予防原則の高まり−社会運動が力を増す
ナンシー・マイヤーズ 情報源:The Rise of the Precautionary Principle - A Social Movement Gathers Strength By Nancy Myers The Precautionary Principle - Multinational Monitor, Sept 2004, Vol 25, No 9 訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会) http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/ 掲載日:2005年10月31日 エド・ソフはジャズ音楽家であり、テキサス州ダラス近郊の人口約10万人の新興都市デントンにあるノース・テキサス大学の教授でもある。1997年、エドと妻のキャロルは、彼らの町デントンの環境と将来を案じる市民グループ、Citizens for Healthy Growth(健康な成長を求める市民)を設立した。ソフ夫妻と彼らの仲間−現在、約400人−はアメリカにおいて予防原則を実践している革新的な先駆者らの一員である。 ソフ夫妻は1998年に初めて予防原則に出会ったが、それは彼らのグループが土地の銅線製造会社”ユナイテッド・カッパー産業”が鉛を大気に放出することとなる大気排出認可を得ることに反対するキャンペーンを行っていた時であった。エドは予防原則に関するウイングスプレッド声明の発見を思い出す。”ある行為が人の健康又は環境に危害を及ぼす恐れがある場合には、たとえ原因と結果の関連性が完全には確立されていなくても、予防的措置がとられるべきである”とする1998年の環境健康宣言である。それはまさに”今までの生き方を変える経験”であった。予防原則を指針とすることで、市民らは、既知の有毒物質である鉛がどのようなレベルなら人々の健康に危険をもたらすかという議論に引き込まれることは拒絶した。その代わり、彼らはより安全なひとつのプロセスが利用可能であることを指摘し、分別ある選択は認可を与えないことであると主張した。市民らが勝利した。 予防原則は2001年に再び役に立った。それは市民らが農薬 2,4-D、シマジン、ジカンバ、及び MCCP が市の公園に散布されていることを知った時であった。論点は、これらの化学物質に疑いがある時に、市当局はそれらの疑いがあっても化学物質の安全を再保証するのか、あるいは、その疑いを潜在的な危険の警告とみなすべきなのか−ということである。エドはその時のことを思い出す。”市当局は無知のまま行動するのか、又は常識と基づいて行動するのか”。 ソフは、ロサンゼルス郡学校区は農薬使用に関する政策に予防原則を取り入れ、有害化学物質を使用せずに害虫を管理することを目指すシステムである統合害虫管理(IPM)を構築したことを知った。デントン市民グループは同様な政策を提唱することを決めた。同市は4つの問題ある化学物質の散布をやめ、IPMの実証プログラムに取り組んだ。 このキャンペーンは同市に思わぬ経済的潤いをもたらした。彼らの調査の過程で、公園課の職員はトウモロコシのグルテンが芝の育成によく、天然の広葉雑草除草剤であることを発見した。しかし、最も近いコーン・グルテンの供給元は中西部であり、市にとっては輸送コストが高くつく。一方、デントン市のトウモロコシ処理工場はコーン・グルテンを副生物として廃棄していた。公園課は工場と話をつけて、皆が喜ぶ結果となった。土地のトウモロコシ処理工場は新たな生産ラインを追加して満足であった。市は土地のビジネスを拡大でき、土地で安価な製品が供給できて満足であった。環境グループはもうひとつの勝利(IPM)を得た。 テキサス州デントンの市民らはそれだけに留まらなかった。彼らは地域の大気汚染基準を改善する取り組みを始めた。彼らはヒ素処理を施した木造施設を校庭や公園から撤去し、有害性のない施設に取り替えた。”予防原則は我々が問題を明確にし、その解決を見出すことに役に立った”−とエドは述べている。 しかし、彼がその地域の新聞の論説に書いたように、”バラバラな取り組み手法は時間がかかって金がかかり、しばしば防止より緩和という結果となった”。