m@stervision archives 2004d

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



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スーパーサイズ・ミー(モーガン・スパーロック)

いやあ、これって究極の選択だなあ。選択肢(A)は可愛いメガネっ娘の恋人とセックスし放題。その代わり、朝晩の食事はヴェーガン(=生きるために動物の命を奪うのは許せないが植物を殺すのはぜんぜんオッケー。だって野菜は生き物じゃないじゃん…と考えてる植物差別主義者(ヴェジタリアン) 別名:ヴェジ・キラー)であるカノジョの手作りの不味そうな野菜食を食わなきゃならない。対して選択肢(B)は毎日、マックを食い放題なのだが、フニャチンになって性欲減少。うーん……。つまりこの映画は現代人に「葉っぱ喰ってハードセックス」か「肉食フニャチン」かの選択を迫っているわけだ。そうじゃねえだろ。 ● この問題についてじっくり考えてみるために観賞後は丸井んとこにあるマクドナルドへ。お約束ですね。ビッグマック単品とコークのMを注文。ポテトは食わない。いや「カロリーが高いから」じゃなくてキーボードが油でべたべたになるから(火暴) そしたら奥さん、アレですよ。いつのまにかトレイに敷いてある紙が「いろんな食品のカロリー数値表」になってんの。なんだなんだこないだまでここには映画の宣伝とか入ってなかったか!? しかも両面印刷で裏面は「マクドナルドで販売している全メニューの食品標準成分表」だ。「このデータは2004年7月28日現在のものです」だって。笑っちゃったよ。解っかりやすい対応やのう。ひょっとしてイイ人なのか?>日本マクドナルドの人。ビッグマックにかぶりつきながら、つらつらとカロリー値を見てみると「ビッグマック・セット」は牛丼(909kcal)よりもちょっと少ない876kcal。なんだ大したことないじゃないの。だけどよく見るとこのビッグマック・セット、ポテトの代わりにチキンナゲットで、ドリンクがコーヒーなの。これをポテトとコーラに変えるとカツカレー(957kcal)よりも高いカロリー値=1,093kcal にハネ上がるのだ(裏面の表で計算しました:) なんだやっぱりズルしてんじゃんかよ。大人ってキタない。てゆーか、こんなセコいイメージ戦略を使わずとも、堂々とマクドナルド渋谷5店舗(もっとあるかな)では「スーパーサイズ・ミー」の半券持参でバリュー・セットをLサイズに無料グレードアップ!とか やればいいのに。マジで儲かると思うけどなあ。だってこの映画を観たらアナタも食べたくなったでしょ?>マック。なお、冒頭の「究極の選択」についてだが、おれは一生 野菜食って生きるくらいなら多少フニャ……(多少?)

やあ、うまくまとまったなあ……と思ってアップする前に読み返したら、映画の感想を1行も書いてないことに気付いた。おかしいなあ。えーと、アイディアは抜群でツカミはオーケーなんだけど、諸問題へのツッコミ不足で「次から次へと新事実」が出てこないので途中でダレちゃうんだよな。娯楽ドキュメンタリーとしては最後に脚の1本も切り落としてもらわないとオチがついとらんよ。あとこの映画によると、マンハッタンではなぜかチャイナタウン店でだけ「広告写真どおりの肉厚パテのビッグマック」を販売してるらしいが、えーとそれは中国人街だけにきっと(以下自粛)

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レディ・ジョーカー(平山秀幸)

日本を代表するビール会社の社長が誘拐された。レディ・ジョーカーと名乗る犯人の目的は何か──。 ● 「このミス!」第1位に輝く高村薫の長大で複雑な原作の映画化。脚色は劇団「新宿梁山泊」の座付き作家を経て、今まで平山秀幸の「愛を乞うひと」「OUT」のほか、崔洋一の「月はどっちに出ている」「犬、走る」「豚の報い」「刑務所の中」「血と骨」を手掛けてきた鄭義信。やはり同じく長大な原作を映画化した「血と骨」(2時間24分)の出来をみても判るように、この人には構成力が無い。どちらかと言えば、情緒を糧に書いていくタイプで、引き出しの数が極端に少なく、その代わり、同じ歌を歌わせると輝く。つまり「単行本上下巻の映画を2時間の映画にまとめる」などといった作業をもっとも苦手とする脚本家なのである。そもそも笠原和夫が書いたって3時間はかかるであろう内容を2時間1分にまとめることに無理があるのだ。宮部みゆきの同じように長大な原作を映画化した「理由」は2時間40分。岡田社長の肝煎りで作った東映系の次回作「北の零年」だって2時間48分もあるというではないか。ならば「レディ・ジョーカー」も無理に縮めず、最初から3時間の映画として作ればよかったのに。本作の俳優陣にはそれだけの時間を飽かせない力があると思うだけに惜しいのだ。 ● さて、これをどうしても2時間に収めるならば、それは、複雑で長大な多面体として在る原作の、どの部分に焦点を絞るのかという問題である。これは別にあなたが脚本家や監督やプロデューサーじゃなくたって理解できることだ。取捨選択を行わなければ原作のダイジェストにしかならないのは自明の理なのだから。だが、映画化された「レディ・ジョーカー」からは〈作り手が何をやりたかったのか〉がさっぱり伝わってこない。鄭義信 本来のフィールドであるはずの「虐げられた者たちの復讐」というテーマは描ききれていないし、かといって「誘拐サスペンス」としてもどうにも中途半端。ましてや「戦後日本社会の歪みの総括」などにはほど遠い。 ● いちばん責任が重いのは〈「レディ・ジョーカー」をどういう映画にしたいのか〉という基本戦略を脚本家と監督に丸投げしてしまった日活のプロデューサーである(チラシに名前すら入ってないよ! この映画のプロデューサーが「映画」に対する責任の所在をどう考えているのか、という何よりの証拠だ) では、任されたほうがどう考えていたのかを「キネマ旬報」12月下旬号の平山秀幸の発言より引く>[ 実は渡哲也さんに初めてお会いしたとき「これはどういう映画ですか」と聞かれたんです。「僕は、分かりません」とハッキリ言って。「いまは分かりませんけれども、そのうち分かるようになりたいです」と。渡さんは「正直な方ですね」と笑って(笑)]って、バカヤロー! 笑ってる場合じゃねえだろ。現場指揮官に目標地点が見えてなかったら、あとに続く兵隊たちはどこを目指して走りゃいいんだよ。当て途なき迷走に付き合わされる観客こそいい迷惑だぜ。 ● じつを言えば主役である渡哲也を「犯人側の主要人物」にキャスティングした時点で、とるべき戦略は1つなのである。すなわち「犯人側=虐げられた者たち」の事情と心情を詳細に描き、そこに観客に感情移入させる「飢餓海峡」や「砂の器」型の社会派ミステリとして割り切って(=原作が有している他の要素は切り棄てて)作るしかないのだ。だが犯人=レディ・ジョーカーたちの事情は──原作のシリーズ主役である合田刑事(徳重聡)の鏡像として時間を割いて描写される堕落刑事・吉川晃司の素晴らしい存在感を例外として──とおり一遍の点描のみで深みがなく、ゆえにその悲しみが観客まで届くことはない。かれらがなぜ大それた犯罪を試みたのか、という基本的な動機すら納得できるようには描かれない。いや「原作がそのように書かれている」というのは理由にならない。単行本上下巻の小説と2時間の映画とではアプローチが違うのは当たり前だ。限られた時間のなかで、長大で複雑な原作と拮抗する〈もう1つの「レディ・ジョーカー」〉を構築するために必要なメリハリを付けるのが脚本家の仕事ではないか。 ● さらに──これを言っちゃうと戦略が根本から変わってしまうのだが──渡哲也(63)は「都会の片隅で孤独に生きる老人」にしてはかくしゃくとしすぎてる。積年の恨み/悲しみから歪んだ思いをつのらせる人物にしては背筋が伸びすぎているのだ。渡の前作「誘拐」とイメージが重なるのを嫌ったのだろうが、本来ならばかれが演じるべきは「ビール会社社長」のほうだろう(ほら、昨今の「石原プロ社長」のイメージとも重なるし) それで「犯人の老人」には(石原プロということで)存命ならば高品格でキマリ。現状では、まだ他にも佐藤慶(76)や藤田まこと(71)など、役年齢に近くて渡以上に巧くあの役を演じられそうな役者がいくらでもいるではないか。 ● 最後に鄭義信よ、いくら行く先知らずの無謀運転だからって、せめて「なんで[吉川晃司]に尾行が付くようになったのか?」と「[吹越満]はあの後どうなった?」、それと肝心の「奪取した20億円はどうなったのか?」ぐらいは説明してくれよ。あとこれは一方的な断定だけど(映画版の舞台となっている)2004年にあんな薬屋は生き残ってない。とっくに潰れてると思う。

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宮部みゆき 理 由 THE MOVIE
(大林宣彦)

超高層マンションで起きた一家4人の殺人事件。しかし彼らは、全くの他人同士だった……。 ● 直木賞に輝く宮部みゆきの長大で複雑な原作の映画化。大林宣彦という人は日本映画界随一のロリコン ジュブナイル監督として知られているが、映像作家としては とてつもなく人工的かつ技巧的な画面作りをする人である。みずから「ドキュメント・タッチ」と称している「北京的西瓜」や「女ざかり」だって、いわゆる「手持ちカメラ長廻し」的なドキュメント・タッチとはかけ離れた作風だ。代表作が「尾道」シリーズということもあって、世間的には「自然で素朴な映画を撮る優しいおじさん」のように思われているようだが、大林の描く「自然」は「あるがまま」の自然ではなく、ノスタルジーという包装紙にくるまれた大林の記憶の中にあるイメージとしての「自然」だ。商業映画デビュー作の「HOUSE ハウス」を観れば瞭然のように(テイストは大きく異なるが)映像作家としては鈴木清順に近いタイプなのである。 ● さて、そんな人に、松本清張の正嫡ともいうべき、1990年代半ばの閉塞感を描きだすと同時に、戦後日本の来し方を総括するような社会派ミステリで、それも贋ルポルタージュ形式でリアリティを重視して書かれた大著を映画化させるというのは無謀な企画というしかないのだが、大林宣彦はこれに、これ以上ないほどの無謀な実験で応えてみせた。当初はプロの脚本家を起用して2時間の映画としてまとめることも試みたようだが、最終的には自分自身の手で脚色を行い、2時間40分を費やして原作の登場人物を1人も減らすことなく107人の著名俳優を集め、原作の章立てをそのまま活かして──つまり、原作の構成/順番を変えずに映像化したのだ。それだけではない。原作に倣って、この映画では画面上のテロップによって「キャラ設定」を与えられたプロの俳優たちがノーメイクで(ファンデーションすら塗らずに!)それぞれの「事件現場」から、カメラのほうを向いて原作に書かれたとおりの台詞──「ええ、そうなんですよ。あの日は激しい雨が降っていて……」といった具合の、自然な話し言葉ではない文章上の話し言葉を喋る。では「ドキュメンタリー映画調」なのかというと、それとは正反対のドラマドラマした照明とセットできちんと「映画」として撮影される。そんな違和感のカタマリのような人工的スタイルで物語を進行させながら、いつのまにか「話者の回想」という形で通常のドラマが挿さみこまれ、次第にその比率が高まり、最終的には原作をみごとに活かした社会派ミステリとして結実する一方で、この「事件」を取材する原作者──この「役」に中江有里が扮してるのは原作者サービスなのか? でも、どうせなら宮部みゆき本人に演ってもらえばよかったのに──や、それを2004年に映画化する大林宣彦(もちろん本人)までが画面に登場し、エンドロールでは例によって大林の作になるテーマ曲で、俳優たちが「♪殺人事件がむすぶ絆〜」という、いままで2時間半かけて描いてきた「映画のテーマ」そのものを呪文のように繰り返すのである。およそあらゆる意味で、観終わっても観客の心にこびりついて離れない、大林宣彦にしか作れない/作らない、おそるべき畸形の傑作。 ……実際、107人の俳優たちに正規のギャラを払ってたらとても成立しないので、他の監督では作りたくても作れないだろう。 ● 居並ぶベテラン俳優たちの中で、最高の演技を魅せたのは高齢 恒例の「往年の美人女優のゲスト出演」枠での出演となる南田洋子。「HOUSE ハウス」(1977)「ふりむけば愛」(1978)以来の大林組出演だが、率先してノーメイクでカメラの前に立ち、皺だらけの素顔を晒している。素晴らしいのは、その素顔が凛として美しいこと。老いてこのような「顔」で居られるのは、南田洋子が品のある生き方をしてきた証左だろう。羨ましい。 もう一人の儲け役を挙げるならば、シュミーズ姿で尻をかきながら画面に映る赤座美代子。ノーメイクのせいで普段の彼女とはそーとー見た目が違うのだが、それでもそれなりに美しいのはやはり「女優」なのだなあ。 (意地悪な書き方で申し訳ないが)対照的なのが著名俳優に混じって「峰岸徹の妻」役に抜擢された吉行由実。「ちょっとその素顔はヤバいんじゃないの?」というやつれ方を晒していてちょっと可哀想。やっぱ「女優」ってのは人種が違うんですかな。<アタシは女優じゃないんかい! ● あと、古手川祐子がかなり大きな役で出てるんだけど、あまりに顔の輪郭がまんまるなのでそれが「古手川祐子」だとは判らなかった。あっ、これ古手川祐子じゃん!と気付いたのはなんと死化粧をしたときだった(火暴)←でもマジ。 それから序盤の まだ観客が違和感120%のときに久本雅美のようなワザとらしい芝居のタレントを出すのは戦略的に間違い。 若手女優では伊藤歩と宮崎あおいが出てるが、どちらも脱いでません。 ● ただ、残念なのはこれがビデオ撮りであること。いや、ドラマ部分はフィルム撮りらしいけど、結局ぜんぶコンピュータに入れて編集してるので、キネコに吐き出す際に全篇とも例のピント甘々画面になっちゃってるのだ。シーン替わりに挿入される美しい外景ショットなんかビデオの滲んでぼやけた画面で見せたって意味ないじゃんか。 あと、どうしても許せないのが、事件の舞台となるツインタワー・マンションの名前がテロップで「ヴァンダール北千住ニューシティ」と出ること。うぎゃーっ。100年前のワープロじゃあるまいし半角カタカナなんて使ってんじゃねーよ!(いまだに居るんだよな社内文書とかでも長いカタカナを半角で書くやつ)

