き坊のノート 目次

講農版  講農版を読む  山林版


-大臺原紀行-

講農版と山林版の 比較


はじめに

「大臺原紀行」が書かれたのは明治18年(1885)10月のことで、ほぼ同時に大阪朝日新聞に4回連載で掲載された(全文ではなく、一部を欠く)。大和講農雑誌が2回分載で全文を掲載したのが明治34年(1901)11月、明治35年(1902)3月であった。大和山林會報が「講農版を転載する」とうたって掲載したのが昭和7年(1932)1月であった。その後、山嶽が掲載したのが昭和11年(1936)4月である。つまり、
原本 同時 朝日版 16 講農版 30 山林版  山嶽版
と、幾度もこの興味深く貴重な文献が思い出され、くり返し活字になってきたのである(細字は間隔年数)。

わたしは山林版を入手したときに講農版の入手が困難であることを知り、2012年4月に山林版をネット上に公開した。そのようにした理由の重要なひとつが、山林版の冒頭に
本編は曩に(明治卅四年九月發行)大和講農雑誌に登載せられた るものを轉戴するものなり
と断っていたからである。わたしはこの文言をその通りに信じて、“活字の拾い間違い”程度の差はあっても、講農版と山林版のおおよそは同一であろうと思っていたのである。ところが、このたび講農版を読むことができて、わたしの上のような理解は誤りであったことが判明した。

山林版の言う講農版の発行年月が誤っていたことは明らかである。それだけでなく、講農版と山林版にはかなりの相違があったのである。ここに、その相違がどの程度のものであったかを色分け表示してお見せして、わたしの責任の一端を果たしたいと考えた。


【 注記 】

講農版と山林版の差違を見定めるために、講農版を基準にして、
    両版にあるが、相違している所は 赤字

    講農版にあり山林版にない個所-山林版が見落とした-は 紫字

    講農版になく山林版にある個所-山林版が増補した-は 緑字
で表記した。

赤字に当てはまるもっとも多いのは濁点を打つかどうかであり、講農版は濁点を現在のわれわれと同じ程度に打っているが、山林版の濁点は少ない。さらに、漢字にするか平仮名にするかや、異なる漢字を使用するなどであるが、赤字が多いことは山林版の編集が字句再現については厳密でないことを意味する。

紫字は、漢字の活用語尾の扱いが違えば出てくることで、多くはそのケースである。しかし、山林版が犯した重要な見落とし(あるいは意識的省略)もある。冒頭の「復命書」や「開拓跡地小家の圖面」が挿入してあったことを述べている個所などである。

緑字は活用語尾の扱いの相違は別にして、講農版に存在しない内容を山林版が加えているところである。山林版が講農版以外の資料を参照していたことが疑われる。重要な検討個所がいくつかある。

色分け表示で示しにくい所や、編者(き坊)が強調したいと判断した内容を、適宜「茶色」字で注記している。
なお、講農版そのものの表示の仕方は「「大臺原紀行」- 大和講農雑誌版-」と同一で、青色は講農版編集者が記入した部分、黒色は本文、茶色は編者(き坊)の記入である。




◆+◆-----------------------------◆+◆
ここから、底本(講農版)開始



◎ 大臺原紀行    左の一編は明治十八年十月時の大
阪府御用掛天野皎氏等建野知事の命を稟け大臺原山を視
察探檢したる復命に係る時の状況を詳細に縷述し盡せり
既往十數年前の有様を追懐せらるべく多少參考にもなら
んと思ひ其の許諾を得て茲に載することゝしぬ

  復 命 書

                       文三郎戒三皎命を
明府相公下執事に復す皎等命を稟けて以来日を經る十
有五日九月八日に入り其二十二日に出其紀行は別紙
に之を載す而して其文体尋常府吏の上つる處の例を用
ゐざるものは蓋し今回の行たる亦尋常常矩に準ひ難き
を以てなり執事其繁を刪り其簡に従かはゞ幸甚頓々首

