m@stervision tokyo fanta + tokyo international film festival 2004

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



tokyo fanta

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THX-1138[2004年版](ジョージ・ルーカス)

いやDVDも買ったんだけど、ミラノ座の大スクリーンで しかも35mmフィルムで観られるまたとない機会なので、DVDを未開封のままにしてチケット買っといたのに・・・うー。仕事 抜けられなかったー(泣) [TokyoFanta]

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  鉄人28号(冨樫森)

視覚効果:松本肇 脚本:斉藤ひろし&山田耕大

というわけで20年目を迎えた東京国際ファンタスティック映画祭。今年はとうとう1日だけの参加となってしまった。まずは、まだマスコミ試写も行われていないという正真正銘の初御披露目となった「鉄人28号」。来春、シネマミラノでの公開が予定されているが、鉄人の雄姿はやっぱミラノ座の大スクリーンで観るべきかと思って。なお、東京ファンタ事務局は「インターナショナル・ヴァージョン」であると主張してるけど、これから国内公開に向けて再編集みたいなことは(舞台挨拶で)監督も視覚効果監督もひとことも言ってなかったので(海外の映画祭用に英語字幕が入ってるというだけで)これがこのまま公開バージョンなのだと思う。 ● 漫画の実写映画化ブームの先陣を切って製作開始された「鉄人28号」だが、結局、公開は最後発となった。鉄人と敵ロボットのブラック・オックスをフルCGで描くということで丸1年かけてポストプロダクションをやってたらしい。企画・製作は電通。視覚効果は「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総進撃」「ガメラ3」「ゼイラム」の松本肇。脚本は「ドラゴンヘッド」「黄泉がえり」「RED SHADOW 赤影」「秘密」の斉藤ひろしと「ごめん」「クロスファイア」「コキーユ」の山田耕大。これで監督が金子修介だったなら王道の巨大ロボット(+美少女)映画になったと思うのだが、電通が「ごめん」の冨樫森に依頼したということは、そんな「オタクにアピールする映画」じゃなくて「金田正太郎 少年を主人公としたファミリー・エンタテインメント」を意図したということであり、たしかにその意図は達成されている。 ● 冨樫森と脚本家チームは、この21世紀の現代に「巨大ロボットが出現して、しかもそれを操るのが半ズボンの小学生である」という物語の中心にある絵空事を観客に納得させるために、外堀のリアリティを丁寧に埋めていく。曰く、「鉄人」は太平洋戦争末期に兵器として正太郎の祖父が開発したもので、鉄人計画が正史から葬り去られた後も(正太郎の父である)金田博士が後をついで密かに研究開発を続けていたとか、正太郎は視覚記憶力が抜群だとか趣味がラジコン飛行機だとか乱歩の「怪人20面相」シリーズを愛読するような少年であるとか、母の薬師丸ひろ子と2人暮しの正太郎の家庭環境とか、幼い頃に亡くなった父への想いとか……。そうして「いささか準備に時間をかけ過ぎじゃないの?」と観客がしびれを切らし始めたところで、ドーンっ!!とブラック・オックスが登場し、一気にファンタスティックな世界へとなだれ込む仕掛け。平成「ガメラ」シリーズより特別出演の某俳優が腰をヌカすシーンから始まる、この一連の「ブラック・オックス大暴れ」のシークエンスは素晴らしい仕上がり。てゆーか、はっきり言うと全篇中で活劇的興奮を味わえるのはここだけなのだ。 ● いや、この後も「少年ドラマ」としては、一度は挫けた正太郎 少年が勇気をふりしぼって再び恐怖に立ち向かう過程、なぜこの小学生が鉄人を操縦しなければいけないのか、といったことはきちんと描かれている。だが「巨大ロボット活劇」としての興奮や、特撮映画ファンがシビれるような「画」は最後まで得られないのだ。3D-CGで描かれるロボット・バトルの迫力は、エンドロールに使われている原作漫画の1コマの、横山光輝がペンで描いたシンプルな描線の躍動感に負けている。でまた、現在のCG技術からしたら意図的にそうしてるとしか判断しようがないのだが、なぜか本作での鉄人28号/ブラック・オックスのCGは「トイ・ストーリー」みたいなのっぺりつるりんとしたCGキャラなのだ。つまり繋ぎ目や凹凸のまったくない鏡面からなる造形物で、そんなものが現実の物理法則を尊重した動作とスピードでのったりのったりド突き合いをしても面白くもなんともない。CG然とした絵でいくなら動きもアニメ的な(火器も使用した)派手でスピードのあるものにすべきだし、あくまでリアリティ重視ならハリウッド映画がアポロ13号やスペースシャトルを描くようなリアリティで──それこそ熟練の職人が鋳造したことが感じられるように──鉄人28号を描くべきではないのか? 本作に対して「少年ドラマ」としては見応えがあるという人も大勢いるだろうが、おれは「ロボット活劇」の興奮が得られない「鉄人28号」なんて欠陥品だと思うので星2つ。あと「鉄人28号」といえば「リモコンを敵に奪われたら悪魔の兵器と化すという二面性」をドラマのオリジナリティとして記憶される方も沢山おられようが、まあこれは「誕生篇」でそこまで描くのは無理だろうから続篇に期待しよう。 ● 主人公の正太郎 少年には「ラスト・サムライ」でトム・クルーズと共演した池松壮亮クン。 かれを導く金田家の執事に中村嘉葎雄。 2人を助ける天才少女科学者に蒼井優。 漫画を模した髪型&コスプレで登場する警察署長に柄本明。 回想場面に登場する優しい父、金田博士=阿部寛と、世界征服を企む悪の天才、ビル・ゲイツ=香川照之は役が逆だよな。てゆーか、子ども向けの活劇映画で悪役に「重い動機づけ」とか邪魔なだけなので、悪の天才科学者はミッチーだろ。てゆーか、今年から「漫画の実写映画化にはミッチーを起用しなければならない」という法律が施行されたのを冨樫森は知らんのか? [TokyoFanta]

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S A W ソウ(ジェームズ・ワン)

原案:ジェームズ・ワン&リー・ワネル 脚本・主演:リー・ワネル

撮影18日間。27歳の若者2人が作った低予算スリラーの傑作。低予算とは言いつつ、ケアリー・エルウィス、ダニー・グローバー、モニカ・ポッターに、最近、活躍が目立つ東洋系俳優 ケン・リョンとキャストはなかなか豪華。内容についてはアスミック・エースがチラシでCUBE」×「セブン」と宣伝してるが、まさに仰有るとおり。「CUBE」のように残酷なサバイバル・ゲームを「堕落した生き方をしてる者への道徳的指導」として仕掛けていくサディスティックなシリアル・キラーの話。その最新の被害者=ゲームの渦中にある2人を現在形で描き、そこにいたる過去の事件が回想で挟み込まれる構成。途中でストーリーが〈現場〉を離れたまま進行することになるので、そこで緊張が途切れるのが欠点といえば欠点だが、終盤の畳み込みが素晴らしく作者に翻弄される快感をたっぷりと味わえる。ま、あまり詳しく紹介してしまっては皆さんの興を削ぐことになるので、あとはチラシからコピーを転載しておこう>目覚めたら老朽化したバスルーム。足首には鋼鉄の鎖。対角線上にもう一人の男。間には自殺死体……。このノコギリは何に使うのか ● アメリカでは今年1月のサンダンス映画祭で初披露されたのだが、10月1日にいざ劇場公開しようと思ったら(アメリカの)映倫にNC-17(成人指定)と言われて、仕方なく公開を延期してゴアシーンを数カット減らした「R指定版」にして10月29日に公開予定。いや、話題づくりの宣伝ネタではなく、本来なら来日するはずだった監督が来日中止になったり、舞台挨拶をした共同製作のリー・ワネルもオールナイトの途中でアメリカの配給会社に呼ばれてホテルに戻ったりしてたから、本当にバタバタしてるみたいだ。アメリカとほぼ同時に10月30日から公開される日本では、どちらのバージョンが出るのか(現時点では)未定のようだが、当夜、配布してたチラシに「R-15」って入ってるってことは、すでに日本の映倫が審査してノーカットのままで「高校生以上なら観てもOK」と判断したってことなんだから、そのまんま公開すりゃいいじゃんか>アスミック・エース。 [TokyoFanta]

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スピーシーズ3(ブラッド・ターナー)[ビデオ上映]

「スピーシーズ」(1995)と「スピーシーズ2」(1998)は、エイリアンのDNAから培養されたシル/イヴ役のナスターシャ・ヘンストリッジ、ハンターのマイケル・マドセン、女科学者のマージ・ヘルゲンバーガーと主要出演者が続けて出演した本格的な正・続篇だったわけだが、6年ぶりにケーブルTV/DVD用映画として製作された本作もまた、出演者こそ(ナスターシャ・ヘンストリッジが1・2の有りものフッテージで出演している以外は)無名キャストに総入れ替えとなったが、2のラストシーンから始まる正統的な続篇である。つまりイヴの娘が本作のヒロインを務める。そして前作でエイリアンに寄生された宇宙飛行士があたりかまわず人間の女に種付けして生まれたハーフ・ブリード(エイリアンDNAの薄い混血児)たちが、ウィルスや花粉症に弱い免疫不全の「滅びゆく種族」として描かれ、種の絶滅から逃れるために、より完全なDNAを持つ「イヴの娘」に襲いかかる…という話。ヴァンパイアもの+「ターミネーター」ですな。しかもイヴの娘と(彼女を育ててるキチガイ大学教授の助手をしてる)大学生との間にほのかな恋心が芽生えたりして……って、恋心はマズいだろ恋心は! 「スピーシーズ」のエイリアンって(「エイリアン」シリーズの)エイリアンと同じくらい純粋な生存本能に支配された感情を持たない生物じゃなかったのかよ。キャラ変わってるじゃんか。まあ、B級のビデオ映画だし「乳と血とSFX」という「スピーシーズ」の本質は守られているので固いことは言わんが。 ● イヴの娘に扮して美しいバストラインをふんだんに披露するのはサニー・マブレイ。SFXは今回、スティーブ・ジョンソンではないのだが、1980年代的な血と特殊メイクによるゴアシーンはたっぷりと堪能できる。しかも予算がなくてCGが使えなかったせいで気ぐるみエイリアンまで登場するので(出来は決して良くないが)B級SFX映画ファンなら愉しめるだろう。監督はSF系のテレビドラマを多数、手掛けてきた新人ブラッド・ターナー。なお本作はアメリカでは11月13日にケーブルTVのSFチャンネルでプレミア放映、その後、12月7日にDVD発売の予定で、東京ファンタでのビデオ上映がワールド・プレミアだった由。それにしちゃあ画質がボケボケだったなあ。まさかVHSで流してるんじゃねえだろうなあ? [TokyoFanta]

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ハウス・オブ・ザ・デッド(ウーヴェ・ボル)

退屈。カプコンの「バイオハザード」が映画化されてヒットしたので、柳の下の泥鰌を狙って作られたセガ版のゾンビ・シューティング・ゲームの映画化。おれはゲームを(ゲーセンでも自宅でも)まったくやらないので知らなかったのだが、あれなんですな。「ゾンビ・シューティング・ゲーム」ってのは、生身の人間を撃ち殺すシューティング・ゲームが倫理的な批判を浴びたことから生まれた代替品なんですな。つまり「怪奇」とか「ホラー」は二の次であって、次から次へとゾンビを撃ち殺す快感が第一目的なんですな。いや、なんでそんなことを思ったかというと、本作のクライマックスは、重武装した数人の主人公たちが、襲い来るゾンビたちを一斉に殺しまくる殺戮パーティーの場面に設定されていて、そこにご親切にもゲーム画面がオーヴァーラップされるのだ。つまり本作はゲーム同様、「殺される恐怖」ではなくて「殺す快感」を描こうとした映画なのだ。だけど自分でジョイスティックを握らず、狙いも定めることもなく、た〜だ撃ち殺されるゾンビを見てたって面白くないんじゃ?>ゲーム・ファンの方。おれはゲーム・ファンですらないので、ひたすら退屈だったよ。 ● 無人島を借り切って行われるオールナイト・パーティ。船に乗り遅れた若者5人は「あの島は不吉じゃ」と嫌がる地元の漁船に無理に交渉して島へと送ってもらうが、パーティー会場は何者かに荒らされ、人っ子一人居なかった。……ってそれじゃ「ハウス・オブ・ザ・デッド」じゃなくて「アイランド・オブ・ザ・デッド」じゃんかと思ってたら、あとでチラシを見たら、これゲームの前日譚なんですな。この映画で生き残った者がゲームに登場するらしい。 ● カナダ=アメリカ=ドイツ合作。キャストは全員無名だが、漁船の船長になんと「U・ボート」のコスプレでユルゲン・プロホノフ、気色悪い助手のレインフェルド/イゴール役でクリント・ハワードが出演している。 [TokyoFanta]


tokyo international film festival

いつのまにか劇場名を「ヴァージン東宝シネマズ六本木ヒルズ」に変更してた東宝の圧力か、はたまた石原都知事とも親しそうな森ビルの政治力のたまものか、東宝=森ビル連合軍の六本木ヒルズと、東急の牙城たる渋谷文化村の二元開催となった今年の映画祭。ひとつのシネコン内で開催されてるので、おれみたいなハシゴ客には便利なんだけど、欠点は六本木だと男1人で気軽に飯食ったり、次の映画までの中途半端な空き時間を潰せるような喫茶店がない(てゆーか、おれが知らない)ことなんだよな。 ● まあ、客のおれらはそんな暢気なことを言ってれば済むわけなんだが、シネコンで映画祭をやるのって映写室は地獄じゃねえかな。六本木ヒルズの映写室は、たぶん上の階と下の階に1つずつ(下の階は2つに別れてるかも) 文化村のオーチャードホールやシアターコクーンは(映写機はたぶん常設じゃないから)左右1つずつのスタンダードな映写機に1リールずつ映写技師が手でかけ換えてるんだと思うけど、六本木は確実に自動映写機が導入されてるはずだから、つまり1本の映画──2時間の映画なら6リールを1つに繋いで、バウムクーヘンの化け物みたいな状態にして、それを巨大なお皿に横に寝かせて自動映写するわけだ。てゆーか、そうしないと映写できない。いや、普段は楽なんだよ。そのスクリーンでかける映画は1週間ずっと同じなんだから。開映時間にボタンを押してフォーカスを確認すれば仕事は終わり。だけど映画祭の間は決して広くはないだろう映写室の中で100本近くのバウムクーヘンの化け物を日替わり時間替わりで出たり入ったり繋いだりバラしたりしなきゃならないんだぜ。しかも作品によっては3つの異なったスクリーンでスケジュールが組まれてるので、バウムクーヘンのまんま、えっちらおっちら別の階の映写室に運ばなきゃならないし。これでスクリーンの掛け間違えが1回もなく終えられたら奇蹟だと思うね。映写技師の皆さんは本当にお疲れさまでした。 ● しかし、ほんとはアレだよな。最後なんだから日比谷地区でやれば良かったのに>東宝。スカラ座/日比谷映画/みゆき座のメイン3館の他にも、ハコのデカいよみうりホールがあるし、オープニング&クロージング会場には(東京都の持ち物である)国際フォーラムを使えばいいんだから十分イケるでしょうに。 ● では早速、各作品のレビュウを。まずは香港映画から──、