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マイ・ボディガード(トニー・スコット)

原作:A.J.クィネル「燃える男(MAN ON FIRE)」

なんか「スパイ・ゲーム」のときも同じことを書いたような気がするが──正月映画随一の「男」のための映画である。オンナや家族と一緒なら「Mr.インクレディブル」や「ハウルの動く城」をお勧めする。息子と観るなら「エイリアン vs.プレデター」か「ゴジラ FINAL WARS」か。元旦からは「カンフー・ハッスル」だって始まる。だが男が観るなら「マイ・ボディガード」だ。断っておくが宣伝に惑わされて初心(うぶ)なカノジョ(死語)とのデートに使ったりすると酷い目に遭うぞ。オンナ(とロリコン男)が楽しめるのは前半1時間まで。後半は「笑い」や「○○ごっこ」のオブラートにくるまぬ毒々しくザンコクな復讐劇が容赦なく展開し、とうぜん口当たりは苦く それゆえに甘美でもある。「リベンジ」(1990)を大傑作だと思ってる当サイトとしては本作にも迷わず5つ星を献上だ。 ● 主人公のデンゼル・ワシントンは米軍のカウンター・テロ・ユニットで16年間も地獄を見てきた男。いや、違う。相手に地獄をもたらした張本人である。いまや すっかり魂を使い果たしてしまって、酒に溺れることでかろうじて日々を生きている。いきなり押しかけての仕事の無心にも厭な顔ひとつせずに、快く「9歳の女児のボディガード」という楽な仕事を世話してくれたクリストファー・ウォーケンに、かれはこう尋ねてみる──「神はおれたちのしたことを赦してくれるだろうか?」 いちはやく地獄から抜けて、気のいいメキシコ女と結婚した かつての戦友は、穏やかな微笑をたやさぬままで即答する「」。そう、神はおれたちのことを決して赦さないだろう。それは虫のいい希望だ。おれたちは遅かれ早かれ地獄へ堕ちるしかない運命なのだ。 ● 「レオン」のときのナタリー・ポートマンと違って、ダコタ・ファニング(まだ10歳!)には──超絶的に演技は上手いけど──まだ「女」は香らない。あくまでもコドモなのである。その純真さは男の胸のうちの、草木も生えぬ荒野に一輪の小さな花を咲かせた。地獄へ堕ちるしかない自分でも、それまでの間は少しばかり人間らしい暮らしを送ることを赦されたのか。男は神に感謝した。心の底から感謝した。 ● だから、その花が手折られたとき、男の心には怒りと絶望の砂嵐が渦巻いて、もうほかの何ものも目に入らない。復讐するは神にあり。ならばこれは復讐ではない。地獄のものを地獄へ戻す。あるべきものをあるべきところへ──ただそれだけのことだ。決して越えてはならない線。交わってはならない2つのもの。もちろん男は知っている──忘れたふりをした時もあったが、今でははっきりと自覚している。自分がそのどちら側に属しているのかを。 ● 涙なしには観られない、馬鹿にゃ判らん大人の映画。必見。原作読者で「あの顛末がそのまま映像化されるんじゃ正視に耐えない」と危惧されてる皆さんにあえてネタバレで申し上げておくが、その辺のことはきちんと配慮されているので心配御無用。 ● 俳優陣ではデンゼル・ワシントンとダコタ・ファニングが素晴らしいのは言を俟たないが、「トゥルー・ロマンス」(1993)以来、10年ぶりのトニー・スコット作品登場となるクリストファー・ウォーケンがイイ。当初はミッキー・ロークが演じている「悪徳弁護士」役をオファーされたのだが、めずらしく監督に「もう悪い奴の役を演じるのはうんざりだ。たまには、いい人間を演じたいよ」と抗議して、主人公の友人レイバーン役に。物語内の比重はそんなに大きくない役なのだが、ウォーケンが演じることによって深く印象に残る。パンフよりトニー・スコットのコメント>「クリスという役者は、たとえ台本が電話帳だったとしても面白くて興味ぶかいものに変えてしまうことの出来る男です。かれはレイバーンにダイナミックな明暗をつけて役柄の深みを一層増すことに成功しました」 ● ちなみに本作は松竹とヘラルド映画の共同配給で、タイトルが「マイ・ボディガード」なのは「マイ・ライフ」「マイ・フレンド・フォーエバー」「マイ・ルーム」「マイ・フレンド・メモリー」に続く感動もの路線=松竹「マイ」シリーズだから。宣伝コピーが【「レオン」から10年──】なのは「レオン」を配給したのがヘラルド映画だからである。

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エイリアン vs.プレデター(ポール・アンダーソン)

納得できぬ。なぜこれが「日劇の正月映画」じゃないのだ。いや、まあ、百歩ゆずって有楽町は「ターミナル」が日劇1でもいいけど、新宿は、歌舞伎町はゼッタイこっちが新宿プラザだろ。なに考えとんねん!?>東宝編成室。おかげでおれは立川シネマ・ツーまで遠征する破目になったわけだが(火暴) ※久しぶりに行ったら全席指定制になってた。ちぇっ。 ● P.T.A.じゃないほうの──世間の評判がどうであれ、当サイトにおいてはあくまで「出来の良いほう」の──ポール・アンダーソン監督の新作。脚本も手掛けたこのゲームおたく監督の精神年齢は「ゴジラFINAL WARS」の北村龍平とほぼ一緒。つまり小・中学生 男子の発想による怪獣対決アクションである。つまりエイリアンがゴジラで、プレデターがX星人ですな。そうか? ● 典型的な序破急の構成。初めチョロチョロ、中パッパ。タマゴ開いても中 見るな。見るなというに見ちゃったらあとは一気呵成。(劇中では示されていないがおそらく)プレデターに成長促進剤を打たれて、アッという間に3段階 変態を遂げてしまうエイリアンが跳梁跋扈し「キャラクターの展開」や「伏線の回収」なんかすべておっ放り出してアレヨアレヨの後半戦。えっ、もうこれで終わり!?ってなもんである。上映時間は100分だが、この手の映画はエンドロール長いので正味90分弱。余韻もなにもないけれど、本家「エイリアン」シリーズの重厚さとは無縁の「スピンオフ」と呼ぶに相応しいB級アクションの軽ろみと、敢えてスーツ&メカニカル特撮にコダわった──エイリアン・クイーンに至っては実際に4m80cmのメカニカル・モデルまで作ったそうだ──SFXの楽しさで、1980年代のSFXブームを体験してきた世代ならば、アタマのてっぺん ビヨンと飛び出る隠しアゴからシッポの先まで100% 堪能できるはず。まあ、おれがこんな駄文をものせずとも観に行く奴は行くんだろうし、この手の映画に興味のない人が観ても面白かないだろう。あと、戦隊シリーズや「仮面ライダー」で東映の洗礼を受けてるお子さんなら予備知識がなくとも楽しめると思うよ(吹替版あります)

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ゴジラ FINAL WARS(北村龍平)

