にあり、古より
人跡不通の地なり。熊野吉野の山嶽は天下の知る所にして、
其名ある山川は實に千を以て數ふべし。其高大なるは大臺を
冠首とす。實に畿内南海衆嶽の宗なり。熊を取り奇貨を求め
又良材を求めてくれを仕出す者、或は山中に小屋を掛る事あり
て、ママに其一斑を知る而已。一山を通覽して其全形を知る者
絶てなし。家翁(父仁井田好古をさす、筆者註)風土記修撰
の命を蒙り、長群等亦其事に與り、郡邑を周覽し古跡を尋ね
地理を考へ風俗を察視す。今年天保五年熊野を巡視して十月
十四日相賀莊引本浦に至る。此地大臺山を去る事稍近し。莊

の大長[速水七郎平]を呼びて大臺山登嶺の事を陳ぶ。大長愕然とし
て口呿して合はず。答ふる事能はざる事數頃、やヽありて云
ふ、人跡不通の域妖魅厲鬼の巣窟、君等登らせ給はんやと。
滿坐其狀を笑ふ。大長色定りて漸にいふ、大臺山上其廣大は
云ふも更也、四方皆絶壁にして登るに由なし、唯其尾筋一二
纔に攀ぢ躋るべしといへども、其地皆篶竹クロタケ密比する事幾許里
なる事を知らず。山中に入る者露宿する事數日なり。されば
山を出る事能はず。君等これに登らむとし給ふ、暴虎馮河の
戒を犯し給ふにあらずや。群等是を聞ざる如くにして唯嚮導
する者ありやと問ふ。大長已む事を得ずして曰、木津こつ村[便山村小名
の中或は是あらむ。是に於て木津村の中に募る。太右衛門孫
市二人の者募に應ず。二人いふ、某年獵師と某谷にある事一
月、某年某谷にありて榑を仕出したる事數月、山中の全形を
辨へずといへども、其山中にある時過る所の樹木、或は枝を
折り或は樹皮を剥ぎ目標をなし置けり。山に入てこれを求め
ば或は大に迷はざるべしと云。群等是に於て策を決し二人に
命じて嚮導をなさしむ。長群其山の形狀大勢を槪するに、其
山高さ一日半程、重岡複嶺其數を知るべからず。其絶頂平曠

なる所を大臺ママ原といふ。四方皆絶壁にして其平曠なる所大
抵周廻三日程、山麓周廻七日程、是より以内人跡絶たり。四
方絶壁の中山脈相連なるもの四あり、其東の方に走れる峰巒
大抵二十里許、志州鳥羽に至りて海に沈む。勢志二州此山脈
を界とす。大杉谷朝熊あさま等其間にあり、其水を勢州宮川とす。
其南の方に走れる峰巒凡三十里餘、本國新宮に至りて海に沈
む、其間に北山・入鹿いるか尾呂志をろし・大野の諸山委遲として連續
す、其水を上は北山川といひ、下は熊野川といふ。其西之方
に走れる峰巒凡五十里許、本國加藤・大崎に至りて海に沈む
其間に大峰あり吉野あり天川あり高野あり、横峰・生石・藤
白等の諸山皆隷屬す。其水を上にして吉野川とし下にしては
紀川とす。其北の方に走れる峰巒凡五十里許、濃州にして木
曾川に沈む。大和・伊賀・近江と伊勢とを分堺す。其間高見
嶽・國見嶽・三輪山・春日山・鈴鹿山・杣岳・三國嶺等を隷
屬す。此四の山脈より畿内南方千峰万嶺皆枝分して大臺山其
上頭にあり。故に衆嶽の宗といふ。山麓までは松杉檜栢あれ
共半腹より上は松杉檜栢なく、石南樹篶竹のみにして稀に五
葉の松あり。山峰及原は悉武那樅にして他樹なし。鳥獣羽虫