   明治十八年十月
天野御用掛皎(印)
小野八等屬戒三(印)
木下書記文三郎(印)
  建野明府相公下執事
3名の復命者の字下げが山林版は無し。


    大 臺 原 紀 行

明治十八年秋九月五日大臺原實地査究の命を稟く

六日同行三名博物塲に會し前途各般の事を話し八日出發
の期を定む

七日
府廳に至り器械其他の準備を爲す

八日 五条   和風半晴  大暑
朝六時博物塲に會しを南にして發す此の日や苦熱燬く
如し午一時三十分竹内峠に達す晴雨計(讀取)三十英
寒暖計九十五度以て其暑の甚しきを知るべし田面
穰處々豊稔の兆を示す米價五圓三四十錢に降るも宜な
る哉
五條郡長をひ探究の事を告書記一人を携さうるも亦
便宜なるを以て路を迂にして轅を南にし五條に入る郡長
上市に在り逢は此の夜五條に宿す行程十六里

九日 柏木 曇微雨    晴雨計二十九英寸〇七
 度七十四度     )
 海面上九百三十尺
 (平均三十英寸を以て海面上
  零點とす氣差は改正せり)
夙とに五條を發し途上市に向ふ郡長を其旅舍に訪ひ行程
の事を話し併せて書記隨行の事を語る郡長事の多務なる
を以て辭す乃ち別を告け逆旅に至て午す是に於て車の行き得る
處を問ふ曰く車夫を倍せば吉野郡柏木に達すし此間七
里とす乃ち車を命じて馳す道稍く進み菜摘村に至れ
水清絕水石を噛み石水怒號狂奔更に人間のに異
なり境稍く幽にして神從て爽かなり是より漸く進む
社峠に躋る路歩を進むるに從て登る車夫誤て文三の車を
覆へす前車旣に覆へる後車以て戒しめべか相警
醒して進み山を降れ則ち大瀧とす車大瀧に入る境遇頓
に更まり枝密にして暑なきが如く山靜にして又塵界を去
るに似たり
吉野郡に入る山に赭禿なし其木を植る恰も園丁の圃
を耕す如し之に由て是を觀るに天下何れの山か樹藝す
からあらん吉野の民皆林に衣食す其樹を愛する
亦宜なる哉
路稍く進む處々崩壊の處あり挽く可或は車を擔
進む稍く井戸村に達す是より上遂に車を進むる能は
ち車を捨てゝ歩す此の間常に吉野川を左にし其右岸を穿
て行く行て上多古村に至るに及て日已に暮る左摸右索
恰も盲人蛇を捕ふるの狀をし遂に柏木村に達す水を隔
てゝ尊秀親王の墓あり親王は南朝の皇子にして神器を護
する數年遂に命を此の僻に隕せしもの村人爲に寺を建
てゝ其後を祀る此の日行程十二里

「別れを告け」という何でもない語句が補われていることは、
山林版が原文か大阪朝日新聞版を参照している証拠である。


十日  入の波 曇無風  晴雨計廿九英寸一二
 溫度七十八度   )
 海面上八百八十尺
柏木村を發し入波に向ふ入波は大臺山の東麓にし
て頭初之より入り北山に出でんと欲するを以て先づ此の
地に至り其景況を叩きしに曰く大臺山は小橡西原(共に
北山鄕)に屬し此の地に屬せず路は近しと雖も頗る險
阻にして獵夫と雖も其難きに苦しむ且つ此の地の民に
して地形をずるものなし北山に入り西原小橡の民を携
ふるに如かと乃ち其近傍の地形を探り此の日温泉に
浴す此の行程二里
入之波は吉野川を挾東西に民家あり温泉亦東西二
に在りと雖ども西なるものは埋沒して浴すべか東な
るものは山麓河岸に在り板を以て槽を造る泉は之を含め
ば刺戟の性あり且つ鐵分に富めり然れども冷水混入する
を以て溫度極めて低し若し其混入を防ぎ其溫度高き
噴口を設けば必ず八九十度の温水を得べし是れ手を砂中
に沒して之を試みるに因て之を知る

