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倉科手帖。
彼女の名前は初めて聴きましたが(サブスクでは、このアルバムがデビュー)、彼女はあのエリック・エリクソンに師事していて、2006年にはその名を冠した合唱指揮者コンクールで優勝しています。そして、現在では、ノルウェー・ソリスト合唱団やバイエルン放送合唱団を始めとした多くのヨーロッパの有名な合唱団との共演も果たしています。さらに、彼女はこの合唱団の他にも、2024年からはポルトガルのグルベンキアン合唱団の首席指揮者も務めています。 このアルバムに登場するのは、彼女の故国スロベニアの作曲家、ウロシュ・クレークと、デンマークの作曲家、エルセ・マリー・パーゼという、初めて名前を知った2人です。アルバムタイトルが「クレークとバーゼの音楽を聴け!」というぶっ飛んだものなのが、楽しいですね。 前作のリゲティなどのアルバムでは、SACDで、録音はDXDという、最もハイグレードなフォーマットで録音されていたので、期待していたのですが、その音はそれほどのものではなかったので、ちょっとがっかりしていました。今回も、その時と同じフォーマット(さらにドルビー・アトモス対応)に、同じ録音スタッフ、そして録音会場まで同じということで、音に関しては全く期待していなかったのですが、やはりがっかりするような音でしたね。同じフォーマットで録音しているノルウェーの「2L」の足元にも及ばない、冴えない音でした。 でも、合唱団のスキルは極上でしたね。もちろん、すべて初めて聴く曲ばかりでしたが、それらに見事な生命を与えているな、と感じられました。 最初のクレーク(1922-2008)は、すべてア・カペラの曲です。全部で7曲歌われていますが、それぞれに魅力的で、実際に歌ってみたくなるものばかりでした。1曲目の「O Listen!」というタイトルが、アルバムのタイトルになっているんですね。最後の曲などは、カール・オルフを思わせられるような、開放的な感じでした。 パーゼ(1924-2016)の方は、もう少し込み入っています。前半は、やはりア・カペラで、本当に心地よい、まるでロマン派の合唱曲のようなシンプルなハーモニーや、さらにはもう少し前のグレゴリアン・チャント風な女声合唱の曲などで、和ませてくれました。 それが、後半には、一転して、何ともアヴァン・ギャルドな音楽に変わるのですよ。なんでも彼女は、デンマークで初めて「電子音楽」を手掛けた作曲家なんだそうですね。 ですから、その「マリア」という曲も、彼女自身が作った「電子音」のトラックをスピーカーで鳴らしながら、合唱団が歌う、という形で録音されていたようですね。この曲は1980年に作られていますが、このトラックは、1972年に、プリペアド・ピアノの音などを変調して作ってあったものなのだそうです。 それは、11の小さな曲に分かれているのですが、それぞれに「Venerari(崇拝される)」、「Amare(愛する)」、「Mirari(驚く)」、「Pati(傷つく)」、「Contristari(嘆く)」、「Desidare(願う)」、「Judicare(裁く)」、「Scire(知る)」、「Orare(祈る)」、「Sanctificare(神聖にする)」、「Vivere(愛する)」という、聖母マリアの挙動を示すラテン語のタイトルを、ソプラノ・ソロが電子音をバックにとても技巧的なメリスマで歌います。その後、ちょっとしたポーズがあって、今度はバリトンのソロが、ミサ曲の「クレド」の中のテキストの断片を朗々と歌い、その後に合唱が、ほとんどクラスターでそのテキストを語る、という構成になっているのです。ただ、7曲目の「Judicare」だけは、なぜかソプラノのバックには電子音は使われず、7本のトロンボーンがコラールを演奏しています。 CD Artwork © Naxos Global Logistics GmbH |
