「実利行者立像の讃解読」




以下に電子化したのは、

『紀伊續風土記』の資料収集のために天保五年(1834)に遂行された大台ヶ原横断の記録

仁井田長群 「登大台山記」

の全文である。(底本としたのは、「大和志」(昭和10年1935 9月号)所収の笹谷良造「天保五年の大臺登山記」である。)

ここに電子化した「登大台山記」は原文通りであるが、表記を工夫して《できるだけ読みやすくしたもの》である。
旧漢字をやめ、読みにくい字には振り仮名をほどこし、判りにくい語に注釈をつけた。会話を表すカッコを付け、また、和歌・漢詩などの前後は行を開け、叙述の内容の切れ目にも適宜改行を入れた。年次に西暦表記を加えた。明らかな誤植などは直し、句読点も若干新たに加えた。
さらに、次の漢字はひらがなにした。

而已
そののみこのややわづかこれまたばかり

どもそれおよそことごとくやうやくここなほ

原文の2行割注の細字部分は[緑字]で表した。それ以外の細字部分は適宜注で示した。わたし(校訂者)が書き加えた文字(ふりがな、注など)はすべて茶色で表している。(また数ヵ所「ママ」としたのは、わたしが読めない箇所なので、ぜひご教示ください。)

これとは別に、《できる限り原文に忠実に》 電子化したものを作成した。
   笹谷良造 「天保五年の大臺登山記

                    「大和志」第2巻第9号(昭和10年1935 9月号)所収
雑誌発表のままを読みたいという方はこれを参照していただきたい。
こちらには、「登大臺山記」に関する笹谷良造の解説があり、この笹谷論文が「山岳」、「大和志」の2誌にほぼ同時発表されたという奇妙な事実などについても言及している。また、末尾に附録のつもりで、加納諸平の長歌「登巴岳時作歌」を加えた。


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登大台山記                  仁井田長群撰



 大台山は南方の高嶽にして紀勢和三国の堺にあり、古より人跡不通の地なり。熊野吉野の山嶽は天下の知る所にして、その名ある山川は実に千を以て数ふべし。その高大なるは大台を冠首とす。実に畿内南海衆嶽の宗なり。熊を取り奇貨を求め又良材を求めてくれ板材)を仕出す者或は山中に小屋を掛る事ありて、稀にその一斑を知るのみ。一山を通覧してその全形を知る者絶てなし。

 家翁(仁井田好古よしふる)風土記修撰の命を蒙り、長群等またその事に与り、郡邑を周覧し古跡を尋ね地理を考へ風俗を察視す。今年天保五年(1834)熊野を巡視して十月十四日相賀あふか荘引本浦に至る。この地大台山を去る事やや近し。
 荘の大をさ速水七郎平]を呼びて大台山登嶺の事を陳ぶ。大長愕然とし て口きょして(口を開けて)合はず。答ふる事能はざる事数頃すうかうしばらくの間)、やヽありて云ふ、「人跡不通の域妖魅れい鬼の巣窟、君等登らせ給はんや」と。
 滿坐その状を笑ふ。大長色定りてやうやくにいふ、「大台山上その広大は云ふも更也、四方皆絶壁にして登るに由なし、唯その尾筋一二わづかにのぼるべしといへども、その地皆篶竹クロタケ密比する事幾許いくばく里なる事を知らず。山中に入る者露宿する事数日なり。されば山を出る事能はず。君等これに登らむとし給ふ、暴虎馮河の戒を犯し給ふにあらずや。」
 群等これを聞ざる如くにして唯「嚮導きょうどう先にたって導く)する者ありや」と問ふ。大長已む事を得ずして曰、「木津こつ村[便山びんのやま小名こな]の中或はこれあらむ。」

 これに於て木津村の中に募る。太右衛門孫市二人の者募に応ず。二人いふ、「某年猟師と某谷にある事一月、某年某谷にありて榑を仕出したる事数月、山中の全形を弁へずといへども、その山中にある時過る所の樹木、或は枝を折り或は樹皮を剥ぎ目標をなし置けり。山に入てこれを求めば或は大に迷はざるべし」と云。
 群等これに於て策を決し二人に命じて嚮導をなさしむ。