十一日 天ヶ瀬  半晴無風  晴雨計二十八英寸二二)
 温度      八十三度)
 海面千七百八十尺
擔夫二人を傭ひ行李をして入之波を發す路一里を降り
大迫よりして伯母谷に出づれば道路昨日の如しと雖ども
熟路を再ひするは一行の欲せざるところ乃ち險なるも
きものを取り伯母谷川を溯りて進む川を渉る數回稍く灌
木鬱々たる山腹に入る道頗る危險一歩を過れば千仞の谷
に陥ゐる惴々として進み廻りて伯母谷村に出づ此の日炎
熱燬く如し鼻孔熖を噴き臭汗満身民家に憩ひ冷泉を喫
す醍醐の美も蓋し之に過ぎず
是よりして道路能く開く所謂新道なるものにして上市よ
り熊野に達す一條路なり進むで新道峠に至る之を川上
北山両鄕の境とす此の間群猿の樹間に出沒するを見る進
で新茶屋に休ふ亭主予が一行の行く處を問ふ告るに
實を以てす曰く余が家西原村字天ヶ瀨にあり主人を岩本
彌一郎とす彌一松浦武四郎と相識る今春三月武四郎彌一
等を携へ大臺山に遊公等亦宜しく彌一に就て其行程を
計らば蓋し便宜を得る少なからざるべし皎等之を聞き
ず前程の援助を得たる想あり乃ち主人に辭し又南し
て天ヶ瀨に入る此行程五里とす
新道峠より北は其溪流東下して吉野川に注以南は皆西
下して北山川に入る是れ両鄕の分界する處なり而して其
山脈と水行とに據り案るに北山は純乎熊野の北端にし
て其給を南に仰其北とは聲息僅に通るのみ故に民の
利を説く其北を捨て其南を先にす是に至り殆んど異境
の想あり

十二日 開墾跡  雨 午后六時 晴雨計二十六英寸二七
  溫度     六十度)
 海面上三千七百三十尺
山雲四密雲行南よりす豫め雨あるを知る此の日僅に山
に入る前程極めて艱難加ふるに雨を以てす役夫等皆躊躇
して進ま皎等揚言して曰く安樂國今眼前に在り奚んぞ
逡巡するをせん乃ち衆を勵して發す
是より先き彌一に就き今春實履せし處を問ふ曰く松浦武
四郎(皎曰く松浦武四郎は其名を弘と云ふ和歌山藩士な
り明治三年三月積年北海道の地理物産を講究し其著書本
道開拓に稗益あるを以て十五口俸を賜ひ東京府士族とな
事は明治史要三年三月二十九日の條に詳かり)は江
戸の人幕府蝦夷を拓くに當りて與りて功あり性登陟を好
む又役小角を信吉野の高山靈地大率跋渉せるなし本
年三月予が家に來りて大臺山探撿の意を告乃ち倶に山
に入り道を熊野の古津に取り以て南に去れり武四郎の山
を相るや其牛石に至り(牛石は地名後に詳かなり)其風
景の美地味の膄なるを見て此に方丈の室を造らん事を求
む予今爲めに斡旋し事成る皎等是に於て其梗槪を知る
を得たり
天ヶ瀨より南東茂林道なき處に入り山腹を穿ちて進み一
溪に入り西に渉る之を岩ヶ根淵とす之より再び山に登り
斜めに進み少しく平坦の地に出之を天竺平とす又登る
三十餘伯母ヶ峯の辻堂に出熊野の舊道なり辻堂
に廢墟あり柱桷狼籍たり是に於て水を呼午飯を喫し時
に密雲四塞雨大に至る乃ち傘を左にし飯を右にして喫し
喫し畢て雨衣を披ふり少しく南すれば大臺ヶ辻に出
より道斷續認む可ら前行者の樹を白するものを認めて
進む行く十二町餘之を極險の處とす之を過稍く平にし
て又爬行險を攀る如きものなし雨增々劇なり行く二里
許經塚に出間鹿に遇ふ一回蝮蛇を捕ふる一蛇は博
て之を殺し鹿は之を逸す經塚なるものは土人の傅ふる處
に據るに慶長十三年經を此に埋むと其姓名緣由得て考ふ
可ら塚は道の南方に在り一堆の土墳の如し經塚より以
南を大臺山の地とす是より山形迂餘絕へて峻嶮の狀を見
樹木蓊鬱巨木道に横はり或は匍匐して過或は跳りて
行く十八町遂に開墾跡に達す
開墾跡○○○は高野谷にあり北を塞き南に面す其く處方三町
許谷に沿ふて曾て家を造家今𣏓ちて狼籍たり其破板𣏓
木を集めて土人小屋を造る方九尺四疊半とす中間に火爐
を築く故にする處三疊に過ぎず之を皎等一行八人の安
樂窩とす沮洳の塲實に安樂國たり前面に溪流あり水潺湲
として流清冽の如し溫度を檢するに華氏五十六度とす
皎等一行の此に達するや衣外は雨を以て濕ひ衣内は汗泉
の如し因て衣嚢の物を出し衣和に溪流に浴し水中衣を
脱して之を洗ふ水冷にして久しく浴す可ら雨斷續遏ま
此の夜安樂窩中に泊す
屋低くして狭くするも猶身を局せべからず飯する
も身を局し煙を吹くも身を局し到底体を伸るの地なし
終夜火を燒て暖を取る(茲には開墾跡地小家の圖面を挿
入しあるも省畧す)