すばらしい。まるで香港映画のようだ。あまりにすばらしいので2日続けて観に行っちまったぜ。「映画」って本来こーゆーもんなんじゃないの?という主張も込みで、当サイトの本年度 日本映画ベストワンはこれに決めた。アンタそんな無謀な。 ● 金子修介の「ガメラ 大怪獣空中決戦」が「キングコング」や「ゴジラ」(1954)以降の初期ゴジラ/怪獣映画の系譜に連なる「怪獣の恐怖」を描いた、シリアスでリアル志向の怪獣映画の傑作であったとすれば、懐かしきT O H O (東宝) S C O P Eのロゴから始まる「ゴジラ FINAL WARS」が目指したものは(製作本数的にはこちらのほうが「ゴジラ」シリーズの王道といってもいい)派手でニギヤカで熱血な「ひとときの祭り」としての怪獣プロレスの側面である。それこそ平成ゴジラ・シリーズが毎回、挑んでは陳腐な負けザマを晒してきた富山省吾プロデューサーの意図するところでもあったはずだ。誤解の無いよう急いで付け加えると、おれはゴジラ映画なんて馬鹿にして観に行かないヒネたガキだったので「東宝チャンピオン祭り」時代のゴジラをリアルタイムでは体験していない。つまり今回の5つ星にノスタルジーは含まれていない。あくまで2005年の──おもに小・中学生ぐらいまでの男の子に向けての──現在形の映画としての評価である。チャウ・シンチーの映画に本気で感動できるボンクラ・ハートの持ち主にお勧めする。ま、観に行って「木戸銭返せ!」とか言われても責任もてんまへんけど。持てへんのかい! ● 2001年にやはり金子修介が手掛けた「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」は、怪獣プロレスとして観ても かなりイイ線いってたと思うんだが、いかんせんシリアス過ぎるドラマ部分との乖離が最後まで埋められなかった。それならいっそドラマは取っ払っちまえ!……というのが本作である。話なんか荒唐無稽でいいじゃん。絵ヅラとしてカッコ良ければ科学的裏付けなんて不要でしょ。それが北村龍平の思想だ。いや褒めてんですよ。たとえば序盤のニューヨーク(ってことになってる)場面で、唖然として空を見上げる警官と黒人ギャングが、ラドンの起こした烈風で帽子を飛ばされる──というカットにピヨ〜ンというSEを付けてる時点で「どうぞ笑って楽しんでください」という演出家のキューは明白じゃないの。あるいは「説明役」として小美人を登場させるために、地球防衛軍の作戦司令室にいたはずの主役たちがなんの説明もなくインファント島に瞬間移動しちゃうってのもまったく正しい。 ● かようにルーズでイイカゲンな脚本ではあっても、今回、勘どころはきちんと押さえている。たとえばゴジラをあくまで「大地の破壊神」として描いていて、間違っても宇宙人の侵略から地球を守るために闘ったりしないこととか、策謀家のデスラー総統が語る「力だけに頼る者はそれより強い力によって滅びることになる。覚えておきたまえ」という台詞とか、泉谷しげるが孫に言う「ゴジラはそのときの怒りを決して忘れないんだ」という台詞、そして飽くことなき破壊と殺戮の連鎖を止められるのは「子どもたち」なんだってことを、ちゃんと「画」で見せていることとか。そういう意味では初代「ゴジラ」の精神をまっとうに受け継いでるのだ。 ● メインディッシュの「怪獣プロレス」は従来とはまったく違う「スピード」と「量」を堪能できる。おなじ「世界が壊滅する」のでも、津波や隕石の自然現象や、都市上空に静止している円盤から放たれた光線で破壊されるのと、何匹もの怪獣が暴れまわって壊滅するのでは受けるカタルシスが違う。一枚看板のゴジラは見得もたっぷりの千両役者ぶりを発揮するし、サイボーグ怪獣=ガイガンは前作&前々作の機龍(メカゴジラ)なんぞの数百倍カッコイイ。そして観客をジラしにジラして登場する「最大の仇敵」は過去最大級のカッコ良さ。なにしろ今回は引き抜き(コスチューム・チェンジ)までやるのだ(!) ● そして、ある意味、本作のいちばんの魅力は(人間側の)キャスティングにある。ズラリ並んだ顔ぶれとその使い方の恐ろしいほどの「安さ」には観てて頭がクラクラしてくること請け合い。いや、だから褒めてんですって。友好的な振りをして地球に侵略して来た「X星人」の代表としてつるっパゲの伊武雅刀が偽善的な笑顔を振りまきながら登場したときにゃ思わず爆笑しちまった。なにしろ「X星人は敵か味方か」というテレビ討論会の司会者がマイケル富岡(卓上のネームプレートの肩書きはマルチタレント)で、他の顔ぶれも大槻教授と韮澤潤一郎はわかるとして、松尾貴史・篠原ともえ・角田信朗、それに木村大作だぜ!?(肩書きはマルチ映画人!) スペイン坂スタジオのチャラいDJ役で出演してる北村龍平自身も含めて、この激安キャスティングは確信犯だろう。いや、すばらしい。安い台詞は安いキャストに。クサい芝居はクサい俳優に。まさに真理である。 ● なかでも──怪獣プロレスだからってわけでもないだろうが──格闘家/プロレスラーのキャスト2人がすばらしい。菊の御紋章の代わりにドリルをくっつけた宇宙戦艦ヤマト 轟天号のタフな艦長に扮して「ゴジラが怪獣と戦ってるあいだに、おれたちがX星人をぶっとばす」とか玄田哲章の声でしゃべる()格闘家=ドン・フライの、1970年代的な面構えと、刀を肩に担いだ後姿のいかついシルエット! 地球防衛軍のミュータント精鋭部隊を率いる元プロレスラー=船木誠勝の、みずからを犠牲にして仲間の命を救って力尽きて大地に倒れた、その頭上を〈希望〉が飛びゆくのを見たときの豪快な高笑い! 映画のエモーションとはまさしくこーゆーものではないか。違いますか。そうですか。 日劇の最終回やヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズで上映している「ワールド・プレミア・バージョン」では、ガイジンの台詞は英語のままで日本語字幕が付く。 ● だが、なんといっても最高のキャストは「X星人の武闘派リーダー」を針ふり切って怪演する北村一輝だ。秘密基地のモニターで配下の怪獣が次々とゴジラにやられていくのを見て地団駄ふんで口惜しがるさまは、ゴジラ映画ってより「○○レンジャー」のマヌケな悪役のよう。やっぱあれかね。今夏の「特捜戦隊デカレンジャー THE MOVIE フルブラスト・アクション」でゲスト悪役を演じた遠藤憲一にライバル心をメラメラと刺激されちゃったのかね。 ● いちおう公平を期して書いておくが、本作にも問題がないわけじゃない。てゆーか、問題だらけとも言える。なんだよそれ。北村龍平(と北村組専属カメラマンの古谷巧)には依然として「画面で起こっているアクションを的確に観客に伝える能力」が欠如していて、無駄なカット/カット割りが多すぎる(いーかげん「マトリックス」回り込みは使用禁止にしろよ) バカな監督のいたらぬ点をプロフェッショナルなスタッフを付けて補うのがプロデューサーの仕事でしょうが>富山省吾。 序盤と終盤の「怪獣おおあばれ」を、中盤のX星人がらみの小学生にもわかるサスペンスで繋ぐ構成は間違っていないが、いかんせん怪獣の出てこない中盤パートが長すぎる。子どもは飽きちゃうよ。だいたいモロパク丸わかりなバイク・チェイスなんか不要だろ。X星人の正体が割れたら、すぐ「怪獣一斉攻撃」に移らないと。クライマックスに置いてある松岡昌宏と北村一輝のカンフー・アクション(の真似事)も長過ぎ。やるなとは言わんから、もうちょっとスムースにゴジラのファイトとカットバックするとか出来んか? あと、音楽をわざわざキース・エマーソンに頼んだのなら、ハッタリ満載の荘厳なプログレ交響楽を書いてもらえばいいのに、北村龍平が「もっとロックっぽいのを」とか余計なことを言ったので現在のへっぽこリズムな劇伴になっちゃったらしい。あほか。 ● ちなみに当サイトの本年度ワーストワンはいまさら申すまでもなく「デビルマン」だが、じつは那須博之の目指したものは「ゴジラ FINAL WARS」みたいな映画だったんじゃないかと思う。おれの観たかった「デビルマン」はもっと別のシリアスな内容のものだが、おそらく那須博之と北村龍平が作ろうとした映画は同じものだ。その嘘みたいに上手くいった例が「ゴジラ FINAL WARS」であり、考え得るかぎり最悪の失敗例が「デビルマン」なのだ。たぶん。

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いま、会いにゆきます(土井裕泰)

あ、ヤラれた。「黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」と続く竹内結子の〈黄泉がえり〉シリーズ最新作だとばかり思っていたら、竹内結子のキャスティング自体が[壮大なトリック]だったとは! ● 「セカチュウ」が創業以来のヒットとなった絶好調・東宝映画の若手プロデューサー主体による企画 第2弾だけあって、内容は「世界の中心で、黄泉がえり」みたいな話。「1年前に死んだ若妻が雨の季節に黄泉がえる」という主筋に、記憶喪失の状態で黄泉がえった妻に、夫が語って聞かせる形で「2人の高校時代に始まる純愛」が回想される。(セカチュウの長澤まさみのように)高校時代のヒロインは、東宝シンデレラ出身で東宝芸能 所属、モスラの小美人のもう片方=大塚ちひろ(メガネっ娘の学級委員!)が努める。 ● ベストセラーだという原作は未読だがキネ旬の特集などを読むかぎりでは、黄泉がえったヒロインが再び「向こうの世界」に戻ってしまうという「泣かせ」のクライマックスのあとに(エピローグではなく)まるまるもう一章ある……という特殊な構成は、脚本家・岡田惠和のオリジナルのようだ。おれが感心したのは、この最終章で明らかになるこの映画の本当のジャンル=[時空を超えたメロドラマ]って韓国映画の得意ワザなんだよね。さすがにテレビの世界の売れっ子(※)だけあって、売れてるものを取り入れるスピードが(映画の脚本家とは)違うわ。 ※「白鳥麗子でございます!」「南くんの恋人(高橋由美子版)」「おそるべしっっ!!!音無可憐さん」「アルジャーノンに花束を」「ちゅらさん」シリーズ etc. ● まあ、実を言うと、おれも伊達に1万本以上も映画を観てきてるわけではないので、黄泉がえった竹内結子が「夫」の中村獅童と初めてキスしたときに「初めてのキスみたい」と言うシーンでピーンと来た。そうかわかった! 2人がこのあと初めておまんこしたあと、翌朝のシーツに残った血で竹内結子は真実に気づくんだ!!……と思ったんだけどハズレでした。アンタほんとにサイテーやな。えーと五代暁子さんと岡輝男さんはこのアイディアの無断使用可です。 ● 美しいフィルム撮影は、このところ「船を降りたら彼女の島」「アンテナ」「深呼吸の必要」「スウィングガールズ」とミドリものが続く柴主高秀。おれは竹内結子は、あまりタイプではないのだが(おれが観た中では)今まででいちばんキレイに撮られていたように思う。なにしろ市川実日子にまで「キレイ……」と思う瞬間が何度かあったのだから。 これで子役が神木隆之介クンだったら、いまごろ滂沱の涙でたいへんだったと思うが、本作の武井証クンも子役クサさのない自然な感じで結構でした。印象に残った台詞を1つ。雨の季節が終わって夏になったらまたママが居なくなってしまう……と心配する坊やに、パパが「でも(帰らなきゃいけないことを)ママは忘れてるみたいだぞ」、すると「ママが忘れててもきっと誰かが迎えに来るよ。どんなお話でもそうだもん」 ● 実の甥っ子である中村獅童 主演ということで、中村嘉葎雄が出てきて昼寝してるだけというものすご〜くゼイタクな特別出演。 あと、東宝映画がこの話を作るのなら「竹取物語」でかぐや姫を演じた沢口靖子(東宝芸能 所属)を担任教師役かなんかで出してあげれば良かったのに。 ● 本作はファンタジーなので細かいツッコミは野暮だとは思うけど「他人に見られたら幽霊だと思われるので竹内結子を(本人にはその理由を言わずに)家に閉じ込めておく」という基本設定は2、3日なら「まだ体の調子が万全じゃないから」とかで納得させられるけど、6週間じゃそうはいかんだろ。日常の買物とかどないすんねん。竹内結子をどうやって納得させたかフォローがほしかった。 あと中村獅童がカート・ヴォネガットJr.好きって設定は原作にもあるのかな?


ジャッカス・ザ・ムービー(ジェフ・トレメイン)

[輸入DVD観賞] いや観る前からキライなのはわかってたのよ。おれ昔から「ドッキリカメラ」とか大キライだったし。だから「観たくない」って言ってんのに強引にDVDを貸してくれた知人がいて、借りた以上 感想を言わなあかんから しょーがないから観てみたら案の定ムカムカムカムカして15分で視聴中止。映画じゃないので評価外。「慎太郎」呼ばわりされるのを承知で言うけど、こーゆー奴らこそ爆弾でふっ飛ばしてやりたいよ、おれは。

インストール(片岡K)★ ★

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デビルマンの動く城(宮崎駿)[DLPシネマ版]