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今回のアルバムは、1965年に録音されたバッハの「ロ短調ミサ」です。指揮者がロリン・マゼールということで、ちょっと彼のレパートリーからは外れるような気がしますが、おそらくそれは現代のバッハ受容のシーンからの視点なのでしょう。おそらく、この頃はバッハはしっかり「クラシック」として、シンフォニー・オーケストラの指揮者にとっては欠かせない作曲家だったのでしょうね。 まずは、なんと言っても古いアナログ録音ですから、劣化はかなり激しいものがあり、特に合唱のクオリティは、かなりひどいことになっていました。それはもう仕方のないことですが、オーケストラではそれほど気にならず、なかなか楽しめます。 そして、これもその時代の録音技術を反映しているのでしょう、実用化されてそれほど年数が経っていないステレオ録音の効果を、可能な限り取り込もうという積極的な姿勢を感じることができます。具体的には、もちろんオーケストラや合唱の配置は左右いっぱいに広がっていますが、ソリストでも、デュエットになるとしっかり右と左に定位されていますからね。 そして、マゼールの指揮は、聴く前に想像していたものとは全く違っていました。彼の演奏は輪郭がきっちりしたハードなもの、という印象があったのですが、ここでは、まずテンポがかなり遅めでよく歌い、オーケストラもとてもふくよかでソフトなサウンドに仕上がっていたのです。これには、かなり驚かされました。 そして、それよりも驚いたのが、この時点で彼が「新全集」の楽譜を使っていたことでした。ご存知のように、バッハの作品はまず、19世紀半ばからその作品全集の編纂が始まり、その成果はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版されました。それがいわゆる「旧全集」になるわけですが、20世紀半ばになって、もっと精密な研究の成果を反映させた「新全集」の編纂が始まり、それはベーレンライター社から出版されます。特に、この「ロ短調ミサ」は、1954年に全集として最初に出版されたという、記念碑的なものでした。 ただ、それが実際にコンサートやレコーディングの現場で使われるようになるまでには、しばらく時間が必要だったようで、例えば名盤の誉れ高いカール・リヒターの録音は1961年に行われたにもかかわらず、まだ旧全集を使っていたのですね。ジャケットだけは、現在ではこれすらも否定されている新全集のタイトルですが。 ![]() ご参考までに、そのチェックポイントをご紹介すると、はっきりした違いが2ヶ所あります。1ヵ所目は、「Gloria」の2曲目の「Et in terra pax」で、冒頭の合唱に続いてオーケストラだけの部分が続いた後のフーガのテーマです。 ![]() 自筆稿では赤枠の中は「付点八分音符+十六分音符」ですが、 ![]() 旧全種では「八分音符+八分音符」になっています。 ![]() 新全集では、それは直されて自筆稿の通りになっています。 そして、もう1ヶ所は、テノールのアリア「Benedictus」のオブリガートの楽器が、旧全集ではヴァイオリン・ソロ、新全集ではフルート・ソロ、という点です。これは、自筆稿にはそもそも楽器の指定がありませんでした。 その「Benedictus」ですが、何を勘違いしたのか、イントロはとんでもなく速いテンポで始めていましたね。ソロが入ってくると、ゆっくりしたテンポになるのですが。これを歌っていたヘフリガーはさすがでした。シュティッヒ=ランダルのソプラノも良かったですね。 Album Artwork © The Decca Record Company Limited |
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グラフェナウアーというのは、1957年にスロベニアに生まれたフルーティストで、カールハインツ・ツェラーとオーレル・ニコレという、その時代を代表するフルーティストに師事、1977年には、その若さで名門、バイエルン放送交響楽団の首席奏者に就任した方です。そして、その2年後には、ミュンヘンで行われた、おそらく世界で最も権威のあるフルートコンクールに最上位で入賞してしまったのですね。その時には、彼女の同僚がバックで演奏していました。 彼女の演奏は、そのオーケストラのメンバーとして、まず聴くことが出来ました。例えば、ラファエル・クーベリックが指揮をしたモーツァルトの後期交響曲集(SONY)では、その時のもう一人の首席奏者、アンドラーシュ・アドリアンと分担して録音していましたので、比較が出来たのですが、彼女のフルートはその音色と存在感、そしてファンタジーで、「先輩」をはるかに超えていましたね。 さらに、PHILIPSレーベルにも何枚かのソロ・アルバムを残していますが、それらはまさに至宝のような素晴らしい演奏ばかりでした。こんな風に吹けたらいいなあ、と、いつも思っていましたね。 