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釧路失言。
このクラスの作曲家になると、例えば合唱団とか、合唱のイベント団体などからの委嘱で曲を作ることが多くなってくるのでしょう、ここで演奏されているものは、1曲を除いて、すべてそのような委嘱によって作られたものです。その中には、ここで演奏している団体からの委嘱も含まれています。 その、唯一の、委嘱ではなく、あくまで彼自身の意志で作った異色の曲が、「Rivers and Seas」という、この中では最も初期の2008年の曲です。それは、彼の友人の結婚式のために、サプライズで作ったという、心温まるプレゼントだったのだそうです。 もしかしたら、それまでは誰も知らなかった作曲家だったものが、これが引き金になって、その後に委嘱が殺到するようになったのかもしれませんね。 つまり、ここでは、その2008年から、このアルバムが録音された2024年までに作られた合唱曲が演奏されているのです。 その「結婚式のプレゼント」となった曲は、まあ、その場にふさわしい、明確なメロディと、分かりやすい和声を持った曲でしたが、それはこのアルバム全体の中ではちょっと異質なキャラクターだったような気がします。 まず、最初に演奏されているのが、ジャケットの写真にもある、北アメリカ大陸西部の「レッドウッド国立州立公園」という、レッドウッド(セコイア)の原生林が広がる地帯の先住民の中のトロワ族の言語を使った「K'vsh-chu」という曲です。このタイトルはトロワ語で「セコイア」のことなのだそうです。 2017年に作られたこの曲は、3曲で構成されていて、そのテキストそのものが、自然保護のメッセージとなっていますが、その語感を的確に合唱曲として作られたものからは、それがストレートに伝わってきます。2曲目などは、もはや言葉もなくなり、聴こえて来るのは息の音とつぶやきだけ、という、はたして「合唱曲」と呼べるのかも分からないようなスタイルですが、その、とてもかすかな音からは、なんとも神秘的な雰囲気が漂ってきて、思わず引き込まれてしまいます。3曲目は重厚なハーモニーも現れ、西洋的なコラールのような雰囲気も漂いますが、そのバックからは不気味なささやきが聴こえてきました。 ![]() 1曲目は、まるでリゲティの「アトモスフェール」のようなクラスターのサウンドが、合唱によって作られています。2曲目になると、今度は息のみでのクラスター、というか、ほとんど「ホーミー」のような倍音唱まで登場します。3曲目は、この中ではまっとうな「合唱曲」にはなっていますが、やはりリゲティの作品のような「宇宙感」が漂っています。 他の曲も、そのような、技法的には様々な「技」を駆使していますが、合唱としてのハーモニー感はいずれのものにも、それぞれの特徴を持って感じることができます。その振幅は、古典的なハーモニーからクラスターまで様々ですが、いずれのものにも作曲家の個性を感じることができます。 ちょっと意外なところでは、本気で「ミニマル」にまで挑戦している曲もありました。それは、2011年に作られた「by the numbers」という曲です。テキストは「one, two, three four」だけ、それを元にリズミカルなフレーズを作って、ミニマル的な処理をした、という逸品です。 いずれも、とても難しい曲ですが、ここで指揮をしているコルネリウス・トラントウと、彼が指揮者を務めている2つの団体、「ハノーヴァー音楽演劇大学室内合唱団」と「アンサンブル・ヴォーカル」という合唱団は、それらを難なく歌い切っていました。彼らは、一緒に演奏したり、どちらかが単独で演奏したりしていますが、それは全く判別できませんでした。 CD Artwork © Rondeau Production GmbH |
