4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ
4−6:ムハンマド・ラヒム汗のメドレセ
4−7:移動中の風景
4−8:ムハンマド・アミン汗とパフラバーン・フルードの廟
4−9:イスラム・ホチャのメドレセ
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4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ-3

4−6:ムハンマド・ラヒム汗メドレセ
ムハンマド・ラヒム汗の人形 メドレセという言葉に「?」と来たらここをクリック!


ムハンマド・ラヒム汗のメドレセ内の博物館にある、ラヒム汗の人形。

目の上に二重瞼をくっきり描くのは良いとして、目の下の涙袋をくっきり描くのが、私には一番怖かった……。

1871年に創立されたメドレセ。70の教室があり、各教室に1人ずつのイマーム(宗教的指導者)が教えていた。現在内部は博物館になっており、中庭は刺繍などのお店になっていた。

この中には、ムハンマド・ラヒム汗が詩を書いていた机や(ラヒム汗は「フルヒース」というペンネームで詩を書いていた。「フルヒース」というのはヒワの音楽から由来しているペンネームらしい)、ラヒム汗とその師匠の人形、ラヒム汗の大臣でロシアから様々な文化を輸入してきたイスラム・ホッチャが、ヒワに初めて持ち込まれたカメラで撮った広場の写真などが飾られている。



4−7:移動中の風景

イチャン・カラの中を移動していると、途中のメドレセの中庭で木彫を教えていた。観光向けのコーラン立てやカッターボードを販売もしている。
 
多くの子供達が夏休みの間だけここで木彫を習うのだそうだ。きっと大きくなっても手に職を付けて、ここで土産品を売るのだろう。私たちがカメラを向けると、慌てて子供達が鑿を持ち、まじめに彫る振りをする。
 
ちなみに夏休みは六・七・八月の三ヶ月だそうだ。暑いものね。まじめに学ぶが良いぞ。


ここでコーラン立てを一つ買ってから外に出ると、旅行のメンバーである渡辺さんが私を呼んでいる。

「どうしました?」
「ほら、ここの壁を見てごらんよ」
 
そこの壁にはは下のような釉がけのモチーフが嵌め込まれていた。
 
渡辺さんはキリム入れているお仕事をしているのでトルコ語が堪能なため、地元の人たちやガイドさんとトルコ語でお話が出来ゾロアスター教の影響の残るタイルる。

「このモチーフにはゾロアスター教の影響の残っているらしいよ」
 
渡辺さんは一緒にバザールを歩いたとき、私が学生時代にゾロアスター教について勉強していたと言ったのを覚えていらして、わざわざ教えてくださったのだ。
 
このマークは上から順にゾロアスター教の基本的な考えである「正しい考え、正しい言葉、正しい行い」を表しているのだそうだ。
 
普通イスラム教が入ってくると、ゾロアスター教のモチーフなどは否定されるが、この辺はメッカから遠いせいか、多くの遺跡にゾロアスター教の影響が見られる。



4−8:ムハンマド・アミン汗とパフラバーン・フルードの廟


ここは、この全行程の中で唯一「土足厳禁」の廟だった。細い路地を通り、狭い入り口の中にはいると中庭が広がり、その奥が入り口になっている。廟だから中庭の奥に入り口があるのだろう。他の建物は普通、中庭の四面は全て建物だが、廟には一面にしか建物がない。
 
しかしこの廟はやはり少し変わっていて、継ぎ足し建築になっているのだ。
 
元々この廟はヒワ汗国の将軍、パフラバーン・フルードの廟だった。「パフラバーン」というのは「強い人」の意で、大変に強い将軍だったらしい。遠征にもよく出かけ、よく勝利した。
 
だが彼はそれだけではなく、スーフィズム(イスラム教の神秘主義一派。禁欲的傾向が強く、神と対話するらしい)の学者であり、また有名な詩人であるというマルチな人で、彼に憧れまくったムハンマド・アミン汗が「どうしてもパフラバーンと一緒の廟に入るんだ!」と駄々をこねた。
 
こねただけでは済まなかった。
 
彼はパフラバーンの廟の入り口を塞ぎ、壁の一辺を壊して、その壊した壁に自分の廟をくっつけて建てさせ、継ぎ足し廟という替わった廟を造らせたのだ。
 
しかしちょっとイヤな感じなのは、自分の棺は入り口入ってすぐの所にバ〜〜ンと安置してあるのに、パフラバーンの棺のおいてある部屋は「次の間」になっており、小さい扉をくぐってその「次の間」に入っていくと更に奥に扉があり、その中に棺が安置してあるのだ。
 
どうせそこまで憧れてるのなら、棺を隣に置いて二人で一緒に祀ってもらえと、ちょっと思ってしまった。
 
と言うことで私は小さな「次の間」のパフラバーンの廟の方が好きだ。棺の安置してある扉の上には彼の詩が書いてある。

『弟は結婚すると天国が待っていると思っているが、私は地獄だと思う』
 
……詩?
 
