競う曲。

(24/10/8-24/10/28)

Blog Version

10月28日

MOZART
Requiem
Ilse Eerens(Sop)
Barbara Kozelj(MS)
Kieran Carrel(Ten)
Andreas Wolf(Bas)
Bart van Reyn/
Flemish Radio Choir
Il Gardellino
PASSACAILLE/ PAS1131


つい数日前にも同じ曲の録音を聴いたばかりなのに、またまたニューカマーの登場です。今回も、使用楽譜はジュスマイヤー版です。かつては、この修復版は問題が多いとされて、それに代わる、「より正しい」楽譜が何種類も作られていたものですね。まるで、ジュスマイヤー版以外の楽譜を使うことが、音楽家としての使命だ、とでも考えていたのではないか、というほどの勢いで、それらは演奏され、そして録音されていたものでした。
しかし、そんな「ブーム」は、いつの間にか完全に終わっていたのですよ。今では「モーンダー版」とか「ドゥルース版」などと言っても、「それ、なに?」などと思う人は多いのではないでしょうかね。女性の下着じゃないですよ(それは「ズロース」)。
それは、前回のピション盤でも分かる通り、やはり、なんだかんだと言っても、最後までモーツァルトのそばにいたジュスマイヤーが、しっかりモーツァルト自身から完成品の指示を受けていたと考えるのが、一番自然なのでは、と、みんなが思うようになったからなのでしょう。
ですから、その「ジュスマイヤー版」の楽譜を販売していたベーレンライター社が、ごく最近新しく「オシュトリーガ版」などというものを出版したのには、驚きましたね。それは、ジュスマイヤーによる補筆の部分を完膚なきまでに書き換えたものでした。しかも、「Sanctus」では長調と短調の2種類のものをでっち上げる、というものすごいことをやっていました。
さらに、合唱曲の楽譜の出版ではベーレンライターと並ぶ大手の出版社カールスでも、「アーマン版」という、こちらはかなり腰砕けの中途半端な楽譜を出版していましたね。
こうなると、そのような楽譜は、単に出版社が利益を上げるためだけにでっち上げているのではないか、などといううがった見方も出てきます。なにしろ、もうモーツァルトが新しい楽譜を作ることは絶対にありえないのですから、そこからさらに利益を産むためには、目新しいものを「でっちあげる」のが手っ取り早いやり方でしょうからね。
それと似たようなことをやっているのが、「原典版」です。確かに、作曲家の自筆稿を印刷するにあたって、数々の間違いが紛れ込むこともありますし、何より作曲家自身が書き間違えたという可能性もあるのですから、それを科学的に精査して、最も作曲家の意思に近い楽譜を作るという作業は、とても有意義なことであることは、間違いはありません。ところが、そんな「正しい」はずの楽譜が、複数の出版社から出た時には、それらは全く別のものになっているのですよ。つまり、自筆稿や写筆稿、そして印刷譜などを比較すると、多くの差異が見つかるのですが、その中のどれを最終的に採用するのかは、校訂者たちの「主観」に任されているからです。たとえば、ベートーヴェンの「原典版」だと、それは現時点では3つの会社から出版されていて、それぞれの譜面が部分的に異なっているのです。そんなものを果たして「原典版」などと呼べるのでしょうか。
このアルバムは、ブリュッセルの「フラジェ」というホールで2023年の2月に行われたコンサートのライブ録音です。ライブとは思えないほどのクリアな録音なのですが、合唱とオーケストラのバランスがちょっと悪いような気がします。合唱が少しオフになっているのですね。その分、普段はあまり聴こえないオーケストラの各パートがとてもよく聴こえてきます。それを聴くだけで、この団体が名人ぞろいであることが分かります。アンサンブルは完璧ですし、ダイナミックレンジもとても広く感じられます。トランペットの音圧が、すごいですね。
ただ、演奏自体は、早めのテンポでサクサクと進み、なにか、この作品に対する指揮者やプレーヤーの思いがほとんど伝わってきません。ちょっと「ドライ」なんですね。
その分、合唱はとても主体的で、聴きごたえのある音楽を作り上げていました。ただ、ソリストが、ソプラノ以外はどうもイマイチで、彼らが主役のところではちょっとテンションが下がり気味だったのが残念ですね。

CD Artwork © Musurgia BV


10月26日

The Vienna of Johann Strauss
Herbert von Karajan/
Vienna Philharmonic Orchestra
DECCA/00028948704651