の類も又なし。風烈しきを以て木皆のびず、蟠屈して林泉の
樹の人爲を以て作りなすが如し。絶頂三峰あり、第一を日本
が原と云ふ、日本中を望觀すといふを以て名附く。其南にあ
るを片原臺といふ。其名文字の如樹木なき原なり、其南にあ
るを大禿といふ、亦樹木なき赤峰なり。三峰は大臺原の東堺
にして和州勢州爰に分れて絶壁なり。大禿の處又紀州と堺す
勢州は大杉谷の奥也。紀州は相賀あふか組・木津村の龍辻山に接し
て北なる絶壁は、和州入波シホノハ 姥谷をばたにの山奥にして紀川の源なり。
南の絶壁は悉石壁にして大臺原の水三溪となり、石壁に至り
て三つの瀧となり大和の北山より瀉下す、是を東の瀧中の瀧
西の瀧といふ。其瀧の高さいづれも皆八丁許ありといふ。是
北山川の源なり。西の絶壁は大和北山の高瀬の山奥にしてをば
みねに接す。是大臺の形勢の大槪也。嚮導の者いふ、大臺山四
方絶壁なれば尾筋を傳ふにあらざれば登るべからず、東方に
二の尾筋あり、巽隅の尾筋は大禿に至る、近年山稼の者なく
篶竹密茂にして一歩も進むべからず。艮隅の尾筋は日本原に
至る、險難なりといへども篶竹稍稀にして登り易し。是に於
て大臺の艮隅に嚮導せしむ。十月十五日登嶺す。大長乞て曰

人多き時は食續かず、人少ければ防守乏し、壯男健歩の者に
非れば此選に充がたし、君等自ら選び給へ。是に於て長群及
諸平二人行に當る。群の僕一人鎗を持て従ふ。大長代一人
地士莊司宅左衛門]帳書一人[地士北村莊兵衛]指南器千里鏡を持て督行す。嚮導ニ
人、一人は炮を持、一人は ■ を持、米糧を負ひ釜席を携ふる    (竹冠に斤 斧の意か
もの五人、上下凡十二人、外に數人其日の中飯を負擔す。昧
古本こもと村に至り溪に入る事一里許、夫より峰を越へ谷を渉り
一歩は一歩より高く一峰は一峰より嶮なり。路益〃細く石益
尖る、其俊絶なるに至ては石角を攀ぢ蘿葛を捫りて登る。気
息喘々として續きがたし。或は十餘歩にて一休し、或は五六
歩にして一休す。旣して日停午に至り僅に平處を得て午飯す
飯畢りて負擔するもの數人辭して帰る。大抵大臺山の麓にて
は路傾欹險なれども一線路のたどるべきはありしに、漸山麓
に近くして細道も亦絶して、榛莾壅塞して足を投ずべき所な
し。嚮導の者前に在りて樹を伐り草莾を押開きて登る事半里
許、少しく平處を得たり。是を堂倉といふ、此地は勢州に屬
して大杉谷の迫詰なりといふ。此處山谷一面の積雪にして寒
風堪がたし。因りておもふに、是地大臺の山麓なりとも、今

登り來る路程の遙なると積雪の形狀を見れば、此土の高き事
旣に中の天上ママに至て世外にあるの想をなせり。側に壊れたる    (山岳版は「中天の上」
小屋二宇あり、近き頃榑を仕出したる跡といふ。時に日旣に
西山に落ち谷底稍暗し。嚮導の者此小屋を據として一宿すべ
しと。卽ち斧を振ひて大樹を伐倒し其枝葉を採て小屋の四方
に挾み上を覆ひ、其幹を節斷して薪となし大に燎をなさしめ
又茶を焼き飯を炊ぐ、俄頃にして辧ず、諸平歌一章を賦す。
 深山木の木きりたつと斧とれば空もとゞろに嵐吹く也
燎火を盛にして陽気を助け山瘴陰癘を防ぐ。衆皆火を中にし
て環坐す、時に明月皎然として雪色益凄然たり。驚風山岳に
響き寒威骨を刺す。少時ありて驟雨暴に過ぎ衆壑皆震ふ。旣
ママ雨霽れ月色蒼然たり。衆皆疲困甚といへども意中危懼を     
抱くを以て眠に就く者なし。唯薪を加へて火勢を助くるのみ
俄にして嚮導の者西の方を指して謂て曰、日本原此頂上にあ
り、今旣に夜半なり、茲を去りて攀躋らば暁天には必日本原
に至るべし、朝日の海面に湧く時富士峰を望む、其奇いふべ
からず。長群兵部と覺へず起ちて踴躍して曰、快哉此言、疲
困を忘るべし。乃衆をして大炬數十を作らしむ。明月天にあ

