自分のことを棚に上げるな。難しいけど。
〜上野俊哉著「シチュアシオン〜ポップの政治学」
(作品社、1996)
(1998.12.13)


というわけで、前回(椹木野衣)の絡みもあって上野俊哉を取り上げます。この両人、どういうわけか宿敵同士のようである。同世代(1962年生まれ)。しかも椹木の「シミュレーショニズム」が世に出るきっかけを作ったのが上野ということで、同著書のあとがきにも謝辞がある。仲いいのか悪いのかハッキリせい。てなことを言ってもしょうがないのだが。ともかくこの2人はそれぞれ、今後音楽を語っていく我々以降の世代が、何らかの形で言及せざるを得ない仕事をしていると、個人的には思っている。

しかししかし、2人とも何でこんなに難しい文章をつづるのだ。学術研究書とポップ批評の間を行くポジションにしては、学術用語を読者が知っているという前提に偏りすぎていないか? そういう語り方では、ポップが単なる学問の一対象に矮小化されてしまわないか? ポップがそれ以上の何かだと思うから、我々はこんなにも語りたいのではないか? 確かに、簡単に語りすぎて商業主義べったりのヘロヘロ音楽評論に成り下がってはいけないとは思うが、他にどうにかしようがないのだろうか。これは自分自身への宿題でもあるが(特に自分の場合専門家でもない訳だし、学術用語にかぶれて喜んでたら、みっともないプチ論壇そのものになってしまう。自戒自戒)。

前置きが長くなった。ようやく本題の「シチュアシオン」についてである。

この本の狙いは、60年代フランスの政治運動の底流をなした「シチュアシオニスム」の展開と、それが70年代後半のパンク・ムーブメントにどのように「転用」されたかの分析を中心に、政治運動や思想のアイコンを「ポップ」として流通させることの戦略的な効用を肯定的に構築することだ、と言えるだろう。

椹木との大きな違いは、こうした転用と市場経済的な複製・増殖効果を、積極的に戦略として意識して語っている点だろう。上野は朝日新聞で書評を担当した当時も、自身が紹介する書籍の選択とその書評を、ある一貫した戦略的スタンスから行っていたと思われるし、筆者が上野を評価する点はまさにそこだと言える。

にもかかわらず、彼は自身の依って立つバックグラウンドについては、とんと無自覚的と言わざるを得ないのだ。これは奇妙である。上記の「自覚的な戦略性」は言ってみれば最近脚光を浴びているカルチュラル・スタディーズ(CS)の基本的なスタンスであり、それは自らの依って立つ背景すらも自ら相対化して、その上で敢えて取られるべき立場だと思うのだが、彼の場合はそうではない。(この点については増田聡氏の優れた書評があるので、そちらを参照されたい。またCSに関しては01さんのサイトが有用。)

例えば、上野はセックス・ピストルズを取り上げているが、これは単なる世代的なこだわりに過ぎないのではないか、という疑念が彼自身にはまるで感じられないのだ。彼より3年ほど遅れて来た世代の筆者から見ると、ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」を、たとえば同年生まれの相原コージが「コージ苑」で好んで扱っていたのは、あながち偶然とは思えない。なぜなら、結局彼らより後からポップ・ミュージックの世界に「入って来た」我々には、ピストルズは「歴史上の何か」以上のものではないからだ。本当にパンクにおけるシチュアニスト・アイコンの転用は有効だったのか。あの時代の熱気を内側から感じたことのない者にそれを示すだけの説得力が、この本にはない。

「転用の戦略」を実践するに当たってのいい加減さ、いかがわしさと言ったものを敢えて肯定的に捉える。マルコム・マクラレンの「シチュアシオニスト・アイコン転用戦略」に上野が一定の評価を与える視線はそれに基づく。しかしそれは、「いい加減さ」こそが、既存のシステムの文脈への回収という事態の、あまりによくある契機であるということを踏まえての発言だろうか。読んだ限りではそうは思えない。彼の議論は、「だってぼくが好きだから」という個人的嗜好を拠り所にする「オタク的言説」と大差なく、結局は制度の言説に埋没してしまうものにしか見えないのだ。

戦略をいい加減に運用することで、その活動が臨界速度を超えてある種のトランス状態に至ることを目指す、というのなら、判らなくはないのだ。それは、筆者のように音楽を作り奏でるのが好きでたまらない奴が、「できれば、ただのべつ音楽をやり続けていたい」と抜かすことと基本的には同じである。しかし、ただやり続けている、ということは裏を返せば、その周囲に生じている事態---言い換えるなら、そうやって何かをやり続けている自分自身に働く力と、自分自身が意図するかせざるかに関わらず及ぼしている力---に対して、鈍感であり続けるということではないか。それは常に他者の言説に包摂される卑小な「自己満足」に陥る危険をはらんでいる。マルコム君の一連の仕掛けにしたって、その程度のものに過ぎないという評価が可能なのだ(現に椹木はそれを非常に粗雑な議論ながら指摘している)。

あえてマニュアル本的に(笑)語ると、いい加減さはしたたかさをこそ担保に行使されるべきものなのだ。言い換えるならそれは、「狙い澄ましたいい加減さ」とでも言うべきものかも知れない。

本筋からは逸れるが、彼の議論の甘さをもう1点指摘しておきたい。メディア・トライブについての議論である。彼が例として取り上げているのは、ローラーズVSモッズという、60年代後半の若者風俗であるのだが、それって「トライブ」なのか? 彼らがその嗜好の体系から生涯卒業しないなら、あるいはそうでないにしても、その嗜好が年齢により変化しても新しい世代がそれを受け継ぐのなら、トライブとも呼べよう。しかしそれは---最近のいわゆるブリットポップにも感じることなのだが---、結局のところいつかは卒業する「若者文化」(Youth Culture)の一つのヴァリエーションであって、その「トライブ」の成員たちも最終的には既存の「大人文化」の文脈のどこかに回収されてしまうに過ぎないのではないか。そこに過大な可能性を見出そうとすることは、それだけで既にロマンチシズムであるし、そんな「コップの中の嵐」を称揚することはまさに「個人的なコミットメント」を後ろ盾にしたオタク的言説に他ならないと思うのだ。

ポップを過大評価するなと言うつもりはないが、学術的なアプローチによって大げさにポップを裁断する、それはニューアカが試みて既に無効であることが証明されている手口なのではないか。敢えて踏み込んで言えば、上野がここまでこの本を「学術的に」書いたこと自体に既に限界があるのだ。大学で教えつつ研究者としてある立場として、そう書かざるを得ない苦悩はあったかも知れない。だがこのような中途半端な成果に終わるのは、あまりに勿体ない気がするのだ。今後もっと音楽が語られるべきであるとすれば。

(end of memorandum)



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ただおん

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