日本人の起源と系統について-倭人と北東アジア系渡来人

  三津永田遺跡と山口県土井ヶ浜遺跡の弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が中国江南から発見された。中橋孝博氏は1994年、上海自然博物館で長江北岸の揚州市の前漢墓から発掘された骨が、北部九州の甕棺から出土する弥生人骨にあまりにも似ているので驚いたという。ミトコンドリアDNAの分析でも、北部九州弥生人と同じ塩基配列を持つ個体が春秋時代の遺跡で見つかったという。新モンゴロイド的特徴を持った集団が江南にもいたことになる。
  この発見で、三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人は中国江南に原郷を持つ集団である可能性が出てきた。中国江南は倭人の故郷といってもよいところであり、彼らは倭人の生活環境を持ちながら北方の新モンゴロイド的特徴を持っていたことになる。この発見により、三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人を、北東アジアで寒冷適応し朝鮮半島に南下し、さらに日本列島に渡来した新モンゴロイドだと限定できなくなり、新モンゴロイド的特徴を持った集団には、大きく分けて、倭人系と北東アジア系の2種類があったと考えなければならなくなった。中国江南は春秋時代から長江をはさんで、北方系と南方系とが交錯していたといわれており、北方系と南方系の文化・種族の混合・混血も盛んに行なわれていたと想像される。 倭人系にも、南方系と新モンゴロイド的特徴を持った北方系の二つの系統考える必要が起きてきたのである。
  三津永田遺跡と土井ヶ浜遺跡の弥生人について、九州倭人社会の中に北東アジア系の集団がいくつかあったのだ、という見方もできるが、九州、山口県西部で発見されているの弥生人骨は中国史書が書く倭人の時代のものであり、弥生人骨の多くは倭人と呼ばれた人たちのものとみられるのである。そうすると新モンゴロイド的特徴を持った倭人の存在はやはり否定できないものとなる、というよりも日本列島に渡来した多くの倭人は新モンゴロイド的特徴を持っていた、と考えなければならなくなるのである。

 しかし倭人は、中国史書などには南方的要素を強く持った人として描かれている。『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」(『魏志』倭人伝)には

夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。今倭水人好沉没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。

 「夏后少康之子が長江下流域南部の會稽に封ぜられた時、斷髪文身をして蛟龍の害を避けた。今倭の水人は好んで潜って魚や蛤をとるが、同様に文身して大魚や水鳥の危害をはらっている。・・・」と書かれ、長江下流域南部の風習と日本列島の倭人の風習との関係の深さを示唆している。
 鳥越憲三郎氏の中国江南地域の現地調査によっても、『魏志』倭人伝に記録されている「貫頭衣」の存在が確認されており、そのほかにも高床式住居・鳥居など、倭人の文化・風習の江南的要素が指摘されている。
 彼らは倭人と呼ばれ、倭人の風俗風習を持っていた。その後も中国史書は『旧唐書』(『新唐書』にも一部ある)まで、倭人と倭人の国・倭国を書き続けた。確かに彼らは倭人だったのである。倭人は北方系の新モンゴロイド的形質を持ちながら、南方系の風俗風習を持っていたことになる。このこともわすれてはならない。
 この倭人の北方系、南方系というのは中国における系統であり、現代日本人が北東アジア系であるのとは基本的に異なる。倭人と日本人は一つの系統ではつながらない、ということにも注意が必要である。

 中国・朝鮮半島・日本で発見された古代人骨について、人類学者が調査し見解を述べたものがある。それをまとめたものが表1日本人の系統-中国・朝鮮半島・日本の古代人-である。また朝鮮半島と日本の水稲・青銅器にはどのような関係があるのか、それをまとめたのが表2水稲と青銅器-朝鮮半島と日本-である。この二つの表から、江南の倭人と北東アジア系の人たちがどのようにして日本人になっていったのか、考えてみたい。

