き坊のノート 目次

講農版と山林版の比較  講農版



大臺原紀行

大和山林會報 版



はじめに

「大臺原紀行」は、明治18年(1885)9月5日~22日に、大阪府官吏3名が官命によって行った大台ヶ原踏査についての、正式な「復命書」である(当時奈良県は存在せず、大阪府の管轄下にあった)。
この調査行が「尋常常矩」を外れたものであったので、復命書の文体も「尋常府吏」の用いるものに倣い難いと断っている。実際、実名でそれぞれの失敗談や負傷やを率直あからさまに述べており、読み物としても面白い。「役夫」5名を雇っており、一行は総勢8名であった。

わたしが「大臺原紀行」の異なる2版(「大和山林會報」版、「山嶽」版)のコピーを入手したのは、田村義彦さん(大台ヶ原・大峰の自然を守る会)から頂戴したからである。その時点でわたしは「薄木文書」(奈良県立図書情報館)の「大台ヶ原紀行」しか目にしていなかった。そして、はじめて知った「大臺原紀行」はぜひネット上に公開されるべきだと考えた。田村さんはすぐさま賛成して下さり、わたしは直ちにそのための作業に入った。

以下は、田村さんの粘り強い調査によって判明してきた成果の一部を、受け売りするに過ぎない。
  1. 大阪府(当時)の公文書である「復命書 大臺原紀行」(明治18年10月)には絵図と地図も含まれており、貴重かつ興味深いものである。当然、奈良県庁において保管されていた。

  2. 初めて活字化・公開されたのは「大和講農雑誌」(明治34年9月発行)の「大臺原紀行」と思われる(ただし、絵図と地図は除く)。それが「大和山林會報」(昭和7年1月発行)に転載された。現在前者は入手できないので、以下に示すのは、後者である。

  3. 3番目が大和山岳会の会誌「山嶽」(昭和11年4月発行)に「官廳最初の大台ヶ原調査記」として発表されたものである。これはおそらく、奈良県庁に保存してあった「復命書」から再度活字化を行ったものであろう。というのは、短い紹介文のなかに、次のような貴重な記載があるからである。  
    その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外 に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。
    以下、「大和山林會報」版を示す際に、注としてこの「山嶽」版との異同をも記載する。

  4. 奈良県立図書情報館が所蔵する「薄木家文書」の中に漢字カナ交じり文の「大台ヶ原紀行」が存在する。これは、この「文書」の主・薄木祐蔵が「大臺原紀行」を筆写したものと考えられる。しかし、「大台ヶ原紀行」では下命をうけた3人の氏名は伏せてあり、カットされている部分もある。また、冒頭の「復命書」本文と、末尾の十八~二十二日を省いている。
    わたしが「大台ヶ原紀行」を初めて知ったのはブログ大峰・台高の谷によってであり、ついで、田村義彦さんから戴いたコピー「大台ヶ原紀行」(川端一弘氏による翻刻)によってその全体を知ることができた。それぞれの方々に深く感謝いたします。

  5. なお、田村義彦さんからの最近の情報によると、奈良県に情報公開を求めたところ、昭和11年(1936)には確かに県庁に保存されていたこの「復命書」は「探したがみあたらない」という回答であったという。実に残念なことだ。
◇ - ◇ - ◇ 

「大和山林會報」(昭和7年1月1日発行第49号 p24~32)所載の「大臺原紀行」を底本として電子化し、「山嶽」(昭和11年4月7日発行第9号p92~101)所載の「官廳最初の大台ヶ原調査記」との相違を明示する。
以下、それぞれを「底本」、「山嶽版」とし、両者を合わせて言うときは「両版」と呼ぶ。
凡例
  1. 底本では、改行にともなう行頭1字下げは行われていない(山嶽版では行われている)。底本は1行28字の2段縦組であるが、ここでは横組28字とした。
  2. 底本には空白行はない。読みやすさを考えて、日付毎に空白行を入れ、日付は強調表示した。
  3. 日付のあと、地名、天候、晴雨計・温度計などが記載されているが、その部分は、HTMLでは正確に再現できなかった。おおよその形を真似ているが、2行に渡る大括弧などは略している。
  4. ママのルビの後に欄外に丸括弧で示したのは、同一個所の山嶽版である。この形式では表しにくい両版の相違などは、それぞれ適宜記載した。「後注」もいくつか記した。
  5. 旧漢字をできるだけ再現しようとしたが、これには限界がある。少ない句読点も底本通りにした。また、やや不規則に施されているように感じる濁点も、底本に合わせている。「中の瀧」「中ノ瀧」などの表記不統一も底本の通りにした。底本にあるフリカナは、黒字ルビで表した。
    編者(き坊)が記入したものはすべて茶色で表している。
「山嶽」版には次に示す短文の「まえがき」がついており、重要な情報が含まれているので、ここに掲げておく。
「山嶽」版まえがき 次に掲ぐるは明治十八年大阪府書記木下文三郎他二名が官命を帯びて大台ヶ原に登山し調査せる復命書であって、 官廳公式の文献として恐らく之がその最初のものであらう。その復命書は奈良縣廳に保管せられてをり、大型美濃罫紙十七枚に認められ(内三頁は繪圖貼付)外に地圖二枚と、山を畫ける大きな繪圖面がついてをる。
この復命書は明治三十四年九月發行の大和ママ農雑誌及昭和七年一月發行大和山林會報に掲載されてをる。(因に明治十八年頃は奈良縣がなく大阪府所管であった)
正しくは「大和講農雑誌」)
(なお、慶応四年(1868)に奈良県ができたが、明治9年に堺県、明治14年に大阪府に編入された。奈良県復活は明治20年(1887)から)

