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交遊編 【す】大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔交遊編〕大田南畝関係
【鈴木 白藤】(すずき はくとう)(鈴白藤)【交遊】(文人サロン)  ※◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・漢詩・狂歌出典巻・頁年月日
「早春、鈴木恭(二字欠)杉浦吉統総仲・田直躬(二字欠)井玖子瓊・鱸文猶人、草堂に過らる」 (詩なし)」南畝集
漢詩番号1922
④152享和1年
1801/01/
「七月既望、井子瓊・鱸猶人・楽地堂及び児俶と同じく舟を泛ぶ。会々山桐原・鈴白藤至る
 (詩3157-8は省略、交遊編の「交遊」参照)」
「今年享和二年壬戊にあたれり。予、井上子瓊、鈴木 文 猶人、書肆楽地堂、男 俶 子載とゝもに柳堤より舟を泛て墨田川にいたりて詩を賦せり。児玉 慎 空々、篠本 廉 竹堂も又諸子を携へて舟出せしが、三又のほとりに逍遥せしゆへ、南北のたがひにて逢はざりき。竹堂「三又に遊ぶの記」三編をつくりてくはしく事景を記せり。山上桐原学士、鈴木 恭 白藤もをくれて至りて、予が舟に加はゝれり。十月の望にも必と約せしが、予風病にて約に違へり。篠本竹堂、鈴木白藤、鈴木猶人、山本文智、吉見 義方 伯教が輩は舟をうかべて聯句せしとぞ」
南畝集12
漢詩番号2157-8
杏園間筆二
④224
⑩218
享和2年
1802/07/16
「竹堂手記抄録一 壬戌七月既望舟遊一行名字 〈享和二年七月十六日、墨水舟遊「赤壁の遊び」の参加者〉
 鈴木岩次郎 恭 字士敬 号白藤 亭名邀月」 〈翌癸亥享和三年、二十五歳〉
零砕随筆三
続日本随筆四巻
④212
「十四夜、空々子 児玉慎・篠 廉 竹堂を邀へて宴集す。鈴白藤・井子瓊・鱸猶人・山徳甫・吉伯教と同じく賦して揚字を得たり (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」南畝集13
漢詩番号2167
④227享和2年
1802/08/14
「雨夜、篠 廉 竹堂・鱸 文 猶人・山 隣 徳甫・中村 亮 文智と同じく鈴 恭 白藤の宅に集ふ。蕭韻を得たり
 重陽節後雨蕭々 折簡飛来此見招 籬畔霜遅含(一字欠)蕊 簷前露滴老芭蕉 身拌縦飲遺名利 交約平生重久要
 為是主人能乗燭 夜遊聊得避塵囂」
南畝集13
漢詩番号2175
④230享和2年
1802/09/
「十二月十九夜、篠 廉 竹堂・鈴 恭 白藤・井 玖 子瓊・鱸 文 猶人・山 隣 徳甫・村 亮 文智及び楽地生と同じく舟を墨水に泛べて月を看る。是れ蘇東坡の生日にして、三たび赤壁に遊びし時なり (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」南畝集13
漢詩番号2200-02
④237享和2年
1802/12/19
「正月十一日、古賀 樸 精里・尾藤 肇 二洲二学士、頼 惟完 霞厓・倉 茎 子成・辛島 憲 塩井・鈴木 恭 白藤・草加 環 循仲諸君と同じく岡田 恕 寒泉宅に集ふ。寒字を得たり (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
「県令岡田 恕 寒泉亭集、琴碁書画の興有り、同会者、古賀 樸 淳風・尾藤 肇 志尹・頼 寛 千秋・倉成 菫 子成・鈴木 恭 白藤・辛島 憲 才蔵・草加 環 循仲等なり (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」〈『細推物理』には参会者の詩あり〉
南畝集13
漢詩番号2220
細推物理
④244
⑧343
享和3年
1803/01/11
「初夏、鈴木 恭 白藤・中村 亮 文智・冢 璵 君美過らる (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」南畝集14
漢詩番号2440
④311文化1年
1804/04/
「夏夜、岡田 恕 忠卿邀へらる。鈴 恭 白藤・伴 守節 君度と同じく賦す (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」南畝集16
漢詩番号2905
⑤22文化3年
1806/06/
「春日、篠本 廉 竹堂・鈴木 恭 白藤諸子と同じく徐 懿 徳卿の芙蓉館に集ふ。寒韻を得たり
 (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
南畝集16
漢詩番号3026
⑤59文化4年
1807/02/