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ブレイキング・ニュース 大事件(ジョニー・トー)

ジョニー・トー待望の「ザ・ミッション 非常の掟」「PTU」路線の単独監督作。もはやジョニー・トーはクライム・サスペンスの分野では他の追随を許さぬ域に達してると思う。「ああ、あの場面の演出が良かった」とか「あのガン・アクションは鳥肌たったな」とか、そういったパーツのレベルの話ではないのだ。最初の1コマから画面が暗転する最後の1コマまで、映画全体にわたって演出にはまったく揺るぎなく、一瞬たりともサスペンスから観客の注意を逸らすことなく、それでいてユーモアがあり、生きた人間が描かれている。これ以上、なにも言うことはない。ただ椅子に座って名匠の水際立った手綱さばきに酔うだけだ。タキ・コーポレーションが契約済なので、たぶん公開されるはず。全映画ファン必見。 ● ……とはいえ、これで終わってしまっては不親切なので以下、蛇足ながら解説すると、まず開巻の7分にわたるワンシーン・ワンカットに息を呑む(撮影:チェン・チョウキン 鄭兆強) いやいや相米慎二がやってたようなワンシーン・ワンカットとはワケが違う。なにしろこのシーンには十数人のキャストとそれ以上のエキストラが登場し、数百発の弾丸が飛び交い、何台もの車がオシャカになる。仕掛けた数百発の弾着がすべて一発OKにならなければ、へたな映画1本分の製作費がふっ飛んでしまうような大仕掛けの場面なのだ(結局、3日間のリハーサルののちにみごと本番一発OKだったそうだが) ● 強烈なツカミのあとは、銃撃戦を生き延びた強盗犯が人質をとって籠城する高層団地での緊迫した脱出/追跡劇となる。じつは冒頭の銃撃戦で、たまたま交通事故の取材で現場にいたTVクルーが「犯人に両手を挙げて命乞いをする警官」の姿をカメラに収めており、これがテレビ放映されて大問題。警視総監が議会喚問される事態となり、香港警察の威信は地に落ちる。史上最年少で女性警視に抜擢されたキャリア組のケリー・チャンは、ダウンしたイメージを回復するためには よりインパクトのある映像をメディアに流すしかないと、現場の警官たちにCCDカメラを装備して犯人逮捕の一部始終を撮影することを主張する。サイモン・ヤム副総監は彼女に指揮権を委ねると、こう言いはなつ「香港600万人市民に最高のショーを提供するのだ」 ● さて、並みの監督ならば(「踊る大捜査線2」における真矢みきのように)ケリー・チャンを「愚かで独りよがりの指揮官」として設定し、お定まりの「メディア批判」に繋げるところだが、ジョニー・トーはそんなことはしない。べつにメディア批判がやりたくてこの映画を作ってるわけじゃないから。ジョニー・トーにとって「事件現場の生中継」というアイディアは最高のサスペンスを盛り上げるための道具立てのひとつなのだ。「星願 あなたにもう一度」の香港の岸谷五朗ことリッチー・レン(任賢斉)が従来の善人イメージをひっくり返して演ずる「冷酷な犯人側リーダー」とケリー・チャンは電話の代わりにウィンドウズ・メディア・プレーヤーを通して腹の探りあいをする。ここでリッチーがケリーの顔を見ているということがちゃんと終盤の伏線となる。リッチー・レンが語る「そもそもシナリオは撮影に入る時点でもすべて出来ていたわけではなくて、毎日その日に撮る内容を教えてもらう方式でした。シナリオは監督の頭の中にだけ存在していたんです。あとは監督と俳優の直感で作っていきました」(「アジアの風」パンフより)というような方法論でこのような緻密な映画が作れてしまうのは、まさにマジックとしか言いようがない(脚本のクレジットには、チャン・ヒンカイ 陳慶嘉&イップ・ティンシン 葉天成の名と並んで「銀河創作組」として表記されている) ● 現場のイニシアチブを奪っていった組織犯罪課(OCTB/O記 オーケイ)のケリー・チャン警視に逆らって、最後まで団地の中に残って犯人と対峙する捜査一課(CID/重案組)の刑事課長に(「決戦・紫禁城」の泥鰌ヒゲの探偵とはとても同一俳優とは思えん)精悍な顔つきのニック・チョン(張家輝) ジョニー・トー作品なのでもちろんでぶのラム・シューも重要な役で出演している。 [Winds of Asia]

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大丈夫(パン・ホーチョン)

「アジアの風」内でミニ特集が組まれた香港映画界 期待の新星=パン・ホーチョン(彭浩翔)監督の長篇 第2作。これによって今年の香港アカデミー賞で新人監督賞に輝いた。タイトルの「大丈夫」は「無問題」の意味じゃなくて、日本語でいう「偉丈夫」に近い。つまり字面のとおりのグレート&ストロング・ガイってこと(昔、チョウ・ユンファにも「大丈夫日記」ってのがありましたな) ● 今日は待ちに待った、女房どもが朝からバンコクに日帰りのお参り旅行……つまりお伊勢参りに出かける日。深夜の0時半に香港に帰ってくるまで14時間のフリータイムだ。これを看過する手はない。夜遊び女買いに命を賭ける我らがグレート&ストロング・ガイ4人組は、綿密な下準備のもと敢然と酒池肉林パラダイス計画を発動させる──!! ● てなストーリーを聞くと「なんだいつもの女の尻を追っかけるスケベ男どものコメディか」と思われるだろうが──昔、チョウ・ユンファにも「男たちのバッカ野郎(精装追女仔)」というのが……もういいですかそうですか──本作のユニークなところは、ベタな浮気コメディのストーリーを「インファナル・アフェア」に代表されるクライム・サスペンスのヴィジュアル・スタイルで演出した点にある。すなわち亭主4人は「取締りの目を逃がれて犯罪行為を目論む黒社会の構成員」であり、女房4人は「取引現場を押さえて現行犯逮捕を狙う特捜刑事」なのだ。犯罪者(亭主)と警察(女房)の一進一退の虚々実々の駆け引き。息づまる情報戦。途中で女房どもの尾行に気付いた亭主たちは「だれが敵方に情報を漏らしたのか。内通者はどいつだ!?」と互いに疑心暗鬼になったり……。 ● 全身黒づくめの服装で亭主連を演じるのが「インファナル・アフェア」のエリック・ツァン(「男たちのバッカ野郎」の元祖スケベ男の1人でもある)に、同じく「インファナル・アフェア」の弟分チャップマン・トー(御丁寧にもトニー・レオンのコスプレをして出てくる)、そして「欲望の街(古惑仔)」シリーズのチャン・シウチョン(陳小春)という協力な面子。もう1人、エリックの甥っ子で、付き合ってるカノジョにヤラせてもらえなくて いまだ童貞の大学生に新人の賈宋超(英語名がスピリット・ブルー Spirit Blueってナメてんのか!) かつて突然のキャバレー査察に踏み込んできた女房たちに対して、自らの身を挺して仲間を助け、以来、鬼女房(サンドラ・ン)に自宅軟禁の憂き目にあっている服役囚にレオン・カーフェイ。かつての兄弟分を偲びつつ、エリック・ツァンが述べる計画完遂の悲壮な決意>「家でおとなしくバナナを食ってるか……外で食わせるか、だ!」 ● 男どもを追いつめる女房たち。エリック・ツァンの賢妻にベテラン・コメディエンヌのテレサ・モウ(毛舜[竹/均]) チャップマン・トーの猛妻に、まんま大阪のヤンキー女房そのものの人気歌手 キャンディ・ロー(盧巧音) トーの浮気相手役でレロレロのディープ・キッスを披露するのがB級片によく出ているテレサ・マク(麥家L) ● 才気煥発な脚本でハラハラ・ドキドキ・ゲラゲラさせて、最後は大人のオチでニヤリとさせる、真にウェルメイドな一作。パン・ホーチョンとパトリック・コン(葉急探**本当は王偏&エリカ・リー(李敏)の共同脚本。 撮影:ケニー・ラム(林炳華) エリック・ツァンのプロデュース。製作総指揮のナット・チャン(陳百祥)もゲスト出演している。 [Winds of Asia]

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ビヨンド・アワ・ケン(パン・ホーチョン)

パン・ホーチョン(彭浩翔)の、9月中旬に撮入して10月中旬にクランクアップしたばかりという出来たてホヤホヤの最新作。さすがに映画祭での上映もスケジュール終盤の10月30日の夜に2回続けて設定されていたのだが、いやあ、間に合ったのが奇蹟だな。いや、クランクアップの後、わずか2週間で編集・音付けを終えて完成させたのが……じゃなくて、映画祭の上映にちゃんとした日本語字幕(※)が付いていたのが、だ。いったい誰がいつ訳したんだ? 翻訳してスライド字幕のタイミングをフィルムにシンクロさせるのだって2日や3日じゃ出来ないでしょ!? ● さて内容。「BEYOND OUR KEN」なんてワケわかんないタイトルが付いているが、意訳するなら「あたしたちの健についての知らなかったこと」。漢字タイトルは「公主復仇記」。こちらは「姫君さまの仇討ち大作戦」って感じか。もう大体おわかりですね。元カノ今カノが協力して不誠実なカレをぎゃふんと言わせる(死語)話である。カラオケ・クラブでウェイトレスをしているヒロインは、消防士の健ちゃんとラブラブで幸せな毎日。ところが、突然「健の元カノ」を名乗る女から呼び出されて、健に2人で撮ったニャンニャン写真(死語)をネットの掲示板にアップされて職場を馘首になった。写真を取り返すのを手伝って欲しいと頼まれる。始めは典型的な信用できない語り手である その女の意図を疑っていたヒロインだったが、女の話を聞くうちに今まで知らなかった健のダークサイドが見えてきて……。 ● 「元カノ」に最強アイドル「ツインズ」の大人っぽいほう=ジリアン・チョン(鍾欣桐)、「今カノ」に中国人女優のタオ・ホン(陶紅)、そしてプレイボーイの「カレ」にダニエル・ウー(呉彦祖)──これだけ聞くと「ああ、よくあるベタな香港ラブコメね」と思われるだろうが、そこはわざわざ特集が組まれるほどのパン・ホーチョン監督、「恋のライバルから親友へと関係が変化する女のコ2人のバディ・ムービー」として、一旦は気持ちよく物語を収束させた後で「シックス・センス」もビックリの一筋縄ではいかないビターな終幕を用意しているのだ。脚本はパン・ホーチョンとウォン・ウィンシー(黄詠詩 ♀)の共作。撮影:チャーリー・ラム(林志堅) ● ジリアンは現役アイドルとしてはかなりリアルな「男に棄てられてニャンニャン写真をアップされた女」という役柄に初挑戦。高校教師という設定なので、劇中の半分ぐらいでメガネをかけていて、それが桜井幸子に激似。 一方、タオ・ホンはショートカットにして「ションヤンの酒家」の女優とは同一人物とは思えぬほど若々しく、とても良いのだが、ほんとうはこちらの役を「ツインズ」の相方のシャーリーン・チョイ(蔡卓妍)に演らせてたら、現実の2人の仲の良さ/悪さを想像(げすのかんぐり)させてもっと面白かったのにね。 ※「ちゃんとした」日本語字幕ってなによ?と思った人はユニバーサルの1500円 DVDを観てみるがよい。「ちゃんとしてない」日本語字幕がどういうものか解かります。 [Winds of Asia]

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胡蝶(ヤンヤン・マク)

