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奥多摩は魔女。
そもそもこのPENTATONEというレーベルは、PHILIPSというレーベルがかつて「4チャンネル」の音源をたくさん作っていたのに、それらはその形ではリリースされていなかったので、きっちり「サラウンド」で聴けるようにSACDとして新たにリリースするという目的で設立されていたのですけどね。いつの間にか、その「社是」は変わっていたようで、最近では新しいSACDは全く作られていないようです。というか、時代が、そのような「ディスク」ではなく、ネット配信に変わって、そこでは新たに「イマーシヴ」というフォーマットが展開されるようになっていますから、CDそのものが瀕死の状態なのですよ。 まあ、今利用しているサブスクでは、その「イマーシヴ」には対応していませんから、別にどうでもいいことなんですけどね。いまーすぐ、どうにかなる、というものでもないようですし。 このアルバムは、ですから2019年に録音され、その年にリリースされたものです。指揮者のユロフスキの当時のポストは、ロンドン・フィル、ベルリン放送交響楽団、そして、ここで演奏しているロシア国立アカデミー交響楽団のシェフでした。現在では、ベルリンフィルの首席指揮者となったペトレンコの後任者として、バイエルン国立歌劇場の音楽総監督を務めていますね。 この録音は、コンサートのライブなのだそうですが、ここからはほとんどお客さんの気配は感じられませんから、おそらく、本番前のゲネプロなどの音源を編集しているのでしょうね。ただ、「アラビアの踊り」では、オーボエ奏者がちょっとしたミスを犯していますから、やはり修正できない部分もあったのでしょう。 そんな有名な曲も含まれた「組曲版」を聴き慣れた人にとっては、この「全曲版」はなにかと戸惑うところが多いのではないでしょうか。冒頭の序曲、1曲置いて「行進曲」と続くあたりは、聴いたことのある曲が続きますが、その後には、おそらくほとんど聴いたことのない音楽ばかりだな、と思ってしまうことでしょう。組曲ではすぐに出てくる「金平糖の精の踊り」などは、いつまで経っても聴こえてきませんからね。そしてかなり経ったところで、やっとさっきの「アラビアの踊り」が出てきて一安心、という感じでしょうか。結局「金平糖」などは、最後から2番目ですから、もうやらないんじゃないか、と思ってしまいますね。 しかし、こうして全曲版を聴いていくと、チャイコフスキーはとんでもないメロディメーカーであることに気づかされます。出てくるメロディは、一つとして同じものはなく、常に新鮮で、的確にそれぞれのシーンを彩るものです。そして、そのオーケストレーションの素晴らしいこと、それぞれの楽器の特性を限界までに引き出して、極上のサウンドを作り上げています。児童合唱まで入ってますからね そこでは、他の作曲家に先駆けて、彼が世界で初めて使った楽器というものもありました。それは、先ほどの「金平糖」で登場するチェレスタです。鉄琴を鍵盤で操作する、という、昔からあった楽器を、フェルトで鉄琴を叩くことで、得も言われぬ夢のような音を醸し出すようになった楽器です。この全曲版では、その「金平糖」のはるか前から、2台のハープとのアンサンブルで登場しているのですが、聴いているお客さんは、その時点では何の楽器なのかは分からなかったものが、「金平糖」でその全容が明らかになる、という仕掛けですね。 もう一つ、第2幕の2曲目、11番の「情景」ですぐに聴こえてくるフルートの音に、何か不思議なものを感じることでしょう。これも、チャイコフスキーがおそらく初めてオーケストラ曲で使った「フラッター・タンギング」という「技」なのです。これは、もう少し時代が進むと、「現代音楽」になくてはならない奏法になります。 ユロフスキの指揮は、それぞれのメロディをきっちり聴かせつつ、とても緊張感をもって、物語を進めていきます。その爽快さは、たまりません。 CD Artwork © Pentatone Music B.V. |