「己巳中秋、大草 公弼 篤夫・花禅翁 万彦・鈴木 恭 士敬・犬冢 遜 印南・井上 玖 子瓊・鈴木 文 猶人・中邨 亮 子寅・植木(三字欠)諸子と同じく建部君の朝白園に集ふ
 (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
南畝集17
漢詩番号3257
⑤129文化6年
1809/08/15
「十四夜、新たに晴る。花禅老人 万彦・池 桐孫 五山・鈴木 恭 白藤・井 玖 子瓊・鱸 文 猶人・中村 亮 子寅過らる
 (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
南畝集17
漢詩番号3389
⑤169文化7年
1810/08/14
「鈴木 恭 白藤の秘書監に遷るを賀す
 曾在昌平閲五車 還探石室擅三余 稠飢子弟皆欣羨 満腹芸香監秘書」
南畝集18
漢詩番号3717
⑤266文化9年
1812/11/
「鈴木 恭 白藤の「歳暮。杏園の集ひ」に和す。已に夜にして声妓阿勝を迎ふ。勝、盛名有つて一時に噪がし
 不羨千金築駿台 詩朋伴一時来 英才已結忘年契 楽飲須浮別歳盃 石室秘書投玉案 平陽歌妓占花魁
 頽然酔倒君休笑 華髪堕顛心未灰」
南畝集19
漢詩番号3968
⑤340文化12年
1815/02/
「白藤の説
 主人の号を日藤といへるは熊野鈴木の氏によりて、藤白根といふ事なるべし。東上総の夷潜の郡白藤源太の事にてはあるべからず。そも/\長き藤かつら、くりかへしいはば藤原の宮のふる事はさらなり、天の児屋棋のみこと藤氏の栄は北の藤波さかりにして、藤のしなひの三尺あまりといせ物語に書しるし、源氏の藤壷藤のうら葉、南円堂の藤は南都八景にあらはれ、野田の藤は浪花男の酔舞にのこれり。亀戸の藤は心字池にたれ、佃の藤は碇綱と長きをあらそふ。藤寺は根岸と小日向にして、藤沢寺は避行の道楊なり。大津画の娘は藤花をかつぎ、神明の千木箱は藤をゑがく。香炉の藤灰うづたかくして香匙火箸をまち、連歌の藤のはながきは一折の執筆につたふ。牛は朝から藤のはなづらを通され、松のふぐりは藤づるにしめらる。ハつ藤の御紋、三とせの藤衣、色日に藤色藤ねづみ、紋に上り藤下り藤、八百屋お七が紋は藤巴といひつたへ、藤伊が紙子は富士山をはりぬく。藤屋のあづまは与五郎になじみ、遠藤武者はけさ御前にはまる。藤戸のわたしは佐々木が先陣、斎藤太郎左が身がはり音頭、佐藤兄弟が忠義、加藤清正が鬼しやぐはん、後藤兵衛が生酔、藤堂家の先手のはなしはずるけなしの馬谷にゆづり、近藤助五郎清春がむかし画は骨董集の後編をまつ。呉服後藤金後藤、後藤がほり物三所ものはみな藤棚の上にあげて、藤.問のおどりを一トおどり、狂言綺語のたはぶれに、紫藤花落て烏関々たる白氏文集、その白の字をちよとかうもつて、藤といふ字の上にをき、白藤などはどでごんすともいはまほしけれ」
七々集②291文化12年
1815/12/
「四月二日、鈴木白藤・鱸 文 猶人・小野(三字欠)・雪仙師と同じく山内 正誼(二字欠)の清風館に集ふ。寒韻を得たり
 四十年前罄此歓 看来天地尽波瀾 箕裘自有良弓子 爛酔猶為昔日看
【安永二年癸巳四月二日、正誼の先人士訓、予及び山道甫・河田阿を邀へて此の館に宴す。今に至つて四十余年なり。故に起句之に及ぶ】
南畝集19
漢詩番号4160
⑤391文化13年
1806/04/02
「初夏、久志本 定(二字欠)・鈴木 恭 白藤・山内 誼 子直・小野(三字欠)・植木(三字欠)・雪仙師と同じく鱸 文 猶人の椿亭に集ふ
 百花時節等閑過 又見薫風首夏和 紅意委塵漂潦水 緑情含雨暗庭柯 牛門一社猶無恙 驥志千秋豈有佗
 是籃輿扶酔去 激談将尽酒如河」
南畝集19
漢詩番号4267
⑤420文化14年
1817/04/
「秋日、鈴 恭 白藤・鱸 文 猶人・野(三字欠)・植(三字欠)と同じく山 正誼 に集ふ。青字を得たり
 城西何処去敲扃 先見松門入眼青 勧酔少年芙我老 知音旧侶許誰聴 将開野菊霜侵径 半落山茶雪満庭
 今日本期文字飲 豈図酒乱見娉婷」
〈娉婷とは美人のこと〉
南畝集20
漢詩番号4314
⑤437文化14年
1817/09/
「夏日、鈴 恭 白藤・植 巽 玉厓・鈴 文 椿亭・山 正誼 松門・雪山師過りて、酒を携へて顧みらる
  (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
南畝集20
漢詩番号4468
⑤482文政2年
1819閏4/01
「鈴白藤、秘書監を免ぜられて散官に入る。賦して贈る 窺見蘭台中秘書 風流罪過意何如 自今須養閑居拙 日々潘園楽御輿」
〈昨年12月24日、書物奉行を免ぜられる〉
南畝集20
漢詩番号4635
⑤528文政5年
1822/01/
「白藤子によみて贈る いかほどに波のぬれぎぬきするとももとよりかたき岩次郎どの」あやめ草②100文政5年
1822/03/
Top交遊編交遊編 【す】大田南畝関係