サ予防原則の先駆者ンフランシスコのに習って、彼らもまた、予防原則に基づいた地域の新しい包括的な環境法のためにロビーイングを行った。 2003年6月、サンフランシスコ執政部(Board of Supervisors )はアメリカで予防原則を採用した最初の政府となった。市環境委員会が起草した新たな環境コードは、最初の第一章を”予防原則方針声明”としている。この環境コードを実施する第一歩は、市の購入に関する新たな指針を設定することであり、注意深い分析と最良の代替物の選択による”環境によい”購入方法を指摘している。指令に付随する”白書−予防原則とサンフランシスコ市及び郡2003年3月”は、市の進歩的な環境政策のほとんどは既に予防原則を取り入れており、この新たなコードは全く新規の指令というよりも、これらの政策を統一し、ひとつにまとめることにあると指摘している。 訳注: ・サンフランシスコ環境コード 第1章 予防原則方針声明 (当研究会訳) ・白書−予防原則とサンフランシスコ市及び郡−2003年3月 (当研究会訳) このひとつにまとめるということが重要である。非常にしばしば環境に係ることがらは、問題と解決に関する長くて種々雑多で混乱したリストであることが多い。。 デントンでも同様に、予防原則は政策を変えるための魔法の杖ではないが、真に予防的で先を見越した環境政策を立法化するための取り組みの中心に据えられた。エド・ソフは、他と同様に彼の地域でも、成長が経済的発展という名目の下に優先され、環境は後回しにされると指摘している。 ”我々の市の環境保護と汚染防止は、予防的政策ではなく、連邦政府や州政府の命令、市民が訴訟を起こすことの脅威、そして市の見かけを気にしての対応である。将来の環境的影響に対する配慮などほとんどない”と彼は市協議会で新たな環境コードを主張した時に述べた。 彼はさらに、”地域の産業によって放出されている化学物質汚染は無視されているか、又は我々が良く知っている誤った情報や自己本位な理由で容認されている。予防原則はそのような無知を放逐し、懸念する市民にもっと健康な将来を確実にする手段を与えるものである”と付け加えた。 予防原則は、国際条約の交渉の場で、世界貿易フォーラムの場で、市政や国の政策決定の場で、環境保護主義者や毒物学者の間で、そして企業の意思決定においてすら、環境と人間の健康のための政策に関する議論に影響を及ぼしている。 2000年に、初めて予防原則を強制力のあるものとして取り入れたカルタヘナ議定書が取り決められた。生物安全性に関するこの議定書は、各国が遺伝子組み換え生物の輸入許可に関する決定に予防原則を引き合いに出すことを認めた。この議定書は2003年に発効した。残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約はこの条約で禁止された当初の12物質リストに新たに化学物質を加えるための基準として予防原則を規定している。 不確実性を認める 予防原則の必要性を理解するためには若干の科学的複雑さを理解することが求められる。生態学者は、生態系の変化は増加しており徐々に、あるいは驚くほど大きくそして突然に起きるかもしれないと言っている。ひとつの系がある閾値を超えるほどその変化が大きくなると、自己安定性を持ち、容易には元に戻らない新たな動的平衡を作り出す。これらの新たな相互作用はその集団の典型的な行動様式となり、新たな現実を作り出す。 この新たな現実の一部が、ヒトの病気のパターンにおいて最近観察される変化に明白に現れている。
どのように科学的根拠を求めるかを示す。喫煙と食餌は上記の疾病にほとんど関係していない。遺伝的要素はこれらの症状のいくつかに対し母集団分散の半分については説明がつくが、大部分については十分ではなく、どのような場合にも、発症率の変化については説明がつかない。このことは他の環境要因がひとつの役割を果たしていることを示唆している。最近の科学も同様にそのように示唆している。実験動物、野生動物、そしてヒトにおいて、環境汚染と悪性腫瘍、先天異常、生殖障害、行動障害、及び免疫系機能不全との関係を多くの研究が証拠として報告している。