その意気やよし。だがしかし。
〜椹木野衣著「シミュレーショニズム〜ハウスミュージックと盗用芸術」
(洋泉社、1991)
(1998.11.30)


書評はコンパクトに、とK.T.さんのサイトを読みながらつくづく反省したのである。前回、興味ないのに頑張って読んで下さった方がいたらごめんなさい。

この本が河出あたりから文庫化されている。凄い世の中だと思う。「構造と力」ではありませんよ。シミュレーショニズム。

いかん、こんな寄り道せずにコンパクト、コンパクト。

どんな本なのか。読んだことのない人にも伝わるように、それでいて大事なオチは隠さなければなりません。そんなムチャな。適当に行きます。

この本は、ハウスミュージックの歴史について概観しているので、その成り立ちや方法論的な特徴については示唆に富むところが多い。また、「ワールド・ミュージック」というカテゴリーの背後に、逆説的にナショナリズムを強化しようとするフランス政府の文化政策を読み取るくだりも見事。これを読んだ当時(1996年春頃)、折衷的な音楽、あるいは越境的な音楽の可能性ということに関心があった筆者としてはタイムリーな本でもあった。

念のため言うと、実は本書は音楽書ではない。美術の話が半分近く。ただ、その現代美術のある潮流に、ハウスミュージックと共通の手法、と言って悪ければ方法論、を見出す。それがこの本のキーワードにもなっている「カットアップ」「サンプリング」「リミックス」である。この世界は「切り取られるために転がっている素材」であると著者は説く。それは量的な無名性・暴力性によって、「真性のポストモダン」として世界を変容させうることまでを、著者は示唆しているように思える。

個人的には、著者が後書きに記している「真性のポストモダニストたらんとするものである」という宣言は、非常に好きなのである。日本において「ポストモダン」というものがバブル期の消費社会の表層的な戯れに回収されてしまったことに対する痛切なルサンチマンと、それでもなおレジスタンスを持続するという強固な意志。

だが、そのルサンチマンゆえか、思い込みによる勇み足的な分析や表現がかなり目につくのである。例えば、増殖を重ねるサンプリングの持つ力を例えるのに、AIDSウィルスなどに代表される「レトロウィルス」を持ち出すくだり、また「男性的」「女性的」なるメタファの軽率な使用、などなど。また、ピストルズをイカサマだと言わんばかりに切って捨てたあたりも、言い回しは格好いいが議論としては粗雑で、どうもこれが上野俊哉の逆鱗に触れて、彼にパンクを中心に据えた論考(「シチュアシオン」に収録の数編)を書かせたのでは(笑)とさえ思わせる。

これらは一見些末かもしれないが、究極的には「唯物論的に提示する」というステートメントの問題性に集約されると思われる。このサブステートメントに相当するものの一つとして、彼はカットアップはコラージュではない、そこに編集者による美的親和性のための操作は介在せず、ただ素材同士が偶然的な効果を生むのだ、と言うのだが、そうだろうか。彼の論法に従えば、その美的基準を分けるのは編集者(作る側)の意図であって、事後的に解釈された表象そのものではないことになる。それは実は新手のロマンチシズムに過ぎないのではないか。この点が、彼の主張を前衛ゲリラから単なる敗者のルサンチマンに後退させることになっていると思うのだ。

言い換えれば、彼の議論は彼自身の中で閉じた「歴史の読み替え」に過ぎず、その中では戦略的な意図の構築は放棄されているのだ、見掛けにもかかわらず。それは結局のところ、対抗的言説として境界侵犯をする力を持ち得ず、権力的言説のネガとして対置される「平行言説」へと毒抜き的に回収されてしまうのではないか。心を鷲掴みにするような表現が散りばめられているにも関わらず、どこか読後に違和感が残ったのは、多分そのせいだろう。

あれ、ちっともコンパクトにまとまらなかった。次回こそ。

次回は上野俊哉「シチュアシオン」を取り上げます。上記の議論との関連もあるので。

(end of memorandum)



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ただおん

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