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確かに、この楽器は、雅楽に限らず現代音楽のジャンルでも、例えば武満徹などが積極的に作品の中に取り入れていましたから、クラシックファンの間でもある程度認知はされていたはずです。 ただ、その楽器の音は聴いたことがありますが、そもそもどのような構造なのかはほとんど知らなかったので、そこをクリアしようと、ひととおり調べてみました。 ![]() そして、その竹のパイプには、脇に穴が開いて、その穴を指でふさいだ時だけ、音が出るようになっているのです。つまり、管の長さはリードのピッチと共鳴するように設定されていて、その脇に穴が開いていると、その共鳴が妨げられて音が出なくなるのですね。というか、息を吐いたり吸ったりをしているときには、すべてのリードは振動しているのですが、穴が開いていると共鳴しないので音が出ず、穴をふさいだ時だけ音が出る、ということになるのです。 カニササレアヤコさんは1994年生まれ、本名は川上彩子さんというのだそうです。現在は、ロボット工学の会社に勤務しながら芸人活動を行っていますが、その間にも東京藝術大学の邦楽科に通って笙についての研鑽も行っています。 今回は「阿A」という、赤を基調にしたジャケットのものと、「吽UN」という青を基調にしたアルバムの2枚を同時にリリースしていました。「赤盤」と「青盤」、ビートルズみたいですね。2枚合わせて「阿吽」となるわけです。「阿吽の呼吸」などという、邦楽ではよく使われる言葉です。 この2枚では、意図してキャラクターを変えています。「赤盤」はホットに、「青盤」はクールに、というところでしょうか。まず「赤盤」では、彼女のオリジナルで「丹後調 調子」という曲から始まります。これは、笙のデモンストレーションのような曲ですが、その「丹後調」というのがなにか意味深ですね。 それは、次の曲がピアソラの「リベルタンゴ」であることによって、「丹後=タンゴ」であることが分かります。そこでは、イントロに続いて、笙によってタンゴのリズムが提示されます。その後には、メロディが聴こえてきますが、そのバックに時折そのリズムが聴こえてきます。最初は多重録音かな、と思ったのですが、どうやら、それはメロディとリズムを、同時に出しているようでした。こんな奏法もあるのですね。 ピアソラは、今度は彼女のピアノと笙の多重録音で「ブエノスアイレスの夏」へと続きます。彼女はピアノも本物、2つの楽器で、まっとうなタンゴのグルーヴをしっかり表現しています。 このアルバムの中には、真鍋尚之さんという、本物の筝奏者で作曲家の方が作った「呼吸 III」という、まさに笙による「現代音楽」も披露されています。これは、なんとも懐かしい「無調」の曲で、フラッター・タンギングなども駆使されている、とても難しそうな曲ですが、彼女は完璧に演奏しています。 そして、彼女はミニマルミュージックにも手を染めていることも分かります。すごいですね。 「青盤」になると、その曲調はガラリと変わります。「癒し系」、「グレゴリオ聖歌」と言ったタームが耳を横切ります。そして、バッハやドビュッシーの名曲まで、そんな雰囲気でカバーしているのですね。これが絶品。 これはもう、「芸人」の域を超えた、真摯に音楽と対峙している一人の音楽家が、全身全霊を込めて作ったアルバムです。 CD Artwork © Kanisasare Records |
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彼はイタリア人とドイツ人のハーフですが、フランスの音楽もとても好きで、ここでは、彼が特に好きな作曲家と言っているリリ・ブーランジェの「D'un soir triste(哀しみの夜に)」というタイトルの、この24歳で夭逝した作曲家の遺作と、ベルリオーズの「幻想交響曲」を取り上げています。 「幻想」は、なんでも2023年に彼が参加したコンクールで演奏して確かな手ごたえを感じたということで、このアルバムでも取り上げることにしたのだとか。録音したのは26歳の時、ベルリオーズがこの曲を作った時も26歳だったという因縁もあったのでしょうし、特に、この曲でのオーケストレーションには心底感服したようですね。 それについては、ライナーノーツの中で「ファゴット4本をユニゾンで演奏した例も、初演のわずか13年前に発明された楽器であるオフィクレイドを2本使用した例も、他に知りません」と語っていましたね。 このオフィクレイドという楽器は、古楽器である「セルパン」を、現代の楽器としてよみがえらせたもので、終楽章の「ディエス・イレ」のテーマではっきり聴こえます。ただ、普通のオーケストラにはこんな楽器はないので、代わりにチューバが使われることが多いでしょうね。でも、ここでは、ここまで言っているのですから、間違いなくオフィクレイドが使われているのでしょう。たしかに、それはチューバとは一味違った、なにか鄙びた音色のように感じられました。 例えば、ガーディナーあたりの映像を見てみると、確かにオフィクレイドと、それと一緒にセルパンまで演奏させていましたから、ピリオド系の団体では普通に使われているのでしょうね。