 長群その山の形状大勢を概するに、その山高さ一日半程、重岡複嶺ぢゅうかうふくれいその数を知るべからず。その絶頂平曠へいかう平らで広々としている)なる所を大台ヶ原といふ。四方皆絶壁にしてその平曠なる所大抵周廻三日程、山麓周廻七日程、これより以内人跡絶たり。
 四方絶壁の中山脈相連なるもの四あり、その東の方に走れる峰巒ほうらん山々峰々)大抵二十里ばかり、志州鳥羽に至りて海に沈む。勢志二州この山脈を界とす。大杉谷朝熊あさま等その間にあり、その水を勢州宮川とす。
 その南の方に走れる峰巒およそ三十里余、本国新宮に至りて海に沈む、その間に北山・入鹿いるか尾呂志をろし・大野の諸山委遅いちとして(ゆるやかに巡りゆく)連続す、その水をかみは北山川といひ、しもは熊野川といふ。
 その西の方に走れる峰巒およそ五十里ばかり、本国加藤・大崎に至りて海に沈む。その間に大峰あり吉野あり天川あり高野あり、横峰・生石おいし・藤白等の諸山皆隷属す。その水を上にして吉野川とし下にしては紀川とす。
 その北の方に走れる峰巒およそ五十里ばかり、濃州にして木曾川に沈む。大和・伊賀・近江と伊勢とを分堺す。その間高見 嶽・国見嶽・三輪山・春日山・鈴鹿山・杣岳・三国嶺等を隷属す。
 この四の山脈より畿内南方千峰万嶺皆枝分して大台山その上頭にあり。故に衆嶽の宗といふ。

 山麓までは松杉桧栢あれども半腹より上は松杉桧栢なく、石南樹しゃくなげ篶竹のみにして稀に五葉の松あり。山峰及原はことごとく武那ぶな樅にして他樹なし。鳥獣羽虫の類も又なし。風烈しきを以て木皆のびず、蟠屈して林泉の樹の人為を以て作りなすが如し。
 絶頂三峰あり、第一を日本が原と云ふ、日本中を望観すといふを以て名附く。その南にあるを片原台といふ。その名文字の如樹木なき原なり、その南にあるを大禿といふ、また樹木なき赤峰(裸の山)なり。三峰は大台原の東堺にして和州勢州ここに分れて絶壁なり。大禿のところ又紀州と堺す。勢州は大杉谷の奥也。
 紀州は相賀あふか組・木津村の龍辻山に接して北なる絶壁は、和州入波シホノハ 姥谷をばたにの山奥にして紀川の源なり。
 南の絶壁はことごとく石壁にして大台原の水三渓となり、石壁に至りて三つの滝となり大和の北山より瀉下す、これを東の滝、中の滝、西の滝といふ。その滝の高さいづれも皆八丁ばかりありといふ。これ北山川の源なり。
 西の絶壁は大和北山の高瀬の山奥にしてをばみねに接す。これ大台の形勢の大概也。

 嚮導の者いふ、「大台山四方絶壁なれば尾筋を伝ふにあらざれば登るべからず、東方に二の尾筋あり、たつみ東南)隅の尾筋は大禿に至る、近年山稼の者なく篶竹密茂にして一歩も進むべからず。うしとら北東)隅の尾筋は日本原に至る、険難なりといへども篶竹やや稀にして登り易し。」
 これに於て大台の艮隅に嚮導せしむ。

 十月十五日登嶺す。
 大長乞て曰「人多き時は食続かず、人少ければ防守乏し、壮男健歩の者に非ればこの選に充がたし、君等自ら選び給へ。」これに於て長群及諸平二人行に当る。群の僕一人鎗を持て従ふ。大長代一人[地士荘司宅左衛門帳書ちやうかき一人[地士北村荘兵衛]指南器千里鏡を持て督行す。嚮導ニ人、一人は炮(鉄砲)を持、一人は 斧 を持、米糧を負ひ釜席(釜鼎ふてい、釜とかなへの意か)を携ふるもの五人、上下およそ十二人、外に数人その日の中飯を負担す。

 昧爽まいさうあけがた古本こもと村に至り渓に入る事一里ばかり、それより峰を越へ谷を渉り一歩は一歩より高く一峰は一峰より嶮なり。路益々細く石益々尖る、その俊絶なるに至ては石角を攀ぢ蘿葛らかつつたかづら)をりて登る。気息喘々として続きがたし。或は十余歩にて一休し、或は五六歩にして一休す。
 既して日停午ていご正午)に至り僅に平処を得て午飯す。飯おはりて負担するもの数人辞して帰る。

