ナノの話 (5)ナノ環境修復 汚染土壌や地下水の浄化にナノ粒子放出
1.ナノ環境修復の概要
1.1 汚染した土壌や地下水の浄化
有害物質で汚染された土壌や地下水の浄化には莫大なコストがかかり、世界中の国々にとって大きな課題です。特にアメリカは広大な国土にスーパーファンド法)の対象となる汚染場所や地下水汚染が多数あります。日本でも工場跡地などの土壌汚染が問題になっています。これらの土壌や地下水の主要な汚染物質は揮発性有機化合物(VOC)や重金属、農薬などです。
1.2 原位置修復
従来の汚染浄化方法は汚染された地下水をポンプで地上にくみ上げて浄化する、あるいは汚染土壌を処理場所まで移送して浄化を行うという、"汚染物質の移動"が基本でした。
これに対して、浄化剤等を注入することで"移動"を伴わずに、その場所で浄化処理をするという"原位置(In situ)"修復方法が、特にコストと処理時間を抑えることができるとして期待されています。
1.3 ナノ物質による修復
ナノ物質は、原位置修復にとって非常に望ましい特性を持っていると言われています。微細なサイズと表面に施されたコーティングのために、ナノ粒子は地表下の小さな空間に浸透し、地下水中に浮遊し、粒子は大きなサイズの粒子よりも遠くまで移動し、広範な分散を達成することができるとされています。この様なナノ粒子が汚染物質と接触すると還元作用と触媒作用により、例えばPCBなどの有機塩素系汚染物質を脱塩素化して無害化します。
代表的な修復ナノ粒子にはゼロ価鉄(zero-valent iron)がありますが、そのほかにも対象とする汚染物質によって様々な種類のカーボン・ナノチューブ(CNTs)、活性カーボン・ファイバー、二酸化チタン光触媒、様々なバイメタルナノ粒子、ナノ結晶ゼオライトなどが使用されます。
1.4 環境、健康、安全への有害影響の懸念
環境修復におけるナノ粒子の使用は、環境中へ、そしてその結果として生態系へナノ粒子を放出することになります。環境中では、ナノ粒子自身及び、ナノ粒子の表面に付着して運ばれる染物質が、藻類、顕花植物、菌類、植物プランクトンなどの生物に及ぼす有害影響が懸念されており、鉄ナノ粒子が急速に酸素と反応してヒト肺細胞を殺すことができること報告した研究もあります。また生物蓄積することにより食物連鎖に入り込むことが懸念されています。
しかし環境中に放出されるこれらナノ粒子の毒性、運命と挙動、生態系やヒトに及ぼす影響についての研究は十分になされておらず、それらについての知識はまだ非常に限られています。
1.5 ナノ環境修復の実施
米環境保護庁(EPA)のナノテクノロジーに関する白書は2005年12月に最初のドラフト版、2007年に最終版が発表されました。その中で、ナノテクノロジーの環境目的利用に関するリサーチ提言で5つの重要領域のひとつにナノテクノロジーの環境修復への適用のための研究をあげています。
ウッドロー・ウィルソン国際学術センター/新興ナノテクノロジーに関するプロジェクト(WWICS/PEN)によれば、現在、ナノ環境修復サイトはアメリカを含んで7カ国(アメリカ、スロバキア共和国、チェコ共和国、ドイツ、イタリア、カナダ、台湾)に及んでいますが、アメリカが最も多く17州で行われています。WWICS/PENは世界の環境修復サイトの地図を発表しています。

地図:WWICS/PEN
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2.米EPAが推進するナノ環境修復
2.1 米EPAナノ技術白書
EPAは2005年12月に発表したナノ技術ドラフト白書の中で、"過去5年間、EPAはナノ技術の環境への適用を開発し、潜在的な人の健康と環境への影響を理解するために、研究に資金を出し、研究方向を設定することについて主導的な役割を果たしてきた。この様な研究は既に実を結んでいるが、特にそれは、ナノ物質を環境浄化のために使用すること、及び生物学的システム中でのナノ物質の性質を理解することである」と述べ、ナノ環境修復への応用に力を入れていることを示しています。
2007年2月に発表された同白書最終版[3]では、(1) グリーン製造技術(グリーンマニュファクチャリング)、(2) グリーンエネルギー、(3) 環境修復・環境処理のリサーチニーズ、(4) センサー、(5) その他の環境問題への応用−を重要研究と位置づけてその実施を提言しています。
2.2 EPA研究者らによるナノ環境修復のレビュー論文
米国立環境健康科学研究所のジャーナルEHP電子版にEPA及びPENの研究者によるレビュー論文「ナノテクノロジーと原位置修復−便益と潜在的リスクのレビュー」が2009年6月24日付けで掲載されました。汚染地下水や汚染土壌の修復へのナノ技術適用に関する多くの論文のレビュー結果と、この技術を適用している世界7カ国45汚染サイトの情報を紹介したものです。
著者らは環境修復へのナノ技術適用の便益を力説する一方で、ナノ技術適用に伴う健康と環境への有害影響の可能性を示す多くの論文を引用しています。しかし、"それらの論文の合意は慎重さ(caution)であり、予防(precaution)ではない。そして決定的なリスクデータがないのなら、この技術は一般的に有害性より有益性が勝るとみなされる(原文:33頁)"という恐るべき見解を示しています。ここには有害性の懸念がある場合にとられるべき予防的アプローチの考えが全くありません。