製作・脚本:ヤンヤン・マク

まあ、もともと香港映画(≒旧・上海映画?)には本邦の宝塚歌劇と同じく「黄梅調」歌劇という女優が男役を演じる伝統があり、それが1980年代の武侠片やツイ・ハークの「北京オペラ・ブルース」でブリジット・リンが凛々しい男役を演じることにも繋がっているわけで、あるいはまたショウ・ブラザース版「修羅雪姫」ともいえるチョウ・ヤン(楚原)の「エロティック・ハウス 愛奴(アイヌー)」(1972)といった作品もあるにはあったが、本格的なレズビアン映画となると、おそらく香港映画史上初であろう、新進 女性監督 ヤンヤン・マク(麥婉欣)の脚本・演出によるラブ・ストーリー。香港版ディレクターズ・カンパニーこと星皓電影(FILMKO PICTURES)の製作。 ● 原題は「蝶」と虫偏が付くけど意味は同じ、ちょうちょのことである。蝶(ディップ)という名を持つ本作のヒロインは30歳。女子高で古典文学の教師をしており、建築設計士の優しい夫とまだ生まれたばかりの愛娘に囲まれて恵まれた暮らしをしている。だが、ある日、スーパーの売り場に座り込んで商品のビスケットを開封して齧って店員に咎められている娘を見かけ、その捨てられた仔猫のような目に見つめられて、ついその娘を救ってしまう。2人は待ち合わせてお茶を飲む仲になり、初めて彼女の部屋に行き、ふいに後ろから抱きしめられたとき、ヒロインは はっきりと自覚する──わたしの生活に欠けていたものはこれだったのだ、と。彼女の脳裏に、高校から大学時代にかけて3年間、半同棲していた初恋のカノジョの記憶が蘇える……。 ● こうして30歳のヒロインの「愛の目覚め」と結婚生活の崩壊と、学生時代のヒロインのレズ初恋が並列して語られる。画面の隅々まで繊細な美意識に貫かれた香港&マカオ・ロケによるガーリー・ムービーで、学生時代の想い出は しばしば粒子の粗い8ミリ画像で描かれ、BGMにはカヒミ・カリィみたいな歌が流れる。バストトップこそ写らないもののレズとヘテロのラブ・シーン多数。日本公開予定だそうなので荒木太郎と吉行由実は必見のこと。 ● ヒロインの蝶@30歳を演じるのはジョシー・ホー(何超儀) ここで「え゛!?」と思ったあなたは事情通。そう、本作は中国に返還されるまでマカオのカジノ利権を一手に牛耳っていたカジノ王=スタンレー・ホーの実娘にレズビアンの役をやらせて、しかもマカオ・ロケまであるという命知らずな映画なのである。監督さん(♀)、ジョシーの親父さんに呼び出されて「うちの娘になんちゅことさらすんじゃこのボケェ!」とかド突かれたりしなかったんでしょうか!? やくざの大親分の娘だからってこともないだろうけど、もともとジョシー・ホーという人は倍賞美津子 系の男前な女優さんで、カナダの陸軍士官学校卒というだけあって、今まではアクション映画で「男前な役」を演じることが多かったのだが、本作では初めての女性的なヒロインに挑戦、夫と(女の)愛人の間で揺れ動くメロドラマをみごとに演じている。実際、撮影もいままででいちばん美しく撮られている(撮影:チャーリー・ラム 林志堅) ● ヒロインの夫にエリック・コット(葛民輝) 愛人に中国人歌手 ティエン・ユン(田原) 学生時代のヒロインにイザベル・チャン(陳逸寧) [Winds of Asia]

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愛・作戦(ソイ・チョン)

香港映画。こんなタイトルだからてっきりラブコメかと思ってたが、じつはクライム・サスペンスなのだった。「愛・作戦」というのは原題そのままなんだけど「ラブラブ大作戦」の〈作戦〉じゃなくて「ファイト・フォー・ラブ」みたいな意味なんですな。 ● 主人公はERの看護士。中国旅行中に意気投合したカノジョと同棲中だが、遠慮しい気ぃ遣いいな性格が災いして、直情的な香港女のカノジョとは互いにストレスが沸騰寸前。とうとう2人でヨーロッパ旅行に出掛けるという朝にクルマを盗まれたことがきっかけでケンカ別れをしてしまう。ぷんぷんして盗難届けを出しに行く途中で、盗まれたクルマを発見して大喜びで駆け寄る主人公だったが、じつはそのクルマを盗んだのは中国本土から来た麻薬取引の一味だった……。 ● 監督は「発光石頭」「恐怖熱線 之 大頭怪嬰」「カルマ2」「古宅心慌慌」と、これまでホラー系ひとすじのソイ・チョン(鄭保瑞) かれにとって不幸だったのは、この日の上映が「ブレイキング・ニュース 大事件」の次に組まれていたこと。しかも同じ人質サスペンス。そりゃジョニー・トー渾身の傑作のあとじゃ見劣りもするってもんだ。だからほんとはそれほど駄作ってわけでもないんだけど、「ブレイキング・ニュース 大事件」と続けて観ると、各種の要素がことごとく上手く機能していないような印象を受ける。 ● 一例を挙げると、主人公は旅行の前の晩にクルマのトランクにスーツケースを積み込んで「これでよし、と」という顔をして後部ハッチを閉める。だけどさあ。普通の人って前の晩にそんな人気(ひとけ)のない駐車場に荷物を置き去りにしたりするかあ? てゆーか、前の晩には荷造り終わってないだろフツー(おれだけ?) いや、まあ、それはおいといて、ここでの問題は、それまでの作者の主人公に対する処し方から「ああ、このクルマは盗まれちゃうんだな」と観客全員が察してしまうので、この描写が伏線になってないことだ。そして、その後に続く「主人公が眠りにつく」描写だの、翌朝の「歯、磨いたの?」だとか、2人で朝食代わりのカップヌードルの出来上がりを待ちながら(ダイニング・テーブルに向かい合わせに座って)3分間見つめあったりといった描写が、まだるっこしく感じられてしかたがない。だってクルマが盗まれてるのは(おれたち観客には)判ってるんだから、はやくそこの場面に行けよ!と思ってしまうのだ。 ● あるいは、犯人たちが主人公を連れまわすのは、一味に負傷者がいて主人公の看護士の技術が必要だからなのだが、主人公が拉致された現場に遭遇したカノジョが警察に通報に行っても、主人公の個人的な友人でもあり、看護士をしてることも当然知っている刑事は、愚かにも主人公を犯人の一味だと思ってカノジョを問い詰めたりするのだ。あのさあ。こういうのって登場人物が愚かなのは作者が愚かな所為だよね。 ● 主演はイーソン・チャン(陳奕迅)とニキ・チャウ(周麗淇) 英語タイトルは「LOVE, BATTLEFIELD[Winds of Asia]

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ライス・ラプソディー(ケネス・ビー)

2000年の東京フィルメックスで上映されたデジタル・ビデオ撮りの「スモール・ミラクル」(未見)で監督デビューした香港インディーズ派=ケネス・ビー(畢國智)の監督第2作にして初のフィルム作品。原題は「海南鶏飯(ハイナン・ジーファン)」。シンガポールで名物「蒸鶏チキンライス」のレストランを営む華僑未亡人シルビア・チャンの奮闘記。全篇シンガポール・ロケで、シルビアと「人気セクシー女優」役でゲスト出演のマギーQ以外はシンガポールの俳優を起用して撮影されているので、ほぼシンガポール映画と言ってもよいかも。 ● さて、ヒロインには女手ひとつで育て上げた3人の息子がいるのだが、あろうことか上の2人は揃ってゲイで、2人とも家を出てカレシと同棲中。孫を産む嫁をもらってくれそうなのは高校生の「末の息子」ただひとりだが、このコも自転車レースの練習に夢中で女の子には興味が無い様子。窮したシルビアは、彼女に惚れてる2軒先の食堂店主と謀ってフランスからの女子留学生をホームステイさせて、三男の性欲を刺激しようと目論む。そして作戦はみごとに成功したかに見えたのだが……。 ● つまり話としては「家族の反発と和解」をテーマとした古風な人情喜劇なのだが、そこに「ゲイ」テーマを持ち込んだところがオリジナル。長男がハンサムで長身の客室乗務員でフランス男と同棲中。次男は東南アジア顔で、次から次に男に捨てられるなよっとしたオカマチック・ゲイ。そして三男が真っ黒に日焼けしたスポーツマンの男子高校生。シルビアが息子たちと和解するきっかけが次男の誕生祝のゲイ・パーティー。もう100%確実に監督もゲイだろう。いや、まあ、いまどきゲイの監督なんて珍しくもないんだが、このケネス・ビーって、じつはかつてのショウ・ブラザース映画の大スター、リン・ポー(凌波 ♀)とチン・ハン(金漢 ♂)の間の子どもなのだ。特にリン・ポーは「西太后」のリー・ハンシャン(李翰祥)監督の大ヒット黄梅調 歌劇「梁山伯と祝英台」で、男装して男性主役を務めて香港・台湾で大ブームを巻き起こした人で、つまりこれって日本で言えば大地真央と松平健の息子がゲイだったみたいなことなのだ(って、例によって知ったかぶりしてるけど、おれもショウ・ブラザースのDVDリリースが始まるまではリン・ポーの名前すら知らなかったんだけどね) ちなみにお2人とも「シルビアに孫自慢をする近所の老夫婦」の役で特別出演している。 ● えーと、話を戻すと、ケネス・ビーは本作において伝統的な「笑って泣ける喜劇」を目指してるにもかかわらず、自分にそうした娯楽映画を作るだけの力量がまだまだ不足してることを自覚してないので「インディーズ風味の人情喜劇(の出来損ない)」という甚だチグハグなものが出来上がってしまった。一例をあげると、本作のクライマックスはテレビ局主催の料理コンテストに設定されていて、そこにヒロインと例の「2軒先の食堂店主」が出場することになってたんだけど、いざ始まってみたら出てきたのはケンカして家を出て行った三男坊。「お前がなぜここに?」「母さん、ぼくの作った料理を食べてよ」「(息子の料理を食べて泣き顔で)よく出来てるわ」……って、ちょと待てコラ、あんたの息子はそれまでずっと自転車レース一辺倒で、一度だって厨房に立ったりはしなかったじゃないか!? (ケツ)をそこに設定するんなら「三男は料理人志望で、だけど母親は息子の実力を認めてないので、決して名物料理の海南鶏飯を作らせない」という展開にしとかなきゃダメだろが。あと決定的にダメなのが、この映画を観終わっても(シンガポール人以外の)観客には海南鶏飯が「なんか蒸鶏のとなりにご飯が盛ってある料理」ていどの理解しか得られないこと。なんのために「海南鶏飯」ってタイトルを付けたんだよ!? クライマックスの料理コンテストで「美味しそうな海南鶏飯が出来るまで」の手順をじっくりとお客さんに見せて、美味しい料理が出来上がる様子と家族の再生が二重写しになんなきゃダメじゃんか。これ、きっとシルビア・チャンに自分で監督させたほうが、きっちり娯楽映画に仕上げたに違いない。ケネス・ビーはアン・リーの「恋人たちの食卓(飲食男女)」でも観て修行しなおしなさい。 ● なお、音楽を原田眞人 作品でおなじみの川崎真弘が担当している。 [Competition]

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独り、待っている(デイヤン・エン)

製作・脚本・編集:デイヤン・エン

まだ国内公開前で、この映画祭がワールドプレミアとなった中国映画の最新作。これ、タイトルがよくないよ。どうせまた暉峻創三のセレクションだから、このタイトルじゃ「北京に生きる現代女性の孤独感をひりつくような演出で炙り出した秀作」かなんかかと思うじゃないか(おれだけ?) 誰がこのタイトルからジョン・ヒューズ製作「恋しくて」の北京版であると想像できよう? もっと「恋のゲームは0勝3敗1引き分け」とか、内容の判りやすいタイトルを付けてくれないと(……ま、原題が「独自等待 WAITING ALONE」なんですけどね) ● 高校を中退して下北沢の骨董雑貨屋を元・同級生と共同経営してる主人公は、20代となった今でも学生時代の延長気分で、いつも元・同級生の親友3人と、デザインの専門学校に通う親友の妹の5人組でつるんでばかり。小説家志望なだけあって才気煥発で口は達者。独自の恋愛セオリーを持ち、恋のテクニシャンを自認するが、その理論が実証されたためしがない。そんなある日、かれは高校時代に作成した「理想のカノジョ」リストの要件をすべて満たすドリームガールに出会う。新進女優である彼女にひとめ惚れした主人公は舞い上がって、さっそく恋愛攻略大作戦を開始するのだが……。 ● もちろんこいつは恋愛セオリーについての気の利いたナレーションを喋りまくり、失敗しては観客にボヤき、しまいにゃ彼女のマンションの下でラジカセを鳴らして求愛したりするのだ。……ね? もう20年前のジョン・キューザックの顔がまざまざと浮かんでくるような話でしょ? 北京の若者のライフスタイルはもうほとんど東京と変わらず、ケータイは日本じゃ発売されてないエリクソンの最新モデル。デイヤン・エン(伍仕賢)は要所要所に(よく聞かないと北京語だということすら気付かないほどアメリカナイズされた)ロック&ポップ・チューンを流し、軽快なリズムで編集を施し、フレーミングで遊び、ゲーム画面を模したCG画面でギャグを取ることすらする。主人公は、いつまでも思わせぶりな彼女の気を惹くために、男同士のように仲の良い「親友の妹」を即席のカノジョに仕立てて ひと芝居打つのだが……。ラストは就職のため広東行きの汽車に乗る「親友の妹」を見送る北京駅のプラットホーム。エピローグではもちろん「その後のかれら」が寸描される。これは「中国映画」という但し書きの必要ない、真にグローバルなラブコメの傑作である。ジョン・ヒューズ主義者は必見。 ● 見終わって出来の良さに呆然と驚愕していたら、ティーチ・インに出て来たデイヤン・エン監督は、劇中にも出演していた中国系アメリカ人なのだった(あるいはアメリカ系中国人かも) 主役のジョン・キューザック/エリット・ストルツの役に「太陽の少年」で主役の少年を演じていたシア・ユイ(夏雨) ドリームガール=リー・トンプソンの役に、香港映画出演の続く売れっ子女優 リー・ピンピン(李冰冰) そして親友の妹=メアリー・スチュアート・マスターソンの役に、コン・ペイピ([尤/共][艸/倍][艸/必] <うわっ。1つもJISに無いよ。艸は「草冠」ね) 彼女はエンドロールで主題歌も歌っている。 [Winds of Asia]