生物学的システムがいかに発達し機能するかについての科学者らの増大する理解も同様な結論に達している。 しかし、このような深刻で明白な影響をあるひとつの原因に決定的に関連付けることはほとんどできない。原因と結果についての確実性(又は実証)に関する科学的基準は高い。多くの異なる要素が互いに作用する時には、これらの基準は多くの異なる結果を生み出し、決して満足するものは得られない。時には、特定の原因とそれから生ずる特定の結果との期間が非常に長く、多くの介在要素があるので、決定的な関連性を求めることは不可能である。(訳注:アスベストが中皮腫を引き起こす潜伏期間は30年〜40年である。)時には曝露のタイミングが決定的となる。例えば、妊娠中のある特定の時期に有害化学物質が子どもの脳や内分泌系に問題を引き起こすかもしれないが、子どもの母親は自分が曝露したことに気がつかないかもしれない。 現実の世界では、現代の化学物質のシチューに浸かって人々が住んでいる限り、化学物質はいたるところ−赤ちゃんの最初の排便中、アメリカの10代の若者の血中、イヌイットの母親の母乳中−に存在するので、健康な人がいるのかどうか確実に知ることはできない。曝露していない”コントロール”集団は存在しない。しかし、明らかに、先天性異常、がん、そして学習障害の多くは防ぐことができる。 種の絶滅のような最も明白な環境問題や、気候変動のような最も潜在的に破滅的な傾向が存在する時においても、生命に関しては科学的不確実性が存在することは事実である。科学者らは実際にことが起きるまでは、何が起きるのか確実にはほとんど分からず、事実が判明した後でなくては原因についての全ての答をほとんど持っていない。それにもかかわらず、不完全かもしれない科学的知識が、これらの条件の全てに対し、そして、それらについて何をなすべきかに対し、重要な手がかりを提供する。 予防原則の真髄は、生命と地球の将来が危機に曝される時に、不完全な知識と無知があったとしても、人々がそれらの手がかりに向けて行動し、できる限り危害を防がなければならないということである。 環境政策の失敗 予防原則提唱者の前提は、今日までの環境政策はこの取り組みの要求をほとんど満たしていないということである。なぜそれがなされていないかの説明のひとつは、新たに発生する問題の特質は現在やっと明らかになったばかりであるということである。地球が吸収できる容量の限界は、現代的な環境法が30年前に実施された当時に比べてもっと明確になっている。 もうひとつの説明は、いくつかの環境政策が予防的であっても、ほとんどの政策は、環境主義者が言うところの”パイプの末端”で処理することに力を注いでいるということである。火力発電所の煙突の集塵機、排気管の触媒転換器、リサイクリング、そして最悪のゴミ捨て場の解毒浄化のために巨額な資金をかけるという政策ではだめだということである。予防原則では、もっと初期の、もっと包括的な、そして予防的なアプローチが必要であるとしている。あるいは、無視することができなくなるほど問題が明確になってから−しばしば、文字通り死人が出るまで、又は(海面が上がり)海岸線が押し寄せる潮で見えなくなるまで待って、初めて対応するのでは十分ではないということである。 環境政策の失敗の三つ目の説明は政治であると予防原則提唱者は述べている。環境に関する懸念が最初に出現してそれに対応した後、アメリカの規制システムやその他の同様なシステムは、政治指導者の後押し及び裁判所との共犯の下に、商業権益によって覆された。環境法は、1980年代以来、攻撃の対象となっており、多くが修正され、骨抜きにされ、全てが、産業界や裁判所による当局への攻撃により締め付けられた規制担当官によって実施された。 訳注: ・レイチェル・ニュース #825/産業界のやり方−疑念を作り出すことで政府の規制をやめさせる その2 (当研究会訳) 裁判所や、世界貿易機関(WTO)及び北アメリカ自由貿易条約(NAFTA)のような増大する国際的通商組織及び条約が環境管理に対する反予防的アプローチを制度化してきた。彼らは、科学がしばしば提供できない危害の証明と確実性及び規制の効力を要求した。 誤った確実性 皮肉なことに、環境規制に反対する戦いにおいて非常に効果的であることを証明したひとつのツールは、そのような法の実施の強化を意図して開発された定量的リスク評価であった。