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さらに、やはりかつてはクラシック界をリードしていたレーベル、DECCAにも、少しですがウィーン・フィルを指揮しての録音を行っています。それは、1959年から1965年までという、ほんの少しの間だけでした。その頃のカラヤンは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督と、ベルリン・フィルの首席指揮者を同時に務めるという、まさに「帝王」と呼ばれるにふさわしい、まさに指揮界の頂上にありました。そのカラヤンが、それほど大きなレーベルとは思われていなかったDECCAとの録音を許可したのは、アメリカの市場を視野に入れていたからだともいわれています。当時のDECCAはアメリカのRCAという大きなレーベルと提携を結んでいて、DECCAで作ったアルバムをアメリカで販売したり、あるいは、最初からRCAが主導権をとって、製品もRCAレーベルとして販売するという、いわば「下請け」的な仕事もこなしていたのですね。 そんな状況下で、カラヤンとウィーン・フィルのレコードを作ったのは、世界で初めてステレオでのワーグナーの「指環」の全曲録音を手掛けていた真っ最中の、プロデューサーがジョン・カルショー、エンジニアがゴードン・パリーというチームでした。彼らによって作られたのは、オーケストラ曲が14点、オペラが5点、そして、アメリカのソプラノ歌手レオンティン・プライスを迎えて作られたクリスマス・アルバムです。 オーケストラ曲では、ハイドンからリヒャルト・シュトラウスまでの幅広いレパートリーを取り上げていましたが、その中で、1959年の最初のセッションで録音されたシュトラウスの「ツァラトゥストラ」の冒頭のファンファーレの部分が、1968年に公開されたスタンリー・キューブリックの映画「2001: A Space Odyssey」の中で、メインテーマとして使われたことで、まさに世界中の人がこの音楽を聴くことになりました。 その結果、例えば、エルヴィス・プレスリーが彼のライブのオープニング・テーマに使うなど、「シュトラウス」や「ツァラトゥストラ」といった概念とは全く無関係なところで、知られるようになっていたのですね。 それらのアルバムは、CD時代になってもしっかり聴かれていました。それは、こんなボックスで、全14枚が9枚のCDに収められていました。 ですから、それは脈絡のないカップリングのディスクだったのですが、今回サブスクで、オリジナルのカップリングで1963年に録音されたモーツァルトの「ジュピター」とハイドンの「太鼓連打」が収録されたアルバムがリリースされました。やはり、作られたままの姿で、聴いてみたいですよね。 CDになったものもまともに聴いてはいなかったので、じっくり聴いてみると、カラヤンの演奏には、今の時代にはなくなってしまったユルさがありました。「ジュピター」の冒頭を、こんなに甘ったるく演奏する指揮者など、もういないでしょうね。ただ、しばらく聴いていると、以前彼がベルリン・フィルと録音したベートーヴェンを聴いた時に感じたことが思い出されてきましたよ。彼の演奏には、息をとるところが全くないんですね。一つのフレーズが終わると、決してそこで一息つくことはなく、次のフレーズが休みなく畳みかかってくるのですよ。 録音は、CDになった時から、そこからはゴードン・パリーの音が全く聴こえてこなかったことにがっかりしていたのですが、そのあとで24/96のハイレゾで聴いた時にも、その印象は変わりませんでした。ですから、ここでも全く同じ失望感を味わいました。手元に、イギリスプレス(マトリックス・ナンバーがZAL6769)の、同じころの録音の「白鳥の湖」のLPがあったので聴いてみたら、その瑞々しさに改めてマスターテープの劣化を実感させられ、烈火のごとく怒り狂うのでした。 Album Artwork © The Decca Record Company Limited |
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この中で最も有名で、演奏頻度の高いのがニ長調の協奏曲ですが、これは、それ以前に作られていたハ長調のオーボエ協奏曲を移調して作り直した作品だ、ということも、今では誰でも知っています(諸説あるようですが)。それでも、オリジナルのオーボエ協奏曲よりもフルート版の協奏曲の方が、格段に人気があるというのが、面白いですね。やはり、世の中にはオーボエ奏者よりもフルート奏者の方が格段に人数は多いのが、理由なのでしょうか。ただ、オーボエ協奏曲は1920年になってやっと楽譜が発見されて、出版されたのも1949年ですから、そもそもの認知度が低かったのかもしれませんね。 同じようなケースでは、モーツァルトはオーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成の「オーボエ四重奏曲ヘ長調」という有名な曲を作っているのですが、この曲が出版された時には、ト長調に移調された「フルート四重奏曲」というものになっていました。つまり、その編成とキーのものが「初版」だったのですね。