この論文の見解は論文の著者らのものであり、必ずしもEPAの意見を代表するものではないが、この論文は米EPAのレビューと発表の承認を受けているとしています。この論文のナノ環境修復の便益を特に強調した結論を読むと、著者らの見解は、有害影響が懸念されているにも関わらず経済的便益を優先して、環境修復へのナノ適用を実際に推進している米EPAの考え方を端的に示していると考えられます。
3.ナノ技術適用に予防的アプローチを求める意見
3.1英国王立協会・王立工学アカデミー報告 2004年
2004年7月に発表された英国王立協会・王立工学アカデミーの報告書『ナノ科学、ナノ技術:機会と不確実性』 は、英国だけでなくナノに関心を持つ世界中の人々に大きな影響を与えました。この報告書は21項目からなる重要な勧告を含んでいますが、その中でナノ物質の環境中への放出に関連して、次のように勧告しています。
R4 ナノ粒子及びナノチューブの環境への影響についてもっと多くの知識が得られるまで、人工ナノ粒子及びナノチューブの環境への放出は可能な限り避けるよう勧告する。
R5 特に、現状及び潜在的な自由なナノ粒子及びナノチューブの環境への放出の二つの主要な源に関連して、下記を勧告する。
工場と研究試験所は人工ナノ粒子及びナノチューブをそれらが危険であるという前提で取り扱い、廃棄物の流れに入ることを低減又は除去するよう勧告する。
自由な(すなわち母材中に固定されていない)人工ナノ粒子の環境中での適用(例えば環境修復など)は、適切な研究が実施され、潜在的な利益の重みが潜在的なリスクに勝ることが証明されるまで、禁止されるよう勧告する。
3.2 ETCグループ ニュース・リリース 2006年10月18日
カナダの環境団体であるETCグループはそのプレスリリース『EPA のナノテク規制:皮肉な限界−浄化か? 沈黙か? 奮起か?』の中で、EPAの環境修復の実験いついて、安全である根拠がない地下水浄化実験として、次のように批判しています。
"EPAは会社がナノスケール化学物質の製造と商業化を行うための道を開いているだけでなく、人工ナノ粒子を環境中に放出することについても積極的に加担している。EPAは2006年1月に、オハイオ州にあるニーゼ化学会社のスーパーファンド・サイトでゼロ価鉄ナノ粒子を地下水に注入して浄化するという計画を発表した。"
"少なくともあるナノ粒子は環境中で有毒であり人の暴露にとって潜在的に安全ではないことがありえることを示す証拠が増大している。この事実にもかかわらず、EPAは農薬汚染場所を浄化するために地下水に鉄ナノ粒子を放出する実験をしようとしているとETCグループの代表パット・ムーニーは指摘している。"
3.3 英国王立環境汚染委員会報告書2008年
英国王立環境汚染委員会が2008年11月に発表した報告書『環境中の新奇物質:ナノテクノロジーの場合』は、新奇物質としてのナノ物質の一般的な適用について、全面禁止又はモラトリアムの根拠はないとしながらも、下記のような過去の教訓をあげています。
"現在の新奇物質の導入は、環境ハザードの源であると我々に推測させるような明確な出来事はまだ起きていないが、我々は、当初は全く安全であると考えられていた新たな化学物質や製品が、後には環境と公衆の健康に非常に高価についたという過去の経験を十分に知っている。それらには、救命難燃剤や有益な断熱材であったアスベストが重大な肺疾病を引き起こす;冷蔵庫、断熱材、電子機器など様々な応用で完全に無害であると考えられていたクロロフルオロカーボン(フロン)も大気に莫大なダメージを与える;ガソリン用アンチノック剤四鉛化鉛は、排気ガスに暴露した子どもの精神発達に有害である;船底の防汚用塗料添加物トリブチルスズは海洋生物に深刻な結果をもたらす。
そのような過去の経験と最近の研究結果に照らして、我々は英国環境庁が最近、非固定のカーボン・ナノチューブを含む廃棄物を有害物質として分類する予防的アプローチをとったことを特筆する。"
4.日本のナノ環境修復はどうか
4.1ナノ環境修復技術の研究
日本における汚染土壌・汚染地下水の修復へのナノ技術利用については、文部省の科学技術基本計画や国立環境研究所の環境技術ライブラリーを見る限り、具体的な研究や実施計画についての記述はありません。
しかし民間企業による「ナノ鉄粒子スラリーの原位置注入工法によるVOCs浄化事例」、「原位置土壌浄化のためのナノスケール鉄複合粒子スラリーの注入実験」の発表などがあり、実際にはこの分野の研究開発は、着々と行われていることが想像されます。
4.2 法的側面
土壌汚染や水質汚濁の基準は、環境基本法第16条第1項に基づき、特定の汚染物質の基準値が設けられています。
土壌汚染対策法や水質汚濁防止法には、「汚染の除去等の措置命令」や「汚染除去等の研究の推進」の条項はありますが、汚染技術を規定する条項はありません。
したがって、今後ナノ技術利用の汚染修復方法が研究され実用化されようとした時に、そのようなナノ利用技術の規制をする新たな法が必要になると考えられます。
5.ナノテクノロジー利用の環境修復に関する当研究会の意見
環境中にナノ粒子を放出することによる潜在的な有害環境影響を防ぐために、ヒト及び全生態系へ及ぼす有害影響の研究が十分になされ、安全性が確認されるまで、環境中へのナノ粒子放出を伴う環境修復は実施すべきではないと考えます。
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