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(2004年1月15日発行)



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日本の警察制度の誕生とその変容


(投稿) 東京・社会人学生


@はじめに
 私は、大学で法律学を専攻しています。私の指導教授は、法律を学ぶことは「人を愛することであり、人間というものを知ることだ」と言っていますが、私はどうしても判例法理の流れや細かい学説の対立などに心がとらわれ、読む本も新聞の記事もそっち系の記事ばかりに目がいってしまいがちです。
 最近、「警察見張番」HPで、「検察調書があかす警察の犯罪」という書籍のことを知り読みました。その読後感をメールで送ったところ、「警察見張番だより」12号に掲載されました。その広報誌12号を読ませて頂き、私の勝手な推測で恐縮なのですが、「見張り番」の活動も人を愛するということに帰するのではないかと思います。警察制度が取り入れられた時、初代警視総監の川路利良は「警察官は、市民の母であれ」と訓辞したそうです。神奈川県警の組織ぐるみの犯罪を読みながら、初期の日本の警察制度について思い返していました。
 
@日本の警察制度の誕生
 江戸時代の「警察制度」は、半七捕物帖などでもおなじみですが、町奉行所の下、与力・同心・岡っ引き・手先・下っ引きと呼ばれる人々によって町の治安が守られていました。その後、徳川幕府が倒れ、明治維新政府樹立後、新都・東京の治安は、ら卒とよばれる官軍の兵があてられていました。やがて、ヨーロッパのような統率された治安組織を必要とした新政府の参議・西郷隆盛は、同郷の薩摩藩の下級武士川路利良に命じて、東京警視庁を創設します。その川路利良は、明治5年(1872年)、欧州使節団の一員としてフランスへ渡り、警察制度を学びます。帰国後、市民型の警察であるパリ警視庁をモデルに警察制度をスタートさせました。何故、フランスかという点は定かではありませんが、当時の日本の法体系がフランスをモデルにしていたことも一因だと考えられます。司法大臣であり警察を作るのに貢献した江藤新平もフランス法支持者でした。また当時は、警官のことをフランスに習ってポリスと呼んでいました。川路利良は、フランスの警察制度に感心するだけでなく、治安のために街を歩き回っているポリスの存在に感銘したようです。それが、前記「警察官は市民の母であれ」という言葉になったのでしょう。
 その川路利良は、彼の理想としたパリ警視庁のあるフランスを二度目に視察している最中に病になり、日本に帰国して自らの理想と現実のギャップに苛まれながら死去しました。市民自治の警察制度を取り入れる川路の夢は、果たせませんでした。日本は、その後ドイツ型の強大な中央集権国家を目指して、自由民権運動を弾圧します。そしてその取締に警察が充てられることになります。こうして警察の本来の在り方から外れていきました。

@変容していく明治警察
 治安の維持を目的とし、市民の護民官としてスタートした警察でしたが、時代の要請からその性質を変えていきます。新政府が特に頭を悩ましたのが、各地での士族たちの反乱でした。そのため初代警視総監・川路利良は、各地に警視庁の密偵を潜入させて、その動向を監視します。廃藩置県、廃刀令などでこれまでの特権を取りあげられ、失職した士族の不満は新政府の改革に向けられ各地で反乱が起きます。萩の神風連の乱、元司法大臣江藤新平が率いた佐賀の乱などです。皮肉にも江藤新平は、自らが心血を注いででつくりあげた警察によって捕らえられることになります。やがて情勢は、不平士族たちによって祭りあげられた西郷隆盛と新政府が戦火を交えることになり、警察もその政争に巻き込まれていきました。