彼は生涯独身だったという……。


4−9:イスラム・ホーチャのメドレセ
(メドレセという言葉に「?」ときたらここをクリック!
(2〜3日のうちにこれにはイラストつけますので……)

このメドレセはかなり新しい物で、1908年完成だ。イスラム・ホッチャは先ほど出てきたムハンマド・ラヒム汗の大臣で、ムハンマド・ラヒム汗のメドレセの中に展示している写真の写真機を輸入してきた人だ。実はこの人が輸入してきたのは写真機だけではなく、医療技術、病院、ロシア・ヒワ間の鉄道などを輸入してき。サンクトペテロブルグには結構長いこと滞在していたらしい。

このメドレセの中は後から覗くとして、最初にミナレットに登る。
「この塔はイチャン・カラの中で一番高いミナレットです。塔の高さは五十七m、階段の段数は百段あります。登りってみたい方は一ドルかかります」
何故そんな高いとうにわざわざお金払ってまで登るのだ?とか、そんなことを考えてはいけない。またここに来るには膨大にお金がかかるのだから、今の一ドルを惜しんではいけないのだ。もし次に来たとき、足腰が悪くなってたらどうする!??!?
 

皆レットの階段を登るK上さん
ミナレットの階段を登るツアーのK上さん
ということで(かどうかは知らないが)ほとんどのメンバーが上に登った。


たかが百段だ。がしかし! この百段、一段一段がめちゃめちゃ高い!!! しかも木の階段は角が取れ、表面が鞣されて、つるつると滑る。おまけに内部は所々にしか明かり取りが無く、足下が見えない!

「滑るよ〜〜〜」
「狭いよ〜」
「ひ〜〜〜」
「危ないから気を付けてよ」

何とかようよう登っていくと、上はやっぱり狭い。周り中落書きだらけなのはどこの国でも同じことだ。しかし当然だが、その落書きはほとんどがロシア文字だ。天井には棒がにょきにょき突きだしていて、日本のような天井板がない。三百六十度の眺めを楽しんでから、さぁ降りようとして気がついた。

人間の体は登りやすく降りづらくできている。 しかも降りるまで気づかなかったのだ、この階段、少し下り勾配に傾斜がついている……。
「掴まりながら降りないと駄目だよ」
と下を行く方がアドバイスしてくれるのだが、掴むところなんてどこにもないのだ。天井が階段に沿って段々になっている。その段々の天井も木でできているので、その木の割れ目に指を掛けなければとても降りられないのだが、時々指をかけられる割れ目がないときもあるのだ。
 
ミナレットの下の方は段差が小さく、入り口の大きな扉から明かりが入ってきてほっとする。

「あぁ、やっと下に降りられた……」
膝がガクガク笑っている。明日は筋肉痛になるかもしれない。

下に降りてくるともう皆さんはメドレセの中に入っているらしい。メドレセ内部は布やタイルの手工芸美術館になっている。

絣、更紗、キリム。メドレセ内の漆喰細工のミニチュアにオリジナルタイル。絣折りはみんな幅が三十pくらいの細い物で、素材は絹、染料は化学染料のようだ。モチーフはイスラム教らしくほとんどが幾何学模様だが、一枚だけキリムに人物の胸像を写実した物があった。人物の下に525と書いてある。千をつけて一五二五年ならヒワ汗国ができたのが一五一五年なので、その建国時の汗(王様)だろうか。イスラム歴五百二十五年だと考えると、西暦は一一四七年。まだチンギスハンが生まれるより二十一年も前なので、これは多分イスラム歴ではない。名前が人の上に書いてあるのだが、ロシア文字読めないし……。

誰のキリムかご存じの方は是非ご一報下さい。




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