それは、出版社が、オーボエよりもフルートの方がアマチュアの演奏家もたくさんいるので、楽譜の需要も多いだろうということで、勝手にやってしまった結果なのですね。奇異に感じた人はいなかったのでしょうね。現在では、その「フルート四重奏曲」の楽譜も普通に入手できますから、それを使って録音されたものもあります。 その出版時に、オリジナルよりも全音高い調に変えたのには、理由があります。その頃使われていたフルートは、再低音が「レ」までしか出なかったのですが、オーボエ四重奏曲では「ド」までの音が使われていたので、それを出すために全音上げたのでしょう。 ところが、フルートとハープのための協奏曲では、フルート・ソロに、「レ♭」と「ド」の音が使われている個所があります。 ![]() ということで、このアルバムでのソリスト、フランソワ・ラザレヴィチは、ソロ・フルートのための協奏曲は1キーの楽器、ハープとの協奏曲では8キーの楽器と使い分けています。 ![]() ラザレヴィチは1975年生まれ。彼は、トゥールーズ中央音楽院、パリ高等音楽院、ベルギーのブリュッセル王立音楽院などで学んでいますが、そのようなクラシカルなアカデミズムでは学べない、民族的な音楽や楽器にもその興味を向けていました。彼は、現在ではこのALPHAレーベルでのアーティストとして多くのアルバムを作っていますが、そもそもはそのミュゼット(バグパイプ)の腕を認められて、録音活動が始まったというのですからね。バグパイプとフルートをそれぞれ完璧に演奏できるなんて、普通はあり得ませんよね。 そんな彼が、2006年から一緒に音楽活動を行っているピリオド・アンサンブル、「レ・ミュジシアン・ド・サン・ジュリアン」と一緒に、このアルバムを作りました。彼らのレパートリーは、これまではバロックまでの音楽だったのですが、そこにモーツァルトが登場です。 とは言っても、彼らにとっては、そんな時代区分などはほとんど問題ではないように思えます。彼らは、あくまでその時代の様式に則った上で、なんとも自由で風通しの良い音楽を作り上げていました。それを象徴しているのが、それぞれの協奏曲で挿入されているカデンツァです。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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それだけでも、世界初録音の曲はたくさん含まれていて、素晴らしい仕事だと思っていたのですが、2023年になって、さらに「新しい発見」がもう1枚分録音され、この度発売となりました。 このアリマニーという人は、最初はフルーティストになるつもりなどなく、あくまで趣味としてジャズ・フルートをたしなんでいて、仕事は別のことをやっていたのだそうです。しかし、その頃レッスンを受けていた先生があのジャン=ピエール・ランパルと、アラン・マリオンをスペインのカタルーニャに呼んで開催したコンサートを聴いたとたん、そのランパルの演奏に取りつかれてしまって、クラシックのフルート奏者を目指すようになったのだそうです。その後は音楽学校に入学し、最終的にはパリのコンセルヴァトワールを卒業しました。 それ以降はソロのフルーティストとして、全世界で活躍するようになり、教育者としても「後進の指導」にあたっています。ランパルとは、彼のCDで共演したりして親交を深めていて、現在アリマニーが使っているのは、かつてランパルが使っていたヘインズの金製の楽器なのだそうです。 彼は、フルートのための珍しい作品の発掘も熱心に行っていて、ドップラー以前にも、バッハの弟子や、ドゥヴィエンヌなどの知られざる作品を録音しています。 今回のアルバムでの曲目の大半を占めるのは、ハンガリーの民謡です。カール・ドップラーは、フルート、またはヴァイオリンとピアノのためにハンガリー民謡を編曲して3巻からなる曲集を出版しましたが、そこには全部で60曲が収められていました。そのうちの28曲は、すでにこのシリーズの第11巻に収録されていましたが、今回はその残りの32曲が演奏されていて、晴れて「全曲録音」が完成したことになります。そのほかにチャールダーシュを集めたものも、演奏されています。 これらは、もう、1分足らずの小さな曲のメロディをそのままソロ楽器に演奏させて、それにピアノの和声を加えたという、とてもシンプルなものでした。あくまでオリジナルの民謡を大切に後世に伝えよう、という意思で作られたのでしょうね。(別に「こうせい」と言われたわけではないのでしょう) ここではアリマニーは、そのシンプルさをそのままに、ひたすら淡々と吹いていましたから、彼のヴィルトゥオーゾとしての姿をうかがうことは全くできません。