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オリゴ糖と伝えたくて。
このオーケストラの名前についている「アキテーヌ」というのは、ワインで有名なボルドーなどを含む南フランスの地域のことです。秋田県とは何の関係もありません。 このオーケストラは、ボルドー国立歌劇場のピットにも入っていて、オペラやバレエの時は、歴史的な外観を持つ馬蹄形の客席の歌劇場で演奏しているのですが、コンサートの時には、そこからほんの500メートルほどの場所にある、2014年に出来た新しいシューボックス・タイプのコンサートホールを使っています。この「第9」も、そこで録音されていますが、おそらくそこで行われたコンサートのライブ録音なのでしょう。 この時の写真もありますが、合唱団はステージの後ろにある客席で歌っています。普通のコンサートホールだと、その後ろにはパイプオルガンが設置されているものですが、ここにはありません。ホールを作る時には「何かが足りない」とは思わなかったのでしょうか。 ソリストたちも、最近では合唱の前で歌うことが多いような気がしますが、ここでは指揮者のすぐ横で歌っています。 第1楽章の冒頭の、弦楽器のトレモロに乗ったホルンが、本当に聴こえるか聴こえないほどの小さな音で始まった時には、ここでは、何か特別なものが起こるのかもしれない、という期待をしてしまいました。でも、それ以降は、特に変哲のない、オーソドックスな演奏が繰り広げられていたようですね。第2主題がオーボエで出てくるときには、最近の原典版だと従来の音の3度上の音符を吹くのですが、ここではそんなことはやっていませんでしたから、楽譜もオーソドックスなものを使っているのでは、と思いました。 ただ、終楽章の、マーチに続くオーケストラだけの長い部分が終わって、合唱が出てくる前の有名なホルンのフレーズには、きちんと原典版通りのタイが付けられていたので、楽譜自体は原典版で、不必要なところは従来通りの演奏、という、今ではほとんどの指揮者がとっているスタンスだったようですね。 スケルツォ楽章となった第2楽章は、少し遅めの堅実なテンポで始まりました。そして、それが、中間部のトリオになると、よくあるのがそこでテンポを落とすというやり方ですが、ここでは全く同じテンポで進んでいましたね。これは、新鮮。 第3楽章はとてもゆっくりした夢見るようなテンポで穏やかに進みますが、普通は最後の最後に、ちょっとしたサプライズで、いきなり「ジャジャジャン」と来てビックリします。それを、ここではかなりソフトに演奏しているのに逆にビックリ。でも、やはり新鮮、というか、こちらの方が自然な音楽のように感じられます。 終楽章では、楽器の他に声楽が加わりますね。まずは合唱ですが、ここではボルドーの歌劇場の合唱団だけでは足らないので、アンジェ=ナント歌劇場の合唱団も加わっていますが、それでも60人ぐらいしかいません。14型のオーケストラには、これではちょっと少ないので、あまり声が聴こえてきませんし、特に男声だけになった時には、かなりアラが目立ちます。最後近くで減七の和音を静かに歌う時も、ソプラノのGがひどいことになっていました。もっとひどいのはテノールのソリストで、高い声が出ないのでファルセットになっているという、なさけなさです。 あとは、この楽章だけに登場するピッコロが、頑張って部分的に1オクターブ高い音を出しているのですが、微妙にリズムがずれているので、かなりみっともないことになっていましたね。まあ、ライブなので、仕方がないのでしょうが、最後まで全員でテンションを保ってもらいたかったですね。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music France |
