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オリゴ糖と伝えたくて。
マンハイムで作られたのが、バウムクーヘンではなく(それは「ユーハイム」)、ソロ協奏曲の2曲だと言われています。ただ、いずれの曲の楽譜も現在は失われているので、それが本当のことなのかはまだ分かっていないのだそうですね。ニ長調の協奏曲は、その前に作られていたハ長調のオーボエ協奏曲を作り直したものだ、と言われていますが、その「作り変え」の作業を行ったのがモーツァルト自身であったかどうかも、はっきりしてはいません。 それに対して、フルートとハープという珍しい編成のソリストたちの協奏曲の方は、モーツァルトの日記にそれが作られた経緯が記されているので、その時期に作られていたことは間違いないとされています。その、1778年5月14日に書かれた手紙の一部をご紹介します。吉田秀和の抄訳ですが。 ド・ギーヌ公爵は比類のないくらいのフリュートの名人ですし、僕の作曲の弟子になっているその娘さんは、これまたすばらしくハープをひきます。彼女はとても才能を持っていて、天才もあり、ことに記憶力は無類ともいうべく、二百曲にのぼるレペルトワールを全部暗譜でひきこなします。ですが、作曲に天分があるかどうか、とくに創意、つまりイデーの点でどうかと、自分でもかなり疑問を持っています。ところが、お父さんは(ここだけの話ですが、彼は、少々度を越して娘に惚れ込んでいるのです)、彼女が絶対に確かにイデーをもっている、ただ少々頓馬で、自分を信用しなさすぎるのだ、といってます。父親の意向も、別に大作曲家に仕立てるという訳ではないので、「別にオペラとか、アリアとか、協奏曲、交響曲を作れというのではなく、ただ彼女の楽器とわたしの楽器のためにグランド・ソナタを書いてほしいのです」と言ってます。 ということで、あくまでクライアントの要求に従って、この協奏曲を作ったのですね(「グランド・ソナタ」ではないですが)。ただ、この公爵は、娘のレッスン代をケチったり、そもそもこの協奏曲の代金も払っていない形跡があるというので、人格的には問題があったようですね。というか、彼は、かつてはフランスの外交官としてベルリンやロンドンに滞在していたのだそうですが、なんと、贈収賄の疑いでフランスに呼び戻されていた、といういかがわしい人物だったようですね。 とは言っても、彼は当時開発されたばかりの、8キーのフルートを持っていたようですね。それは、すべての半音のための指孔が空いているだけではなく、それまではDまでしか出なかった最低音に、C#とCの音も加えられていました。ですから、モーツァルトはそれを誇示する伯爵のために、第1楽章の151小節目から、ハープのバックに低音の「D-C#-C」というフレーズを与えています。クライアントのためなら何でもするという、プロ意識ですね。 今回の録音でも、フルートのアンナ・ベッソンは、ト長調とニ長調のソロ・コンチェルトでは1キーのフラウト・トラヴェルソ、ハ長調のコンチェルト・グロッソでは8キーの楽器を使っています。 彼女の演奏は、相変わらずの正確なピッチとゆるぎないテクニックで、とてもトラヴェルソとは思えないような、なんの不安もない演奏を聴かせてくれています。音色も、とてもソフトで魅力的、最近ではトラヴェルソでも倍音を乗せた低音を出す人もいますが、彼女はあくまでナチュラルな低音での勝負ですね。 ハープも、映像で見ることが出来ますが、外観は現代の楽器と同じように見えても、音色はプリミティブで、フルートとよく調和しています。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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久石譲と言えば、多くのヒット曲を持つ作曲家ですが、彼自身はあくまで「シリアスなミニマル・ミュージックの作曲家」と自認していますから、そのジャンルの創設者であるスティーヴ・ライヒに対する敬愛感はかなりのものがあるのでしょう。 その思いが結実したのが、今回のコンサートでした。ライヒの作品は、小規模なものが殆どで、フル・オーケストラに合唱が加わるような編成のものは、おそらくこの「砂漠の音楽」の他にはないのではないでしょうか。それは、日本ではこれまでその編成で演奏されることはなかったそうで、その「日本初演」を、自らの指揮で実現することが出来たのは、感無量だったでしょうね。それは、この曲が作られてから40年後のことでした。 ![]() そして、久石の自作曲「世界の終わり」という、5つの部分から成る大作です。こちらも合唱と、ソプラノのソロが加わっています。作られたのは2015年ですが、なんでも、2001年のニューヨークでの同時多発テロがテーマということですね。ですから、おそらくそのような重いメッセージが込められた作品だろうな、という先入観はありました。 ところが、1曲目、まさに「ミニマル」の音楽で作られていたものの中に、いきなりホルストの「木星」のテーマが出てきたのには、かなりの違和感がありました。確かにそれはミニマルっぽいフレーズではあるのですが、あまりにも安直な気がしてしまいます。 2曲目になると、後半にはサックスのソロが始まったと思ったら、なんとビッグバンドの浮き浮きとしたスウィングになってしまいました。いったい何を考えているのか、と、この作曲家の感性を疑ってしまいましたね。 3曲目は、ソプラノのソロが加わって、なにやら無調感の漂う悲しみにあふれた音楽になっています。初演の時にはカウンターテノールが歌っていたようですが、こちらも、男性のように張りのある声のソリストでしたね。 4曲目は、合唱も加わってオリエンタルなテーマの、まさにミニマル、と言った感じの変拍子が炸裂します。 そして最後は、曲全体のタイトルと同じ「The End of the World」というタイトルを持つ曲です。しかし、何やら、クラスターを多用した暗い音楽の中に、いきなりバラード風の6/8のアルペジオが出てきたかと思うと、それをバックにソプラノが、それと同じタイトルの、1962年にスキーター・デイヴィスが歌って大ヒットしたカントリー・チューンを歌いだしたではありませんか。いやいや、この曲は、もちろん「世界の終わり」という歌詞はありますが、それは、「恋人が私に別れを告げた時に、もう世界は終わってしまったはずなのに、どうして相変わらずお日様が照っていたり、浜辺に波が寄せたりするの?」という、他愛のないラブソングなんですけどね。それを、いくらカタストロフィー感満載の音楽で飾ったとしても、それは単なる「カバー」にしかなり得ません。そこになにか別の意味を持たせようとするのは、バカらしい試みです。 CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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