![]() 思いだすこと 昭和62年入学 チェロ 赤堀 浩史(工) ![]() 実はあの演奏会には私も乗っておりました。 あの曲を弾いたのは、私がM1の時。 チェロは代々、まとまった数のパート員がおり、最低5プルトは確保することが出来ていたのですが、第52回定期の時だけは5プルトに満たない状態でした。 その時のチェロのPLは関君で、3回生は彼1人。 他の代は、同期が少なくとも4人はいたのですが、関君の代のみ1人の状況。 曲がブルックナーと決まった後、4年生や5年生で出演可能そうなメンバーに声をかけたのですが、計4.5プルトしか集まりませんでした。 ブルックナーを演奏するには、プロでも最低5プルトは必要で、まさに緊急事態。 なお当初は、その4.5プルトで、秋口までは練習に取り組み、そのまま本番も臨む予定でありました。しかしながら、どうしても非力であるとの判断が、パート内(または指揮者?)から出されたようです。 そこで関君はじめ出演予定の9名がどのような行動に出たかですが、当時、5回生だった赤堀と、6回生だった築山さんを拝み倒して出演させたのです。 当時私の所属する研究室の指導教官は、長い人生、勉強”のみ”に全精力を傾ける時期があっても良いのでは、という考えの方でした。 研究室内で、サークル活動をしている学生はおりませんでした。 私も4年生の冬の定期(第51回ブラ4)から休団しておりました。 金大フィルのことを忘れかけたM1の11月前後、冬が感じられ始めたある日、関君から城内キャンパスの小練(落研の練習場)に来るよう、呼び出されました。 そこで、出演者9名から、出演するよう説得されたのであります。 その時の皆が述べた言葉は、非常に熱いものでした。 今でもその時の情景が思い出されます。 皆から出た言葉の一つ一つは、さらりと受け流すことは出来ませんでした。 悩んだ末、その思いを受け、出演を決意。 その後、私は指導教官には内緒で、極内々に練習に参加することになりました。 私が出演決意後、さらにメンバーを増強すべく、当時工学部4年生であった築山氏の下宿にも皆が行き、出演への説得を行いました。 当時、築山氏は、卒論で追い込み状況でしたので、かなり無謀なお願いでした。 結局、卒論そっちのけで出演を決意。 結果、当初出演予定の9名に築山さんと赤堀を加え、計5.5プルトで演奏会に臨みました。 以上のように、出演メンバーが最終的に決まるまで、時間がかかりました。 まずは少ない人数で頑張ろうと9人で努力した。 その後、人数を増やすべく休団者への説得を行った。 その過程で、この曲にかける思いが再認識されていったのだと思います。 築山氏も私も、その熱意の渦に巻き込まれた気がします。
これら経緯があったことから、私としては、自分がPLをやっていたマラ5(第50回)と同じくらい、このブル7は思い入れが非常に強い曲となりました。 一回一回の練習も、非常に密度濃く感じられました。本番の情景も、印象深く記憶に残っております。 なお先日(2003年8/2)、築山氏と再会し、ブル7について話す機会があったのですが、築山氏も、あのブル7は、非常に印象に残っており、良い出来であったと述べておりました。 旋律は自分達なりに歌ったつもりです。 細かい部分での荒、特に細かいパッセージでの発音の悪さは目立ちますが、ダイナミックスの大小など、皆の思いがこもっていることが再認識できました。 その箇所を、金大フィルの名手達の演奏に加えて頂き、とてもうれしく思いました。 久しぶりの当時のチェロパートとの再会でした。 サイトを管理している中西さんに感謝します。 有難うございます。 最終更新 2003/8/8 赤堀氏近影 |