表1  日本人の系統-中国・朝鮮半島・日本の古代人-

凡例
中国
朝鮮半島
日本

時代 場所 概要 人体特徴 遺伝子・その他
BC3000年頃 新石器 圩墩(長江下流南岸) - 渡来系弥生人と遠く離れる。縄文人とも同時代の華北人とも大きく異なる特徴。しかし縄文人・在来系弥生人よりも渡来系弥生人に近い。江南地方の住民は遅くとも前漢時代までには華北集団の影響を受けて渡来系弥生人的特長を獲得したと考えられる(池田)。
縄文人・華北人とも大きく異なる特徴を持つ。抜歯風習も一風変っている。(中橋)
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~BC1000年 櫛目文土器時代 煙台島(半島南部島海) 縄文人的特徴は潜水漁法に原因か。(池田) 縄文人に似ている。(池田) 縄文前期に当たる南部の櫛目文土器時代人の特徴は高身長を除けば縄文後晩期人(池田)
BC1000年前後 櫛目文土器時代 雄基松坪洞・会寧鳳儀・羅津草島(朝鮮東北部咸鏡北道豆満江河口) 北部九州・山口の古墳人、南九州平野部古墳人、礼安里胡文人と近い関係。(池田) 高顔・高身長、鼻根部の隆起弱い。頭蓋計測値の図では北部九州・山口の弥生人に最も近い。(池田) 縄文後晩期に当たる北部の櫛目文土器時代人はその特徴を北部九州弥生人と共有。金関丈夫はこれを渡来系弥生人の母体とみる。弥生時代前期後半から中期初頭にかけて北部九州・響灘沿岸に到着。(池田)
殷・周 安陽市殷墟(黄河中流域河南省 - 頭蓋計測値は、黄河下流域の新石器時代人と華北現代人に近い。渡来系弥生人とも近い。(池田) -
西周 長陽(長江中流域) - 華南の新石器時代人や現代人に類似し渡来系弥生人とは異なる。(池田) -
BC14~BC10世紀 欣岩里(中部京畿道驪州) 炭化米その他の穀物。米は畑作と考えられる。石包丁は半月形で松菊里とは異なる。(早乙女) - 畑作稲の伝播ルートは遼東半島ルート、大陸伝いルートの可能性が高い。(早乙女)
BC13~BC9世紀 南京(平壌市)
BC8~BC5世紀 無去洞玉峴(慶尚南道蔚山市) 水田跡。北部九州最古期の水稲遺跡菜畑・曲り田と酷似している。ジャポニカ米。(中橋) - 甲元眞之は畑作農耕に水稲農耕が加わり始めた状況が見て取れるという。(中橋)
BC5~BC4世紀 松菊里(半島西南部) 石棺墓に遼寧式銅剣が副葬されている。石包丁・磨製石斧の形式は菜畑遺跡のものによく似ており、その推定年代は菜畑より100年ほど前のBC600年前後である。(池田) - -
春秋 梁王城(江蘇省、長江・淮河) 新石器時代以後に長江下流域の住人形質に大きな変化が起こり、遅くとも春秋戦国時代になると、この地域にも北部九州弥生人によく似た特徴を持つ人々が住み着いていた。(中橋) 上顎側抜歯。土井ケ浜の弥生人の抜歯風習が似ている。(中橋) 北部九州弥生人と同じ塩基配列のミトコンドリアDNAを持つ個体が二体見つかる。(中橋)
BC5~BC3世紀 春秋末~戦国後期 平洋(黒竜江省北部) - 高身長、高顔、鼻根部平坦。新石器時代人としてはザバイカルに最も近く、朝鮮半島北部にも近いが華北とは遠い。(池田) -
遼西・遼東地区 - 遼東の廟後山人は北方モンゴロイドと華北の現代人の特徴を合わせ持ち、黄河中・下流域の新石器時代人に近い。(池田) -
戦国~前漢 山東省臨淄 - 松下孝幸らの調査:臨淄人は華北の中国人、韓国・朝鮮人に近く、北方モンゴロイドとは遠く離れる。華北・東北部のグループに属し、渡来系弥生人や安陽人など中国の青銅器時代人に最も近い。北部九州・山口地方へ渡来した人たちの祖系集団の最有力候補は黄河中・下流域を中心として山東半島から淮河・長江下流域にかけての青銅器時代人にあてることができる。(池田) -
縄文晩期後葉~弥生 菜畑(唐津市) 山ノ寺式土器含有層から水田跡。縄文の漆製品とは異なるものが混在、前期のうちに弥生漆が主流となることが指摘されている。岡田文男や本田光子らは戦国時代長江流域の楚の製品に酷似しているという。(中橋) - 日本で最初に水田耕作を始めたのがどういった人たちだったのかは不明。北部九州の人骨は弥生前期末に甕棺が広がりだしてからのもの。水稲耕作を主生業とする渡来人がまず北部九州に定着し、在来の縄文系住人と遺伝的な交流を経て急激に人口を増やしながら弥生社会を作り上げていった、と考える。(中橋)
曲り田(福岡県二丈町) 山ノ寺式期。菜畑、板付と類似の水田跡(中橋・池田)。鉄製の斧出土。(池田) -
長行(福岡県) 鉄製の斧出土。(池田) -
板付(福岡市) 夜臼式土器出土層から水田跡、炭化米などが発見される。環壕も発見される。(中橋) -
野多目(福岡市) 菜畑、板付と類似 -