@本来の任務から政治的利用へ
 警視庁の川路利良大警視は鹿児島に警視庁の密偵を派遣します。目的は西郷隆盛と彼を取り巻く私学校の動向監視です。やがて、密偵たちは鹿児島県警察に捕らえられ、その一人中原小警部は潜入の目的を「しさつ」と自白します。この「しさつ」が視察なのか刺殺なのか定かではないのですが、西郷軍の幹部たちは、刺殺と捉えて一挙に戦争へと突入します。
 火力に優る新政府軍を悩ませたのが、銃撃戦の後の薩摩隼人の切り込みでした。町民、農民中心で構成されている新政府軍にとって迫兵戦になると手も足も出ない状況になりました。そこで士族出身者の多い、巡査隊から切り込み専門の部隊を編成します。これが警視庁抜刀隊です。警察官として、奉職した者を兵士にするということで、内務省の中からも異論もありましたが時局に押し切られ、抜刀隊は出動します。旧幕臣の士族が、警察には多かったので、戊辰戦争の恨みを晴らすためにも奮戦します。激戦となった田原坂でも戦果をあげ、西郷軍を圧迫していきました。その後、西郷が自刀して西南戦争は終わり、士族たちの反乱も治まります。

 川路利良は、西南戦争後、市民自治の警察を目指して、再び欧州の警察の視察にでかけます。しかし途中で、体調を崩し日本に帰国後病死します。恩師である西郷と故郷の鹿児島を滅ぼしてまで、川路が作ろうとした国家とはなんだったのでしょう。それに呼応するかのように、警察の政治色が強くなっていきました。

@国家警察化へと向かう
 明治政府にとって、西欧列強に対抗していくため、国内の近代化を推進するのが急務でした。特に法体系の整備、とりわけ憲法の制定が必要でした。天皇中心の立憲君主の憲法です。そのためには、国内で活発になってきた自由民権運動を封じこめる必要がありました。民権派の弁士がたつ演説会場には、巡査が立ち会い政府批判をしようものなら、拘束されていきました。言論の自由も集会の自由もこの時代では、許されなかったのでしょう。その後、ドイツ型の大日本帝国憲法が制定されます。

 20世紀に入り、資本主義の矛盾から、社会主義運動が活発になり人類初めての社会主義国ソビエト連邦が誕生します。国際コミンテルンの運動は、やがて日本にも波及します。君主制を否定する社会主義運動は当局の取締対象になります。折りからの世界恐慌から、社会主義運動は、国内で活発になります。また、政府要人を狙った、右翼テロも頻発します。こうした動きを封じこめるため政府は、治安維持法を制定し、警察内に特別高等警察(特高)を設置しました。やがて戦争が激しくなると、特高の取締は常軌を逸し、社会主義運動と関係のない市民まで逮捕、投獄されました。プロレタリア作家小林多喜二の死は、あまりにも悲劇的です。
 戦後GHQによって、「民主警察」に生まれ変わり特高は、廃止され自治体ごとに警察が置かれましたが、冷戦の始まり、安保闘争などから警察の政治的色彩を払拭することはできませんでした。冷戦終結後も、オウム真理教や国際テロ組織の暗躍などもあり、政治色はさらに強くなってきています。

@むすびに代えて
 確かに、私たちを取り巻く治安の状況は良好とは言えず、個別的に事件を摘発していく刑事警察の捜査手法だけでは対応できないのが現状でしょう。組織化し、地下に潜る犯罪集団については、首謀者を捕らえて、組織を壊滅させる必要があります。そうした意味からも、公安警察的捜査手法も、ある程度は、是認しなければならないのは分かります。もともと捜査は、密行性のあるものです。しかし、密行性の中で、市民の人権が損なわれたり、組織ぐるみの犯罪が隠されるのは問題です。刑事訴訟法第1条は、その目的として、真実発見と人権保障を規定しています。どちらも大切な要請です。私たちは、警察の活動を監視し本当に市民の為に働く警察にしなければなりません。私たちの活動の目的は、捜査機関を萎縮させることではありません。警官と言えども人間がやっている以上間違いを犯すでしょう。その間違いを認めて改善する勇気がもてた時こそ、警察が変われる時だとおもいます。人間は、隠された状態にあると自浄能力を失うものです。現在、公安委員会という監視機関がありますが、ちゃんと機能しているのか疑問です。そういう意味でも、市民による「見張番」の存在は重要になってきます。

 また、警察に民主的統制を及ぼすには、つまるところ選挙で私たちの声を反映してくれる政治家を選び、国政に送り出すのが最良です。警察のトップは、内閣総理大臣であるし、監督する自治大臣、国家公安委員長も国会議員から選ばれるのが通例だからです。そういう意味で、私たち自身が、問われているということにもなります。
 長くなりましたが最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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