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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2000 part 2
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

★ ★
ブルート(マーチェイ・デイチェル)

「ぴあ」の新作コーナーが見逃しても、おれさまの目は誤魔化せないぜ!<あんた何者や? JR高架下・新橋文化にて人知れず1週間のみのロードショー。大阪では(たぶん天六あたりで)すでに公開済みだそうだが、東京地区はこれが初公開。「こんな映画わざわざ観に来る酔狂者はおれぐらいよのう、フッフッフッ…」とわけわからん自惚れに浸ってたら、TBSの宮内鎮雄アナが観に来ててたまげた(<日頃から映画館での目撃率が異様に高い) ● 「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」コンビのカッコいいほう(ティル・シュヴァイガー)主演のポーランド=ドイツ=フランス合作映画。やはりK2エンタテインメントの配給だし、製作年度も同じなので、おそらく「ノッキン…」を買ったらオマケでついて来たんだろう。 ● 政府の更正プログラムでルーマニアの戦災孤児を収容する病院に雑役夫として送りこまれた囚人ブルートが、不正をはたらく悪徳院長と対決して大暴れする「アクション映画」…であるかのようなポスターが貼ってあったが、実際は「東欧の過酷な現実もの」だった。主人公の目の前で孤児たちがなすすべもなく死んでいく。つまり「ヒーローが悪役をやっつけてメデタシメデタシ」となる映画ではなくて「1人の力ではなにも解決できないのだ」という苦い現実認識にもとずくドラマである。まあ、出来は ★ ★ だけどさ。 ● 医薬品の横流しやウラ養子縁組で儲ける悪徳院長に(「ロスト・ワールド」の恐竜ハンター)ピート・ポスルウェイト。腕もプライドも鈍ってしまった酔いどれドクターにジョン・ハート。主人公とロマンチックな関係になる気丈な看護婦にポリー・ウォーカー。主人公に想いを寄せるジプシーの少女アイダ・ヤブロスカが鮮烈な印象を残す。

★ ★ ★
HYSTERIC(瀬々敬久)

冒頭に、若いカップルによる ひとつの殺人行為が描写され、続く本篇では そこに至るまでのボニーとクライドを思わせる2人の道筋と、その後の逃避行とも呼べないような逃避行が交互に語られる。「雷魚」「汚れた女(けがれたマリア)」に続く、井土紀州(脚本)+瀬々敬久による実録犯罪もの(正確に言えば、1994年の「青学生殺人事件」に想を得たフィクション・ドラマ) ● ほぼ瀬々敬久のネームバリューだけでの勝負だった前2作と違い、今回は「『完全なる飼育』の小島聖と『ポルノスター』の千原浩史(from 千原兄弟)主演でテアトル新宿レイトショー」という(インディペンデントの日本映画としては)メジャーなパッケージを意識して、ビデオ撮りのイメージ映像もどきを挿入したり、なんとか青山真治や篠原哲雄の映画に見せかけようとしている。いや、意識してないとは言わせない。瀬々敬久のそうした闘う姿勢・・・「瀬々敬久のゼの字も知らない兄ちゃんネエちゃんに見せてナンボなのだ」という決意のほどは美しいと思うが、瀬々敬久よ、あなたの映画にそんな小細工は必要ない。 ● 「パッと遊んでパッと死ぬ」自分の欲望をコントロールできず/しようともせず“ネズミのように”生き急ぐ千原浩史が素晴らしい。自然な演技…てゆーか、こういう役しか出来そうもないが、これだけ出来りゃあ充分でしょう。対して、それまでずっと地味に生きてきたのに、まるでそれが始めから定められた自分の運命であるかのように、男を受け容れて行動を共にする反応速度の極端に遅い娘を演じる小島聖は、舞台で覚えた悪癖だろうか、表情を作り過ぎ。今回はヌードらしきヌードもなし。それにしてもこの人 身体のクリスティーナ・リッチ化がどんどん進んでる気が…。 ● しかし、どーでもいいけど冒頭シーンの「新聞の集金人」は伏線じゃなかったのか。てっきり「マクベス」の扉を叩く音をやるんだと思ったけど。

★ ★ ★ ★ ★
シュリ(カン・ジェギュ)

大傑作。なるほど韓国はいまや世界で唯一、スパイ・アクションにリアリティのある国なのだ。「ダイ・ハード」クラスの銃撃アクションと爆発シーン、手に汗握るサスペンスと切ないラブストーリー。じつによく出来たハリウッド流エンタテインメントである。まあ、ミステリーとしてはちょっとヒントを出し過ぎなのだが、そんな事は「シュリ」の圧倒的な面白さの前では瑕瑾に過ぎぬ。 ● 主人公は韓国諜報部の2人組。彼らが追っているのは北朝鮮の女テロリスト、イ・バンヒ。正確無比な史上最強のスナイパーだ。イ・バンヒは主人公たちをあざ笑うように要人暗殺を繰り返す。そんな時、2002年ワールドカップへ向けての南北朝鮮親善サッカーの試合を目前に控えて、北朝鮮の特殊部隊の精鋭が韓国に潜入する。…というサスペンスと並行して、主人公の彼女、元アル中の 心に傷を抱えたヒロインとのラブストーリーが描かれる。この映画が優れているのは、このラブストーリー部分がアクション映画によくある“単なる彩り”としてではなく、メインのストーリーにしっかりと絡んでくるところだ。 ● 監督・脚本は、まだこれが2作目のカン・ジェギュ(姜帝圭)「韓国映画」と聞いて想像される、私小説的なジトッとした湿度の高さとは無縁の、スケールの大きな娯楽映画を構築した手腕、特に何を成すべきかをきちんと把握した構成の優れた脚本を評価する。そうした土壌のない国でそれを成し遂げるのが如何に困難なことであるかは、本邦において黒澤明 以降「娯楽アクション」と呼べるものが「新幹線大爆破」(1975)「太陽を盗んだ男」(1979)「踊る大捜査線」(1998)の、わずか3本しかない事からも明らかであろう。てゆーか、他にもあったら教えてくれよ。てゆーか、頑張れよ>「ホワイトアウト」関係者。 ● 主役の韓国諜報部コンビにハン・ソッキュ(韓石圭)と、ソン・ガンホ(宋康昊) この2人どちらも細目&えら張りの大仏顔で(見なれてないおれには)最初のうちどっちがどっちか区別がつかないのが困りもの。ハン・ソッキュは「八月のクリスマス」で見せた小松沢陽一のような気持ち悪い微笑をしなかったのでホッとした。これが映画デビューで堂々 映画を背負って立つヒロインには、名取裕子を丸顔にしたみたいなキム・ユンジン(金允珍) 美人で演技も巧いのだが、巧すぎて「療養所の少女」が二役だということに最後まで気付かなかったぞ(この原稿を書くために冷静に考えてみてそう結論したのだが、そうだよなあ?>観た方) そして北朝鮮の特殊部隊の隊長にチェ・ミンシク(崔岷植) テロリストのリーダーであるから立場としては悪役なのだが「南のバカ学生が酔っぱらってゲロを吐いてる時にも、北の人民は飢えて死んでるのだ」という主張が圧倒的に正しくて、完全に主役の座を奪ってしまう。じっさい韓国の各種映画賞で「主演男優賞」を軒並みさらったのはハン・ソッキュではなく、この人だった。 ● そう、「シュリ」は娯楽映画だが、その背景には南北朝鮮の問題が横たわっている。北も南も、共に「祖国統一」を唱えながら対立を続けている悲劇。パラレル・ワールドにおいては日本も、東京の人間と関西人は別の国の人間かもしれんではないか(それでもいいけど) 「ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱」にも通じる、熱い想いに裏打ちされたアクション映画である。 ● 本作は「ワイルド・ワイルド・ウエスト」がコケたお蔭で、東京ローカルでは丸の内ルーブル/渋谷パンテオン/新宿ミラノ座という戦艦級チェーンで公開された。● 最後に指摘しておく。本篇を観た方には同意いただけると思うが、予告篇やポスター、チラシ、はては雑誌の紹介記事にまであの写真ネタバレ画像]を使いまくったシネカノン&アミューズは映画会社の風上にも置けぬクソ外道である。あれじゃ推理小説の腰巻に犯人がデカデカと書いてあるのも同然じゃないか。

★ ★ ★
フリーズ・ミー(石井隆)

ううう、おれの中でどんどん“石井隆”熱が冷めていくう。 ● ヒロインが、かつて自分をレイプした男たちに復讐する情念のメロドラマ・・・ではなくて、ストーリーとしてはブラック・コメディ寄りのホラーである。だが演出がいつもの重厚なトーンの長回しなので、なんともチグハグな映画になっている。この話はもっと軽く撮らなきゃ。「黒の天使 Vol.2」に続いてここでも石井隆の脚本は悲しくなるほど杜撰である。「レイプされた恐怖が忘れられず、執拗なまでに戸締りにこだわってる女が〈目潰しスプレー〉ひとつ持ってないのか」とか「2リットルのペットボトルで人を殴り殺せるものか(あれって結構、柔らかいぞ)」とか「冷凍庫とクーラーを同時使用するとブレーカーが上がっちゃうのなら、東電に電話して30アンペアに上げてもらえば済む話では?」とか「カレシに室内を見られたくないなら、ラブホテルでも行きゃあいいじゃんよ」とか、観てる最中にとめどもなく疑問符が湧き上がってくるようでは、到底「よく練られた脚本」とは言えまい。それに、石井流メロドラマならいざしらず、普通の現代劇で「スベタ」なんて死語だろ。画面の向こうに製作費の足りなさが透けて見えてしまうのも悲しい。 ● 石井隆のヒロインなので井上晴美は当然 脱ぎまくり アーンド 雨やシャワーに濡れまくり。この娘さんの乳がデカいのは週刊誌のグラビアで知ってたが、それが動いてるさまを目にするのはまた格別の感慨が。はっきり言って演技もつたないし表情も貧しすぎるのだが、その乳ですべて赦す。井上晴美の乳に星3つ(火暴)


透視する女(伊藤秀裕)[ビデオ上映]

「エロス」をテーマとする低予算ビデオ撮り5本連作“MOVIE STORM”の3本目。シリーズ全体のプロデューサーにして、製作会社エクセレント・フィルムの代表でもある伊藤秀裕が、みずからメガホンを握っている・・・にしちゃあ、ひでえ代物だ。男たちのスケベな妄想がいちいち“見えてしまう”という特殊能力を持ったヒロインの話だが、これじゃ単なる「エッチなVシネ」か「気取ったAV」だ。スカした現代詩のような観念的なナレーションに、BGMは例によってエリック・サティ。何度でも言うけど、てめえらみたいな馬鹿はサティ使用禁止な。プロデューサーがいちばん、シリーズのコンセプトを判ってないんじゃないか? こちとら、そこらのビデオ屋に行きゃあ 何十本と並んでるようなスケベなVシネが観たくて、わざわざ劇場まで足を運んでんじゃねえんだよ。てゆーか、これ、スケベですらないぞ。Vシネで脱ぎまくってる安原麗子(元・少女隊)を主演に起用しといて乳すら ろくに見せないたあ どーゆーこった!?


鬼教師ミセス・ティングル(ケビン・ウィリアムソン)

「スクリーム」の脚本家ケビン・ウィリアムソンの監督デビュー作。だが、こいつに演出の才能が からきし無いことは始まって3分で(タイトルすら出ないうちに)明らかとなる。いや、あなたも観りゃ判るって。てゆーか、本職であるはずの脚本がムチャクチャだぞ、この話。災難に“巻き込まれた”主人公たちが窮地を抜け出すために奮闘する話…ではなくて自分の努力が足りなくて学年で1番になれなかったヒロインと、試験問題を盗んだのを見つかったクラスメイトが、教師を逆恨みして自宅に押しかけ、さも自分たちが被害者のようなツラをして教師を監禁するという言語道断な話である。「性格の悪い教師は殺しても、家に火をつけても構わない」と考えてるバカ高校生が主人公の映画にどう感情移入しろというのだ(念のために言っておくが、おれの昼間の商売は教師ではないよ) 演出家が悪ければ女優も輝かない。タヌキ顔の女の子、ケイティ・ホームズはこんなにも魅力のない娘だったか? 「鬼教師」に扮したヘレン・ミレンはさすがの貫禄だが、これは彼女個人の力量。端役でモリー・リングウォルドを使えば赦されるってもんじゃない。ああ不愉快だ。45分で途中退出。

★ ★
マイ・ハート、マイ・ラブ(ウィラード・キャロル)

うわあ また「マグノリア」だあ。愛に飢えた男女が孤独だ孤独だと叫んでる。自分を不幸だと思っていて、そんな不幸な自分を愛してる6組の男女。おれは楽天主義なのでこーゆーやつらには感情移入できん。それまでバラバラに語られていた各カップルの相関がラストで明らかになる趣向も「だから何?」ってなもんである。 ● マデリーン・ストウが相変わらずキレイ。ジリアン・アンダーソンは「ただのおばさん」にしか見えん。あとアンジェリーナ・ジョリーって厚化粧すると野川由美子そっくりなのな(ちょっと悲しい)

★ ★
ムッソリーニとお茶を(フランコ・ゼフィレッリ)

マギー・スミス65才、ジュディ・デンチ65才、ジョーン・プロウライト70才、リリー・トムリン60才、そしてシェール(自称)54才・・・あーら だって あたくしたちみんな卑しからぬ家柄でございましょう?亡くなった主人は外交官でございましたのよ。ムッソちゃんとは一緒にお紅茶までいただきました仲でございますもの。あーた、たかが戦争くらいで あたくしたちの生活を邪魔しないでいただきたいわあ・・・と、すっかり植民地気分の我がもの顔。つまり、こないだ南米で土人に殺された日本人観光客と同じメンタリティの連中だ。そりゃ独裁者ムッソリーニならずとも「婆あども、やかましいから閉じ込めとけ」と言いたくなる気持ちはよおく判る。殺されなかっただけでもめっけもんなのに、こいつらときたら強制収容されても態度はデカいままなのだ。「婆あはファシストよりも恐い」という教訓である。ちなみに監督のゼフィレッリは地元フィレンツェ生まれの76才。

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ナインスゲート(ロマン・ポランスキー)

中身に似合わず面白い映画というのがある。どう見たってB級定番のパッケージで、新奇な要素など何もなくって、そんなに面白いはずが無いのに、なんでかやたらと面白い…そんな映画が。クリント・イーストウッドの映画とか去年のジョン・フランケンハイマーの「RONIN」とか…と例をあげればお判りいただけようか。この「ナインスゲート」もそんな1本だ。どう考えたって「2000年をあてこんで作られたオカルト・ホラーの十把一絡げ」にしか見えやしないが(そして、ギャガの宣伝から伝わってくるのも、まさにそーゆーものだが)、ロマン・ポランスキーのような監督の手にかかると、映画の滋味に満ちた「映画見(えいがみ)への御馳走」と変身するのだ。 ● オカルト・ホラーというよりミステリー、…いやいっそ「探偵映画」と呼びたくなるようなクラシックな風合い。不条理な事態に巻き込まれる「異邦人」と、エマニュエル・セニエ演じる「謎の女」のサスペンス…という構成は「フランティック」の別バージョンであるとも言える。ここには、コケ脅しのSFXや血のりドバーッの超常現象は登場しない。人物と背景のCG合成すら(たぶん意図的に)スクリーンプロセスやオプチカル合成のように見せているほど。フランス=スペイン合作のためか「シネマトグラファー」とクレジットされるダリウス・コンディの、テクニカラーへの郷愁を感じさせる画面づくり。「死と処女」に続いての登板となるポーランドの巨匠ヴォイチェク・キラルの手になる佐藤勝の時代劇のような音楽(<褒めてる?) いきなり観客に9つの門を潜らせてしまうオープニング・クレジットと、観客を美しい地獄の業火でつつむエンディング・ロールのセンスも素晴らしい。 ● すぐれたプログラム・ピクチャーというものが常にそうであるように、本作もキャスティングの妙を楽しむ作品である。本への愛着など一片だに持ち合わせぬハゲタカのような「稀覯本ハンター」にジョニー・デップ。「スリーピー・ホロウ」に続いての探偵役である。彼に稀覯本の調査を依頼する「悪名高い強欲コレクター」にフランク・ランジェラ。1冊目の本の所有者である貴婦人に“こんなところで生き延びていた”「蜘蛛女」レナ・オリン(!)・・・いや“「蜘蛛女」のような”どころじゃなくて「蜘蛛女」のキャラそのまんまで出てくるのだ。そして、ジョニー・デップに影のように付きまとう「謎の女」にエマニュエル・セニエ。今どきここまで「謎の女」が似合う女優ってハリウッドにはいないよな。その辺はさすがフランス女優とゆーことか。てゆーか、旦那(ポランスキー)の見てる前で騎乗位ファックなんかして。こいつら変態夫婦か!?