たとえばミンコフスキの録音などでも、こんな感じの音が聴こえていたようです。 そして、フォロンの場合は、その後にサプライズが待っていました。それは、オフィクレイドのテーマを受けて、音符の長さを半分にしたものがホルンとトロンボーンによって奏でられるのですが、それがまるで合唱のように、とても滑らかに歌われていたのですよ。今まで、ここをこのように演奏していたものなんて、聴いたことがありません。もっと、一音一音をくっきりと切って吹いていたはずです。 ![]() 第2楽章では、コルネットのオブリガートが聴こえてきました。最近ではあまり聴かれなくなったやり方ですが、ここで使われているベーレンライター版の楽譜では、コルネットはありません。何かの手違いでしょう。 ブーランジェの曲は初めて聴きましたが、大オーケストラの色彩を存分に駆使して、ドビュッシーをベースにした音楽が繰り広げられています。壮大なシーンから、しっとりとしたシーンまで、さまざまな情景が描かれていますが、タイトルから導かれるような「哀しみ」の情感はほとんどありません。最後の部分に出てくるゆったりとしたテーマが、なにか、心に残ります。彼女が迎えるであろう「死」を恐れるのではなく、もっと強い意志のようなものを感じることが出来ます。 この演奏は、ブレーメンにある「Die Glocke(ディー・グロッケ)」というコンサートホールで行われました。 ![]() Album Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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指揮者のヤープ・ヴァン・ズヴェーデンは、スウェーデンではなく、オランダで生まれました。彼は2012年から2024年まで、香港フィルの音楽監督を務めていました。同じ時期、2018年から2024年までは、ニューヨーク・フィルの音楽監督も兼任していたのですから、すごいですね。 香港フィルとは、2015年から2018年までの4年間で、ワーグナーの「指環」をコンサート形式で上演し、それも録音していましたね。そして、それらを「BD-A」というフォーマットでリリースしていたのですよ。それは、ある意味画期的な出来事でした。そこでは、ハイレゾでサラウンドの再生ができたのですからね。それは、おそらく世界初のものだったのではないでしょうか。 しかし、この、将来を期待されていたフォーマットは、この「指環」を作っている時期には、すでに終焉を迎えようとしていました。世の中は、もはやこのようはフィジカルなツールには背を向けて、音楽はインターネットで聴くという時代に変わっていたのです。このNAXOSレーベルにとっても、2018年に録音された「神々の黄昏」が、最後のBD-Aになっていたはずです。 その後、このチームがワーグナーの作品を演奏していたのかどうかは分かりませんが、録音としては、今回の「オランダ人」が、彼の任期の最後の年に行われるまでは、その形跡はありません。ツィクルスを作ることは出来ませんでしたが、とりあえず、普通に演奏されるオペラの最初と最後のものだけは録音できていたようですね。2011年には、オランダ放送フィルと「パルジファル」のSACDもCHALLENGEからリリースしていましたし。 サヴァリッシュは、このオペラの楽譜の改訂される前の版も取り入れて演奏していましたが、今回は、ブックレットにしっかり「1842年から1880年の間に改訂された版」と明記されていますから、まあ、普通に演奏されている形をとっているのでしょう。 ![]() それが、今回はきちんと客席で歌っていますから、歌うことに集中できていて、ほぼ理想的な形で聴くことが出来ましたね。特に、男声合唱は随所で重要なナンバーを任されていますが、それらを、しっかり設定に合致した表現で歌っていました。 女声合唱も、第2幕のゼンタのバラードの最後の部分などは、とても澄み切った響きで、なにか魂が浄化されるような印象まで与えてくれていましたね。 ソリストでは、オランダ人役のブライアン・マリガンが、ちょっとユニークなオランダ人を演じていたのではないでしょうか。苦悩をいっぱいしょい込んだ男、というイメージはあまりなく、もっと積極的に自己主張をする、みたいな、ちょっとモダンな雰囲気がありましたね。 それに対して、ゼンタ役のジェニファー・ホロウェイは、今どきそれはないだろう、というぐらいの、旧態依然とした歌い方だったのには、閉口しました。何しろ、ソプラノはでかい声さえ出していればいい、とで思っているのでしょうか、その声は全くコントロールされていなくて、ただ吠えている、という感じなのですからね。 CD Artwork © Naxos Rights(Europe)Ltd |