朝日版では晴雨計の読みの前に「午前六時」とある。
図面挿入の情報を省いたのは山林版の大きな手落ちだ。


十三日 開墾跡 大雨 午后六時  晴雨計二十六英寸一二
 溫度   六十六度二
雨未遏ま山雲四塞茫乎として望む可終日身を
局して飮食す始め一行が齎ところの粮は二人の擔ふ
處八人三日の量に過き道嶮なるを以て尚多くを貯へん
と欲せ役夫を增さゞるべか顧ふに三日の糧以て此
地を通過するに足るべしと至れ則雨甚しくして何
日にきを知らず是に於て相議して曰く城堅くして
糧盡く糧に敵に據る能は空しく飢ゆるを待つは策の得
たるものに非今にして早く之計を爲さゞれば天晴れ
て糧盡く前途猶遼遠なるを如何ん如かす早きに及て糧
を取るにはと則ち役夫二人を以て天ヶ瀨に糧を取らしむ
猶天の晴るゝ知る能は晴雨計微々沈下して止ま戒三
乃ち衆に諭して曰く糧を取る返復二日を費やす假令取る
處の糧を以て之を支ふるも猶両三日に過ぎず今や雨甚し
くして寸歩も動く能はず坐して糧を盡す豈に之を策の得
たるものとせんや如か粥を啜て以て糧を餘さんには衆
皆諾す之より日粥を啜る
溫度は終始南風なるを以て甚しき下降なし其最低は六十
度にして最高は六十八度一なり
朝日版では晴雨計の読みの前に「午前六時」とある。
の個所の改行は山林版になし


十四日 開墾跡  大雨 午後六時  晴雨計二十六英寸〇二
 溫度    六十四度
雨未遏ま糧を取る處の役夫米及鹽魚馬鈴薯等を
齎し来る曰く酒を求むるに近村盡く無しと然れも幸に
始め齎す處の火酒猶在り以て豪を買ふに足る
昨來無聊只晴を祈る溪流に鯇魚あめのうおを釣らしむ得まがへるを捕
欵冬フキを摘て之を食ふ
之を天ヶ瀨岩本彌一に聞く曰く明治三年西原村大谷善三
郎黑淵村堀郎及宇智郡五條村小川治郎の三名相謀
の地を拓き稻田二畝歩を造る只稻莖繁茂して登らず此の
如きもの二年遂に功なし只馬鈴薯蕎麥大根は尤能く熟せ
り麥は舊曆八月末に播種し翌年六月に至り登熟せり大根
馬鈴薯は尤も熟せり
又興正寺も曾て此の地を拓かんと欲し人を派し之を試み
たれども中途にして廢絕せり「蓋し當時官金を借て此の業を果さんと欲せしも
事成らさるを以て其業も共に廢絕に歸せるが如し」
若し此の両業をして果して
忍耐事に當ら今日或は麥穂々たるを見るに至らんと
惜むき哉