以前こちらでご紹介してありましたが、1959年から1965年までの間に、DECCAのプロデューサーのジョン・カルショーがカラヤンとウィーン・フィルを起用して録音した一連のアルバムのオリジナルの形が、最近サブスクで時折リリースされています。今回は、その最初の年にレコーディングが行われたヨハン・シュトラウスとヨーゼフ・シュトラウスの作品を集めた「The Vienna of Johann Strauss」というタイトルのアルバムです。
以前も書いたように、当時のDECCAはアメリカでの販路を拡大するために、アメリカのRCAという大レーベルと提携関係を持っていました。そこでは、DECCAの製品を販売してもらうだけではなく、RCAの「下請け」のような形でアルバム制作も行っていました。ですから、このカラヤンとのプロジェクトも、初期のものは完全に「RCA」の商品として販売されていました。このアルバムも、1959年にアメリカでリリースされたときはこんなジャケットでした。「ニッパー」のマークが入ってますね。
同じ物が、ドイツで「不滅のウィーン」というタイトルで発売された時には、もっと「RCA」っぽいデザインになっていましたね。これを見れば、だれもDECCAが作ったものだとは思わなかったはずです。ヨーロッパでは「ニッパー」はEMIが権利を持っていたので、ロゴも変わっています。
ただ、1971年になると、DECCA自身でもリリースを行いますが、その時のレーベルが「Ace of Diamond」という廉価盤のためのものであったのが、DECCAの立場を雄弁に物語っています。
この国会議事堂前のモニュメントのジャケットが、今回のサブスクのアートワークとなっています。
ちょっと調べた限りでは、このアルバムと同じ内容のものが日本でリリースされたことはないようです。この中の収録曲を個別にコンピレーションの中に加えたアルバム、という形が殆どだったのではないでしょうか。ですから、これはそのオリジナルの形をそのまま初めて伝えるという意味で、かなり貴重なものだということができるはずです。
何度かご紹介しているように、この一連のカルショーとカラヤンの仕事をまとめてボックスCDで発売した、というのが、こちらです。ですから、その中には、このシュトラウス・アルバムの曲がすべて入っていますから、それを聴けばオリジナル・アルバムを聴いたことになるのではないか、と思われるかもしれませんが、そういうわけにはいかないのですね。このボックスでは、まず、オリジナル・アルバムよりも1曲多い7曲が収録されています。それは「こうもり」の中の舞踏音楽なのですが、それは、1960年に、同じスタッフによって録音されたそのオペレッタの全曲盤(「ガラ・コンサート」という、贅沢なおまけもついていました)から取ってきたものです。さらに、その序曲も、オリジナルのものではなく、この全曲盤から取られていたのです。
その事実は、CDボックスの録音データから分かっていました。ですから、今回のサブスクでの「こうもり序曲」は、まだ聴いたことのないテイクということになります。そこで、その両者を聴き比べてみました。その結果、やはりそれは全く別のものであることが分かりました。テンポや表現は全く同じですが、レコーディングの時のバランスが全く違っています。一番よく分かるのが、始めのあたりに出てくる、鐘の音です。これが、CDボックス版(つまり、1960年の録音)ではほとんど聴こえてきませんが、今回のサブスク(つまり1959年の録音)ではくっきりと聴こえてきます。さらに、その後のワルツでも裏打ちのリズムがやはりサブスクの方がはっきり聴こえてきます。録音会場もスタッフも同じはずなのに、こんな違いが出てくるのですね。
ということで、改めて本来の姿を取り戻したトータルとしてのアルバムを聴いてみました。曲目は「こうもり序曲」、「アンネン・ポルカ」、1曲だけヨーゼフの「うわごと」ワルツ、そして「ジプシー男爵序曲」、「狩のポルカ」、「ウィーンの森の物語」の6曲です。決して「ウインナ・ワルツ集」といった安直なものではなく、一本筋が通ったセンスが感じられますね。序曲が2曲入っていることで、カラヤンの構成力の高さもきっちりと受け止めることが出来ることでしょう。
「狩のポルカ」でのリアルすぎる銃声のサウンドは、まさにカルショーの得意技で、軽いショックをうけます。

Album Artwork © The Decca Record Company Limited


10月24日

CAMPRA
Messe de Requiem & Les Maîtres de Notre-Dame de Paris
Sébastien Daucé/
Ensemble Correspondances
HARMONIA MUNDI/HMM902679