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恋愛中のパオペイ(リー・シャオホン)

なんと中国版「アメリ」である。ポップでカラフルでちょっと歪んだヴィジュアル・センスはジャン=ピエール・ジュネそのもの。ポイントは主演が「ふたりの人魚」「ハリウッド・ホンコン」「小さな中国のお針子」やTV時代劇「射[周鳥]英雄傳」の中国4大若手女優のひとり、ジョウ・シュン(周迅)だってことで、1976年生まれだからもう実年齢は20代後半だってのにロリロリの不思議ちゃんぶりっこが超絶的にカワイイのだ。そらオドレイ・トトゥとジョン・シュンだったら、ジョウ・シュンのほうが一億倍もキュートなワケで、爆発アフロのウィッグをつけて目をクリックリさせてる彼女を見るだけで木戸銭分の価値はあるってもんだ。背中ヌードあり。 ● バリバリ働く企業戦士の主人公の前にあらわれた本作のアメリちゃんは、じつは旧世界の亡霊である。北京オリンピックを控えて、かつての東京オリンピック時の東京破壊をもしのぐ規模で進行する北京改造。そのやり口は区画整理なんて生易しいもんじゃない。政府の命令で町ひとつ丸ごと強制転居させて、すべてをブッ壊して更地にしてゼロから新しい街を作っていくのだ。そうして生まれた現代北京の高層ビルの林立する街並みはもはや東京とほとんど変わらない。その無機質(クール)な青緑色に沈んだ世界の中でひとりだけカラフルな少女は、つまり消失した町の記憶。路地裏に置き去りにされた赤い三輪車。冬の物干し台の しまい忘れた硝子の風鈴なのだ。彼女は「忘れないで。わたしを忘れないで」とチリリン チリリンと、クルマの騒音にかき消されそうな か細い音で鳴っている……。 ● 監督は「血祭りの朝」「紅粉 べにおしろい」の女性監督 リー・シャオホン(李少紅) 後半が「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」みたいなぐずぐずの展開になってしまうのが惜しいが、中国映画がこうしたポップな表現を、自然に自分のものにしているという事実は注目に値しよう。音楽はなんと小室哲哉。エンディングの主題歌は嫁さんが歌っている。最後に一句>「グートゥーとは おれのことかとゲーテ言い」(詠人知ラズ) [Winds of Asia]

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見知らぬ女からの手紙(シュー・ジンレイ)

中国4大若手女優のひとり──つっても、もう30だけど──シュー・ジンレイ(徐静蕾)の監督・脚本 第2作。昨年の「アジアの風」でも、監督デビュー作「私とパパ」と主演作「I LOVE YOU」が上映されてたし(プログラミング・ディレクターの)暉峻創三の好みのタイプなんですかな。 ● 原題は「一個陌生女人的來信」 ジョーン・フォンテーンの「忘れじの面影」(1948/マックス・オフュルス監督)と同じく、ステファン・ツヴァイクの小説「未知の女からの手紙」の映画化。共通するストーリーの骨格を記すならば──、いまは落魄の身にある かつての絶世のプレイボーイが受け取った一通のラブレター。そこにはかれへの想いと、2人の愛の思い出が面々と綴られていた。だが日々の女遊びに溺れていたかれには、その女のことが思い出せない。知らずに掴みそこねて、もはや手の届かないところにある幸せ。孤独な男の心に、救いようのない悔悟と絶望が去来する……。 ● この話をシュー・ジンレイは、ヒロインの究極の片想いを描いたラブ・ストーリーとして構成する。映画は1948年の北京で、落ちぶれ果てた色男が〈見知らぬ女からの手紙〉を受け取るところから始まるのだが、手紙を書いたヒロインの語りによって「18年前の北京(=ヒロイン13歳)」に時制が戻って以降は、完全にヒロイン視点の物語となり「色男がその時々で何を思っていたか」はまったく描かれない。男の気持ちはこの映画の本質とは関係ないからだ。大事なのは「ヒロインがどう感じたか」であり「(相手の気持ちとは関係なく彼女がどう愛したか」なのである。本作を「究極の片想い映画」と評する所以である。 ● シュー・ジンレイはヒロインの「抗日運動に身を投じる18歳の処女大学生」と「戦時下でデカダンに生きる26歳の高級娼婦」の時代を自演。さすがに「隣に越してきたお金持ちのインテリおじさんにひとめ惚れしてしまう13歳のお嬢ちゃん」の役はべつのティーン女優が演じているのだが、じつはこの子のほうが可愛いかったり……(ググってみたけど名前も写真も捜せなかった) さて、本作最大の問題はモテモテ(死語)のプレイボーイのキャスティングにあって、これを演じるのがトニー・レオンであったなら誰もが納得なのだが、これがなんとチアン・ウェン(姜文)なのだ。おっさんじゃん。それって演技の巧拙じゃ解決できない問題だと思うんだがなあ。 ● 撮影はいまや中国映画界ナンバーワンのリー・ピンビン(李屏賓) 音楽は日本人キーボーディスト 久保田修。傑作とは言わぬが、旧来の「中国映画」的な貧乏くささや啓蒙臭とは無縁の純粋娯楽映画であり──なにしろ(ヌードこそ見せないものの)抗日処女大学生と金満堕落中年男とのベッドシーンまで描かれるのだ──いまや中国映画が、ハリウッド映画に代表される世界の商業娯楽映画と同じ土俵に立ちつつあることは確かなようだ。 [Winds of Asia]

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ジャスミンの花開く(ホウ・ヨン)

名実ともに中国4大若手女優のトップをひた走るチャン・ツィイーのワンマンショー。上海を舞台に描く、祖母・母・娘と三代に渡る「母と娘」の物語。3部構成ですべてのエピソードにおいてチャン・ツィイーが「娘」役を演じ、助演のジョアン・チェンが「母」役を演じる。つまり第1部のチャン・ツィイーが成長すると第2部のジョアン・チェンになるという仕組み。いつまでも若くて美しいのはア・タ・シ…ってことですね。 ● 原題の「茉莉花開」はそのまま「ジャスミン(茉莉花)が花開く」という意味で、ツィイーのキャラクターは順に「茉(モー)」「莉(リー)」「花(ホア)」と名づけられている。第1部は戦争の影が近づく1937年。写真館の娘で母と二人暮しのヒロインは、映画会社のキザな経営者チアン・ウエン(姜文)に見初められ、可憐なおぼこ娘が一夜にして新進映画スターとなるが、これからというときに子どもを身籠ってしまい……。第2部は毛沢東の大躍進政策が絶賛進行中の1950年代後半。美しく成長したモーの娘リー@人民服は、バスケ部のキャプテンで共産党員の青年にひとめ惚れ。なかば強引に結婚して家を出るが、共産党ってことはつまりかれの実家は田舎の貧乏人なわけで、上海での暮らしとのあまりの落差と僻み根性からくる姑の意地悪に……。第3部は[登β]小平政権が経済開放政策に切り替えた直後の1981年。可愛らしいメガネっ娘に成長したリーの娘ホアは、地方の大学に合格した青年と結婚。上海の家で仕事に内職にと精を出す。ところが亭主がじつは女たらしのだめんずで……。エピローグは数年後の1980年代後半。郊外の真新しい団地に引っ越してきたホアと娘。ここで母娘二人の新しい生活が始まる……。 ● つまり内容を要約すると、バカな女が浅はかな選択をして酷い目に遭い、そのバカ娘がまた浅はかな選択をして酷い目に遭うのを、(元バカ女であるところの)母親が「だからあんな男はやめなさいと言ったのよ」と批難する……という救いのない話が3回リピートされるわけである。3部あわせて上映時間129分ということは、各パート40分だからドラマの深みも望めない。しかも頭のテッペンから尻尾の先までチャン・ツィイーがブリッコ演技新派芝居全開。おそらく「なにが何でもツィイーに出て欲しい」製作サイドの思惑と、勘違いした「大女優」のワガママが相乗して、なにかの悪い冗談としか思えないこんな映画ができてしまったのだろう。 ● 本作で監督デビューしたホウ・ヨン(侯咏)はティエン・チュアンチュアン「青い凧」やチャン・イーモウの「初恋のきた道」のカメラマンだった人。その縁でティエン・チュアンチュアン(田壮壮)が製作総指揮を務めている。 [Winds of Asia]

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夢遊ハワイ(シュー・フーチュン)

台湾映画。チェン・ユーシュン(陳玉勲)監督の「熱帯魚」「ラブゴーゴー」で助監督を務めていたたシュー・フーチュン(徐輔軍)のデビュー作。脚本も自筆。 ● 韓国同様に、台湾でも満18歳以上の男子には2年間の兵役が義務付けられていて、近年は宗教的な理由などによる「良心的兵役拒否および代替公務」が法律上は認められているそうだが、とりあえず社会から白い目で見られたくないフツーの男は全員、軍隊に行くわけである。 ● 本篇の主人公と、その親友はノンポリのボンクラ青年で、義務兵役も退役間近。夜中に基地を抜け出して街道沿いの檳榔(ビンロー)売りのネエちゃんとヨロシクやったりと、2人してテキトーな軍隊生活を送っていた(イメージキャストは山本太郎妻夫木聡で) そんな夏の日こと、後輩のでぶ荒川良々)が先輩からの苛めを苦に、銃を持ったまま基地から脱走。このままでは隊の不名誉と、2人は連隊長から「お前らに休暇をやるからでぶの実家に行って、MPより先にとっ捕まえて来い」と命令される。Tシャツ&短パンの私服に着替えて基地を後にする2人。だがそこは根っからのボンクラ主義者。捕まえに行ったフリだけして、やっぱ間に合いませんでしたって言やあいいじゃん、急ぐこたないさと、まずは台北の実家へ寄り道。 ● 何日か前に、小学校時代に仲の良かった女の子が入水自殺するフシギな夢を見た山本太郎は、気になって彼女の実家の歯医者(中国語だと牙医者!)を訪ねると、娘は北部のほうの病院にいるらしい。そうか看護婦さんになったのかと翌朝、訪ねてみると、そこは精神病院で、彼女は看護婦ではなく患者として入院していた。どうやら医学部受験のストレスで精神分裂病になってしまったらしい。見た目は可愛い女子大生なのに中身は知恵遅れの幼児状態(麻生久美子) あちゃちゃ、こりゃヤバいわ。へたに関わり合いにならないほうが……とテキトーに相手をしてそそくさと病院を後にする主人公。 ● 台北駅。妻夫木クンが待ちくたびれている。待ち合わせをしてでぶの実家へ向かう予定なのだ。やっと山本太郎が来る。「遅せーよ。何やってたんだよ!?」「ごめんごめん。色々あってさ」「てゆーか、何だよその女!?」「あ、いや、付いて来ちゃって……」 かくして、ボンクラ2人組と知恵遅れ娘の夏休み旅行が始まった──。 ● 原題は「夢遊夏威夷」。ほんとにハワイに行くわけじゃなくて「ハワイに夢遊するようなファンタジー」という意味。全体の構成が「熱帯魚」ととてもよく似ていて、当初の目的をはずれてだらだらと逸脱してゆく面白さ。決断を先延ばしにした停滞した時間の心地良さ──といった魅力が共通している。ティーチインに出てきた監督が何度も繰り返した「現実は醜いことだらけだから、わたしは〈こうあってほしい〉というファンタジー映画を撮っていくのだ」という決意表明が印象に残った。 [Winds of Asia]


時の流れの中で(チェン・ウェンタン)

原題は「経過」。台北の国立 故宮博物館が全額出資して、同博物館の設立秘話を映画にする…という企画だが、最初っからチュー・イェンピン(朱延平)に発注しておけばアイドル総出演の感動的な歴史娯楽アクションになったものを、「夢幻部落」(台湾映画祭2003で上映。おれは未見)のチェン・ウェンタン(鄭文堂)なんぞに頼んでしまったもんだから、せっかくダイ・リーレン(戴立忍)とグイ・ルンメイ(桂綸[金美])という人気者が出ているのに、なんだかよくわかんない三角関係を描いた、台湾映画ニューウェイブの典型的な悪癖たる「観客に不親切な映画」になってしまった。グイ・ルンメイの演技に「藍色夏恋」の可憐さを期待した人は失望することになるだろう。 ● 博物館の設立秘話は、ダイ・リーレンが取材する元職員の語る話として稚拙なアニメで描かれるのだが、まあ、よーするに戦時下の故宮から「戦火の被害から守るために一時的に保護する」という大義名分で、財宝・宝物をごっそり台北に運んできたわけで、それをこの映画では「台北の故宮博物館というのは一時の仮住まいだったが、いまでは此処に落ち着く運命だったのだ」と、まさしく盗人にも三分の理を唱えていて、よーするにルーブル美術館がエジプトのミイラの所有権の正当性を主張する、あるいは北朝鮮が「拉致してきた日本人は我が国で幸せに暮らします」と強弁するみたいなもんである。そんな政治的な映画を映画祭の「顔」であるコンペティションに選んじゃって大丈夫なのか!?>事務局。 たまたま今回の審査員には中国人はいなかったけど、こんなの中国政府関係者が観たら怒り心頭、即刻 映画祭から作品引上げは必至だぞ。 [Competition]