「悪魔の肉体」と「人の心」を持ったヒーローの活躍を描く永井豪・原作の人気テレビアニメを、なんと宮崎駿が劇場用長篇アニメ化。悪魔の力、身につけた正義のヒーロー「デビルマン」ことアモン ハウル「裏切り者」の名を受けて、すべてを棄てて ひとり孤独に最終戦争(アルマゲドン)を闘っていた。だが、嫉妬したシレーヌに呪いをかけられた人間の娘=牧村美樹が、使い悪魔のルシファーがあやつるハウルの根城「悪魔城」に迷い込んできたことから初めて知った人の愛。その優しさに目覚めたハウルは、愛する者たちを守るため、最後の力を振り絞って悪魔の体に変身するのだった「デッビーーーーール!」 ● いや、素晴らしい。 じつを言うと事前の期待値はあまり高くなかった。最初の「特報」の時点では「おおっ、宮崎駿、今度は真正面から〈戦争〉を描くのか!?」とワクワクしたものの、その後の「予告篇」を観るにつけ、な〜んか、つまなんそーで盛り上がらなそうだなー。だいたいヒロインが婆さんなんだろ?と、最初の期待もしゅるしゅるしゅる〜と萎んでしまっていたのだ。 ● ところがぎっちょん(死語)、おっとり刀(死語)で観てみたら、これが素晴らしいのなんのって。いや、なにが素晴らしいってアナタ、絵が、動く。その楽しさ!! 出し惜しみ無しで冒頭から(錆びたブリキのゼンマイと煙突の塊みたいな)悪魔城がギーコギーコと歩いてる姿を見た瞬間に、ああ「スチームボーイ」がこのスタッフによって作られていたなら!と、地団駄ふむ圧倒的な画力。おれは前作「千と千尋の神隠し」をクライマックスが弱いと感じたが、本作には画の力で魅せきってしまう理屈抜きのクライマックスが存在する。その代わりに今度はストーリーがない(火暴) ● いや、無いことはない。いちおう「18歳の外見と90歳の内面を持つヒロインが、魔女の呪いにより内面相応の外見に変えられてしまうが、不思議な冒険を通じてどんどん心が若返り、その過程で動く城に住む擬似家族がどんどん増えていく」というストーリーラインはあるのだが、ヒロインにしても積極的に「呪いを解こう」とするわけじゃなし、ハウルが最終戦争を闘う動機も明示されず、そもそも劇中でどこの国とどこの国が何のために戦争してるのかすらも説明されない。話に教訓があるわけでもなく、反戦平和を声高に主張するのでもない。すなわち、観客に「物語の目指すところ=終着点」を示す意思が最初から無いのだ。もういいじゃないそーゆーの。ただキャラクターの感情のおもむくままに描いていけば、背景とか因縁とか伏線とか そんなのいちいち説明しなくたって映画は成立するんだよ──という宮崎駿の自信(というか開き直り)がありありと聞こえてくる。いまや100%の創造の自由と、それを保証する技術力/財力を手にした宮崎駿はどうやら「夢」以降の黒澤明と同じ段階──すなわち年寄りの手慰みの時期に突入したといってよいだろう。えらく国民的なスケールの「手慰み」だが。これだけメチャクチャな構成で、それでも圧倒的に面白いという実例を観せられてしまうと、いつもインターネットの個人ページで脚本がどうの伏線がどうのとチマチマと難癖つけてる自分が阿呆みたいに思えてくるよ。まさに「天才に適う努力なし」ですな。 ● 各方面から懸念の声があがっていた木村拓哉のアテレコだが、ノー・プロブレムざんしょ。髪をいつものキレイな金髪に染めそこねて「こんな髪の色じゃ生きていけないよ〜ん!!」と嘆き悲しむ臆病者の悪魔 魔法使いというキャラにピッタリとハマってる。いやもちろん及川光博(ミッチー)だったらもっと良かったのに、とは思うけどさ。 倍賞千恵子も序盤の18歳の声は「んん!?」と思わないでもなかったけど、90歳の声を聞いて納得した。だけどほんと言えば「18歳の声」と「90歳の声」を自在に使い分けられる(倍賞千恵子より上手な)声優さんだっているはずで、特に「ルパン三世 カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」の頃の宮崎アニメを彷彿させる本作では、本職の声優さんのほうがあの絵にマッチしたと思うんだけどなあ。 押井守への嫌がらせとしか思えない「役に立たない尊大な駄犬」には(台詞は「ふんっ」しかないのに)贅沢にも原田大二郎を起用。 もはやアテ描きとしか思えない美輪明宏の素晴らしさについては言うまでもないが、なんと言っても特筆すべきは「まほうつかいのでし」を演じる神木隆之介クン(!) ヒゲの老人に変装したときの「なんじゃな?」とかゆー老人の作り声の可愛さといったらもう(以下略)

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Mr.インクレディブル(ブラッド・バード)

原案・脚本:ブラッド・バード 音楽:マイケル・ジアッチーノ

自慢じゃないが、世界中で大ヒットした金魚のアニメに最後まで食指が動かず、あれだけ世評の高かった「アイアン・ジャイアント」にも感銘を受けなかったヒネクレ者のおれ様だが、今度の「Mr.インクレディブル」には全面降伏する。「ハウルの動く城」が天才アニメーターが思うがままにインプロヴィゼイションを展開させたフリージャズの傑作だとすれば、本作は「法律でスーパーヒーローたることを禁じられた世界」というマニアックなモチーフを、まだ言葉の良くわからないような子どもから、ヒーロー漫画なんて一度も読んだこともないお年寄りまで、老若男女あらゆる観客を魅了する親しみやすいメロディーで彩り、テンポや音符のひとつひとつまで練りに練った新たなるスタンダード・ナンバーの誕生である。今回は吹替版を観たので、次は字幕版を観るぞ。DVDも買うぞ。 ● おれは「お笑いタレントの吹替」ってやつが嫌いで、いつもは字幕版しか観ないんだけど、今回は「実力を発揮する機会を奪われて冴えない夫」に三浦友和、「優しいフリして夫を尻に敷いてる奥さん」に黒木瞳──という、あまり絶妙のキャスティングに迷わず吹替版で観賞。この選択は大正解で、黒木瞳は事前のイメージ通り。アテ描き?ってほど完璧にキャラにハマってた。 ビックリしたのが三浦友和で、こんなに器用な台詞術を持ってる俳優さんだとは思いもよらなかった。いや、おみそれしました。 長女役の綾瀬はるか は、ちょっと「うーん…」なんだけど、この役って内気で、喋るのがゆっくりだから、つまりゆっくりな口パクに正確に合わせなきゃいけないので、素人さんには荷が重かったんじゃないかな。 悪役キャラの声が宮迫博之だとはパンフを見るまで気付かなかった。なんだ上手いんじゃん>お笑いタレント(火暴) あと(ディズニーはいつもそうなのかも知れないけど、おれには初体験なので)新鮮だったのは「Mr.インクレディブル」というタイトルだけでなく、劇中の主要な「新聞の見出し」とかまで日本語化されてたこと。エンドクレジットでも、おそらく字幕版ではボイス・キャストが出る部分が日本語版のキャスト&スタッフのクレジットに差し替えられていた。こーゆーのって何ヶ国語版つくるのかねえ? ● ピクサーのアニメーションが他の3Dアニメと決定的に違うのは(常に、ではないが)しばしば人形アニメ粘土アニメを見てると錯覚してしまうほどの立体感を持っていること。ただ「3Dソフトで作ればキャラクターが立体的になる」ってわけじゃないのだ。たとえばライバルであるドリームワークスの「シュレック2」や、フルCGで製作された日本の「アップルシード」は、どちらもよく出来たアニメだが、これらの作品は基本的に従来のセルアニメの演出手法/文法の延長上に位置している。言ってしまえば「3Dソフトで作った2Dアニメ」なのだ。そうした作品がまず直面するのが「キャラと背景のバランス」の問題だ。CGソフトを使えばいくらでも複雑な背景が描けてしまうので、ちょっとロングに引くとキャラが背景に埋没してしまったり、逆にキャラを目立たせようとしてせっかくの背景がよく見えなかったり、人間の目と違って直感的な強調/省略の利かないコンピュータの欠点だ。「イノセンス」も「スチームボーイ」もこの問題を克服できていない。その点、デジタル製作ではあっても、あくまで手で描いている「ハウルの動く城」では数々の素晴らしい背景が、キャラクターと殺しあうことなく、映画の魅力を何倍にも高めている。 ● 「ハウル〜」じゃないや、「Mr.インクレディブル」の話だった。 ま、ピクサーのアニメにはそれほど複雑な背景というものは登場しないが、観客が画面の中でキャラクターを見失うことは決してない。画面のどこに居ようと、カメラがどれだけ引こうと、キャラがきちんと浮き出ている。そしてそれらのキャラクターは、従来の2Dアニメーションのそれとはまったく別種の立体感を伴っている。たぶん、これって照明のあて方ひとつだと思うのだ。…ってアナタ簡単に言うけど、その「ひとつ」がいちばん難しいアルヨ。ピクサーが他のスタジオより抜きん出ているのは「レンダーマン」という有名なCG用 照明ソフトの開発元なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、たぶん普通のCGアニメーターが「えーと、この場面の光源はこことここだから…」とか設定に四苦八苦してるあいだに、ピクサーの人たちは「このキャラクターをいちばん美しく撮るにはどういう光を当てたらよいのか」と考えてるんだと思う。CGアニメはコンピュータによる「計算」で作られるものだからといって「実際の物理法則」に縛られる必要などぜんぜん無いのだ。だってそうだろ。3Dで撮るのなら「アニメ」じゃなくて「実写映画」と同じ考え方をしなくちゃ。 ● ──と持ちゃげたはしから落とすけど、インクレディブル家の長女の「長い黒髪」は(キャラの暗い性格を現すために)つねに「青い光」を当てられているのだが、暖色系の照明の下でも青いってのは、いくらなんでも変じゃねーか? ● [追記]休日に歌舞伎町でハシゴしたあと、ピカデリーに行って「僕の彼女を紹介します」を観る予定だったんだけど、ミラノ座の絵看板の下でびよ〜んと両腕を伸ばしてるインクレディブル夫人の切り抜き看板を見てたら、なんかムラムラしてきた 急にもう一度観たくなったので「Mr.インクレディブル」を、今度は字幕版で再見した。感想は「やっぱりよく出来てるなあ」というだけで特に付け加えることはない。吹替はオリジナル版・日本語版ともよく出来ていると思うが、長女のヴァイオレットと謎の美女ミラージュ、そして衣裳デザイナーのエドナ・モードの3人についてはオリジナル版の勝ち。ミラージュはエリザベス・ペーニャのほうが「ハスキーなセクシーボイス」というイメージに近いし、エドナ・モードは、夫が行方不明なのにまだ「どうしたらいいかしら?」と躊躇ってるヘレンに対して「な〜にグズグス言ってるの! あんたスーパーヒーローのエラスティガールなんでしょ!? 自分で闘って取り戻しなさい!」と叱咤激励する芝居が、明らかに(監督のブラッド・バード自身が演じている)オリジナル版のほうが優れていて、おれはここでちょっと泣きそうになった。

というわけで甲乙つけがたいお正月の東西アニメ対決だが、これは東宝陣営と松竹陣営の正月興行の雌雄を決する戦いでもある。にもかかわらず、宮崎駿と(ピクサーのアニメーティング副社長の)ジョン・ラセターの親交ゆえに「ハウルの動く城」の冒頭には「Mr.インクレディブル」の予告篇が、「Mr.インクレディブル」の冒頭には「ハウル〜」の予告篇がもれなく上映されている。シネコンだけの話ではないぞ。日比谷スカラ座で丸の内ピカデリーの予告篇が、新宿ピカデリーで新宿スカラの予告篇がかかっているのだ。もちろん背景には「両作品ともアメリカではディズニー配給」という事情もあるのだが、お正月といえば いちばんお客さんが入る時期なんだから、本音をいえば1本でも多く自系統の新作予告篇をかけたいはずなのに、共にターゲットを同じうするライバル同士の両作が、東宝と松竹の垣根を越えてエールを送り合うというのは画期的な出来事だと思うので、ここに記録しておく。 ● なお、本来ならば「雌雄を決す」ではなく、東急=松竹連合の「ポーラー・エキスプレス」を交えた三つ巴の戦いになるはずだったのだが、「ハリー・ポッター」「マトリックス」「ラスト・サムライ」「HERO」「LOVERS」と夏冬の陣とも連戦連勝を誇っていたワーナー映画が大宣伝したにもかかわらず、あまりの不入りに「ポーラー〜」は12月31日で打ち切り決定。なんと「正月」映画なのに年が越せないという椿事となった。


透光の樹(根岸吉太郎)