 表1をまとめると次のようになる。

■中国
 古代人の身体的特徴は同じ地域の場合、時代による違いはさほどみられないが、長江の北と南、あるいは長江の中流域と下流域というように、地域が異なるとその特徴に違いが現われてくることがわかる。しかし前漢時代までには、江南地域の人たちも華北人的特徴を持ったとみられる。
 長江の北側の中流域から下流域は北方系であり、その度合いは北に行くほど強い。北部九州・山口県西部に渡来した人たちの祖系集団は、黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけての青銅器時代人にあてることができる。長江中流域より上流の人たちは華南系が強く、長江下流域の南側の人たちは華北人とは異なるが、在来系弥生人より北部九州・山口県西部へ渡来した人たちに近い人たちである。

■朝鮮半島
 紀元前1000年頃、半島の南部に住んでいた人たちと東北部に住んでいた人たちとは、その身体的特徴がまったく異なっており、南部の人たちは縄文人的特徴を持ち、東北部の人たちは高顔・高身長の北部九州・山口県西部の弥生人に近い特徴を持っていた。その間の中部の遺跡からは炭化米が発見されているが、それは畑作の米とみられる。
 紀元前8~4世紀頃の半島南部では、松菊里遺跡から遼寧式銅剣が発見され、また無去洞玉峴遺跡からは水田跡が発見され、畑作農業に水稲農業が加わった状況がみられる。
 弥生時代末から古墳時代にかけての半島南部の人たちの身体的特徴は北部九州・山口県西部の弥生人に似ている。

■日本
 縄文時代晩後期から弥生時代早期の菜畑や板付などの遺跡から水田跡が発見されたが、これとほぼ同じ時代の新町や大友などの支石墓に葬られた人たちは、北部九州・山口県西部の弥生人の特徴は持たず、縄文人的だった。
 吉野ヶ里遺跡の甕棺から出土する絹は、弥生時代前期初頭のものは四眠系蚕(淮河以南の華中・華南の蚕)で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半から現われる。
 北部九州・山口県西部の弥生人は高顔・高身長を特徴とする中国北部や朝鮮半島の新石器時代人につながる可能性が高い(北部九州・山口県西部の弥生人と朝鮮半島の新石器時代人とは別系統ではないか、と私はみている)。

 また表2をまとめると次のようになる。

●朝鮮半島
 紀元前8世紀頃中国東北部から遼寧式銅剣が朝鮮半島北部に流入する。
 松菊里遺跡から炭化米が出土する。半島中部の欣岩里遺跡、北部の南京遺跡からも炭化米が出土したが、畑作の米である。

●日本
 青銅器最古の鋳型は北九州市松本遺跡のもので、弥生時代前期末に上る可能性があるが、青銅器生産の開始時期は中期前葉からである。 弥生時代前期末に北部九州に持ち込まれた金属器は、中国東北部に起源を持つ朝鮮青銅器文化の一要素だった。
 水田遺構は縄文時代晩期終末までさかのぼる。 松菊里遺跡から出土した石包丁や磨製石斧は菜畑遺跡のそれによく似ている。水稲は江南から山東半島を経由して朝鮮半島西南部に伝わり、それに北部からの畑作の米や雑穀などが加わり、九州北部へ伝来したと考えられる。

 これらをさらにまとめると次のようになる。

北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は、黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけて居住していた人たちに似ている。
紀元前1000年頃の朝鮮半島東北部には高顔・高身長の北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちがいたが、南部には縄文人的特徴を持った人たちがいた。
紀元前8世紀頃、中国東北部から朝鮮北部に遼寧式銅剣が流入した。
紀元前8~4世紀頃、朝鮮半島南部で畑作農業に水稲農業が加わった。松菊里遺跡から炭化米が出土し、その石棺墓には遼寧式銅剣が埋葬されていた。
縄文時代晩期~弥生時代早期(紀元前5~4世紀頃)、九州北部に水稲農業が始まった。
中国東北部に起源を持つ朝鮮青銅器は、弥生時代前期末頃(紀元前200~100年頃)北部九州に持ち込まれた。
吉野ヶ里遺跡出土の絹は前期初頭のものは華中・華南の四眠蚕で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半からである。
弥生時代末から古墳時代にかけての朝鮮半島南部の人たちは、北部九州・山口県西部の弥生人に似ている。