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風のファイター(ヤン・ユノ)

韓国版「空手バカ一代」。1989年から5年間、スポーツ新聞紙「スポーツ・ソウル」に連載された人気劇画「風のファイター」の映画化だそうだが、ゴッド・ハンド=大山倍達の実人生よりは、梶原一騎が自由に創作した「空手バカ一代」の中にしか存在しないエピソードが多数、採用されているところを見ると、元になった劇画自体が「空手バカ一代」の許可を得た翻案であるか、無許可のパクリなのだろう。そもそも大山倍達 本人は若い頃から坊主頭であって、本作の主人公の髪型はつのだじろうの描いた「空手バカ一代」のイメージそのものではないか。もっとも、元の劇画がグレイゾーンだとしても、少なくとも映画化に際しては(梶原一騎の実弟であり、大山倍達本人の義兄弟でもある)真樹日佐夫が「日本の空手界の黒幕」というシャレにならない役で出演しており、エンドロールの最初のほうに(ハングルだから読めないんだけど、たぶん)「監修」かなんかの名目でクレジットされているので、いちおう筋は通してあるようだ。 ● 話としては「アメリカに渡る直前まで」で、出来に関しては本家「空手バカ一代」ほどの荒唐無稽な面白さはないものの、劇画の映画化ではあるので芸術性など二の次の正しき熱血娯楽映画になっている。もちろん牛殺しもある。ただし肝心のアクション・シーンは編集で誤魔化し誤魔化しの代物。チラシには「スタントなしワイヤーなしのド迫力」と謳ってるけど、これワイヤーなしなら代わりにCG使ってねえか? 格闘映画のダイナミズムが味わえないのが本作最大の欠陥である。もっと、野暮でもいいから迫力ある技斗を見せてほしかった。なお、ちなみに本作はコンペティション部門のエントリー作で、常識的に考えれば「空手バカ一代」を映画祭に出す/コンペに選ぶバカはいないと思うんだが、当サイトは娯楽映画主義を標榜するものであるので東京国際映画祭のファンタ化は積極的に歓迎したい。 ● この韓国版「空手バカ一代」においては、大山倍達こと韓国人チェ・ペダル(崔倍達)は「韓国で生まれて日本に渡り、日本の武道界を制した韓国人英雄」ってことになっている。あれ?、大山倍達って東京で生まれた在日韓国人じゃなかったの!? ま、ほんとのところはどうだか判らないが、少なくとも現在の韓国人の始祖民族である「倍達(ペタル)族」に因んだ日本名をつけるぐらいだから(韓国への)愛国心はおおいにあった人なのだろう。大山倍達といえばもちろん「極真空手の創始者」だが、本作においては「極真」という名称こそ使われるものの(字幕ではボカしてあるが)驚くべきことに崔倍達が使うのはテコンドーらしいのだ。つまり、韓国生まれの韓国人英雄が「韓国発祥」のテコンドーを使って日本の空手家/武道家たちをコテンパンにやっつける映画になってるのである。エンドロールには日本の極真会館の道場名がズラズラっと並んでるんだけど、よくそんな映画に協力したなあ(真樹日佐夫の力?) ● とうぜん物語の99%の舞台が日本であり、明治村と姫路城などでロケを行ったようだ。日本の戦後の美術・時代考証に関しては、正確ではないものの──これが日本映画でないことを考えると驚くべきほどに──頑張っている。それこそ近頃のVシネマなどよりはよほど雰囲気を出している。韓国人俳優がしゃべる日本語の台詞もいちおうすべて聞き取れるレベル(ただし、今回はわざわざ「韓国公開バージョン」と断っているので、来年の劇場公開の際には日本人俳優による吹替などが行われるのかもしれない) ● 監督は「リベラ・メ」「ホワイト・バレンタイン」のヤン・ユノ(梁允豪) 主役の大山倍達にはヤン・ドングン(梁東根) 日本の武道界を背負って立つ仇敵に加藤雅也。ともに好演。特に加藤雅也は、韓国人俳優の濃いぃ顔の中に入ってもぜんぜん位負けしてなくて、長年の武者修行の成果がこういうときに出るのだね。 対して、最悪なのが「大山倍達の日本人妻」の平山あや。なんと芸者の役なのだが、どう贔屓目に見ても昭和20年代の芸者には見えないいし、喋りかたもいつものまま。この役には当初、広末涼子が予定されていたはずで、まあ、どっちにしても酷かったとは思うが。 大山倍達が決闘で誤って殺してしまう相手の、未亡人に国分佐智子。 ● 終映後に監督と加藤雅也を招いてのティーチ・インがあったが、本来ならば同席するはずのヤン・ドングンがビザの発給が間に合わず欠席となった。監督の説明によると、ヤン・ドングンは来年の夏に(韓国人男子に義務付けられている2年間の)入隊を控えており「本来ならばそういう時期の者に出国は許されない」のだが、今回「東京国際映画祭 出席のため」ということで政府の特別な計らいで許可が降りたものの、事務手続きの遅れからビザの発給が間に合わず1日遅れの来日となったのだそうだ。軍事政権の時代の話じゃなくて今現在2004年の話だよ。こういう話を聞くと「現代の韓国と日本(に生きること)」って、似ているようでいて、やっぱり決定的に違うのだなあと思い知らされるね。 [Competition]

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Sダイアリー(クォン・ジョンクァン)

コテコテ韓国産セックス・コメディ。男に惚れると貢ぎ性(しょう)尽くし性になってしまうヒロインが、男にウザがられて棄てられて、棄て台詞に「昔の男に会ってほんとにお前を愛してたのか訊いてみろ!」と言われたのを真(ま)に受けて、処女喪失の相手から始めてかつて愛した3人の男に会いに行くが、もちろん向こうは別の恋を見つけたり新しい生活を始めてるわけで、いきなり「昔の女」に訪ねて来られて「あたしを愛してた?」とか言われても迷惑なだけ。ショックを受けたヒロインは、付き合いを詳細に記録した日記帳をもとにホテル代などかかった経費の請求書を各々に送りつける──。 ● えーと、これホラーですか? あ、いや、つい男の立場から考えてしまったが、昔の女から「貢いだ経費の請求書」が送られてくるなんてホラー以外のなにものでもないよな。それで「冗談だろ?」と支払いを拒否すると、今度はストーカーまがい ストーカーそのものの脅迫行為を始めるんだぜ!? おお怖っ。もし、これを韓国の整形美形女優が演じていたなら「危険な情事」のコメディ版みたいになっちゃって(男性観客にとっては)笑うどこじゃなくなるところだが、本作のヒロインのキム・ソナ(金宣兒)は「イエスタデイ 沈黙の刻印」では特殊部隊のクールな隊員を演じてたけど、本来は小林聡美とか財前直美みたいなガラッパチ キャラの人なので、恋に一途なあまり はたからは間抜けに見えてしまうところが憎めなくて、冷静に考えるとかなり酷いことをしてるんだけど、厭な女とならずに済んでいる。そのおかげで(傑作というほどではないが)最後まで退屈せずに愉しめる。監督(男性です)はこれがデビュー作。 ● 映画とは関係ないけど、長田いくおなる小役人あがりの業界寄生虫が、上映後のティーチインで下らない自慢話の挙句に「オールド・ボーイ」のネタバラシしやがって(おれ遠くに座ってたから何も出来なかったけど)今度どっかで会ったらゼッタイ殺す。おまけに質問が「公開はいつ?」だって。こんな野郎にプレス・パス出してんじゃねーよ!>映画祭事務局。 [Winds of Asia]

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20のアイデンティティ(20人の監督たち)[ビデオ上映]

韓国の20人の映画監督によるビデオ撮り短篇集。まず成り立ちから説明すると「韓国映画アカデミー」という国立の映画学校があって、そこは1学年10人という少数精鋭の徹底した実践主義教育で、国営だから授業料は無料、フィルムは国費で使い放題(!)という恵まれた環境で、創立以来230人の卒業生を送り出し、その中からすでに70人が──つまりおよそ3人に1人がプロの監督としてデビューしているという、大手映画スタジオの存在しなかった韓国映画界において、まさに新世代の韓国映画ブームを作り上げてきた映画学校なのである。で、その「韓国映画アカデミー」が創立20周年を迎えたのを記念して、卒業生の70人の監督の中から20人が「20」あるいは「20年」をテーマにした5分の短篇を持ち寄って20×5=100分の映画となる……はずだった作品なのだそうだ。 ● ところが監督というものは洋の東西を問わずワガママな人種で、半分近くの作品は「20」とは何の関係もない内容で、しかも5分という制限時間も守らず、出来上がってみたら20本で163分(2時間43分)という長尺になってしまった。おかげで当初 目論んでいた劇場公開の公開も目処もたたず、2部に分けて昨年末の20周年記念祭で上映したっきり。よーするに韓国版「刑事まつり」──オナニー20連発である。だからビデオ撮りの、チープな、アイディア一発勝負の「刑事まつり」であることを理解してる監督と、そうでない監督との差がはっきりと出来を左右する。 ● プロの作る自主映画という特性をよく心得て、成功してるのが「ジャングル・ジュース」のチョ・ミノ監督による「20歳法」と、「誰にでも秘密がある」のチャン・ヒョンス(張賢秀)監督による「21へ」の2本。 「20歳法」★ ★ ★ は近未来チープSFギャグ。男が人類のためにならないことばーっかやってきた報いで「男は20歳までしか生きられぬ」という法が施行され、世の中は女の天下となる。アマゾネスな女たちが跋扈して、男を捕まえては種付けの道具に使い棄てる。そんな時代の一組のカップル。男は童貞を棄てたいのだが「もし男の子が生まれたら……」と思うとどうしてもカノジョとセックスできない。そこへアマゾネス女が現れて……。 「21へ」★ ★ ★ はシンプルなJホラー。ハイウェイのサービスエリアにいる男のケータイにムービーメールが入る。カワイイ女の子が「はやく来て、わたしの18番目の恋人さん」 スケベ心まるだしで約束の場所に行くと……彼女はそのトンネルでレイプされて殺された娘の怨霊なのだった。19番、20番、次々とトンネルに吸い込まれていく男たち。最後は観客に向かって手招き──はやく来て、21番目の恋人さん。 ● 反対に、たとえ5分でもきっちりプロの映画を作ってみせたのは「イルマーレ」のイ・ヒョンスン(李鉉升)監督。じつは前段に書いたウラ話はティーチインでイ監督が喋った内容をまとめたもの。「みんな制限時間を守らなかったけど、ぼくのはきっちり5分以内です」と語るイ・ヒョンスンにプロの矜持を感じた。その監督作「20mmの厚み」★ ★ ★ ★ は、なにやら言い争いをするカップルの画面から始まる。男が女の浮気を疑って責め立てているようだが、どうも声の聞こえ方が変だ。カメラが引くと、それまでの「台詞」は、喫茶店の中にいる別のカップルがガラス越しになんちゃって「アテレコ」をしてたのだと知れる。恋人同士の他愛ないお遊び。ひとときの笑いが収まると、2人は「ぼくと会ってないときは何してるの」といった会話を始める。ううん別に。友だちとお茶したり。お酒飲んだり。友だちって同性? 同性もなにも友だちだよ。「女」と思ってねえもん。そうだよねえ。そうさ。あたしも「男」と思ってないなあ。え、なに? ほかの男と会ってるの? いや友だちだってば。「友だち」って、テメー酔っ払ったら誰とでもキスするじゃねーか。おれともそうだったじゃん。なによ! なんだと!? ──カノジョを演じるのは、髪も伸びて「箪笥」「H」とはガラリとイメージが変わったヨム・ジョンア。 どーでもいいけど「20mmの厚み」ってウィンドウ・ガラスのことを指してるんだろうが、ガラスって普通は3mm厚とか強化ガラスでもせいぜい数ミリだろ。20mm厚なんてあった日にゃあ重すぎて自重で倒壊しちゃうぞ。 ● そして場がどうであれ、変わらぬ天才ぶりを見せつけるのが、20本の最後に置かれた「殺人の追憶」「ほえる犬は噛まない」のポン・ジュノ(奉俊昊)監督による「シンク&ライズ」★ ★ ★ ★ ★ 。もしこれが「20のアイデンティティ」という短篇映画コンテストで、それまで律儀に審査用紙に評価を記入し、点数を付けてきて、最後に本作を見たとしたら「今までの19本は何だったの!?」とバカバカしくなって審査用紙を放り出したくなるような──際立った一作。オチで一気に爆発する感情曲線の盛り上がりが素晴らしい。記録しておく価値があると思うので別ページにてストーリー採録をアップした。 ● 本来なら上記の4本のほかに有名監督/俳優の作品を選抜して10〜12本で90分前後の作品にまとめれば、なんとか観賞に耐えうるだけの商業的価値が生まれると思うのだが、なにせ本作は「記念」作品で、おそらく関係者も限りなくボランティアに近いギャラで製作に参加してるがゆえに、そういう不義理なことは出来ないんでしょうな。 ● なお、本作を含めて何本か、DLPプロジェクターによるビデオ上映があったのだが、どういう加減か、通常の映画上映のときには自動消灯する非常灯が煌々と点いたまま。係員にクレーム付けたら、調べてくれて「非常灯とプロジェクターの電源が連動していて、非常等を消すとプロジェクターも消えちゃうんです」と言われた。んなバカな。映写室の自動制御システムのプログラミングを変えれば済む話なんじゃないのか? [Winds of Asia]