れども樹林陰翳して暗夜の如し。衆皆手毎に炬を秉り相照し
て登る。嚮導の者二人前行して路を披き相呼びて相應ふ。旣
にして隔る事數町、聲相通ぜず、炮を放ちて其在る所を知ら
しむ。衆炮聲を認て其處に向ふ。巖角を攀ぢ蘿蔓を援き、南
に迷ひ北に陥り時に人數を算へて行く。曉天果して日本原の
東邊に至る事を得たり。時に東方已に明けて烟霞騰起して日
輪洋中に湧出たり。志州勢州の地皆眼下にあれども、夫より
東は烟霞蒼茫として富士峰を視るべからず。遺憾甚し。嚮導
の者いふ、大抵雨風三日の後朝日の時東望すれば、參遠尾濃
四州を望み富士峰を海中に觀つべし。東風三日の後夕日の時
西望すれば中国路の海陸を遠望すべし、此連日風なきを以て
望む所纔に近きに留まれりといふ。因りて遠眼鏡を以て是を
望むに、視る所畿内の山河志州勢州熊野のみ。初山に登らん
と議せし時衆皆いふ、古來相傳ふ、大臺山に一足の鬼あり、
是山靈なり、故に山に入る者多く歸る事を得ずと。相顧て皆
色を失。大人ママこれを諭して曰、此皆利を以て登るものヽ云
所也。今大臺山の絶頂に登り其至る所を窮むる者は是公命な
り。山鬼何ぞ害をなす事を得ん。余爾等が爲に一絶を賦して

山鬼を諭さん。山鬼是をママば必恐れて避け隱るべし。自今以    (山岳版は「視」
後山に入る者此詩を懐せば、山鬼の害を免べし。衆是を聞て
喜て色を生じたりき。因りて表木を削りて其詩を録して是を
携へ、日本原の中央に建つ。
 乾坤唯一気 地察又天明 萬古柱ママ内 何容邪物生 天保     (難読
 五年歳次甲午冬十月十六日奉命巡視躋日本原而 書焉 紀
 藩仁井田長群 源一父加納諸平兵部建
諸平樅の木の多きを見て又歌一章を賦す。
 臣の木の立るを見れば人目なき山さへ君に靡也けり
日本原の西を巴嶽といふ。吉野川熊野川宮川の川源なり、世
に傳ふる歌に
 大臺や巴に三の水上は熊野によしの伊勢の宮川
とある、此處をいふなり。又世人多くいふ、巴嶽に巴淵とい
ふありて、いと廣く葎荻など高く茂り藤かづら生じけり、淺
き澤などやうの水に見ゆれどもいと深く、風吹けば其茂生の
露落ちつもり川の水かさをなし、北より吹ば熊野川の水をま
し、西より吹ば伊勢の宮川のながれを添へ、東より吹けば吉
野川の水かさまさるといふ事、あらぬ虚言なり。されども其

