5−4:カリヤン・ミナレット

5−5:カリヤン・モスク


5−6:ミラ・アラブのメドレセ

5:ブハラ-3


5−4:カリヤン・ミナレット

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カリヤンミナレットの「カリヤン」とは、「大きい」という意味だが、その名の通り、中央アジアで最も大きいミナレットである。高さは47m。底の部分の直径が9m、地下の基礎が10m。日干し煉瓦の表面にモザイクを貼らずに彫刻を施し、しかもそれが層によって違う彫刻を施されているので大変美しい縞模様に見える。

10世紀に建てられたが、日干し煉瓦で出来ているため、かなり脆いらしい。一度天災で壊れ、1127年にカラ汗朝のアルスラン汗によって再建された。

このミナレットはこれだけ大きいのだが、再建時にかなり強力に補強されたためにその後壊れることはなく、チンギス汗が侵攻してきたときにも、隣のカリヤンモスクは破壊されたにもかかわらず、このミナレットだけは破壊を免れている。(これはチンギス汗自身、このミナレットを目印にしてブハラに入ってきたためとされている)

そんな「長いこと生き抜いてきたミナレット」であるために、伝説も多い。まず、その建設の伝説。
カリヤンミナレットとモスク
カリヤンミナレット(左の塔)と、
カリヤンモスク(右の建物)

再建時、かなり地下深くまで掘り下げて基礎工事をしたり、モルタルにラクダの乳や卵白をなどを混ぜて造ったそうなのだが、その工事を担当した男というのは「私が絶対壊れない、天まで届くミナレットを建てましょう」と言って現れた。ところが、塔を組み立てるだけ組み立てたら、その男は消えてしまったそうな。汗(王様)はかんかん。ところが2年経ち、モルタルが乾いたときにその男は再び現れ、最後の仕上げを施した。そしてミナレットは今に至っているのだ。

他にも、チンギス汗がこの塔を壊さなかったのは、この塔の脇に来たとき帽子が落ちて、腰をかがめて帽子を拾った後、「この塔は儂に頭を下げさせた偉い塔だから壊すな」と言った、とか、アルスラン汗がイマーム(宗教的指導者)を殺してしまったら、そのイマームが夢の中に出てきて「私の頭を誰も歩けない場所に葬れ」と言ったので、怖くなったアルスラン汗は、その墓の上にこの塔を建てた、とか、他にもまだ色々と伝説がある。

でも、思うんですが、イマームが夢の中に出てきたという伝説より、この塔から罪人や外国人がばんばん落とされて処刑されたという事実の方が、よっぽど怖いと思いません……?47mだよ……?中央アジア1でかいんだよ……?



5−5:カリヤン・モスク
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カリヤンミナレットの脇に建っているのがカリヤンモスク。1114年建設。これも「大きい」と名付けられているだけあって、大きさ的にはサマルカンドのビビハムニ・モスクに劣るが、これほどの保存状態の良さで残っているモスクとしては中央アジア最大なんだそうだ。

元々は12.000人収容できたそうだが、チンギス汗によって破壊され、再建される。(この辺の歴史ではよく「チンギス汗は破壊し、ティムールは造った」と言われるくらい、チンギス汗は壊しまくっているんですね……)再建後の収容人数は10.000人くらい。

ソビエト支配中、「宗教は麻薬」だということでイスラム教も含む全ての宗教が禁じられいたのだが、このモスクはその時代、なんと倉庫として使用されていた……。独立後、またモスクとして使用。ジュマモスク(金曜日のモスク。ヒワの「ジュマ・モスク」参照)となっている。

カリヤン・ミナレットやカリヤン・モスクは大きな広場に面して建っているのだが、建国2500年祭の時はこの広場に2000人集まったっていうから、その5倍は大きいモスクなのだなぁと思うと目眩がする……。

この広場で、私はウズベキスタン人の子供に「どこから来たんだ? 長崎か? 広島か? 東京か?」と訊かれた。他の国では大抵東京しか訊かれないのに……。きっとソビエト時代の教育では、「アメリカは広島と長崎に原爆を!!!」とえらく強調して教えたんだろうなぁ、としみじみ思った。(ソビエト時代、日本は「大好きな外国」ナンバー3に常に入るくらい好かれてたらしいですからね。不可侵条約破って侵攻したことを誤魔化すために、当時の敵国であるアメリカの悪いことを言いまくったのかなぁ、と。)


5−6:ミラ・アラブのメドレセ

ミル・アラブのメドレセの入り口の扉
ミル・アラブのメドレセの入り口の扉。
上の段の細かい模様はコーランの
聖句をデザインしたもの。
メドレセという言葉に?ときたら、ここをクリック)

ミル・アラブのメドレセは1536年、ウバイドゥッラー汗の資金で建てられた。この頃、お金持ちは自主的にメドレセを建てたが、学校方針に口を出すことはせず、メドレセは自由に学校運営を行っていた。

がしかし、汗はこの建築費を3000人のペルシア奴隷を売って賄ったという。後世歴史家は「このメドレセの土台は煉瓦と粘土ではなく、人々の涙と血と悲しみだ」と記している。

このメドレセ、実は旧ソ連時代に中央アジアで機能していた数少ないメドレセ1つで、ウズベキスタンでは唯一ここだけが活動していた。現在もそのままメドレセとして活動している。

旧ソ連時代に活動できた理由としては、ブハラは中央から離れていたため、管理が緩かったのではないか、と言われている。

それにしても、昔のブハラ人は戒律を歪めてまで自由なインド風やゾロアスター風の建築様式を取り入れようとしていたのに、戒律の厳しかったヒワではイスラム教は完全に禁じられ、戒律の緩かったブハラの方がイスラム教が活動できた、というのが、何とも歴史の皮肉で面白い。(緩かったからこそ活動できたのかもしれないけどね)

さて、実はこのメドレセでは可愛らしい経験をした。ここは未だにメドレセとして活動している場所なので、女性であり非ムスリムである私が入れるのかと躊躇していたら、中から先生らしき男性が手招きをしてくれた。そして「中を見ると良いよ。でもここから先には入っちゃ駄目だ」と身振り手振りで教えて下さった。そして、「カメラを持っているなら、写真を撮りなさい。このモザイクは良いよ。この扉は「クルァーン(コーラン)」を彫ったものだ」などと示して下さった。

とても嬉しく思った私は、ウズベクの方は皆さん写真を撮られるのが好きなので、「あなたのお写真を撮っても良いですか?」と訊いてみた。するとその先生は恥ずかしそうに笑って、奥から生徒を呼んできて、「私は良いから彼を撮ってあげて下さい」と、10代くらいの少年を指さした。

では先生の心遣いだ、少年を撮ろうかと思ったら、少年は恥ずかしそうに笑って、奥からもっと年の若い生徒を呼んできて、「僕は良いから彼を撮ってあげて下さい」と言った。

聖職者になる人とは写真を嫌うのだろうか、では若い彼なら良いだろう、とカメラを構えると、先生は二人に「撮ってもらいなさい」と言っているようだが、少年達は二人してもじもじし、最後に「僕らを撮るより、この素敵な建物を撮って下さい」と建物を指さした。それに先生も頷くと、少年達はまた「このモザイクは素敵だよ」「この柱は良いよ」「ここから先は入れないけど、でも写真だけなら撮っても良いよ」と案内してくれた。

とても良い思い出になった。




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