【追記 2015年6月】:念願の「大和講農雑誌」版(以下、「講農版」と略す)をアップすることが出来た。講農版は山林版より30年古く、それを読むことで様々な発見があった。「講農版」および「講農版の山林版との比較」に目を通していただきたい。
また、講農版は「大臺原紀行」を最初に活字化したものと考えていたが、「大臺原紀行」が復命書として執筆された直後の明治18年(1885)10~11月に大阪朝日新聞に4回分載されていた(但し全文ではない)ことが、田村義彦さんによって明らかにされた。したがって、上の「はじめに」も訂正を要するが、しばらくこのままにしておく。

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ここから、底本(山林版)開始



大臺原紀行


ママ編は曩に(明治卅四年九月發行)大和講農雑誌に登載せられた
るものを轉戴するものなり


  後注1


文三郎戒三皎命を明府相公下執事に復す皎等命を稟けて以来日
を經る十有五日九月八日に入り其二十二日に出つ其紀行は別紙
に之を載す而して其文体尋常府吏の上つる處の例を用ひさるも
のは蓋し今回の行たる亦尋常常矩に準ひ難きを以てなり執事其
繁を刪り其簡に従かはゞ幸甚頓々首々
   明治十八年十月
天野御用掛皎(印)
小野八等屬戒三(印)
木下書記文三郎(印)
  建野ママ明府相公下執事                                     後注2



    大 臺 原 紀 行

明治十八年秋九月五日大臺原實地査究の命を稟く

六日
同行三名博物塲に會し前途各般の事を話し八ママ出發の期を定む    (月)

七日
府廳に至り器械其他の準備を爲す

八日 五條  和風半晴  大暑
朝六時博物塲に會し軔を南にして發す此の日や苦熱燬くか如し
午後一時三十分竹内峠に達す晴雨計(讀取)三十英寸寒暖計九十
五度以て其暑の甚しきを知るべし、田面穰處々豊稔の兆を示す
米價五圓三、四十錢に降るも宜なる哉
五條郡長をママひ探究の事を告け書記一人を携さうるも亦便宜な    (訪)
るを以て路を迂にして轅を南にして五條に入る郡長上市に在り
逢はす此の夜五條に宿す行程十六里余

九日  柏木 (曇微雨  晴雨計二十九度英寸)
 ママ度七十四度     )          両版とも同じ
 海面上九百三十尺
 (平均三十英寸を以て海面上
  零點とす氣器差は改正せり)
夙とに五條を發し途上市に向ふ郡長を其旅舍に訪ひ行程の事を
話し併せて書記隨行の事を語る郡長事の多務なるを以て辭す乃
ち別を告け逆旅に至て午餐す是に於て車の行き得る處を問ふ曰
く車夫を倍せば吉野郡柏木に達すへし此の間七里とす乃ち車を
命じて馳す道稍く進み菜摘村に至れは山水清絕水石を噛み石水
噴りママ號狂奔更に人間の省に異なり境稍く幽にして神從て爽か    (恐)
なり是より漸く進むて御社峠に躋る路歩を進むるに從て登る車
夫誤て文三の車を覆へす前車旣に覆へる後車以て戒しめさる可
らす相警醒して進み山を降れは則ち大瀧とす車大瀧に入る境遇
頓に更まり枝密にして暑なきが如く山靜にして又塵界を去るに
似たり
吉野郡に入る山に赭禿なし其木を植うる恰も園丁の圃を耕すか
如し之に由て觀るに天下何れの山か樹藝すへからさるの處あら
ん吉野の民皆林に衣食す其樹を愛する亦宜なる哉
路稍く進む處々崩壊の處あり挽く可らす或は車を擔て進む稍く
井戸村に達す是より上遂に車を進むる能はす乃ち車を捨てゝ歩
す此の間常に吉野川を左にし其右岸を穿て行く行てママ上多古村に    (行て)
至るに及ひて日已に暮る左摸右索恰も盲人蛇を捕ふるの狀をな
し遂に柏木村に達す水を隔てゝ尊秀親王の墓あり親王は南朝の
皇子にして神器を護する數年遂に命を此の僻境に隕せしもの村
人爲めに寺を建てゝ其後を祀る此の日行程十二里余


