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読書記録2003年8月


『永遠の夫』
ドストエフスキー・訳:千種堅(新潮文庫)1871/★★★★★

−紹介−

タイトルの「永遠の夫」とは「生涯、ただただ夫であることに終始し、
それ以上の何ものでもない…(中略)…自分の細君のお添えもの…p.54」
といった、妻が浮気をしようが何をしようが、それに甘んじて屈従するしか
能がないような、後書きの言葉を借りれば「万年亭主」のことである。

そんな永遠の夫であるトルソーツキイが、自覚なき悪妻ナターリヤの死後、
娘のリーザを連れて、ナターリヤの元愛人ヴェリチャーニノフの前に現れる…。
物語と並行しながら、「永遠の夫」のルサンチマンで屈折した深層心理が、
ヴェリチャーニノフの鋭い観察力と洞察力を通して描かれる。

−感想−

「…世間には、深い感情を持ちながら、何か抑圧された人々がいるものです。
そういう人たちの道化行為は、長年にわたる卑屈ないじけのために、
面と向かって真実を言ってやれない相手に対する、恨みの皮肉のような
ものですよ。…そういう道化行為は往々にして非常に悲劇的なんです。…」

読了後、この『カラマーゾフの兄弟』作中の、コーリャに対してアリョーシャ
のするスネギリョフ評を思い出した。トルソーツキイにも当てはまるだろう。
ドストエフスキーの作品には『罪と罰』のマルメラードフなど、
こういうタイプの人物がよく登場する。
『地下室の手記』のあの男を加えてもいいだろう。

僕自身がそうしたパーソナリティの持ち主なのでとてもよくわかるが、
こうした人間には、他者への渇望と絶望、という相反する二つの気持ちがある。
他人に心からの信頼を感じたい、愛情あふれる絆を結びたい、という渇望が
あるものの、失敗や挫折、裏切られた体験や自分の卑小さなどから、
それは叶わないと絶望している。こうした葛藤が自虐的な道化的振る舞いを
させるわけだ。

トルソーツキイがそうした気持ちを向ける対象は、かつての親友である一方、
妻の浮気相手であり、そうとは知らずに可愛がっていた娘の実の父なのだから、
その心理は複雑だ。卑屈ではあるが親密な感情と、絶望からくる黒々しい
憎悪と復讐心の間の揺れ動き…。

しつこくつきまとわれ、こんなものをぶつけられるヴェリチャーニノフは、
訴訟沙汰で神経をすり減らしているときなのだから、たまったものでは
ないのもよくわかるが、最終的にヴェリチャーニノフも16章の「分析」
でそれを次のように把握している。

《そうか。あの男がここへ来たのは、自分でもいやらしい言い方でいっている
けれど、「おれと抱きあって、泣く」ためだったんだ、つまりおれを殺しに
来たんだが、頭の中では「抱きあって、泣くためだと思っていた」…で、
リーザも連れてきた。で、どうだろう、もし、いっしょに泣いてやったら、
おそらく、本当におれを許したかもしれない、とにかく、許したくて
たまらないのだから…》

しかしヴェリチャーニノフはそれに気づいても、
トルソーツキイの屈折したその思いを冷たく突き放す総括をする。

《…現代では、すべてを許すといって抱きしめ、涙を流すようなことは、
れっきとした人物でも、そうそう簡単にはできないのだから、まして、
おれとか君のような人間には無理な話さね、トルソーツキイ君よ》

二人は幾度も悶着を繰り返し、その過程でリーザを永遠に失い、
互いの心の間には永遠の壁ができるわけで、それをヴェリチャーニノフは
最良の結果、ということを言っている。しかしそれはリーザを失った
ヴェリチャーニノフの自分自身に対する慰め、彼女を中心とした生活を
諦めるための言い聞かせ、のように思えた。

《これこそ人生の目的というにふさわしい、これこそ人生だ》…p.80
《いまとなっては、このことにこそ、おれの全生涯が、目的のすべてが
かかっているのだ。うしろ指をさされようが、思い出におぼれることに
なろうが、かまうものか…。(中略)…今では、何もかも違うんだ、
何もかも違ったふうになるのだ》…p.107

とまあ、これほどの気持ちをリーザに向けていたのだから、
ヴェリチャーニノフの総括は現実的で至極当然の帰結ではあっても、
やはり最良の結果とは考え難く、後悔を隠すための欺瞞的な総括だった
ように感じられる。もしあのとき違う受け入れ方をしていれば、
などとウジウジ嘆き悲しむのも見苦しいが、ロマンを噛み殺した
リアリストはときに痛々しく見える。

それにしても人間の心理とは微妙かつ複雑で、そのすれ違う関係は
ときとして悲劇的になるものだ。それを克明に描き切るドストエフスキーは、
さすがはロシアの誇る大文豪、といったところか。


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