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なんでも、このお二人は親友なのだそうで、これまでにたびたび共演されていますし、日本でのコンサートも何度も行っています。2022年には、仙台市でもサロン・コンサートを行っていましたね。そして、今回のアルバムのリリースに合わせて、ごく最近、9月13日には大館、9月18日には横浜、9月19日には名古屋、そして9月26日(きのう!)には大阪でコンサートが行われています。 ![]() 今回のアルバムは、ジャケットを見ればすぐに布谷さんの故郷である「日本」をテーマにしていることが分かります。イラストのお二人は、このチラシの写真とはずいぶん落差があるのは、ご愛敬。 ということで、最初のトラックは「ふるさとの四季」というタイトルの、春、夏、秋、冬にちなんだ日本の童謡をメドレーにした組曲です。編曲者が源田俊一郎となっていますが、これのオリジナルは合唱とピアノためのものでしょう。それを元に、多くのバージョンが作られているようですが、おそらくここではその合唱の楽譜を元にピアノとマリンバのために編曲して、演奏しているのではないでしょうか。 ![]() もっと最近の日本の歌も取り上げられています。まずは、THE BOOMの宮沢和史が作った「島唄」を、合唱曲の作曲家として名高い信長貴富が編曲したものです。信長さんは、布谷さんのためにマリンバ協奏曲も作っていましたが、これは、おそらく男声合唱とピアノ伴奏のための編曲をもとにしたものなのしょう。 もう1曲、小椋佳の「愛燦燦」を、シンガーソングライターの村上ゆきが弾き語りしたバージョンも、演奏されていましたね。 そんな、カバー曲だけではなく、彼らが今回の日本ツアーのために委嘱した作品も、ここで聴くことができます。もちろん、世界初録音です。それを作ったのは、浜渦正志(はまうずまさし)という、あの「ファイナルファンタジー」の音楽を作った作曲家です。その曲のタイトルは「Op 10」おそらく、このような「純音楽」に、このようなタイトルをつけているのでしょう。それは6つの楽章から出来ていて、それぞれに、彼が生まれた1970年代から、現在の2020年代までのサブタイトルが付いています。「70年代」は静かなバラード、「80年代」はリズミカルな曲で、時折ドビュッシーのような全音音階が登場します。「90年代」はかわいらしい子供の遊び、「00年代」は流麗なラヴェルのような曲、「10年代」はライヒのミニマル風、そして「20年代」には虚無感を乗り越えて前に進む、みたいな意志が感じられます。 さらに、メンバーたちが作った曲も演奏されています。ヌスが作った「マリンバ・ソナタ」は、それぞれ個性的な3つの楽章から出来ていて、様々な情景が浮かんできます。 布谷さんが作ったマリンバ・ソロのための曲「On That Far Away Day」は、美しいメロディに癒されます。最後に出てくる超ピアニシモは、楽器の限界を超えるほどの繊細さ。マリンバの可能性を極限まで追求した成果なのでしょう。 楽しめるアルバムでした。 Album Artwork © Berlin Classics |
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中でも、1960年代から1980年代までに多くの録音を行ったERATOからは、まさにランパルの黄金時代を代表するような名盤が誕生していたのです。 ![]() 2022年には、「生誕100周年」ということで、現在はRCAを経てWARNERのサブレーベルとなっているERATOレーベルでも、こんなバジェット・ボックスを発売していました(リリースは2023年)。 ![]() 今回のアルバムは、そのボックスセットから半分ほどの曲を選んで、新たにストリーミングのアイテムとして登場したものです。それでも、作曲家は数人を除いてほとんど登場しています。ヴィヴァルディあたりの曲が、大幅にカットされていたようですね。 もちろん、中には聴いたことがあるトラックもたくさんありましたが、なんせランパルですから、まだ聴いたことのないものはいくらでもこの中にあるので、そんな中から何曲か聴いてみました。 まずは、ライネッケの協奏曲です。正直、この曲をランパルが録音していたことを初めて知りました。1967年の録音、テオドール・グシュルバウアー指揮のバンベルク交響楽団という、ランパルとしては珍しいオーケストラがバックです。 まず、そのドイツのオーケストラの音色が、ドイツ人の作品を演奏しているのに、かなり軽やかな音色になっているのに驚きました。ERATOのエンジニアだと、こういうことも起こるのですね。そして、ランパルのフルートは、まさにランパルならではの華麗な音でした。今まで聴いてきたこの曲は、やはりなんと言ってもドイツ人の作品らしい、重厚な音によって演奏されていたものが多かったのですが、これはもう「ランパル」にだけが許された、自由奔放なライネッケとなっていました。何よりも、輝くようなビブラートが、ドイツ的な渋いメロディをとても華やかなものに変えていました。 