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スティグマータ 聖痕(ルパート・ウェインライト)

で、こっちが「十把一絡げ」のほう(火暴) コケ脅しのSFXや血のりドバーッの超常現象を、典型的なMTV調の目まぐるしい編集と安っぽい演出でみせるメイド・イン・ハリウッドの規格品。監督のルパート・ウェインライトはもちろん“MTV界の新鋭”だ。 ● 話は「エクソシスト」。ひとつ大きく異なるのは、とり憑くのが「神」だってこと。だからコウモリの代わりに、やたらとハトがバタバタと画面を飛びまわる。つまり「おどれらカソリックだかなんだか知らねえが、勝手に人の名前で金儲けしくさって。仕舞いにゃ地獄におちんど!」というキリストさんと、「てめえこそ出し忘れの証文みたいなことすんじゃねえよ。法王っていやあ神より偉いんだ。今さらてめえなんぞの出る幕じゃねえんだよ」というバチカンの内輪もめである。この映画の脚本家が致命的に馬鹿なのは、イエス・キリストとカソリック教会の戦いでは、どっちも負けさせるわけにはいかんではないか。必然的にスッキリしない結末にならざるを得ないのだ。 ● やたらと雨漏りするアパートに住んでるヒロインにパトリシア・アークエット。バチカンから送り込まれた「奇蹟の調査担当」神父にガブリエル・バーン。可哀想に本篇でキリスト教不信に陥って、次の映画ではサタンにとり憑かれてしまったではないか。そりゃジョナサン・プライスが枢機卿をしてるような宗教を信用しろってほうが無理だわな:)

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ファントム(ジョー・チャペル)

「スクリーム」のディメンション・フィルム(=ミラマックス)製作なのに、配給が(松竹でもアスミック・エースでもなく)K2エンタテインメントで、公開がシネマ・カリテ単館って事実がすべてを物語っていよう。つまり大いなる期待とともに製作された大作にもかかわらず、映画の出来もアメリカの成績も芳しくなかったわけだ。 ● 舞台となるのはコロラド州の山の上の、人口400人そこそこの小さな町。LAに住んでる妹を連れて町に帰ってきたヒロインは、町が“もぬけの殻”になっていることに気付く。そこかしこに、さっきまでの生活の気配がまだ濃厚に。テーブルには夕ごはんの支度。台所では火にかけたままの鍋がグツグツ煮えている。そう、幽霊船メリー・セレステ号のように…。 ● 「デモン・シード」「ウォッチャーズ 第3生命体」「ウィスパーズ」「ウォッチャーズ2」「処刑ハンター」「スティグマ 邪神降臨」「デス・クリーチャー 殺戮変異体」「ハイダウェイ」「インテンシティ 緊迫」「Mr.マーダー」「D.N.A. IV」…と、タイトル書いてるだけで眩暈がしてくるディーン・R・クーンツ作品の映画化のなかでは(…って、ぜんぶ観てるわけじゃないけど)かなりまともなほうだ。特に1匹目のクリーチャーが出てくるあたりまでは、ホラーならではの緊張感にゾクゾクする(ジャンル映画ファンなら前半だけでも観る価値あり) だが、その後の展開が、本来なら“地獄の窯が開いたような”阿鼻叫喚の大騒ぎにならにゃいかんのに、どうにも不完全燃焼なのである。1人称の心象描写の多いスティーブン・キングよりは、よっぽど映画化しやすそうな感じがするんだがなあ。金かけないからダメなのか? ジェリー・ブラッカイマーやジョエル・シルバーじゃないからダメなのか? ● ヒロインの女医にジョアンナ・ゴーイング。こういう整いすぎた美貌が恐怖にゆがむさまを愛でるのがホラー映画の醍醐味ですな:) 原作では14才の少女だったLA育ちの現代っ子の妹に(ひねくれた性格が顔つきに表れている)ローズ・マッゴーワン。正統的ヒーロー像に設定されてるわりには、あんまり活躍しない保安官にベン・アフレック。やる事なす事がいちいち人の気に障る保安官助手に(「スクリーム」以来この手のキャラを独占している)リーヴ・シュライバー。東スポにトンデモ論文を発表したら、それが現実となってしまって現場に駆り出される学者センセーにピーター・オトゥール。 ● 監督は「ヘルレイザー4」を〈アラン・スミシー監督作品〉にしてしまった男、ジョー・チャペル。クリーチャーSFXはスティーブ・ジョンソンのXFX社。もちろんクーンツだから、この映画でも犬が、あああ…。

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エニイ・ギブン・サンデー(オリバー・ストーン)

へえー。…いや、感心したなあ。オリバー・ストーンが「個人的な怒り」とも「功名心」とも無縁のメジャー大作をきちんと撮るとはねえ(大人になったのか?) とあるプロ・フットボール・チームを舞台にした(「メジャーリーグ」なんかと同質の)スポーツ群像ドラマである。政治的陰謀もベトナム戦争のトラウマも出てこない。プロ・フットボール・ビジネスの腐敗を告発するのが目的でもない。…ま、少なくとも主目的は観客を楽しませることだ。深く掘りさげたドラマは無いが、2時間30分の長尺を飽きずに楽しめるエンタテインメントとして万人にお勧めする。 ● 舞台は“2001年の”マイアミ。主人公たちが所属するのはドルフィンズならぬ「マイアミ・シャークス」。そう、この映画ではNFLの協力を一切あおがずAFFAという架空のリーグを作り上げてしまったのだ(もっとも台詞でドルフィンズが言及されているので、このパラレル・ワールドにもNFLは存在するようだが) 対戦相手のミネソタ・アメリカンズ、シカゴ・ライノウズ、LAクルセイダーズ、NYエンペラーズ、ダラス・ナイツを合わせて、計6つの架空チームが登場するのだが、これらすべてのチームの、ロゴから何からすべてをデザインして、それぞれのスタジアムを飾りつけ、人数分のユニフォームを用意したわけだ(ユニフォームを着る選手たちも必要なのは言うまでもない) CGなどではなくあくまでもアナログな手間をかけるってのがオリバー・ストーンらしいな。 ● 主人公の長嶋茂雄ヘッドコーチにアル・パチーノ。おれ、フットボールは門外漢なのだけど、やはりドン・シュラがモデルなのかな? ヘッドコーチだから当然、選手を怒鳴ったりなだめたり、ロッカールームで感動的な演説したりと八面六臂の活躍。ま、演技をじっくり撮るタイプの映画でもないし。トップシーンで負傷リタイアしてしまうベテラン4番打者・清原にデニス・クエイド。マイアミの38才のクォーターバックといえば、これはもう誰もがダン・マリーノを思い浮かべるだろう。その代役に抜擢されてあれよあれよとスターになり、あれよあれよと天狗になる若くて生意気な高橋由伸に、ウェイアンズ一派出身の黒人コメディアン、ジェイミー・フォックス。そして、ナベツネがおっ死んだので否応なく経営をまかされたチームの、徹底的な合理化を推し進めつつ、自分なりにフットボールを愛してたりもする「オーナーの一人娘」にキャメロン・ディアス。物語はペナントレースの行方に「任侠ヘッドコーチvs新人類QB」「親分肌ヘッドコーチvs合理的な女オーナー」という2つの対立軸をからませて進行する。 ● そうそう「ショーガール」のエリザベス・バークレーがブルネットの高級娼婦の役でアル・パチーノとベッドシーンを演じて必然性のまったくない乳を出している。下世話な話で恐縮だが(…てゆーか、どうせいつも下世話だが)可哀想にきっとこの役を…たいして大きい役じゃないけど…役を得る代償として監督にヤラれちゃったんだろうなあ。人間性サイテーって感じするもの>オリバー・ストーン。 ● この映画には出している物件がもうひとつあるのだが、そちらはおれは興味ないので。てゆーか、誰かあれは作り物だと言って! 精神衛生上よろしくないから(火暴)

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喜劇王(リー・リクチー&チャウ・シンチー)

確実に、あなたを幸せにする映画。香港では1999年の旧正月映画として公開された。構成はゆるゆるぐずぐず。いかにも「台本は当日の朝、考えました」ってのがアリアリだが、客のニーズを知りつくしてるチャウ・シンチーは場内をおおいに笑わせジーンとさせて、ラストシーンは出演者総出で画面に向かって「あけましておめでとう!」・・・まさしくお正月映画の王道である。これで満ち足りた気持ちになれなかったら、あなたは心を病んでいる(<断言) ● 「0061 北京より愛をこめて!?」「食神」に続くチャウ・シンチーとリー・リクチー(李力持)の共同監督・脚本。この2人の関係はおそらくジャッキー映画におけるジャッキー・チェンと監督の関係と同じだと思う。つまり「全権監督」と「現場進行監督」ね。 ● 主人公は殺され役のくせに主役より目立ちたがって疎んじられてるだめだめエキストラ。とーぜん役者じゃ食えなくて、アルバイトに町会所の住み込み管理人をしてるのだが、そこへ何を勘違いしたのかセーラー服パブのキャバクラ嬢が「女子高生らしくみせるブリッコ演技」を習いにくる…。 ● このキャバクラ嬢を演じてるのが(ちょっとマギー・チャンの若い頃を彷彿とさせる)セシリア・チャン(張柏芝)。香港映画にひさびさに出現したストライクゾーンど真ん中160キロ豪速球のヒロインである(本作で香港アカデミー賞の新人女優賞をゲットした) すっぴんで涙をボロボロ流しながら大泣きする顔がこんなにも人の心を打つ女優がいただろうか。もう、おれはゾッコンである。…もっとも、フツーにセーラー服を着せれば何の違和感もない可憐な18才(撮影時)の新人女優に、下品な厚化粧させて汚い言葉で喋らせるという悪趣味なところがいかにも香港映画なのだけれども。 ● 明らかにブリジット・リンを思わせるアクション系の大女優に扮するのはカレン・モク姐。鳩の飛ぶ教会で2丁拳銃ブッ放したり、着物のすそをヒラヒラさせてワイヤー吊りで長刀をふりまわしたりと大活躍。で、とーぜんストーリーは「キャバクラ嬢と仲良くなった主人公が、大女優の相手役に抜擢されて…」の三角関係になるわけだ。 ● “星組”レギュラーのン・マンタ(呉孟達)は今回は撮影所の弁当係。弁当の配給(=一人前の役者として認められるか)をめぐってチャウ・シンチーと死闘をくりひろげる。なお本作には、チャウ・シンチーが(同じく1999年の旧正月映画に公開された)「ゴージャス」にカメオ出演した返礼としてジャッキー・チェン大哥が「しがないスタントマン」の役でゲスト出演している。ああ おもしろかった:)

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実験映画(手塚眞)

手塚眞が「白痴」を完成させた勢いで撮りあげた40分の中篇。しかしこのタイトルは反則だよなあ。だって客は“実験映画”と承知で観に行ってるわけだから、どんなもの観せられたって文句言えないじゃん(でも言うけど) 「永瀬正敏が“廃墟で少女の映画を7日間で撮れ”との依頼を受ける」という設定はあるがストーリーと呼べるストーリーはない。実験映画だから。最後のほうの展開がちょっと「クリープショー」っぽいテイストで「ふむ 手塚眞ならこの設定でキッチュな怪奇ものの中篇に出来るのに」とも思うが奴さんにはそんな気はない。実験映画だから。意味もテーマもない。いやたぶん「撮るとは?撮られるとは?」とかいったテーマが手塚眞の中にはあるんだろうが、そんなこと観客にはぜんぜん伝わらない。実験映画だから。「焼酎貴族トライアングル」のCMを40分見せられた感じ。 ● 少女の役は「白痴」ではアイドルスターに扮していたRay専属モデル・橋本麗香19才。マネキン人形のような整った顔だち。もしかして鰐淵晴子の娘さん?違う?違うか。

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アイアン・ジャイアント(ブラッド・バード)

良く出来た子供向けアニメーション。いい歳した大人たち(おもに男性)が これだけ大騒ぎするからには、きっと彼らの涙腺のツボを刺激するなにかがあるんだろう。ただ、おれにはあんまり効かなかったなあ(鉄人大暴レ之図には昂奮したけれども) ふつう、この手の子供向け映画の場合、悪役ってのはドジなものと相場が決まってるんだけど、この映画の悪役である「鉄人を破壊しようとするMIBの役人」は、まったく可愛気のない洒落にならない悪い奴なので、観ていてあまり気持ちよくない。あと、遠近感を出すためにわざとピントをズラした撮影は不自然。一方「遠い空の向こうに」のジョー・ジョンストン監督による鉄人28号のブリキのオモチャのようなロボット・デザインと、星空への憧れを謳いあげるマイケル・ケイメンのスコアは文句なく素晴らしい。子供たちにお勧めする。 ● この映画、都内ではやってないので、千葉のワーナーマイカルシネマズ市川妙典ってとこまで越境したんだけど、なんか昔、ジョー・ダンテの「エクスプローラーズ」とかのスプラッシュ作品を大宮や浦和まで観に行ってたのを思い出したなあ。で、この「アイアン・ジャイアント」、その手のメディアが持ち上げるもんだから、場内の映画秘宝系もしくはSF系男性1人客比率が異様に高くてちょっと嫌だ<あんたもその1人や。てゆーか、あんた円の重なったとこにおるやん!


プロポーズ(ゲイリー・シニョール)

コメディ・センスのかけらもない俳優・スタッフばかりを集めてコメディ、…それもラブコメではなくスラップスティック・コメディを作ろうとした無謀としか言いようのない失敗作。「キートンのセブン・チャンス」をリメイクしようってのがそもそも無謀なんだよ。「1000人のウェディング・ドレスの娘たちが主人公を追いかけてサンフランシスコの坂道をドドドドドッと駆けていく」なんて絵ヅラを観客に受け容れてもらうためには、それ相応の手続きが必要なのだ。おれ、ふつー、このジャンルに星1つなんてめったに付けないんだけど、この映画の何も考えてない無神経さにはマジで頭にきた。 ● クリス・オドネルは固すぎて表情に乏しいし、レニー・ゼルウィガーは演技が重すぎてコメディにそぐわない。ここはやはりジョン・キューザックとゴールディ・ホーンの娘さん(ケイト・ハドソン)あたりでやってほしかった。アダム・サンドラーとサラ・ミシェル・ゲラーでも可。 ● クリス・オドネルは遺産相続のために24時間以内に結婚相手を見つけなきゃならない。その場で結婚できるように、つねに神父さんを連れている。で、神父役のジェームズ・クロムウェルが台詞もなく、ただぼおっと後をついていくだけなのだ。芸達者をキャスティングしとして「わざと何もさせない」ってのは意図として判るが、それが芸になってないから、ただの「宝の持ち腐れ」なんだよなあ。 ● クリス・オドネルの昔の彼女の役でマライア・キャリー(as音痴なオペラ歌手)、ジェニファー・エスポジート(as勇ましい女刑事)らが出ている。あと、言われなきゃそうと判らないほど変わり果てたブルック・シールズも。

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突破者太陽傳(高橋玄)

「とっぱもんたいようでん」と読む。「突破者」とは何ぞや。やくざ者でも堅気でもない者たちのことを指すらしい。“キツネ目の男”宮崎学原作による劇画の映画化…って、おれよく知らんのだけど、宮崎学って何者?元やくざ?(あんまりやくざっぽくないけど) ● 舞台は1975年。本篇の主人公・的場浩司は元学生運動の闘士で電通勤務の30才。ある日、和歌山県・新宮の実家に呼び戻されると、彼の実家すなわち、親父が組長をしてる弱小やくざ一家は山口組の侵攻にさらされていた…。 ● 明らかにVシネマとして企画されVシネマの予算内で製作された作品でありながら、ニュースフィルムなどの目まぐるしいモンタージュに的場浩司が世相を語る早口のナレーションがかぶさるオープニングから、Vシネマ歴戦の雄・脚本家の香月秀之と力作「嵐の季節」以来5年ぶりとなる演出・高橋玄は徹底してVシネマの類型的描写を避け、すっとぼけたユーモアをからませて活き活きとした映画に仕上げようと奮戦している。後半は息切れし、いかにも「やくざものVシネマ」然となってしまうのが残念だが、その意気は買う。 ● まさか亭主がやくざの跡取りとは知らなくて愕然とする的場浩司の女房に及川麻衣。組の若いもんの腹ボテの女房に中島宏海。親がやくざだから男が寄って来ないとブータレてる女子高生=的場浩司の妹に新人・石川絵里と、キレイどころが3人出てくるが濡れ場はなし。そーゆーとこは類型的でも全然オッケーなんだけどなあ。 ● “懲役太郎”の兄貴分に(本人が思ってるほど巧くない)小沢仁志。悪役である山口組系の組長を遠藤憲一が(いつも以上の)怪演。的場浩司を蔭から支援する九州の大物組長に清水健太郎。「いまの方どなたです?」「あほ! あの方は小倉組総長で、次期九州連合会長と目される親分さんじゃ。アサヒ芸能 読んどらんのかい!

