4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ-2 |
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4−3:ムハンマド・アミン汗のメドレセ(マップはここ!)
ムハンマド・アミン汗のメドレセは、ロシア征服までヒワ汗国最大のメドレセとして機能していた学校だ。メドレセには学生寮が付いているので、ホテルになるのも頷ける。 夏冬の温度差の激しい地方なので、夏の教室、冬の教室の2つが用意されている。この夏冬の部屋というのは中近東ではよく見られる使い分けで、一般に夏の部屋は天井が高く、窓が大きい。逆に冬の部屋は天井を低く、窓を小さくして、熱が逃げるのを防いでいる。現在は夏の教室は客室として、冬の教室はレストランとして使用されている。(こういう事書いてると卒論を思い出すなぁ……) 4−4:ケルタミナレットマップは4-3と同じ場所です。
ムハンマド・アミン汗のメドレセの前にあるのがケルタミナレット(未完の塔)だ。 ムハンマド・アミン汗は、遠く、ブハラまで見通すことの出来る塔を建てたかった。誰よりも高い塔を建てたい、というのはどうも聖書の昔から人間の欲望の中にあるようだが、この王様が建てようとした塔の高さは何と110m! だがムハンマド・アミン汗が1855年、イランへの遠征中に死亡するとそこで工事は終わり。アミン汗の壮大な計画はたったの26mで終わってしまった。(供養のために完成させてあげよう、という気はないらしい……) その為にこのミナレットは「ケルタミナレット(未完の塔)」と呼ばれるようになった。 未完なので、アザーンを行ったり灯台としての明かりを点けるという、ミナレット本来の機能は果たされていない。(ミナレットの機能について「?」と来たら、やっぱりここをクリック!) ミナレットの中には一応階段があるが、危険なので入ることは出来ない。入ることは出来ないけど、一応メドレセの2階とつながっているらしい。ちょっと中を見てみたいような気がするけど、危ないって言うなら仕方がないな……。 4−5:クニャ・アルクマップはここ!
クニャ・アルクとは「古い砦」の意で、この中にはヒワ汗(ハーン・王様)の冬の宮殿、武器庫、兵舎、造幣局、アクシーブ・バードなどがある。 まず、入ってすぐが夏のモスクで、そのモスクの前を通って、小さな部屋の沢山ある建物へ。その部屋の一つが元造幣局で、当時のお金やお札造りを示すモデルの人形が置いてある。ここでは金銀銅などで作られたコインと、シルクでお札が作られていた。ロシアに征服されるまでこの造幣局でお金が作られていたが、ロシアになってまずコインが中止され、シルクのお札も製造中止になった。 かなり暗いので、貨幣を写真に撮るのは大分難しい……。 次に行ったのが冬の宮殿。冬の宮殿は大修理中だった。中庭には瓦礫が積まれ、建物はタイルの張り直しをしていた。
瓦礫の積まれていた中庭の中央には円形の台があり、ヒワ汗は建物の中で暮らすよりも、ここにユルト(円形のテント。西アジアの遊牧民が現在も使用している)で過ごす方を好んだという。これは「元々遊牧民だから、ユルトが好き」というわけではなく、どうもユルトの方が暖かいからのようだ。宮殿が調度良い風よけになるし、まぁ、石造りの建物よりはフェルトをふんだんに使用したユルトの方が暖かいことでしょう……。 宮殿の中はくつろぎの間になっており、壁には龕(がん・装飾を目的に壁に開けられた飾り穴のこと)が沢山開けられていて、中央の大きな穴にはコーランを、小さな穴には宝石を飾り、汗がそれを座りながら眺められるようになっている。コーランや宝石などは全てロシアに持って行かれてしまったのでここにはなく、現在はサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に所蔵されているらしい。 壁は全て石膏で出来ているので真っ白い。座っていることを前提に作られているので、窓も低く作られている。天井は樹齢100年以上の楡科の「カラガチャ」という木を使っているが、これはもの凄まじく堅い木で、ウズベキスタンの建物の木造部分はほとんどこれで造られているが、勿論数は少ないので、木造部分が多い建物は貴重だ。 暗くてひんやりしているが、窓がすかし彫りになっているのできっと冬は日が入って暖かいのだろう。しかしそこから2階に行けるようになっているのだが、2階は暗くて何も見えない……。2階は女性のための部屋らしいが、ええ〜〜〜?っていうほど暗いよ……。正妻の部屋じゃないと見た……。 そしてアクシーブバードの中を通って砦の見晴台へ。
アクシーブバードとは「アク=古い」「シーブ=神聖な」「バード=師父」の意で、ヒワの中でももっとも古い場所だ。 昔、ここに1人の聖人が現れた。皆はここに集まり、聖人に会って祈りを捧げた。その後この地がヒワ・汗国の首都となり、アクシーブバードは砦の一部にされた。17世紀以降になると、ここは軍の施設の一部として利用されることとなる。 このイラストの右端の方にごつごつとした岩の様な物が見られると思うが、ここはオリジナルの、聖人が来た当時の壁をそのまま残している。それ以外の場所は全て後に修復されている。 一般に、「必ずこうであった」と証明できる場合を除いて、遺跡の修復は2/3迄とし、必ず遺跡の1/3はオリジナルのまま残しておかなければいけない。しかし、この遺跡の修復の度合いを考えると、そんなことが決められる以前に修復し、オリジナルの部分は修復するほどでもないし、まぁ記念だからこの一角は手つかずに残しておこう、と言った程度に残してあるような気がする……。まぁそういった国際ルールは近年出来た物だから仕方ないけど(って、あくまでも私の感想ですが……) 見晴台へと続く階段は狭い上に暗くてしかも1段1段が高い。結構怖い階段だ……。
見晴台の上からイチャン・カラの遺跡内を見ると、王の居城からまっすぐ見晴台に向かって道が通っているのは、兵士が直接この見晴台に登ってこられるようにだ。 ここからさらに階段を登って、屋上の上の部屋に登れる。部屋は片側だけ壁がなく、2階建てになっていて、小屋の二階へ続く階段は木製だ。少し怖い……。 もと来た道を反対に通りながらクニャ・アルクの外へ。しかし見晴台からアクシーブバードへ続く階段は狭くて暗くて急で本当に怖い。こういう階段は、登ぼるより降りる方が断然怖い。だがしかし、この後もっと怖い階段を登ったり降りるようになることを、この頃はまだ知らない……。 |