そして、そこにランパルのお家芸である、目にも止まらない「速弾き」が加わります。どんな細かい音符でもくまなく響かせて時間の中に閉じ込める、という、まるで魔法のようなテクニックですね。よく聴いてみると、その細かさを際立てるために、若干音符の間を狭くしている(要するに「走って」いる)のですが、その有無を言わせぬ力には、リスナーは息を止めて聴き入るしかありません。 もう1曲、初めて聴いたのがニルセンの協奏曲です。こちらは1978年の録音、バックはヨン・フランセン指揮のチボリ交響楽団というデンマーク勢です。こちらの方は、あまりランパル色は感じられず、真摯にこの曲に立ち向かっているような印象がありました。逆に、これまで聴いたことのなかったこの作品の構造が、かなりはっきり伝わってきて、驚かされます。 1964年に録音されたのが、バッハのヴァイオリン協奏曲イ短調を、そのままフルートで吹いたバージョンです。カール・リステンパルト指揮のザール放送室内管弦楽団という、おなじみのバックです。ここでは、ランパルは淡々とバッハの書いた音符を演奏していたのが、ちょっと意外。バッハに対するリスペクトがはっきり感じられます。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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演奏しているのは、同じエストニア出身の指揮者、パーヴォ・ヤルヴィと、彼が創設したエストニア・フェスティヴァル・オーケストラです。ご存知のようにパーヴォのお父さんや、弟さんも指揮者ですが、そんなヤルヴィ一家は、ペルトとはとても親しくしているのですね。 実際、ここで最後から2番目に演奏されている「Credo(クレド)」(1968年)の初演はお父さんのネーメ・ヤルヴィが初演していますし、6曲目の「Silhouette(シルエット)」は、2009年にパーヴォ・ヤルヴィと、彼が当時音楽監督だったパリ管弦楽団のために作られています。そして、今回が、その世界初録音となっています。 1曲目は、2006年に作られ、2015年に改訂された「La Sindone」です。重苦しいイントロで始まりますが、しばらくするといかにもペルトらしい静かなメロディが繰り返されます。後半では、ダイナミックな音楽に変わり、打楽器が盛り上げます。 2曲目は、1977年に作られた有名な「Fratres」です。オリジナルは弦楽五重奏、木管五重奏、古楽アンサンブルという編成ですが、その後多くのバージョンが作られ、ここでは弦楽器と打楽器のためのバージョンが演奏されています。まさにヒーリング音楽で、油断をしていると眠気を催し、スリーピングしてしまいます。 3曲目は、この中では最も新しい曲で、2013年に作られた「Swansong」です。明るい響きの木管楽器と鐘が盛り上げますが、最後はハープのソロで静かに終わります。 4曲目の「Für Lennart in memoriam」(1997年)は、弦楽器のみの、悲しみに満ちた音楽です。 5曲目は、弦楽合奏で「Da Pace Domine」(2004年)、無条件に癒される音楽で、平和への祈りが伝わってきます。 6曲目が先ほどの「シルエット」です。オープニングは静かで重たい音楽ですが、やがて3拍子のワルツが始まります。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」が下敷きになっているようですね。 7曲目は「Cantus in memoriam Benjamin Britten」(1977年)。穏やかな緊張感の中、悲しみが押し寄せます。 8曲目は、1989年にオルガンのために作られた「Mein Weg hat Gipfel und Wellent?ler(我が道は山あり谷あり)」を、1995年に弦楽器と打楽器のために編曲し、タイトルも「Mein Weg(我が道)」と直したものです。珍しくアップテンポで軽快なリズムの曲ですが、そこに鐘とバスドラムが重さを加えています。 そして9曲目が、この中で最も初期に作られた「Credo」です。ここまでに聴いてきた曲とは全く異なる手法の音楽には、驚かされます。ここでは、ピアノ・ソロと、混声合唱が加わります。 まずは、合唱がヴォカリーズでC→Dm7→G7→Cというハーモニーを歌いだします。