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読書記録2003年8月


『人格障害かもしれない−どうして普通にできないんだろう』
磯部潮(光文社新書)2003.4/★★

−要約−

DSM−Wというアメリカ精神医学会の診断基準に依れば、人格障害には
十通りの類型に分けられ、そのうち半数は「境界性人格障害」に該当する。
その特徴とは以下のようになる。

特定の一人との関係に埋没し、見捨てられる不安からそれを避けようと
きちがいじみた努力をしたり相手を試すような真似をし、
ゆえに不安定で激しい対人関係となる。不安定の中の安定という
均衡状態にあるときは、創造性が開花し活発に活動できる。
同一性障害、つまり自分の存在様式の矛盾に無自覚で不安定な自己像しか
持ち得ず、情緒不安定で気分屋。攻撃衝動が自己へと向かうケースが多い。
「生きている実感」が希薄で慢性的な空虚感に苛まれている。

周囲は翻弄され、自分自身も破滅へと進み、生を全うすることすら難しいが、
それだけエネルギーが甚大であるがゆえに、凡人に比して大きな可能性を
宿している。(著者はこの「大きな可能性」を強調したかったそうだが、
それが成功しているとは言い難い。むしろ逆の結果となっている感がある。)

−感想−

著者は境界性人格障害の人の心性を「安らぎへの希求と不安定な状況への
嗜癖性という、相反する心的状態の並存」と表現しているが、
これは僕がドストエフスキー著『永遠の夫』の感想などで書いている、
「病的な自意識を持つ、抑圧された(と本人が感じている)人間は、
他者への渇望と絶望の狭間で葛藤している」といった心理傾向とほぼ重なる。
要するにこういう人格類型は昔からあったわけだ、
これに関しては以下で敷衍する。

僕自身のことを考えると、境界性人格障害の特徴をほぼ全て備えていると
いってよく(生へのエネルギー自体は貧弱だが)、また、回避性人格障害の
診断基準七項目のうち、六つに該当している。要するに「困った人」である。
僕のような「困った人」すなわち人格障害の増加傾向について、著者は
「これまであったものが顕在化して増えているようにみえるのではなく、
本当に人格障害を持つ人が増えている」と仰る。まあそうかもしれないが、
曖昧な論証となんとなくの当て推量でそう言い切られても肯きかねる。

ちょっと反論を試みてみると、第三章で著者自身ですら曖昧という、
新しい精神疾病概念を捻出してさらにカテゴリーを微細にし診断名を
増やしていくというのは、これ自体がどうしたって立派な
"新しい病気の創出"である。時代が違えど偏屈な変わり者で協調性に欠ける
とか、人格障害の診断基準を満たすような人間は、それが"精神の病気"
とみなされなかっただけで、現在と同様、市井にたくさんいただろう。
別に現代病でもなんでもない。文学やそれ以外でも、
他分野の古典などを読めばわかるだろう。

さらに"病気の創出"に関して穿った見方をすれば、
「あなたも該当しますよ」と不安を煽って顧客を増やし、
自分たちを頼らせて儲けて、精神医学と精神科医の権威をも強めようという、
悪しき無自覚な権勢欲、構造的動機が見え隠れする。
まあ、そうした流れによって"救われる"人間が増えればいいことではあるが、
不安を惹起させられ悩み苦しむ人間がそれを上回るようでは元も子もない。
そこで僕は開き直るわけだが、これが要するに人格障害という「病気」
なわけだ(笑)。

第七章「人格障害の影の部分」では、人格障害という診断が下った、
メディアを賑わした犯罪者らについて著者が「人格障害」をキーワードに
論じるが、やはり精神医学、心理学的アプローチだけでは見えなくなる
ものが多すぎる。そもそも前書きで、凶悪犯にラベルを貼って自分らと
彼らを隔てて、やっぱり彼らは違うんだ、と安心して終わらせてはいけない、
「個人的背景を探り、そこから彼らを生み出した現代社会の歪みを綿密に
見ていく作業が要求されている」と自身で断っていたのに、
それがここで成功しているとは思えない。端的に失敗に終わっている。
個人的には社会学的に分析を進めるほうが有効性があると感じられるし、
性に合う。

第八章「人格障害の光の部分」では、尾崎豊、太宰治、三島由紀夫の三人が
論じられるが、この天才らを「人格障害」というたったひとつの分析概念で
論っても、浅薄で皮相な感は否めない。

人格障害に関する知見が得られ、全体としてまあそこそこ楽しめたが、
単純な面白さで終わった。


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