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蝉祭りの島(横山浩幸)

竹中直人の「119」「東京日和」で助監督を務めた横山浩幸のデビュー作。 ● 売れっ子女流作家に瓜2つの、グータラでお調子者のストリッパー タマコは、腹に子どもがいるってのにヒモ亭主に事故死され、しようがなくて亭主の実家である離れ島にやってくる。ところが着いたとたんに田舎者の島民に女流作家と勘違いされて大歓迎。タマコはついついその気になって…。 ● 「バタアシ金魚」の“プー”の役で鮮烈な女優デビューをした土屋久美子・主演。福岡の近くにある能古島にオール・ロケーションした夏休み映画、つまり「人生のちょっとした小休暇」を描いた映画である。脚本(高橋美幸)は、森繁とか三木のり平とか由利徹が出てくるようなタイプのコメディとして書かれているにもかかわらず、演出が最初っから「しっとりモード」なので笑いが弾けない。 ● タマコは正体を隠して亭主の母ちゃんの営む民宿に逗留するが、ベテラン・吉村実子演じる この母ちゃんてのが、客を客とも思わぬ無愛想。怠惰なタマコを軽蔑して、黙々と畑仕事に精を出す「日本の母」で、この2人の和解が後半のドラマの焦点となるわけだが、脚本・演出・吉村実子の演技がうまく噛みあっておらず、全体としては凡庸な出来の「プログラム・ピクチャー」。ヒロインが最後まで“改心”したりしないのは気に入ったけど。全篇出ずっぱりで奇矯な魅力を爆発させている土屋久美子を眺めてるだけでシアワセという、おれのような土屋久美子フェチにしかお勧めできない。 ● ストリッパーという役柄だから、こっちは当然「そーゆーシーン」を期待してるわけだが、最後の最後に砂浜でついに! シャツを脱いで、スカートを落として、ブラを外して、さああと1枚というところで吉村実子がしゃしゃり出てきて「裸踊りなんかやみれ、みっともない」…って、こらあ!婆あ邪魔すんなあ! ● タイトルは「島を離れて死んだ人の魂が、お盆に蝉の姿をとって帰ってくるのを供養する」という能古島に実際につたわる風習から採られている。冒頭であっけなく死んじゃうヒモ亭主・北村一輝がいい味。竹中直人が友情出演。

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やかまし村の子どもたち(ラッセ・ハルストレム)

「サイダーハウス・ルール」の公開にちなんでラッセ・ハルストレムの旧作が限定公開された。「ロッタちゃん」「長靴下のピッピ」のアストリッド・リンドグレーン原作・脚本による、もうひとつの代表作の映画化。もちろんスウェーデン映画。「ロッタちゃん はじめてのおつかい」は“いかにもテレビ”だったけど、ロングショットを効果的に多用した本作からは紛れもない映画の息使いが感じられる(…って書いてからIMDbで調べたら26分x7話のTVシリーズがあるみたいだなあ。じつはTVの再編集版だったりするんだろうか) ● “村”といっても農家がたったの3軒。男の子3人に女の子が3人、それに みそっかすの小っちゃな女の子が1人。“やかまし村の子どもたち”が夢のように美しい景色のなかで過ごす夢のような夏休み。子どもの特権である「想像力」という魔法の杖で、この裸足の子どもたちはあらゆる体験を黄金に変えてしまう。 ● これ、1986年の映画…ってことは大評判を取った「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の後なのである。ゴールデン・グローブ外国語映画賞の受賞第1作がこれとは。根っからの児童映画作家なのだな>ラッセ・ハルストレム。

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やかまし村の春夏秋冬(ラッセ・ハルストレム)

「やかまし村の子どもたち」のラストシーンから始まる完全な続篇。「…の子どもたち」が夏休みの話だったので、本作は秋の紅葉から、雪のクリスマス、大晦日の夜更かし、雪溶け、春の予感、エイプリル・フールの悪戯、遅い春の訪れ、復活祭、そしてまた夏がめぐってきて子どもたちも一つ大人になりました…というところでラストシーン。やかまし村の子どもたちは、どこの家の子どもでもなく「村の子ども」である。すべての年中行事は大人と子どもとで一緒に行なわれる。大人は子どもたちを宝物のように大切にあつかい、子どもたちは学校から帰るとそれが当然のように家の仕事を手伝う。かように、この映画では不幸がいっさい描かれない。ラッセ・ハルストレムは確信犯的に幸福だけを描く。かつてあったはずの(あるいは一度もなかったかもしれない)幸福の姿を。「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」や「ギルバート・グレイプ」においても不幸を不幸として描かないという態度を貫いていたことを思い出してほしい。このスウェーデン人はじつは硬派の信念の人なのだ、きっと。 ● 2本目だってのもあるけど、7人の子どもたちのキャラわけも完璧で、これはもう、楽しくて心あたたまる珠玉の逸品である。[後日ちゃんと公開される予定らしい]

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ピンチランナー(那須博之)

いまをときめくモーニング娘。の主演映画に、毎回々々素人不良たちが活き活きと大あばれしてた「ビー・バップ・ハイスクール」シリーズの監督を起用するってのは正しい人選だな。那須博之は期待に応えて短期間だったであろう撮影にもかかわらず、みごとに正統的なアイドル映画を撮った。…つまり「他愛のないギャグ」と「青臭い感動と友情」で色づけした「動くグラビア映画」を。「主役7人ってのはいくらなんでも交通整理が効かない」とか「クライマックスであるべき駅伝がいちばん退屈」だとか「駅伝大会にプロのムービー・カメラマンを7人も動員してビデオ撮りかい!」とか、いろいろとツッコミたいところはあるのだが(←もうツッコんどるやん)、女の子たちが可愛く魅力的に撮れてるのですべて不問とする。それにこれ(作者がおそらくメインの客層として想定していると思われる)小中学生の女の子たちにとっては十二分に感動的な映画になってるし。 ● アイドル映画においては主演者たちの演技のレベルは問わないのがお約束。…とは言え、飛びぬけて勘が良いのはヒロインを演じた安部なつみ。この子はメンバーの中ではいちばん「ひと昔前の歌謡曲的な感性」を備えてると思う。新入生役の後藤真希は演技云々を超えて、小学生のようなあけっぴろげで伸び伸びとした魅力を発散している。サブヒロインの市井紗耶香と、パン屋のおばさん・中澤裕子&保険委員・保田圭の3名はちょっとツライかな。7人もいるんだからいちばんチビの矢口真里あたりをメガネッ娘にしても良かったのでは(そーゆーものではない?) なお、この項を書くために公式サイトで彼女たちの名前を調べたってのは内緒だ。てゆーか、映画の帰りに「プッチ・ベスト」ってCDを買っちゃったのは口が裂けても秘密だ(火暴)

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アンドリュー NDR114(クリス・コロンバス)

おれってロビン・ウィリアムスが嫌いなのかも。…って、今ごろ気付くか>おれ。だって中年太りのロボット刑事Kみたいな前半は楽しく見てたのに、後半、素のロビン・ウィリアムスになったとたんに嫌悪感を覚えてしまうのだ。いや10年前まではけっこう贔屓だったんだぜ。「ポパイ」「ガープの世界」「グッドモーニング・ベトナム」「フィッシャー・キング」etc.…。そうだよ、昔のロビン・ウィリアムスは決して「愛と感動の良いおじさん」じゃなかったんだ。もっと狂ってたし、人間的な弱さを素直に出していた。いつからあんな自信に満ちた善人になってしまったのだろう。じつに勿体ない(いまでも狂った脇役でチラッと出てるときなんかサイコーなのに) ● アイザック・アシモフの短篇「バイセンテニアル・マン(=200年 生きた人間)」の映画化。ちゃんと冒頭にロボット工学の3原則が提示されるし、大筋で原作にほぼ忠実な脚色なのだが、クリス・コロンバス+ロビン・ウィリアムスの「ミセス・ダウト」コンビの手にかかると、なぜかSFにならない。もともとの原作もかなりセンチメンタルなものだが、ここまで典型的なお涙頂戴のメロドラマではないぞ。「トゥルーマン・ショー」なんかは、観終わったあとに「ああ良いSFを観た」と思えたのに、「アンドリュー NDR114」は未来社会が舞台でロボットが主人公であるにもかかわらずちっともSFを観た気がしないのだ。…いや、まあ別に「SFだからって偉い」わけじゃないしメロドラマならメロドラマでもいいんだけどさあ、面白けりゃ。 ● 個性的な家事ロボットに理解を示す“サー”(=ご主人様)役のサム・ニールが、人柄の良さが滲んでくる好演。“リトル・ミス”(=小さなお嬢さま)役のハリー・ケイト・アイゼンバーグちゃんがカーリー・スーみたいで可愛い(喋るオウム映画「ポーリー」のお嬢ちゃんだそうだ)

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ザ・ビーチ(ダニー・ボイル)

結論から言おう。「ザ・ビーチ」に欠けているもの、それはヴィルジニー・ルドワイヤンのザ・ビーチクである(火暴) いや、まあチラリと見せてはいるんだけど…って、そうじゃなくて。「デジタル世代の若者が生を実感したくてフィジカルな体験を求める」という、つまり「ファイト・クラブ」と同じ話である。レオナルド・ディカプリオがエドワード・ノートンで、ロバート・カーライルがブラッド・ピット。で〈ファイト・クラブ〉が〈ザ・ビーチ〉なわけだ。だけどエドワード・ノートンが〈ファイト・クラブ〉に惹かれてく気持ちはよくわかるけど、ディカプリオがどうしてあんなに〈ザ・ビーチ〉へ行きたがるのかが、まったく伝わってこない。てゆーか、致命的なのは、これ「レオナルド・ディカプリオのアイドル映画としての商品価値」という興行的な大前提からディカプリオ本人もダニー・ボイルも意図的に目を背けてる事だ。わざわざ主人公を、レオ・ファンの女の子たちが感情移入できないキャラクターにするなんて最低。プロじゃない。案の定、劇場は閑古鳥だったぞ。 ● ディカプリオは後半のだんだんと正気を失っていくあたりの凄みが足りない。完全にロバート・カーライルの怪演に喰われてる。期待の(何の?)ヴィルジニー・ルドワイヤンだが、見せ場(何の?)とよべる見せ場もなく物足りない。

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アメリカン・ヒストリーX(トニー・ケイ)

いや、きっといい映画なのだろうよ。だけどこんな学校で見せられる“差別は止めましょう”って啓蒙映画みたいなもん観せられても「…それで?」とか「…だから?」といった感想しか浮かばんよ。だって、いちばんこの映画を観せるべきウスラバカ白人層は観に行かんでしょ そもそも。エドワード・ノートンの演技も含めて、こちらの予想を裏切る部分が少しもないインテリ優等生映画。すっかり退屈して(ノートンのあばずれガールフレンドを演じるファイルーザ・バークに心を残しつつも)1時間で退出。

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トリック・ベイビー(マシュー・ブライト)

不良少女2人のロードムービー。賢明なる諸兄諸姉が先刻お見通しのように、ヴィンセント・ギャロは主演ではない。まるで「フィメール・トラブル」や「ポリエステル」の頃のジョン・ウォーターズが「乙女の祈り」の2人を主人公にして撮った「ペルディータ」…といった感じ。母親が愛用の覚醒剤にちなんでクリスタルと名付けた白人少女と、オナニー狂のメキシカンのレズっ娘サイクロン(竜巻娘)・・・16才の札つき少女2人が鑑別所を脱走しての逃避行。これは劇中の台詞でも明示されるのだが、2人は幸せの青い鳥をさがすあねおとうとヘンゼルとグレーテル)なのだ。となればヴィンセント・ギャロの役回りはとーぜんお菓子の家の魔女だ(最後はもちろんオーブンで焼かれる) 全篇に、路地裏に捨てられた雨ざらしのバービー人形のような美しさと、都会に生きるカラスのような気高さがあふれているC級トラッシュ映画の傑作。 ● クリスタルにブスなクリスティーナ・リッチ(というより、この場合は“痩せる前のリッキー・レイクのような”という形容が相応しいか)ナターシャ・リオン。サイクロンにドミニカ生まれのマリア・セレドニオ。判事の役でジョン・ランディスが特別出演している(…場合か!仕事しろ仕事) ● これ、封切り5日目の1000円サービスデイに観たんだけどシネセゾン渋谷に観客はわずか30人あまり。「バッファロー'66」のギャロ人気っていったい何だったんだ? てゆーか、評判の「アメリカン・ヒストリーX」を途中で放棄しておいて、こんなクズ映画を絶賛してる おれの感性っていったい…。

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アシッド ハウス(ポール・マクギガン)

「トレインスポッティング」の原作者が「トレインスポッティング」以前に発表した短篇集を「トレインスポッティング」の原作者みずからが脚色したシュールな3話オムニバス。第1話が「蝿になって死んだ不運な男」、第2話が「腹ボテのアバズレと結婚したお人好し」、第3話が「新生児と魂が入れ替わってしまったヤク中」。「トレインスポッティング」のダニー・ボイルほどポップではないし、「トレインスポッティング」のダニー・ボイルほどオーソドックスでもない。作者が登場人物をあざ笑ってる感じがして、観ていて不快。好きじゃない。えーと、もう書くことないな。“ケミカル・ジェネレーション”て何ですか?