これは、バッハの「平均律」の最初のプレリュードのコード進行ですし、このようにコーラスで歌われると、それを下敷きにしたグノーの「アヴェ・マリア」のようにも聴こえます。と、その後に、ピアニストが、そのプレリュードを演奏し始めます。これは、ある意味「コラージュ」という現代美術の技法を彷彿とさせるものです。その後には、オーケストラが、とてつもない音圧のクラスターで、ほとんどクセナキスかと言った感じの阿鼻叫喚を登場させます。時には無調感の高いフレーズなども出てきますから、もはやこれは当時の主流であった「前衛音楽」の様相を呈しています。合唱もピアノも、もうやりたい放題です。 ただ、それが収まると、また最初の「アヴェ・マリア」が、ほぼ全コーラス演奏されて、幕を下ろすのです。これは、ある意味「あの時代」でなければ何の意味もなさない音楽のような気になります。実際、ペルトはこれ以降は、もっと分かりやすい音楽に転向しますからね。 その後に少女合唱が歌う「エストニアの子守歌」の素朴な味わいには、癒されます。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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ですから、とりあえず、これはポーランドのレーベルだとは分かりました。さらに、ここでは多くのソリストや演奏団体が参加していますが、いずれもポーランドの人たちのようですね。 そこでは、オルガニストとして、5人もの名前がクレジットされています。このうちのヤクブ・ヴォシュチャルスキという人がメインのようで、合唱曲の大半をこの方が伴奏しているほかに、全部で6曲あるオルガン曲のうちの3曲を演奏しています。残りの3曲は、それ以外の3人のオルガニスト、フィリップ・プレサイセン、ミハウ・クションジェク、マチェイ・バネクが演奏しています。彼らは、もしかしたらヴォシュチャルスキのお弟子さんなのかもしれませんね。 さらに、ウルズラ・デレン=ココシュカという人が、ソプラノ、アルト、バリトンのソリストたちの2曲の唱重と、1曲の合唱曲の伴奏をしています。 録音会場は、おそらく教会でしょうね。オルガンの残響が、とても心地よく聴こえてきます。そして、そこでは、サン=サーンスが作ったオルガン伴奏の付いた合唱などと、オルガンのための作品が演奏されていて、まさに「パリの寺院」の雰囲気を醸し出していましたよ。 合唱は、「プエリ・カントレス・クラコヴィエンシス合唱団」と、「プロ・ムジカ・ムンディ」という2つの団体が、常に一緒にクレジットされていますので、合同で歌われているのでしょう。 ただ、正直、サン=サーンスの合唱曲は、「レクイエム」以外はほとんど聴いたことがありませんから、ここで演奏されているモテットたちは、おそらくすべて初めて耳にするものばかりのようでした。 オルガンの前奏に導かれて、この合唱団の声が聴こえてきたときには、なんと素朴な歌声なのだろう、と感じました。それほど訓練を受けているような感じはしないのですが、その拙さからはとてもピュアな情感が伝わってくるのですね。それが、この教会の残響に助けられて、得も言われぬ響きとなって聴こえてきます。 そして、彼らが歌っているのは、確かに初めて聴くものばかりのようでしたが、いずれも初めて聴いたような気は全くせず、なんともすんなりと心の中に忍び込んでくる親しみやすさを持っていたのです。これが、サン=サーンスの音楽の最大の魅力なのではないでしょうか。 これで、男声パートにもうちょっと洗練さがあったなら、まさに天上からの音楽のような満たされたものがあったのでしょうが、あいにくその域にまでは達していなかったのが、ちょっと残念でしたね。 それらの曲の間に演奏されるオルガン曲では、ヴォシュチャルスキが演奏したOp.99の「3つの前奏曲とフーガ」というのが、とても面白く聴けました。これは、まさに、バッハが作った「前奏曲」の後に「フーガ」が続くという、壮大な建築物のような立派な作品なのだろうと思って聴いてみると、確かに「前奏曲」の部分ではかなり真面目な雰囲気はありましたが、「フーガ」になると、そのテーマがなんともキャッチーなのに驚かされます。風雅、というか。「1番」だと、まるで民謡のようにゆったりとした懐かしいメロディですし、「2番」では、踊りだしたくなるような軽快なリズム、なんとも和みます。 3人のソリストとオルガンによる2曲では、ソプラノの拙さがもろに出てしまっていました。 Album Artwork © Ars Sonora Studio |