諺にて其山の奥深く人跡絶へたる地なる事思やらる。南に轉
じて片原臺に至る。片原臺樹木の無き處、根笹一面に生ひ茂
りて青疊を敷が如し。此に坐して遠望するに、四邊の樹木蟠
屈結磐して是を望むに深山高岳の内にある事を覺えず。人ママ
を以て作りなせる別墅の趣あり。故に此處を義経の屋敷跡と
名づく。側に小池あり、晴雨に拘らず水のある時あり、又無
き時あり。是一奇なりといふ。衆皆疲困して覺えず假寢す。
大禿この南にあり。至る事あたはず。大禿に牛石といふあり
或はオシ石といふ。相傳ふ、昔役行者牛鬼を押たる所なり。其
ふせ殘りを理源大師此牛石に封じ込しといふ。此石に障る者
あれば白日瞑闇になり、咫尺を辨へざるに至るとて獵師など
恐れて近よらず。又大禿の側に白クエといふ山壊崩ママして横八町
長さ一里の直立の絶壁あり。此處蟆子ブト多し、山民これを鹽か
らといふ、其壊の側にカリガネノ窟といふあり、深さ知る者なし。雁
數萬其内に住めりといふ。又其側に大蛇倉だいぢゃぐらといふ千尋の石壁
あり、何れも嶮絶の地にして人跡至りがたしといふ。大臺ヶ
原の其通體三溪に分かるれども、細溪數岐その間を縦横せり
又原の中一面の鬱樹にして數尋の外見る所なし。故に其際限

を知るべからず。嚮導の者其目標せし樹木を尋ぬれども得ず
原の中に屡迷ひて行く處を知らず。囚りて磁石を取りて其方
位を考へ唯西に向ひて往き、左右に奔走して僅に名護屋谷に
出で午飯す。名護屋谷とは昔名護屋の者此谷の山材を買ひ榑
を仕出せる故に稱すといふ。大和谷に越ゆ。大和谷といふは
大和の者昔時此谷にて榑を仕出せる故に稱すといふ。又迷ひ
て往所を失ふ。辛くして高野谷に至る。昔弘法大師高野を開
く前此大臺原を伽藍の地にせんとて地形を見ん爲に登山あり
故に名づくといふ。此説は誤りにて高野谷は小屋谷にて亦材
木を仕出す者の小屋を掛し名なるべし。夫より山葵谷わさびだにに越ゆ
此谷山葵多く産す、故に名とす。山葵を取らしめて家土産と
す。是より北の方大杉谷の境に芍藥谷といふ小谷あり、芍藥
多き故に名づく。薊谷あざみだにといふ小谷あり、薊多き故に名づくと
いふ。亦シホの波の境に温泉あり、味鹹し。百蛇來りて浴すと
いふ。漸進みて大臺原の西北の極に至る、時に日旣に暮に薄
る。嚮導の者曰ママ、是より尾筋の峰を傅ひ姥峰に降るべし、其    (山岳版は「の者の曰」
路程を計るに大抵二里許といふ。左右皆絶壁篶竹稠密にして
高さ丈餘、是を押開きて行く、其艱險堂倉谷を出し時に勝る

べし。二人前行して炮を放ちて其行方ママ知らしむべし。君等
炮聲を認て誤り給ひそといふ。因りて篶竹の内に中にママ入るに
一人進めば竹其跡を封じて前人見えず、後人又見えず。大に
聲を放ち互に相呼應して行き、時々人を數へて炮聲の響く方
に向ふ。嚮導の者といへども時として方角を失ひ、磁石を以
て向ふ所を定て又前行す。月輪高く頂上に懸りて左右前後視
る所なく、時々炮聲の深谷に響くを聞のみ。何れの時か此中
を出て、何れの時か向ふ所に至るべきと思ふに、身の毛よだ
ちて物冷し。夜三更漸姥峰に降り始て一條の路に出る事を得
て、一統に蘇息の想ひをなし互に其恙を賀す。斯日若夜明て
堂倉を發し又大禿に登らば、原の中に二宿するにあらざれば
此に至る事を得ずといふ。是より往く事半里許にママて山堂一     (山岳版は「し」
宇投宿すべきありて、初て人を見る事を得たり。此所南を大
和北山とし、北を大和姥谷とす。兩方ともに人里を去る事各
三里、此峰の東を大臺とし西を大峰とす。此峰登降六里の高
峰なれども東西の高山にくらぶれば猶ママましとす。故にこの        (難読
峰を越ゆるにあらざれば吉野と北山との往來絶べし。相傳ふ
此峰にして夜に入れば姥ママはれて人を喰ふとて、世人恐れて