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それは、このアルバムを引っ提げてのツアーだったようですね。これが、この二人での2枚目のアルバムということで、昨年日本で録音されていたものでした。曲目は、タイトルの通り、大バッハと、その息子たちのフルート・ソナタが集められています。 1枚目と同じように、ロマニウクはチェンバロとフォルテピアノを曲によって使い分けています。 最初に聴こえて来るのが、エマニュエル・バッハの有名なト長調のソナタです。ただ、曲が始まる前に柴田さんのフルートがちょっとしたインプロヴィセ―ションを披露している、というのが、やはりこのコンビだな、という気にさせられるサービスです。「本体」の方は、ロマニウクはフォルテピアノを演奏しているのですが、いつもながらの多彩なストップの選択で、楽しませてくれます。 大バッハの曲では、イ長調のソナタ(BWV 1032)が取り上げられています。この曲は、第1楽章の一部が欠損しているので、それを演奏するにあたってはその部分を修復する必要があります。その修復を、ここではロマニウクが行っているというのですから、いったいどんなものが出来ているのか、とても興味がありました。でも、出来上がってみたものを聴いてみると、それがあまりにも「普通」だったことに驚いてしまいました。たとえば、ベーレンライターの新バッハ全集では、ハンス・ペーター・シュミッツがその修復を行っているのですが、ロマニウクの仕事はそれとほとんど同じ次元のもののように感じられました。ちょっとがっかりしてしまったのですが、それは、おそらく彼が、そんな「普通」のことをまずやっていた上で、さらにもっとぶっ飛んだこともできるのだということを示したかったからなのでしょう。 ですから、最後に演奏されているのが、大バッハの「組曲ハ短調 BWV 997」では、逆にとことんぶっ飛んだことをやっていましたね。 この曲は、ジャンル別にまとめたBWVのナンバリングでも分かる通り、リュートのための作品という範疇にカテゴライズされているものなのですね。ただ、そもそもこの曲は、リュートという、弦を直接指でつま弾く楽器のために作られたものではなく、「ラウテンヴェルク」、つまり、「リュート・ハープシコード」という鍵盤楽器のために作られていたのです。自筆稿はもはや失われていて、残されたのは写筆稿だけなのですが、それをリュートのために作り直されたものが、BWVには載っている、ということなのですね。 それは、一応、フルートとチェンバロのデュオという形で楽譜も出版されているので、かつては「バッハのフルート作品集」のようなアルバムでは演奏されたり、リサイタルで取り上げていたりすることもあったのですが、最近ではあまり見かけなくなっていたのは、そのような出自だったからなのかもしれません。 ですから、紫原さんとロマニウクは、そんな、ある意味、得体のしれないものを素材にして、とても楽しい演奏を聴かせてくれていました。 一応、元の楽譜では「プレリュード」、「フーガ」、「サラバンド」、「ジーグ」、「ドゥーブル」という5つの曲で出来ているようになっていますが、まず、この中で3声のフーガになっている「フーガ」は、あえてフルートとのデュオにはしないで、フォルテピアノだけで演奏しています。 そして、最後の「ジーグ」のバリアントである「ドゥーブル」では、最初はフォルテピアノだけだったものが、途中からトラヴェルソが入ってきて、なんとも大胆で胸のすくような即興演奏を行っているのですよ。そして、その後に「エピローグ」として、「ジーグ」の変奏が繰り返される、というアイディアです。意表を突かれることばかりで、とても楽しめました。 CD Artwork © Channel Classics Records |