ただ、しばらくして彼女はモーツァルテウム音楽院の教授に就任して、後進の指導にあたるようになったのですが、その頃からばったりレコーディングなどは行わなくなっていたようでした。 そんな彼女が参加した、おそらく2000年に行われたコンサートでのライブ録音が、このアルバムです。その直後にCDでリリースされていたようですが、国内では入手できなかったようですね。それが、こんな形で聴けるようになったのは、うれしい限りです。 そのコンサートは、「イッフェンドルフ・マイスター・コンツェルト」という、ミュンヘンの南東にある町で1990年から行われているものです。その、「10周年」を記念してのコンサートのようですね。タイトル通り、そこではバッハとモーツァルトの作品が演奏されていました。いっぺんは行ってみたいですね。 グラフェナウアーが出演したのは、冒頭に紹介した2曲ですが、その間にバッハのカンタータ202番(結婚カンタータ)、最後にはモーツァルトのディヴェルティメントK251が演奏されていました。カンタータは、ソプラノのソロとオーケストラという編成で、アイルランド出身のフランシス・ルーシーという人が歌っています。おそらく、それを全部収録したらCD1枚には収まらなかったのでしょう。モーツァルトの協奏曲以外は、いくつかの楽章がカットされています。そして、曲の終わりには、熱狂的な拍手も入っていました。 このコンサートは、毎回ラジオで放送されていたといいますから、これもおそらくはラジオ局による録音だったのでしょう。いかにも放送局らしい、基本的に全体の音を収録するという姿勢が見られるサウンドでした。そんな中で、やはりグラフェナウアーのフルートは、オーケストラに埋もれることは決してなく、セッション録音のような明晰さで聴こえてきました。 バッハの組曲は、2曲目の「ロンド」と3曲目の「サラバンド」がカットされていましたが、それは別に気になりません。序曲のソロの部分などは、適宜装飾も加えて、もう軽々と吹いていましたね。最後にゆっくりした部分になる直前に、誰かが弓でも落としたのでしょうか、「バタン」という大きな音が聴こえて来たのは、ライブならでは、そして、その影響でしょうか、そのあと彼女が一瞬音を飛ばしたところがあったのも、ご愛敬ですね。 協奏曲の方は、同じト長調を1988年に録音していましたから、それとも比較できますが、彼女の伸びやかな音色と、暖かいビブラートは全く変わってはいませんでしたね。でも、カデンツァは、1楽章は全く別物、2楽章も後半は別のものに変わっていました。今回も彼女自身が作っていたのでしょう。 CD Artwork © RBM Musikproduktion GmbH |
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![]() ジャケットのタイトルは「UKAI」。そこには日本語表記で「迂回」という漢字がありました。なんか、日本人にとっては親切な配慮ですね。さらに、ブックレットの彼女のライナーノーツを読むと、「これは、『鵜飼』という、別の言葉も指し示す」などという愉快なコメントも見られます。もちろんこのアルバムはそのような漁業には全く関係はありません。彼女曰く「迂回は時には避けられず、最終的には 直接の道では不可能だったであろう新しい洞察、経験、機会につながることがあります」。ということで、リコーダーの新たな可能性を探求するための心構えのようなことが述べられていましたね。 その結果、ここでは、とてもヴァラエティの富んだ音楽を聴くことが出来るようになっていました。なんたって、最初に演奏されるのが、この漢字のタイトルを反映した日本の管楽器、尺八のための曲なのですからね。それは、テナーリコーダーによって演奏されているのですが、そこから出て来たものは、まさに尺八そのものでした。尺八のキャラクターの「メリカリ」とか、強烈なビブラートが、見事にリコーダーで再現されています。 続いて、アルトリコーダーで演奏されているのは、ドイツのリコーダー奏者で作曲家のマルクス・ツァーンハウゼンが作った「四季」というツィクルスから、まずは「秋」です。その1曲目は、静寂感満載のヒーリングで、武満徹そっくりのモードが使われています。2曲目は、もっと動きのあるかわいらしい小品です。 イスラエル系アメリカ人のハヤ・チェルノヴィンが作ったのは、テナーリコーダーのための「The last leaf」です。ただ、普通のリコーダーではなく、ヴォリューム・ペダルが付いているというのが目玉。