 ここでについて少し説明を加えておく。

について
 北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は、これまで高顔・高身長の北東アジア系とみられていたが、それとは別系統の江南系の可能性も出てきた。

②⑧について
 紀元前1000年頃、朝鮮半島東北部には北東アジア系とみられる人たち、南部には縄文系の人たちがいたが、弥生時代末から古墳時代になると、南部も北東アジア系の人たちになっていた。

④⑤について
 朝鮮半島南部の水稲農業は、遺跡から発見される炭化米の分析結果などによれば、江南から山東半島を経て朝鮮半島西南部へ伝わっものとみて間違いない。
 九州北部への水稲の伝播ルートは、朝鮮半島西南部経由ルート以外のルートも考慮する必要がある。

③⑥について
 青銅器は中国東北部から朝鮮北部に紀元前8世紀頃流入し、半島を南下していったが、九州に持ち込まれたのは弥生時代前期末である。水稲が九州北部に伝わった時期よりも200~300年ほどあとになる。
 松菊里にはすでに遼寧式銅剣があった。したがって、九州北部に最初に伝わった水稲が松菊里など朝鮮半島西南部からのものだったとすると、その水田跡とともに遼寧式銅剣が発見されても不思議ではない。しかしそれは発見されていない。九州北部に最初に伝わった水稲農業は朝鮮半島経由ではない可能性がある。

について
 北部九州の、一般に渡来系弥生人と呼ばれている人たちの遺跡とされる吉野ヶ里遺跡には、弥生時代前期初頭には江南から来た弥生人、中期後半には北東アジア系の弥生人がいたと考えられる(三眠蚕と四眠蚕から)。

 さてからはどのようなことがわかってくるのだろうか。そこから読み取れるものを次に挙げてみる。

A縄文時代晩期~弥生時代早期に九州北部に水稲農業を伝えたのは江南系の人たちだった。
B弥生時代前期末に日本列島に青銅器を持ち込んだのは北部九州・山口県西部に渡来した弥生人だった。
C北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちは江南にもいた。
D北部九州・山口県西部の弥生人は朝鮮半島から青銅器と水稲を携えて渡ってきたと考えられ、この人たちと江南の人たちが似ているということは、江南から山東半島・朝鮮半島西南部、さらに北部九州・山口県西部にかけて、これらの人たちは均質だった、ということである。
E紀元前1000年頃の朝鮮半島南部には縄文系の人たちが住んでいたが、紀元2~3世紀頃にはすべて北部九州・山口県西部の弥生人に似た人たちなっていた。

 これによると、九州北部に最初に渡来した人たちは江南系の倭人であり、その次に渡来した人たちは青銅器文化を身につけた、江南系の倭人だったか、あるいは朝鮮北部から青銅器文化を携え西南部で水稲耕作技術を身につけた北東アジア系の人たちだった、とみることができる。
 紀元前8世紀頃から、朝鮮北部には、青銅器文化を持った北東アジア系の人たちがいたことは確実であり、数世紀遅れて、西南部には水稲耕作技術を持って江南から渡来した人たちがいたことも確実であり、縄文時代晩期には、朝鮮半島南部はこれらの混合文化になっていたと思われる。

 ここで考えなければならないのは倭・倭人・倭国という呼名である。『漢書』地理志の「樂浪海中有倭人」から始まって『新唐書』の「日夲古倭奴也」まで、「倭」という字は使われ続けた。「倭国」「倭奴国」は当然「倭人の国」を意味している。
 三津永田や土井ケ浜の弥生人は、九州北部に青銅器が持ち込まれた時期以後の人たちである。この人たちが朝鮮半島から渡来した人たちだとすると、彼らは朝鮮半島南部で青銅器と水稲の二つの文化が融合した文化を持つ人たちだったことになる。
 青銅器文化を持つ人たちも水稲耕作技術を持つ人たちも、その身体的特徴は似ていたため、混血後もその形質はほとんど変らなかったはずである。問題は、日本列島に渡来した人たちはどちらの血が濃かったのか、ということだろう。それが「倭・倭人・倭国」という呼名に関わったと私は思う。
 私は倭国は九州島だったと考えており、九州には倭人、つまり江南系の血を強く引いた人たちが渡来し住みついたことにより、その名がついたと考えている。九州北部に最初にたどり着いた水稲耕作技術を持った人たちは、江南あるいは山東半島から直接渡来した倭人だったのではないかと推測する。その後、弥生時代前期末頃から青銅器と水稲文化をもつ人たち(新モンゴロイド的形質を持った倭人)が渡来するようになり、弥生時代中期後半頃(紀元前後)から次第に、その中でも朝鮮半島北部からの、北東アジア系の血を濃く引く人たちが多く渡来するようになったと考えられる(三眠蚕から推測。しかし九州は倭人社会)。