十日 入の波  曇無風  晴雨計二十九度英寸)
 溫度七十八度一   )
 海面上八百八十尺
柏木村を發し入の波に向ふ入の波は大臺山の東麓にして頭初之
より入り北山に出でんと欲するを以て先づ此の地に至り其景況
を叩きしに曰く大臺山は小橡西原(共に北山鄕)に屬し此の地
に屬せず路は近しと雖も頗る險阻にして獵夫と雖も其難きに苦
しむ且此の地の民にして地形を諳するものなし北山に入り西原
小橡の民を携ふるに如かすと乃ち其近傍の地形を探り此の日溫
泉に浴す此の行程二里餘
入之波は吉野川を挾て東西に民家あり溫泉亦東西二所に在りと
雖ども西なるものは埋沒して浴す可らす東なるものは山麓河岸
に在り板を以て槽を造る泉は之を含めば刺戟の性あり且つママ鐵分    (且)
に富めり然れども冷水混入するを以て溫度極て低し若し其混入
を防ぎ其溫度高き處に噴口を設けば必ず八九十度の溫水を得べ
し是れ手を砂中に沒して之を試みるに因て之を知る

十一日  天ヶ瀨  半晴無風  晴雨計二十八英寸二二)
 溫度      八十三度)
 海面千七百八十尺
擔夫二人ママ傭ひ行李を齋して入之波を發す路一里を降り大迫よ    (二人雇ひ)
りして伯母谷に出づれば道路昨日の如しと雖ども熟路を再ひす
るは一行の欲せざる處乃ち險にして近きものを取り伯母谷川を
溯ぼりて進む川を渉る數回稍く灌木鬱々たる山腹に入る道頗る
危險一歩を過れば千仞の谷に陥ゐる惴々として進み廻りて伯母
谷村に出づ此の日ママ熱燬くか如し鼻孔熖を噴きママ汗満身民家に    (災) (鼻)
憩ひ冷泉を喫す醍醐の美も蓋し之に過ぎず
是よりして道路能く開く所謂新道なるものにして上市より熊野
に達すママ一條路なり進て新道峠に至る之を川上、北山兩鄕の境    (る)
とす此の間群猿の樹間に出沒するを見る進んで新茶屋に休ふ亭
主予が一行の行く處を問ふ告たるに實を以てす曰く余が家西原
村字天ヶ瀨にあり主人を岩本彌一郎とす彌一松浦武四郎と相識
る今春三月ママ武四郎彌一等を携へ大臺山に遊ふ公等亦宜しく彌一   後注 3
に就て其行程を計らば蓋し便宜を得る少なからざるべし皎等之
を聞き道へへずママ前程の援助を得たる想あり乃ち主人に辭し又南    (覺へへず)
して天ヶ瀨に入る此行程五里余とすママ                 両版ともここにのみ句点あり
新道峠より北は其溪流東下して吉野川に注き以南は皆西下して
北山川に入る是れ兩鄕の分界する處なり而して其山脈と水行と
に據り案するに北山は純乎熊野の北端にして其の給を南に仰き
其北とは聲息僅に通するのみ故に民の利を説くもの其北を捨て
其南を先きにす是に至り殆んど異境の想あり