フランス・バロックの作曲家、アンドレ・カンプラが作った「レクイエム」をメインにしたアルバムです。タイトルには「カンプラの『レクイエム』とパリのノートルダム大聖堂の音楽家たち」とあるように、カンプラ以外の、ノートルダム大聖堂の楽長を務めた作曲家たちの作品も収められています。
この大聖堂は、2019年に火災に遭っても、今年の12月には一般公開が再開されるのだそうですね。これでパリの名所を訪れる人たちも、一安心でしょう。
そんな、最近ではもっぱら観光スポットとしてしか知られてはいないこの建造物ですが、過去には、ある意味「音楽の中心地」としての地位も誇っていました。
音楽史を繙いてみると、中世の音楽の項目では必ず「ノートルダム楽派」という言葉が登場するはずです。12世紀から13世紀にかけてここに集まった音楽家たちによって、中世のヨーロッパの多声音楽はひとつの頂点に達していた(皆川達夫)のですね。その伝統は脈々と受け継がれ、ルネサンス、バロックと時代を経ても、そこの楽長たちは後世に残る仕事を行ってきたのです。
ですから、ここではメインであるカンプラの「レクイエム」を聴いた後には、彼以前に楽長を務めていた作曲家たちの作品を聴くことが出来るような配慮がなされているのですね。
その4人の名前は、ほとんど初めて知ったものばかりでした。まずは、1640年から1643年までその任にあったジャン・ヴュイヨ(ca1600-1662)が、得意とした「モテット」を2曲披露しています。「Ave verum corpus」と「Domine salvum fac regem」という2曲は、いずれもコンパクトで親しみやすい曲です。
その後継者、フランソワ・コセ(ca1610-ca1673)は1643年から1646年までの任期。ここでは、ミサ「Domine salvum fac regem」からの4つの楽章が歌われています。ルネサンスの名残のポリフォニーによる穏やかな曲は、和みます。
少し間を置いて、1653年から1662年までの任期だったピエール・ロベール(ca1622-1699)は、ウキウキ感満載で生命感にあふれたほとんどマドリガルのような「Christe redemptor omnium」と、それとは対照的に悲しみにあふれたポリフォニー「Tristis est anima mea」、そしてプレーン・チャントの「Templi sacratas」という、ヴァラエティにあふれたレパートリーを聴かせてくれています。
その次の1664年から1694年までという長期の任期だったジャン・ミニョン(1640-1708)の「Procul maligni cædite Spiritus」は、完全に全パートがユニゾンのプレーン・チャントです。
そして、その後、1694年から1700年までの任期だったのが、ここでの主人公、アンドレ・カンプラ(1660-1744)です。フィギュアではありません(それは「ガンプラ」)。この方は、もちろんこのノートルダムのポストを得る前には各地の教会での下積み時代があったのですが、この最高の栄誉を獲得した時には、彼はオペラバレエの作曲家としても活躍していたのですね。ですから、ノートルダムでの任期は短く、その後はオペラのヒット作を次々と世に送り、宗教音楽の世界からは一旦身を引くことになります。そして、1724年には再び宗教音楽の世界に戻ります。
ただ、この「レクイエム」に関しては、どの時期に作曲されたのかはいくつもの説があって、いまだに特定はできないそうなのですね。
楽器編成は、弦楽器と通奏低音(ここではバス・ヴィオール、ヴィオローネ、ファゴット、セルパン、リュート、オルガンが使われています)の他に、2本のフルート(横笛)と2本のリコーダーが使われているのがユニークです。この管楽器が加わることによって、俄然「フランス風」の味が出てきています。音楽そのものも、さまざまな様式で作られていて、とてもヴァラエティに富んでいます。最後の「Et lux perpetua」は、とても晴れやかな気分で始まりますが、その後はしっかりと、厳格なドッペル・フーガで締めくくられています。このフーガ、何となくモーツァルトの「レクイエム」のフーガと似ています。
演奏している「コレスポンダンス」という団体は、楽器と合唱が合体した組織、そしてソリストは全部合唱団のメンバーが担当しています。とてもレベルの高い合唱で、単にきれいに歌うというのではなく、この時代の整いすぎていない様式が、とても鮮やかに再現されているようです。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.


10月21日

LLOYD WEBBER
Requiem
Florian Markus, Henrik Brandstetter(Boy Sop)
Soraya Mafi(Sop)
Benjamin Bruns(Ten)
Patrick Hahn/
Chor des Bayerischen Rundfunks(by Florian Benfer)
Münchner Rundfunkorchester
BR/900352


「キャッツ」や「ジーザス・クライスト・スーパースター」といった大ヒットミュージカルでおなじみの作曲家アンドリュー・ロイド・ウェッバーは、1982年に亡くなった父親の追悼のために、その2年後に「レクイエム」を作りました。そして、1984年の12月にロンドンでロリン・マゼールの指揮でレコーディングが行われ、その翌年の2月に、レコーディングと同じ指揮者とソリストたちによってニューヨークの聖トーマス教会で世界初演が行われました。
翌年には、このEMIのアルバムがグラミー賞の「クラシック現代作品部門」を受賞します。しかし、それ以来、この曲が録音されることはありませんでした。ライブ演奏も、その後、2013年にマゼールが行ってはいますが、それ以外はほとんどないようですね。
ですから、このEMI盤が、この曲の唯一の録音となっていました。これは、EMIのスタジオであるアビーロード・スタジオを使い、プロデューサーもエンジニアもEMIのスタッフによって作られていたのですが、原盤権はロイド・ウェッバーの資産を管理する「リアリー・ユースフル」という会社にありましたから、その株式の一部を1990年に当時の「ポリグラム」(現在のユニバーサル)が保有したため、そのレーベルはEMIからDECCAに移りました。その後、株式は全て買い戻されても、その時にもうEMIはなくなっていましたから、現在はサブスクもDECCAレーベルのままです。CDはすでに廃盤になっているようですね。
このアルバムは、なんと言ってもソプラノのソロが、作曲家の当時の妻のサラ・ブライトマンですし、テノールもプラシド・ドミンゴという布陣でしたから、なかなかそれ以降は新しい録音を行うのは難しかったのでしょうか。
あるいは、彼のミュージカルなどでは、上演にあたってはかなり「権利」に縛られている部分、例えば、演出は勝手に変えることはできない、と言ったようなことがあるのと同様に、録音に関しても、新しく作ろうとした時のハードルが高かったのかもしれませんね。
それをクリアできたのかどうかは分かりませんが、初録音から39年と半年経った2023年6月に、やっと2つ目の新しい録音が出来ました。なんでも、これはミュンヘンで開催された作曲家の生誕75周年を祝うコンサートでのライブ録音なのだそうです。
今回の指揮者は、1995年生まれの若手、パトリック・ハーンです。彼は、ジャズ・ピアニストとしても活躍しているそうですね。そして、ソリストのボーイ・ソプラノは、マゼール盤では1人だったものが2人になっています。聴いてみると、このパートの出番は何カ所かありますが、そこに交代で歌っているようですね。ソプラノは、なんとなく初演者と似たテイストの人、テノールは、ドミンゴに比べるとちょっと、という人です。
合唱が、以前は教会の聖歌隊でトレブルは少年だったのですが、今回は大人の混声合唱団、でも、なんとなく「幼さ」を演出しているようなところも見られます。
マゼールのアルバムを聴いたのはもちろんEMI盤でしたが、それころには、まだロイド・ウェッバーの作品としては「ジーザス」ぐらいしか聴いたことがありませんでした。今回改めてこの作品を聴いてみて、ほぼ同じ時期に作られた「オペラ座の怪人」とか、ちょっと前の「キャッツ」などとほぼ同じテイストの部分が非常に多くあることに気づかされました。たとえば「Offertorium」などでは、「オペラ座」の中のドン・ジョヴァンニのパロディで使われる無調風の音楽が聴こえてきますし、次の「Osanna」でも、前半は「キャッツ」のダンスシーン、後半のオルガンがフィーチャーされた部分はまさに「オペラ座」の地下のシーンの音楽そのものでしたね。ここでは、最初のテノール・ソロからシンコペーションの嵐で、その後もとてもリズミカルな、ほとんど「ロック」の音楽になっています。これが、マゼール盤では何とももっさりしていたものが、今回はとてもグルーヴィーでした。ドラムスのセンスが全く違うんですね。
全体として、メリハリがあってすっきりとしたものに感じられたのが、この新録音でした。転売はしないでね(それは「メルカリ」)。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH