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それは、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」そして「アニュス・デイ」といった後半の部分が手つかずだったのですが、それでも演奏には1時間以上かかります。ですから完成していれば、おそらくヴェルディの「レクイエム」を超える大作になっていたことでしょう。 今回の録音では、なんせレーベルがDECCAですから、録音的にはかなりの期待をしていました。ただ、オーケストラと合唱が、ヴェローナのコロシアムを使った野外オペラの団体だ、というのが、ちょっと気になります。指揮者のゲルハルト・ファクラーという人も、このアルバム以外はほとんど見つからない、というレアな人ですし。 とは言っても、これは世界初録音。正確な録音日は、1979年2月20日から22日までです(LPのリリースは1980年で、日本盤は1984年)。そして、録音会場はヴェローナの「テアトロ・フィラルモニコ」というオペラハウスですから、コロシアムのような屋外ではありませんでした。 ただ、以前聴いたアルバムでは、ソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという5人のソリストが参加していたのに、今回はソプラノのクレジットがありません。でも、なんせ、テノールがパヴァロッティだというのですから、聴いて損はないだろうと、とりあえず聴いてみることにしました。 まずは、録音に関しては完全に失望させられました。なんとも雑なバランスで、オーケストラや大人数の合唱は、もう最初から歪みきっています。ソリストたちも、かなりアバウトな質感で、期待していたパヴァロッティの声も、アンサンブルの中では全く艶のない、ガサガサな感じで聴こえてきて、最初はとてもパヴァロッティとは思えませんでした。 先ほどのソリストの人数の問題も、解決しました。この曲の中で、ソプラノとアルトのソロが一緒の出てくるところはないのですね。厳密にいえば、5人のアンサンブルと合唱が一緒に歌う、というところはあるのですが、そこは別にソリストではなく、合唱団員にまかせてもいいようなパートでしたね。ということで、メゾソプラノのヴィオリカ・コルテスが、ソプラノとアルトのソロを一人で歌っていたのでした。 この曲が長くなっているのは、「セクエンツィア(ディエス・イレ)」の部分が9つの楽章に分かれているからです。このテキストは、全部で20の節に分かれているのですが、作曲家によってどこまでを1つの楽章にするかという点がみんな異なっています。そもそも、フォーレなどは、最後の節の「ピエ・イエズ」しか作っていませんし。 そして、例えば、モーツァルトは6つの楽章に分けていましたが、ヴェルディは9つに分けていました。これはドニゼッティと同じですが、分けた部分が異なっています。 パヴァロッティのソロが聴けるのが、その中の5楽章目、12節目の「インジェミスコ」です。ここでは、それまで大暴れしていた金管楽器や打楽器はお休みで、弦楽器だけで演奏されます。そして、ヴァイオリンとチェロのソリストが、オブリガートを演奏するという、とてもコンパクトな曲です。 そこでのパヴァロッティは、録音のせいもあるのでしょうが、彼の本来の張りのある声を封印して、まるでバヴァロワのようなしっとりとした歌を聴かせてくれています。 とは言っても、もしかしたら「初録音」がこんな雑なアルバムだったために、この曲にあまり良い印象を持てなかった人も多かったのではないでしょうか。 Album Artwork © Decca Music Group Limited |
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もちろん、それは、ある意味「ジョーク」なのでしょうが、ここではオリジナルの「ブランデンブルク協奏曲」は、実際はだいぶ前に作られていたものに手を入れたものだということに倣って、同じ「6曲」でワンセットになっている、オルガンのためのトリオ・ソナタを、「協奏曲」、正確には、複数のソリストが参加する「合奏協奏曲」の形に編曲したのです。そもそも、1730年頃までに作られたとされているこのトリオ・ソナタは、それ以前に作られていた曲を集めて再構築されたものなのですからね。 そのようなコンセプトを提案し、実際に「編曲」を行ったのは、ここで演奏しているコンチェルト・コペンハーゲンの首席オーボエ奏者でバロック・オーボエの第一人者、アントワーヌ・トリュンツィクです。この人の名前は、日本語ではどのように発音すればいいのかは、よくわかりません。「取り付く島もない」のですね。 