テアトル新宿、朝1回目を観賞。この回だけは予告篇をカットしての上映なのだが、もちろんお客さんよりスポンサー重視厚顔無恥な東京テアトル・グループの映画館だからCMはしっかり上映。この日は「京急」の外人のヘンな体操と「所ジョージのジョージア缶コーヒー」のCMの前後を水野晴郎の解説でパックしたという悪夢のような企画CM。いまだに「水野晴郎が映画ファンに好かれてる」という幻想を抱いてるCMプランナーがいるってこと自体が信じられないのだが、朝イチからそんなもの見せられて、すっかり気分は鬱。だから以下のレビュウがいつもより辛口になってるとしたら、その幾ばくかの責任は東京テアトルの経営方針にあると思ってくれ。 ● 「デビルマン」の擁護しようのない圧倒的な酷さを別格とすれば、当サイトの本年度 日本映画ワーストワンは本作である──単なる駄作や出来損ないではなく「積極的に非難すべき対象」としての。非難の矛先は「根岸吉太郎なにやってんだ!?」ということに尽きる。これが七十八十の年寄りが撮った映画ならこんなに苛立ったりはしない。だが、根岸吉太郎は1950年生まれだから、いま54歳の働きざかり。崔洋一や、滝田洋二郎、阪本順治らの先頭に立って日本映画界をリードすべき立場の人じゃないか。それを「脚本:田中陽造、撮影:川上皓市、照明:熊谷秀夫、編集:鈴木晄」というベテラン・スタッフを集めて、この体たらく。これじゃ20年前に ほぼ同じスタッフで撮った「ひとひらの雪」(脱いでるのも同じ秋吉久美子だ)から、まったく進歩してないじゃないか。いや撮影勘が鈍ってる分だけ明らかに後退だ。 ● この人も最後の にっかつロマンポルノ「キャバレー日記」(1982)のあと間髪いれず「俺っちのウェディング」「探偵物語」(1983)と来て、東映で「ひとひらの雪」(1985)を撮るまでは日の出の勢いだったのだ。それが翌1986年に東宝で「ウホッホ探険隊」を大コケさせたのがケチの付き始め。その後は東宝で「永遠の1/2」(1987)、「課長・島耕作」(1992)と撮るもの撮るもの内容・興行ともにコケ続け、オムニバスの中篇「乳房」(1993)で内容的には持ち直したものの、東宝「絆」(1998)がやっぱり惨敗して、脂の乗り切った40代を棒に振ってしまった。その6年ぶりの新作が「透光の樹」なのである。高樹のぶ子 原作の大人の愛欲映画。脚本に名手・田中陽造を得て「期待するな」というほうが無理だ。 ● 20年前の「ひとひらの雪」と「透光の樹」のいちばんの違いは津川雅彦の不在にある。べつに永島敏行に悪意はないが──いくらショーケン降板のピンチヒッターとはいえ──百姓野球選手自衛隊員にしか見えない俳優に「酒と女にズブズブのテレビ制作会社の社長」を演らせるってのは無理にもほどがある。(「ひとひらの雪」当時の)津川雅彦が言えばそれなりにサマになったであろう、ヒロインに再会したときの「右手のバケツから左手のバケツに水を移す。そのとき多少、水がこぼれる。それで喉をうるおす──そういう商売です」というニヒルな自己紹介とか、ヒロインがストーカーな元・亭主に「わたしには今すぐにでも抱いてもらいたい人がいるんです!」とタンカ切ったのを電話口で聞いていて「いますぐにでも抱いてもらいたい人ってひょっとしてぼくのことかな。……光栄です。ありがとう」なんてキザな台詞も、永島敏行の口から出るとあまりに気持ち悪くて全身に鳥肌が立っちまう。口元を歪めて顔をしかめてんのは、それアナタ奥歯でも痛いんですか? ● 根岸吉太郎は永島のこんな芝居にOK出してる時点で演出家として終わってるだろ。悲しいけど。なにも永島敏行に頼まなくたって、過去の付き合いから三浦友和とか小林薫ってセンはなかったのか。どうしてもスケジュールが合わないってんなら、本作には寺田農が出演してるじゃないの。かれを主役にしたほうが、よほどマトモな大人の愛欲「純愛」映画になったものを。 ● てゆーか、そもそも萩原健一を降ろす必要があったのか? プロデューサーの岡田裕によると「撮影初日からエキセントリックだった。演技バトルを超えて常軌を逸していた。女性スタッフにセクハラ発言を繰り返し、助監督の胸ぐらをつかんで殴ったことも」(日刊スポーツ)って、それ(憑依型の役者である)ショーケンとしてはいつもの役作りじゃんか。今回それだけ役にのめり込んでたってことじゃん。だいたい岡田裕や根岸吉太郎に使いこなせなかったら今の日本映画界でだれがショーケンを使えんのよ? おそらく真相は撮入したとたんにショーケンと秋吉久美子が衝突して、秋吉から「あたしとあのキチガイ、どっちを取るの?」と迫られた岡田裕が「秋吉久美子(49歳)のヘアヌード」を選んだってことなんだろうけど、勿体ないことをしたものだ。このところずっと不遇をかこってるショーケンの復活を観てみたかった。 ● ちなみに今回の報道でひとつ明らかになったのはショーケン クラスの出演料が1500万円だってこと。ま、これが高いのか安いのかは おれには判断つかないけど。


照明熊谷学校(構成・編集 伊藤正治)[ビデオ上映]

言うまでもないが という評価は「照明熊谷学校」というビデオ・ドキュメンタリーの出来に対してのものであって、ベテラン照明技師・熊谷秀夫の業績を貶める意図はまったくない。そればかりか、キネマ旬報の連載インタビューを発展させて映画にしようとした「企画意図」そのものは ★ ★ ★ ★ ★ に値すると思うのだ。往々にして おれのような素人は、美しい画面を見るとすぐカメラマンばかりを褒めてしまいがちで、なかなか照明部の果たす役割というものは理解されにくい。だから本作はその裏方である「照明」に文字どおりスポットを当てて映画撮影における照明技法の秘密を解き明かしてくれるのではないかと過大な期待をしていたのだ。 ● ところが本作の作り手は、熊谷秀夫に過去の作品のビデオを見せて話を聞くばかりで、熊谷の話した技法を具体的にミニチュアを作って再現するとか、簡単なCGで映画照明のメカニズムをわかりやすく説明するといった手間をかけることはしない。引用される場面もビデオ素材や市販のDVDからのコピーなので画質は劣悪。それなら連載をまとめた単行本を読んで、家でDVDを観れば事足りるのだ(実際そのほうがずっと情報量も多いし、画質もいい) 熊谷の最新作「透光の樹」の撮影現場にもビデオカメラを持ち込んでいるが、それなんかほんとに「ただ撮っただけ」で、創造の秘密なんてものはまったく窺えない。熊谷の人間性に肉薄したり、撮影現場のスリリングな人間関係を描いたりといった(ドキュメンタリーとしての)ドラマ性も無い。しかも「映画の照明マン」のドキュメンタリーなのにビデオ撮り。いや、メイキング映像はビデオでもいいけど、インタビュー映像くらいきちんと照明を当ててフィルムで撮んなさいよ。それが大先輩に対する「敬意」ってもんなんじゃないのか。 ● この映画の作り手たちは言うかもしれない。そんな予算も時間も無いんだ。熊谷さんの映画を作ったこと自体が熊谷さんへの感謝の表れなんだと。アンタたち、ほんとに熊谷秀夫の話を聞いてたのかい? この老技師がインタビューを通して語っているのはただひとつ──金の有る無しにかかわりなく、無理だと思って諦めたりせず、目に見えないとこで精一杯の努力を積み重ねる。それがプロの仕事というものだ。本作の安易な製作姿勢そのものが描いている対象を裏切ってると思うので敢えて最低評価とする。 ● 映画とは関係ないが、敬意を捧げる振りをして安易な仕事で裏切ってる例をもうひとつ。「キネマ旬報」1月上旬号 巻頭のニュース欄において、熊谷秀夫の叙勲と出版を祝うパーティーが開かれたことが報じられているのだが、なんとその記事の見出しが「録音技師・熊谷秀夫を称える夕べ」。さらに本文中でも「照明熊谷学校」だの「照明技師 熊谷秀夫 降る影 待つ影」という書名まで出てくるのに、肝心の部分でまた[日本映画のベテラン録音技師・熊谷秀夫さんを祝う〜会』が〜行われた。]と二重の大ポカ。これつまりアレだよな。この記事を書いた編集者も、見出しをつけたデスク(?)も、映画専門誌の編集者なのに橋本文雄と熊谷秀夫の区別もつかず、また誰ひとり自分の雑誌で連載してた熊谷秀夫インタビューを読んでなかったってことだよな。サイテー。

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オランダの光(ピーター・リム・デ・クローン)

「真珠の耳飾りの少女」のフェルメールや、光の巨匠=レンブラントを生んだ「17世紀オランダ絵画」がなかば特権的に表現してきた〈オランダの光〉。だが現代美術家ヨゼフ・ボイスは「開拓によってオランダ沿岸にあった湖の水面が激減しために〈オランダの光〉は永遠に失われてしまった」と指摘する。広大な水面が太陽の光を照り返すことによって生まれた微妙な光線。それこそが〈オランダの光〉だったのだと。オランダの光──それは単に絵画表現上の「流行」や「概念」ではなくて、かつてほんとうに「実在」し、いまは失われてしまったものなのか?──を追求したドキュメンタリー。 ● まさしく東京都「写真」美術館で上映されるのに相応しい作品である。そしてまた「光」についてのドキュメンタリーとは、すなわち「映画」についてのドキュメンタリーに他ならない。俳優の演技やSFXのように目に見えないから──見えてないと思い込んでるから、その存在をつい忘れがちな「光」。だが本作の美しいフィルム撮影を見ていると、まさしく実感する。映画とは「光」を映した芸術なのだと。上映が終わってからアップしといて こんなことを言うのもなんだが、こればかりはフィルムで見ないと実感できないだろう。ドキュメンタリーとしての構成は必ずしも優れたものではないが、そんなことを考えさせてくれるという意味で刺激的な作品だった。

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レディ・ウェポン 赤裸特工(チン・シウトン)

製作&脚本:バリー・ウォン 武術指導:チン・シウトン

すでに香港版のDVDで観ていたが、待望の日本公開とあって初日に駆けつけた。……空いてたけど(泣) いったい世の中の映画ファンは何をしておるのだ!? 「ハウルの動く城」なんか、きっと夏休みまで上映してんだから後にしろ。女性アクションの歴史に残る大傑作「レディ・ウェポン」は新宿ジョイシネマと銀座シネパトスで12月24日までだ。映画館に走れ! 義務。 ● 内容はひとことで言えばデッドリー・シリアスな「チャーリーズ・エンジェル」である。3人のキレイなネエちゃんたちがセクシー衣裳をとっかえひっかえしながらカンフー・アクションを繰り広げる──香港映画界の誇る商売人=バリー・ウォンがこんな美味しい企画を放っておくはずがなく、本家から2年遅れの2002年の11月に本作を完成・香港公開させたのである。まあ、同年8月公開だった「クローサー」に遅れをとったのはバリー・ウォンとしては痛恨だったやもしれんな。 ● 世界各国から40人の体技に優れた13歳前後の女児が誘拐される。女児たちは南の島のキャンプに監禁され、闇の世界で名高いマダムMの殺し屋として養成すべく命がけの訓練の日々を送る。やがて6年の歳月が流れ、最終テストの日が来る。最終テスト──それは、厳しい訓練を共に耐え抜いた級友たちと殺し合いをして、生き残った1人だけがプロの殺し屋として卒業できるという過酷なものだった……という前半のストーリーは昨年公開された「あずみ」に似てるが、脚本のバリー・ウォンと演出のチン・シウトンは本邦の映画版「あずみ」が逃げて通った「生き残るために殺す」というテーマを、1970年代の東映=篠原とおるものの遺伝子を濃厚に感じさせつつ、たっぷりと時間をかけて描ききる。 ● 結局、過酷な日々を励ましあって耐えてきた裕福な家庭の子女 シャーリーン(マギーQ)と孤児(みなしご)のキャット(アンヤ 安雅)の2人と、感情を廃した完璧な殺人マシーンとして生きぬいたジル(ジュエル・リー 李幸[艸/止]/第5回 世界武術選手権大会チャンピオン!)が、特例として全員合格(卒業祝いは集団レイプ) マダムM(アルメン・ウォン 黄佩霞)の殺し屋として社会に出て行くことになる。キャットとコンビを組んで正体不明の凄腕の殺し屋として次々に「仕事」をこなしていくシャーリーンだったが、あるとき、香港での仕事で生き別れた母親(チェン・ペイペイ 鄭佩佩)と再会し、また、ふとしたきっかけからマダムMを追うCIA捜査官のジャック(ダニエル・ウー 呉彦祖)と愛し合うようになり、組織から抜けることを決意する。だがその頃、マダムMの組織には、仲間を暗殺された復讐をたくらむ日本のやくざの魔手が伸びていた……。 ● シャーリーン役のマギーQ(「ジェネックス・コップ2」)はハワイ生まれのアメリカとベトナムのハーフ(photo ) キャット役のちょっと加藤夏希似のアンヤは台湾生まれのNY育ち。ダニエル・ウーも帰国組ということで、じつは本作は香港映画初の英語オリジナル音声作品である。演出も海外マーケットを意識して香港アクション特有だった泥臭さを廃して、バリー・ウォン作品ながらベタなギャグは一切なし。スタイリッシュなエロティック・アクションに仕上がっている。チン・シウトン(程小東)のアクション演出も(一部、CGを併用しつつも)冴えに冴え(衣装面積が少ないので男性スタントマンがダブルを勤めることが不可能なため)否応なく殆どのカットを自分たちで演じている新人女優たちの健闘もすばらしい。 ● マギーQには(実生活での元カレである)ダニエル・ウーとのラブシーンで一瞬ながら乳出しもあり。いや、すばらしい。映画ってこういうものだよな。