10月19日

MOZART
Requiem
Ying Fang(Sop), Beth Taylor(Alt)
Laurence Kilsby(Ten), Alex Rosen(Bass)
Chadi Lazreq(Treble)
Raphaël Pichon/
Pygmalion
HARMONIA MUNDI/HMM902729


あの「マタイ」を聴いて以来、すっかりファンになってしまったラファエル・ピションが率いる「ピグマリオン」が、ついにモーツァルトの「レクエム」を録音してくれました。これはもう、期待をはるかに超えた素晴らしい演奏でした。
何から書いていいか分からないほど、その素晴らしさは満載ですが、まずは、録音がとびきり素晴らしい、というあたりから。彼らのアルバムでは、最初のころから、エンジニアはHugues Deschaux(ユーグ・デショー)という人が担当しています。彼は、このHARMONIA MUNDIレーベル以外にも、ALPHAレーベルではかなり初期の段階から録音を担当していて、それのアルバムの数は膨大なものになっています。彼は一部のマニアからは「天才エンジニア」と呼ばれているようで、多くのファンがいのでしょうね。
確かに、今回の録音も、声楽、器楽を問わず、それぞれの演奏家の魅力が存分に発揮されているうえに、トータルでとても瑞々しいサウンドが出来上がっていましたね。そこからは、演奏者が目指している表現が、とても生々しく迫ってきます。
そして、ここでピションが取り上げた曲目も、とてもユニークなものでした。もちろん、メインとしてはジュスマイヤー版による「レクイエム」の全曲が据えられているのですが、彼は、それの、言わば「外堀を埋める」といった感じで、それ以外の音楽を「レクイエム」の周りに配置していたのです。
まず、冒頭では、なんと、ボーイソプラノのソロで、グレゴリオ聖歌の「In paradisum」が歌われます。これは、フォーレやデュリュフレの「レクイエム」では全体の最後に置かれている楽章ですね。デュリュフレではそのプレーン・チャントと同じメロディが使われているので、馴染みのあるものです。これを歌っている、録音当時は11歳だったシャディ・ラズレクという少年は、あくまでピュアな声であっても、しっかりとした表現力の伴った完璧なチャントを聴かせてくれました。
それ以外にも、モーツァルトが若いころに作った、この「レクイエム」の原型と思われるような作品などが、あちこちにちりばめられています。その中に、「Quis te comprehendat, K. Anh. 110」という、あの「グラン・パルティータ」のアダージョ楽章がバックに流れる中で歌われるモテット(モーツァルト以外の手になるもの)なども、なかなか興味深いものです。
そして、その本編では、ライナーノーツでピションは、なぜジュスマイヤー版を使ったか、という点にも言及していました。それは「ジュスマイヤーの補作には納得できない個所がないわけではないが、彼の他の作品ではこれほどの霊感に満ちた作品が見られないということは、彼がモーツアルトから生前にかなり具体劇な指示を受けていたことは明らかだ」という見解です。
本編の演奏は、もう文句なし。どこをとっても自然に引き込まれてしまうところばかりです。まずは、合唱の素晴らしいこと。「Kyrie」のメリスマなどは、完璧なソルフェージュなどは最低条件と言わんばかりの流麗さ、そこからは余裕ともいえる細やかな表現が発散されています。なにしろ、それぞれのメンバーが、決して埋没することなく歌いきっているにもかかわらず、それが全体として完璧なハーモニーとなっているのですからね。「Lacrimosa」のレコーディングの映像がありますが、そこでの合唱はほぼ全員暗譜で歌っていましたよ。
ソリストも粒選りでした。それぞれが一流であるうえに、アンサンブルになった時の他者との関わりも完璧です。彼らが歌う「Tuba mirum」では、ピションはテノール・ソロが始まるところでテンポを上げていますが、なかなか憎いやり方ですね。
そしてオーケストラ。これはもう、ピションの意のままに、どんなフレーズにも命を吹き込んで、とてもエキサイティングな演奏を繰り広げていましたよ。
最後に、冒頭の「In paradisum」が再びラズレクくんによって歌われます。これが、本来の配置なのですが、ここでは、まず同じものが歌われた後で、それがもう一度繰り返されています。そして、そこでは、時間差で同じものが何回かダビングされ、まるで夢のように美しい「一人アカペラ」が出現していたのです。このアルバムは、ほとんど奇跡です。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.