夜行する者なし。山民相謀りて此お堂を建て往來の者止宿の
所とす。此夜堂中に宿する者數人あり、衆の至るを見て驚き
且怪み、夜中君等如何にして茲に來るといふ。大臺山を踰る
を聞て曰、多賀メデタシ々々と嘆稱して止まず。十七日夙に起て南行
し山を降る事三里許にして初て人里に出る事を得たり。其所
高瀬こせ村といふ。こゝにて午飯す。是より東行し、日暮出ロ    (山岳版の振り仮名は「こぜ」
村に至りて宿す。此地大臺山の正南に在りて三瀧の水合して
茲に出るを以て出口の名あり。實に北山川の上源也。夜山民
大臺の事に熟せる者を集め、嚮導の者と倶に地形及山脈水脈
の經緯を討論し、衆言を參考して其實なる者を折中し、長群
親筆を採りて大臺山の圖を作る。其小名に至りては山に入る
者の一時の標名なれば、人コ トナれば稱も亦異り。今據ありて通
名とすべきものをとりて圖中に載す。宿の主いふ。此數年前
奈良の役人十九人大臺原に登りて地形を考ふる事あり。山中
にある事十餘日、吏山を巡り路に迷ひて大に饑餓に及び辛く
して舊路を尋ね得たり。されば縦地理に熟せる者といへども
山上に三宿するにあらざれば容易に山狀を盡すべからず。君
等紀州を立て僅に三日、大臺の原を過ぎて此に至る。如何に

して地理に熟し給ふや。衆皆笑ふ。十八日夙に出口を發す、
俊坂棧道或は度索して通ず。龍辻に至りて午飯す。茲を紀州
東西の界とす。左右悉篶竹なり。龍辻の右を天竺納戸といふ
深山なるをいふなり。又雷峠といふあり。黄昏ママ津村に至る
里人等迎へて無事を賀す。其明日家大人等に長嶋に相會し、
大臺の圖を出し形勢の大綱を指點す。家大人いふ、千巌萬壑
吾目中にあり。因て群等に代りて二絶を賦す。

 大臺雲嶽踞三國 俊聳撑天気勢雄
 誰道川源如巴字 千崖萬壑失東西
 
 日本原頭望大瀛 海天日湧富峰明
 託身知在層雲表 一縮乾坤入眼睛

 按ずるに大臺山今三国の境に在りといへども、紀にあるも
の一分、勢にあるもの二分、和にあるもの七分、然れども大
臺原の大和の地となれるはいと後の世の事にて、和州北山莊
十四箇村の地は舊本国北山鄕にして、大臺原悉紀州の地なり
然らば紀にあるもの七分、勢にあるもの二分、和にあるもの
一分なり。しかし考へたる四の證あり。先地勢により考ふる

に、大臺原より姥峰大峰に至り、其峰筋より北に落る水は吉
野川に落ち、南に落る水は熊野川に落れば、此水流兩國の境
なるべし。是一の證なり。又北山の稱紀州にありては固より
當れり、和州にありては南山といふべし。北山といふべから
ず、是二の證なり。和州北山莊西野村寶泉寺觀音大士龕記に
南帝勅願寺紀州牟婁郡熊野奥北山内泉村興泉寺 永享九年丁
巳二月建之 開山事僧 とあり。是三の證なり。又安永年間
本國北山鄕の村民窮迫して家財を賣し者あり。隣村の者車長
持を買得たり。其長持の底の淺きを訝り底を破りて視るに、
二重底にして其中に古き文書を蔵む。紀和兩國疆界の事を書
せり。其文に據れば、古紀州の地今和州に入るもの多し。因
りて官に訴べく古に復せん事を請ひし事あり。是四の證なり
戦争の世互に相カ奪して古制を失ふもの多かるべし。慶長けん
かう(戦ひの収まるをいふ、筆者註)の後諸國の疆界を定むる
に、悉古制を考らるゝに暇あらず、當時私に定め來りしを用
らるゝも有けんかし。
ここより細字、一字下げ
 因にいふ、前に書せる姥峰といふは、神武天皇の御由緒ある地なり
 日本書紀を考ふるに、神武天皇東征の時熊野より大和に入らせ給ふ