その編曲にあたって、彼は、協奏曲のソロパートを、バッハの時代には盛んに使われてはいても、現代ではなかなか聴く機会のない楽器にゆだねる、という方法をとっていました。それらは、オーボエ・ダ・カッチャ、ヴィオラ・ダモーレ、そしてヴィオロンチェロ・ダ・スパッラなどという名前の楽器です。一つでも知っている、という人は、かなりのマニアです。 オーボエ・ダ・カッチャというのは、オーボエ族の低いパートを担当する楽器で、現在ではコール・アングレ(イングリッシュホルン)でそのパートを演奏することがあります。 ヴィオラ・ダモーレは、ヴィオール族の楽器で、ヴァイオリンよりちょっと大きめ、弦が7本のものもあって、それぞれの弦の下に共鳴弦があるので、糸巻は14個必要です。ヴァイオリンよりも軽やかな音が出ます。 ![]() ![]() 最初に演奏されているのは、5番目のトリオ・ソナタの第3楽章です。まずは、いきなりオーボエ・ダ・カッチャのにぎやかな、というか、ほとんど民族楽器のような響きが聴こえて来たのに驚かされます。そこでは、ヴァイオリンの声部も聴こえますし、もう一つ、ファゴットのメロディも重なっています。ということは、オリジナルは2つのメロディ楽器と通奏低音という「トリオ」なのですが、ここでは通奏低音もちゃんと入っているので、オリジナルよりも1つ声部が増えています。つまり、トリュンツィクは、オリジナルに全く新しいメロディを付け加えていたのでした。確かに、タイトルには「Expanded」とありました。でも、それは、しっかりとバッハの様式とマッチして、何の違和感もありませんでした。あたかも、この編成でバッハが作った知られざる合奏協奏曲、みたいな趣ですね。 でも、最後のトラックでは2番目のトリオ・ソナタの第2楽章が、こちらはフラウト・トラヴェルソがメインになっていて、それをヴァイオリンとヴィオラ・ダモーレが控えめに飾っているという、素敵な編曲でした。トラヴェルソも上手ですね。 Album Artwork © Berlin Classics |
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オリジナルは、1964年5月に録音されていて、同じ年にLPがリリースされています。ただ、その年だと、もうすでにステレオ盤が普通に出回っていたころでしょうが、これは最初はモノラルでリリースされていましたね。というか、モノラルとステレオの両方が、ほぼ同時に店頭に並んでいた、という状況だったようです。確かに、まだまだステレオの再生装置が全家庭に行き渡ってはいない頃でしたから、「モノ」の需要も多かったのでしょうね。 今回の音源は、もちろんステレオですが、それは、なんというか、今のステレオのようなナチュラルな音場ではなく、もっと、左右の定位をこれでもかというほどに強調したものになっていました。 それはどのようなものかと言うと、オーケストラは、ヴァイオリンだけ左端に定位しています。そして、右のあたりにはコントラバスやティンパニ、真ん中あたりに管楽器といった感じですね。その結果、ヴァイオリンのパートだけが突出して聴こえて来るのですが、それが、なんとも高域がブーストされたシャリシャリという音なので、ちょっと軽すぎのような気がしてしまいます。 合唱は、ほぼ真ん中あたりに定位していますが、パートごとにくっきり聴こえてくることはなく、合唱全体として一つの塊で聴こえてきます。 そして、異様なのが、ソリストたちです。まず、ソプラノとアルトは、共に左の奥から聴こえてきます。アルトが内より、ということはなく、2人とも全く同じ位置から聴こえます。そして、テノールとバスはその向かい側、右の奥から、やはり2人とも同じ場所から聴こえてきます。 まあ、このぐらい極端な定位を設定しておけば、どんな安物のステレオ装置でも、しっかり「立体感」が味わえるだろうという発想だったのでしょうね。そういうものが、本気で作られていた時代でした。 時折話し声なども聴こえて来るので、たぶんライブ録音のようですが、その時には、どのような場所でソリストは歌っていたのでしょうね。 ただ、音のクオリティは最悪でした。ヴァイオリンなどは、フォルテになると派手に音がひずんでしまいますし、合唱も同じことです。オリジナルのテープの劣化もあるでしょうが、定位を強調するあまりに、多くのマイクを立てたので、それをミックスする時に歪みが加わってしまったのでしょう。 なぜか、ソリストたちだけは、ほとんど歪みのない、クリアな音で録音されているので、それが救いです。 