確かに、クレッシェンドやディミヌエンドがはっきりと聴こえてきます。音楽としては、なんてことはないような。 折り返し点でもう1曲日本の尺八のための曲がやはりテナーリコーダーで演奏された後、ゲリエット・クリシュナ・シャルマというライブ・エレクトロニクスのアーティストとフレーリヒ自身とのコラボレーション(これが3作目なのだとか)で、「buriedwithdaisy」というタイトルの「作品」というか「パフォーマンス」です。使われている楽器は、サブコントラバスリコーダーという、こんなバカでかいやつです。 ![]() これはもう、地を這うような超低音を感じるだけで、なにか根源的な体験を味わうことができることでしょう。そして、その情景はどんどん変わり、真ん中あたりから始まるとても長いクレッシェンドはワクワクしますし、最後近くでの、まるでゾンビの殺し合いのような不気味なサウンドには、背徳感のようなものまで味わうことができます。 ドイツの作曲家サラ・ネムツォフの作品も、やはり「サウンドスケープ」という、コンサートホールに縛られない環境での体験が求められるものでした。ここでは、プリペアされたコントラバスリコーダーの可能性を、飽きることなく探求している作曲家と演奏家との共同作業の成果を聴くことができます。彼女は、もしかしたら「ヴォイスパーカッション」にまで挑戦していたのかもしれません。 そして、エンディングとして、先ほどのツァーンハウゼンのツィクルスから「秋」が演奏されています。アルトリコーダーの素朴な音に、癒されます。 CD Artwork © GENUIN classics |
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ここで演奏している、ドイツ語で「Die Konzertisten(演奏家たち)」という名前の混声合唱団は、かなり水準の高い、おそらくプロのメンバーが集まった団体なのでしょう。設立されたのは2008年で、ルネサンスから現代までの幅広いレパートリーを誇っています。この合唱団が委嘱した新しい作品もあるそうです。これまでに、ヘルムート・リリンク、スティーヴン・レイトン、ジョナサン・コーエン、ジョン・バットなどといったそうそうたる指揮者と共演をしています。さらに、コーエンの場合は、彼の手兵であるピリオド楽器のアンサンブル、「アルカンジェロ」と一緒に、香港でバッハの「ロ短調ミサ」の公演を行っています。そのようなヒストリカルなスタイルもしっかり取り入れている合唱団なのですね。このアルバムでの指揮者は、音楽監督の楊欣諾(ヤン・フェリックス)です。 ここで歌っているメンバーは、全部で23人、テナーだけが5人で、他のパートは6人ずつです。歌われているチャンの曲は、2015年から、録音時の2024年までの間に作られた、広東語のテキストによる合唱曲です。曲のタイトルは英語で表記されていますが、それは広東語の意訳です。 そのテキストは、いわゆる「漢詩」というものなのでしょう。そして、ここで使われている大半は、昔の人が作った漢詩、そこに現代の詩人が作ったものも加わっています。そこには、時代を超えた世界観、普遍的な喜怒哀楽のようなものが表現されているようです。それが、ここではタイトルの「制約」と「創意」という言葉で表現されているのでしょう。 音楽的には、とても聴きやすいものが多くなっています。日本人の合唱作曲家で言えば、例えば信長貴富さんのような、とても間口の広い作風のような気がします。ですから、このアルバムの中の曲は、それぞれ技法的には基本的に美しい和声とキャッチーなメロディが使われている中で、時たまクラスターのような前衛的な技法がサプライズとして登場する、というような曲が多いような印象がありました。 ただ、信長さんはあまり使っていない「グリッサンド」が、かなりの頻度で登場しているのは、やはり中国の作曲家としてのアイデンティティが反映されているのではないでしょうか。それが出てくる瞬間に、なにかチャイナの雰囲気が漂うのが、面白いですね。 最後に演奏されているのが、「漢詩」からは離れて、シューベルトによる合唱曲がよく知られている「詩篇23/わが主は羊飼い」をテキストにしたものです。英語だと「The Lord is my shepherd」ですが、陳自身が訳した広東語では「上主是我的牧者」となっています。それは、「サランチースィモテーゴツェ」と歌っているように聴こえますが、どうでしょう。