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どら平太(市川崑)

小学生の頃から だから映画ファン歴よりもプロレス・ファン歴の方が長い。プロレスラーってのは不思議な職業で、まぎれもなく格闘技であるにもかかわらず、肉体的に強いものが最強とは限らない。肉体的なピークは過ぎてもそれを補うテクニックやショウマンシップを持ったレスラーの方が強くて人気もあったりするのだ。長くプロレス・ファンをやってればどうしたって、ご贔屓のレスラーが衰えていく姿を目の当たりにする事になる。いちばん悲しいのはレスラーが引退する最後の試合ではない。それよりずっと前のある決定的な試合を目にしたときだ。ああこの人にはもうかつてのような試合をする力が無いのだ…不意にそう判ってしまう試合というものがいつか必ず来る。それまで畏敬や驚嘆の視線で見上げてきたレスラーを、その日からは温かい目で見守るようになる。それがどの試合であるかはファン1人1人によって違うけれど。 ● おれにとっては「どら平太」がその試合だった。市川崑を心から敬愛する おれの悲しみがどれほどのものかお判りいただけるだろうか。これからも新作が来れば いそいそと足を運ぶだろうが、もう2度と市川崑の映画を見る前のあの胸のときめきは戻ってこないのだ…。 ● 山本周五郎の「町奉行日記」の映画化。宣伝文句にあるように「痛快」でもなく「愉快」でもなく「豪快」でもない。おれの敬愛するもう1人のモダン派監督・岡本喜八がおなじ原作を仲代達矢の主演でテレビドラマ化した「着ながし奉行」にあふれていた「軽妙」や「洒脱」がここにはない。それが悲しい。 ● 市井の人を演じて比類なき巧さを見せる役所広司は、時代劇の主演としては見得が切れないのが致命的。「遠山の金さん」が諸肌ぬぐ瞬間の凄みがこの人には出せないのだ。その点「着ながし奉行」の仲代はすでに「駄目になってからの仲代」だったけれど、それでもそうした時代劇の演技は役所よりはるかに秀でていた。映画を鈍重にした最大の戦犯は、何を勘違いしたかクソ重い田舎芝居をしてる悪役の菅原文太と、コメディ・リリーフでありながらちっとも可笑しくも微笑ましくもない片岡鶴太郎の2人。浅野ゆうこはコメディ・リリーフとしてちゃんと機能してるが、どら平太の「おっかない奥方」ならこれでいいけど「柳橋の芸者」にしちゃ色気が無さすぎる。おれなら菅原文太・片岡鶴太郎・宇崎竜童の3人は麿赤児・哀川翔・竹内力に差し替えだ。それですべてのカット尻を3コマずつ切って、一秒30コマで映写すれば、いくらか市川崑っぽくなるのじゃないか。

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ロミオ・マスト・ダイ(アンジェイ・バートコウィアク)

リー・リンチェイ待望のハリウッド主演第1作。アクション映画の名伯楽ジョエル・シルバーのプロデュースということで期待は否が応にも膨らむわけだが、残念ながら香港映画ファンが観たらガッカリする出来。かと言って香港映画ファン以外に「リー・リンチェイの実力がこんなものか」と思われるのも心外なのでどなたにもお勧めできない。 ● いきなり〈李連杰〉と漢字で始まるオープニング・クレジットがドえらいカッコイイが、良かったのはそこまで。この映画の最大の敗因はリー・リンチェイのキャラクター設定を根本的に間違えたことだ。リー・リンチェイの役者としての“持ちキャラ”は「堅物の好漢」であって、決して「気障な色男(ロミオ)」ではない。これではジャン=クロード・ヴァン・ダムではないか(てゆーか、これがヴァン・ダム映画なら ★ ★ ★ 付けてたかも) ● 「ロミオとジュリエット」の翻案だそうだが、キスひとつしないロミオとジュリエットなんてあるものか。中国人マフィアと「人情派親分」デルロイ・リンド率いる黒人ギャングの抗争。「弟を殺された兄」リー・リンチェイは香港の刑務所を脱獄して渡米、「兄を殺された妹」アリーヤは堅気の生活を捨てる。中国人マフィアには(加藤善博に似た“日本人顔”の)ラッセル・ウォン、黒人ギャングにはイザイア・ワシントンと、どちらの組にも「野心に燃えた若頭」がいて、この後のストーリー展開は諸賢の想像されるとおり・・・もう、まんまやくざものVシネマの世界である。てゆーか、これ実際にアメリカでは「黒人向けのプログラム・ピクチャー」なのだろう。黒人はブルース・リーの昔からカンフー好きだし。ヒップホップ・クイーンのアリーヤがヒロインを務めるのは、日本なら「安室奈美恵:主演」みたいなものか(ま、アリーヤはなかなかイイ女だけれど) それにしても香港から渡ってきた黒社会の連中がなんで北京語を喋ってるのかね? ● 本作で監督デビューしたアンジェイ・バートコウィアクは、シドニー・ルメットの1980年代の傑作群をステディカムを駆使した流麗なカメラワークで支え、近年では「スピード」「ディアボロス 悪魔の扉」などを手がける撮影監督である。ところが本作はそんな名カメラマンの映画とは思えぬほど撮影と編集がド下手なのだ(撮影は「裸の銃を持つ逃亡者」のグレン・マクファーソン、編集は「ディープ・ブルー」「ブレーキダウン」「沈黙の陰謀」のデレク・G・ブリーキン) アメリカ映画が得意なはずのカーチェイスまでボロボロってのはどゆこと? こんなことならピーター・ハイアムズみたいに自分で撮っちゃえば良かったのに。 ● 何にもまして許せないのはせっかくのリー・リンチェイの超絶美技を細かいカット割りとCGで台無しにしてしまったこと。黒人相手なのでリンチェイの技を受けられる相手がいなかったってのもあるだろうが、それにしても酷い。宝の持ち腐れとはこのことだ。武術指導は格闘系の振付を得意とするユン・ケイだが、本作ではなぜかジャッキー・チェン スタイルのアクションを多用している。こいつは観なかったことにしときますから、次はぜひガチンコ勝負でお願いしますぜ>リー師父。

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花火降る夏(フルーツ・チャン)

本土返還半年前の気分を描いた傑作「メイド・イン・ホンコン」に続くフルーツ・チャン(陳果)の新作。香港では1998年に公開されたから原題は「去年煙花特別多(=去年は特別に花火が多かった)」。ランタオ島大橋の開通から始まってやたらと記念行事が多かった1997年の夏の物語である。 ● 2人の兄弟がいる。兄はイギリス軍香港部隊の軍曹だったが、本土返還で部隊が3月限りで解散となり“失業”してしまう。で、チンピラやくざの弟が組の運転手の仕事を世話する、という(どうみても偶然だけど)望月六郎の「皆月」によく似た話。「喪失感」を描いた物語だということも共通している。 ● しょせんは「戦ったことのない軍隊」だったが自分は何かに忠誠を尽くしてきた。いま自分は熱い気持ちを何処に振り向ければいいのか。男は元部下たちと英国系銀行への強盗を計画するが…。〈行き処を失くした元軍人たちの叛乱〉…香港映画ファンならたちどころにジョニー・マックの「クーロンズ・ソルジャー 九龍の獅子(省港旗兵)」を想起するだろう。返還の日の早朝、中国軍の香港入城を見物に行って、思わず戦車に敬礼してしまう元軍人たちの心情が切ない。彼らにとっては、香港の腐ったシビリアンより中国の兵士の方がシンパシーを感じられるのだ。イギリスはおれたちを見捨てた。中国?「これから誰が香港を仕切ると思う。共産党だよ。奴らは極道だ。金持ちから財産を奪った」 では香港は? そもそも“香港”て何だ? おれの香港は何処へ行ってしまったんだ…。 ● 「メイド・イン・ホンコン」と較べるとずいぶんと“普通の香港映画”っぽくなったと思う。だが、それによってフルーツ・チャンはアクションがまったく描けない監督だということを無残に露呈してしまった(アクション・シーンの編集も酷い) 2時間8分。明らかに後半が長すぎる。7月1日の返還式典にクライマックスを集中させるべきだった(いわゆる「ゴッドファーザー」方式で) そして9月25日のシーンを飛ばして、いきなり1998年に繋げるべきだったのだ。“去年の香港”を誰も覚えてないというあのエピローグは秀逸なのだから。エンドロールのモノクロ映像に映る5人のランニング・シャツの中年男は“香港”の亡霊だ。なるほどこれは夏の物語であった。 ● 前作に続いて製作はアンディ・ラウ。主人公の奥田瑛二にトニー・ホー(何華超)。チンピラの弟・北村一輝に、いまや若手トップスターのサム・リー(李燦森)。そして吉本多香美にあたるのが、目が細くて頬骨が高い韓国人顔のジョー・コク(谷祖琳)だが、このヒロインが結局、主人公とヤラないまんまってのも弱い。てゆーか、娯楽映画としちゃ甘いよな。 ● あと、本筋とはぜんぜん関係ないのだが、生意気なコギャルはバスの2階の窓から放り出しても構わないのだというフルーツ・チャン監督の「主張」を、おれは全面的に支持するぞ:)

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マーシャル・ロー(エドワード・ズウィック)

デンゼル・ワシントン2本立てのもう一本は「マーシャル・ロー」。こっちのデンゼルはFBIのテロリスト対策本部長で、もちろん正義の味方。ブルース・ウィリスは陸軍の将軍で(映画の冒頭で明かされてるので言っちゃうけど)悪役である。「3大スター共演」のもう1人、アネット・ベニングはCIAで…これが善人だか悪役だかよくわからんのだ。“謎めいた役”とかじゃなくて脚本が不鮮明なので観客にとってこの人は「何しに出てきてんだか良くわかんない人」になってしまってる。脚本が不鮮明といえば悪役についてもそうで、ブルース・ウィリスが“悪い人”ってのは判るが、こいつが“何をしたいのか”が結局 最後まで判らないという有様。「NYが爆弾テロに曝される」って話だから、直接的な悪役としてアラブのテロリストがいるわけで、なるほど裏でウィリスと通じてるのかと思ってるとそうじゃないし。なんとも歯切れの悪い映画なのである。監督は「グローリー」「戦火の勇気」のエドワード・ズウィック。正義漢ぶるのもいいけどブラッカイマー映画の「エネミー・オブ・アメリカ」よりバカに見えるってのは問題あるんじゃない?

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アナザヘヴン(飯田譲治)

「ナイトヘッド」「らせん」の飯田譲治監督・脚本作品。基本的に脚本(ほん)の書けない人だと思っていたが、意外や意外、本作は平易なエンタテインメントとして、きちんと成立していた。R-15指定だがホラーではない。(ジャンルを言ってしまうとネタバレなので黒文字にしておくが)「憑依伝染もの」アクションである。(巷間言われている「ヒドゥン」ではなく)直接の元ネタは「悪魔を憐れむ歌」だろう。それをラブ・ストーリーとして語りなおしたのが本作のオリジナリティ。チラシには「ラスト30分の哲学と謎を、あなたは解くことができるか…?」などと書いてあるが、この映画には哲学だの謎だのといった難しいものは一切ないので安心されたい。周知のようにテレビドラマとの連動企画だが「テレビ版を観てないと話が通じない」箇所がまったくないのも偉い(それが当たり前なんだけども) ● 主人公の刑事に一途な思いを寄せる元キャバクラ嬢のヒロイン市川実和子が素晴らしい。スー・チーとかジュリー・デルピー系統のヒラメ顔で、最初に出てきたときは「何だこいつ」とか思うんだけど、だんだんと愛おしく思えてくるのだから大したものだ。これで「悪魔的な魅力」が出せてれば完璧だったけど、まあこれが女優デビュー作だそうだし。ああ それなのにそんなあっけらかんとヌードに…。 ● 話は飛ぶんだけど、たぶん飯田譲治は映画のターゲットとして、このヒロインのようなネエちゃんたちを想定していて、そこから逆算してヒロイン像を組み立てたに違いなくて、ちゃんと最後にはそういう子たちが泣けるストーリーになってるという…もちろんそんなこと映画の本質とは何の関係もないんだけど…そうした飯田譲治のマーケティング意識というものにはちょっと感心した。 ● 岡元夕紀子は耳まで裂けてそうな大きな唇と、猫のような瞳が邪悪キャラにハマッてるんだけど、この役柄からしたらどうしたって血まみれ全裸で立ちつくすってシーンが必要でしょうが。それにつけても松雪泰子 どうしてああも下手なのか(あんなんで連ドラの主役とか務まるの?) ま、そりゃ江口洋介だって上手かないけどドラマの進行を阻害するほど下手ではないからなあ。

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風雲 ストームライダーズ(アンドリュー・ラウ)

「欲望の街(古惑仔)」シリーズで一躍ヒットメーカーとなったゴールデン・ハーベスト&アンドリュー・ラウ監督&イーキン・チェンが、新たにアーロン・コクを迎えて、ダブルヒーローで放つ伝奇SFXアクション。…って、要するに「孔雀王 アシュラ伝説」である。つまり阿部寛+ユン・ピョウ+勝新太郎+グロリア・イップが、ここではイーキン・チェン+アーロン・コク+千葉真一+スー・チーになってる訳だ。香港のコミックスが原作だけあって静止画としてみればカッコイイのだが、SFXが克ちすぎて生身のアクションの興奮がカケラもない。リー・リンチェイの一連の武侠片などとはまったく別種の映画。 ● 話はおなじみの「中原に武術集団が群雄割拠」もの。天下会を率いる雄覇(千葉真一)が天下獲りの野望のため、予言にしたがって風(イーキン・チェン)と雲(アーロン・コク)2人の弟子を育てたつもりが、最強の化け物を作っちまって逆に滅ぼされる。…おっと、つい千葉真一の視点で書いてしまったが、タイトルからも明らかなように本来の主役は2人の弟子の方である。だが、ビリング上は助演筆頭である千葉真一が完全に主役2人を喰ってしまってる。「古惑仔」チームとは思えぬ心のこもってない物語と、画面を覆い尽くすCGの嵐の中で、なお燦然と光り輝いているのは我らがチバチャンの臭味たっぷり&脂っぽーい芝居の魅力なのだ。おそらく監督も撮ってる途中でそれに気付いたのだろう。全体の編集のバランスを崩してまで悪役である千葉真一が大きくフィーチャーされている。プロモーションのためハリウッドから来日(!)して堂々と「CGは嫌い」と言いはなつ…どこまでも判っている男チバチャンなのである。 ● 千葉真一に押され気味とはいえ、主役の2人はイメージを裏切らぬスターぶり。裏切るも何もイーキン・チェンは「優柔不断なほどに優しすぎる男」という「古惑仔」を引きずったキャラとヘアスタイルだし、髪を青く染めてマントを風にひるがえすニヒルな(死語?)アーロン・コクは「アンディ・ラウの神鳥伝説」の白髪鬼そのまま。2人の間で揺れうごくヒロインにクリスティ・ヤン(楊恭如) 後半になって登場するコメディ・リリーフにスー・チー。CG特撮は香港のセントロ・デジタル・ピクチャーズ。“ILMの協力を得”たそうだけど、CG背景と人物のなじまなさ加減は30年前のオプチカル合成なみだぞ。

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ノー・ルッキング・バック(エドワード・バーンズ)

製作総指揮:ロバート・レッドフォード 脚本:エドワード・バーンズ
撮影:フランク・プリンジ 編集:スーザン・グラフ 音楽:ジョー・デライア
「マクマレン兄弟」「彼女は最高」に続くエドワード・バーンズ監督・脚本・主演の第3作。とても普通の映画である。奇抜な設定も派手な道具だてもない。銃撃シーンもセックス・シーンもない。凝った撮影も目のまわる編集もないし流行りの音楽もかからない。ここにあるのは市井の人々の普通の暮らし。再会。別れ。旅だち。普遍的な愛情や悲しみの感情。それは今のアメリカ映画においてとても貴重な普通さだ。ぜひこのままウディ・アレンのようにマイペースで撮り続けていってほしいと思う。 ● 舞台となるのは現代のニューヨーク、ロング・アイランドのロッカウェイ。橋ひとつ渡ればブルックリンとはとても思えないさびれた海辺の町。ヒロインはそこのダイナーでウェイトレスをしている三十路の独身。独身男性ったって“魚屋のマーティ”とか“ピザ屋のトニー”ぐらいしか残ってないような町で、幼なじみのカレと同棲してるのは、だから幸運なほうかもしれない。でも本当にこの男と結婚していいのだろうか。そりゃあ誠実なカレだけど、いまだに1970年代のポンコツ車をだましだまし乗っていて新車も買えない、たまには橋の向こうの街にディナーに連れて行ってくれる甲斐性もない…そんな暮らしでほんとうにいいの? だから色男の元カレがふらりと町に戻ってきたとき、あたしの心は動揺してしまった。もちろんあたしだって十六、七の小娘じゃないんだから、この男の底の浅さだって見えている。“白馬の王子さま”なんかじゃないってことぐらい百も承知だ。でも一生このまま共働きのウェイトレスとして朽ち果てていくのかと思うと堪らなくなる。ひょっとして、もしかして、…この男となら。 ● ヒロインと2人の男のラブ・ストーリー。「妻の恋人、夫の愛人」「リトル シティ 恋人たちの選択」と、今までそのカリスマを演技に有効利用してきたロックスターのジョン・ボンジョヴィが“地味な今カレ”を演じてしっかりした演技力を見せる。“色男の元カレ”はエドワード・バーンズが気持ちよさげに自作自演。男のおれから見ても御両人ともじつにイイ男である。だからヒロインのローレン・ホリーにチャームがないのがとても残念。「あまり美人ではないところがリアリティ」って言われりゃその通りなんだけどさあ。その分、ヒロインのお母さんのブライス・ダナー(←グィネス・バルトロウの母ちゃん)、ヒロインのバツイチの妹「マクマレン兄弟」にも出てたコニー・ブリットン、バーテンダーのイタリア娘ジェニファー・エスポジートら、共演してる女優陣がみな、とてもキレイに撮れている。 ● 「彼女は最高」のトム・ペティに続いて、本作ではブルース・スプリングスティーンの歌が大々的にフィーチャーされている。なるほどこのニュージャージーのロックンローラーはいつだってアメリカの普通の町で暮らす普通の人々の歌を歌ってきた。ラブシーンに流れる「アイム・オン・ファイア」は鳥肌モノ。スプリングスティーンの「ザ・リバー」に涙したことのある人にお勧めする。