 事を書して、皇師欲2中洲1而山中險絶無2復可行之路1、乃捿
 遑不3其所2跋渉1、時夜夢 天照太神訓2于天皇1曰、朕今遣2
 八咫烏1、宜以爲2卿導者1、果有2頭八咫烏1空翔降、天皇曰此鳥
 之來自叶2祥夢1、我皇祖 天照太神欲3以助2成基業1、乎2是時1
 伴氏之遠祖日臣命ママ2大來ママ12將元戒1、踏山啓行乃尋2烏所1レ
 向仰視而追之遂達2莵田ウタノ下縣1、因號2其所至之處12莵田穿ウカチ
 邑1、とあり。頭八咫烏とは其山川を跋渉する狀を讃せる號にして、
 其人の名を賀茂建角命といふ事は山城風土記姓代錄等に見えたり。
 其導き奉りし道今地形を以て考ふるに、決なく熊野新宮より北山に
 至り姥峰を越えて宇陀の穿邑に至らせ給ひしなり。姥峰は今猶山民
 の外通路なき地なるに、數千歳の古帝者の神祖の御通行ありし其艱
 難實に思ひやらる。
 又因にいふ。賀茂建角命、天皇を導き奉り後葛城の賀茂に留り遂に
 山城の賀茂に留るとあり。よりて役小角の事を考ふるに、崇神天皇
 の時、大國主命の子孫に大田田根子といふ人あり。賀茂氏の祖なり
 役小角は其族なり。或は傳ふ、大田田根子の曾祖母は建角身命の女
 なり。されば小角の禁呪を持し鬼神を役使し、名山大嶽を跋渉して
 熊野より大峰の道を踏開き、葛城に修業せしも皆頭八咫烏の遺法を
 紹述せしならむ。
ここまで細字、一字下げ

 又因にいふ、前に書せる小瀬姥谷等は南朝の遺王王子の御
由緒ある地なり。後龜山天皇の御孫尊義王の御子尊秀王、次
に忠義王といふあり。南方の武士等取立奉り、尊秀王は大河

内に坐し[入鹿莊大河内村]忠義王は河野谷に坐す、[今北山鄕に神山村あり神止村あり]此
の高瀬村に南帝山龍門寺といふ寺あり、此の寺は尊秀王の御
開基のよしにて、御位牌あり。當時開基南帝王一宮自天勝公
正聖佛とありて、王此所に住給ひてママたまふとて寺傳に殘れ
る歌
 のがれ來て身をおく山の柴の戸に月も心をあはせてぞすむ
長祿元年赤松の黨遺王子を弑し奉り、北山吉野等の者と戰闘
せし事、諸書に見えたり。其の遺蹤かれこれのこれり。龍門
寺に王の御遺物也とて、古き香爐花 ■ 燭臺あり。今遺蹤を尋   (瓦+長 瓶の意
ね見れば懐古の情感涙とゞめあへず。

  嘉永二年己酉暮春寫之        平 野 氏
「登大臺山記」、ここで終わり

ここから終わりまで細字、一字下げ
一、讀者の便を思ひ句讀點を施し、變體假名を普通の平假名に改め
 た他、私意を以て一字も訂正はしなかつた。「いずれも」、「覺へ
 ず」等の假名遣ひもそのまゝにしておいた。又送假名法が出來て
 ゐなかったので、江戸時代の文には、「入て」、「絶たリ」などのや
 うに、を送ってない事が多い。少々讀みづらいけれども原
 文のまゝの方がよいと思ったので、これも一切改めてゐない。
一、表紙の題箋には「大臺山登嶽記全」とあり、内題には「登大臺
 山記」とある。題箋は後人がつけたかも知れないと思ったので、

