Iconoclasme

Iconoclasm
聖画破壊運動
726-787
813(5)-843
under construction
Introduction
”あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水のなかにある、いかなるものの形も作ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。”(出エジプト記20:4−5) (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
 今日、イコノクラスト(イコン破壊者)という言葉は、「過去の実績などにより高い支持を持つ『偶像』の支配を否定・無効化する人物」といった「変革者」としてのポジティブな用法がされることがほとんどである。もっともこのような表現は米国・西ヨーロッパ諸国の出版物によく見られるだけで、正教圏ではこの様な用法にお目にかかることは少ないかもしれない。

 唯一イスラム教を除いて、世界的な大きな力を持った宗教で「偶像」を一切排除出来た宗教はない。キリスト教も、ローマ帝国の国教となり、地中海世界に広がる過程で、多くの世俗・土着の信仰をアマルガメイトしてゆく。

 例えば、イエスの母、マリヤには、キリスト教以前に崇めていた地母神的な意味づけが付されることになり、431年のエフェソ公会議ではマリヤ崇拝が公に認められることとなる。キリスト教が広がって行く過程で、聖書の中では単に「イエスを産んだ女性」であったマリヤが「テオトコス(神の母)」と変貌するのは、世俗的な強い要請(必要性)があったからなのである。そのことは、過去に作られたイコンにおいて、マリヤを描いたイコンがヴァリエーションの数でも点数でも、イエス像を遥かに凌いでいることにも表れている。

 しかしながら、ヘレニズム文化の遺産を受け継いでいるビザンティン帝国において、キリスト教の美術が平面的な絵画表現(写本やイコン)にとどまっていたのは逆に驚くべきことなのかも知れない。5世紀頃から蜜蝋を用いて描かれ始めイコン(多くは現存しない)は、急激に帝国内に広まっていったに違いない。

 726年、皇帝レオン3世は聖像崇拝を禁止する。いわゆる第一回目のイコノクラスムである。これは一種の上からの「宗教改革」であったと解釈も成り立ちうる。

 なぜこの時期にイコノクラスムが始まったのかについては以下のように諸説有り、原因を一つに求めることは困難である。

 さらに、イコン破壊派の文書の多くが破棄されてしまったことが、当時の背景を探ることをより困難にしている。

 ところで、イコノクラスムは帝国を二分する論議を引き起こしたとされるが、イコン養護派と破壊派はどのような人々で構成されていたのであろうか?

といった構図であったとされる。

 754年、コンスタンチヌス5世により、イコノクラスムがより強力に進められる。併せて聖遺物・聖人・聖母(マリヤ)への崇拝も禁止される。

 787年、第2回ニカイヤ公会議において、イレーネ(752−803)によってイコン崇拝が回復され、神学的な根拠が確定される。つまり「イコン自体を崇拝の対象としているのではなく、原型に向けて崇拝しているのである」といった内容。

しかしながら、レオン5世の治世(813−820)になり再びイコノクラスムが始まるが、853年にテオドラによってイコン崇拝は回復される。

 言い古された言い方ではあるが、2回に及んだイコノクラスムの終焉が共に女性によって導かれたのは、マリヤ崇拝と同様に(地中海世界の)キリスト教における女性原理の強さを象徴していると言って良いであろう。

 最終的には「理念」が「必要」に負けた形となり、以降大規模なイコノクラスムは正教圏では見られなくなる。

 この様に8−9世紀に渡ってビザンティン帝国で繰り広げられたイコノクラスムがイコン崇拝派の勝利に終わった後に、正教はロシアへと移入されたのである。

Histoire
 
 

Century Iconoclast controversy Related events
V    
VI   544 アヒロピトスの聖母像がササン朝ペルシアからエデッサを守ったとされる
VII 691-2 ペンセクティ教会会議で、キリストを人間の姿に描くことが認められる 625 「ヴェラヘルニティサ」というイコンがアヴァール族の包囲からコンスタンティノープルも守ったとされる

ユスティニアノス2世、キリスト像のコインを発行

VIII
726-787 The 1st period of Iconoclasm
1回目のイコノクラスム(聖像破壊運動)

726Leo III (717-741) removes the image of Christ from the Chalke Gate and inaugurates the period of iconoclasm
(the image was replaced after 787, removed in 814, and replaced again in 843)
レオン3世、聖像崇拝禁止令

730 Leo III requires the removal of religious images from all churches
擁護派のエルマニオス総主教を罷免、アナスタシオスを総主教とする

754 Council of Hiereia convoked by Constantine V (741-775) to define Iconoclasm as orthodox doctrine
コンスタンディノス5世による禁止はイコンに留まらず聖遺物・聖人崇拝・聖母崇拝にも及ぶ

768-9 Destruction of images in the patriarchal palace, Constantinople

784 イレーネにより、総主教がパヴロス4世からイレーネの秘書であったタラシオスに

786 イレーネによる教会会議が妨害にあい失敗

787 The 7th Ecumenical Council (Nicaea II) decrees the necessity of image veneration
第2回ニカイヤ公会議、イレーネ(752−803)によって聖像認可 聖遺物も認可される

717-8 Arabs besiege Constantinople

726 Earthquake in Constantinople
イエラ海中火山の大噴火
 

731 Pope Gregory III condemns Iconoclasm
 
 
 

740 Earthquake in Constantinople
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

IX 813(5)-843 The 2nd period of Iconoclasm
2回目のイコノクラスム

815 The 2nd Iconoclast Council under Leo V (813-820)
聖遺物への崇敬も再び禁止される

820 Leo V assassinated

837 セオフィロスが最後のイコン崇拝迫害

843 Empress Theodora and Michael III (842-867) restore veneration of images
聖遺物への崇敬も復活

  
Bibliographie Links 本ページの表記は整理の都合上、フランス語、英語、日本語の順になっています。フランス語に付いてはアクサン等が、Shift_JISによる日本語と同時に表示不能な為、省かれています。読みにくいかと思われますが、ご容赦を。


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15 July 2001