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ウィング・コマンダー(クリス・ロバーツ)

ゲームに詳しくないのでよく知らんのだが「ウィング・コマンダー」ってそんなに有名なゲームなの? “ゲーム・デザイナーみずからが監督・脚本”てのが売りのようだが、ストーリーのショボさ加減からすると元はシューティング・ゲームか。 ● 「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河英雄伝説」のような、はるかな宇宙を大海原に見立てての宇宙海戦ものである。宇宙船とかはいちおう“「スター・ウォーズ」以後”のデザインなんだけど、主人公の乗る艦載機がなぜかガルウィングでプロペラ付けりゃ もろコルセアで笑っちゃう。敵軍の戦闘機はバットウィング(だっけ?バットマン・マークの形をしたやつ)だったり。気ぐるみSFXによる蜥蜴タイプの敵宇宙人が死ぬほどロジャー・コーマン感を盛り上げる。 ● まあ、はなからまともなSFを望むのが間違いで、これはフレディ・プリンゼJr.と「スクリーム」のキチガイ兄ちゃんマシュー・リラード主演のティーンズ・ムービーとして楽しむのが正解なのでしょうな。マジにやってる「スターシップ・トゥルーパーズ」って感じ?(←語尾上げる) 「ディープ・ブルー」のサフロン・バロウズ演じるヒロインのちょっと年上のかっこいいお姉さまというキャラ設定もいかにも。この人がウィング・コマンダー(編隊指揮官)なんだけど、なんでタイトルロールが主役じゃないの? ハン・ソロの役にチェッキー・カリョ。地球防衛軍提督にデビッド・ウォーナー。「U・ボート」の艦長さん(ユルゲン・プロフノウ)が出てるので、ちゃんと深海でソナー回避のシーンもある(なんで宇宙に深海があるの?とか、真空でどうやってソナー打つんじゃ!とか考えてはいけない)

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ジャンヌと素敵な男の子(オリヴィエ・デュカステル)

トンデモ映画は不意にあなたを襲う。なんとエイズ啓蒙ミュージカルである。しかもシネスコだ。「ヤリマン娘が恋した相手はエイズだった」という、あのなあ…ってストーリー。だいたいミュージカルってのは元来“恋のときめき”や“生の歓び”をこそ歌うものだと思うけれど、本作の場合、テーマがテーマだけに「♪医者が言ったぁ、僕はウィルスに冒されて死ぬのだとぉ〜」って、歌うな歌うな!そんな悲痛な顔して。「♪いつ感染を?」「♪6年前にヤク中で注射針から感染さぁ〜」って、踊るんじゃない!そんな歌詞で。何を考えておるのだ。テメエでヤク中になっといて「♪悪いのは政府ぅ〜」と、責任をすべてを人に押しつける態度はさすがフランス人。ファンタスティック映画祭で上映したら大爆笑まちがいなしの怪作。 ● ヴィルジニー・ルドワイヤン(もちろん歌う)は「ヤリマン娘」だからとーぜん脱ぎまくりで、とても嬉しい(←なんて素直な感想) この娘、よくよく見るとジーナ・デイビスに似てるんだよなあ。…いや、褒めてんだか貶してんだか自分でもわからんけど。エイズ青年役マチュー・ドゥミは、なんと「シェルブールの雨傘」のジャック・ドゥミ監督の息子だと。親父さんは泣いてるぞ草葉の蔭で。

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スティル・クレイジー(ブライアン・ギブソン)

どの記事を見てもそう書いてあるしポスターにも堂々と謳ってる事をわざわざここで繰り返すのも芸がない話だが事実そうとしか言いようがないんだからしようがない・・・「フル・モンティ」のロックバンド版である。 ● 「神は'70年代バンドに嫌気がさしてセックス・ピストルズを創造した」…というわけで、お定まりの仲間割れでバンドは解散。メンバー同士 音信不通のまま時は流れて20年。1970年代サウンドのリバイバル・ブームに便乗して再結成したザ・フーもどきの…いまや50絡みのおっさんバンド道中記。 ● 「コミットメンツ」の脚本家チームによるとても良く出来た人情噺。ロックバンドを描いてはいても(そう断じる資格がおれにあるかどうかは別にして)これはロックじゃない。「コミットメンツ」はロックだった。「スティル・クレイジー」はロックじゃない。アラン・パーカーには見えているものが「TINA」「陪審員」のブライアン・ギブソンには見えていない…たぶん死ぬまで。 ● なんでどうしてどこが違うの?と言われても困るが、だってあなた「クライング・ゲーム」のスティーブン・レイがロックバンドのキーボードに見えますか? 脚本上は描かれている「ロックが成立する瞬間」がついにこの映画には訪れない。ロックンロール・バンドの興奮が伝わってこない。だいたい大団円の曲がいきなりバラードって、ロックをバカにしてんのか、え? ついでに言えば映画オリジナルの曲も酷い。まあ、書いたのがフォリナーのミック・ジョーンズとスクイーズのクリス・ディフォードだから(以下略) ● キャストは(ロックバンドのメンバーに見えないことを除けば)皆、好演。マネージャー役の、いかにも「イギリスのネエちゃん」という感じのジュリエット・オーブリがなかなか良かった。誤解のないよう念を押しておくが、松竹大船映画としてはとても面白い。「フル・モンティ」が大好きでロックが大好きじゃない人にお勧めする。

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安藤組外伝 掟(梶間俊一)

「あなた今日、帰りは?」「少し、遅くなる」・・・で、そのまま敵対する組長を殺しに行って16年間 刑務所の中。そりゃ奥さん怒っちゃうよフツー。岩城滉一が「冬の華」の高倉健を思わせる、古い価値観を体現するストイックなヒーローをうっとりと演じている。そのうえ脚本が「極道血風録 無頼の紋章」の武知鎮典なので、高倉健なら絶対に口にしないナルシスティックな台詞の連発(健さんも実生活では言ってそうな気もするけどね) しかし岩城滉一って“老け”が入っても味も演技力も身に付かない珍しいタイプの役者だな。 ● 観るべき点がないかといえばそうでもない。点描ではあるが敵方の家族団欒や恋人との逢瀬を描くことで、岩城滉一の行為が「掟だなんだとカッコつけたって、あんたのやってることは薄汚い人殺しじゃないか」と示唆している点は評価できるし、本田博太郎や原田大二郎らの大芝居は安心して楽しめる。“やくざな夫の帰りを待つ妻”という「竜二」と同じ役に安易にキャスティングされた永島暎子は「何の変哲もない台詞に万感の想いを込める」という得意技をここでも存分に披露している。脚本・演出とも凡庸だがタイプキャストの魅力でみせるプログラム・ピクチャー。 ● タイトルの「安藤組外伝」ってのは“安藤昇が企画に絡んでます”という一種のブランド名みたいなもので、劇中には安藤組も安藤っていう名のやくざも登場しない。てゆーか、これ現代の話だもの。安藤組はとっくに解散してる。監督は、以前にも「疵」「修羅場の人間学」と安藤昇ものを手掛けた縁で梶間俊一にお座敷がかかった模様。あくまでも才能より政治力で生き延びる男>梶間俊一。撮影は「リング」「ニンゲン合格」「ガラスの脳」といった作品と並行して、「修羅がゆく」などのやくざものVシネマも数多く手掛けている林淳一郎。 ● 敵方に寝返った本田博太郎組長の名台詞「組長すんません。今度こそ根性 見せますから」「“今度”と“お化け”は出たこたぁねえんだ。根性なんて言ってんじゃねえよ、こんな時代に!」

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ある探偵の憂鬱(矢城潤一)

探偵が独り住まいの老婦人の監視調査を依頼される。依頼者は素性を名乗らなかったが、どうせ「老妻から一方的に別居を宣告された夫が妻の浮気を疑って」といったとこだろう。探偵は老婦人のマンションを監視するが、判で押したような日々が続くばかり。向かいの安アパートの一室から望遠鏡を覗くばかりの停滞した毎日に時間の感覚すらなくなりかけたころ、マンションのベランダに若い美人が姿をあらわす…。 ● 新人・矢城潤一の自主製作による35mmデビュー作(脚本・監督・編集) 白日夢のようなミステリーである。私立探偵ものが陥りがちなナレーション過剰にもならず、ともすれば単調になりがちなストーリーを飽きずに魅せる。71分。北野武・長崎俊一・原田眞人らの下で助監督経験を積んだというだけあって、すでに的確な商業映画の演出テクニックを備えている。まあ、もちろん功績の半分は(監視されるという役柄ゆえに)一言の台詞もないまま観客の視線を占有しなければならない難役を、さらりとこなしたベテラン 馬渕晴子の、誰よりも美しく気品に満ちた佇まいにあるのだが。そのせいで「若い美人」の役であるはずの小沢美貴がそこらの事務員のようにしか見えないのは思わぬ弊害。探偵は若い頃の蟹江敬三みたいな風貌の大城英司。探偵の馴染みのホテトル嬢にかとうみなみ(濡れ場あり)。小幡亨(SU-PERCUSSION)による現代音楽調のスコアが見事。

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現実の続き夢の終わり(チャン・イーウェン)

日活とバーニング・プロが金を出した水野美紀“主演”の台湾映画。「殺された恋人の復讐のために水野美紀が台湾やくざに孤独な戦いを挑む」という話なんだが、はっきり言って脚本がムチャクチャ。なにが“現実の続き”でなにが“夢の終わり”なんだかはっきりせえ!という感じ。 ● 「想死趁現在」という原題−−「死を想う時、今がある」という感じだろうか−−からすると、本来は蔡岳動が演じる(水野美紀の恋人の仇である)武闘派台湾やくざを主役にすえた物語のようだ。その証拠にタイトルバックはこの人。だが、Vシネマなら白竜あたりが演りそうなこの悪役が魅力的に描かれていないため、物語が死んでしまっている。ここは本来、常盤貴子の「もういちど逢いたくて(星月童話)」におけるレスリー・チャン、あるいは石田ひかりの「愛は波の彼方に(愛情夢幻号)」におけるアンディ・ラウにあたるスターを配すべきポジションなのだ。台湾映画界の限界である。 ● 水野美紀はテレビの悪影響か顔で演技しすぎ。演技力がないなら脚本や演出でフォローしてやるべきなのだが、死んだ恋人との想い出が一切描写されないので彼女の復讐心に説得力が生まれない。また「女性の復讐アクションもの」としては、とうぜん水野美紀はレイプのひとつもされていただかないと。いやこれはおれが観たいからとかそーゆー問題じゃなくてさ。もう、ぜんぜんへなちょこ。迫力不足。Vシネマ以下。 ● この映画、池袋の駅ビル(メトロポリタン・プラザ)に日活が新しくオープンした映画館(シネ・リーブル池袋)で観たのだが、既存のビルに後付けで作ったわりには天地2フロア分を使っていて、天井の高さがシネ・アミューズやキネカ大森の2倍ぐらいある>えらいぞ日活。

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ベリー・バッド・ウェディング(ピーター・バーグ)

「バチェラー・パーティで出張ストリッパーを死なせてしまい、観念して警察に届けりゃいいものを自分たちでこっそり死体を始末しようとしたことから事態がどんどん泥沼化していく男5人組」というブラック・コメディ…のはずなんだが、いまひとつ巧く歯車が噛み合っておらず笑いがはじけない。 ● ツイてない新郎に「スウィンガーズ」の馬づら兄さんジョン・ファヴロー。この主人公がいちばんニュートラルなキャラで、エキセントリックな友人&婚約者に苦しめられるわけだ。仲間の窮地を救うためリーダーシップを発揮する“頼りになる友人”に(本作のプロデュースも兼ねる)クリスチャン・スレイター。こいつがだんだんとサイコがかっていくのだが、この辺の、観客が笑っていいんだか怖がるべきなんだか困窮してしまう按配は「ケーブルガイ」とよく似ている(←貶してる) 結局は“幸せな結婚式を挙げることに命を賭けてる”花嫁キャメロン・ディアスがいちばん怖かった…ってのはお約束だ。出張ストリッパーに台湾系のコーベ・タイ@加工乳。 ● この映画、日本で公開されている版はなんとラストが1場面、カットされてるのだそうだ。映画秘宝BBSにウェイン町山氏が投稿した文章を引かせてもらうが>[交通事故のあと、生き残るんですよ。一人は片足になり、一人は下半身不随になるけど。で、巻き込まれて片手片脚になったワンちゃんがトコトコ出てきて幕です。これは動物虐待シーンなのでアメリカのビデオ屋に置くとき成人指定になるので、カットされました。ギャガはそのカットヴァージョンを輸入したわけです。なぜか。]たしかにブラック・コメディとしてはアメリカ版が正しい終わり方だわな。

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ロゼッタ(リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ)

ロゼッタは笑わない。だって楽しいことなんてないから。ロゼッタはオートキャンプ場のトレーラーハウスに住んでいる。タイヤを外されて何処にも行けないトレーラーハウス。ロゼッタはトレーラーハウスにアル中の母親と2人で住んでいる(父親が不在な理由は明かされない) ロゼッタはまだ子どもだ。子どもだから頑なで、弱い自分を受け容れてしまっている母親が許せない。ロゼッタの望みはただひとつ。「ノーマルな生活」を送ること。キレイな洋服もカッコ良いボーイフレンドもいらない。「普通の家」に住んで「普通の暮らし」がしたいだけ。「普通の人」だったら働かなきゃ。いやもちろんお金にも困ってるけど、あたしは犯罪者になる気はないから、ちゃんとした仕事がしたいんだ。生活保護なんてもってのほか。あたしは乞食とは違う。…ロゼッタは子どもだから社会のことを知らない。でも子どもだから諦めない。絶対に。 ● 1999年のカンヌ映画祭でパルム・ドールに輝いた作品。ちゃんと脚本が用意されて演出がなされているにもかかわらず「劇映画」と呼ぶのがためらわれる作品である。小説で言うなら全篇が一人称。ロゼッタ以外の場面は一切描かれない。カメラは1m以内の至近距離からずうっとロゼッタにくっついていく。演じるエミリー・デュケンヌは、いかにも八王子とか北関東の垢抜けない印象の女の子。仕事用のエプロンに自分の名前を縫取りしたりして可愛いとこもあるんだけど、このベルギーの兄弟監督はそれを可愛いと感じさせるような演出をしない。ロゼッタそのままにつっけんどんで頑ななのだ。愉しい映画ではないのであまりお勧めはしないが、あなたが女性ならあるいは感情移入して観られるかも。 ● じつはこの映画でいちばん良く出来ているのは宣伝コピーで[涙じゃなんにも片づかない。]というものだが、これ、映画を観た後で読むとそーとーにハードボイルドな名文句だと思う。

