4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ
4−10:ジュマモスク
4−11:タシハウリ宮殿
4−12:奴隷の門
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4.ヒワ(イチャン・カラ)・ウルゲンチ-4

4−10:ジュマモスク
(金曜日のモスク)

モスクという言葉に「?」ときたらここをクリック!!!
 
ジュマモスクとは、その町の中で一番大切なモスクで、金曜日(イスラム教の安息日)の祈りを捧げるために町中の人が集まるためのモスクである。平日は家の近所のモスクに行ってお祈りを捧げるが、金曜日だけはこの「ジュマモスク」へ行く。

イチャン・カラのジュマモスクは、十世紀に建てられたが、十四世紀にはチンギス汗に、十八世紀にはトルクメニスタンとの紛争のために破壊され、十八世紀に再び再建された。

三千五百名を収容できる大きなものだ。中は木の柱が沢山並んでいる。なんとその柱の数二百十三本。明かり取りに開けられた天井の穴の周りには十世紀に最初に建てられた当時の柱がまだ二,三本現存している。見分け方は簡単。その柱だけ模様がすり減ってほとんど模様がないようにしか見えないのだ。

この明かり取りのための屋根に開けられた穴は十m四方くらいあって、その下では犠牲の羊を屠ったという。

さて、このモスクには目を引く物が三つある。一つはメッカの方向を向いたミヒラブ(ミヒラブという言葉に「?」ときたらここをクリック!!!)。ここのミヒラブは漆喰で出来ており、ずいぶんと質素だ。この「装飾の少ないミヒラブ」というのはこのモスクがウズベク式だということを表しています。

そしてモスクの奥の方にある、漆喰で出来た小さく白い建物(写真を撮ったはずなのに現像できていなかったので、特徴が性格には述べられませんが)大きさは二m四方くらいで、高さは一m五十センチほどの直方体の建物で、その屋根の部分には直径一mほどのネギ坊主が乗っかっている。窓が一つと入り口が一つあって、可愛らしい建物だ。

これは、礼拝の時に信者に砂糖湯を配るための建物だ。必ず信者は一杯ずつ砂糖湯を貰ったらしい。

そして最高に人目を引くのが入り口に置いてある立派な馬車。これは千九百八年にロシア皇帝アレクサンダー二世(最後の皇帝ニコライ二世の)おとうさん)からムハンマド・ラヒム汗に贈られたもので、ムハンマド・ラヒム汗は何度もロシアに行った汗でアレクサンダー二世と
懇意にしていたらしい。(ほら、ラヒム汗の大臣のイスラム・ホッチャもしょっちゅうロシアに行って色々輸入していたでしょう)

またこのジュマモスクには他にはあまり例のない仕掛けがありまして、それはモスクの中から直接ミナレットに上れる、というものだ(「ミナレット」という言葉に「?」ときたらここをクリック!!!)。私達も登らせてもらいたかったのだが、それは禁止だそうで。ちょっと残念。


4−10:タシハウリ宮殿

タシハウリ、とは「石の庭」の意味で、1830年〜38年の間、アラクリ汗が住居としていた宮殿だ。

入り口を背にして向かって左側が王とその4人の王妃の住居で、入り口に一番近い場所がアラクリ汗の住まい、その隣が正妃の住まい、その隣がお妃ナンバー2の住まい、という風に順送りになっている。

后は4人まで持てるが、イスラム教の教義には「4人の妻を同等に愛してやることが出来るなら」と書いてあり、これは金銭的にも物質的にも時間的にも同等に、という意味らしい。一昔前にサウジアラビアのスルタン(これはカリフといって他に沢山いるスルタンとは宗教的指導者の意味から言っても別格に偉い王様だ)のお姫さんが書いた本によると、「4人の妃の部屋は全く同じ作り、全く同じ壁紙、全く同じ装飾が施され、カップの一つまで同じ物が置かれていた。だからある一人の妃の部屋で目が覚めると、そこがどの妃の部屋かを判別することは、妃本人が出てくるまでは不可能だった」という徹底ぶりらしい。

もっとも、今では一般人はお金がないので(ムスリムは男が全て結婚の準備をしてお金をばらまかないといけない)、三十過ぎても一人の妻も持てない、というのが実状らしく、もし二人以上持てたとしても、二人目以降というのは一人目の奥さんの召使いのような扱いしか受けられない、というかなり教義に反したものになっているらしい。

話題がそれたが、ここではとりあえず、四人の妃の住まいは外から見てもそっくりだ。

そして、入り口を背にして右向きの建物。これは左側の王と妃たちのための建物と面積的には同じなのだが、そこに四十人の女性が押し込まれていた。そう、ハーレムである。

妃の「同等」という立場に対して、教義に組み込まれていないハーレムの女性は悲惨である。タシハウリは王様の部屋以外中に入れて貰えなかったのでトルコの話で恐縮だが、トプカプ宮殿の見取り図によると、ハーレムの女性が与えられた住まいはなんと畳み一畳分。やっと横になれるソファがあったらそれでおしまいで、ハレムから外には自由に出られらない。ハレムの女性というのは正しく奴隷なのだなぁと感心する。

建物からしても、入り口の数、窓の数、モザイクの豪華さ、ファサードのゆとりなど、どれをとっても右と左の建物では雲泥の差で、なるほどあっぱれなほどの差別であることかと開いた口がふさがらないのだった……。



4−12:奴隷の門(東の門)


昔、東門から捕虜が入ってきて、壁の前に並ばされた。彼らはそこで奴隷として売買されたのだ。だから東門は「奴隷の門」と、そしてその城壁を「奴隷の壁」と呼んでいる。

この「奴隷制度」はロシア侵入後に一応禁止はされたものの、完全に廃止されたのはソビエトの侵入、1920年のことであった。

この東門の周りには1階建ての細かく仕切られた建物が並んでいる。西に並ぶこの建物は全て商人達の個人店で、東に並んでいるのはキャラバンサライ(商人達の宿泊所)だ。

キャラバンサライの上から子供が覗いていると思ったら、どこから現れたのか子供達が集まってきた。スポーツ刈りにしている子供がワンピースを着ているんで、男女の区別がるきづらい。彼らは私たちの前でポーズをとり、「写真に撮ってくれ」とせがんだ。写真に撮ると今度はメモ帳に住所を書き、「出来たらここに送ってね」と言う。

しかしただでさえ何とかいてあるのか分からないロシア文字の上に、かなり雑に書き殴られたもので、これを封筒に書き写すのは至難の業だと思っていたら、ガイドさんが「これはこのままコピーして封筒に貼り付けるのが一番ですよ」と教えてくれた。なるほど。それなら確実だ。



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