とは言っても、その旋律には豊かなビブラートがかかっていて、そこに「アート」としての存在感がうかがえます。ただ、時には、そのビブラートがまるで「タンギング」のように聴こえてきて、ロングトーンのはずなのに細かい音符で書かれているように聴こえてしまうのは、ちょっとした誤算でしょうか。 もちろん、ドップラーと言えばこれ、という曲も入っています。まずは、有名なフルート2本と、本来はオーケストラのための「リゴレット・ファンタジー」が、普通に演奏されるピアノではなく弦楽四重奏のバージョンが取り上げられています。ピアノ版と同時に作られたそうですが、もちろんこの形では世界初録音です。 フランツ・ドップラーはオペラを7つも作っていたそうですが、その中の「イルカ」というオペラからのパラフレーズも、とても珍しいものでした。さらに、ソプラノが加わった、「ハンガリーの羊飼いの声」も興味深い曲ですね。 そして、最後は、アリマニーが知り合いの作曲家のサルバドール・ブロトンスにこのアルバムのために委嘱した、「フランツとカール・ドップラーの思い出」という、フルート2本とピアノのための新しい作品です。これは、まさにドップラーの作風を現代に蘇らせた恐るべき曲です。 CD Artwork © Capriccio |
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今回のアルバムのメイン曲、ガブリエル・フォーレの「レクイエム」は、2022年に彼らと録音されたものですが、ニケは2014年にも同じ曲を録音していました。その時は、彼のアンサンブルではなく、フランダース放送合唱団と、ブリュッセル・フィルを指揮していました。そのアルバムはこちらでご紹介していたEvil Penguin Recordsというレーベルへの録音でした。 その時に彼らが使ったのは、いくつかあるこの作品のバージョンのうちの「1893年稿」でした。それは、校訂者によって2つのエディションが存在するのですが、彼らが用いたのは「ジョン・ラッター版」の方でした。 その楽譜には、楽器編成の中で「使わなくても構わない」という楽器も表示されています。ニケたちは、それに従って、ファゴットとトランペットは使わないで演奏していましたね。ただ、同じように「使わなくてもよい」とされていたティンパニは頻繁に使っていました。さらに、ソプラノ歌手が歌うことになっている「Pie Jesu」は、合唱団のソプラノ・パートのユニゾンで歌われていました。それに関しては、かなり積極的な意図があったことが明記されていましたね。 それから8年経ってのAlphaレーベルへの手兵との再録音でも、楽譜は、やはり「ラッター版」が使われていました。もちろん、前回同様、いくつかの楽器は使われていませんが、なぜか、以前は使っていたティンパニまで、ここでは省かれています。そして、「Pie Jesu」では、しっかりソリストが歌うようになっていました。 さらに、今回は楽譜そのものも、少し変えて演奏している箇所がありました。1曲目「Introit et Kyrie」の34小節目の歌詞は、ラッター版では「requiem」なのですが、 ![]() ![]() ![]() この件は、日本のカワイ楽譜から出版されているヴォーカルスコアには、こんな注釈がありました。 ![]() ここで歌っている合唱団は、男声パートはとても伸びやかな声に、ちょっとした色気も感じられてなかなかのものだな、と感じました。この曲にはテナーのパート・ソロが頻繁に出てきますから、なかなか聴きごたえがありました。ところが、女声がちょっと冴えないのですね。ソプラノのピッチがぶら下がりがちで、ちょっといただけません。 2曲目の「Offertoire」は、前回もテンポが速すぎると感じたのですが、今回はもっと速くなっていました。ここまでくると、かなりの違和感です。 4曲目の「Pie Jesu」も、決して悪いソリストではないのですが、なにか流れが損なわれるような歌い方が残念。これは前回のパート・ソロの方がましでした。 6曲目の「Libera me」では、教会での録音ということで、中間部のホルンが派手にずれてしまっていました。その代わり、前回行っていた三連符でのクレッシェンドはなくなっていましたね。それと、やはりここにあるはずのティンパニがないと寂しいですね。 最後の「In paradisum」も、やはり女声の音程の悪さは命取り、ただ、前回はたぶんなかった(聴こえなかった)最後のヴァイオリン・ソロが、しっかり入っていましたね。 これだけで30分、そこに、フォーレの1世代前のグノーが作った「Messe dite de Clovis」という、合唱とオルガンのための20分ほどのフル・ミサが加わります。