作られたのは2015年でしたが、その時の編成は女声3部合唱とピアノでした。それが2019年に混声4部合唱の形のバージョンも追加され、ここではそのバージョンで演奏されています。 この曲では、これまでの曲の中に垣間見られていたキャッチーさが、ストレートに前面に出てきた結果、ほとんどポップス・ソングのような軽さを持つことになりました。ドラマや映画のエンディング・テーマとして使ったら、さぞかしヒットするのではないか、と思われるような、一度聴いたら忘れられなくなるような曲ですよ。 彼の作品は、外国でも演奏されています。昨年の7月には東京で、自らも「詩篇23」の合唱曲を作っている松下耕指揮の東京メトロポリタン合唱団によって、最新作「A Chrysalis Tale」の世界初演が行われたそうですね。 Album Artwork © Navona Records |
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ここでは、フランス生まれで、フランスで教育を受け、後にドイツで活躍していたフルーティスト、ジャン・クロード・ジェラールの演奏で、珍しいフルート協奏曲が3曲録音されています。彼は1944年生まれ、ラムルー管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団、そして、ハンブルク州立歌劇場フィルの首席奏者を務めた後、ヘルムート・リリンクの指揮するバッハ・コレギウム・シュトゥットガルトのメンバーとしても活躍しました。リリンクとは、数多くのバッハの作品を録音していましたね。 そんな彼が、当時の南西ドイツ放送管弦楽団をバックに、ロドリーゴの「パストラル協奏曲」、バーンスタインの「ハリル」、そして、ここでは彼のバックで指揮をしているクラウス・アルプ(彼は、作曲家としても活躍していました)が作った「メモワール」という、いずれもソロ・フルートとオーケストラのための作品を録音していました。 まずは、あまりの難しさのせいでしょうか、それほど録音は出ていない「パストラル協奏曲(田園協奏曲)」です。最近こちらで久しぶりの満足できる演奏を聴いたばかりですが、やはり前世紀の録音では、なかなかそれだけのスキルの人がいなかったのでしょう、メカニカル的には、かなり苦労しているな、という感は否めませんでした。高音が続く難しいところでは、思いっきり走っていたりするんですよね。 ただ、彼の魅力的なビブラートがとても効果的に聴こえてくる第2楽章のゆっくりしたところでは、とても豊かなパッションを感じることが出来ました。 2曲目、あのバーンスタインが作った唯一のフルートとオーケストラのための作品である「ハリル」も、久しぶりに聴いたような気がします。作られたのは1981年で、その年にランパルのフルートと、作曲者自身の指揮によるイスラエル・フィルによって初演された曲ですね。タイトルの「ハリル」は、ヘブライ語で「フルート」のことなのだそうです。チャラチャラした曲ではありません(それは「フリル」)。そのライブ録音はドイツ・グラモフォンから出ていました。ただ、この曲も、取り上げるフルーティストはあまりいないようですから、ジェラールの録音は貴重なものになります。 これも久しぶりに聴きましたが、確かにそんな不人気さが理解できるような、なんともしょうもない作品のような気が、改めてしましたね。とにかく、なんでもありの曲で、オープニングは12音によるフレーズで、もろ「無調感」が漂っているのですが、そんな中から唐突にシンプルなメロディが聴こえてくるのは、かえって落ち着きません。いっそ、最後まで無調で貫いてほしかったですね。さらに、真ん中辺は、打楽器が総動員のダンス音楽、あの、彼の唯一のヒット作「ウェストサイド・ストーリー」の体育館でのダンスパーティのようなやたら軽い音楽になっています。そんな音楽に真正面から挑んでいるジェラールには、拍手。 最後の「メモワール」は、曲のデータがないのでわかりませんが、おそらくこのアルバムが初録音なのではないでしょうか。その時代の「流行」だった「ミニマル・ミュージック」に、独自の手法でもう少しスペクタクルな感じを与えたような作品です。オーケストラの中から、チェンバロの音が聴こえてきます。フルートは、即興演奏の部分がたくさんあるような気がします。 CD Artwork © RBM Musikproduktion GmbH |