 大抵大台山の麓にては路傾険なれども一線路のたどるべきはありしに、やうやく山麓に近くして細道もまた絶して、榛莽壅塞しんばうやうそくして(茂った薮がふさがって)足を投ずべき所なし。嚮導の者前に在りて樹を伐り草莽を押開きて登る事半里ばかり、少しく平処を得たり。これを堂倉といふ、この地は勢州に属して大杉谷の迫詰なりといふ。
 この処山谷一面の積雪にして寒風堪がたし。因りておもふに、この地大台の山麓なりとも、今登り来る路程の遙なると積雪の形状を見れば、この土の高き事既に中天の上に至て世外にあるの想をなせり。

 側に壊れたる小屋二宇あり、近き頃榑を仕出したる跡といふ。時に日既に西山に落ち谷底やや暗し。嚮導の者「この小屋をよりどころとして一宿すべし」と。即ち斧を振ひて大樹を伐倒しその枝葉を採て小屋の四方に挾み上を覆ひ、その幹を節断して薪となし大にかがりをなさしめ又茶を焼き飯を炊ぐ、俄頃がかうにしてわきまへず、諸平歌一章を賦す。

   深山木の木きりたつと斧とれば空もとゞろに嵐吹く也

燎火を盛にして陽気を助け山瘴陰れいを防ぐ。衆皆火を中にして環坐す、時に明月皎然として雪色ますます凄然たり。驚風山岳に響き寒威骨を刺す。少時ありて驟雨にわかに過ぎ衆がく皆震ふ。既にして雨れ月色蒼然たり。衆皆疲困はなはだしといへども意中危惧を抱くを以て眠に就く者なし。唯薪を加へて火勢を助くるのみ

 俄にして嚮導の者西の方を指して言て曰、「日本原この頂上にあり、今既に夜半なり、ここを去りて攀躋よじのぼらば暁天には必日本原に至るべし、朝日の海面に湧く時富士峰を望む、その奇いふべからず。」長群兵部と覚へず起ちて踴躍して曰、「快哉こころよきかなこの言、疲困を忘るべし。」
 乃衆だいしゅう皆の者)をして大炬数十を作らしむ。明月天にあれども樹林陰翳して暗夜の如し。衆皆手毎に炬をり相照して登る。嚮導の者二人前行して路をひらき相呼びて相応ふ。既にして隔る事数町、声相通ぜず、炮を放ちてその在る所を知らしむ。衆炮声を認てその処に向ふ。巌角を攀ぢ蘿蔓らまんき、南に迷ひ北に陥り時に人数をかぞへて行く。
 暁天果して日本原の東辺に至る事を得たり。時に東方已に明けて烟霞騰起して日輪洋中に湧出たり。志州勢州の地皆眼下にあれども、それより東は烟霞蒼茫として富士峰を視るべからず。遺憾甚し。
 嚮導の者いふ、「大抵雨風三日の後朝日の時東望すれば、参遠尾濃四州を望み富士峰を海中に観つべし。東風三日の後夕日の時西望すれば中国路の海陸を遠望すべし、この連日風なきを以て望む所わづかに近きに留まれり」といふ。因りて遠眼鏡を以てこれを望むに、視る所畿内の山河志州勢州熊野のみ。

 はじめ山に登らんと議せし時衆皆いふ、古来相伝ふ、大台山に一足の鬼あり、これ山霊なり、故に山に入る者多く帰る事を得ずと。相顧て皆色を失。大人(諸平)これを諭して曰、「これ皆利を以て登るものヽ云所也。今大台山の絶頂に登り其至る所を窮むる者はこれ公命なり。山鬼何ぞ害をなす事を得ん。余爾等が為に一絶を賦して山鬼を諭さん。山鬼これを観ば必恐れて避け隠るべし。自今以後山に入る者此詩を懐せば、山鬼の害を免べし。」
 衆これを聞て喜て色を生じたりき。因りて表木へうぼくを削りてその詩を録してこれを携へ、日本原の中央に建つ。

   乾坤唯一気 地察又天明 万古柱ママ内 何容邪物生

                 天保五年歳次甲午冬十月十六日
                 奉命巡視躋日本原而 書焉 
                 紀藩仁井田長群 源一父加納諸平兵部建