 「倭・倭人の国」は紀元前後頃までにはすでに確立され、北東アジア系の血を濃く引く人たちが多く渡来しても「倭・倭人の国」の優位は動かしえなかった(「漢委奴国王」印により確かめられる)。だから、九州は倭国として七世紀まで存続することができ、「やまと」に移り住んだ倭人は「倭」という字を「やまと」と読んだのである。「やまと」になぜ「倭」という字が使われたのか、それはこのように解釈することによって初めて理解できる。「倭人」でないものに「倭」はつかないのである。
 北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人は高顔・高身長であるが、『魏志』倭人伝、『後漢書』などによれば彼らは「倭・倭人の国」の人たちだった。これらの人たちを「倭人」と言い切れるかどうかはわからないが、「倭人の国」の一員であったことには間違いない。
 私はこれまで、北部九州・山口県西部へ渡来した弥生人を北東アジア系ではないかと考えていたが、彼らが「倭人の国」の主役だったこと、長江下流域から山東半島・朝鮮半島西南部さらに北部九州・山口県西部にかけての人たちが均質だということなどから、「(中国)北方系の形質を持ちながら、倭人の系統を引く人たち」ではないかと、現時点では考えている。その後時代とともに朝鮮半島北部から北東アジア系の人たちが南下し、さらに高句麗・百済など北方を起源とする国が誕生し、朝鮮半島から倭人系の人たちは姿を消し、次第に本土日本も北東アジア系の強い、韓国と遺伝距離ゼロの国になっていったのである。

 私のこの考え方は、いわば弥生人の二系統論である。二系統論といえば、金関丈夫氏の「渡来人二系統論」がある。それは次のようなものである。

 縄文晩期、朝鮮半島北部の櫛目文土器時代人が北部九州・山口地方のごく限られた地域に、水稲を持って渡来した。この人たちは数が少なかったため縄文人に吸収された。これに遅れて、弥生・古墳時代を通じて渡来した人たちがいた。この人たちは畿内に到着し、畿内住民の体質を一変させた。

 池田次郎氏はこの説について、「今ではそのまま通用しなくなっているが、渡来人の系統は単一ではなく、系統の違う集団が別々の時期に渡ってきたと考えるのがむしろ自然である」という主旨のことを述べ、二系統の渡来人を認め、池田氏自身は次のように述べている。

 初期の渡来人は、華北との結びつきの強い遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たちであり、前期末の渡来人は、中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだった。

 池田氏の説では、初期の渡来人は、遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たち、となっているが、この人たちが青銅器文化を持っていたかどうかは、青銅器が発見されていないためわからない。現時点における資料からみれば、彼らは青銅器を持たないが水稲耕作技術を持っていたのだから、江南あるいは山東半島から直接九州北部に渡来したと考えるのがよいのではないか。
 前期末の渡来人についても、それが中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだったとすると、「倭人の国」である「倭」「倭国」の存在の説明が難しくなる。この時期はまだ、中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強さはそんなに大きくはなかったと考えざるを得ない。
 中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴が強くなるのは、吉野ヶ里遺跡出土の三眠蚕の絹から推測すれば、弥生時代中期後半頃(紀元前後)からと見た方がよいのではないだろうか。しかしその頃は九州北部ではすでに倭人の国はある程度固まっており(「漢委奴国王」印が証明している)、北方起源の青銅器時代人は最初のうちは倭人の中に溶け込みながら力を蓄えていたか、九州北部以外の地に移って行ったのではないかと推測する。