10月17日

JANSSENS
Eine schöne Müllerin
Thomas Blondelle(Ten)
Filip Rathé/
Spectra
ETCETERA/KTC 1827


先日も、なかなかの「水車屋の娘」を聴いたばかりなのに、またまたこんな素敵なアルバムが出ていました。そもそも、このアルバムではどこにも「シューベルト」という文字が見えないのが、素敵です。たしか、曲のタイトルもあちらは「Die schöne Müllerin」だったはず。シューベルトの作品ではないのでしょうか。
まず、ジャケットには、「作曲家」としてダーン・ヤンセンスという名前がクレジットされているようでした。この方は1983年にベルギーで生まれた作曲家で、「Les Aveugles」、「Menuet」、「Brodeck」という3つのオペラを始めとした多岐にわたる作品を世に送っていて、各所からの委嘱もひっきりなしという、超売れっ子なのだそうです。その中には、電子楽器を使った作品もあります。現在は、ヘントの王立音楽院で作曲を教えているそうです。
今回の「水車屋の娘」は、もちろん出発点はシューベルトがヴィルヘルム・ミュラーの詩に曲をつけて作った、あの20曲から成る連作歌曲(ツィクルス)です。オリジナルはピアノ伴奏でテノールが歌う歌曲ですが、まずここでは、ヤンセンスはその伴奏の部分を何種類かの楽器のアンサンブルのために編曲しています。そのアンサンブルは、フィリップ・ラテという人が指揮をしている「スペクトラ」という団体なのですが、彼らは以前からヤンセンスとはコラボレーションを行っています。
ところが、ここではその20曲が全部演奏されているわけではありません。曲は一応20曲あるのですが、その中の6曲には、何のタイトルも付けられてはいません。これがヤンセンスのオリジナルになっています。つまり、ここでは、シューベルトのツィクルスと、ヤンセンスのツィクルスとが絡み合っている、という状況が生まれているのですね。それをここでは「ドッペル・ツィクルス」と呼んでいるようですね。
まず、1曲目が、そんなノンタイトルの曲でした。出だしはかすかに電子音のようなSEが流れている中で、ハルモニウム(リードオルガン)が、終曲である20曲目の「小川の子守歌」を奏で始めます。え、もう終わっちゃうの?と思っていると、少しのポーズの後に、嵐のような打楽器が襲い掛かってきます。それは、なんとも懐かしい、かつて「前衛音楽」と言われていた、あの衝撃的な音楽ではありませんか。まるでクセナキスそのものです。まだ、こんな音楽を作っている人がいたのですね。その攻撃的な音響には、心底圧倒されてしまいます。
その中で、テノール・ソロのトーマス・ブロンデルも、同じようなセンスのメロディの断片を歌います。歌詞は、もちろんミュラーのものではありません。あいにくブックレットなどはサブスクでは見れないのですが、とにかく激しい感じの言葉が飛び交っているのだな、ということだけは分かります。
そして、その後は、しばらくシューベルトが続きます。そこに加わる伴奏は、曲ごとに様々な楽器が登場するので、なかなかヴァラエティがあって楽しめます。4曲目の管楽器のアンサンブルののどかさ、5曲目の弦楽器の激しさなど、それぞれに情緒が漂い、この歌曲たちの別の側面が浮かび上がってきます。
そして、7曲目になって、またヤンセンスの曲になるのですが、今度はまるでブーレーズか、といった感じの、「難解」な音楽が始まります。やはり、昔はこんなのがはやっていたのだなあ、という郷愁が湧いてきますね。それにしても、テノールのパートは難しそうですね。
そのうちに、シューベルトの曲の方にもこのヤンセンスのアヴァン・ギャルドが加わってきます。なんか、「浸食」という言葉が、脳裏をよぎります。そこで、鄙びた農村に、IT産業が押し寄せてくる、みたいな情景が感じられてしまうのは、ナンセンスでしょうか。
ソロのブロンデルも、かなり消耗してきたのでしょう。終曲になると、明らかに虚脱感がその歌に滲み出していました。それを慰めるようなハルモニウムの響きが、いつまでも残っているのは感動的です。

CD Artwork © Quintessence BVBA


10月15日

BEETHOVEN
Complete Symphonies Vol. 2 Nos. 2 &3
Kristiina Poska/
Flanders Symphony Orchestra
FUGA LIBERA/FUG830(digital only)