諸平樅の木の多きを見て又歌一章を賦す。

   臣の木の立るを見れば人目なき山さへ君に靡也けり

  日本原の西を巴嶽といふ。吉野川熊野川宮川の川源なり、世に伝ふる歌に

   大台や巴に三の水上は熊野によしの伊勢の宮川

とある、この処をいふなり。又世人多くいふ、巴嶽に巴淵といふありて、いと広く葎荻など高く茂り藤かづら生じけり、浅き沢などやうの水に見ゆれどもいと深く、風吹けばその茂生もせいの露落ちつもり川の水かさをなし、北より吹ば熊野川の水をまし、西より吹ば伊勢の宮川のながれを添へ、東より吹けば吉野川の水かさまさるといふ事、あらぬ虚言なり。されどもその諺にてその山の奥深く人跡絶へたる地なる事思やらる。

 南に転じて片原台に至る。片原台樹木の無き処、根笹一面に生ひ茂りて青畳を敷が如し。ここに坐して遠望するに、四辺の樹木蟠屈結磐してこれを望むに深山高岳の内にある事を覚えず。人功を以て作りなせる別しょの趣あり。故にこの処を義経の屋敷跡と名づく。
 側に小池あり、晴雨に拘らず水のある時あり、又無き時あり。これ一奇なりといふ。
 衆皆疲困して覚えず仮寝す。

 大禿この南にあり。至る事あたはず。大禿に牛石といふあり。或はオシ石といふ。相伝ふ、昔役行者牛鬼を押たる所なり。そのふせ残りを理源大師この牛石に封じ込しといふ。この石に障る者あれば白日瞑闇になり、咫尺しせきを弁へざるに至るとて猟師など恐れて近よらず。
 又大禿の側に白クエといふ山壊崩ママして横八町、長さ一里の直立の絶壁あり。この処蟆子ブト多し、山民これを塩からといふ、その壊の側にカリガネノ窟といふあり、深さ知る者なし。雁数万その内に住めりといふ。又その側に大蛇倉だいぢゃぐらといふ千尋の石壁あり、何れも嶮絶の地にして人跡至りがたしといふ。

 大台ヶ原のその通体(全体)三渓に分かるれども、細渓数岐その間を縦横せり。又原の中一面の鬱樹にして数尋の外見る所なし。故にその際限を知るべからず。嚮導の者その目標せし樹木を尋ぬれども得ず。原の中にしばしば迷ひて行く処を知らず。囚りて磁石を取りてその方位を考へ唯西に向ひて往き、左右に奔走して僅に名護屋谷に出で午飯す。名護屋谷とは昔名護屋(名古屋に同じ)の者この谷の山材を買ひ榑を仕出せる故に稱すといふ。
 大和谷に越ゆ。大和谷といふは大和の者昔時この谷にて榑を仕出せる故に稱すといふ。
 又迷ひて往所を失ふ。辛くして高野谷に至る。昔弘法大師高野を開く前この大台原を伽藍の地にせんとて地形を見ん為に登山あり。故に名づくといふ。この説は誤りにて高野谷は小屋谷にてまた材木を仕出す者の小屋を掛し名なるべし。
 それより山葵谷わさびだにに越ゆ。この谷山葵多く産す、故に名とす。山葵を取らしめて家土産とす。これより北の方大杉谷の境に芍薬谷といふ小谷あり、芍薬多き故に名づく。薊谷あざみだにといふ小谷あり、薊多き故に名づくといふ。
 またシホの波の境に温泉あり、味しほからし。百蛇来りて浴すといふ。

 やうやく進みて大台原の西北の極に至る、時に日既に暮にせまる。嚮導の者曰、「これより尾筋の峰を伝ひ姥峰に降るべし、その路程を計るに大抵二里ばかり」といふ。「左右皆絶壁篶竹稠密にして高さ丈余、これを押開きて行く、その艱険堂倉谷を出し時に勝るべし。二人前行して炮を放ちてその行方知らしむべし。君等炮声を認て誤り給ひそ」といふ。
 因りて篶竹の内に入るに一人進めば竹その跡を封じて前人見えず、後人又見えず。大に声を放ち互に相呼応して行き、時々人を数へて炮声の響く方に向ふ。嚮導の者といへども時として方角を失ひ、磁石を以て向ふ所を定て又前行す。
 月輪高く頂上に懸りて左右前後視る所なく、時々炮声の深谷に響くを聞のみ。何れの時かこの中を出て、何れの時か向ふ所に至るべきと思ふに、身の毛よだちて物冷し。
 夜三更(午前零時頃の2時間)やうやく姥峰に降り、始て一條の路に出る事を得て、一統に蘇息の想ひをなし互にその恙を賀す。「このもし夜明て 堂倉を発し又大禿に登らば、原の中に二宿するにあらざればここに至る事を得ず」といふ。
 これより往く事半里ばかりにして山堂一宇投宿すべきありて、初て人を見る事を得たり。この所南を大和北山とし、北を大和姥谷とす。両方ともに人里を去る事各三里、この峰の東を大台とし西を大峰とす。この峰登降六里の高峰なれども東西の高山にくらぶればなほママましとす。故にこの峰を越ゆるにあらざれば吉野と北山との往来絶べし。