指揮者のロラント・バーデルという人は、全く知りません。主に合唱曲の指揮を行っていた人のようですね。そして、合唱も、初めて聞いた名前で、その音を聴くのも初めてです。おそらく、プロフェッショナルな歌手の集まりではなく、アマチュアの団体のような気がします。それなりにレベルは高いのですが、ちょっとテンションが高すぎて、聴いていて疲れます。 その演奏は、前回のジュリーニのような穏やかなテンポで進んでいきますが、合唱がちょっとやんちゃなところがあるので、あれほどの安定感はありません。 ただ、ソプラノのウルズラ・ブッケルを始めとしたソリストたちは、みんな素晴らしい人ばかりでした。テノールのハンス・ウルリヒ・ミールシュという人は初めて聴きましたが、とてもソフトな声なのに、しっかり存在感を出していて、楽しめましたね。 バスの人も立派な声でしたし、アルトの存在感は強烈なものでした。 「Lacrimosa」の最後近く、合唱がベースから「Dona eis」と始めるところで、普通はフォルテのまま歌うところを、いきなりピアノにした、というのは、ちょっとしたサプライズでした。そこから徐々にクレッシェンドをかけていって、「Amen」で最高潮に達する、という設計は、なかなか興味深いものでしたね。 Album Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd |
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レッグは、オーケストラの付属の合唱団も作っていました。そして、その指揮者に、戦後のバイロイトで活躍していたヴィルヘルム・ピッツを招聘したのです。ピッツは、レッグが去った「ニュー・フィルハーモニア」の時代にも、合唱指揮者を務めていました。しかし、彼は1973年に亡くなったので、バイロイトの合唱指揮者はノルベルト・バラッチュが継ぐことになりました。そしてバラッチュは、このフィルハーモニア合唱団の指揮者も、ピットから引き継ぐ形で、1975年から1980年まで務めることになります。ですから、この録音での合唱指揮者もバラッチュです。 ちなみに、バイロイトの方では、エーベルハルト・フリードリヒという人が、1991年からバラッチュのアシスタントとなり、2000年には合唱指揮者に就任します。しかし、彼は2024年にカタリーナ・ワーグナーから告げられた合唱団員のリストラに反発して、その年の音楽祭の途中で指揮者を辞任してしまいます。ですから、今年からはエイトラー・デ・リントという人が、合唱指揮をしています。 このジュリーニの録音では、合唱はもちろんそのフィルハーモニー合唱団が歌っています。ジュリーニの表現は、最近の演奏を聴き慣れた耳にはとても新鮮に感じられるものでした。テンポはかなりゆっくり、それに乗って、オーケストラも合唱も、とてもたっぷりとした歌を歌っていて、とても幸せな気持ちにさせられます。たとえば、「Kyrie」の合唱は、最近では「キーリエッ・エッレーイソン」みたいな、音節をきっちり切って、それでなにか切迫感のようなものを出すという歌い方が主流になっているようですが、ここでは「キーリエーエーレーイソン」みたいな、どこにもストレスが感じられない、おおらかな歌い方になっています。それによって、音楽全体にとても豊かな包容力が感じられるようになっています。 その合唱で印象的だったのが、「Conftatis」です。とても荒々しい音楽で始まり、そこではまず男声合唱だけでその荒々しさを受け継ぎますが、その直後に、女声合唱が「ヴォーカメ」という、ゆったりとしたフレーズを、まるで天使の合唱のように慈しみ深く歌いだしたのです。ここは音が高いので、ピアニシモで歌うのはとても大変なのですが、彼女たちはそれを見事にクリアして、まるで天使のような雰囲気を出していましたね。 そして、ソリストたちも粒よりのメンバーが揃っていました。なんたって、アルトがクリスタ・ルートヴィヒですから、なんとも贅沢な人たちが名を連ねています。「Tuba mirum」では、冒頭でロバート・ロイドの堂々たるバスが始まり、あの、とても難しいトロンボード・ソロに乗って朗々と歌い続けます。そして、その後を、今度はテノールのロバート・ティア―の張りのある声が引き継ぎます。そのあとに、クリスタ・ルートヴィヒの、貫禄のあるアルトが歌われ、最後はヘレン・ドナートの可憐な声で締めくくる、という、とても贅沢なソロの応酬が体験できます。