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そんな山田さんが、現在のパートナーであるモンテカルロ・フィルと録音したのが、フランスの有名な3人の作曲家がそれぞれ「最初に」作った交響曲を集めたアルバムです。 その3人とは、トラック順にビゼー、グノー、サン=サーンスです。いずれの交響曲も1850年から1855年の間に作られていますが、その時の作曲家の年齢はビゼーが17歳、グノーが37歳、サン=サーンスが15歳でした。グノーだけ、年を重ねてからの作品ということになりますね。おそらく、それだけ苦悩の体験が多かったのでしょうか。 この中で、一番聴く機会が多かったのはビゼーの、唯一のハ長調の交響曲です。おそらく、これが録音も一番多いのではないでしょうか。彼は、もう1曲交響曲を作ろうとしていましたが、途中で破棄してしまったようですね。 この曲は、とてもキャッチーなメロディがゾクゾク出てきますから、おそらく初めて聴いた人でも楽しめるはずです。特に第2楽章でのオーボエが奏でるテーマは、本当の心に沁みる素晴らしいメロディです。形式も、古典的な交響曲の形を受け継いでいるので、安心して聴けます。 ですから、そこでは演奏にもそのような親しみやすさを演出してほしいものなのですが、ここでの山田さんの指揮ぶりは、何か、この曲をそんな「古典」的な部分を過大に強調したような、重苦しさを感じてしまいます。フィナーレなどは、テンポが遅すぎて、軽やかさがまるでありません。これは「おフランス」の曲なのですから、もっと肩の力を抜いてよ、という感じでしょうか。 2曲目のグノーの「交響曲第1番ニ長調」は全く初めて聴きましたが、作られたのが「大人」になってからのものということもあり、グノーの独自性が感じられてなかなか興味深いものでした。特に、のどかなテーマで始まるゆっくりした第2楽章では、なんと後半にフーガ(フガート?)が出てくるので、ちょっとびっくりしました。さらに、終楽章では、まるで、普通の交響曲の第1楽章のように、堂々とした「序奏」から始まり、その後に、きちんと提示部が繰り返されるソナタ形式が展開されています。ここでの第1楽章では、そのようなゆっくりした序奏もなくソナタ形式が始まっていましたから、ちょっと変わっています。演奏時間もこの第4楽章が一番長いんですよね。 そして、最後のサン=サーンスです。彼は、なんと言っても最後の「第3番」だけが突出して人気がありますが、その前に交響曲は4曲作っているのですね。その内、番号が付けられたのは2曲です。ここで演奏される最初に作られたイ長調の曲と、3番目に作られた「首都ローマ」というサブタイトルがある曲には、番号が付けられていません。 これは何回か聴いたことがありますが、ほとんど忘れてしまっています。改めて聴いてみると、第1楽章ではモーツァルトの交響曲第41番の終楽章に出てくる「ド、レ、ファ、ミ」というテーマが登場していました。もちろん、キーが違いますから、正確には「A B D C#」ですけどね。そして、第2楽章は、ゆったりとした長調のテーマが3回繰り返されて、その間に2回、短調のテーマが挟まっているんですね。第3楽章はやはりモーツァルトの「フィガロの結婚」の中に出てくるような屈託のないテーマを使った典型的なメヌエットで、間にはトリオも出てきます。終楽章はやはり型通りのアレグロですが、ここでの山田さんの演奏はちょっとテンポが遅すぎ、もっと軽やかな方が好きですね。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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つまり、「ジャズ組曲」では、クラシックの楽器のフルートとジャズ・ピアノ・トリオとの「対決」だったのですが、こちらではクラシック組にギターが入った、ということになりますね。 ということで、「ジャズ組曲」では、まずはフルートとピアノでのデュエットから始まる、といったようなスタイルの曲が多かったようですが、今回は、基本的にフルートとギターのデュエットで曲が始まるようになっています。そして、そのような「クラシック」テイストの強い部分と、トリオの、文字通り「ジャズ」のテイストの部分とがきっちり分かれているという印象が強くなっています。 