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本当は、タイトルはもっと長くなっていて、その後に「ossia La scuola degli amanti(または、恋人たちの学校)」というサブタイトルが付いています。そういえば、「ドン・ジョヴァンニ」の場合でも、その後に「または、罰を受けた道楽者」というのが付いていましたね。 いずれにしても、場合によっては「コジ」と略されてしまうこともあるこのオペラは、先ほどの「3大オペラ」に比べたら、ランキングはかなり下がっているのではないでしょうか。まず、その序曲は、コンサートなどで取り上げられる機会は、ほとんどありません。とても軽快で、楽しさ満載の曲なんですけどね。さらにもっと重要な要因は、独立して歌われるような有名なアリアがない、ということではないでしょうか。というか、このオペラではソロのアリアはあまり歌われず、2人で歌うデュエットが多いのが特徴なんですけどね。 さらに、もう一つのマイナス要因としては、「内容がふしだら」ということを挙げる人もいましたね。確かに、これは、2組の恋人が、それぞれ相手を変えるという、「スワッピング」がテーマのオペラですから、道徳的には難があるでしょうね。でも、そんなことを言ったら、「フィガロの結婚」も「ドン・ジョヴァンニ」も人格破綻者が登場してますから、同じようなものですよ。 ということで、おそらく、ですが、モーツァルトの生前にはオペラの中の旋律を使って作られたアンサンブル(大体、他の人が勝手に編曲しています)がたくさん作られていましたが、「コジ」に関してはあまり聴いたことがないような気がします。 ということで、今回木管五重奏のために、このオペラのすべてのナンバーをこの、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、そしてホルンという編成で編曲したのは、1994年からハノーファーのNDR放送フィルの首席クラリネット奏者を務めているウルフ=グイド・シェーファーでした。彼は、ハノーファーの音楽大学で教鞭もとっていて、編曲者としても有名なのだそうです。 ここで演奏している「スピリトゥム木管五重奏団」というのは、2019年にイタリアの若い管楽器奏者たちが集まって作ったアンサンブルです。もちろん、彼らの演奏を聴くのは、これが初めてです。 まずは、序曲からきちんと始まります。オーソドックスなアレンジですが、演奏もこの曲の軽快さを前面に出していて、気持ちがウキウキさせられますね。というか、やはりイタリア人ということで、全体で小さくまとまるよりは、もっと個人芸を見せびらかす、といった方向に走っているような気がします。早い音符などは、もうこれ見よがしに相手を挑発しているようですから、聴いていてハラハラしてきます。 それぞれの楽器を担当しているメンバーの個性も、かなり違っているようですね。最も目立とうとしているのがフルートのロレンツォ・ファッツィーニでしょうか。とても伸びのあるキラキラした音で、軽やかに歌っています。オーボエのルカ・エッツィは、もうちょっと堅実なところがあるでしょうか。でも、ソロでは堂々としています。ただ、クラリネットのジャコモ・アルファーノは、音色も演奏もちょっと地味。ファゴットのヴィンチェンツォ・リッチョとホルンのリッカルド・ナンニはそんなに目立ちませんが、ここぞという時には張り切っていましたね。 録音がとてもよいので、そんな細かいところまで、よく聴こえました。 CD Artwork © Brilliant Classics |
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前半の「声楽曲」の最初のジャンルは「宗教的声楽曲」となっていて、ブルックナーの作った宗教曲をひとまとめにして、それらのタイトル順に番号が振られています。 今回のアルバムで取り上げられているア・カペラの「モテット」は、ほとんどの曲の演奏時間が3分から4分というとても短いものですが、それらが40分近くかかる「レクイエム」と同じジャンルの中にある、というのは、ちょっと異様な気がします。それと、タイトル順で並べるというのも、なにかいい加減、というか、あまり学術的な感じがしません。 ですから、ブルックナーの2番目の原典版の出版を行ったレオポルド・ノヴァークたちは、この「モテット」だけを独立した巻(第21巻)にして、それをタイトル順ではなく、作曲年代順に並び変えて、番号を付けたのです。