最後には、その4人が揃ってのホモフォニックなハーモニーも聴けますよ。 「Benedictus」でも、この4人の重唱が、たっぷり聴けます。それはもう、有無も言わせぬ貫禄で迫ってきますから、もうひれ伏すしかないほどの存在感です。 もちろん、使っているのはジュスマイヤー版。安心して聴いていられます。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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彼は、売れっ子の作曲家のようで、様々な団体から委嘱のオファーがあるのだそうです。今回の2曲も、それぞれ、ここで演奏しているアンサンブル・モデルンとSWRヴォーカルアンサンブルからの委嘱に応えて作られたものです。 ですから、それぞれ、録音された場所や日時は全く別になっています。アンサンブル・モデルンの「Körper(体)」」は、2022年、SWRの「Gold(金)」は、もっと前の2014年です。こちらは、録音して10年以上経ってからやっとリリースされた、ということですね。ですから、ここでの指揮者マーカス・クリードは、もうこの合唱団の指揮はとっくにやめていますからね。 つまり、これは、彼らがクリードの元で、世界各地の合唱曲を精力的に録音していた頃に録音されていたのでしょう。実際、これは、WERGOではなく、SWRによって録音されていて、今回ライセンスを得てWERGOのアルバムに収録ということになっていたようです。本来なら、SWRからリリースされていたのでしょうが、カップリングが見つからなかったのでしょうか。 多くのジャンルで曲を作っているポッペですが、これが録音された時点では、合唱のための作品はこれが2作目だったのだそうですね。彼にとっては、合唱はレアなジャンルになっていたようですね。 この曲は、ア・カペラで、3つの部分から出来ています。演奏時間が22分以上という、このジャンルとしてはかなりの「大曲」です。 1曲目は、「Moderne Walpurgisnacht」つまり、「新しいワルプルギスの夜」というタイトルが付いています。「ワルプルギス」と聞いて思い出すのは、なんと言ってもベルリオーズの「幻想交響曲」の最後の楽章ではないでしょうか。グレゴリオ聖歌の「Dies irae」が鳴り響く中を、魔女たちが飛び交う怪しげなシーンが登場するという、しっちゃかめっちゃかな音楽ですが、こちらのポッペの曲でも、いきなりのシュプレッヒ・ゲザンクで驚かされます。ただ、それはそのような音程のない声と、きちんとした音程とメロディを持った声とが交互に出てくるという、かなり難易度の高そうなものです。絶対音を持っていないと、歌えないのではないでしょうか。ここでの切迫感は、かなりのものがあります。そんな時にいきなりハモリ始めたりして、もう聴く方の気持ちは乱されるばかりです。 2曲目は曲全体のタイトルの「Gold」に対しての「Silber」です。これは、グリッサンドを多用した粘っこい音楽で、すぐに終わってしまいます。 3曲目は「Notturno」。タイトルで、穏やかな曲調を予想していたら、確かにそのような、かっちりとしたコラールなども出てきます。でも、もちろん、そこで使われているハーモニーは、一筋縄ではいかないようなグロテスクなものでした。 その前に演奏されていた「Körper」は、全く別の形態、楽器だけのアンサンブルです。管楽器と打楽器が主体になっていて、ソロの弦楽器と、一応ピアノが2台で、総勢21人ということで、特に「エレクトロニクス」とか「マニピュレーター」といったクレジットはなかったので、おそらくピアニストが、シンセサイザーなども演奏しているのではないでしょうか。 50分近い長さの大曲で、4つの楽章に分かれています。その4つが、まるで古典的な交響曲の4つの楽章のそれぞれのキャラクターみたいに聴こえてきます。ミニマル的なキャラクターが頻繁に登場しますが、それはすぐ別のキャラクターに変化してしまうという、忙しい音楽、計算されつくした混沌を味わうことができます。 CD Artwork © Schott Music & Media GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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