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イグジステンズ(デビッド・クローネンバーグ)

脚本:デビッド・クローネンバーグ 音楽:ハワード・ショア
この映画については何も言うことはない。何の説明もなく登場人物全員が変態あらゆるものがぬるぬるねちょねちょしている。まさに「ザッツ・クローネンバーグ」である。「ビデオドローム」が好きなら何を措いても駆けつけるべきだし、グロテスクが苦手なら無理して観にいく必要はない。あなたがたと我々は永遠に交じり合うことはない。それでいいのだ。 ● ジェニファー・ジェイソン・リーとジュード・ロウは完璧にクローネンバーグ世界の住人になりきっている。きっと臭いで判るのだろうな「こいつは変態だ」って。他にもウィレム・デフォー、イアン・ホルム、「エリザベス」「HEART」のクリストファー・エクルストンと変態臭をぷんぷんさせた助演陣が世界を補完する。 ● パンフにも記述がなかったのでひとつ“知ったか”しておく。劇中でジュード・ロウが食ってるファストフードの、ヒゲのメキシコ人みたいなイラストの紙袋が必要以上に長く映るのは、店名の「パーキー・パットの店」ってのが、フィリップ・K・ディックの短篇「パーキー・パットの日」への目配せだから。“パーキー・パット”ってのは、最終戦争後の死の灰の降り積もった地球で、地下の防空壕に暮らす人類が失われた幸せな日常生活を懐かしんでプレイする「リカちゃん人形+人生ゲーム」みたいなゲームの名前だ。

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アメリカン・ビューティー(サム・メンデス)

脚本:アラン・ボール 撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:トーマス・ニュートン
ケビン・スペイシー アネット・ベニング ソーラ・バーチ ミーナ・スバーリ クリス・クーパー
田園調布で不動産販売を営むも、近頃じゃ客は中国人とか黒人とかレズのカップルばっかりでサッパリ売れず、しかも亭主がちっともヤッてくんないので そーとーに欲求不満がたまってる「シリアル・ママ」のキャスリーン・ターナーそっくりの「世間体 気にしい母ちゃん」。チア・リーディングの演技中すら笑わないクリスティーナ・リッチそっくりの「ふくれっツラ娘」。そして妻と娘に馬鹿に/無視されてる柄本明そっくりの「ダメ親父」によるウェルメイドな回春コメディ。 柄本明(もしくはベンガルあるいは高田純次…って、ぜんぶ東京乾電池や!)が高校生の娘のクラスメイトのパツキン娘に久しぶりにムラムラっと来たのをきっかけに若さを取り戻してガンガン行っちゃうという、…つまり「Mr.ジレンマン 色情狂い」である(ま、ケビン・スペイシーは変身しないけど) 観る前は「アメリカン・ビューティーってよりロスト・アメリカン・ビューティーじゃねえの?」と思ってたのだが、どうしてどうして、これは紛うことなき「美」についての映画であった。まあもっと徹底してシニカルにブラックに行ってくれたほうが おれの好みなんだけど、それじゃあアカデミー作品賞は貰えんしな。 ● 「誰が」ってことなく見事なアンサンブル・キャストで、なるほど「演劇界の鬼才」の映画監督デビューに相応しい出来映え。演技がオーバーなのはワザとなので…念の為。柄本明にしちゃあケビン・スペイシーはカッコ良すぎって気もするけど、ジム・ベルーシではただのコメディになっちゃうし、オリバー・プラットではアカデミー作品賞は貰えんしな。若いほうの女優2人は乳出し有り桝。撮影・美術・編集なども一級品(玄関の赤い扉が効果的) トーマス・ニュートンも木琴の音色が印象的な良いテーマを書いた。 ● えーと、以下は業務連絡>ピンク映画関係者はただちに本作品の翻案にとりかかるよーに。このまんまの脚本で「妄想」「不倫」「覗き」「淫行」とアイテムに不足はないし、なんだったら最後は「近親相姦」でハッピーエンドにする手もアリだ。女優の数もジャスト3人で済む。タイトルは「覗きと淫行 女子高生いけない誘惑」とかそんな感じ? いちおう役者を指定しておく。ケビン・スペイシーは絶対に杉本まこと。アネット・ベニングは佐々木基子。娘役ソーラ・バーチは桜居加奈。友達の美人ミーナ・スバーリに時任歩(エクセスだったら ここに新人女優) 女房の浮気相手の不動産屋ピーター・ギャラガーに池島ゆたか。隣家の右翼親父クリス・クーパーに野上正義。隣家の覗き青年ウェス・ベントレーは…ま、これは誰でもいいや。では、年内公開ということでよろしく:)

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ボーン・コレクター(フィリップ・ノイス)

松竹の「アシュレイ・ジャッド2本立て」に続いて、新宿と渋谷の東急会館では本作と「マーシャル・ロー」という、「デンゼル・ワシントン2本立て」が上映された。 ● あからさまに「セブン」の影響下にあるサイコ・スリラー。全身麻痺でベッドに寝たきりになってしまった天才鑑識官デンゼル・ワシントンの手足目耳鼻頭脳として、アンジェリーナ・ジョリーが連続殺人の犯行現場を探索していく…という話。「現場を荒らされないように」ってんで彼女は単独でビルの地下だの廃工場だのの薄気味悪い場所に入っていかされるんだけど、鑑識ってのは「すでに行なわれた犯罪の犯行現場の証拠を採取する」のが仕事だよなあ? まだ犯行現場とも確定していない、連続殺人犯が潜んでいるかもしれないという、そんな危険な場所に女性を1人で行かせるかフツー? それと、それより何よりなんなんだあの犯人は! 人を馬鹿にするのもいい加減にせえよ。これほんとに去年の「翻訳ミステリー小説ベスト1」の映画化なの? ● まあ文句は多々あれど、それでもこの映画が魅力的なのはひとえにアンジェリーナ・ジョリーのおかげ。ぽってりとしたベアトリス・ダル唇を震わせて、恐怖におびえながら暗闇を進む表情の…ゾクゾクするほどセクシーなこと! かと思えば、大先輩のデンゼル・ワシントンを前にして少しもひるまず、強気な台詞をいい返す顔の艶めかしさ。うーむ、おぬしS・M両方イケるクチと見た(火暴) 舌と指1本しか動かせないデンゼルの、眠った隙にその指を愛撫する描写などはっきり濡れ場と呼んでもいいほどエロチック。ああ、もう おれの頭の中では乱歩の「芋虫」さながらの妄想が あら全身麻痺でもここだけは元気なのねえ うふふ舌は動かせるんでしょ顔の上に座っちゃおうかしら…あ、いや。えーと、あれだ、四肢が麻痺してても犯人より強いのはさすがデンゼル・ワシントンである。以上。


蛇女(清水厚)

「蛇女」つーから楳図かずおかと思ったらぜんぜん関係なくてがっかり。てゆーかちっとも蛇女じゃないじゃん これ。せめてお約束の「ズルズル這い」ぐらいはしろっての。 ● 「ねらわれた学園」の…というよりテレビ版「エコエコアザラク」の清水厚の新作。演出も演技も徹底してチープ。魚眼レンズやカラーフィルターを多用した画作りは、ビデオ撮りの深夜ドラマそのもの。こりゃ映画じゃない。清水厚よ、あんたはこっちへ来るな。 ● 怖がらせようと思ってやってる安っぽい仕掛けがことごとく怖くない(場内には失笑が漏れていた) だいたいヒロインのアパートとか市民ホールとか大学の教室とかが、理由もなく古い建物ばかりで照明すらろくに点いてないってのは不自然だろよ。意味のない変格フレーミングに凝る暇があったら、もっときちんとドラマを伝えることに腐心したらどうなのだ。物語の起点である「人気モデルのヒロインがなぜ無骨な研究者に惹かれるのか」が伝わってこないし、だいいち「ヒロインが身体に何をされたのか」を描かないのは致命的な欠陥だろう。 ● ふつうなら30分で出てきちゃうような代物を不快感に堪えつつ最後まで観たのはヒロイン・佐伯日菜子のおかげ。と言っても彼女の魅力が活かされてるとはとうてい言い難いのだが。もっと作品選ばなきゃダメよ>日菜子さん。蛇女役の夏生ゆうなはミスキャスト。この人は爬虫類ってよりタヌキ顔。丸顔のヒロイン2人ってのもバランスが悪いでしょう。・・・キリがないのでこの辺で止めとくけど、ともかくもう少し考えてものを作れよ。そうそう、おまーらサティも使用禁止な。

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ストレイト・ストーリー(デビッド・リンチ)

お爺さんは山へ柴刈りに…じゃなかった、芝刈り機に乗って隣りの州まで旅をしました。事実は小説より奇なりと言うけれど、この実話の主人公の名前がアルヴィン・ストレイトってのは出来すぎだよなあ。てゆーか、ほんとに実話?あなた見たの?その新聞記事。デビッド・リンチだよ?「シリアル・ママ」や「ファーゴ」式の“実話”と違うの? ● 真偽はともかく、ここに描かれているのは(殺人事件がないだけで)デビッド・リンチの世界そのものである。ノーマン・ロックウェル調の古き佳きアメリカの風景に埋めこまれた、ちょっとピントのズレた どこかしら異常な…けれどそれだからこそリアルだとも言えるキャラクターたち。だがそうしたリンチ色を目立たなくさせるほどの圧倒的な存在感を見せるのが「グレイフォックス」(1983)以来の主演となるリチャード・ファーンズワース。「歳をとって最悪なのは、若い頃を憶えてるってことだ」なんて、武田鉄矢の口から発せられたなら迷わず16tの重りを落として その上から核ミサイルをぶち込みたくなるような臭い台詞に素直に感動できるのは、79才の老優の、もはや演技ともつかぬリアリティゆえだ。劇場パンフレットに、自宅の牧場で愛馬と写真におさまる彼の姿が掲載されているのだが、その服装がじつに劇中と寸分たがわぬ格好である。テンガロンハットにワークシャツ、ケツで履いた よれよれのジーンズにサスペンダー…ホース・スタントとして業界入りした この爺さんは今でも現役のカウボーイなのだ(!) ● 爺さんと同居している娘の役に、メリル・ストリープほどの名声は得られなかったけれど演技の上手さという点ではメリル以上のシシー・スペイセク。こんなふ に、しゃべ 言葉の 中が欠 する うな、どもりと ちがう奇怪な喋り たが印象的(どうやったらあんな喋りかたが出来るのか!) そして老人の旅の目的である音信不通の兄を演じる役者の、あえてここでは名前を出さないけれども、わずか二言三言の台詞に込められた感情のゆたかさ。こうした名前を知られた出演者以上に この映画のリアリティを保証しているのが、すべて地元出身の俳優で固められたという助演やエキストラの俳優たちの顔つきだ。NY顔やLA顔は1人もいない、みごとなまでに全員が中西部顔。まだまだアメリカにはこういう顔をした人たちが大勢いるのだなあ、…いや、むしろ普段 我々が映画などで目にしないだけで、今でもアメリカという国はこういう顔をした人たちによって支えられているのかもしれないな。 ● 撮影は「エレファント・マン」のフレディ・フランシス(なんと80才!) リンチ・サーカスの座付音楽家アンジェロ・バダラメンティが「アンジェロ・バダラメンティでありつつ感動篇に相応しい」見事なスコアを提供している。珠玉の逸品。必見。

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グリーンマイル(フランク・ダラボン)

スティーブン・キングの中篇「刑務所のリタ・ヘイワース」を膨らませて2時間20分の「ショーシャンクの空に」に仕立てたフランク・ダラボンのことだから、その6倍の長さの(とは言ってもキングの長篇としては平均的な長さである)「グリーン・マイル」の映画化である本作は「よくぞ3時間8分に収めた」と言うべきかもしらん。だが、それをきちんと2時間に刈りこんでこそプロの脚本家だろ。 ● 「ショーシャンクの空に」同様、気持ち良く泣ける映画である。スピルバーグのように4度は泣かなかったが、おれも泣いた。それも娯楽映画としては正しい脚色だということを認めた上で言うが、この話は気持ち良く泣かせちゃいかんのだ。原作の「グリーン・マイル」は、希望をテーマにした「刑務所のリタ・ヘイワース」とはまったく違う話なのだから。これは奇蹟と感動についての話なんかじゃない。人生の残酷を呪う話だ。神の気まぐれに抗議する話なのだ。それが証拠に金髪の少女たちは無残に殺され、少年は理由もなく片目を失うではないか。「救われた」はずの人物はよくよく考えれば「呪われた」だけかもしれず、映画では感動的なクライマックスとして描かれるある女性についても、原作ではその死についての記述が用意される。原作から引く>[わたしは恐るべき真実を悟った−−救済と呪いのあいだには、本質的なちがいなどなにひとつありはしない、と。](白石朗・訳) これを端的にあらわした原作の最後の1行(ああ、神よ、ときに〈グリーン・マイル〉はあまりにも長すぎる。)は映画でもほぼ忠実に使われているが、受ける印象は大きく違う。なにしろ映画版では、原作の最終章で語られるある決定的に残酷なエピソード(トム・ハンクス夫妻の乗ったバスが事故に遭い、愛する妻が自分の腕の中でなすすべもなく死んでいくが、自分は“生命を注入されて”しまっているのでかすり傷しか負わず死ねない)がカットされ、代わりに原作にはないアステアの「トップ・ハット」から最後のヤマ場へいたる盛り上がりで観客の目はすっかり涙で曇ってしまっているから。 ● じつはフランク・ダラボンは原作の出版に遡ること7年前にすでにこの話を映画化している。脚本を書いた「ザ・フライ2 二世誕生」だ。生きているのが嫌になるような境遇に晒されても決して死なせて貰えない・・・勧善懲悪のヒーローもので最後に悪役がドカーンと爆発して終わるのが、いかに悪役への思い遣りにあふれた結末であるかを思い知らされる後味の悪さ。あれこそが本来の「グリーン・マイル」なのだ。 ● あまり緩急のない3時間8分を、それでも飽きることなく楽しめるのは役者の魅力である。主役の看守主任はトム・ハンクスよりはトミー・リー・ジョーンズあたりで観たかったが、これは興行上の要請でしかたない。その代わりに、「頼りになるヤツ」を絵に描いたようなデビッド・モースや、薄い唇にうかべた薄ら笑いがクリストファー・ウォーケンを思わせるダグ・ハッチソン、クソジジイっぷりに磨きをかけるハリー・ディーン・スタントンなど、助演陣がみな素晴らしい。忘れちゃいけない重要な助演者であるネズミは、とてもCGには見えない細密さ…と思ったらクレジットを見るかぎり本物のネズミを訓練して使ってるようだ。あとトーマス・ニューマンの音楽は演出と合ってないぞ。

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BULLET BALLET バレット・バレエ(塚本晋也)

「ファイト・クラブ」に先立つこと4年前に「東京フィスト」を作っていた男が、1998年に製作した作品。バイオレンスと(肉体と心の)痛みについての寓話である。当サイトにおいては「観客の目を意識していない」という意味で否定的に使われる場合が多い“自主映画”というコトバだが、こと本作に関しては全面肯定として用いる。「バレット・バレエ」は骨の髄まで自主映画だ。塚本晋也は1人で製作・脚本・監督・撮影・照明・美術・編集・主演をこなす。言いかえるなら音楽以外は全部1人でやってる。盟友・石川忠のハードな音楽との緊密な共同作業による、一瞬たりとも気を抜くカットのない、濃淡のはっきりとした、緊張感みなぎるモノクロ画面。特にチーマー同士の激突にいたるまでの前半部分はパーフェクトな演出と言って良い。終盤でそれが失速してしまうのは、主人公とヒロインの関わりが、いまひとつよく判らないせいだ。特に「死に魅せられた少女」のキャラクターが描けていない。 ● 主演者・塚本晋也は「俳優・塚本晋也」の魅力を存分に発揮。退屈な日常から暴力の渦中へと身を投じる役を、プロのどの俳優が演るよりも説得力を持って演じている。チーマーの親玉を演ってる中村達也が凄い。肩までのロングヘア、内田裕也のようなふてぶてしい面構えと、山田辰夫のようなドスの効いた台詞まわし「夢の中でヒト殺して罪になるか? こんなクソ東京、ぜんぶ夢だよ、夢」。なんとブランキー・ジェット・シティのドラマーで映画初出演だと。チーマーのリーダー格・後藤を演じる本木雅弘に似た面立ちの新人、村瀬貴洋も大した迫力。やくざの親分に井川比佐志、外道やくざに(地でやってるとしか思えん)井筒和幸、クソ巡査に田口トモロヲ、主人公の恋人に鈴木京香といった脇のキャスティングも豪華&効果的。これに比べるとヒロインの真野きりなが歴然と弱いよな。