 内題の方を取ることにした。
一、和歌山圖書館本の表紙裏に次の文を墨書した紙がはりつけてあ
 る。
「日本繪入新聞 十八年十一月二十八日 二十八號大和國大臺ヶ原
 の開墾工事は愈々來る三月より着手さるゝに付、天保五年の頃紀
 州藩主の命を奉じて、同藩士マゝ井田長群氏が實地檢分したる其時
 の紀行書を取ママせ、參考として昨今取調べ中なりと。」           (山岳版は「寄」
一、仁井田好古は明和七年(二四三〇)生、嘉永元年(二五〇八)歿、
 年七十九歳。仁井田長群は寛政十一年(二四五九)生、安政六年
 (二五一九)歿、年六十一歳。加納諸平は文化元年(二四六四)生、
 安政四年(二五一七)歿、年五十四歳。卽ち登山の年を勘定して見
 ると多少誤算はあるかも知れぬが、好古は六十五、長群は三十五
 諸平は三十一といふ事になる。二人共に若盛りである。
一、本文中に「大臺ヶ原山の圖」を作ったとある。今和歌山圖書館に
 「臺嶽全圖」と題した見取圖様のものがあって、「大臺山之圖、天
 保八酉年、田邊藩中、勝本瀧左衛門寫之」と圖中に記してある。
 大きさは一寸忘失したが、新聞紙四頁位あったと思ふ。長群の書
 いたものは或はこれではないかと思はれるが、確證は何もないか
 ら斷言出來ない。
一、本文中に平假名で振假名を施したのは筆者のもので、片假名の
 ものは原本に施してあるものである。
一、原本は半紙大、二十枚のもので、大きな字で七八行に書いてあ
 った。行數及び字詰は忘失した。

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       これで、笹谷良造「天保5年の大臺登山記」は終り

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笹谷良造の前文にあった「諸平の一百九十七句から成る雄大なる長歌」は、加納諸平『柿園詠草』(自選歌集、嘉永六年1853成立、1117首のうち長歌は40首弱)の末尾にある長歌「登巴岳時作歌」である。われわれにとっては、この長歌の内容がどのようなものでどの程度「登大臺山記」と重なっているかにまずもって関心がある。多くの図書館が持っている『新編国歌大観』第9巻私家集編Ⅴ歌集(角川書店1991 p672)から引用する。

登巴岳時作歌

1115 大麻おおぬさを 引本出でて 百船の 舟津をすぎ 椿咲く 八峰をさかり
神無月 夕日かげろふ くら谷の 雪かきならし 黒木たて 刈庵造り
柞葉に 槻をりまじへ 越方の 萱に葺きなし 我が寝たる 衣の上に
むらしぐれ 降るかとすれば 朝月夜 さやかにさせば 剣太刀 腰にとりはき
堅ゆひに あゆひかためて しもと原 押しなみゆけば 叟がとる
手火の光は 吹きおろす 嵐にきえて せむすべの たどきもしらず
山蔭に 歎かひをれば ほがらほがら 夜こそあけぬれ
あやしくも まどへる道か 此かたは 行かたならず かの方ぞ 入るべき道と
杖とりて をしふるまにま 向股に 霜はららかし たな臂に
小笹かきわけ はろばろに 登り来にける 高鞆の ともゑが岳は
岳といふ 岳のことごと 峰といふ 峰のことごと 神代より まつろひをれど
春秋の 花もにほはず 小鹿だに 鳥だになかず 苔むしろ
五百重おりしき さぶしけき 峰にはあれども 天地の はじめの時に
皇神の うづの御手より はなりきて なれる山かも 熊野川 岩垣淵も
吉野川 たぎつ河内も わたらひの 清き瀬の音も 此山の 霧の雫ぞ
山ぎりに 袖うちしめり 臣の木の から木がもとの 笹の葉の
さやぐが上を ゆけどゆけど 限もしらず たひらけき 山にしあれば
をりたたん 谷を遠みか むすぶべき 清水をなみか 先だてる
長もおきなも おのもおのも 杖つきつかれ おほほしき さ霧が中に
夕食して 棄てし梅の実 夏山と 生ひいづるまで 春山と 花咲くまでに
年久に 入りはをりとも つばらかに わけはつくさじ 飛騨人の
うつ墨縄の 一すぢに 大倭へいそげ 行く鳥の かげこそ見えね
いかりゐの ふししかるもは 山浅く なれるしるしぞ くれぬとも
いそげや子等と 道もなき 篶の高原 菅笠の をがさに分けて 畝尾越え
いゆきいたりて 雲がくり 大蛇すむとふ 岩倉の 麓の峰の 玉だれの
小葉の高巌の 八束たる すずの篠屋に ほだたきて さ夜をまもらひ
かけ道の まなごのくだり くだりつく こ瀬の里回に 仏さび
たてる古寺 これや此 松のしこねの 引きはへし 河内の宮の
かり宮の 桜の花の 雪の内に 散りにしあとと 梓弓 いまの現に
いひつげる おくつき所 旅なれば はしきる衣の 短衣 ゐやなけれども
膝をりて 我ぞをろがむ 冬なれば 霜おく花の 菊の花 色なけれども
をりとりて 我ぞたむくる 花だにも 千とせまもらへ つらつらに
昔おもへば 久方の 天雲さけて 南吹き 北吹きかはり
岩垣の 熊野の淵は 荒男らが 立ゐさわがし 落ちたぎつ 吉野の滝は
玉よろひ 巌にくだけ 清き瀬の 神宮川は ひぢりこに 神かきにごし
あらびたる 世さへありしを かの岳の をてもこのもに 
生ひををる 臣の木はしるや 笹の葉はしるや