たとえば、1曲目の「Rococo」では、まるでバッハの「平均率」のフーガのようなメロディの2つの声部をフルートとギターで演奏するという、まさにロココ風の部分から始まりますが、それが終わったところで、唐突にトリオだけの演奏が始まるのですね。それは、きっちりと独立した、スウィング・ジャズになっていて、その前のフルートとギターのデュエットは何だったのか、という感じにさせられます。というか、ここでのピアノのアドリブ・ソロなどは、とてもかっこいいですね。楽譜は見てないのでわかりませんが、これはピアニストのジョナサン・タージョンのアドリブだったのではないでしょうか。 でも、その後には、トリオにフルートとギターも加わっての「共演」が始まるのですが、何か、それぞれのノリが微妙に異なっていて、あまり楽しめないような気がします。ですから、それは長くは続かず、またギターとフルートだけの部分とか、トリオだけの部分が脈絡もなく出現して、なんともまとまりに欠ける曲になっているなあ、という印象を強く受けましたね。 ただ、そのあたりの完成度は、曲によってそれぞれ異なっています。2曲目の、ギターのソロで始まる「Madrigal」は、おそらく6/8拍子のバラードでしょうが、「モルダウ」みたいなメロディがとても美しいので最後まで楽しむことが出来ました。 その次の「Gaylancholic」も、シンコペーションを多用したテーマがとても印象的で、ジャンルを超えて楽しめるようなアレンジになっていましたね。ただ、フルートのブレスがあまり上手にとれていなかったようで、ジャズのリズムで進んでいるところでは、ブレスのせいでビート感が台無しになっているところがあったのは残念でした。 4曲目の「Fantasque」という曲は、最初から最後まで5拍子で演奏されますが、これもなかなかの緊張感がある演奏でしたね。この拍子はジャズでは珍しくないのですが、やはりフルートはちょっと苦戦しているところはありましたけどね。 5曲目の「Canon」では、1曲目と似たようなテイストのカノンですが、それがフルートとギターにピアノも加わった3声なのがユニーク。 6曲目の「Tendre」になると、ラブリはアルトフルートに持ち替えました。この楽器が奏でるのどかなテーマは、その深い音色でとても心に沁みます。ですから、ジャズの部分でも、それがきっちり保たれていて、違和感がありません。これは、素敵でしたね。 そして、最後の曲は「Badine」。それこそ、バッハの「組曲第2番」の最後の曲の「バディネリ」と同じテイストを持つ音楽です。というか、これはほとんど、そのバッハの曲を下地にしているようですね。となると、これはもうクラシックもジャズも一体化して、あの小気味よい音楽が聴こえてきます。 Album Artwork © Disques Atma Inc. |
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演目はモーツァルトの「レクイエム」ですが、ホーネックはただそれをそのまま演奏するのではなく、サブタイトルにもあるように「言葉と音楽の中のモーツァルトの死」というテーマで、「レクイエム」以外の音楽と、朗読によって伝えられるテキストを加えてのコンサートを敢行し、それをそのままアルバムに収録していました。 その「朗読」のパートを任されたのは、F・マーリー・エイブラハム。あの「アマデウス」という歴史的な映画で、アントニオ・サリエリ役を演じた人です。まだご存命だったのですね。 ![]() コンサートは、まず、鐘の音から始まります。それに続いて、男声合唱のユニゾンでグレゴリオ聖歌の「Requiem in aeternam」が歌われます。モーリス・デュリュフレの「レクイエム」でおなじみのメロディですね。 そして、エイブラハムがモーツァルトの手紙を読み終えたところで、初めてオーケストラの演奏が始まります。でも、それは「レクイエム」ではなく、「フリーメーソンのための葬送音楽 K.477」という、とても暗い音楽でした。 その後、またグレゴリオ聖歌が歌われ、それに続いてモーツァルトの「Laudate Dominum K.339」が、オーケストラをバックにソプラノ・ソロと合唱で歌われます。そして、ネリー・ザックスのテキストをエイブラハムが朗読し終わって、初めて「レクイエム」の登場です。 それは、かなり編成の大きいオーケストラと、150人近くの大合唱という、まるでマーラーを演奏するようなサイズでした。