朝日版では晴雨計の読みの前に「午前六時」とある。
3日連続して「午前」と「午後」の相違がある。

この長い語句は「」付きで山林版でのみ読むことができる。
山林版編者が原文から増補したとしか考えられない。
大阪朝日新聞版では省略されている。


十五日 鹽辛谷 半晴雨 正午中  晴雨計二十五英寸八七)
  溫度七十
 海面上四千百三十尺

             午後六時 鹽辛谷  晴雨計二十五英寸四七)
 溫度六十三度      )
 海面上四千五百三十尺
朝來雨晴る喜極て狂する如し戒三乃ち材を白し溪流の
南岸に標を建つ之に一行の姓名を記す今や雨晴三夜の
を此窩に謝し行李を督して南に發す一行は役夫二
人をひて南高野谷を下り中の瀧に出三人は飯を炊き
以て大和谷より名古屋谷の上に待つ約す河を渉り巌を
踰へ行く三十丁中の瀧に達す怒號狂奔其響百雷の如く
人語を辨ぜず見了て中谷を溯り以て相約する處に出
役夫未來ら雨亦至る乃ち溪畔に踞して餐を傅ふ
待つ三時許來ら衆大に惑ふ乃ち一人をして偵せし
む逢はず再二人を行る稍南方二十町許の處に逢ふ則
ち相倶にして南に向
始め經塚より中瀧に至る迄は今春松浦武四郎金を投
て以て道を開かしむ故斷續認めて行くし是より以南
は人行久しく絕し只本年三月松浦一行の經過せしのみ故
に進むに從て樹枝交錯篠竹繁茂一歩一伐以て進む行く一
里許鹽辛谷に泊す
一行の鹽辛谷に達するや役夫皆其擔を卸し忽ちにして四
方に離散し檜皮を剝ものあり柱材を伐るものあり忽
して樹に倚り巌に靠て一間の假屋を造る葺くに檜皮を以
てし敷くに檜皮を以てす皮を剝者は廻りて火を燒き材
を伐るものは了て米を淘す其瞬速實に驚くし忽にして
飯を作り忽にして魚を灸り咄嗟にして晩飯の準備全く
成る皎等卽ち草鞋を脱し濕衣を乾かし火に靠てす臥し
て天を見る星斗欄干樹密にして天小なり飯畢り脚を火邊
に伸以て臥す此の夜始めて立て室中を得たり恰
も矮屋を出ゝ殿堂に入るの想あり亦一奇と云ふ