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ターンレフト ターンライト 向左走・向右走
(ジョニー・トー&ワイ・カーファイ)

サミー・チェン×アンディ・ラウ主演の「Needing You(孤男寡女)」(2000)「痩身男女」(2001)、サミー・チェン×ラウ・チンワン主演の「我左眼見到鬼」(2002)、サミー・チェン×ルイス・クー主演の「百年好合」(2003)に続く、ジョニー・トー&ワイ・カーファイ(韋家輝)共同監督によるコメディ色の強いラブ・ストーリー。これまではチャールズ・ヒョン(向華強)率いる「中国星」からのリリースだったが、本作はワーナー・ブラザース映画(極東)と、シンガポールのレインツリー・ピクチャーズの共同製作となっている。 ● さて、今回のいちばんのセールス・ポイントは中華圏でベストセラーになった台湾人作家 ジミー・リャオ(幾米)の同名絵本を原作としていることで、原作を尊重して全篇を台北にロケしている。男性側主役には台湾人/琉球人ハーフの金城武。いつも踵が地面から5mmほど浮いてるような、この人のキャラが、恋愛ファンタジーの主役にピタリとハマっている。この路線のヒロインはずっとサミー・チェンが努めてきたのだが──じっさい「何をやってもうまく行かなくて、いつもおどおどしてる女性翻訳者」というキャラはサミー・チェンのスクリーン・イメージそのものなのだが──今回は相手が金城クンということで「君のいた永遠(とき)」で相性の良さを証明し、また北京語も堪能なジジ・リョンがドジなヒロインを好演している。日本で上映されているのは北京語版だが、画面を見てると香港側の俳優とジジ・リョンは(口パクが合ってないので)明らかに広東語を喋っていて、エンドロールには台湾側俳優の「広東語吹替」の声優クレジットが入っていたりするので、香港ではあくまで広東語版が上映されたのだと思う。 ● 金城クンとジジ・リョンは台北の古アパートの、壁1枚隔てた隣人同士。エレベーターはなく、階段の踊り場の左右に玄関が1つずつあるという(日本の団地スタイルの)アパートで、2人の部屋は背中合わせなので入り口は「あっちの階段」と「こっちの階段」で別々になる。しかも「彼には右に曲がる癖があり、彼女には左に曲がる癖がある」ので、2人はこれだけ近くにいながら、これまで一度も出逢ったことがなかった。映画の序盤でそんな2人は公園で偶然に出逢い、互いに好きになり幸せな午後のデートを楽しむ。ところが運命の悪戯で2人は名前も住所も知らないまま別れてしまい、手元に残ったのは雨に濡れて読めない電話番号のメモのみ。その後、金城クンにひとめ惚れした「ラーメン屋の出前娘」や、ジジにストーカー・ラブする「自信家ドクター」まで出現して、背中合わせの部屋に住む2人は、互いを求めてすれ違い続ける──。 ● というわけで、メロドラマの大定番「すれ違い」をテーマに、そこだけを取り出して拡大。笑っちゃうほど極端なすれ違いだけで1時間40分を持たせてしまう力技。2人が再会するための「手掛かり」を潰していく手際など脚本も練れている。意図的に有り得ないような偶然を積み重ねることによって、そのあまりの「有り得なさ」ゆえに、観客の婦女子に「わたしの近くにも未だ出逢わぬ金城クンがいるのかも?」と夢見させる恋愛ファンタジーである。舞台が台湾なのは原作がそうであることの他に、香港の観客にとっては見慣れた景色のようで、どこかいつもと違う風景がファンタジーの舞台に相応しい…との判断からなのかな、と思ってたら、なんとラストでなぜ舞台が台湾でなければならなかったか(と、本作の時代設定)が明らかになるのだった(!) 極悪やなあ>香港人。言うまでもなく「壁1枚を隔てて出逢えない恋人たち」という設定は、ここでは運命の視覚的比喩として用いられてるわけだが、それを[だったら壁を壊しちゃえばいいじゃん]と即物的に考えるとこが、いかにも香港人の発想だよな(……いや、まあ、それだって「視覚的比喩」だって言われたら、それはそうなんだけどさ) ● 脚本はいつものワイ・カーファイ+ヤウ・ナイホイ(游乃海)+オウ・キンイー(歐健兒)+イップ・ティンシン(葉天成)のチーム。ラーメン屋の出前の「赤いほっぺの爆弾娘」に扮した台湾人女優 テリー・クアン(關穎)が なかなか可愛いかった。 ● ちなみに、すでにかなりの本数を重ねたジョニー・トー&ワイ・カーファイの共同監督コンビだが「プレミア日本版」12月号でジョニー・トーが「ワイ・カーファイとの役割分担」について答えていた>[すごく明快で、彼(ワイ・カーファイ)が創作、私(ジョニー・トー)が演出を担当している。たとえば、テーマなり原作なりを私が見つけて、彼に相談する。どんな映画にできるかというところを2人で研究し、方向が決まると彼が脚本を執筆。撮影現場を仕切るのは私で、編集段階でまた相談しながら……という感じさtext by 世良田のり子)] これって日本の定義で言ったらジョニー・トー「監督」で、ワイ・カーファイ「プロデュース&脚本」ってことだよね?

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マッスルモンク(ジョニー・トー&ワイ・カーファイ)

[輸入DVD観賞] 見逃してしまったのをDVDで落穂拾い。快進撃を続ける量産コンビの2003年作品。原題は「大隻[イ老] 」。今年の香港アカデミー賞で最優秀作品賞・同脚本賞・主演男優賞(アンディ・ラウ)に輝いた「名作」なのだが、じつはトンデモ映画である。 ● 娯楽映画のフォーマットに則りながらも、まるで宇宙からの力に操られたかのように、そこから逸脱して行ってしまう映画群のことを我々は(てゆーか、おれは)「トンデモ」と称しているわけだが──ちなみに「最初っからフォーマットのない映画」はアートとかアングラとか実験映画と呼ばれ「トンデモ」とは区別される──本作「マッスルモンク」の場合、ジョニー・トー&ワイ・カーファイの本意は明らかに「逸脱」のほうを描くことにある。逸脱は必然であり、物語は確信犯的に逸脱していく。 ● では逸脱して行った先に何があるのか? それこそが本作の英語サブタイトル「RUNNING ON KARMA(≒カルマを背負って生きる)」で示される「人生の不条理な真理」についての考察である。ジョニー・トーは、まず間違いなく本作を「9.11テロ」と、それに対する「報復」として行われたイラク戦争に対しての「映画作家(もの作りに携わる者)からの回答」として作っている。われわれに襲いかかる不幸は前世からの因縁なのか。それに対してわれわれに為すすべは無いのか。復讐の連鎖を断ち切ることは出来ないのか?──このような哲学的内容をあくまで「娯楽映画」として観客に供するための「手段」が「超人的な能力を持った者が新米刑事を助けて犯人を逮捕する」という刑事アクションのフォーマットであり、マネーメイキング・スターのアンディ・ラウに(ドリフのコントに出てくる相撲取りの着ぐるみ然とした)ムキムキマンのボディスーツを着せるという(一見、爆笑必至の)「仕掛け」なのだ。 ● 享楽的な人生を送る35歳の男性ストリッパー、じつは中国・五台山の石窟寺の元・武術僧で前世の業(カルマ)が見えてしまう超能力者にアンディ・ラウ。かつては絶世のナルシストだったこの人も、歳とともに器が広がり、同監督コンビの「痩身男女」での「百貫でぶ」スーツや本作での「ムキムキマン」スーツなど、若い頃だったら考えられないような役を喜んでこなしている。ほんとうに素晴らしい役者になったと思う。 重案組に登用された採用4年目の女性刑事=リー・フォンイェ(李鳳儀)にセリシア・チャン。一時期、スキャンダルや怪我で沈んでいたものの、ここ1、2年で完全復活で嬉しいかぎり。本年度のアカデミー賞でも、本作の役ではノミネートまでだったが、じつは「新不了情 つきせぬ想い」のイー・トンシン監督作品「忘不了」でみごと主演女優賞を獲得している。 ● 脚本はワイ・カーファイ+ヤウ・ナイホイ(游乃海)+オウ・キンイー(歐健兒)+イップ・ティンシン(葉天成)の最強チーム。だれも聞いたことのないような突飛な話を、だれが観ても楽しめるエンタテインメントとして描いた、プロの手になる傑作。必見。


スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー
(ケリー・コンラン)

映画としてやってはいけないことを平然とやっているので評価外。星は付けない。それは何かというと本作では、すべでに故人であるローレンス・オリヴィエが「嵐が丘」に出演したときのアーカイヴ映像をCG加工して「悪役」を演じさせているのである。もちろん元映像の権利者の許可は取ったうえでのことだが、権利者が許可すればいい話だろうか。金さえ払えばOKなのか? 遺族がOKすればブルース・リーで新作アクション映画を撮ってもいいのか? オノ・ヨーコがOKすればジョン・レノンに「新曲」を歌わせてもいいのか? 本作でケリー・コンランがやっているのはそういうことだ。なんでも主演者ジュード・ロウの提案に「それいいじゃん」と監督がノって実現したそうだが、「技術的に可能である」ことがイコール「やってもいい」ということではないだろう。これが赦されるのは例えば、アーノルド・シュワルツェネッガーが知事の仕事が忙しいので「ターミネーター4」にCG出演するのを本人が許可する──といったケースだけのはずで、故人のイメージを本人の許可なく後世の人間が勝手に(しかも加工して)使用するなど、いかなる理由を取り繕っても許されるべきではない。ケリー・コンランは「敬意」だと言うだろうが、これは敬意じゃない。冒シ賣だ。 ● じつは本作の「映画」としての評価もこれと同様で「このシーンはあの映画の場面からの引用で、この台詞はあの映画の台詞をそのまま使ってる」と嬉々として語るケリー・コンランには「ぼくには自分自身というものが無くて、この映画はパクリだけで成り立っていま〜す」と告白してるのだという自覚が無い。俳優以外はすべてCGで作られたという「借り物のイメージ」からまた別の「借り物のイメージ」へと繋がっていくだけの「画面」にはソフトフォーカスの膜がかかり「映画」と「観客」のあいだを隔てる。単なる「借り物のイメージ」の羅列は(「キル・ビル」が有していたような)独自の力を持つわけでもなく、だからこの「画面」には一度たりとも「エモーション」は発生しない。ケリー・コンランは悪びれず「好きな映画のイメージだけで映画を作ってなにが悪い?」と言うかもしれないが、冗談じゃない。一緒にしてくれるな。アンタの挙げたB級SF映画の数々には、観客をワクワクさせるエモーションやドキドキさせるサプライズに満ちていた。「スカイキャプテン」の空虚さとは無縁の面白い「映画」ばかりだ。カール・ライナー監督「スティーブ・マーティンの 四つ数えろ」でも観て1から勉強しなおしな。