ところが、ホーネックは、そんな大人数を駆使して、とても幅広く、かつ細やかなダイナミック・レンジを創出していたのです。合唱は、フル・ヴォイスからピアニシモまでの落差を瞬時に行き来して、とてつもない表現力を発揮しています。オーケストラも、それに応えて振幅の大きな演奏を繰り広げています。 それだけではなく、ホーネックは、そのような表現に必要だと感じたら、オーケストレーションを変更することも厭いませんでした。 ![]() そのような個所は「Domine Jesu」の中のあるフレーズを強調するためにトロンボーンを加えたりと、随所に見られます。ですから、ここで彼が演奏していたのは、まさに「ホーネック版」だったのですね。もちろん、それは指揮者の裁量なのですから、最良の効果を目指したもので、なんの問題もありません。ちょっとびっくりしますけど。 さらに、ホーネックは、ジュスマイヤーが作ったとされている「Sanctus」、「Benedictus」、「Agnus Dei」を丸ごとカットしています。さらに、最後の「Commnio」も、最初の曲の繰り返しということでカットしています。その代わりに、最後に演奏されたのが、「Lacrimosa」の、モーツァルト自身が書いた最初の8小節です。 これは、まさに、「死」というものを真っ向から表現したやり方なのでしょう。 でも、それでコンサートを終わらせるのはあまりにも救いがありませんから、その後には、同じ年に作られた、有名な「Ave verum corpus」が演奏されています。これが、とてもゆっくりなテンポで始まった弦楽器の前奏は、細かいビブラートのせいでしょうか、とてもふんわりとしたサウンドで、もう「救い」がいっぱいの音楽になっていたのです。ホーネックによる完璧なパフォーマンスに、まんまとしてやられました。このスタイルは、2001年にはすでに完成されていたのでした。 SACD Artwork © Reference Recordings |
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マンハイムで作られたのが、バウムクーヘンではなく(それは「ユーハイム」)、ソロ協奏曲の2曲だと言われています。ただ、いずれの曲の楽譜も現在は失われているので、それが本当のことなのかはまだ分かっていないのだそうですね。ニ長調の協奏曲は、その前に作られていたハ長調のオーボエ協奏曲を作り直したものだ、と言われていますが、その「作り変え」の作業を行ったのがモーツァルト自身であったかどうかも、はっきりしてはいません。 それに対して、フルートとハープという珍しい編成のソリストたちの協奏曲の方は、モーツァルトの日記にそれが作られた経緯が記されているので、その時期に作られていたことは間違いないとされています。その、1778年5月14日に書かれた手紙の一部をご紹介します。吉田秀和の抄訳ですが。 ド・ギーヌ公爵は比類のないくらいのフリュートの名人ですし、僕の作曲の弟子になっているその娘さんは、これまたすばらしくハープをひきます。彼女はとても才能を持っていて、天才もあり、ことに記憶力は無類ともいうべく、二百曲にのぼるレペルトワールを全部暗譜でひきこなします。ですが、作曲に天分があるかどうか、とくに創意、つまりイデーの点でどうかと、自分でもかなり疑問を持っています。ところが、お父さんは(ここだけの話ですが、彼は、少々度を越して娘に惚れ込んでいるのです)、彼女が絶対に確かにイデーをもっている、ただ少々頓馬で、自分を信用しなさすぎるのだ、といってます。父親の意向も、別に大作曲家に仕立てるという訳ではないので、「別にオペラとか、アリアとか、協奏曲、交響曲を作れというのではなく、ただ彼女の楽器とわたしの楽器のためにグランド・ソナタを書いてほしいのです」と言ってます。 ということで、あくまでクライアントの要求に従って、この協奏曲を作ったのですね(「グランド・ソナタ」ではないですが)。ただ、この公爵は、娘のレッスン代をケチったり、そもそもこの協奏曲の代金も払っていない形跡があるというので、人格的には問題があったようですね。というか、彼は、かつてはフランスの外交官としてベルリンやロンドンに滞在していたのだそうですが、なんと、贈収賄の疑いでフランスに呼び戻されていた、といういかがわしい人物だったようですね。 とは言っても、彼は当時開発されたばかりの、8キーのフルートを持っていたようですね。