2004年に創設されたベルギーのレーベルFUGA LIBERAは、アルバムごとのシリアルナンバーがそのまま品番になっているようですね。ですから、今回はその830枚目のアルバム、かと思ったら、サブスクのリストを見てみると、番号は500番台から始まっているようでした。ですから、実際にリリースされているのは300枚ぐらいでしょうか。でも、20年で300枚ですから、毎月1枚以上はリリースしてきたということですね。
とは言え、このアルバムは「digital only」ということで、もはやCDでは購入できません。どうやらこのレーベルは徐々にCDでのリリースから手を引こうとしているのかもしれませんね。ですから、これはダウンロードかストリーミングでしか聴くことはできません。裸になってもダメです(それは「ストリーキング」)。
レパートリーにはかなりマニアックなものが多いこのレーベルですが、今回はなんと、ベートーヴェンの交響曲全集というベタなものを作ろうとしています。そのうちの2枚目、というか、2つ目のデジタル・アルバムで「2番」と「3番」というカップリングのアルバムが出たので、聴いてみることにしました。
指揮者は、エストニア出身のクリスティーナ・ポスカです。彼女は、最初はエストニアのタリンで合唱指揮者としての勉強を始めますが、やがてドイツに渡り、ハンス・アイスラー音楽大学で、指揮法を学びます。そして、2012年から2016年まで、ベルリン・コミッシェ・オーパーのカペルマイスターを務め、オペラ指揮者としての経験を積みます。
一方で、彼女は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を始めとして世界中のシンフォニー・オーケストラとも共演しています。その中には、日本のNHK交響楽団も含まれています。現在は、ベルギーのフランダース交響楽団の首席指揮者のポストにあります。今回のベートーヴェンも、そのオーケストラとの録音です。
録音が行われたのは、ベルギーのヘントにある「ベイロク・ミュージック・センター」というところです。ここは、1228年に建てられ、以前は病院として使われていたという由緒ある建物を、コンサートホールにリノベーションしたものです。

(改修前)

(改修後)

このように、外観と天井はそのままですが、内部の壁と床が全面的に改修されて、とても縦に長いシューボックス・タイプのコンサートホールに生まれ変わっています。録音を聴くと、かなり残響は長めで、とても自然な響きですが、それぞれのパートも埋もれないではっきり聴こえてきます。
ここで彼らが第1集に入っている「7番」を演奏している動画がありました。
ジャケット通り、彼女は左手に指揮棒を持っているのですね。
このオーケストラは、モダン・オーケストラですが、ベートーヴェンの演奏にあたってはピリオド・アプローチを行っているようで、弦楽器はノン・ビブラートが徹底されています。管楽器も、木管はフルートが木製の楽器を使っていますが、システムはベーム管ですし、他の木管もモダン楽器です。金管はホルンはモダン、トランペットはピリオド楽器です。ティンパニもピリオド、まあ、折衷的ではありますが、かなりピリオドのサウンドにはなっています。
それらの楽器も、先ほどの動画で確認できます。

(ホルン)

(トランペット)

そして、まず、テンポはかなり速めです。「2番」での第1楽章の序奏はまあ普通のテンポだったのですが、主部に入るといきなりテンポが普通のものより上がります。これは、なかなか爽快で心地よい演奏ですね。
「3番」でも、やはり軽やかに音楽が進んでいきます。2楽章の「葬送行進曲」がまさに元気な「行進曲」のようなテンポなので、ちょっと、という気にはなりますが、これはこれで、この楽章の様々なモティーフがくっきりと浮かび上がっていて、聴きごたえのあるものでした。フィナーレのフルート・ソロも、淡々とした名人芸で、安心して聴いていられます。その前の変奏で、弦楽器がソロ(あるいはソリ)で演奏しているのは、一部の原典版の指定を忠実に守っていたからなのでしょう。全体的には穏健で、納得のいくものに仕上がっているのではないでしょうか。録音も素晴らしいですね。

Album Artwork © Outhere Music


10月12日

The Geometry of Time
Francesca Guccione(Vn, MOOG)
NEUE MEISTER/885470033839


イタリアのシチリア島で生まれたヴァイオリニストで作曲家のフランチェスコ・グッチョーネの最新アルバムです。彼女は、主にシンセサイザーとヴァイオリンをフィーチャーした現代音楽のアーティストとして、多くのアルバムを作り、映画のサウンドトラックも担当したりしています。
彼女が使っているシンセサイザーは「MOOG」です。これは、ロバート・モーグという技術者が半世紀以上前に作った、ピアノと同じキーボードで演奏できるアナログ・シンセサイザーです。その後、デジタル・シンセサイザーが開発されて、もはやMOOGの出る幕はなくなったかのように思えましたが、創業者の意思を大切にして、現在でも、あの「MOOG 3C」という、ウェンディ・カーロスや冨田勲が使っていたモジュラー・シンセサイザーを、受注生産しているようですね。ですから、最近になって、このアナログの良さを認めて、あえてこのシンセサイザーを使うアーティストが増えているようです。
このグッチョーネもそんな一人、彼女は、MOOG専属のアーティストとして活躍しています。このジャケットにある機材も、すべてMOOG、GRANDMOTHERやSUBHARMONICONといった機種が、このジャケットには登場していますね。