十二日  開墾跡 雨  午后   晴雨計二十六英寸)
 六時   溫度     六十度)
 海面上三千七百三十尺
山雲四密雲行南よりす豫め雨あるを知る此の日僅にママ山に入る前    (僅かに)
程極めて艱難加ふるに雨を以てす役夫等皆躊躇して進ます皎等
揚言して曰く安樂國今眼前に在り奚んぞ逡巡するをせん乃ち衆
を勵して發す
是より先き彌一に就き今春實履せし處を問ふ曰く松浦武四郎
(皎曰く松浦武四郎は其名を弘と云ふ和歌山藩士なり明治三年
三月積年北海道の地理物産を講究し其著書本道開拓に稗益ある
を以て十五口俸を賜ひ東京府士族となす事は明治史要三年三月
二十九日の條に詳かりママ)は江戸の人幕府蝦夷を拓くに當りて      (詳かなり)
與りて功あり性登陟を好む又役小角を信す吉野の高山靈地大率
跋渉せさるなし本年ママ月予が家に來りて大臺山探撿の意を告く    旧暦三月三十日
乃ち倶に山に入り道を熊野の古津に取り以て南に去れり武四郎
の山を相るや其牛石に至り(牛石は地名後に詳かなり)其風景
の美地味のママなるを見て此に方丈の室を造らん事を求む予今爲    (肥)
めに斡旋し事相成る皎等是に於て其梗槪を知るを得たり
天ヶ瀨より南東茂林道なき處に入り山腹を穿ちて進み一溪に入
り西に渉る之を岩ヶ根淵とす之より再び山に登り斜めに進み少
しく平坦の地に出つ之を天竺平とす又登る三十町餘伯母ヶ峯の
辻堂に出つ是熊野の舊道なり辻堂に廢墟あり柱桷狼籍たり是に
於て水を呼て午飯を喫し時に密雲四塞雨大に至る乃ち傘を左に
し飯を右にして喫し畢て雨衣を披ふり少しく南すれば大臺ヶ辻
に出つ是より道斷續認む可らす前行者の樹を白するものを認め
て進む行く十二町餘之を極險の處とす之を過くれは稍く平にし
て又爬行險を攀つる如きものなし雨增々劇なり行く二里許經塚
に出つ此の間鹿に邁ふ一回蝮蛇を捕ふる一ママ蛇は搏て之を殺し    両版共通
鹿は之を逸す經塚なるものは土人の傅ふる處に據るに慶長十三
年經を此に埋むと其姓名緣由得て考ふ可らす塚は道の南方に在
り一堆の土墳の如し經塚より以南を大臺山の地とす是より山形
迂餘絕へて峻嶮の狀を見す樹木蓊鬱巨木道に横はり或は匍匐し
て過き或は跳りて踰え行く十八町遂に開墾跡に達す
開墾跡は高野谷にあり北を塞き南に面す其拓く處方三町許谷に
沿ふて曾て家を造家今朽ちて狼籍たり其破板朽木を集めて土人
小屋を造る方九尺四疊半とす中間に火爐を築く故に座する處三
疊に過きす之を皎等一行八人の安樂窩とす沮洳の塲實に安樂國
たり前面に溪流あり水潺溪として流清冽氷の如し溫度を檢する
に華氏五十六度とす皎等一行の此に達するや衣外は雨を以て濕
ひ衣内は汗泉の如し因て衣嚢の物を出し衣と和に溪流に浴し水
中衣を脱して之を洗ふ水冷にして久しく浴す可らす雨斷續遏ま
す此の夜安樂窩中に泊す
屋低くして狭く座するも猶身を局せさる可らず飯するも身を局
し煙を吹くも身を局し到底体を伸ふるの地なし終夜火を燒て暖
を取る

十三日 開墾跡  大雨午后六時  晴雨計二十六英寸一二
 溫度   六十六度二
雨未た遏ます山雲四塞茫乎として望む可らす終日身を局して飮
食す始め一行が齎す處の粮は二人の擔ふ處八人三日の量に過き
す道嶮なるを以て尚多くを貯へんと欲せは役夫を增さゞる可ら
す顧ふに三日の糧以て此の地を通過するに足るべしと至れは則
雨甚しくして何の日に晴るへきを知らず是に於て相議して曰く
城堅くして糧盡く糧に敵に據る能はす空しく飢ゆるを待つは策
の得たるものに非す今にして早く之か計を爲さゞれば天晴れて
糧盡く前途猶遼遠なるを如何ん如かす早きに及ひて糧を取るに
はと則ち役夫二人を以て天ヶ瀨に糧を取らしむママ猶天の晴るゝ知    (しめむ)
る能はす晴雨計微々沈下して止ます戒三乃ち衆に諭して曰く糧
を取る返復二日を費やす假令取る處の糧を以て之を支ふるも猶
兩三日に過きす今や雨甚しくして寸歩も動く能はす座して糧を
盡す豈に之を策の得たるものとせんや如かす粥を啜て以て糧を
餘さんには衆皆諾す之より日々粥を啜る溫度は終始南風なるを
以て甚しき下降なし其最低は六十度にして最高は六十八度一ママなり    (度なり)

十四日  開墾跡 大雨 午後六時  晴雨計二十六英寸〇二
 溫度    六十四度
雨未た遏ます午後糧を取る處の役夫米及鹽魚馬鈴薯等を齎し来
る曰く酒を求むるに近村盡く無しと然れとも幸に始め齎す處の
火酒猶在り以て豪を買ふに足る
昨來無聊只晴を祈る溪流に鯇魚アメノウヲを釣らしむ得す山蛉ヤマカヘルを捕へ欵冬フキを   山嶽版 フキのルビなし
を摘て之を食ふ
之を天ヶ瀨岩本彌一に聞く曰く明治三年西ノ原村大谷善三郎黑
淵村堀十郎及宇智郡五條村小川治郎の三名相謀て此の地を拓き
稻田二畝歩を造る只稻莖繁茂して登らず此の如きもの二年遂に
功なし只馬鈴薯蕎麥大根は尤も能く熟せり麥は舊曆八月末に播
種し翌年六月に至り登熟せり大根馬鈴薯は尤も熟せり
又興正寺も曾て此の地を拓かんと欲し人を派し之を試みたれど
も中途にして廢絕せり「蓋し當時官金を借て此の業を果さんと    山嶽版 「」部分なし 後注4
欲せしも事成らさるを以て其業も共に廢絕に歸せるが如し」若
し此の兩業をして果して忍耐事に當らは今日或は麥穂再々たる
を見るに至らんと惜むへき哉