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コニー&カーラ(マイケル・レンベック)

ビリー・ワイルダーの最高傑作とおれは思ってる「お熱いのがお好き」の女性版リメイク。すなわち「殺人現場を目撃してしまった2人の女が、ギャングから身を隠すためにドラッグ・クイーンに成りすます」という話である。オリジナル版では、ジャック・レモンとトニー・カーチスという芸達者が女装しても(観客の目には)どー見てもオカマにしか見えないってのが笑っちゃうポイントだったのだが、この新版では、女がオカマの振りをしてんのに、どー見ても本物のオカマにしか見えないのが笑っちゃう。てゆーか、ニア・ヴァルダロスもトニ・コレットも明らかにドラッグ・クイーンのときのほうがキレイだったり(火暴) ● 「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」に続いてトム・ハンクス&リタ・ウィルソン夫妻が製作総指揮を努めているが、これ、おそらくスタッフが「ニアの次回作どーするよ?」「本人すっかり、やる気 満々っスよ」「まあ『ビッグ・ファット』1本きりってわけにもいかんしなあ」とか企画会議をしてて、なにしろ個性が強すぎる女優なので助演では使えても、なっかなかヒロイン役にハマる企画がなくて、アイディアも出尽くして仕出し弁当の夜食も喰って いーかげん煮詰まって皆が朦朧としてきたころ、1人のスタッフが「だいたい、メイクしたら女装オカマにしか見えない女優をヒロインに据えること自体に問題があるんじゃねーの!?」と投げ遣りな発言をしたら、他の一同、ハタと目を見開き、声をそろえて「それだ!!(当サイト推測) ● トニ・コレットも久々に「シックス・センス」や「アバウト・ア・ボーイ」の「生活疲れヒロイン」路線じゃなくて「ミュリエルの結婚」の芸達者ぶりを披露。「シカゴ」のミュージカル・ディレクターも参画して、ミュージカルの定番ナンバーを(実際のニアとトニの歌声で)たっぷりと楽しめる。ま、ゲイの皆さんが「ライザ・ミネリ的なるもの」が大好きなのは周知としても、おそらくニア・ヴァルダロス自身が、この手の歌を大好きなんでしょうな(トニ・コレットの好みはロック方面だと思うけど。てゆーか、この人「近々、女優を引退してロック歌手になる」とか言ってなかったっけ?) ● ニアの恋のお相手(=ニアを男だと思ってるから自分の感情に混乱する)にデビッド・ドゥカブニー。絶世のハンサムではなく地味なタイプなので、美女とはいいかねるヒロインに惚れることにも説得力があり、マッチョイズムとは無縁の人なので、相手が女装オカマだといって頭から毛嫌いすることがない。じつに絶妙のキャスティングである(たとえばジョージ・クルーニーがニア・ヴァルダロスに惚れたら変でしょ?) 2人の行方を捜して全米のミュージカル劇場や演芸レストランを回るうち、熱烈なミュージカル・ファンになってしまうギャングの手下とか、脇役のキャラ立ちもバツグン。どこまでも陽気で前向きなヒロインたちに笑わされて、ちょこっとホロリとさせられて、ニコニコして映画館を出てくることができる楽しい楽しい映画。全年齢層にお勧め。 ● というわけで当サイト絶賛の本作であるが、唯一、非難すべき点はクレジットが「脚本:ニア・ヴァルダロス」となっていて、どこにもI.A.L.ダイアモンドやビリー・ワイルダーの名前がないこと。これだけ似てたらせめて「Inspired from〜」とか「Suggested by〜」ぐらいは入れておかんと商道徳的に問題あるだろ。

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隠し剣 鬼の爪(山田洋次)

「たそがれ清兵衛」に続いて藤沢周平の短篇「隠し剣 鬼ノ爪」「雪明かり」を映画化──って話を聞いたときから「中高年男性客は黙ってたって来るわけだし、なんでタイトルを女性受けしそうな『雪明かり』にしないんだろう?」って思ってたんだけど──実際いちどは「雪明かり」になって、そのタイトルで丸の内ピカデリーにポスターが貼ってあるのを目撃したこともある──映画を観てみて「隠し剣 鬼の爪」な理由を納得した。今回はしみじみ日常劇路線ではなく(劇の構造が)娯楽時代劇 寄りなのだ。ならば山田洋次の演出にはケレン味が足りない。永瀬正敏は初めて歳相応の役を演じて(意外にも)頑張ってると思うけど、この役は永瀬正敏じゃないだろう。秘中の秘の必殺技「鬼の爪」を伝授されし男なのだから(普段はしょぼくれていても)イザというときカッコ良く見えないと。じゃあまた真田広之か、あるいは中井貴一か豊川悦司かって話になっちゃうんだけど、いやいやもっと適役がいるではないか。そう──もう皆さんうすうすお気付きでしょうが、おれは(ピンク映画を除く)すべての日本映画について「これが哀川翔と竹内力 主演だったら」と夢想してしまう癖があって──「主人公が哀川翔、ラストで対決するかつての同輩に竹内力」で立派に成立するじゃないですか! 山田洋次ももちっと現在(いま)の役者を使わんといけんよ。 ● ヒロインの松たか子もミスキャスト。このコじゃ健康的すぎて痩せ衰えても窶(やつ)れても見えんし、ちっとも哀れを誘わない。あと泣かせたかったらとりあえず神木隆之介クンを出しとけ。なんだそれ。

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笑の大学(星護)

原作戯曲・脚本:三谷幸喜

東宝としてはこの人に伊丹十三になってほしいのだろうけれど、なにしろ脚本家としてのスケジュールが数年先まで埋まってるような売れっ子だから、なかなか自身で監督をする時間がとれなくて、それで「竜馬の妻とその夫と愛人」に続いて今度もまた脚本のみの参加となった、三谷幸喜の最新作。 ● おれは元になった芝居を観てないのでオリジナルがどのようなトーンだったのかは判らないのだが、全盛期のコント55号が演じたならば さぞや抱腹絶倒だったであろう典型的なサドマゾ・コントである。サディスティックな検閲官と、それに踊らされる哀れな脚本家。この解釈が正しければ稲垣吾郎では明らかに力量不足。特に前半中盤は検閲官の無理難題に脚本家があたふたおろおろしたり、口八丁手八丁でなんとか検閲官を丸め込もうとする軽佻浮薄さで客を笑わせるのが眼目のはずなのだから。対する役所広司は巧いのは伝わってくるが──これは演出指導の問題でもあるが──あまりにも早くから心の裡を出しすぎ。あと「語句/思想の検閲」のはずが、いつのまにか「質の向上の指導」にすりかわってる…ってとこがあまりうまく行ってない。終盤の「泣かせ」も引っぱり過ぎでクドい。あそこは1回だけサラリと検閲官が本心を吐露すれば充分。それでラストカットは部屋に独りになった検閲官が[書き直しと挿し込みだらけの台本に「許可」の印をポンっと押して]その台本の表紙のアップでカットアウトでしょ。ということで(面白いことは面白いんだけど)おれには世評ほどの傑作戯曲とは思えなかった。ほうぼうの詰めが甘いし、洗練されてないと思う。 ● 演出の星護は、テレビの監督がたいがいそうであるように、やはり感動の押し付けがしつこくて、かえって逆効果。冒頭の「警視庁」だの「浅草」だのといった説明タイトルは(画を見りゃ判るんだから)すべて不要だし、それまで脚本家がおどおど卑屈にビクビクしながら警視庁に入っていく描写を何度も繰り返しておいて、肝心の「最後の七日目」で「堂々とまっすぐ前を向いて警視庁に入っていく」カットを省略しちゃうのは演出センスがない証拠。それがあって初めて前フリが活きるんじゃんか。 ● 劇団の座長役の小松政夫にはなんの不満もないが、どうせなら座長は西村雅彦にして劇団員に東京サンシャイン・ボーイズの連中をキャスティングするぐらいのこと、すれば良かったのに。 ● それと今回は原作者の三谷幸喜自身が映画用に脚色したわけだが、ふだん芝居でもテレビでも(目に見える)検閲は経験していない三谷幸喜ではなく、普段から「映倫」という検閲機関と闘っている映画界のベテラン脚本家に脚色させてみるのも手だったのでは。

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コラテラル(マイケル・マン)

これが小説であったなら「巻き添え」と訳されるであろうタイトルを持つマイケル・マンの新作。「ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー」「刑事グラハム 凍りついた欲望」「ヒート」の監督が撮った犯罪アクション──という期待値の高さからすると、やはり星3つは付けられないのだが、貴兄が新宿ローヤル主義者ならば雰囲気だけでお釣りが来る御馳走ではある。 ● やっぱり誰もが疑問に思うのは冒頭の場面で[「トランスポーター」のジェイソン・ステーサム]と会うんだから、なんでかれをドライバーに雇わないのか?ってことだよな。プロの殺し屋が「ひと晩で5人の証人を殺すという仕事を遂行するのに、たまたまそこに停まってたタクシーを使う」という基本設定に対する疑問が最後まで払拭されない。いちおう脚本家もそういう反応は予想したのか、劇中で刑事に「前にも真面目一方のタクシー運転手が、突然 3人もの人間を殺して自殺したという事件があった」と語らせて、どうやらそれで「トム・クルーズ扮する殺し屋が何の痕跡も残していないプロフェッショナルである」と言いたいらしいが、でも管轄外である他州の(殺人課ですらない)麻薬課の刑事が覚えてるほどの特異な事件があったという大きな痕跡を残してるじゃんか。しかも「自殺したタクシー運転手」という単独の犯人を警察に提供することで3人の被害者を結び付けてしまう。それじゃプロ失格だと思うがなあ。だいたい(いくら運転手=ジェイミー・フォックスを「犯人」に仕立てるためとはいえ)屋根が凹んでフロントガラスがひび割れたような目立つタクシーに乗り続けるなんてリスキーなことをするかあ? 案の定、そのあとすぐ警官に一時停止を命じられるんだけど、それだったら最初っから(殺人現場を目撃された)運転手を始末して、何も知らない別のタクシーを拾ったほうがずっと現実的だと思うけど(そのほうが運転手を宥めたり脅したりする手間が省けるし、逃げられる危険もないじゃんか) いや「偶然ひと晩の運命を共にすることになった2人の男」の話を描きたいんだってのは承知してるよ。だったら客がそんな細かいことを気にしなくて済むような手立てを考えるのが脚本家の仕事でしょ。 ● 冒頭でタクシーの客になるジェイダ・ピンケット・スミスがじつは[5人目の標的]であるというご都合主義は(B級アクションなんてそんなもんなので)おれは気にならないが、トム・クルーズが「クールな殺し屋」ってのはミスキャストだろう。だいたい「トム・クルーズ」と「クール」って相反する概念でしょう? どんなに熱演しても、いや熱演すればするほど、クールを装った仮面の下に「熱血」が透けてしまうのがトム・クルーズという俳優の特性なのだから。あと、だいたいこの殺し屋さん、街中で銃をぶっ放すってのにサイレンサーってものは使わないんだろうか? それと助手席に散らばってたはずのサンドウィッチはどこ行ったの? おれ(トム・クルーズの)ズボンのケツが染みになってやしないかと気になって気になって……。 ● 夜のタクシー場面=全篇の80%を新開発の(照明不要の)高性能デジタル・ビデオカメラで撮影したのことで、予告篇を観た段階では色が薄そうで危惧していたのだが、あれはどうやら予告篇をデジタル製作(=キネコ)した所為らしく、本篇ではちゃんと色も出ており、ビデオ撮影であることが観賞の妨げにならないレベルにはなっていた。

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キャットウーマン(ピトフ)