シンプルなテーマ(グレゴリアン?)には癒されます。「Credo」の冒頭で「ぞうさん」が出てきたのはご愛敬。 さらに、フォーレの次の世代のオーベールとカプレの小曲が入って、1時間のアルバムが出来上がっていました。構成的には面白いのですが、ネット配信が主流となると、そろそろ「アルバム」という概念自体が崩れてくるのではないでしょうか。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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ジェンキンスは、小さい頃はピアノやオーボエを学んでいて、ロンドン音楽院を卒業していますから、クラシックの素養はあった方なのでしょう。現に、オーボエ奏者としてユース・オーケストラで活躍していたこともあるそうです。 その後は、ジャズの道を歩むことになるのですが、クラシック系の作品も数多く作っているようで、宗教曲を集めたアルバムを、スティーヴン・レイトン指揮のポリフォニーが録音していましたね。 この「レクイエム」のアルバムは、最初はEMIからリリースされていたのですが、今回のサブスクのジャケットのように、2019年にジェンキンスの生誕75周年の時にリイシューされた時にはレーベルはDECCAになっていました。こういうことは、特にジャズやロックの世界では珍しいものではなく、原盤権が移動することはしょっちゅうあるようです。たとえば、「オペラ座の怪人」で有名なミュージカル作曲家のアンドリュー・ロイド=ウェッバーの同じタイトルの作品がありますが、これも最初はEMIから発売されていたものが、いつの間にかDECCAに変わっていましたからね。マーケットが大きいと、そういうことが起こりやすいのでしょう。ジェンキンスの場合も、現金が動いたのだとか。 現代の作曲家が作った「レクイエム」では、伝統的なラテン語の歌詞の曲以外に、他のテキストによる音楽を挿入するものが多くあります。代表的なものでは、ブリテンの「戦争レクイエム」でしょうか。ジェンキンスの場合は、それが何と日本人が作った「俳句」だというのですから、いったいどんなものに仕上がっているのか、興味が湧いてきます。 最初の「Introit」は、とてもまっとうな、ホモフォニックの合唱で歌われます。それは穏やかな音楽で、なんとも和みます。 ところが、次の「Dies irae」の最初のあたりのテキストを使った曲になると、ガラリと様相が変わります。それは、まさに「ヘビメタ版レクイエム」でした。バスドラムは力の限り強烈なビートを叩き続けていますし、合唱は歌詞の断片を、ほとんどオルフのようなオスティナートで、飽くことなく繰り返します。まさに、そこには地獄絵図の阿鼻叫喚が広がっていましたよ。 そして、その次に演奏されるのが、俳句をテキストにした音楽です。とてもピュアで儚い少年の合唱で、それは日本語によって歌われていました。バックには尺八の響きが流れています。それは、確かに日本語で歌われているはずなのに、日本人が聴いてもいったいなんと言っているのが全く分からない、という、ぶっ飛んだ世界が、そこでは体験できました。 「Agnus Dei」では、その日本の俳句の世界と、本来の「レクイエム」の世界が融合するという、驚くべきことが起こっていました。それは、なんとも不思議な風景でした。 そんな、様々なスタイルの曲で、「レクイエム」は進みます。「Pie Jesu」などは、それこそフォーレの「レクイエム」からの伝統を受け継ぐように、少年によるとても美しく儚い歌を聴くこともできます。先ほどのロイド=ウェッバーの作品でも、同じようなテイストの曲になっていましたね。 最後の「In Paradisum」では、3拍子のリズムに乗って、ハープのソロもフィーチャーされ、とてもキャッチーなメロディが歌われています。いろいろありましたが、終わってみればヒーリング、ということでしょうか。 カップリングとして、同じ作曲家の「In These Stones Horizons Sing」という、やはりソリストと合唱とオーケストラのための5曲の小品から成る作品が演奏されています。ここでは、あのブリン・ターフェルが素晴らしいソロを披露してくれていました。そのバックのソプラノ・サックスのソロも、かっこよかったですね。 これも、全曲とてもキャッチーで、聴きやすい曲です。最後の曲の合唱が、とてもかわいらしく、さわやかさを演出していましたね。 Album Artwork © EMI Classics |