十五日 鹽辛谷 半晴微雨 正午中ノ谷  晴雨計二五ママ英寸八七)    両版 十なし
  溫度七十ママ度    )    (七十二)
 四、一三〇尺

                 午後六時  晴雨計二十五英寸四七)
 溫度六十三度      )
 四、五三〇尺
朝來雨晴る喜極て狂するか如し戒三乃ち材を白し溪流の南岸に
標を建つ之に一行の姓名を記す今や雨晴三夜のママを此安ママ窩に   (恩) 両版 榮
謝し行李を督して南に發す一行は役夫二人を卒ひて南高野谷を
下り中の瀧に出つ三人は飯を炊き以て大和谷より名古屋谷の上
に待つママ約す河を渉り巌を踰へ行く三十丁余中の瀧に達す怒號    (を)
狂奔其響百雷の如く人語を辨せす見了て中之谷を溯ほり以て相
約する處に出つ役夫未た來らす雨亦至る乃ち溪畔に踞して餐を
傅ふ待つ三時許來らす衆大に惑ふ乃ち一人をして偵羅せしむ逢
はず再ひ二人を行る稍く南方二十町許の處に逢ふ則ち相倶にし
て南に向ふ
始め經塚より中ノ瀧に至る迄は今春松浦武四郎金を投して以て
道を開かしむ故斷續認めて行くへし是より以南は人行久しく絕
し只本年ママ月松浦一行の經過せしのみ故に進むに從て樹枝交錯   旧暦四月初
篠竹繁茂一歩一伐以て進む行く一里許鹽辛谷に泊す
一行の鹽辛谷に達するや役夫皆其擔を卸し忽ちにして四方に離
散し檜皮を剝くものあり柱材を伐るものあり忽ちにして樹に倚
り巌に靠て一間の假屋を造る葺くに檜皮を以てし敷くに檜皮を
以てす皮を剝く者は廻りて火を燒き材を伐るものは了て米をママ    (渴)
す其瞬速實に驚くへし忽にして飯を作り忽にして魚を灸り咄嵯
にして晩飯の準備全く成る皎等卽ち草鞋を脱し濕衣を乾かし火
に靠て座す臥して天を見る星斗欄干樹密にして天小なり飯畢り
脚を火邊に伸へ以て臥す此の夜始めて立て室中に行ふを得たり
恰も矮屋を出てゝ殿堂に入るの想あり亦一奇と云ふへし

