5.正しい黒猫の名づけ方




「まぐるまさぁ〜〜〜ん」という、力ない声を聞き取った馬車は、箸を動かす手を止めて寝室の方を眺めやった。
あの力なさは空腹で死にかけちょるな、と正確に推察する。赤屍にいじめられて泣いている時は、もう少し声のトーンがうわずっているものだ。……銀次自身に自覚はないにしろ。
「腹ァ減っとんなら、こちゃ来い」
「枕にされてて動けませ〜〜ん……」
「頭から抜けて来い」
「そんな怖いことできませ〜〜ん……」
一理ある。
やれやれ、よっこらせ、と馬車は重い腰をやっとあげて立ち上がった。
細く開いたままの寝室の扉を開け放ち、
「メシじゃき、起きぃ」
脚の爪先でとん、と赤屍の腹を軽く蹴る。
「まままままま馬車さんなんてことを」
わたわたと手足をばたつかせる銀次を無視して、とんとん、ともう一度軽くつついた。
「……ン、」
赤ん坊がいやいやをするように首を振る赤屍に、くすぐったかったのか銀次の手足のばたつきがひどくなる。真赤になっているところを見ると、どうやら赤屍の仕草と腹に来た感触に、生意気にもときめいたものらしい。
「メシ抜くぞ、起きぃ」
「……ンー……」
赤屍は馬車の蹴りをよけてうつぶせに寝返った。代わりに「ぐぅ」と返事をしたのは銀次の腹だ。
む? と耳元で鳴った突然の音に、赤屍の細い眉が寄る。
「ほら、小僧が飢え死にしかけちょうぞ、起きてやれ」
「……」
一瞬、静寂が辺りを支配した。
そして。


「……あと五分ぐらい寝かせてくれたっていいでしょう!」


赤屍は煩いたれ枕をがばりと持ち上げると――煩い馬車に向かって、渾身の力で投げつけた。


「ひやああああ」
「――っと」
おそらく、家屋がこれ以上破壊されるのを厭ったのだろう。馬車がひょいと片手を挙げて銀次をキャッチする。
手の上でなぜかびよんびよん、と二回ほど弾んだたれ銀次は、恐怖のあまり涙ぐんで馬車を見上げた。ここ数日で身についた習性だろうか、ボールのように手足を丸めているのが哀れを誘う。
馬車は、めでたく二人を黙らせて二度の安眠についた赤屍を見下ろして、やっぱり、溜息をついた。
ベッドに運ぶのも面倒くさくなったらしく、床にばさりと毛布を落とすと適当にかぶせ。
目に涙をいっぱいためてがたがた震える銀次を、覗き込んで苦笑した。
「――とりあえず、先に食っとくか」
「……はい……」


「……あのう」
「気にいらんか?」
「そうじゃないんですけど……」
サワラの味噌漬をつついていた銀次の顔が、へにょん、と机の上でたれたのを見て、馬車は自分の皿の上の魚を食ってみた。
決して不味くはない。そもそもこれは店で買って来たものだ。いくら料理上手でも、そこは天下のミスター・ノーブレーキ。自分の家で味噌漬を仕込むほどの暇人ではなかった。
「……いやそのぅ、料理じゃなくて……」
「ん?」
「あのですね、その、赤屍さんのことなんですけど……」
変に改まって、でも机の上に顎を乗せて上目遣いで見上げてくるたれ生物に、続きを促すように、黙って片眉を上げる。
「……馬車さんと赤屍さんの、そのー……かかか関係なぞをお聞きしたいんですけど」
「関係ィ?」
すっとんきょうな声をあげてしまってから、寝室を覗き込む。いつのまにかしっかりと毛布をかぶった赤屍が、起きてくる気配はない。
「やっぱ、そのー……世間一般に言うそのー……おふたりはー……」
「……念のために言うておくがの、小僧。あれと俺の間に色恋沙汰は一度もないきに、その点今更聞こうとか思うな?」
「……」
図星か、と馬車は天を仰ぐ。
「……ないんですかぁ」
ほっとしたように、それはそれは嬉しそうにたれっぱなしの銀次を見ていると、やはり、哀れに思わずにはいられない。
なしてこんなまっすぐな小僧が、よりによってあれに惚れるかの、と肩をすくめると、
「でも、じゃあ、どうして一緒に暮らしてるんですか?」
「……それは、」
こきん、と正確に90度、人知を超えて曲がった首に一瞬言葉を失いつつも、馬車は律義に答えてやる。
「この前の、あの仕事に失敗して、金がないことを理由に、あれが転がり込んできよったぜよ。よくある話じゃき」
「えっ――じゃあオレのせいで、赤屍さんはおうちがなくなっちゃったんですかぁ?」
赤くなったり青くなったり忙しいたれ顔を観察しながら、馬車はサワラをつついた。
「もともとあれは宿なしじゃき、気にしゆうな」
「じゃあ、オレと一緒ですね」
「……あれは、金もないわけではないが」
ぼそり、とつぶやいた馬車の声は聞こえなかったらしい。「一緒かぁ」とほくほく顔のたれ銀次は、魚を食みつつ、ふと、馬車を見上げる。
どうした、と見返されて、もう一度、こきん、と首を曲げた。


「……馬車さんは、赤屍さんが泊まるのは、いやじゃないんですね?」


馬車は箸を置いて視線をそらし、安物のグラスに注いだ久保田の冷酒を一口、口に含んだ。
飲み込んでからしばらくグラスを眺め、ややあって、銀次を見下ろして苦笑する。


「気づかなんだ。どうも、そうらしい」
「じゃあ……」


「……オレと一緒ですね」


「一緒か」
「一緒でぇす」


どちらからともなく、小さく笑い声を立ち上らせ。
「飲むか」という問いに、銀次は勢い込んで(ただしたれたまま)「飲みまぁす」と答える。
一杯だけぜよ、と、念を押しつつ、馬車は背後の戸棚を振り返って小さなぐいのみを降ろした。
ペットボトルから透明な液体をこぽこぽと注ぎつつ、
「あれァ、天性の野良猫じゃき、……今日はここで飼われとっても、明日はまこと違う家で、まこと違う名前で呼ばれ、しれ、と毛繕いをしとる。そういう奴ぜよ」
置かれたぐいのみに手を出さず、銀次は目を見張るようにしてじぃ、と馬車を見上げ、その言葉を聞く。
ちびちびと酒で唇を湿らせつつ、馬車は目を細めてそれを見返す。
「ある日突然ふらっと姿を消したかと思いきや……またある時は当たり前のように、帰って来て庭先で体を伸ばしとる、そういう猫が時々おろうが。その猫が、自分の庭先におらん時、何をしとるかなどわからん。それと同じ。あれは、自分だけの飼い猫にゃあようでけん」
「……オレも……」
机に頬をくっつけて、銀次はものがなしそうにお猪口を眺めた。
「オレも、できませんかねぇ?」
「さぁ?」
「……さぁ? さぁってなんですか? オレちょっとは見込みあるんですか? ないんですかぁ? 教えて下さいよ馬車さぁん!」
「ま、とにかく、飲め、飲め」


口惜しいではないか、男として。
もしかしたら、この小僧なら――などと、一瞬思ったなんて。
ましてやそれを、小僧本人に、知られるなんて。


お猪口一杯で顔を真赤にする目の前の奇妙な生物を肴に、くつくつ、と喉の奥で笑いながら、馬車は水のようにグラスを干し続けた。