リスク評価は製品及び技術による有害影響の程度と見込みを評価するための系統的な手法として1970年代と1980年代に開発された。正確で定量的なリスク評価を手にして、規制官らはもっと説得力をもって規制措置の必要性を示すことができるはずであった。リスク評価は法廷で有効であるはずであった。リスク評価は製品が危険であり、多くの死者を出し、そして市場から撤去されるべきであると”証明”できるはずのものであった。 ところが実際にはそうではなかった。1980年代中頃にアメリカで標準的な手法となり、1980年代に世界の貿易条約において制度化された定量的リスク評価は、製品あるいは技術がそれほど危険ではないことを”証明する”ために最も役に立つものであることがわかった。もっと正確には、リスク評価は、どのくらいの危害が起きるかを明確に述べるものであると主張する一組の数字を示す。政策立案者のための次の質問は、”どのくらいの危害なら許容できるか?”である。定量的リスク評価は答えを提供するだけでなく、質問をする。 定量的リスク評価は規範となり、商業・産業権益は、プロセス又は製品を止める措置をとる前に、定量的リスク評価の形で危害が許容できる限界を超えることを示すことで、”科学的に”証明すべきであると主張できるようになった。これらの動きは、規制に対する短期的な金銭コストは過大に評価し、環境又は将来の世代のためのコストは、たとえあっても過小に評価する、コスト便益評価としばしば関連する。 リスク評価は不確実性に対処しようと試みたが、そのような工夫は必然的に仮定と単純化が必要であった。定量的リスク評価は通常、限定された数の潜在的な危害に注目し、しばしば社会的、文化的又はより広範な環境要因を見逃している。これらのリスク評価は莫大なリソースを規制当局に課し、規制の実施を遅らせている。リスク評価は答えるべき質問−より良い代替は存在しないのか? 危害は防ぐことができるのか?−から注意をそらしている。 遅い規制、”科学的確実性”の主張、そして短期的金銭コストへの過大な重み付けは、たとえ有害影響が疑われても、しばしば製品や技術に対する疑いに対し有利に働く。ひとつの結果は、国際的な環境条約も国家の規制システムも環境的ダメージの増加する速さと累積する影響について行くことができないということである。 2001年、欧州環境庁によって刊行された報告書 (訳注:日本語訳『LATE Lessons 14の事例から学ぶ予防原則』七つ森書発行)は、危害の早期の警告に注意を払わないために起きた重大な失敗が社会に莫大なコストを課したことを示している。放射線、オゾン層破壊物質、アスベスト、狂牛病、その他の事例研究が同様なパターンを示している。”危害がないとする誤った確実性が予防的措置を遅らせる主要な役割を果たしている”−と著者らは結論付けている。 彼らはさらに、”予防措置のためのコストは通常はっきり目に見え、明確に割り当てることができ、しばしば短期的であるが、一方、措置を誤ると発生するコストは見えにくくなり、配分が不明確で、通常、長期にわたり、また管理にも問題を及ぼす。したがって行為の全体的な是と非(pros and cons)、又は何もしないことの評価は非常に難しく、経済的考慮とともに倫理をも巻き込む”と述べている。 予防的アプローチ 環境主義者らは地球温暖化のような漠然とした問題を見たときに、定量リスク評価に基づく政策の不適切さに愕然とした。人間の行為が地球の気候に先例のない影響を与えているという証拠が急速に積み上ったにもかかわらず、例えば、いつ科学的確実性の閾値を超えるのかを言うことは難しかった。よい科学(good science)は確かで早い結論を引き出すことについて慎重さを要求した。人類が行動を起こすのを長く待てば待つほど、どのような影響も元に戻すのがそれだけ難しくなる。恐らく、それはもう遅すぎた。さらに、人間の活動だけでなく技術的発展に関しても広範な変更を行わなくてはならなかったはずである。地球温暖化の影響を緩和したかもしれない化石燃料からの大規模な転換は、人間がエネルギーを生成し使用する方法を再考することを求めたかもしれない。