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![]() 今回のアルバムでイライザを歌っているのはキリ・テ・カナワ、彼女はバーンスタインが指揮をした「ウェストサイド・ストーリー」のアルバム(DG)でも、マリアを歌っていたのは、何かの縁でしょうか。 なんせ、この映画は字幕なしでセリフが分かるほど何回も見ていますから、そのストーリーやナンバーにはなじみがあります。まず序曲が聴こえて来た時には、そのオーケストラの音が映画版とは段違いに素晴らしいことに気づきました。ここでのエンジニアは、DECCAの黄金期を支えたスタンリー・グッドールですから、それも納得です。何よりも、ストリングスの響きがまさにデッカ・サウンドの象徴ともいうべき、艶と深みのある音でしたからね。ロンドン交響楽団も、このようなレパートリーはお手の物、マウチェリの軽やかな指揮に乗って、サクサクと音楽を進めていきます。 キリ・テ・カナワが歌うイライザのナンバーは、まず「Wouldn't It Be Lovely」で始まります。そのイントロで、ロンドン・ヴォイセズの男声合唱が入るのですが、それがまず素晴らしいですね。この合唱は編成を変えてたびたび出てくるのですが、それぞれが素敵でした。 そして彼女は、コックニー訛り丸出しのこの歌を、とことん田舎っぽく歌ってくれました。そして、ヒギンズ教授の下で「美しい英語」を学ぶことになるのですが、そこで浴びせられる罵倒に対して歌う「Just You Wait」では、およそ彼女らしくない地声丸出しのハチャメチャな歌が聴けますよ。こんな歌い方も出来たんですね。 それが、教育の成果が実って、きちんとしゃべれるようになったときに歌う、有名な「I Could Have Danced All Night」になると、そこには、まさに不世出のソプラノ、キリ・テ・カナワが現われます。それはもう、ジュリー・アンドリュースやマーニ・ニクソンとは別格の、隅々まできっちりコントロールの行き届いた、惚れ惚れするような歌い方でした。どのフレーズにも、きっちり心がこもっています。最後のコーラスをピアニシモで始めた時には、背筋がゾクゾクしてきましたし、その最後のハイGのロングトーンは、まさにオペラ歌手ならではの素晴らしさでしたね。 ヒギンズ教授は、ジェレミー・アイアンズが演じています。映画版のレックス・ハリスンよりもルックス的にはイケメンですね。この役でのセリフの中で歌を歌うというシーンを、見事に演じていました。ハリスンほどアクの強さがないのがいいですね。 イライザの父親ウォーレン・ミッチェルも、やはり映画版のスタンリー・ホロウェイのようなブロークンなところはなく、きちんとこの役を務めていました。 そして、フレディ役のジェリー・ハドリーは、結局イライザにはフラれてしまうというこの役にしては、ちょっと立派過ぎましたね。 オリジナルのすべてのナンバーと、エンディングの「僕のスリッパは、どこ?」というセリフまできっちり収録されていたのも、うれしいですね。 Album Artwork © The Decca Record Company Limited |
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そもそも、この録音が行われたのが今年の6月ですから、歌う方の「気持ち」の切り替えも必要だったことでしょう。彼らは、歌うだけでなく、ジャケットやブックレット用にしっかりクリスマス仕様のコスプレの写真まで撮ってくれていましたよ。 この人たちは、「ベヴァン・ファミリー・コンソート」という名前のイギリスの合唱団です。その名の通りの「ファミリー合唱団」で、メンバーは全て「ベヴァン」というラストネームを名乗っています。ですから、ブックレットでのメンバー紹介では、すべて「アグネス」とか「デイヴィッド」といったラストネームのみで表記されていますよ。 この合唱団のルーツは、1975年にさかのぼります。当時、14人の子供の父親だったロジャー・ベヴァンという人が、そのうちの11人を集めて合唱団を作り、彼が指揮をしてアルバム(当時はLP)を作ってしまったのですよ。その「ベヴァン・ファミリー合唱団」は1984年ぐらいまで活動を続けていましたが、それぞれのメンバーも様々な変化があって、そこで解散してしまいます。 その後、そのメンバーの次の世代の、従弟たちにまで広がった家族たちは総勢53人にもなりました。その中の15人から22人が、2013年に新たに結成したのが、この「ベヴァン・ファミリー・コンソート」です。その頃には、メンバーの中にはプロの音楽家になった人もたくさんいるようになっていました。そして、その年に、有名な合唱指揮者、グレアム・ロスの元で、このSIGNUMレーベルでデビュー・アルバムを作ったのです。