GRANDMOTHER


SUBHARMONICON

これらの機材と彼女自身のヴァイオリンを使って作られた曲は、以下の8曲、特に全体としてのコンセプトのようなものはないようです。
1曲目:Continuum
ヴァイオリンだけの多重録音で始まり、低音がパッサカリア風にパターンを継続しています。次第に低音も高音も増強されていきますが、同じシンプルなフレーズが繰り返されていることに変わりはありません、途中から、カウンター・メロディが湧き出てきて、新しい世界が広がります。基本、生楽器だけで進んでいるようですが、背景にはMOOGの気配が雰囲気として漂っていますが、曲が終わる少し前に、細かいMOOGのフレーズが一瞬聴こえます。
2曲目:The Geometry of Time
細かいパッセージがヴァイオリンで繰り返され、そのバックにMOOGが絡みつき、やがて、対位法的に別のフレーズが加わります。その間を、シンコペーションの別のテーマが、時には装飾音も加えて踊りだします。かなり、賑やかな音楽、鳥のさえずりのようなものも聴こえてくるでしょうか。ヴィヴァルディの「四季」が連想されます。
3曲目:Springs of Time
まるでチェロのような音色に変えられたヴァイオリンが、なだらかなMOOGのビートに乗ってゆったりと歌い続けます。ラフマニノフの「ヴォカリーズ」でしょうか。やがてヴァイオリンは本来の音域に落ち着き、より輝かしく歌いだします。そこに、今度はピチカートの装飾が加わり壮大な広がりを演出します。
4曲目:Ode to Mnemosine
MOOGのアンサンブルに乗って、ヴァイオリンの涙を誘うメロディが奏でられます。ピアノのようなエンヴェロープを持ったMOOGのアルペジオが、それを支えています。そこにいきなり、フラッター・タンギングのようにモジュレートされた音源がアクセントになっています。一瞬のゲネラル・パウゼのあと、ほんの少し元気を取り戻した音楽が現れます。
5曲目:A Dynamic Sense of Light
ピチカートだけのアンサンブルを、MOOGがサポートしています。そこに、アルコで短いブレークが入った後、サウンド的に膨れ上がった音楽が続きます。このあたりになると、多少アグレッシブにも感じられます。
6曲目:The Persistence of Memory
多くのヴァイオリンとMOOGによって奏でられるシンプルなテーマが重なって音楽が進みます。そこに低音も加わってよりスケールは大きくなりますが、音楽自体のシンプルさは変わりません。途中で、それぞれのテーマの形が変わりつつ、ミニマルな音楽は進みます。
7曲目:Ouroboros
グリッサンドがかかったMOOGのベースに乗って、ヴォーカルを変調した複数の音源がポリフォニックにテーマを歌います。クライマックスを迎えると、コーラスがコラールを歌いだします。いかにもアナログな歪んだ音が、魅力的です。ここにはもうヴァイオリンの出番はありません。
8曲目:Between Seconds and Ages
静かなたたずまいの中から、ヴァイオリンの雄大なメロディが登場します。MOOGのバッキングはどんどん成長していき、それはまるで冨田勲のような宇宙規模の音楽となります。
いずれも、とても聴きやすい音楽、グッジョブです。

Album Artwork © Neue Meister


10月10日

BRUCKNER
Symphonies Nos.1&2
François-Xavier Roth/
Gürzenich-Orchester Köln
MYRIOS/MYR035


ロトと、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のブルックナーの交響曲ツィクルスも、佳境に入ってきました。その5つ目のアルバムは2枚組で「1番」と「2番」が収録されていますから、これで9曲(おそらく)のうちの6曲までがリリースされたことになります。
ロトがブルックナーの交響曲全集を作るにあたってのスタンスは、作曲家が最初に書いたと思われる楽譜を演奏する、ということのようでした。ですから、何度も改訂を行っている曲については、最初の稿が使われています。ただ、改訂されていない「7番」では、最初に出版されたハース版ではなく、より新しいノヴァーク版が使われていましたね。
今回も、「1番」については、第1稿、いわゆる「リンツ稿」でも、これまであった1877年に改訂された部分を含むハース版やノヴァーク版ではなく、1868年の「初期稿」をトーマス・レーダーが校訂して、2016年に出版されたばかりの楽譜が使われています。この楽譜を使って2017年に最初に録音を行ったのはティーレマンとドレスデン・シュターツカペレでした。その後が、2020年のこのロト盤となり、さらに、あのポシュナーが2023年に録音しています。
「2番」の方も、ウィリアム・キャラガンによって初稿が校訂され、2005年に出版されたという、結構新しい楽譜が使われています。こちらは、すでに10人以上の指揮者によるアルバムが出ていました。
今回のアルバムでは、「2番」では、いつものケルンのフィルハーモニーで録音が行われていまが、「1番」の方は別のスタジオでの録音となっていました。ですから、続けて聴いてみるとかなりその音が違っていることが分かります。「1番」のほうが、音の密度が高い、というか、重量感のある音で、木管楽器などもしっかり浮き上がって聴こえてきます。それに対して、「2番」の方は、ちょっと薄めのサウンド、雰囲気はありますが特定の楽器がくっきり聴こえるということはほとんどありません。
ただ、いずれの録音でも、ロトが弦楽器に殆どノン・ビブラートで弾くことを要求しているのはよく分かります。この奏法は、時として味気のない思いをすることもあるものですが、彼らの演奏からはそんなことは全く感じることはありません。それよりも、余計なものをそぎ落とした潔さ、といったようなものの方が、強く迫ってきます。特に、この時期のブルックナーのひたむきさには、とても合致したやり方のように思えます。
そんな弦楽器に乗って、ロトの演奏もサクサクと進んでいきます。マイナーな曲なので、ほとんど聴いたことがないようなところがあるのも幸いして、なんの先入観も持たずに聴けましたから、とても新鮮な思いがしました。
そんな中で、「2番」では、この第1稿だけが第2楽章がスケルツォで、第3楽章がアダージョなんですね。確か、「8番」以降はこの順になるのですが、ここでそれをやっていたのもなかなかです。ただ、同じ楽譜を使っているポシュナーは、わざわざその逆の並びで演奏していたようですね。確かに、自筆稿はその並びですし、第2稿でもそうなっています。
その、スケルツォのトリオが、とてつもなくショッキングな音楽でした。まるでブルックナーらしくない、ほとんどシューベルトか、と思えるようなシンプルなテーマを、オーケストレーションを変えたりして延々と続けているのです。それをロトは、とても愛おし気に演奏しているのですが、それがあまりに続くもので、他の盤(ポシュナーですけど)を聴いてみたら、そんなに長くはないんですね。
自筆稿を見てみたら、そのトリオでは前半と後半にそれぞれ「リピート」が付けられていました。そして、第2稿ではそのリピートは外されています。ですから、同じキャラガン版を使っていながら、ポシュナーはその指示に背いてリピートを外して演奏していたのですね。そんなことでは、なんのためにすべての稿を録音していたのか、全く理解できません。本当に、このポシュナーという人はどうしようもないクズです。そのうち、またボロを出してぽしゃることでしょう。