十六日 舟津新田 濃霧雨
    午後七時 晴雨計二十五英寸一二)四、八八〇尺最高地
    牛 石   溫度     六十九度 )
夙とに行李を裝ふて牛石に向ふ此の日を以て一行か最極艱難と
す七時牛石に達す此の間十八町二時間の行程とす
大臺山の地形を按するに其南北壹里余東西二里を過く其牛石を
南端とす其北は北山の諸村を控へ西も亦三條の瀑布を爲して北
山領東の川に入る其東は入の波及伊勢大杉谷に接す東端に三水サンズ
の森日の出ママあり之を最高とす臺の頂面は土坡起伏とすとも大    両版共通
都平面にして四條の大谷を爲す其谷皆東より西に走る其北西に
あるものを高野谷とす之に屬するものに山葵谷あり次を大和谷
とす之に屬するものに桂谷あり高野、大和相合して其末西の瀧
となる之に次くものを中ノ谷とす名古屋谷之に屬す其尤も東に
在るものを鹽辛谷とす中ノ瀧は中ノ谷より出て西ママノ瀧は鹽辛谷     両版共通、東の誤か
より發す以上七谷を以て最大とす其他支末の此の七谷に屬する
もの枚挙に遑あらす諸溪皆水あり鞺鞳乎として響を絕たす其牛
石を除くの外身邊周圍の外樹木密茂して見る可らす故に其地形
の歪斜平扁得て知る可らすと雖とも其經過實践せし跡に因て之
を見るに嶮を攀ち岨を降る如きものは蓋しあらざるへし其牛石
は獨り方三四町の平原にして樹木なく只細篠の滿地綠葺地ママたる    (葺々地) 後注5
を見るのみ山上湖池なし只大和谷の上に七池と稱する處あり方
一二間の瀦水あり時に猪來て之に浴す、牛ママには卽ち二所あり    (石)
一を東の鬼の土俵ママとし一を西の鬼の土俵塲とす兩所皆瀦水あ    (場)
り方二三間許深さ脛を沒するに過きす又其地味を按するに大都
肥沃にして水理の便實に言ふ可らす其の水田とすへきの地凡そ
千五六百町歩其の旱田となすへきもの測る可らす曾て奈良縣の
地租改正に當り之を丈量するに到底眼界の達する能はさるのみ
ならす測量に手を着すへきなきを以て假に五百町歩とせりと
 「妄も亦甚しと云ふへし」
山上に生する處のもの山毛欅ブナモミニレホウトガを最とす按
するに千年以上の古木を見さるものは其の木の壽皆七八百年に
して盡き實生のもの代りて生育するに因るなるへし故を以て倒
木狼籍得て進む能はさる處あり滿山偏野樹木緻密の故を以て雨
あらされは霧大都晴日なく又雨なしと雖ども点滴常に絶へす是
を以て地として水あらさるなし水清冽にして地肥ママ豈に之を無     (え)
望の地と稱す可けんや
始め一行の前程を議するや道熊野の古津に出んとす而して中ご
ろ此の議を止めて曰く古津は今春松浦の出る處人旣に之を知る
予等應さに人の未た蹈まさるの地を行くへし前人の跡を蹈襲す
る予黨の欲せさる處なり乃ち針路を東南にし舟津に出るに決す
其牛石に至るや天晴れて風なく正に熊浦を一眸の中に集むと磁
石を出し双鏡を開き以て觀望の備をなす戒三牛石に踞して休ふ
役夫曰く爲る勿れ山靈ママあり輕けれは則ち雲霧重けれは卽ち雷   両版共通、祟か
霆神のママに觸れん頭を振て大に恐る須臾にして雲霧四塞茫々と    (恐)
して見る可らす乃ち諸器を収む衆皆戒三を譴めて措ます地旣に
大臺山を過くるに及ふまて一も風色を説かす説くべきの風色な
きに非すと雖とも數日密樹茂林の間にママ非されは雲霧茫々の内に    (間)
在り恰も簾を隔てゝ花を見るが如き奚そ其花神を描くを得んや
眞とに惜むべきなり然れとも炎熱燬くか如きの地を去て泉冷に
樹綠なるの境に入る爽快に至りては正に人間の煙火を餐はさる
もの人々皆羽化登仙の想あり若し其道を修め其運輸を便にせは
三伏の盛暑居を此地に占むるも亦避暑一快事なるへし
明治六七年の間此の地に道士あり實利ジツカガと云ふ能く秘法を修し山
靈のママを鎭すと乃ちママを此の地に結ひ行法を修す山麓の民相信    両版共通、祟、廬か
して日々燒香するもの數人是に於て大臺ヶ辻及東の川より信徒
の登るもの大都一月に二三十人なりしを以て路經僅に存すと雖
ども今や廢絕十年過くるを以て榛荊再ひ閉ちて又認む可らす然
れとも斷續其形跡を存す此の實利ジツカガなるもの牛石の南東邊に一碑
を建つ面に孔雀明王左に陰陽和合右に諸魔降伏の字あり脊に實
利及丞の花押あり左側に明治七年戊三月と記す後奈良縣官其民
を惑すを疑ひ道士を逐ひ其ママに火す其殘礎今猶存せり民今に至    両版共通、廬か
るまて之を憾みとす
牛石を出て道を南東に取る是より人跡曾て至らさる處其白崩谷シラクエダニ
より二ノ股を過く之を伊勢大杉谷の南端とす此の間篠竹を披き
樹根を緊縮し手足を以て稍く進む其登るや仰けは前行の跗を見
其降るや俯せは前進の頭を蹈む僅に一歩を離るれは篠竹跡を埋
めて前者後者を見る能はす後者前行の跡を蹈むを得す前呼後應
以て進む稍くにして堂倉谷に出つ出れは則ち溪流にして其左右
に渉る幾百回なるを知らす其行くや石の僅に水面に出るものを
拾て進む其石なき處は水を渉る水動もすれは脛を沒す或は深淵