それは、「Kleine Kirchenmusikwerke(小さな教会音楽作品)」というタイトルで1984年に刊行されました。 ですから、この中で最も有名な7声の「アヴェ・マリア」は、WABでは「6番」だったものが、このノヴァーク版では「20番」になっています。 そして、とても残念なことに、今回のアルバムでも、相変わらず何の役にも立たないこのWABが使われているのですよ。交響曲などではいざ知らず、こんなマイナーな曲にそもそも番号を振るのがおかしいのですが、ほとんど意味をなさないWABを、おそらく慣習ということで使い続けているレコード業界というのは、不思議なところですね。 ですから、こちらにWABからノヴァークへの変換表がありますので、ご活用ください。 と、番号についての問題はありますが、演奏を聴き始めると、そんなことはもうどうでもよくなってしまいました。ここで演奏しているのは、指揮者のヨハネス・ヒーメツベルガーによって1991年に創設された「コルス・シネ・ノミネ」という、パワハラっぽい(殺す・死ね・飲みねえ)名前の合唱団(本当はラテン語で「名前のない合唱団」)なのですが、それがとても素晴らしいものですから。 まずは、アルバムでは先ほどの「アヴェ・マリア」から歌われています。これは、3声の女声合唱と4声の男声合唱という、それぞれ独立した形で存在している合唱の形態が合体したという編成になっています。まずは、その女声合唱だけで曲が始まりますが、その声にはとことん癒されました。ブックレットの写真を見ると、かなりの高齢者も加わっているようですが、出てくる声は無垢そのもの、まるで児童合唱を聴いているような柔らかい雰囲気です。 その後に、今度は男声合唱だけで歌われます。それも、とても素直でさわやかな声、それが、ついに合体して「Jesu」とハモるところなどには、圧倒されます。 このアルバムの特徴は、そんなモテットの間に、マルティン・ハーゼルベックのオルガンによる即興演奏が挟まれていることです。それは、即興とは言っても、例えばプレインチャントに和声を付けるといったような、それほど技巧をむき出しにしたものではなく、これらのモテットに寄り添う、とても暖かいものでした。 そんなオルガンをはさんで、全部で6曲のモテットが歌われますが、4曲目の40番「Vexilla regis(王の旗は翻る)」だけは、演奏時間が13分と、とても長くなっています。これは、36小節の曲を、歌詞を変えて7回繰り返しているからです。その中に出てくる、まさに交響曲の中でも使われているような大胆な転調を味わいながら聴いていると、あのブルックナーの広大な世界にどっぷりと引き込まれていくような気がします。 CD Artwork © Gramola |
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![]() ウェインライトは、クラシックの音楽家ではありませんが、少年時代に家で聴いたヴェルディの「レクイエム」にいたく感動したのだそうです。長じてロック・ミュージシャンになった後も、2004年にリリースされた彼の4枚目のアルバム「Want Two」の冒頭に、「レクイエム」の中で演奏される「Agnus Dei」のラテン語の歌詞に自らメロディ付けて歌っているトラックを入れています。 そして、そのメロディは、この「レクイエム」の中の「Agnus Dei」で、ア・カペラの合唱として形を変えて使われているのです。 ウェンインライトがこの作品に込めたのは、2020年に全世界に蔓延したコロナ禍と、同じ年に起こったカリフォルニアの山火事という大惨事に見られた「終末観」です。そして、それをさらに強化させるために、ジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)が、1815年に起こったインドネシアのスンバワ島タンボラ山の噴火と、それに伴い何週間も空が暗くなった後の世界を描写して1816年に書き上げた「Darkness」という詩が通常のラテン語のテキストとともに使われています。それは、まさに現代でも通用する恐ろしい終末観ですが、その中で、そんな世界の犠牲になった主人を外敵から守ろうとして、自らも死んでしまった飼い犬のエピソードを、ワインライトはとても丁寧に扱っているようです。 それは、同じように、「レクイエム」のテキストの間に第一次世界大戦に従軍した詩人の詩を挿入した、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」とよく似た構造をとっているように感じられます。