CD Artwork © Deutschlandradio / myrios classics


10月8日

BRUCKNER
Symphony No.4(1878/80 version, ed. Benjamin M. Korstvedt)
Franz Welser-Möst/
The Cleveland Orchestra
Cleveland Orchestra/TCO0012


クリーヴランド管弦楽団の自主レーベルからの、12番目のアイテムになるのでしょうか。音楽監督のウェルザー=メストの指揮で、2024年3月に彼らの本拠地のセヴランス・ホールでのライブ録音が、リリースされました。
曲目はブルックナーの「交響曲第4番」です。このメンバーは、以前も同じ曲のライブ映像をリリースしていましたが、その時に演奏に用いたのは、同じ曲でも1888年に改訂された「第3稿」でした。それは、かつては「改竄版」と言われていたものを、ベンジャミン・コーストヴェットが新たに校訂して2004年にブルックナー協会のお墨付きを得て出版した楽譜でしたね。
しかし、今回使われたのはそれではありませんでした。同じコーストヴェットによって校訂され、2018年に出版されたばかりの、ホヤホヤの「第2稿」の楽譜だったのです。これまでにこの楽譜を使って録音されていたのは、フルシャポシュナーのものがありましたね。
もちろん、その楽譜は市販されてはいるのですが、なんせ布張り、金箔押しのハードカバーの装丁で10万円近くするという想定外のものですから、現物を見たことはありません。それでも、実際に使っている人からの情報なども少しずつ入るようになってくると、おぼろげながらもその実体が明らかにはなってきました。どうやら、これまではハース版から改良されたものがノヴァーク版、という認識があったのですが、このコーストヴェット版は、そのノヴァーク版をさらに洗いなおして、かなりの部分でハース版の形に戻したようなのですね。最もはっきりした違いは、ノヴァーク版では曲全体の最後から9小節前から、3、4番ホルンとトランペットのリズムが第1楽章冒頭のホルンと同じ「複付点二分音符+十六分音符」というリズムになっていたものが、ハース版のように全て「全音符」になっている箇所です。面倒くさいことになりましたね。まあ、ベートーヴェンの交響曲などは、「原典版」が3種類以上ありますけどね。
ただ、そのように楽譜が変わり、出てくる音がほんの少し違うようになっても、それは演奏を聴く上での妨げになることはありません。なんと言っても、重要なのは演奏者がその楽譜を使った上で、自分の解釈で表現している演奏そのものなのですから。
ウェルザー=メストの今回の録音は、まず音が飛び切り素晴らしいものでした。ブルックナーが楽譜に書いた音符を、残さず録音してやろう、という気合すら感じられて、これまでほとんど聴こえてこなかったパートの音がくっきり聴こえてくる箇所がどんどん見つかるのですよ。この曲は、自分で演奏したこともありますし、何度も聴き込んだものなのですが、それでも、こんなところにこんな音が、というところが満載でした。
そして、それぞれの音のクオリティが、また素晴らしいのですね。トゥッティの弦楽器では、その大人数の質感がたっぷり味わえますし、ソロの管楽器も、とても粒立ち良く聴こえてきます。正直、ブルックナーのオーケストレーションには、実際に楽器を演奏していても、なんでこんなところにソロがあるのだろう、というようなことがよくあり、録音を聴いても、確かに全然聴こえないことがあったりするのですが、今回はそのようなことはほとんどありませんでした。
ウェルザー=メストの指揮ぶりは、その外観のようにとてもスマートでした。コーストヴェット版では、ノヴァーク版で書き加えられたリタルダンドがかなり削除されているようなのですが、たしかに、気分だけでゆっくりしてみよう、というようなところは全くありませんでしたね。第1楽章の最後あたりでは、明らかにギアチェンジが行われていました。
基本のテンポも速め、特に第2楽章のテンポはとてもあっさりしていて、気持ちが良かったですね。ヴィオラのパート・ソロなども、そのテンポだと、これまで感じていた「泥臭さ」のようなものは皆無でしたよ。
まあ、逆に「重厚さ」のようなものは全く感じられませんが、もはやそんなことに拘る時代ではなくなったのかもしれませんね。

Album Artwork © The Cleveland Orchestra and Musical Arts Association


さきおとといのおやぢに会える、か。



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