渉る可らさる處は巉巖を攀ちて行く恰も蠏の石を爬行するか如
し戒三身体輕捷能く走り能く跳る皎と文三は然らす文三は石と
共ににママ轉んで其臀を傷し皎は歩を誤て其右膝に傷く戒三獨り全    (共に)
し石を跳るの狀正に羚羊の岩上を行くか如し此の日三名は皆轉
倒せざるなし戒三の如きは誤て水中に滾し半身皆滋る午後三時
殆んと谷口に達す谷口は紀州北牟婁郡に在り其山を小木森コゴモリの官
林とす牛石より此の官林に達するまて開けは則ち岑上行くママし      (べ)
此に至り南西すれママ古津に出て南東すれは則ち舟津に達す若し    (ば)
運輸の便を熊野に取らんと欲すれママ此に二條路あるのみ牛石よ     (ば)
り此の兩村に達する古津は四里舟津は四里に過く役夫曰く公等
足を折る舟津の行必す可らず如かず早きに及んママ此の溪間に居    (で)
を朴せんには皎等可かすして曰く糧を餘す處幾許なし足を憩ふ
て腹を空ふす更に利害の償ふ處なし糧舟津に在り糧を得れは足
亦從て憩はん艱難素より期する處譬へ足を折るも一足猶數里を
行くママし乃ち衆を勵まし鼓行して進む稍くママ小木森の官林を過ママ      (べ) (稍々) (ぐ)
れは僅に路形あり皎の足益ママみ又歩す可らママ道坊主峠に出つ峠    (痛) (ず)
は直立六十町の峻阪にして恰も梯子を竪てゝ之を降るママ如し役     (が)
夫頻に皎を負はママ事を請ふ皎許さママ而して疲足を曳き山を下る     (ん) (ず)
四十町日稍く暮ママ樹下道黑くして危險云ふ可らママ役夫曰く公の     (れ) (ず)
如くすれママ則夜半に達するも山下に出る能はママ公を負ふは則ち     (ば) (ず)
予輩を助くるなり强て皎を脊にして下る是より先き戒三、文三
役夫二人を携へ峻阪を滾下し去る皎の阪を降る比ほひ阪下に叫
ママものありママ岈相應す意らく戒三一行道に待つなりと降れママ則     (ぶ) ( 唂) (ば)
ち文三一人岩上に踞して待つ曰く予ママ臀痛む以て彼等獮猴的に    (が)
追遂する能はず以つて子等の下るを待つは獮猴行く旣に遠し乃
ち相携へて行く此より路形あり然れママも雨益々甚しく日暮るゝ       (ど)
に垂んたり樹下暗黑認む可らず役夫道に檜ママ六尺許のもの一本    (技)
を拾へり碎て松明とす木濕って火を發せず僅に爝火を得たり且
つ吹き且つ行く雨甚しくして火小なり動もすれば滅せんと欲す
旣にして一破屋を認む皎等山に入てより此に至るまで柱と壁と
あるものを見ず是に至り始めて家を見る擔傾き屋根漏る雨益甚
し其漏らざる處を擇で居る先づ木の乾けるものを拾ひ火を焚き
暖を取る更に松明を作り以て暗照の備をなす將さに屋を出んと
す雨幸にして止む此より船津に至る五十町とす行く須臾にして
河を渉て南す誤て道を失し沙磧を行く數町更に松林道なき處を
穿て再び道に出づ河を渉る三回道を往く三十町提燈星の如く人
聲喧噪南よりして来るものあり是れ船津より皎等を迎ふる者な
り始め戒三の峻阪滾下するや途にして文三を捨て走て南す意ら
く二將其ママと膝とに傷つけ一卒亦其膝を傷つく早く人家あるの     (臀)
處に至り援助を求むるに如かずと奔馳して火光ある處を認めて
往く或は炭竃に至り或は守猪者に逢ひ稍くママ嚮導を得て船津新田    (稍々)
に達す乃ち肩輿を求む輿なしフゴを得たり役夫に令して皎等を迎
へしむ恰も皎等の逢ふ處は船津より河を溯ママる二十町の處とす    (ぼ)
皎平地を往く膝甚しく疼を覺へずと雖ども同行の苦心亦水泡に
歸すべからず試みに畚に乗る人は畚に人を盛て擔ふに慣れす皎
は畚に乗て人に擔はるゝに慣れず擔棒に吊下せられ繩縮て頭を
緊紮す一歩一轉旋回して行く其苦や寧ママ疲足を曳くの勝れるに    (ろ)
如かず稍くママにして船津新田に達す時に午後十一時とす始めて家    (稍々)
に入り浴を操る實に再生の趣あり之を此の行最極艱難最終艱難
とす
山中更に恐るべきものなし猛獣蛇蝎を見ず只猪鹿の痕あるのみ
因て經歷する處に就て案するに山に入る須らく役夫十人を携ふ
べし(一行を三四人として)糧十日を貯ふべし山に入るの前豫め
板屋を三四ヶ所に設くべし獵犬獵銃を携へ猪鹿を獵て糧を助く
べし毛布の衣を着くべし書を携ふべし雨あるとき消遣すべきな
し酒を携ふべし酒なければ身体を害すべし行く者は最も强健な
るものを擇むべし尫弱のものは假令山に堪ふるも山を出でゝ必
ず病を得べし皎脳を患ふ故に高きに登り空気の壓力大に減ずる
處に至れば眩暈して其勞餘の兩人に倍せり
始め戒三船津に達するや戸長某北牟婁郡の地圖一張を携へ以て
示して曰く本村より入之波に入る道六里に過ぎず往くもの必ず
一日にして達す其道とすべき處更に其難きを見ず今や之を大瀧
土倉氏に諮る未だ回答を得ずと以て北牟婁人の大和に達するの
道を求むる知るべし故に之を大臺に導びき其歩を轉ぜしむる蓋
し難きに非ざるが如し