彼は、ケンブリッジのクレア・カレッジで学んでいるときに、ベヴァンたちと出会っていたのだそうです。その、ア・カペラの宗教曲を集めたアルバムは、各方面で絶賛されました。 そして、セカンド・アルバムとしてリリースされたのが、このクリスマス・アルバムなのですね。前作に続いてロスが指揮をしています。 ただ、クリスマス・アルバムとは言っても、普通に知られている曲は全くここでは歌われてはいませんから、「きよしこの夜」や「赤鼻のトナカイ」を期待した人はがっかりすることでしょう。 ここでのメンバーは、ソプラノが4人、アルトが3人(1人はカウンターテナー)、テナーが3人、ベースが4人という、14人編成で、曲によって必要なメンバーだけが歌っています。 まず、最初にグレゴリア聖歌の「Alleluia. Veni Domine noli tardare」が歌われるのですが、そこでの単旋律を、カンニング・ブレスでとてつもなく長いフレージングで歌っているのに驚かされます。息をとっているのが全く分からない、とても滑らかな歌い方、まさに、親戚ならではの緊密なチームワークの賜物なのでしょうね。 ここでのメインの曲目は、パレストリーナの「Missa sine nomine」です。「名前のないミサ曲」というタイトルです。この時代の曲は、グレゴリオ聖歌などから定旋律をとって、それを元にポリフォニーを仕上げるという手法がとられていました。ここでは、「名前のない」旋律が使われているということになるのでしょうが、実際は、世俗的な旋律が使われていて、それを隠すためにこのように呼んでいたのだそうですね。宗教と音楽が、密接に結びついていたからなのでしょう。 そのポリフォニーは、この合唱団で聴くと、なにかホッとできる温かさが感じられます。これこそが、家族同士の阿吽の呼吸というものなのでしょう。曲の中には、あまりの親密さのために、ちょっと緊張感が薄れているものもありましたが、それはご愛敬。 最後に演奏されているピエール・ヴィレットのモテット「Jesu, Dulcis Memoria」が、フランス風の煌めくようなハーモニーで、聴きごたえがありました。 CD Artwork © Signum Records Ltd |
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今回は、UNIVERSALから1993年に録音されたこのアルバムが配信で聴けるようになったので、聴いてみました。このアルバムは、もちろんCDでリリースされていたものなのですが、それと同時に「DCC」というフォーマットでも流通していたのです。でも、「DCC」って知ってますか? DCCというのは、殺虫剤ではなく(それは「DDT」)、「Digital Compact Cassette」の略称です。「Compact Cassette」というのは、いわゆる「カセットテープ」の正式名称ですから、ご存じの方も多いことでしょう。最近になってこれで音楽を聴くことがトレンドと化しているという信じがたいことが起こっていますが、なんせ竹内まりやのニューアルバムが、このカセットテープでもリリースされるというのですから、その復権は本物なのでしょう。 もちろん、カセットテープは普通の録音テープと同じように、音楽をアナログで磁気テープに記録する媒体です。それを、CDの発売によってデジタル録音が一般化した1991年に、カセットテープにデジタルで録音できるメディアを、カセットテープを最初に作ったPHILIPSと、日本の松下電器(現在のパナソニック)が共同で開発しました。それがDCCなのです。 ![]() ![]() そんな、録音メディアの歴史の中にほんの一瞬だけ存在していたDCCのことを知ることが出来たのが、このアルバムの一つの成果でした。 ところで、このアルバムのタイトル、「THE GREAT WALTZ」というのは、1938年に作られた、ヨハン・シュトラウス2世の伝記のような映画のタイトルです。そこで音楽を担当していたのが、ロシア出身で、ハリウッドで活躍していたディミトリ・ティオムキンでした。彼は、その中でシュトラウスの作品を、いかにもハリウッドらしい編曲で登場させていたのですね。その中の2曲が、このアルバムの最初と最後に演奏されています。 まずは、「ウィーン気質」というタイトルですが、曲が始まるといきなり「春の声」が聴こえてきましたよ。そう、これは、シュトラウスのワルツの断片を集めた、「ポプリ」だったのですね。もちろん、その中には「ウィーン気質」のテーマも入っています。