非業の死を遂げた若い女性が、九つの命を持つという猫の妖力で蘇ってキャットウーマンとなり、自分を殺した相手に復讐する──という基本設定だけを活かした独立篇。だから「バットマン」シリーズとは無関係で舞台もゴッサム・シティではないし、ヒロインの名もセリーナ・カイルではない。てゆーか、検索もせずにこんな名前がパッと出てくる自分が厭だ。 ● ハリー・ベリーが亭主に浮気されて離婚したストレスを発散させるかのように露出度マックスの衣裳で嬉々として演じてるわけだが、なんかねー、非業の死から復活した復讐鬼という悲壮さが微塵もないんだよねー。妙に嬉しそうなのよ。さしずめ那須真知子なら「やーんキャットウーマンになっちゃったー。今日からは昨日までと違うあたし。うふふ。ハッピーバースデー!>新しいあたし」てな台詞を書きそうな感じ。ま、ハリウッドもさすがにそこまで酷くはないんだけど、キャットウーマンとして復活したはいいけど、この女ときたら、いっこうに復讐にとりかかんないのよ。宝石泥棒したりムチで男をシバいたりハンサムな刑事さんとイチャついたりしててさ。でまた復讐の対象たるシャロン・ストーンが単なる嫉妬深い年増女にすぎなくて、そんなのわざわざスーパー・ヒロインになってまで闘う相手じゃないでしょ。なんだかなー。ふだん会社で御局OLに意地悪されてる若いOLの皆さんにお勧めする。 ● 監督は、次回作が「AKIRA」実写版だというのが嘘だと言ってほしい「ヴィドック」のピトフ(本名 ジャン=クリストフ・コマール) 撮影は「ファム・ファタール」「キス・オブ・ザ・ドラゴン」「クリムゾン・リバー」のティエリー・アルボガスト。シネスコ・サイズで、全篇にエアブラシで皺消し修正を施したようなのっぺりとした(山口ハルミのイラストみたいな)画調。CG動画はデビルマン」レベル。

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シークレット・ウインドウ(デビッド・コープ)

売れっ子 脚本家 デビッド・コープが5年ぶりに監督も兼任して、スティーブン・キングの中篇「秘密の窓、秘密の庭」(文春文庫「ランゴリアーズ」収録)を映画化。 ● そりゃたしかに、いきなり家にジョン・タートゥーロが訪ねて来て南部訛りで「おみゃあ、おらの小説を盗んだだなぁ」とか脅された日にゃあ、たとえ自分が小説家じゃなくたってビビって「あ、ごめんなさいごめんなさい。たしかにわたしがパクりました」と罪を認めてしまう気がする。作家役の髪ぐしゃぐしゃのジョニー・デップも適役だし、主役2人のキャスティングは完璧なのだ。問題はヒロインのマリア・ベロに主人公の妄執となるような魅力が感じられないこと。この女優さんはデボラ・アンガーと同系統で、つまり「セックス好きの浮気相手」とか「相談に乗ってくれる気のいい娼婦」向きの女優さんなのだ。だから「デュエット」や「コヨーテ・アグリー」とか「ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター」なんかはハマるんだけど、間違っても「美しい妻」には向いてない。ここはクレア・フォーラニあたりを出してくれないと物語の根幹が成立しない。 ● それと──以下、ネタバレしてます(スティーブン・キング ファンなら一発でバレちゃいます)──よくわかんないのは、わざわざ原作とは別の結末を考えておいて、4番目のキャストに「ダークハーフ」のティモシー・ハットンを出すってゆーのは何なの? ファン・サービスのつもり? それともデビッド・コープが「ダークハーフ」を観てないとか?

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ツイステッド(フィリップ・カウフマン)

あ、フィリップ・カウフマン監督作品だったのか。<映画観るまで知らなかった。ひさしぶりに「霧の都サンフランシスコ」という言葉を思い起こさせる味わい深い導入部(撮影:ピーター・デミング)から、カウフマンの演出は丁寧で落ち着いて観ていられるのだが、問題は、序盤のキャラクター描写があまりに丁寧すぎるので最初の殺人が起こる前に犯人がわかってしまうということ(火暴) いやもちろんミスリーディングの努力はしてるんだけど、その対象者というのが、1人は愚か者で、もう1人には動機が無いと来てる。もうちょっと脚本、考えたほうがいいんじゃねえか? ● ヒロインの女刑事 アシュレイ・ジャッドは(男がそうするように)毎晩 酒を飲んでは普通にバーで男を拾ってゆきずりのセックスをする。それが原因で「酔いつぶれて記憶がない晩に限って、自分が寝た男が殺される」という窮地に追い込まれる。作者がそれを倫理的な罰として描いてないのはとてもいいと思うのだが、例によって演出が丁寧なので、ヒロインが前後不覚になる前にかならず「自宅でワインを飲む」描写を入れちゃうんですね。アンタいーかげん そのワインが怪しいって気付けって話だが、てゆーか「ひと晩ぐらい酒抜けよ!」って話しなんだが、まあ、演出が丁寧すぎるのも良し悪しですな。

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デビルマン(ギレルモ・デル・トロ)

永井豪がアメリカのダークホース・コミックスに別名義で発表した「デビルマン」のアナザー・バージョンをハリウッドが実写映画化した。日本映画界は何をしてるのだ!と言いたいところだが、変なやつらの手にかかって永井豪の原作を無茶苦茶にされるよりは、メキシコの漫画オタク監督ギレルモ・デル・トロによって愛情こめて作られたことを喜ぼうではないか。 ● 今回のデビルマンは(全身真っ青だったアニメ版に対抗してか)全身真っ赤。地獄出身だけあって地獄の劫火にも耐えられる耐火仕様という設定である。ガキの頃にうっかり地獄から迷い出たところを、髪の毛がぜんぶ後ろに向かって生えている石森章太郎ヘアギルモア博士(演:ジョン・ハート)に拾われて愛情こめて育てられた。ギルモア博士は かつてエレファント・マンだったこともあって異形の者の心がわかるのだ。現在では博士が設立した超常現象調査&防衛局(Bureau of Paranormal Research and Defence)の「51課」で魔物ハンターとして(人知れず)活躍しているデビルマン=不動明だったが、人間社会ではしょせん鬼ッ子として疎まれる定め。そんなかれの防衛本能が、生来のヤンチャでガキっぽい性格の上に「汚れた街を往く皮肉屋のマイク・ハマー」というヨロイを着せていた。 ● 父とも慕うギルモア博士のほかに、明がただひとり愛する相手──それが牧村美樹(演:セルマ・ブレア)だ。牧村美樹──呪われた少女。ファイアスターター(念動発火能力者)である彼女は幼いころに、やはり超能力者だった両親を殺され、その驚くべき能力を「兵器」として利用しようとする政府の放った追っ手=ジョージ・C・スコットからも逃れて、やっとのことでローリングストーン誌に逃げこみ政府の陰謀を暴露したのだったが、それがかえって世間の好奇な目を彼女自身に集める結果となり、マスコミに寄ってたかって見世物にされた牧村美樹にとって、唯一の生きる道がギルモア博士のチームに加わることだったのだ。 ● ──と、ついつい勝手に設定を補足したくなってしまうほど各キャラのキャラ立ちが素晴らしい。なかでもデビルマン=不動明を演じたロン・パールマン! まさに生涯の当たり役に巡りあったと言えよう。おれは「ネメシス S.T.X」では迂闊にも最後まで出てることに気付かなかったんだが、今回は目ん玉以外すべて特殊メイクで覆われていてもロン・パールマンそのもの。てゆーか、リック・ベイカーのシノベーション・スタジオで4時間がかりで特殊メイクを施す……とパンフには書いてあるけど、嘘だと思うね。やっぱ、このCG全盛時代に素顔に赤いドーラン塗っただけとは書けないもんな:) てゆーか何より、愚かなスタジオの重役が深い考えもなしに「名前で客の呼べるスターを」とか「若い女性に人気のアイドルを」などと主張したであろう中で、最後まで この武骨で異形な脇役俳優にコダわったギレルモ・デル・トロには心底、敬意を表するものである。 ● この世界では、いわゆるMIBとデビルマンの活躍が都市伝説として語られていて、それを題材としたコミックスまで発行されていて、FBIの高官が「ラリー・キング LIVE」に出演して存在を否定したりしてる。ロケ地が(「ブレイド2」に引き続き)どっからどー見てもプラハの街並みなのに平然と「舞台はNY」だったり、あるいは敵がナチス・ドイツ=トゥーレ協会の残党だったり(MIB本部には、ヒトラーから奪ったと思しきロンギヌスの槍が展示されてたりする)、しまいにゃ触手がのたくる発音できない名前のものが召喚されてしまったり……と、嘘のつき方の匙加減が絶妙なのだ。いよいよ飛鳥了が登場するというパート2が楽しみだ。 ● ただ──途中まではほぼ完璧なのだが──肝心のクライマックスで「ヒーローは苦痛と引き換えに勝利を得る」という大原則が守られていなかったり、たしかに映画の出来としては「スパイダーマン2」のほうが上だろうし、誰にでもお勧めできる「スパイダーマン2」と違って、本作を120%楽しむには多少の素養が必要だろう。だが漫画映画の醍醐味を満喫されてくれるのは文句なくこっちだ。本稿に登場した専門用語にひとつでも反応した人には絶対のお勧め。あとエンパイア・ピクチャーズが好きだったファンタ系の皆さんにも是非。本作にはブライアン・ヤズナは絡んでないけど、エンパイアの残党が流れたスペイン映画界のSFX工房も参加している。 ● なお、日本ではアメリカ公開版より10分長い〈ディレクターズ・カット版〉での上映。これ、アメリカではまだこれから10月19日にDVD発売になるバージョンで、フィルム上映されるのは日本だけだそうな。


デビルマン(那須博之)

はじめに断っておくが、おれは映画を「貶すために観る」ことはしない。観に行ったら絶対ムカつくと判りきってる映画は初手(はな)から観に行かない。だって時間のムダだもの。おれが「シベ超」を1本も観てないのはそういう理由だし、一部で話題沸騰の「DEEP LOVE アユの物語」を観に行かなかったのもそういうことだ。だから関東地方を颱風が直撃するなかを公開初日の映画館に駆けつけたのは、おれはほんとうに永井豪の「デビルマン」の実写映画版を観たかったからなのだし、世にこれだけ悪評が溢れていても「セーラー服百合族」「美少女プロレス 失神10秒前」「ビー・バップ・ハイスクール」シリーズと長らく楽しませてくれた那須博之&那須真知子(脚本)に対する一縷の信頼がまだおれの中に残っていたからだ。だからこそ言わせてもらうが──、ザケんなよ!>東映&那須夫婦 こいつらが赦しがたいのは最高の原作から最低の映画を拵えたことにあるのではなく、有り得たかもしれない他のクリエイターによる実写版「デビルマン」の可能性を(少なくとも日本映画としては永遠に)我々から奪ったことにある。我々は最高の原作から生まれた(たとえ最高とまでは行かずとも)それなりに意義のあったやもしれぬ幻の映画の代わりにこんなものを観せられているのだということを忘れてはなるまい。これだったら「仮面ライダー」の田崎竜太にまかせたほうが(着ぐるみSFアクションとして)よほどマトモなものを作ったに違いないのだ。てゆーか、こーなったらハリウッドに売れ!>豪ちゃん。日本映画はあきらめた。それこそギレルモ・デル・トロに映画化してもらえ。香港だっていいや。 ● 永井豪の他の原作ならともかく「デビルマン」(と「バイオレンス・ジャック」)に挑むのならば、ただ「ベストを尽くす」だけでは充分とは言えないのだが、ベストはおろか努力した痕跡すら認められぬというのはどういうことだ? そもそもこれは「デビルマン」の物語ではない。原作から那須真知子が抽出したのは「魔女狩り社会のおぞましさと家族愛/夫婦愛」という陳腐なサヨク的モチーフであって、物語の中心に不動明=デビルマンの苦悩が存在しないのだ。言うまでもないが永井豪の「デビルマン」はそんな小さな物語ではない。魔女狩りの話がやりたいんならテメーたちのオリジナル企画でやってくれ。思い上がるにもほどがある。あームカつく。本年度ワーストワン……いや、ここ10年のワーストワン確定。もうほんとに死ね>東映&那須夫婦&すべての「デビルマン」関係者。 ● 以下、東映の商売を妨害することを目的として、いかに「デビルマン」が酷いかを別ファイルにて詳説しておく。