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インストール(片岡K)

いやだなあなに言ってんですか基本的に公開が決まってる映画はあとまわしにしてるのになんでこの1本だけ待ちきれなくて観に行ったのかってそりゃもちろんアイドルの上戸彩ちゃん目当てに決まってるじゃないですか違いますよいい歳した中年男がエロ小学生役の神木隆之介クンに胸トキめかせたりしてたら気持ち悪いでしょ違うったら違うってば! ● というわけで求めていたものは得られたので、そういう意味では大満足である。いやまさかこの歳になって「萌え」の意味を知るとは思わなんだ(木亥火暴) ● さて、冷静になって作品レビュウをするならば、これ、いくらなんでも何にも無さすぎでしょ。実存不安で登校拒否のジョシコーセーが、ネカマとなって有料チャットルームでチャットセックスのバイトをしてる男子小学生に「ガッコ行かないんだったら一緒にバイト手伝ってくれない?」と誘われて、小学生クンの部屋の押入れの中で(親に内緒でやってるのでマックを押入れに隠してあるのだ)エロ・チャットの世界に足を踏み入れる──という導入部は、まあ、目新しくて面白いんだけど、この映画、そこからストーリーが先に進まないのだ。エロ・チャットつったって劇中では「ちょっとエッチなテキストによる会話」をするくらいで、現役アイドルに「……濡れた」とか言わしてんのは偉いけど、本格的なテキストセックスには及ばないし──そもそもチャットで「本格的なテキストセックス」なんて、するものかどうか知らないけど──上戸彩はたいした衝撃的な経験をするわけじゃなし、事件らしい事件も起こらず、押入れの中から出てリアルセックスをするわけでもない。それで最後にいきなり不安一掃・問題解決・明日からまたガッコ行きますとか言われても???だ。つまりこれでは話になってないと思うんだがなあ。原作:綿矢りさ。脚色:大森美香。 ● 監督はテレビ演出家の片岡K。本人、センスの良いつもりのダサダサの美術・演出センスには失笑するばかり。脇役は1人として活きず。およそ見る必要のない作品だが、隆之介クンはほぼ出ずっ張りで、上戸彩の無いおっぱいを触ったりするシーンもあるので、神木隆之介ファン限定でお勧めする。 [Competition]

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防波堤の女(マリオ・オハラ)

フィリピンではかなりの巨匠であるらしいマリオ・オハラの最新作。「フィリピンでは人口の41%が貧困に苦しんでいる。これはそんな人たちの物語である」という字幕から始まる、しっかりとした社会派娯楽映画である。タイトルの「防波堤の女」というのは正確じゃなくて、正しくは「防波堤の下に住む女」というべき。マニラの海岸の、観光客が散歩する遊歩道と漂着したゴミで埋まってる砂浜とを隔てる防波堤の下に、ビニールハウスを建てて住んでいる(防波堤に隠れて観光客からは姿が見えない)ホームレスたちの話だ。日本でいえば横浜の山下公園とか、あるいはお台場のメディアージュのあの木製デッキの下に隠れて住んでるみたいな感じ。主人公の青年はレイテ島の出身だが、敵対する呪術集団に父を殺され、弟を連れて5年前にマニラにやってきて、防波堤下に住みつき、潜って魚を獲ったり、ゴミ漁りをしたりしてなんとか暮らしてる。かれは、やはり防波堤下に住んで、子どもの頃から躯を売って生きてきた少女娼婦に恋をして、やがて結ばれるが、地元のボスは2人の幸せを快く思っていなかった……。 ● まあ「田舎から都会へ出てきた青年の純愛と受難」という物語はどこの国でもたくさん作られているが、監督・脚本のマリオ・オハラの狙いは、防波堤下のホームレスや、シンナーで吹き出物だらけの顔をした浮浪児たち──そうした見えない民の姿を観客に提示することにある。といっても「肩肘はった啓蒙映画」では さらさらなく、冒頭いきなりレイテ島での銃撃戦から始まり(言うまでもなくフィリピンは海外向けB級アクション映画の本場である)、ヒロイン女優のヌードシーンもふんだんにあり、おそらくフィリピンでは「暴力アリ裸アリ」のエクスプロイテーション・ムービーとして受け入れられているのだろう。また、随所で(大阪の天王寺公園とかに居そうな)エレキギター&アンプ持参のレゲエおじさんが河内音頭みたいな劇中歌を披露する。 ● 初めてデートする2人が(ラブホテルに行く金がないので)青姦用のダンボール持参なのが微笑ましい。<2人ともテレちゃって黙って歩いてるんだけど「ダンボール持参」なのだ:) 台詞はタガログ語だが、プロローグとエピローグのレイテ島の場面だけはフィルムに最初っから英語字幕が入ってるので、レイテ島では別言語なのかな。 [Winds of Asia]

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A S T I G(ジョン・レッド)[ビデオ上映]

フィリピン産のやくざもの。抗争に明け暮れるマニラのやくざ社会で、ボスから命じられるままにヒットマンとして いつ終わるとも知れぬ無為な人殺しを続ける主人公の視点=世界をビデオ撮りの利点を活かした一人称カメラで描く。カメラアイはご丁寧にまばたきまで再現し、主人公がメガネを外すとフォーカスがぼける。最後はもちろん肉体を抜け出たカメラが主人公の死体を写してジ・エンド。標的が潜んでいるのがすべて廃墟、ってのがいかにも低予算。まあ、監督としては「レザボア・ドッグス」みたいな世界を狙ってるんだろうけど、演出・脚本・演技ともまだまだレベルが低く、日本でいえば「新人社員監督が撮った出来の良くないVシネマ」の域を出ない。 [Winds of Asia]

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ガガンボーイ クモおとこ対ゴキブリおとこ(エリック・マッティ)

マニラで三輪自転車のアイスキャンデー売りをしている熱血青年(でも恋にはシャイ)が、突然変異したクモを誤って呑み込んでしまい、体質が変化してガガンボーイ(=蜘蛛少年)へと変身。やはりイピスマン(=ゴキブリ男)へと変異したライバルの悪役青年と運命的な対決をする──というフィリピン版「スパイダーマン」 劇中には(プロップだと思うけど)まるで中学生が描いたみたいな下手糞な「ガガンボーイ」なるコミックブックも登場するのだが、アメコミ実写版の二番煎じというよりはトロマ映画のDNAが濃厚に感じられる仕上がり。可愛いヒロインの汚れキャラぶり(脱がないけど)や、クッダラないギャグセンスはトロマ映画そのもの。途中でテープがヘタってるみたいなBGMや、仰ぎのショットで平気でスタジオの天井が写ってしまうようなユルユル感が許容できる人なら愉しめるだろう。あと、どーでもいいけど、そのスタジオ内に作られた村の名前が「アクメ村」ってのは会社が違うんじゃ……。 [Winds of Asia]

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四人夜話[ビデオ上映]
(ロー・ガイユン/ジェームズ・リー/ン・ティアンハン/ホー・ユーハン)

マレーシア映画。ただし台詞は(たぶん)北京語で、クレジットは漢字の簡体字表記。監督も(名前からすると)4人とも中国人だろう。地獄の蓋が開いて死んだ者たちの霊が地上に戻ってくる旧暦七月十四日の盂蘭盆会(うらぼんえ)に因んだホラー・オムニバス。ジャンルの伝統に則って(ホスト役の)深夜放送DJによる導入部とエンディングが付いている。 ● 第一話。仲良しの女子中学生2人が飛び降り自殺。片方だけが助かって病院に収容されるが、彼女は一時的記憶喪失に陥っていて事件当時の記憶がない。そして彼女の目には病室にたたずむ赤いワンピースに長い黒髪の少女が見える……。これ、韓国⇒香港⇒タイと大陸づたいに伝わったのか、はたまたDVDによる直接伝播によるものかは定かでないが、完全にジャパニーズ・ホラーであった。因果関係がすべて説明がついてしまうあたりは韓国ホラーに近いのか。 ● 第二話。恋人にフラれた親友と連絡が取れなくなって心配していたヒロインだったが、ある晩、道をふらふらと歩いている彼女を発見。ホッとして自宅に連れ帰るが、彼女はヒロインのマンションの来客用寝室になにかが居ると言う……。もう、あらすじを書いただけでネタバレって感じですが。最近も韓国ホラーに類似作品があったしなあ。 ● 第三話。大学生3人が中国式こっくりさんを呼び出して、撮影してVCDにして売ろうとするが……。出演者の設定がシロートだからって、撮影までシロート臭く下手っぴいにするこたぁないと思うが。以上3話は日本の「紛らわしいタイトル」系のホラーVシネと似たり寄ったり。マレーシアの観客にゃ新鮮かもしらんが日本のホラー・ファンには食傷気味だろう。 ● そこそこ見応えがあるのが最後の第四話。高級マンション……に設置された監視カメラの映像。本エピソードは複数の場所に設置されている監視カメラの映像で構成されている。XXX号室に住む妙齢の美人。夕方出かけて、毎晩べろんべろんに酔っ払って深夜帰宅するところをみると水商売なのだろうか。監視カメラを通して「彼女」を見ている視線──マンションの若い警備員。やがて女の留守に部屋に侵入すると、リビングやバスルーム、寝室、キッチンなどに隠しカメラを設置。カメラを通して彼女のすべてを見るようになる。ある日、ふたたび彼女の部屋に侵入した男は、ベッドに横になって枕の匂いを嗅いだり下着を物色したりの定番行動を実践(観客は男自身の仕掛けた隠しカメラでそれを見る) そのうち小腹がすいたのか男はキッチンへ。以下ネタバレ>[男がなんの気なしに冷蔵庫を開けると「そこに保存されていたもの」にビックリして腰を抜かす。そのとき隠しカメラは後ろから近づく「彼女」の姿をとらえる……] これ、惜しいのはその後の蛇足が長すぎることと、そこで「監視/隠しカメラ映像」を止めちゃうこと。詰めが甘いなあ。いや厳密に言うとラストカットだけは「男の視線」でいいんだけど、それは[女に殴られて意識が朦朧として床に横たわる男の目に映る女の足(カメラ・ポジションも横倒し) 視線を上げていくと(=カメラがパンすると)ハンマーを振り下ろす女の顔]でカットアウトだろ。短篇ホラーなんだから[冷蔵庫の中身が何だったのか]なんて描かなくたっていいんだよ。 [Winds of Asia]


美しい洗濯機(ジェームズ・リー)[ビデオ上映]

「四人夜話」の第二話をてがけたジェームズ・リー監督による、いわゆる「奇妙な味」のブラック・コメディ。いや便宜上「コメディ」と書いたけれども、ゲラゲラともクスクスとも笑えるタイプの「コメディ」ではない。原題は「美麗的洗衣機」 ● 独身サラリーマンの主人公は、洗濯機が壊れたので新しいのを買いに家電量販店へ。店員からいろいろと新製品の(買うほうにとっては似たり寄ったりの)機能説明(のうがき)を聞いているうちに、台車に乗っけられたまま隅っこに放置されてる(アメリカのコインランドリーにあるみたいな)前開きの美しいグリーンのドラム式洗濯機に目がいき、下取品なのでと渋る店員に無理を言って売ってもらう。台所の床にぺたんと置かれたそのグリーンの洗濯機は、最初のうちこそ快調に回転していたものの、そのうち回ったり回らなかったり、気まぐれに途中で止まっちゃったり、しまいにはウンともスンとも動かなくなってしまう。修理を呼んでも原因不明。主人公はいーかげん厭ンなっちゃって、うんせうんせと洗濯機をリビングに運んできて一緒にテレビを見たり、食い残しの飯を洗濯機に食わせたり(=フタを開けてほおり込んだり)してた。そんな ある晩──。台所からする物音に、そおっと覗いてみると、洗濯機の横で化粧っ気のない美人が、しゃがんでインスタントラーメンを食べている。女は洗濯機の精で、ひとことも言葉は発しないが、用を言いつけると家事全般を黙々とこなす。男は彼女を「便利な家政婦」として住まわせることにするが……。 ● ストーリーを聞くと面白そうでしょ。おれも書いててスゲー面白そうと思ったもん。だけどこれダリル・ハンナの「スプラッシュ」やエマニュエル・ベアールの「天使とデート」みたいな「異人とのラブ・ストーリー」方面には行かないのだ。そもそも主人公は けなげな「洗濯機の精」に最後まで愛情らしきものを抱かないし、彼女とセックスしようともしない。いや、だって、そんな何でも言うことをきいてくれる美人が家にいたら(映画としてそれをあけすけに描くかどうかは別にして)まず、ヤれるのか? ヤってもいいのか?を確かめるでしょ。じっさい彼女にはちゃんとおまんこも付いていてセックスも出来るのだ。なぜなら、主人公は後にいきなり彼女に売春させちゃうんだから(!) ● ワケわかんないでしょ? もう、このへんからおれはキャラクターに感情移入できなくなっちゃって、映画に付いて行けなくなってしまった。このあともストーリーは意外な展開をみせるのだが、それをジェームズ・リーは(まるで台湾映画のように)淡々と、平坦に、非能率的に描写していく。オフビート・コメディというのでもなくて、敢えていうならノービート・コメディか。「アジアの風」のパンフによると「マレーシア・ニューウェイブの鬼才」だそうだが、なんでこんな面白そうな話をこれほどつまんなく演出できるのか、不思議でしょうがないよ。ともかくタイトルのインパクトは抜群なので、日本映画で(奇妙な味のラブ・ストーリーとして)リメイク希望。 ● 台詞は全般に(たぶん)北京語なのだが、後半の主役となる一家は広東語を喋っていた。でもその一家が見てるテレビは(たぶん)北京語だったりして、マレーシア(の中国人社会)って両方が混在してるのかな。 [Winds of Asia]