十七日 尾鷲 强風半晴
船津を發し船を以て河を下る顧みて昨來降る處を見るに其雲際
に聳ゆるもの皆我行の蹈破する處なり顧ふに昨は巉巖を攀ぢ深
谷に入る何ぞ其の危きや今は船に座し河を下る何ぞ其の泰なる
や易に曰く否極て泰なりと世事往々此に類す相笑て過ぐ船引本
に達す是より海船に駕し尾鷲に至る怒濤船を掠め翻簸掀ママ行く    (揚)
二里尾鷲に達す
尾鷺は北牟婁郡衙の在る處地三重縣に屬す乃ち郡衙に至らんと
欲す皎と文三は衣濕未だ乾かず僅かに浴衣を著く戒三の衣獨り
乾く乃ち戒三をして郡衙に登らしむ郡長福原賢英在らず勸業主
任書記栗原實也に逢ふ以て大臺山南麓の地形等を訊ひ以て後來
參考の資に供す

十八日 長島 烈風半晴
尾鷺を發し再び海船に駕し矢口に至る船をママて歩する十八町白    (捨)
浦に出て再び船に駕し古里に至らんとす此の日烈風昨日より甚
し舟進む能はざるをママ三浦に上り陸路長島に達す             (以て)

十九日 天ヶ瀨  ママ今の三重縣多氣郡) 和風半晴        後注6
萩原村大字天ヶ瀨
長島を發し伊勢渡會郡に入り笠木峠を踰え峠は上下三里にして
其絕頂より冨岳を望むべし紀勢の海を左右にし風色絕佳蓋し近
畿の未だ曾て見ざる處なり此の夜天ヶ瀨に泊す

二十日 舟戸 和風半晴
天ヶ瀨を發し伊勢飯高郡舟戸に泊す

二十一日 松山 和風半晴
舟戸を發し勢和國界高見山を踰へ此より我管内とす此の夜宇陀
郡松山に泊す
熊野より大和を經て大阪に達するの道三條あり一は十津川に入
り五條に出るもの一は木ノ本より北山に入り始め入りし處に出
るもの一は此の回通過するものとす而して此の回出るもの世に
高見越と稱するものを以て最近とす故に皎等一行道を此に取る

二十二日 大阪 和風半晴
始め九日井戸村車を捨てゝより以來此の日松山を發し櫻井に至
るまで熊浦船に駕するの外皆我が兩條腿に倚る皎は獨り畚に乗
る二十町役夫の背に負はるゝ二十町皆能く勤めたりと云ふべしママ    (云べふし)
顧みて昨來經過せし跡を見るに茫乎として異世の趣あり奇と云
ふべし因て其經過せし處を圖して之を上つる圖は獨り大臺の出
入を審にして其餘を略せり北牟婁郡全圖は船津に於て戒三の戸
長某より得たる處なり以て併せ見ば其南麓の地形を知るに足ら
ん乎故に附して上つる此の日下午後五時大阪に達す(圖面省略


ここで、底本(山林版)終り
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後注1:この、青色の部分は、「大和山林會報」編集者による表題「大臺原紀行」と「まえがき」である。この下の黒字部分から本文である。

後注2:「明府」は地方官長のことで、ここでは大阪府知事。「相公」は宰相。合わせて知事閣下ぐらいの表現。建野郷三が大阪府知事であったのは、明治13年5月4日~同22年3月16日。
なお、形式的にはこの「建野明府相公下執事」までが「復命書」の本文で、「大臺原紀行」以下は「別紙」ということになるのだろう。

後注3:松浦武四郎「乙酉紀行」(佐藤貞夫編『松浦武四郎大台紀行集』)には旧暦も並記してあって、「岩本弥一郎宅に到る」と初めて出るのが明治18年(1885)5月14日(旧暦三月三十日)であることが分かる。武四郎が木津へ下山したのが同21日(四月七日)である。

後注4:カギ括弧「」の部分が2個所にある。十四日と十六日である。そのうち、この十四日の方が長いのだが、山嶽版では省かれている。十六日の短い方は省かれていない。
これらは地の文であってもおかしくはないが、前者は「官金を借りて」というような語句、後者は「妄も亦甚しと云ふへし」という行政への批判的言辞とも言えるもので、いずれもやや浮きあがって見える部分であるとは言えよう。なぜカギ括弧が施されたのか、また、山嶽版はなぜ前者を省いたのか、疑問が残る。原本を見て確かめたいところである。

後注5:草地が青々と広がっているのに対して「緑茸々」という表現はあると思うので、茸と葺の誤植の可能性がある。

後注6:十一日に泊した北山郷天ヶ瀨と同名だったので挿入した句だが、「今の三重縣多氣郡萩原村大字天ヶ瀨」というのだから、後に編集者が挿入した可能性もある。「萩原村」は誤字で正しくは「荻原村」であると、田村義彦さんのご指摘を頂きました。
なお、最末尾二十二日の(圖面省略)は編集者の挿入であろう。そう判断して青色にした。


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以上(山林版 終)



最終更新 (6/18 2015)
き坊(大江希望)

【更新記録】
◆(4/25-2012)「大臺原紀行」山林版をアップした。
◆(5/18-2012) M.A.さんから、誤字の指摘を頂き、訂正いたしました。
 「八日」:宣 ⇒ 宜
 「十六日」:崇 ⇒ 祟 、盧 ⇒ 廬
◆(6/18-2015) 講農版のアップに伴い、題辞に「大和山林會報版」を入れ、リンク先などを増やした。
 「後注6」の「萩原村」は誤字で正しくは「荻原村」であると、田村義彦さんから指摘を頂きました。

講農版と山林版の比較  講農版  登大台山記  天保5年の大臺登山記

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