 相伝ふこの峰にして夜に入れば姥現はれて人を喰ふとて、世人恐れて夜行する者なし。山民相謀りてこのお堂を建て往来の者止宿の所とす。この夜堂中に宿する者数人あり、衆の至るを見て驚き且怪み、「夜中君等如何にしてここに来る」といふ。大台山をこゆるを聞て曰、「多賀メデタシ々々」と嘆称して止まず。

 十七日つとに起て南行し山を降る事三里ばかりにして初て人里に出る事を得たり。その所を高瀬こせ村といふ。こゝにて午飯す。これより東行し、日暮出ロ村に至りて宿す。この地大台山の正南に在りて三滝の水合してここに出るを以て出口の名あり。実に北山川の上源也。
 夜山民大台の事に熟せる者を集め、嚮導の者と倶に地形及山脈水脈の経緯を討論し、衆言を参考してその実なる者を折中し、長群親筆を採りて大台山の図を作る。その小名に至りては山に入る者の一時の標名なれば、人コ トナれば称もまた異り。今拠ありて通名とすべきものをとりて図中に載す。
 宿の主いふ。「この数年前奈良の役人十九人大台原に登りて地形を考ふる事あり。山中にある事十余日、吏山を巡り路に迷ひて大に飢餓に及び辛くして旧路を尋ね得たり。さればたとひ地理に熟せる者といへども山上に三宿するにあらざれば容易に山状を尽すべからず。君等紀州を立て僅に三日、大台の原を過ぎてここに至る。如何にして地理に熟し給ふや。」衆皆笑ふ。

 十八日夙に出口を発す、俊坂棧道或は度索して(綱を渡して)通ず。龍辻に至りて午飯す。ここを紀州東西の界とす。左右ことごとく篶竹なり。龍辻の右を天竺納戸といふ、深山なるをいふなり。又雷峠といふあり。黄昏木津村に至る。里人等迎へて無事を賀す。

 その明日家大人等に長嶋に相会し、大台の図を出し形勢の大綱を指点す。家大人いふ、千巌万壑吾目中にあり。因て群等に代りて二絶を賦す。

   大台雲嶽踞三国 俊聳撑天気勢雄
   誰道川源如巴字 千崖万壑失東西
 
   日本原頭望大瀛 海天日湧富峰明
   託身知在層雲表 一縮乾坤入眼睛

 按ずるに大台山今三国の境に在りといへども、紀にあるもの一分、勢にあるもの二分、和にあるもの七分、然れども大台原の大和の地となれるはいと後の世の事にて、和州北山荘十四箇村の地は旧本国北山鄕にして、大台原ことごとく紀州の地なり。然らば紀にあるもの七分、勢にあるもの二分、和にあるもの一分なり。
 しかし考へたる四の証あり。先地勢により考ふるに、大台原より姥峰大峰に至り、その峰筋より北に落る水は吉野川に落ち、南に落る水は熊野川に落れば、この水流両国の境なるべし。これ一の証なり。
 又北山の稱紀州にありては固より当れり、和州にありては南山といふべし。北山といふべからず、これ二の証なり。
 和州北山荘西野村宝泉寺観音大士がん記に「南帝勅願寺紀州牟婁郡熊野奥北山内泉村興泉寺 永享九年(1437)丁巳二月建之 開山事僧」とあり。これ三の証なり。
 又安永年間(1772~81)、本国北山鄕の村民窮迫して家財を売し者あり。隣村の者車長持を買得たり。その長持の底の浅きを訝り底を破りて視るに、二重底にしてその中に古き文書ををさむ。紀和両国境界の事を書せり。その文に拠れば、古紀州の地今和州に入るもの多し。因りて官に訴べく古に復せん事を請ひし事あり。これ四の証なり

 戦争の世互に相カ奪して古制を失ふもの多かるべし。慶長けんかう戦ひの収まること)の後諸国の境界を定むるに、ことごとく古制を考らるゝに暇あらず、当時私に定め来りしを用らるゝも有けんかし。