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ビューティフル・デイズ(ルディ・スジャルウォ)

インドネシア映画史上最大のヒットとなった2002年作品。5人組の仲良し女子高生を主人公にした明朗青春映画。ヒロインの名前はチンタ。インドネシア語で「愛」……つまりラブちゃんですね。ほかに物静かな知性派のメガネ、世間知らずのネンネ、バスケ選手のカルメン、ミシェル・ロドリゲス顔のアネゴ……と少女漫画の読者にはおなじみのキャラが揃う。ヒロインは壁新聞部の部長で、香取クンみたいなスポーツマンのカレがいるのだが、詩のコンテストで一等を取った「クールで口が悪くて、いつも独りでいる斜に構えた文学青年」の吾郎ちゃんみたいな男の子が気になって仕方がない……。 ● この映画が「少女漫画だな」と思うのは、彼女たちがとてもよく泣くことと、5人組の1人が父親の暴力に悩んでいたりと、1970年代の少女漫画にあったような「ウェットな暗さ」を抱えているからだ。本作がどこまでも明るく楽天的なハリウッドの学園コメディにならなかったのは、おそらくまだインドネシアには──1970年代までの日本と同じように──貧困や社会不安といった不幸せがたくさんあって、多くの国民がその「暗さ」を共有しているからだ。いまの日本ではもう、こういう映画は作られない(作られてもヒットしない) 不幸せがなくなったわけではないのに、そうした「暗さ」を隠蔽して面白おかしく生きる日本の「明るい荒廃」と、はたしてどちらが幸せな社会なのだろう? ● ……って、べつに社会批評が本稿の目的ではないので話を映画に戻すと、カワイイ子がたくさん出てきてキャーキャーはしゃいでいろいろ悩んでたくさん泣いて、でもともかく真っ直ぐに生きていく映画なので、「スウィングガールズ」のように若い娘さんたちのハツラツとした姿を見てるだけで幸せだという中年男性(おれだ)と、かつて少女漫画の読者だった中年女性にお勧めする。本作はすでに江戸木純の会社が契約済みで、2005年の春に恵比寿ガーデンシネマにて公開予定だそうな。 [Winds of Asia]

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ハリオム(ベラットバラ)

インド映画。パキスタンと国境を接するラジャスタン地方を舞台にしたロードムービー。主人公はマードゥリー()と名付けたリキシャ(=ゴテゴテ飾りの付いたオート三輪)の運ちゃんをして気侭に暮らしていたが、イカサマ博打にひっかかって借金のカタに愛車を奪われそうになり、地元から逃げ出す。ちょうどそこへ列車に乗り遅れて愛人とはぐれたフランス女が客となり、彼女を乗せて列車の後を追い、インド北西部の砂漠地帯をパタパタパタとリキシャのエンジンを響かせながらの二人旅……。 ● インド人の主人公とフランス人のヒロイン(「クリムゾン・リバー2」のカミール・ナッタ)なので台詞はほとんど英語。最初はその名も「宮殿列車」という豪華寝台列車で愛人とベッドの上でシャンペンを飲んだりしてたフランス女が、リキシャ旅で直接 インドの風土に触れるうちに、だんだんと変わっていく……というのがドラマの主筋。インド映画的にはノー・スターだし、ボリウッド映画のような華麗なダンスシーンはないが、その代わりに行く先々のエキゾチックな風景(らくだとか出てきます)と地元の音曲がたっぷりと楽しめる。1時間46分。土地への愛情にあふれた、よく出来た娯楽映画である。 もちろん人気美人スター マードゥリー・ディーシンクト(「アシュラ」)のマードゥリーですね。 [Competition]

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何かが起きてる(カラン・ジョハール)

製作:ヤーシュ・ジョハール 脚本:カラン・ジョハール 音楽:ジャティン&ラリト

KUCH KUCH HOTA HAI(クチュ・クチュ・ホタ・ヘ)」という原題と「K2H2」という略称でインド映画ファンの間ではつとに有名だった1998年の大ヒット作。なんで今さらそんな旧作をやるかといえば、一昨年の東京国際映画祭に最新作「時に喜び、時に悲しみ」をたずさえて来日したプロデューサー、ヤシュ・ジョハールが今年の6月に急逝したので、その死を悼んでの特別上映である。なにしろ途中休憩を入れると3時間超のシャシンなので上映は25時50分という恐るべき時間から。終わって外に出たらもう夜が明けてた。 ● 当時まだ若干25歳であったヤーシュの息子=カラン・ジョハールの監督・脚本デビュー作。カランは最初、ジョハール家とは親戚付き合いという大ブロデューサー/監督のヤーシュ・チョープラーのもとで、息子のアーディティヤ・チョープラー(皆さん、付いてきてますか?)のデビュー作「DDLJ ラブゲット大作戦」の現場を手伝った縁で映画界入り(主人公の友人役で出演もしている) 本作には大ヒットを記録した「DDLJ」の主演コンビ=ボリウッドNo.1スターのシャー・ルク・カーンと、一本眉毛 美人のカージョルが「ケンカしながら仲が良い、プレイボーイとお転婆娘」という「DDLJ」とおんなじキャラで主演している。 ● 映画は、いきなりシャー・ルクの愛妻が荼毘に付される場面から始まる。薪のなかで焼けていく妻を前に、ながれ落ちる涙をぬぐおうともしないシャー・ルクの「眼力(めじから)いっぱいのアップ」とカットバックで、美しい妻(ラニ・ムカールジ)との結婚と娘の出産、そして今生の別れが語られる。韓国の純愛映画が2時間かけて描くことを本作は10分ほどで片付けてしまう。なにしろ描かなきゃならないことは、まだまだ沢山あるのだ。 ● 次の10分は、8年後の〈現在〉のシャー・ルクの姿を描く。亡くなる前に妻が「アンジャリ」と命名した忘れ形見の愛娘と、年老いた母との3人暮らし。亡妻への貞節を誓い、かたくなに男やもめを徹(とお)している。娘の成長を見守るのは母の遺影(思いっきり紗のかかったモデル写真なのが笑っちゃう) アンジャリの8歳の誕生日が来た。母を知らぬ彼女にとって、なによりのバースデイ・プレゼントは、母が死の直前にしたため、誕生日ごとに渡される母からの手紙。その手紙も今年の分が最後の一通だ。夜が明けるのも待ちきれず、母の最後の手紙を開封するアンジャリ。そこには大学時代の父と母との馴れ初め、そして父の大親友だった女子学生アンジャリの「実らなかった恋」の顛末が綴られていた──。 ● ということで20分のプロローグが終わり、ようやく本篇の始まり。続く1時間で手紙の内容=アンジャリの両親と、父の親友 アンジャリ(カージョル)のトライアングル・ラブが描かれる。 ● ここはムンバイ(=ボンベイ)の名門大学。シャー・ルクは言うまでもなく学内一の人気者で、美女と見ればコナをかけずにはいられないプレイボーイ。カージョルはチャキチャキの気性のトムボーイ(おとこおんな)で、運動神経もバツグン。シャー・ルクとは自他ともに認める大親友で(バスケの)ワン・オン・ワンの好敵手。そこへオックスフォード帰りの才媛で、学長の娘でもある絶世の美女 ラニ・ムカールジが編入して来たもんだから、シャー・ルクたちまち ひと目惚れ。さっそく彼女に恋の猛アタックを開始する。そんなシャー・ルクの「いままでにない真剣さ」にカージョルはなんだか居心地の悪い思いがしてならない。この気持ちはなんだろう?と、よくよく自分の心を覗いてみれば、それは紛れもなくシャー・ルクへの恋心(まあ、もちろんそんなこと観客は全員、最初っから知ってるんですけどね) 本心に、気付いたときには すでに遅し。カージョルへの気持ちを「特別な友情」だとしか思ってないシャー・ルクは、意を決してラニに愛を告白してしまう……。 ● 「おいアンジャリ喜んでくれ! 彼女がぼくの愛を受け入れてくれたんだ!」「それはオメデトー良かったわね。ところでワタシ、母の看病で大学を中退して田舎に帰るのさようなら」「ちょちょちょっと待てよ。なんだよやぶからぼうに大親友に一言の相談もなしにぼくの前から消える気か!」「そうなのごめんなさいでも捜さないでね。じゃさようならお幸せに」 汽笛が鳴って列車が走る。汽車は出てゆく汽笛は残る。自分たちでもそうとは知らぬ〈運命の恋人たち〉の、これが永遠の別れでありましょうや!?(ババンバン、バン!)「アンジャ、リーーーーーーーッ!」去りゆく列車をいつまでもいつまでも追いかけるシャー・ルク。そんな2人を見ているラニの目にも涙がキラリ。そう彼女にはアンジャリ(カージョル)の気持ちが解かっていたのでした。ごめんなさいアンジャリ、わたし貴女の分まで幸せになるわ。<でも死んじゃうんですけどね。 ● ──というわけなの(って、えらい長っがい手紙やなあ) あなたも もう8歳、分別のわかる歳。きっと今でも独身でいるパパに、アンジャリを──結ばれるはずだった恋人を捜し出して、パパと一緒にしてあげて欲しいの……というわけで、一周忌とかじゃなく8年も待たせるのが女心のフクザツサでありますが、なにはともあれアンジャリちゃん、まなじりを決して「わかったわママ。ワタシがきっとパパを幸せにしてみせる」……と、ここでインターミッション。まだやっと半分です。 ● だんだん浜村淳みたいになって来たので、簡略に書くと、後半は再会篇。カージョルがボランティアで「サマーキャンプの先生」をしてることを突き止めたアンジャリちゃん、さっそく婆やを連れてサマーキャンプに潜り込み、たくみにパパを誘い出す。さあ、いよいよ運命の再会──と思ったら、ご丁寧にそこでフィルムが切れて映写中断(なにしろ6年前の映画で、そうとう歴戦のプリントだからねえ) さて、無事にプリントも繋がり、2人は再会したものの、これでゴールインしちゃっちゃ3時間はかからない。じつはシャー・ルクを諦めたカージョルは「もう一生、恋はしない」と決めて、周囲の薦めにしたがって婚約してしまっていたのだ。つまり前半が「男1女2」の、後半が「男2女1」の三角関係になってるのね。 ● ゼイタクにも後半にだけ登場するシャー・ルクの恋のライバルに「ボリウッドのニコラス・ケイジ」ことサルマン・カーン(インドのお客さんが観ててビックリするように、オープニング・クレジットにはワザを名前を出していない) そりゃたしかにサルマンならば男っぷりも愛の熱さもシャー・ルクと同格。カージョルの愛を勝ち取っても不思議じゃない。そこで脚本家は、観客が自然にシャー・ルクのほうを支持するように、2人の間に決定的な差を設定する。すなわちシャー・ルクは毎週火曜日には(恥ずかしいのでこっそり)お寺参りを欠かさないという意外な一面を持っており、対してサルマンは外国育ちで、結婚式の日取りを高僧に決めてもらうといった因習を軽視している合理主義者として描かれる。スターなので「憎まれ役」ではなく立派な男として描かれるサルマン・カーンだが、この「差」があるゆえに、観客はカージョルの選択をすなおに祝福できるのだ。 ● もうひとつ言えば、じつは前半部でシャー・ルクが挨拶代わりのチャラいコナかけから、本気でラニを意識するようになるきっかけというのが、遊び仲間とツルんで、彼女を「新入生だろ、なんか1曲、歌ってみろよ。それともアレか? 洋行帰りのお嬢さまはヒンディー語の歌なんか歌えねえってか!?」とからかうと、意外にもラニがヒンドゥーの神々を讃える歌を、世にも美しい声で歌ってみせるというエピソードだったりする。 ● ヒンドゥーの倫理観と、祖国インドへの愛国心──これがインド映画を大ヒットに導びく二大要因だ。表面的なテーマは美男美女の大スターがきらびやかに演じる男女の愛なのだが、そのバックグラウンドに道徳郷愁がしっかりと描かれてなくては大衆の支持を得られない。もちろん現実のインド社会はそんな奇麗ごとばかりじゃないだろう。醜く貧しい現実のほうが勝っているかもしれない。でも、だからこそ人々は映画を観てるあいだぐらい「いい気分」になりたいのだ。登場人物に感情移入して自分が本当は「良い人」なんだと確認したいのではないか。たぶんインドの人々が「何かが起きてる」を観て流す涙は、おれたちがマキノ雅弘の「日本侠客伝」シリーズを観て流す涙と、同じものだ。 ● カラン・ジョハールの演出は「時に喜び、時に悲しみ」の完成度を観てしまった後では、特にコメディ演出などギコちなく感じられるし、キャンパス・ライフの描写はまるで「若大将」シリーズを観てるときのような気恥ずかしさを覚えないでもないが、そうした瑕瑾など、圧倒的なスターの魅力と、素晴らしい音楽の力で忘れさせてしまうのがマサラ映画たる所以である。 [Winds of Asia]