晴雨計の読みの前の時刻、「正午」「午後六時」ともに両版一致。
朝日版は「正午」なし。


十六日 舟津新田 濃霧雨
    午七時 晴雨計二十五英寸一二)四千八百八十尺最高地
    牛 石   溫度     六十九度 )
夙とに行李を裝ふて牛石に向ふ此の日を以て一行最極
艱難とす七時牛石に達此の間十八町二時間の行程とす
大臺山の地形を按るに其南北東西二里を過
牛石を南端とす其北は北山の諸村を控へ西も亦三條の瀑
布を爲して北山領東の川に入る其東は入の波及伊勢大杉
谷に接す東端に三水さんずの森のもり日の出あり之を最高とす臺
の頂面は土坡起伏すれども大都平面にして四條の大谷を
爲す其谷皆東より西に走る其北西にあるものを高野谷と
す之に屬するものに山葵谷あり次を大和谷とす之に屬す
るものに桂谷あり高野大和相合して其末西の瀧となる之
に次ものを中谷とす名古屋谷之に屬す其尤も東に在
るものを鹽辛谷とす中瀧は中谷より出西瀧は鹽
辛谷より發す以上七谷を以て最大とす其他支末の此の七
谷に屬するもの枚擧に遑あら諸溪皆水あり鞺鞳乎とし
て響を絕た其牛石を除くの外身邊周圍の外樹木密茂し
て見る可ら故に其地形の不正斜平扁得て知る可ら
も其經過實踐せし跡に因て之を見るに嶮を攀岨を降
る如きものは葢しあらざるし其牛石は獨り方三四町の
平原にして樹木なく只細篠の滿地綠地たるを見るの
み山上湖池なし只大和谷の上に七池と稱する處あり方一
二間の瀦水あり時に猪來て之に浴す牛石には則ち二所あ
り一を東の鬼の土俵塲とし一を西の鬼の土俵塲とす両所
皆瀦水あり方二三間許深さ脛を沒するに過ぎず又其地味
を按るに大都肥沃にして水の便實に言ふ可ら
田とすきの地凡そ千五六百町歩其旱田となすきもの
測る可ら曾て奈良縣の地租改正に當り之を丈量するに
到底眼界の達する能はるのみなら測量に手を着す
きなきを以て假に五百町歩とせりと「妄も亦甚しと云ふ
し」
山上に生る處のもの山毛欅ブナモミニレホウトガを最とす
るに千年以上の古木を見るものは其木の壽皆七八
百年にして盡き實生のもの代りて生育するに因るなる
し故を以て倒木狼籍得て進すむ能はあり滿山偏野
樹木緻密の故を以て雨あら霧大都晴日な又雨な
しと雖も点滴常に絶へ是を以て地として水あらるな
し水清冽にして地肥ゆ豈に之を無望の地と稱す可んや
始め一行の前程を議するや道熊野の古津に出んとす而し
て中コロ此の議を止めて曰く古津は今春松浦の出る處人
旣に之を知る予等應さに人の未蹈まるの地を行く
し前人の跡を蹈襲する予黨の欲せる處なり乃ち針路を
南東にし舟津に出るに決す其牛石に至るや天晴れて風な
く正に熊浦を一眸の中に集むと磁石を出し双鏡を開き
以て觀望の備をなす戒三牛石に踞して休ふ役夫曰く爲る
勿れ山靈崇あり輕けれ則ち雲霧重けれ卽ち雷霆神の
怒に觸れん頭を振て大に恐る須臾にして雲霧四塞茫々と
して見る可ら乃ち諸器を収む衆皆戒三を譴めて措かず
地旣に大臺山を過るに及まで一も風色を説か説く
べきの風色なきに非と雖も數日密樹茂林の間に非
雲霧茫々の内に在り恰も簾を隔てゝ花を見るが如
其花神を描くを得んや眞とに惜むべきなり然れ
炎熱燬く如きの地を去て泉冷に樹綠なるの境に入る爽
快に至りては正に人間の煙火を餐はるもの人々皆羽化
登仙の想あり若し其道を修め其運輸を便にせ三伏の盛
暑居を此地に占むるも亦避暑一快事なる
明治六七年の間此の地に道士あり實利ジツカガと云ふ能く秘法を
修し山靈の崇を鎭すと乃ち盧を此の地に結行法を修す
山麓の民相信て日燒香するもの數人是に於て大臺ヶ
辻及東の川より信徒の登るもの大都一月に二三十人なり
しを以て路僅に存すと雖ども今や廢絕十年るを
以て榛荊再て又認む可ら然れも斷續其形跡を
存す此の實利なるもの牛石の南東邊に一碑を建つ面に孔
雀明王左に陰陽和合右に諸魔降伏の字あり脊に實
利及■の花押あり左側に明治七年戊三月と記す後奈良縣
官其民を惑すを疑ひ道士を逐ひ其盧に火す其殘礎今猶存
せり民今に至るま之を憾みとす
牛石を出で道を南東に取る是より人跡曾て至らざる處其
シラクエダニより二股を過之を伊勢大杉谷の南端とす此の
間篠竹を披き樹根を緊し手足を以て稍進む其登るや
仰け前行の跗を見其降るや俯せ前進の頭を蹈む僅に
一歩を離るれ篠竹跡を埋めて前者後者を見る能は
者前行の跡を蹈むを得前呼後應以て進む稍くにして堂
倉谷に出出れ則ち溪流にして其左右に渉る幾百回な