底本はここより細字、一字下げ
 因にいふ、前に書せる姥峰といふは、神武天皇の御由緒ある地なり。
 日本書紀を考ふるに、神武天皇東征の時熊野より大和に入らせ給ふ事を書して、
 皇師欲2中洲1而山中険絶無2復可行之路1、乃捿遑不3其所2跋渉1、時夜夢 天照太神訓2于天皇1曰、朕今遣2頭八咫烏1、宜以為2卿導者1、果有2頭八咫烏1空翔降、天皇曰此鳥之来自叶2祥夢1、我皇祖 天照太神欲3以助2成基業1、乎2是時1大伴氏之遠祖日臣命ママ2大来ママ12將元戒1、踏山啓行乃尋2烏所1レ向仰視而追之遂達2莵田ウタノ下県1、因号2其所至之処12莵田穿ウカチ1
[参考]、岩波古典体系『日本書紀 上』の該当個所(p196~197)
 皇師みいくさ中洲うちつくにおもぶかむとす。しかるを山の中険絶さがしくして、またくべき路無し。乃ち捿遑しじまひて其のかむ所を知らず。時に夜夢みらく、天照大神あまてらすおほみかみ天皇すめらみことおしへまつりてのたまはく、「あれ頭八咫烏やたのからすつかはす。卿導者くにのみちびきとしたまへ」とのたまふ。果たして頭八咫烏有りて、おほぞらよりくだる。天皇ののたまはく、「この烏の来ること、自づからにき夢に叶へり。わが皇祖みおや天照大神、以て基業あまつひつぎを助けさむとおもほせるか」とのたまふ。の時に、大伴氏の遠祖とほつおや日臣命ひのおみのみこと大来目おおくめひきゐて、元戒おほつはもの督將いくさのきみとして、山をみちをわけ行きて、乃ち烏のむかひのままに、仰ぎ視て追ふ。遂に莵田うた下県しもつこほりとほりいたる。りて其の至りましし所をなづけて、莵田の穿邑うかちのむらといふ。
ここまで、[参考]

とあり。頭八咫烏やたがらすとはその山川を跋渉する状を讃せる号にして、その人の名を賀茂建角命かもたけつののみことといふ事は山城風土記姓代録等に見えたり。その導き奉りし道今地形を以て考ふるに、決なく(疑いなく)熊野新宮より北山に至り姥峰を越えて宇陀の穿邑に至らせ給ひしなり。姥峰は今なほ山民の外通路なき地なるに、数千歳の古、帝者の神祖の御通行ありしその艱難実に思ひやらる。
 又因にいふ。賀茂建角命、天皇を導き奉り後葛城の賀茂に留り遂に山城の賀茂に留るとあり。よりて役小角の事を考ふるに、崇神天皇の時、大国主命の子孫に大田田根子といふ人あり。賀茂氏の祖なり。役小角はその族なり。或は伝ふ、大田田根子の曾祖母は建角身命たけつのみのみことの女なり。されば小角の禁呪を持し鬼神を役使し、名山大嶽を跋渉して熊野より大峰の道を踏開き、葛城に修業せしも皆頭八咫烏の遺法を紹述せしならむ。
底本はここまで細字、一字下げ

 又因にいふ、前に書せる小瀬姥谷等は南朝の遺王王子の御由緒ある地なり。後亀山天皇の御孫尊義王の御子尊秀王、次に忠義王といふあり。南方の武士等取立奉り、尊秀王は大河内に坐し[入鹿荘大河内村]忠義王は河野谷に坐す、[今北山鄕に神山村あり神止村あり]この高瀬村に南帝山龍門寺といふ寺あり、この寺は尊秀王の御開基のよしにて、御位牌あり。当時開基南帝王一宮自天勝公正聖佛とありて、王この所に住給ひて詠たまふとて寺伝に残れる歌

   のがれ来て身をおく山の柴の戸に月も心をあはせてぞすむ

 長祿元年(1457)赤松の党、遺王子をしいし奉り、北山吉野等の者と戦闘せし事、諸書に見えたり。その遺蹤ゐしょうかれこれのこれり。龍門寺に王の御遺物也とて、古き香炉花瓶燭台あり。今遺蹤を尋ね見れば懐古の情感涙とゞめあへず。

  嘉永二年(1849)己酉暮春写之        平 野 氏


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仁井田長群 「登大台山記」   終り



大江希望   11/15(2011)
最終更新:1/22(2012)

「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原  『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」

「実利行者立像の讃解読」