ただ、そのテキストの扱いは、ブリテンでは歌手によって歌われていますが、ここではオスカー女優のメリル・ストリープによるナレーションになっています。 そのナレーションは、最初の曲から始まります。まず、彼女がいきなり「I had a dream, which was not all a dream」というバイロンの詩の冒頭を語った後、ハープが静かに単音のモティーフを奏でる中、次第に楽器が増えて、コール・アングレがとても悲し気なメロディを奏で始め、それはやがてオーケストラ全体に広がります。そこで、バイロンの詩が改めてきちんと語られるのです。 それに続くラテン語のテキストの曲は、とてもキャッチーなメロディにあふれた、もろとっつきやすいものばかりですが、やはりリズムを重視したアレンジがメインとなっているようです。ですから、聴き慣れたこれまでの「レクイエム」とは、同じテキストでもかなり異なっていて、新鮮な趣があります。 最初のうちはナレーションはそんな「レクイエム」のテキストによる曲の間で、ごく薄いバックのオーケストラの中で独立して語られますが、後半にはかなり分厚いオーケストラと合唱をバックに語るようになっています。それは、「レクイエム」での長い「Sequentia」が終わった後、何やらペンデレツキを思わせるようなオーケストラと合唱の中で、先ほどの飼い犬のエピソードが語られる部分です。 その次の「Offertorium」では合唱は登場せず、ヴィオラのとても長いソロが披露されます。そして、最後の「In paradisum」には児童合唱が登場、静かに曲は終わります。その後の拍手まで、ここでは収録されています。 ![]() CD Artwork © Parlophone Records Ltd |
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![]() ![]() ![]() いずれにしても、それ以来、「カルミナ・ブラーナ」は多くの演奏家によって録音され、夥しいアルバムが作られることになりました。先ほどのヨッフムなどは、後にもう1度ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団と管弦楽団で録音を行っていますし、アンドレ・プレヴィンもロンドン交響楽団とウィーン・フィルとの2種類の録音がありますね。 そんな、ほぼ飽和状態の業界に、また新しいアルバムを提供したのが、パーヴォ・ヤルヴィです。オーケストラは彼の手兵のチューリヒ・トーンハレ管弦楽団。彼らの本拠地のトーンハレで録音されたのは、2022年の6月です。 まずは、この曲に求められるのは、なんと言ってもその華やかな(というか、えげつない)オーケストレーションを余すところなく伝えることのできる優秀な録音です。ここでは、ポリヒムニアのジャン=マリー・ヘイセンがトーンマイスターを務めていますから、文句なしの素晴らしい音で聴くことが出来ました。1曲目からバスドラムがくっきりとした音像で聴こえてくるのには、体全体に響いてくる快感があります。 ですから、普段はあまり気にしないようなところでも、とてもくっきりと聴こえてきますから、ちょっと驚いてしまいます。それは、3曲目、「Veris leta facies」の冒頭です。 ![]() それよりも、オーケストラだけで演奏される6曲目の「Tanz」で、中間のフルート・ソロの部分のテンポがあまりにも遅いのには、びっくりしました。指示は「un poco più lent」ですから「ちょっとだけ」遅くするのでしょうが、これでは遅すぎ。 ただ、なんと言っても合唱が素晴らしいので、そんな些事は忘れることが出来ます(サジは投げません)。特に、頻繁に出てくる男声だけの部分が、充実していましたね。 ソリストでは、ソプラノが、高い音は決まるし、長い音は続けるしと、全くの無傷という稀有な人でした。カウンターテナーのツェンチッチは久しぶりに聴きましたが、全く衰えていませんでしたね。バリトンはちょっと深刻過ぎたかも。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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おとといのおやぢに会える、か。
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