るを知ら其行くやの僅に水面に出るものを拾て進む
其石なき處は水を渉る水動もすれ脛を沒す或は深淵渉
る可らる處は巉巖を攀て行く恰もの石を爬行する
如し戒三身体輕捷能く走り能く跳る皎と文三は然ら
三は石と共に轉じて其臀を傷し皎は歩を誤て其右膝に傷
く戒三獨り全し石を跳るの狀正に羚羊の岩上を行
如し此の日三名皆轉倒せざるなし戒三の如きは誤て
水中に滾し半身皆滋る午後三時殆ん谷口に達す谷口は
紀州北牟婁郡に在り其山を小木森ヲコモリの官林とす牛石より此
の官林に達するま開け則ち岑上行くし此に至り
南西すれ古津に出で南東すれば則ち舟津に達す若し運
輸の便を熊野に取らんと欲すれ二條路あるのみ牛
石より此の両村に達する古津は四里舟津は四里に過
夫曰く公等足を折る舟津の行必す可らず如かず早きに及
此の溪間に居をせんには皎等可かして曰く糧
餘す處幾許なし足を憩ふて腹を空ふす更に利害の償ふ處
なし糧舟津に在り糧を得れ足亦從て憩はん艱難素より
期する處譬へ足を折るも一足猶數里を行くし乃ち衆を
勵まし鼓行して進む稍く小木森の官林を過僅に路
形あり皎の足益み又歩す可ら道坊主峠に出峠は直
立六十町の峻阪にして恰も梯子を竪てゝ之を降る如し
役夫頻に皎を負はんことを請ふ皎許さ而して疲足を曳
き山を下る四十町日稍く暮樹下道黑くし危險云ふ可
役夫曰く公の如くすれ則夜半に達するも山下に出
る能は公を負ふは則ち予輩を助くるなり强て皎を脊に
して下る是より先き戒三、文三、役夫二人を携へ峻阪を滾
下し去る皎の阪を降る比ほひ阪下に叫ものあり峪岈相
意らく戒三一行道に待つなりと降れ則ち文三一
人岩上に踞して待つ曰く予臀痛む以て彼等獮猴的に追
遂する能はず以て子等の下るを待つ獮猴行く旣に遠し乃
ち相携へて行く此より路形あり然れも雨益甚しく日暮
るゝに垂んたり樹下暗黑認む可らず役夫道に檜枝六尺許
のもの一本を拾へり碎て松明とす木濕て火を發せず僅
に爝火を得たり且つ吹き且つ行く雨甚しくして火小なり
動もすれば滅せんと欲す旣にして一破屋を認む皎等山に
入てより此に至るまで柱と壁とあるものを見ず是に至り
始めて家を見る擔傾き屋根漏る雨益甚し其漏らざる處を
居る先づ木の乾けるものを拾ひ火を焚き暖を取る更
に松明を作り以て暗照の備をなす將さに屋を出んとす雨
幸にして止む此より船津に至る五十町とす行く須臾にし
て河を渉て南す誤て道を失し沙磧を行く數町更に松林道
なき處を穿て再び道に出づ河を渉る三回道を徃く三十町
提燈星の如く人聲喧噪南よりして来るものあり是れ船津
より皎等を迎ふる者なり始め戒三の峻阪を滾下するや途
にして文三をて走て南す意らく二將其と膝と傷つ
け一卒亦其膝を傷つく早く人家あるの處に至り援助を求
むるに如かずと奔馳して火光ある處を認めて徃く或は炭
竃に至り或は守猪者に逢ひ稍く嚮導を得て船津新田に達
す乃ち肩輿を求む輿なし乃フゴを得たり役夫に令して皎等
を迎へしむ恰も皎等の逢ふ處は船津より河に溯ぼし二十
町の處とす皎平地を往く膝甚しく疼を覺へずと雖も同行
の苦心亦水泡に歸すべからず試みに畚に乗る人は畚に人
を盛て擔ふに慣れす皎は畚に乗て人に擔はるゝに慣れず
擔棒に吊下せられ繩縮て頭を緊紮す一歩一轉旋回して行
く其苦や寧疲足を曳くの勝れるに如かず稍くにして船
津新田に達す時に午後十一時とす始めて家に入り浴を操
る實に再生の趣あり之を此の行最極艱難最終艱難とす
山中更に恐るべきものなし猛獣蛇蝎を見ず只猪鹿の痕あ
るのみ因て經歷する處に就て案るに山に入る須らく役
夫十人を携ふべし(一行を三四人として)糧十日を貯ふべ
し山に入るの前豫め板屋を三四ヶ所に設くべし獵犬獵銃
を携へ猪鹿を獵て糧を助くべし毛布の衣を著くべし書を
携ふべし雨あるとき消遣すべきなし酒を携ふべし酒なけ
れば身体を害すべし行く者は最も强健なるものを擇むべ
し尫弱のものは假令山に堪ふるも山を出でゝ必ず病を得
べし皎脳を患ふ故に高きに登り空気の壓力大に減ずる處
に至れば眩暈して其勞餘の両人に倍せり
始め戒三船津に達するや戸長某北牟婁郡の地圖一張を
携へ以て示して曰く本村より入波に入る道六里に過ぎ
ず往くもの必ず一日にして達す其道とすべき處更に其難
きを見ず今や之を大瀧土倉氏に諮る未だ回答を得ずと以
て北牟婁人の大和に達するの道を求むる知るべし故に之
を大臺に導びき其歩を轉ぜしむる蓋し難きに非ざるが如