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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル(原恵一)

なんということだ…。映画版8作目となるここまで連戦連勝だった「クレヨンしんちゃん」に2つ星(つまらない)を付ける日が訪れようとは(おれは1作目を観てないけど) そういつもいつも面白い映画ばかり作れるわけじゃない事は百も承知だが、でもちょっとショック。 ● ポリティカリィ・コレクトなんて屁でもない、「ポケモン」のようにアメリカで大ヒットする事なんて世界が滅んでもありえない「しんちゃんワールド」は本作でも健在。なにしろ今回の悪役は巨大なアフロヘアにファンク・ミュージック好きのカンフー狂だ。南の島で猿軍団を従えて君臨するその名もパラダイス・キング! だけどそっから先がいけない。この悪役が意外とバカバカしくないのだ。結構マジで強かったりしてヌケ方が足りないというか…。今回は(しんちゃんの妹である)赤んぼのひまわりの出番が多いせいもあって、しんちゃんが保護者的な役割にまわってしまい、はっきりとした目的意識を持ってみんなを救っちゃったり、なんかしっかりした良い子なのだよ。しんちゃんの魅力は徹底して無責任でお馬鹿なところなのにこれでは のび太と一緒ではないか(泣) ● 映画版の「クレヨンしんちゃん」の世界では“お茶の間の団欒”と“非日常の冒険”は地続きだ。おやじテイストの幼稚園児に どたばたとふりまわされる野原一家(だったり春日部幼稚園のお友だちだったり)が、敵の秘密基地でもタイムスリップした異世界でもそのまま てんやわんやを続ける、愛とか正義なんてお題目をこれっぽちも考えないとこがこのシリーズの素晴らしさなのに、残念ながら本作ではその距離感のとりかたを間違えてしまった。 ● 観てて退屈するわけじゃないので当サイトの基準から言えば十分に3つ星(おもしろい)レベルなのだが(製作がオシた所為だろうが)撮影のピントが合ってないシーンが少なからずあったのはプロとして失格なので星2つとする。

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シャンドライの恋(ベルナルド・ベルトルッチ)

冒頭いきなり土人が野っ原で太鼓叩いて歌をうたいだす。難民キャンプ(?)には片端の土人の子どもたちが大勢いる。土人のヒロインがオシッコを洩らす・・・もうここで出ようかと思った。 ● イタリアに帰還したベルトルッチが「魅せられて」に続いて小さなラブ・ストーリーを撮った。主演は「M:I−2」のヒロインに抜擢されたタンディ・ニュートン(ジンバブエ/イギリスのハーフ)と、「DNA」に抜擢されたのが運の尽きだったイギリス人、デビッド・シューリス。「日がなピアノを弾いて暮らす金持ちの独身男が黒人女中に惚れてしまう」という話。通常の「起承転結」ではなく「最初に種を仕込んだら後はじっくりと醸造を見守る」という構成で、たしかにラストにはなかなかの美酒を味わえるのだが(おれのようにブラッカイマー・ウィリスに感染してる身には)途中が単調で退屈してしまった。 ● タンディ・ニュートンはまるでフランス人のように演技が大袈裟だけど乳出し有りなので許す(ぷくんと盛り上がった乳輪がエロチック) しかしデビッド・シューリスはいいのかあれで? これっぽちもカッコ良くないニヤけた情けない役作りなんだけど、あれに諸姉はグッとくるのか? ここはやはり「Besieged(立て籠もって)」という原題に相応しい退廃を身にまとったジェレミー・アイアンズの役でしょう。 ● 撮影は今回もヴィットリオ・ストラーロにあらず。つねにカット頭を数コマ抜いたような編集が変わってる。

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ヒマラヤ杉に降る雪(スコット・ヒックス)

戦後まもない頃。帝大を卒業して帝都日報の記者となった主人公が、殺人事件の取材のため故郷の町…雪の降りしきる新潟の漁村に帰ってくる。だが彼が目にしたのは被告席に座る山窩(サンカ)の男の妻となった、かつて自分が禁忌を超えて愛し合った娘の姿だった。裁判を通して浮かび上がる、時代と差別に阻まれた哀しい愛…。松本清張の傑作ミステリーを名匠・野村芳太郎が映画化した(うそ) ● しかしこれ、ミステリーとは呼べないんじゃないの? だって被告は明らかに最初っから無実としか見えないし、裁判の過程で驚きの真実が明かされることもない。この手の話なら主人公とヒロインが共有する忌まわしい秘密ってやつが無きゃいけないんだけど、それが「昔、ヒマラヤ杉の洞で乳くりあってました」じゃねえ。ここはヒトの1人も殺しといてくんなきゃ。ちょっと松本清張の勉強が足らないんじゃないの?<だから違うんだって。 ● ダルな脚本にもかかわらず面白く観ることができるのはズラリ勢ぞろいした実力派脇役陣の賜物。なにしろ「今にも死にそうだけど眼光だけは鋭い老弁護士」マックス・フォン・シドー、「フェアな白鬚の裁判長」ジェームズ・クロムウェル、「嫌味な憎まれ役検事」ジェームズ・レブホーンが丁々発止と渡り合うのだ。面白くならないわけがない。回想シーンに登場する主人公の父親役サム・シェパードが「地元新聞を発行する差別と闘う硬骨漢」ってのも柄に合ってる。それに引きかえ主役のイーサン・ホークは(そういう脚本なんだからしようがないが)「傍聴席から裁判を見物して昔を回想するだけ」という見せ場の少ないキャラで損をしている。ヒロインの工藤夕貴も物足りない。一瞬でいいから秘めた情熱とかハッとする官能ってやつを見せてほしかった。 ● 素晴らしいのはヒロインの少女時代を演じる鈴木杏!(ローソンのCMの下の子/ポカリスエットの新しいCMの子) 撮影時わずか11才なのに演技力もエロスも工藤夕貴より上。この映画で工藤夕貴がいささかでも輝いて見えるなら、それは観客の脳裏に鈴木杏の残像が焼きついているからだ。…ちょっと言い過ぎ? てゆーか、ただのロリコン?>おれ。がぜん東宝の「ジュブナイル」が楽しみになったりして(火暴) ● 鈴木杏の次に素晴らしいのが(←しつこい)まるで蜃気楼のように雪を撮るロバート・リチャードソンの撮影/照明と、意識のカットバックとも言えるハンク・コーウィンの編集の妙技。リチャードソンは「救命士」に続いて(というか撮影はこっちが先だけど)彩度を抑えた特殊現像法を採用、モノトーンの厳しくも美しい画調がドラマの風格を高める。この撮影&編集の2人は「ナチュラル・ボーン・キラーズ」「ニクソン」「Uターン」「モンタナの風に抱かれて」でもコンビを組んだ仲。ジェームズ・ニュートン・ハワードのスコアはちょっと過剰。雪と霧についての映画とも言える本作を作ったのが「シャイン」のオーストラリア人監督スコット・ヒックスだってのも面白い。 ● 裁判劇のテーマは結局、アメリカ人の大好きな「フェアであること」に収斂していくのだが、その映画のヒロインである工藤夕貴が「オープニング・クレジットにおいて主演扱いされてない」というアンフェアな扱いを受けているのは何とも皮肉(…などと揶揄されるのは予想できたはずなんだが?>製作者)

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ニコラ(クロード・ミレール)

脚本:クロード・ミレール 原作・脚本:エマニュエル・カレール 撮影:ギョーム・シフマン
邪悪だ。なんという邪悪な映画だ。こんな映画の「脚本を子役に読ませて役の気持ちを理解させる」という行為は、…つまりこの映画の撮影自体が児童虐待にあたるのじゃないか? 監督は「なまいきシャルロット」「小さな泥棒」「伴奏者」のクロード・ミレール。ったくフランス人てやつぁ根っから(以下略) ● ニコラは小学校(たぶん)6年生。「ドラゴンボール」とゲームボーイと本が好きな、内向的な男の子。学校のスキー合宿に参加することにしたんだけど、小学生が15人も死んだスクールバスの事故があったばかりだから、お父さんが車で送ってくれた。ぼくは皆とバスで来たかったけど仕方ない、いつもそうなんだ。恥ずかしい話だけど、ぼくはおねしょの癖が直ってなくて、合宿で洩らしたりしないか、それがいちばんの心配。それが気になってるせいか嫌な夢ばかり見るんだ。お父さんから聞いた「子どもを狙う、救急車に乗った腎臓窃盗団」の夢とか、お父さんが事故で死んじゃう夢とか…。 ● 劇中で語られる2つの挿話がテーマを端的にあらわす。ひとつは「人魚姫」…人間の下肢と引き換えに船頭を惑わす美しい声を失った人魚の話。そしてもうひとつが有名な怪奇譚「猿の手」…3つの願い事を叶えるという“猿の手の木乃伊”が1つ願いを叶える度に取り返しのつかないものを奪って行くというホラー版「人間万事 塞翁が馬」。そう、たしかにニコラ少年は望んだものを手に入れる…この上なく残酷な形で。この映画を“美しい”などと言ってしまっては不道徳のそしりを免れまい。結末の“救いのなさ”は「セブン」の比じゃない。映画が終わってクレジットが全部流れても、まだ椅子から立ちあがれないほどの救いのなさに立ち向かう勇気があるのならお勧めする。

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遠い空の向こうに(ジョー・ジョンストン)

製作:チャールズ・ゴードン/ラリー・フランコ 脚本:ルイス・コリック
撮影:フレッド・マーフィー 美術:バリー・ロビソン 音楽:マーク・アイシャム
原作「ロケット・ボーイズ( ROCKET BOYS )」の綴りを並べなおすと、この映画の原題( OCTOBER SKY =10月の空)になる。なんて美しいアナグラムだ。「10月の空」とは「アメリカに先駆けてソビエトが人類初の人工衛星スプートニクを打ち上げた1957年10月」の空のこと。スモッグや街の明かりとは無縁のアメリカの田舎町じゃ、夜空を横切っていくスプートニクが肉眼で観察できたのだった。満点の星空をいく小さな光点…それはまるで流れ星のようで、あゝあんなにも美しいものが人間の手によって作られたのか!という主人公の少年の感動がそのままこちらに伝わってくる。少年の空への憧れは「未知との遭遇」のリチャード・ドレイファスと同類だ。 ● 少年の名はホーマー・ヒッカム。そこはウエストバージニアの、住人が数百人しかいないような、その名もコールウッド(石炭の森)という小さな炭坑町。町にある働き口は炭坑だけだから、高校生のホーマーも卒業したら炭坑夫になるしかない。石炭の時代が終わろうとしている事ぐらい高校生にだってわかる。町の誰もがそれをわかっていて口には出さない。重くるしい空気が町を包んでる。出来ることならこんな町、出て行きたいが、坑夫の給金なんてたかが知れてるし大学の学資を親に望むべくもない。町を出る唯一の方法は、兄のジムのようにフットボールで奨学金をもらって大学へ行くことだが、高校のフットボール部の入団テストにすら落第してしまったホーマーにはそれも無理な話。「科学フェアに出展して優勝すれば奨学金が貰えるかもしれない」という話を聞いたのはそんなときだ。だからホーマーにとって「(人工衛星を打ち上げるための)ロケットを空高く飛ばしたい」という夢は、空への憧れの具現であると同時に、町を出るという事への現実的な解決策でもあり、コールウッドの町の人々の沈んだ気持ちを鼓舞する希望の象徴にほかならない。ラストシーンでホーマーの身長ほどの手作りロケットが、空を目指して一直線に高く、高く、高く、高く、高く、どこまでも高く飛んでいくのを目にするとき、観客の頬にはとめどなく涙が流れ落ちることだろう。 ● 自らの命を賭して数多くの坑夫の命を救ってきた英雄。その立派さが息子の負担となってしまう父…。名優クリス・クーパーが、炭坑の現場監督をしているホーマーの厳父に扮して、素晴らしい演技でドラマを支える。そしてまさに「1957年の進歩的な考えの科学の女せんせい」はこういう顔でなければならないというローラ・ダーン! 台所の壁に想い出のビーチの絵を描いている母に英国顔だけどアーカンソー出身のナタリー・キャナデイ。ホーマーにひそかに想いを寄せるリリ・テイラーに似た地味な同級生にカイリー・ホリスター。“ロケット・ボーイズ”のメンバーは、ホーマー・ヒッカムにジェイク・ジレンホール、科学オタクのソバカス眼鏡・クエンティン君にクリス・オーウェン、父を炭坑事故で亡くしたびっこのオデルにチャド・リンドバーグ、いつも呑んだくれの継父に殴られてる、フットボール選手には背が足りないロイに(「ガタカ」ではイーサン・ホークの弟を演った)ウィリアム・リー・スコット。 ● 「リバー・ランズ・スルー・イット」がそうであったように「父と息子の話」であり、「スタンド・バイ・ミー」がそうであったように「少年同士の友情の話」である。脚本のルイス・コリックは「不法侵入」「ジャッジメント・ナイト」「ゴースト・オブ・ミシシッピー」といった実績からは想像もつかないほど骨格のしっかりした すべてのキャラクターに血肉の通っているオーソドックスな傑作を書いた。ジョー・ジョンストン監督もジュブナイル専科のイメージから脱却して、クラシックな風格の演出を見せる。オールド・ロックンロール・ナンバーがドラマを軽快に彩り、マーク・アイシャムがもろ「リバー・ランズ・スルー・イット」パート2というメロディで感動を盛りあげる。実際に廃坑となったテネシー州の町を使ったロケセットの素晴らしさも特筆しておきたい。これは「フィールド・オブ・ドリームス」の製作者による時代を超えた逸品。必見。

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サマー・オブ・サム(スパイク・リー)

このところ肩の力を抜いた小品で好調が続くスパイク・リーの最新作。「サムの夏」とは「連続女性殺人犯“サムの息子”がNYの街を恐怖でつつんだ1977年の夏」のこと。といってもスパイク・リーに「シリアル・キラーもの」をやる気はサラサラなくて、この映画が描くのは「連日37度Cの猛暑にイライラのつのるブロンクスのイタ公横丁の風景」であり「パンクの興隆とディスコの死」や「NYを襲った3日間の大停電」であり「疑心暗鬼が奪ったひとつの友情」のドラマである。つまり「ブギーナイツ」や「54」に連なる「1970年代の終わり」ものである。かつて高校生のおれの憧れのスワッピング・クラブも初登場。次はポール・シュレーダー監督・脚本で「プラトーの隠れ家」で1本撮ってくんないかな。 ● キャストは全員、地元っ子。ディスコ・キング&クイーンな主人公夫婦に、チンピラ演技にますます磨きがかかった“アメリカの哀川翔”ジョン・レグイザモと、学歴高いわりにこういう役ばかり演りたがる“マフィアの娘”ミラ・ソルヴィーノ。哀川翔はセックス狂なのだが、敬虔なカソリックの血ゆえ どうしても女房にアナルセックスやフェラチオを要求できず浮気をしまくる。女房の方は「亭主が浮気すんのはアタシのせい?」と思ってセクシー下着つけてみたりすんだけど、それがかえって逆効果になったり…。 ● で、久々に横丁に戻ってきた哀川翔の大親友に、「シン・レッド・ライン」の(と言われても何処に出てたかよくわからん)エイドリアン・ブロディ。これがなんとちゃきちゃきNYっ子のくせして しかもイタ公のくせして、髪の毛ツンツンおっ立てて英国旗のTシャツなんか着てすっかりパンクス気取り。もちろん地元の仲間からは爪弾き。大親友の哀川翔にしてから、いきなりCBGBとか連れてかれても「その前にお前、ざーとらしいロンドン訛りヤメロッ」てなもんだ。唯一、彼になつくのが地元のヤリマン娘、「ラストサマー2」の(と言われても もう1人のジェニファーの巨乳しか憶えてない)ジェニファー・エスポジート。 ● そんなイタ公横丁にも“サムの息子”は陰を落としていて、血の気の多い連中が自警団を結成して犯人をとっ捕まえようってことになる。当然、疑惑の目は異分子であるパンク野郎に向くわけだ。・・・いささか図式的な脚本は、ビクター・コリッチオ&マイケル・インペリオーリというNY在住の2人のイタリア系俳優によるデビュー作。2時間もかけた割りにはドラマの求心力が弱い。とってつけたような「サムの息子」の描写など全部カットして、もっと主人公たちのドラマに焦点を合わせるべきだった。 ● あと全然関係ないけど、ディスコでキメたレグイザモをからかって友人が「ウォーレン・ベイティかよ」とか言うんだけど、はっきり「ウォーレン・ビューティ」と発音してた気がするぞ。いいんじゃねえかビューティで。