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時に喜び、時に悲しみ(カラン・ジョハール)

製作:ヤーシュ・ジョハール 脚本:カラン・ジョハール
音楽:ジャティン&ラリト サンデーシュ・シャーンディリャ
Say Shava Shava」作曲:アーデーシュ・スリヴァスタヴァ

一昨年の東京国際映画祭/アジアの風で上映されたインド映画2002年の大ヒット作。原題は「KABHI KHUSHI KABHIE GHAM...(カビ・クシ・カビ・ガム/K3G)」 製作者 ヤーシュ・ジョハールの逝去を悼んで再上映されたので、おれも再見。 ● いや、参りました。こりゃもう諸手を挙げて降参するしかない。まさに世界最強のファミリー映画である。ストーリーの骨格はごくシンプル。貰い子でありながら実の子以上の孝行息子だったマハラジャの長男が、生涯で初めて父に背いて貧しい下町娘と恋愛結婚。父は長男を勘当、長男は家を去る。10年後、大学生となった(実子である)次男が、兄と兄嫁を「家」に連れ戻すため、親には留学と偽ってロンドンへ渡る──。物語の根本原理は「家族一緒ではない幸せなど幸せではない」という固いヒンドゥー的信念であり、これが西欧の映画であれば、貧しい娘がさまざまな障害を乗り越えて大富豪の長男と駆け落ちして異国の地で恵まれた暮らしを送る……というのは「ハッピーエンド」以外の何ものでもないわけだが、本作のヒロインにとってあくまでそれは「完結していない幸せ」でしかない。カレの両親の祝福を受けられないうちは、彼女は「妻」ではあっても「嫁」ではないからだ。劇中、何度もくりかえされる主題歌のサビ >「♪これが運命 時には喜び、時には悲しみ ♪いつでも一緒に 嬉しいときも、悲しいときも」 ● 主役の「長男夫婦」には、これが5、6度目の共演となるシャー・ルク・カーンカージョルのゴールデン・カップル。本作が凄いのは、普通なら「演技のうまい助演俳優」が演じる「両親」の役に、1970年代からの国民的スーパースターであるアミターブ・バッチャンと(その実生活での妻でもある)演技派女優 ジャヤー・バッチャンを連れてきたことで、日本でいえば織田裕二高倉健が初競演するみたいなことなのだ。さらに後半で活躍する「次男坊」には「アルターフ 復讐の名のもとに(ミッション・カシミール)」の若手No.1スター=リティク・ローシャン。そのGFとなる「兄嫁の妹」に新進スターのカリーナ・カプール。そしてゼイタクにも前半にのみ登場する親の決めたシャー・ルクの許嫁(いいなずけ)に「何かが起きてる」より美貌150%アップのラニ・ムカールジを配する万全の布陣。ボリウッド映画的には、これでコケたら何やっても来ないというほどのオールスター・キャストなのである。 ● アミターブ扮する「父親」を「ヤーシュ」と名付けたカラン・ジョハールの演出も、まだこれが2作目とは思えぬほど自信に満ちており「スターの力」を全面的に信じて、現在の日本でやったら出来の悪い大映ドラマにしかならないであろう大メロドラマ演出を敢行する。すなわち、画面に美女が登場するならば(屋敷の中でも)風が吹いて髪がゆれるのだし、父親が怒るときは雷鳴がとどろくのだ。 シャー・ルクとカージョルの役名は「ラーフル」に「アンジャリ」と、前作「何かが起きてる」のまま。 カージョルに至っては(スターばかりで固めてコメディ・リリーフを配置する場所がなくなってしまったので)ヒロインなのにコメディ・リリーフまで兼任。下町の大衆食堂の看板娘で、おっちょこちょいで素っ頓狂で、けたたましくて早とちりの鉄火肌のお転婆で、異国の地でも決してサリーを脱がない熱烈な愛国者というキャラを大熱演。観客を笑わせて泣かせて大車輪。 ● 父親のアミターブ・バッチャンは他を圧するさすがの存在感。「厳格で威厳ある父親」というみずから規定したキャラクターに自分を嵌めてしまう男の哀しさを見事に演じる。息子との和解に際しての名言。父さんはぼくのことを怒ってるとばかり……という息子に、ぽろぽろ涙を流しながら「ばかな。年長者の怒りは愛情の一部だ」 そして現実の妻ジャヤーが演じる「妻」の名演! 「インドの妻」なので夫のいうことには逆らわない。芝居の八割方が「ただ黙って見つめる」というものなのだが、その目から全身からあふれ出る「母の愛」たるや! まさに客を泣かすに台詞は要らぬというやつである。そして、それまで夫の言うことに100%服従してきた彼女が、最後に夫になげかける痛烈な長台詞>「夫は神。夫の言うことはすべて正しい──そう母から教わった。たしかにあなたはいつも正しかった。生後2日のあの子を我が家に連れてきた──正しい。あの子は家族の一員になり、私の生きがいとなった──正しい。でも、あの子は家を出て行った──間違い。あなたが追い出した──間違い。母と息子の中を引き裂いた──間違い。家族はバラバラになってしまった──間違い。夫が神ならどうして間違ったりする? 神は間違ったりしない。あなたはわたしの夫だけれど、神ではなかった。ただの夫だった!」 ● いや、2年前にシアターコクーンで観たときも(その年の年間ベスト3に選ぶほど)感動したのだが、今回、ヴァージン東宝シネマズ六本木ヒルズの大スクリーンと音響で観るのは、それはそれは圧倒的な体験だった。ミュージカル・シーンにおける、ボリウッド映画の粋を極めた撮影・照明・美術・衣裳・音楽・振り付けの一糸乱れぬコラボレーション。ハリウッドの絶頂期のそれをも凌駕する華やかな群舞シーンの、体が自然に動き出す高揚感。あのルノワールの「フレンチ・カンカン」のフィナーレにも匹敵する幸福感が一度ならず、二度、三度と観客を包み込むのだ。単にボリウッド映画の頂点であるだけでなく世界最高峰の娯楽映画である。ああ、おれに金があったら日本の配給権を買うのになあ。いや、じつはもう(ナンチャッテ日本語字幕入りの)海外版DVDは持ってるんだけど、本作の素晴らしさは松岡環の素晴らしい日本語字幕あってこそ、だからなあ……。 [Winds of Asia]

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サマーソルト(ケイト・ショートランド)

オーストラリの新人女性監督が過敏な感性を武器に撮った自傷的青春映画。16歳のヒロインが、同居してる「母のカレシ」とイチャついてるところを母親に見られて、家に居られなくなり家出。流れ流れてスキー・リゾート地に落ち着いて、コンビニのバイトも始め、カレシらしき男も出来るのだが、しょせんはまだ母恋しのコムスメなので……。もう、もろ初期のジェーン・カンピオンで、実際、エンドロールにずらずらっと並ぶ「脚本監修」のなかに「ジェーン・カンピオン」の名前もあった。 [Competition]

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ダンデライオン(マーク・ミルガード)

絶世の美少年から「青年」になりかかってるヴィンセント・カーシーザー主演の青春映画。……てゆーか、いつものサンダンス映画の一篇。開巻のショットは、アイダホの草原の丘の上に立つヴィンセント・カーシーザー。自分のこめかみに銃をあて引き鉄を引く……妄想で、もういきなりドアタマから画面に「サ・ン・ダ・ン・ス」と大書きしてあるみたいな映画である。ピストル自殺の妄想だけにとどまらず、野原を円形にグルグル走るとか、煤曇りガラスで太陽を見るとか、靴箱のメモリアル・ボックスとか、親父が郡の評議員選挙に立候補していつもイライラピリピリしてるとか、気の弱い母はアル中に逃げるとか(しかも演じるのが、うじうじして人を苛つかせることにかけては天才的なメア・ウィニンガムだ)、あるいはベトナム帰りの精神を病んだ叔父さんとか、近くに引っ越してきた(母子家庭の)可愛い女のコとか、その「ママはあなたのベストフレンドよ」って面(つら)をして じつは娘を支配したいだけの偽善的な母親とか、もう、笑っちゃうくらいにサンダンス映画のクリシェだらけ。しかもそれらのほとんどは大した意味もなく画面にただ置いてあるだけなのだ。これ、きっとアメリカじゃ「How To Make a Sundance Film(サンダンス映画の作り方)」とかSundance for Dummies(サルでもできるサンダンス)」って本が売ってて、この新人監督はそれを読みながら教科書に忠実に作ったに違いない。だからこんなサンダンス映画の劣化コピーみたいなもんが出来ちゃったんだろう。 ● ヴィンセント・カーシーザーはアイダホの片田舎に住むナイーブでセンシティブな少年。なにしろアイダホの片田舎だから周りはガサツでバカな野郎どもばかりで、カーシーザー君のようなジーンズにTシャツ裾出しでチェックのシャツを羽織ってるナイーブでセンシティブな少年は、とかく生き難くて──ほら、近くに中古レコード屋とかライブハウスとか無いからさ──それでも近くに引っ越してきた可愛い女のコと仲良くなったりするんだけど、最後はもちろん悲劇的な結末を迎えること(って教科書に載ってる) 凄いのは始まって30分くらいで、かれは とある事情で2年ほど少年鑑別所に入るんだけど、判事だか裁判官だかがその旨を告げて、次のカットではもう「2年後」になっていて、その前後で主人公がまったく変わっていないこと。2年間の鑑別所生活という特異な体験が主人公に(少なくとも観客に見える形では)何の影響も与えていないのだ。出所したらもう成人だと思うんだけど、相変わらず働きもせずブラブラしてるし、そういえば日がな一日ウチにいる親父は何で収入を得てるんだ?(農家でもなさそうだし) 親友のアニキが彼女に横恋慕してて、日ごろから主人公を脅してるんだけど、最後の「悲劇」にはまったく絡んで来ないし(じゃ、何のための伏線なんだ!?) サンダンスごっこもいいけど、もうちょっと脚本とか練ったほうがいいぞ。 [Competition]

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以上、香港6、中国4、台湾2、韓国3、日本1、フィリピン3、マレーシア2、インドネシア1、インド3、そしてオーストラリアとアメリカが各1で計27本を観賞した。われながらよく観たなあと思うけど、その最大の理由は言うまでもなく「アジアの風」部門が昨年の17本から今年は34プログラムと倍増(!)したことによる。昨年から同部門のプログラミング・ディレクターを務める暉峻創三(てるおか・そうぞう)が(東京の直前に開催される)釜山映画祭に負けまいとはっちゃきになって作品をかき集めたのだろう。その甲斐あってアジア映画に関しては(いままで負け続けだった)ライバルの東京フィルメックスを凌駕するラインアップが揃ったと思う。 ● ただハリキリついでに「アジアの風」部門の単独パンフまで作っちゃうのはどうなのよ? たしかに読み応えのある原稿が入っているのだが、それをやる力があるのなら映画祭本体のパンフに載せなさいよ。「映画祭公式」と「アジアの風」の両方のパンフを買ったら2800円だぜ。フザけんなって。全頁カラーの映画祭パンフでは進行が間に合わないというのなら、最初っから1色刷り頁を用意して、そこだけページを空けておけば済む話ではないか。あと「大丈夫」の頁で、レオン・カーフェイ(梁家輝)をトニー・レオンと表記して、わざわざ「梁朝偉」と間違ったほうの漢字名まで載っけてるのは恥ずかしすぎ。てゆーか、お前ほんとに映画 観たのか!?>暉峻創三。こういうことがあるから「ひょっとして暉峻創三って娯楽映画音痴なんじゃないか!? 王道の香港映画をロクに観てないんじゃないか?」という疑惑が拭い去れないのだ。

コンペティション部門ではおれが観なかったウルグアイ映画の「ウィスキー」が東京グランプリに輝いた。同作がその名誉に相応しい出来かどうかは劇場公開時に確かめるとして、今年から新設された「黒澤明賞」の受賞者がオープニング上映作の監督であり今回のコンペティション審査委員長でもある山田洋次と、クロージング上映「ターミナル」の監督であるスティーブン・スピルバーグだと聞いて呆れかえった。てゆーか、おそらくこれ、順番が逆で「黒澤明賞を差し上げますから審査委員長を引き受けてください/ゲストとして来日してください」と声をかけたんだろうな。そうでもしなきゃ誰も審査委員長の引き受け手がいなかった、と。スピルバーグに至ってはそこまでして礼を尽くしてもドタキャンされたわけだ。ナメられてますなあ>東京国際映画祭。ま、そんな映画祭だから百歩譲って御手盛表彰は認めてもいい。だけど「副賞として賞金10万ドル(およそ1,100万円)」てのはどーなのよ!? だって相手は(ほぼ)撮りたいものが撮れる環境にある松竹の山田天皇と、天下の大金持ちスピルバーグだぜ!? 2人分だから2,200万円。それだけあったら映画が1本撮れるじゃんか。泥棒に追い銭くれてやる(←日本語まちがってます)余裕があるんなら、間違いなく貧乏なウルグアイの監督と(最優秀芸術貢献賞の)森崎東の賞金に上乗せしてあげなさいよ。