反歌

1116 手束杖三きだにをりてなげうてし巴が岳に霧立ちわたる




加納諸平がなぜ仁井田長群と同道して大台山踏査を行ったのか、以下に簡単に述べた。
加納諸平の通称は小太郎・舂太・臼太・兵部。名は諸平、のち長樹・兄瓶えかめなど色々ある。柿園(しえん、かきその)は号。「登大臺山記」途中の「表木を削りて」詩を書きつけた署名が「源一父加納諸平兵部」となっている。この「源一父」は姓名であろうが、目下不詳である。

父は夏目甕麿みかまろで、本居宣長門下の国学者として名の通った人。もともとは静岡の酒造家の出身。 各地を旅行し、昆陽池で酔余泳いで卒中の発作で急死した。そのとき諸平は十七歳。その後諸平は和歌山の医師加納家に養子となり、医師としての名は京仙だが、彼は医師としては活動しなかったらしい。
諸平は早熟で和歌の才に恵まれていたが、彼を有名にしたのは弱冠二十一歳で全国の歌人の 和歌を集めて『鰒玉集』第一集を撰集したのが大当たりしたこと(「鰒」はあわびの意)。諸平は五十二歳で急死するのだが、それまでに『鰒玉集』は八編十六巻の撰集を終えており、収載された歌数約21万首、歌人千五百人内外にのぼるという。

『紀伊国續風土記』の編纂に諸平が加わるのは天保二年(1831)で、二十六才であるが纂修首席であった。つまり諸平は当代随一の“人気編集者”として藩の風土記編纂事業に招かれたといっていい。
諸平はその期待に背かない努力と活躍をし、熊野の在所調査を3回行っているという。天保五年の大台山踏査はそのうちの一つだったのである。つまり、諸平はけして単なる文人趣味で大台山踏査に参加していたわけではなく、風土記編纂において長群よりも責任の重い立場であったのである。

紀伊藩での諸平への評価は高く、この後『紀伊国名所図絵』後編の制作責任者となっている。また黒船騒動があって紀伊藩でも国学所が創られた際には(安政三年)、総裁となっている。彼の急死はその翌年、安政四年(1857)である。

以上は井上豊太郎『加納諸平の研究』(1949 上下)によった。これは
和歌山 日高地方の郷土史関係資料(清水長一郎文庫)》というサイトに公開してある大著である。諸平四十二~四十三歳にかけての発狂や、五十二歳での急死のことなど「第三編 加納諸平の生活」(上巻 p71~102)に詳しい。

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       笹谷良造「天保5年の大臺登山記」 終り

大江希望   11/15(2011)
最終更新 2/14(2012)

「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原  『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」
「実利行者立像の讃解読」

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