弥生早期(夜臼式土器段階) 新町(糸島半島) 支石墓。朝鮮南部に同系統の支石墓多数。壺にモミの痕。しかし水稲耕作に適した平地を持たない。半農半漁の人たちとみられている。(中橋) 支石墓から人骨出土。縄文人によく似た形態。縄文人そのもの。縄文人によく似た抜歯風習(中橋)。
新町人骨の特長には渡来形質の片鱗さえ認められず、抜歯様式も西日本縄文人の様式を踏襲しているという。(池田)
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大友(佐賀県呼子町) 朝鮮半島に由来の墓に縄文人に似た形態と抜歯風習を持った人々が埋葬されていたことが明確となる。(中橋)
宇久松原(五島列島宇久島) 新町・大友遺跡に同じ - -
BC3~BC2世紀 前漢 揚州市胡場(長江下流北岸) 梁王城の項に同じ。 北部九州の甕棺出土の弥生人によく似ている。抜歯形式でも土井ケ浜に似ている。(中橋) -
前漢 江陵(湖北省) - 華南の新石器時代人や現代人に類似。渡来系弥生人とは異なる。(池田) -
弥生初頭 今川(福岡市) 発見された青銅器は朝鮮半島からの一時的なもの。その後金属器の流入はしばらくの間途絶える(池田)。 - -
弥生初期 雀居(福岡市) 縄文の漆製品とは異なるものが混在、前期のうちに弥生漆が主流となる。岡田文男や本田光子らは戦国時代長江流域の楚の製品に酷似しているという。木製農機具、大陸系の石器などが出土。(中橋) 前期中頃、土壙墓から支石墓の人骨とは異なる、扁平な顔で長身の女性人骨。しかし縄文後・晩期の人たちや新町の支石墓人骨と同形式の抜歯がある。(中橋) -
弥生前期初頭~ 吉野ヶ里(佐賀県) 布目順朗により、甕棺から出土した前期初頭の絹は四眠系蚕(淮河以南の華中・華南の蚕)の繊維の太い南蚕で、華北・朝鮮半島特有の三眠蚕は中期後半から現われ始めることが明らかになった。(中橋) - 日本列島への渡来人と関係が深いのは、おそらく中国東北部の森林地帯に住み、やがて朝鮮半島に南下したツングース系の人々だったといわれる。(埴原)
初期の渡来人は華北との結びつきの強い遼寧青銅器時代人の影響を受けた朝鮮半島南部の無文土器時代前半の人たちであり、前期末の渡来人は中国東北地区北部の青銅器時代人的特徴の強い北部の無文土器時代後半の人たちだった。(池田)
弥生前期末 三津永田(佐賀県神埼郡東背振村) - 土井ケ浜とほぼ同じ。
弥生前期後半~中期中葉 土井ケ浜(山口県豊浦郡豊北町響灘) - シベリア・モンゴルの集団と現代日本人の集団のほぼ中間、予想以上に北アジアの集団に近い(埴原和郎)。
高顔・高身長を特徴とする中国北部や朝鮮半島の新石器時代人につながる可能性が高い(池田)。
抜歯風習はあるが縄文抜歯とは異なり上顎に偏っている
(中橋)
吉母浜(山口県) - -
中ノ浜(山口県) - -
古浦(島根県) - -
BC1世紀 勒島(韓国南部三千浦市) 北部九州の弥生土器の特徴を持つ弥生系土器や甕棺が出土。(池田) 日本の抜歯様式が採用されたと考えられる(池田)。
小片丘彦らによると、上顔高と身長は北部九州の渡来系弥生人と西北九州の在来系弥生人の中間に近いという。(中橋)
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弥生末~古墳 礼安里(慶尚南道金海郡大東面) - 210体の人骨。土井ケ浜・北部九州弥生人によく似ている。(中橋) 華北の新石器時代人、戦国・前漢時代人より、中国北部の青銅器時代人、咸北櫛目文土器時代人に近い関係。無文土器時代前半(BC1000~BC300頃)の南部の渡来系弥生人的特徴は中国沿海部からではなく、朝鮮半島北部経由。(池田)
古墳 畿内 - 渡来形質が特にきわだっている。短頭性は弥生時代に出現し古墳時代を経て受け継がれている地域的特性。(池田) -
東北九州・中国・四国・西近畿 - 北部九州・山口の渡来系弥生人に最も近い。(池田) -
南近畿 - 縄文人的・古墳人的な特徴を持つ個体が多い。弥生時代の漁労集団の後身など。(池田) -
関東・東北南部 - 大陸的・農耕民的要素が認められる。(池田) -
北陸 - 縄文人的要素がみられるが、関東・東北南部古墳人に近い。(池田) -
西九州・南九州 - 縄文人的形質。(池田) -

※表中  (中橋)は中橋孝博著『日本人の起源』 2005.1、(池田)は池田次郎著『日本人のきた道』 1998.11、(埴原)は埴原和郎著『日本人の誕生』 1996.11、(早乙女)は早乙女雅博著『朝鮮半島の考古学』 2000.7 によった。


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