政策に対するリスク評価ベースのアプローチは、なすべきなにものをも社会にもたらさなかった。 来るべきる惨禍に向けて開催された世界会議はあまり役に立たなかった。地球温暖化が進んでいるのに政治家らは非難し合い、自国の経済的利益だけを考えて時間を空費した。1997年の気候変動に関する京都議定書のように困難な交渉と大きな妥協に基づく協定は、各国で、特に化石燃料の最大消費国であるアメリカで、政治の泥にまみれた。 アメリカ及び世界中で、異なる種類の戦いが数十年間行われている。地域における産業汚染に対する戦いである。1930年代の子どもの鉛汚染から1970年代のラブ・カナル(訳注:ナイヤガラ・フォールズ市で途中まで掘った運河を埋め立てて住宅地としたが、化学会社が有毒廃棄物を運河跡地に捨てていたたことに端を発して住民が裁判を起こした)まで、地域の住民は常に、汚染と有害製品が彼らを病気にしたということを証明するための苦しい戦いを強いられてきた。リスク評価はしばしば、特定の有害廃棄物のゴミ捨て場は安全であるという論拠、あるいは単一の汚染産業が地域が申し立てるような病気の頻発を引き起こすことをできるはずがないという論拠を作り出した。しかし、これらのリスク評価は、多くの地域住民が貧困という他の影響によって合成される複合的な環境攻撃に曝されるという明らかな事実を見逃した。画期的な1997年の連合キリスト教会(United Church of Christ)による報告書は、”環境人種差別(environmental racism)”という言葉を作り出し、最悪の環境は有色人種の地域にあることを確認した。このことが知られるようになって国際的な環境正義(environmental justice)の運動が引き起こされた。 1998年の初頭、ウィンスコンシン州ラシーヌにあるジョンソン基金会議センター、ウイングスプレッドにおける小さな会議がこれらのジレンマに真正面から取り組んだ。参加者らは環境と人間の健康を守るためのよりよいアプローチを模索した。当時、1970年代にドイツで名づけられていた予防原則は、国際法における新たな指針になった。それは国際的な環境条約の中に現われ始め、一連の議定書の中で引用されるようになった。1984年の北海の汚染を削減するための議定書;1987年のオゾン層破壊防止に関する議定書;1990年の第2回世界気候会議。 1992年のリオ地球サミットで、予防は、環境と開発に関するリオ宣言の原則15の中で正式に記された。”環境を守るために、予防的アプローチが各国によりその能力に応じて広く適用されるべきである。深刻な又は不可逆的なダメージの恐れがある場合には、十分な科学的確実性がないことを、環境劣化を防止するためのコスト効果のある措置をとることを遅らせる理由に使用すべきではない。” リオ宣言後の10年間、予防原則は世界中で国際的な機構や環境政策の中に現われ始め、時には法的論争の中で引用された。例えば:
ある行為が人間の健康あるいは環境への脅威を引き起こす恐れがある時には、例え原因と結果の因果関係が科学的に十分に立証されていなくても、予防的措置がとられなくてはならない。 このような状況においては、証明の責務は市民にではなく、行為を行なおうとする者にある。 予防原則を適用する過程は公開され、知らされ、民主的でなくてはならず、影響を受けるかもしれない関連団体を参加させなければならない。また何もしないということも含めて代替案について十分に検討しなくてはならない。 この会議は、アメリカにおいて環境主義者や大学人、さらには、若干の政治家らの間にこの原則に対する広範な熱狂を引き起こした。それは、多くの発展途上国におけるその概念の採用とともに、欧州諸国におけるこの原則の継続的で増大する支援によって補足された。そしてウイングスプレッドに引き続く数年間に、予防原則は新たな国際的地位を獲得した。 ナンシー・マイヤーズは、科学と環境健康ネットワーク(Science and Environmental Health Network (SEHN))の情報担当理事である。この記事は、マイヤーズ編集による予防原則に関する近刊書の中のある章に基づいている。
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