ただ、そのオーケストレーションは、オリジナルとは全く異なる、「ウィンナ・ワルツ」と言われてすぐに連想する瀟洒なイメージからは遠く離れた、ど派手なものに変わっていました。それは、あたかも品のない厚塗り化粧のよう、それがハリウッドに求められていたものなのでしょうね。 最後には、あの名曲「美しく青きドナウ」が演奏されていますが、それは音符的にはオリジナルを踏襲していても、やはりハリウッドにすっかり汚染されてしまったワルツに変貌していましたね。 それ以外のラインナップは、ロージャやコルンゴルトといった作曲家による、最初からハリウッドの映画のために作られたワルツでした。これらは、もうこのオーケストラにとってはお得意のレパートリーでしょうね。 そんな中に、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のワルツ、などと言ったものも入っていました。これも、シュトラウスの華麗さとは明らかに方向性の異なる別の華麗さに支配されているような印象がありました。ただ、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」だけは、その退廃ぶりがハリウッド向きだったのか、何の違和感もなかったのが、おかしいですね。 Album Artwork © Philips Classics Productions |
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いずれにしても、これで彼はシューベルトの「3大歌曲集」を40歳を迎える前に録音してしまったということになるのですね。ただ「3大」とは言ってますが、その成り立ちは、「白鳥の歌」だけはちょっと性質が異なっています。つまり、「水車小屋の娘」と「冬の旅」は、ミューラーが作った一連の詩に音楽を付けた「連作歌曲」、つまり「ツィクルス」なのですが、「白鳥の歌」は、シューベルトの没後に、未出版の曲を集めて、いわばでっち上げた曲集なのですからね。 もっとも、最近の全集では、その14曲のうちの前半7曲は「レルシュタープ歌曲集」、後半の6曲は「ハイネ歌曲集」、そして残った1曲は別のものという形で、一応「ツィクルス」の集まりであるという解釈もなされてはいるようですね。 いずれにしても、「冬の旅」の昔の楽譜には、 ![]() なんたって名曲の誉れ高い「冬の旅」ですから、これまでに世に出た録音はおびただしいものがあるはずです。ただ、この24曲から成る連作歌曲集は、全部演奏するのに70分以上かかりますから、LP時代には1枚に収めることは不可能でした。それがCDの時代になってからは、ちょうど1枚に収まるサイズになったので、さらに手軽に録音できるようになりましたね。 今回のシュエンのアルバムでは、トータルの演奏時間は77分になっていました。これは、歴代の歌手の録音の中でも、かなり長いものとなっています。この曲の録音としてはおそらく最初に挙げられるフィッシャー=ディースカウのものだと、ちょうど70分ぐらいですからね。 実際、シュエンがとったテンポは、かなりゆっくりのものだった、ということが、聴き始めてすぐに分かります。ただ、それはただ「遅い」ということではなく、テキストの一つ一つをとても丁寧に、言い換えれば「気持ちを込めて」歌っているからです。長いことこの曲を聴いてきましたが、これほど言葉の意味がすんなりと伝わってくる演奏には、ほとんど出会ったことがないような気がします。そして、彼の声の音色は、なんとも温かいものでした。囁くようなピアニシモから、張りのあるフォルテまで、その美しさは群を抜いています。 ですから、先ほど挙げたフィッシャー=ディースカウの録音が「名演」とは言われていますが、こちらを聴いてしまうと、それは、「雑な」演奏に思えてしまうほどです。 その思いは、最後の曲、「Der Leiermann」でマックスとなりました。この最後のフレーズ、「Willst zu meinen Liedern deine Leier dreh'n ?(私の歌と一緒に、あなたのハーディ・ガーディを弾いてはくれませんか?)」の最後の音符で、彼は全く平静なたたずまいを見せていたのです。この部分、それこそフィッシャー=ディースカウの録音では、とてつもないクレッシェンドがかけられていて、それを聴いて深い悲しみが伝わってくる、という体験を味わってきたのですが、それをシュエンはいともあっさりと歌い終わっていたのです。 ![]() CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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