それは、すべての半音のための指孔が空いているだけではなく、それまではDまでしか出なかった最低音に、C#とCの音も加えられていました。ですから、モーツァルトはそれを誇示する伯爵のために、第1楽章の151小節目から、ハープのバックに低音の「D-C#-C」というフレーズを与えています。クライアントのためなら何でもするという、プロ意識ですね。 今回の録音でも、フルートのアンナ・ベッソンは、ト長調とニ長調のソロ・コンチェルトでは1キーのフラウト・トラヴェルソ、ハ長調のコンチェルト・グロッソでは8キーの楽器を使っています。 彼女の演奏は、相変わらずの正確なピッチとゆるぎないテクニックで、とてもトラヴェルソとは思えないような、なんの不安もない演奏を聴かせてくれています。音色も、とてもソフトで魅力的、最近ではトラヴェルソでも倍音を乗せた低音を出す人もいますが、彼女はあくまでナチュラルな低音での勝負ですね。 ハープも、映像で見ることが出来ますが、外観は現代の楽器と同じように見えても、音色はプリミティブで、フルートとよく調和しています。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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久石譲と言えば、多くのヒット曲を持つ作曲家ですが、彼自身はあくまで「シリアスなミニマル・ミュージックの作曲家」と自認していますから、そのジャンルの創設者であるスティーヴ・ライヒに対する敬愛感はかなりのものがあるのでしょう。 その思いが結実したのが、今回のコンサートでした。ライヒの作品は、小規模なものが殆どで、フル・オーケストラに合唱が加わるような編成のものは、おそらくこの「砂漠の音楽」の他にはないのではないでしょうか。それは、日本ではこれまでその編成で演奏されることはなかったそうで、その「日本初演」を、自らの指揮で実現することが出来たのは、感無量だったでしょうね。それは、この曲が作られてから40年後のことでした。 ![]() そして、久石の自作曲「世界の終わり」という、5つの部分から成る大作です。こちらも合唱と、ソプラノのソロが加わっています。作られたのは2015年ですが、なんでも、2001年のニューヨークでの同時多発テロがテーマということですね。ですから、おそらくそのような重いメッセージが込められた作品だろうな、という先入観はありました。 ところが、1曲目、まさに「ミニマル」の音楽で作られていたものの中に、いきなりホルストの「木星」のテーマが出てきたのには、かなりの違和感がありました。確かにそれはミニマルっぽいフレーズではあるのですが、あまりにも安直な気がしてしまいます。 2曲目になると、後半にはサックスのソロが始まったと思ったら、なんとビッグバンドの浮き浮きとしたスウィングになってしまいました。いったい何を考えているのか、と、この作曲家の感性を疑ってしまいましたね。 3曲目は、ソプラノのソロが加わって、なにやら無調感の漂う悲しみにあふれた音楽になっています。初演の時にはカウンターテノールが歌っていたようですが、こちらも、男性のように張りのある声のソリストでしたね。 4曲目は、合唱も加わってオリエンタルなテーマの、まさにミニマル、と言った感じの変拍子が炸裂します。 そして最後は、曲全体のタイトルと同じ「The End of the World」というタイトルを持つ曲です。しかし、何やら、クラスターを多用した暗い音楽の中に、いきなりバラード風の6/8のアルペジオが出てきたかと思うと、それをバックにソプラノが、それと同じタイトルの、1962年にスキーター・デイヴィスが歌って大ヒットしたカントリー・チューンを歌いだしたではありませんか。いやいや、この曲は、もちろん「世界の終わり」という歌詞はありますが、それは、「恋人が私に別れを告げた時に、もう世界は終わってしまったはずなのに、どうして相変わらずお日様が照っていたり、浜辺に波が寄せたりするの?」という、他愛のないラブソングなんですけどね。それを、いくらカタストロフィー感満載の音楽で飾ったとしても、それは単なる「カバー」にしかなり得ません。そこになにか別の意味を持たせようとするのは、バカらしい試みです。 CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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