 弥生人というと、倭人という言葉を使いながら、北東アジア系の形質を持った人たちをイメージする人が多い。しかもその矛盾に自身気がついていない。弥生人には二系統あった。そう考えれば矛盾は起こらない。北からだったのか、それとも南からだったのか、どちらか一方に決める必要はまったくない。
 私がいう二系統とは、二系統とも北方系を強く意識した金関丈夫氏や池田次郎氏の二系統論とは異なり、北(中国東北部から青銅器文化を継いだ人たち)と南(倭人)の二系統である。北と南の二系統を考えることにより、弥生人の、倭人と北東アジア系に関わる矛盾は解消できるのである。
 中国史書に記録された「倭・倭人・倭国」は九州に倭人がいたことを示している。倭人の原郷は鳥越憲三郎氏の実地調査などによれば江南に求めることができる。弥生人の一系統とは江南の倭人である。
 青銅器が中国東北部→朝鮮半島北部→朝鮮半島南部→九州北部と流入し、九州で青銅器生産が始まったことはその人たちの渡来も当然考えなければならない。朝鮮半島南部には水稲農業をおこなう人たちがおり、両者は文化融合や混血をしたと思われるが、この北方からの青銅器文化を持った人たちが弥生人のもう一つの系統である。
 弥生時代の幕開けは江南の倭人によってなされ、その後、江南で中国北方系と混血した倭人や、山東半島、朝鮮半島西南部に渡り、青銅器時代人と混血しながらも倭人の系統を引く人たちが、水稲と青銅器文化を伴い北部九州・山口県西部に渡来した。そしてその後、青銅器時代人的特徴の強い北東アジア系の人たちが渡来した。当初は倭人系の強い、そして徐々に北東アジア系の強い人たちが日本列島に渡来してきたことになる。

 ここで縄文人について少し述べておきたい。私は縄文人は朝鮮半島を経由して九州・本州へ渡ったとみている。紀元前1000年頃、朝鮮半島南部には縄文人的な身体特徴を持った人たちがいた。これは日本列島の縄文人との関係で考えることができる。その後朝鮮半島は、江南、山東半島、中国東北部、朝鮮半島東北部の新モンゴロイド的特徴を持った人たちの流入により、徐々に彼らにとって代わられていく。縄文人は、日本列島への渡海を余儀なくされたのではないだろうか。支石墓人はこれらの人たちの文化的影響を受けた、縄文人の一構成集団だったかもしれない。

 渡来系弥生人、北部九州・山口県西部の弥生人あるいは青銅器時代人などと呼ばれる人たちは、高顔・高身長・のっぺり顔など北方系が強いとされてきた。そしてこれらの人たちは、古墳人、現代日本人につながるとみられてきた。しかし日本の歴史の前には倭国の歴史があり、倭国とは「倭人の国」であり、倭人の存在を無視して日本人を語ることはできない。江南にも北部九州・山口県西部の弥生人に似た人がいることがわかった以上、これらの弥生人に、江南の倭人の可能性を考える必要がある。「倭人」を曖昧にしてはいけない。
 私自身も倭人の身体的特徴を、北方系の特徴とはまったく異なるものと勝手に思い込んでしまっていた。だから江南にいた北方系の形質を持った人たちは倭人とは無関係だと考えていた。しかしそうなると、九州北部の倭人の存在をみつけることができなくなってしまい、『魏志』倭人伝などの文献に矛盾してしまうことになった。江南の倭人は中国北方系の人たちとの混血により、北方系の形質をすでに得ていたと考えなければつじつまが合わなくなったのである。倭人も北方系の形質を持っていたとするならば、それに続く北東アジア系の人たちの渡来を考えると、現代日本人が北東アジア系の形質を強く持つ集団であるというのは十分頷けるところである。


※身体的特徴やDNAから日本人の起源と系統を探る研究においては、新しい資料が追加されることにより、見方・考え方が変わる可能性があることを付け加えておきます。
※訂正・修正 2009.07.20


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