山林版で、生育する樹木名に「楡」が増補されている。
■は、この映像は底本コピーから直接取得したもの


十七日 尾鷲 强風半晴
船津を發し船を以て河を下る顧みて昨來降る處を見るに
其雲際に聳ゆるもの皆我行の蹈破する處なり顧ふに昨
は巉巖を攀ぢ深谷に入る何ぞ其の危きや今は船にし河
を下る何ぞ其の泰なるや易に曰く否極て泰なりと世事往
此に類す相笑て過ぐ船引本に達す是より海船に駕し尾
鷲に至る怒濤船を掠め翻簸掀行く二里尾鷲に達す
尾鷺は北牟婁郡衙の在る處地三重縣に屬す乃ち郡衙に至
らんと欲す皎と文三は衣濕未だ乾かず僅かに浴衣を著く
戒三の衣獨り乾く乃ち戒三をして郡衙に登らしむ郡長福
原資英在らず勸業主任書記栗原實也に逢ふ以て大臺山南
麓の地形等を訊ひ以て後來參考の資に供す

十八日 長島 烈風半晴
尾鷺を發し再び海船に駕し矢口に至る船をて歩する十
八町白浦に出再び船に駕し古里に至らんとす此の日烈
風昨日より甚し舟進む能はざるを以て三浦に上り陸路長
島に達す

十九日 天ヶ瀨   和風半晴   今の三重縣多氣郡
   萩原村大字天ヶ瀨
長島を發し伊勢會郡に入り笠木峠を踰峠は上下三里
にして其絕頂より冨岳を望むべし紀勢の海を左右にし風
色絕佳葢し近畿の未だ曾て見ざるなり此の夜天ヶ瀨に
泊す

天ヶ瀬についての注は、山林版の編者が入れたもの。「今の」は昭和7年時点である。
「萩原村」は「荻原村」が正しい(田村義彦氏のご教示による)。

二十日 舟戸 和風半晴
天ヶ瀨を發し伊勢飯高郡舟戸に泊す

二十一日 松山 和風半晴
舟戸を發し勢和國界高見山を踰此より我管内とす此の
夜宇陀郡松山に泊す
熊野より大和を經て大阪に達するの道三條あり一は十津
川に入り五條に出るもの一は木本より北山に入り始め
入りし處に出るもの一は此の回通過するものとす而して
此の回出るもの世に高見越と稱するものを以て最近とす
故に皎等一行道を此に取る

二十二日 大阪 和風半晴
始め九日井戸村車をてゝより以來此の日松山を發し櫻
井に至るまで熊浦船に駕するの外皆我が両條腿に倚る皎
は獨り畚に乗る二十町役夫の背に負はるゝ二十町皆能く
勤めたりと云ふべし顧みて昨來經過せし跡を見るに茫乎
として異世の趣あり奇と云ふべし因て其經過せし
處を圖して之を
上つる圖は獨り大臺の出入審にして其餘を畧せり北牟
婁郡全圖は船津に於て戒三の戸長某より得たる處なり以
て併せ見ば其南麓の地形を知るに足らん乎故に附して上
つる此の日下午五時大阪に達す   圖面省略

ここの増補は、講農版が1行見落としていたのを補ったもの。
ここでも山林版編者は、原文を参照しているとしか考えられない。






底本(講農版)終り
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「講農版の山林版との比較」 終

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