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はつ恋(篠原哲雄)

長すぎる。いや、じっさいには2時間弱の映画なのだが体感時間は2時間半以上。篠原哲雄は脚本をていねいに映画化しようと思うあまり、緩急のリズムを失い(あるいは最初からリズム音痴なのか)やけにチンタラチンタラした映画を作ってしまった。滝田洋二郎なら体感時間90分でおおいに笑って最後にジーンと出来る娯楽映画になったろうに…と思わせる。 ● まず、母を昔の恋人と再会させようという娘の動機が観客に納得できるように説明できていない。いまどき田中麗奈はフィクションなのだ。この映画は、フィクションの少女にリアリティを与える作業を手抜きしている。ならばいっそ榎本加奈子のような現実感に乏しい娘をキャスティングするべきだったのでは。そのほうが、娘が昔の男を“母に相応しい男”に変身させようとする「逆マイ・フェア・レディ」パートのコメディ味も活きてくるはず。それ以上に不可解なのが、思春期の娘のロマンチックな好奇心に乗っかってしまう真田広之の心情である。この男は、なぜああも簡単に少女のいいなりになるのか。スケベ心?…いや、むしろ それなら納得できるのだ。退屈で最低な日常生活にとつぜん田中麗奈が乱入してきたら、おれなら誓ってスケベ心を起こすもの(火暴) だけど本篇での真田広之はじつに人格高潔&人畜無害な御仁なのである。“だらしない生活を送っている中年男”という設定なのに最初っから腹の筋肉割れてるし。いっその事、親子どんぶりにしちゃったほうがドラマとしちゃあ面白くなるんだけどなあ。そのほうがラストも活きると思うし(ピンク映画の観すぎ?…いや否定はせんけど) ● 「壊れたオルゴール」という、ストーリーの要となるモチーフを見殺しにしてしまったのも問題だ。なにせ音楽担当が抑えるということを知らない久石譲なので最初っからテーマ曲が鳴りっぱなし。せっかくの美しいメロディーもあれじゃ活きてこない。 ● ま、なんだかんだ言っても田中麗奈は可愛いんだけど、あの眉毛がなあ…。

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スペーストラベラーズ(本広克行)

面白かった。安っぽいのは事実だが観客を楽しませようとする作り手の姿勢は偉い。きちんと、犯罪者である主人公たちに観客が感情移入できるように作ってあるし、「とりあえずヘリ飛ばしとけ」というブラッカイマー流哲学もよく理解している。全国公開するプログラム・ピクチャーとしては最低限この程度のエンタテインメントは望みたいものである。 ● だが、サスペンスとしては0点だ。テレビ脚本家の岡田惠和は「犯人と警察との一進一退の息詰まるやりとり」といった事にはまったく興味がないようで、銀行篭城ものとしては手数が少なすぎるのだ。“スペーストラベラーズ”となる各キャラが「得意技を生かして窮地を切りぬける」という設定がロクに機能していない。“テロリスト”は偉そうな事を言うだけで何もしないまま退場してしまうし、“電器屋”の使い方も間違っている。劇中で電器屋の見せ場となる場面は本来、安藤正信が担当すべきパートで、電器屋は機転を利かして「ありもので有用な道具/兵器をつくる」役割のはずなのだ。その他のキャラに至っては事態の打開にたいして何の役にも立っていないという有り様。さらに、別室に結婚記念パーティの準備が出来てるのだから食い物ぐらいあるだろう とか、人質を解放した時点で「殺人はなかった」という事は警察も把握してるはず とか、そもそもあれなら人質に紛れて逃げちゃえばよかったんじゃないの?といったかなり大きな穴がボコボコ開いている。 ● 本広克行の演出はテンポ良く飽きさせないが、笑いの質が往々にして とんねるずとかSMAPとかのコントと一緒なのが違和感があるし、筧利夫・濱田雅功・甲本雅裕(気弱な銀行員)・武野功雄(電器屋)らのギャグおよび演技はとうてい受容れ難い。だが一方で、金城武は不自由な日本語をものともせず魅力的なヒーローでありえているし、深津絵里は涙すら爽やかなヒロインである。安藤正信・渡辺謙・大杉漣・ガッツ石松・中山仁といった俳優たちはきちんと自分たちの仕事をしていた。…って、これじゃ ぜんぜん褒めてるように聞こえないけど、とりあえずおれは結構 笑ったし楽しめたのはたしかなので。

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トイ・ストーリー2(ジョン・ラセター)

ディズニー本体が大人向けのアニメにうつつを抜かしてる(とおれには思える)間に、ピクサー社が「バグズ・ライフ」に続いてまたもや放つアニメーション映画の王道。子供から大人まで万人にお勧めできる大傑作エンタテインメント。…とはいえ、この映画を誰よりも楽しめるのは、もちろん子供たちだ。口惜しい。この映画と子供の頃に出会いたかったと思う。そう、「となりのトトロ」がそうであるように。 ● 但し、キャッチがひとつあって、この大ヒット映画の続篇は「すべての観客が1作目を観ていてキャラクター設定を理解している」という前提の上でどんどん話を進めていくので、1作目を観ていない観客には(“そんなものが存在するなら”だが)面白さが半減してしまうはず。 ● 前作のお返しに、今度はバズ(宇宙戦士人形)がウディ(カウボーイ人形)を助けるストーリー。悪者はなんとオタクのコレクターである。マニアに誘拐されたウディが「1人の子供のオモチャとして酷使され子供の成長とともに使い捨てられるのが良いか、日本のオモチャ博物館でガラスのケースに飾られて永遠の生命を得るのが良いか」などという究極の選択を迫られるわけだ(もちろん結論は言うまでもない) ピクサーも自分たちの分身のようなキャラを悪者に据えるとはよくよく自虐的な連中である。ま、おれは(オタクではあるが)コレクターではないので他人事だが、この映画を心安らかに観られないという不幸な人たちも少なくないようだ。魂の救済が得られん事を。 ● ボイスキャストはウディ役のトム・ハンクス、バズ役のティム・アレンともども絶好調。それにも増して素晴らしいのが、新キャラのお転婆カウガール人形を演じるジョーン・キューザック!(じつは今回 観客の涙をしぼり取るのはこのキャラ) ● CGの作画&操演技術は格段の進歩。ここまでちゃんと“重力を持った”CGアニメは初めてじゃないか。前作では(チャールズ・M・シュルツの「ピーナッツ」のように)大人の顔をいっさい出さないというスタイルだったと記憶するが、本作では大人も子供もバンバン人間が出てくる。まあ、この話で悪役の顔を出さないってのはかなり不自然だろうから致し方ない選択なのかもしれないが、出来れば大人の顔は出してほしくなかったな。あと前作ではけんもほろろに断られたマテル社から、バービー人形の使用許可が出たのがものすごく嬉しかったというのが伝わってきて微笑ましい:)

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ファンタジア2000(ロイ・E・ディズニー製作総指揮

始めに断っておくが、おれはディズニーに対して何の思い入れもない人間である。なにしろ(オリジナルの)「ファンタジア」を観たことがない(爆) いや「ファンタジア」だけじゃないぞ、「白雪姫」だって「ピノキオ」だって「ダンボ」だって「バンビ」だって観てないのだ(火暴) おまけにおれには芸術映画が判らない。ストーリーのない映画は眠くなる体質だ(走召火暴) ま、そういう輩の言ってることだから、話半分で読むように。 ● 1940年(今から60年も前だ)の「ファンタジア」に含まれていた「魔法使いの弟子」と、新たに製作された7つの短篇からなる75分のオムニバス。各エピソード前には、スティーブ・マーチンやらベット・ミドラーやらが出てきて日本語で前説を垂れてくれる。ディズニー・アニメーション・スタジオの会長で、ウォルト御大の甥っ子でもあるロイ・エドワード・ディズニーが直接、製作の指揮を執っていることからも、これが彼らにとって特別な作品であることが伺える。 ● で、肝心の中味だが・・・オープニングは「交響曲第5番/運命」。あのジャジャジャジャーンってやつだが、チラシにはルドイク・ヴァン・ベートーベン作曲と書いてあるので良く似た名前のアメリカ人が作ったのかも。これは抽象アニメで、ちょうちょの形をした色片がひらひらしてるだけなので、途端にうとうとしてしまった。 ● オットリーノ・レスピーギ作曲「交響詩 ローマの松」はCGクジラの優雅な群泳。監督はたむらしげる(違う?) これもストーリーがないので、うつらうつらしてた。 ● 次はアメリカ人の誇り、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」。 新聞漫画で有名なアル・ハーシュフェルドの筆致で描く、大不況時代のニューヨークを舞台にしたO・ヘンリー的ちょっといい話。1960年代とかに作られた大人向けアニメ短篇という感じ。おれはガーシュインの良さが判らない人間なので、ただただ古臭いとしか感じなかった。てゆーか、お子様は退屈すると思うぞ。てゆーか、なぜこれを「ファンタジア」に入れる必要があるのだ? ● ここまで悪口ばかり書いてきたが、次のショスタコビッチの「ピアノ協奏曲第2番」からは、がぜん面白くなる(おれの眠気が覚めたからではないぞ) 片足の折れた錫(すず)の兵隊人形がバレリーナ人形に恋をして…というアンデルセンの童話の映画化で、まるでこのお話のために作曲された音楽であるかのように、物語と音楽のエモーションがピタリと一致する快感よ! CGによるキャラクターも“オモチャの人形感”を効果的にかもしだしている。 ● サン・サーンスの「動物の謝肉祭」は「フラミンゴの群れに、ヨーヨー好きなフラミンゴが紛れこんだら…」という一発ギャク。フラミンゴのながーい首&足とヨーヨーの紐がぐちゃんぐちゃんになっちゃうスラップスティックで、もっとも漫画映画らしい楽しい一篇。 ● そしてデュカの「魔法使いの弟子」。映画を観てないおれでもスクリーン・セーバーで知ってるほど有名な、ミッキーマウス主演作。なんで旧作のエピソードが1本だけ紛れこんでるかというと「60年前のこのアニメーションがどれほど素晴らしいものであったかを確認するため、また、いまの私たちに何が出来るかを証明するために、私たち自身への挑戦として この作品を含めました」(ロイ・E・ディズニー) ● ミッキーが出たからにはドナルドも…というわけで、次はドナルド・ダック主演のエドワード・エルガー「威風堂々」。ノアの方舟のエピソードを題材に描く、ディズニーお得意の動物大行進もの。ドナルド・ダックはノアのアシスタントに扮して、動物たちの交通整理でテンテコマイしたり、はぐれてしまったデイジー・ダックと涙の再会をしたりと、まるでミッキー・マウスのよう。こんなキャラで主役にしてもらっても嬉しくないだろうに>ドナルド。 ● 大団円は高尚なやつを、ってことでトリはストラビンスキーの「火の鳥」。「火の鳥」と言やあ どうしたって手塚治虫なのだが、なんとこの一卵性双生児のフランス人アニメーター(ゲイトン&ポール・ブリッツィ)が監督した一篇は、まんま出崎統りんたろうを思わせる演出/描写で、「自然の破壊と再生」というテーマは、もろ宮崎駿。てゆーか、これ「もののけ姫」のパクり? おまけにキャラクター・デザインは美樹本晴彦だ(違う?) 事前情報なしでいきなりこの挿話を観せられたら、ほとんどの人は日本のアニメだと思うのじゃないか? 時代は変わる、のだなあ。…あ、作品の出来そのものは圧巻。 ● この〈アイマックス版〉は新宿・大阪・札幌・穂高(長野)のアイマックスシアターで公開された。3Dではないので、あの煩わしい3Dゴーグルを装着しなくてよいのはグッド。夏には〈35mm版〉が通常の映画館で上映されるようだ。

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完全犯罪(マイク・バーカー)

フィルム・ノワールとして始まってヘナチョコ青春映画として終わるという不思議な映画。「主人公が死にかけてたりするシーンから回想へ入っていく」というパターンはこの手の映画ではお馴染みのものだが、本篇では冒頭で「主人公がドジを踏んでのっぴきならないところに追いこまれるシチュエーション」をわりと詳しく描いてしまっているので、そこからふりだしに戻っても所詮は結末が見えてしまっていて、冒頭シーンに辿りつくまでの前半がどうにもまどろっこしい。スタイリッシュなつもりのデ・パルマなカメラもうるさいだけ(ただ回しゃいいってもんじゃないのだ) で、問題は後半のどんでんだが、あの展開にカタルシスを感じる人っているのかね? おれはシラけたぞ。 ● わが身にふりかかる不幸に力なく笑うことしか出来ない主人公に、ニヤけたブルース・スプリングスティーンみたいな顔のアレッサンドロ・ニボラ。“カモ”となる元同級生に、カート・ラッセルのさらにB級って感じのジョシュ・ブローリン。そしてヒロインに(実年齢24才だが、今までの役柄のせいで高校生にしか見えない)濱田マリ、別名リース・ウィザースプーン。映画がフィルム・ノワールとして終わらないので、彼女もファム・ファタルではない(これってネタバレ?) ● 最近、20世紀フォックス傍系のフォックス・サーチライト・ピクチャーズが専用のロゴ(>ダサい)を製作して、本篇の冒頭にもそのサーチライト版ファンファーレ・ロゴが流れるのだが、続いて出てくるクレジットは「フォックス2000ピクチャーズ presents 」。これってどっちが正しいの? てゆーか、すげーいい加減?>20世紀フォックス。

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NYPD15分署(ジェームズ・フォーリー)

いや驚いたね、ジェームズ・フォーリーが「香港映画」を撮るとはねえ。NYのチャイナタウンが舞台だし、リンゴ・ラムの「友は風の彼方に(龍虎風雲)」みたいな話だし、おまけに中国語(北京語だった?)の挿入歌まで流れた日にゃあ気分はすっかり香港ノワールである。ま、もっともジェームズ・フォーリーには「ロンリー・ブラッド」っていう男同士の対立/友情を描いた硬質な傑作もあるし、「アフター・ダーク」というフィルム・ノワール調の名作もあるので、もともとそういう系統の人ではあるんだけど。それにしてもいきなり古美術商の店でチョウ・ユンファに2丁拳銃 乱射させちゃうサービスぶりにはすっかり嬉しくなってしまった:) ● チャイナタウンのベテラン“マル暴”刑事に、勝手知ったる…で魅力全開のチョウ・ユンファ。白人ルーキー刑事にマーク・ウォルバーグ(←こいつの作品選択センスって立派だよな) これに刑事を身内に取り込みたい黒社会の幹部(宦官のような嫌らしさが素晴らしいリック・ヤング)と、力で街を乗っ取ろうとする新興の福建マフィア(ジョン・キット・リー)が絡んで「誰が誰を裏切ってるのか」というドラマになる。非情に男臭い映画で、ヒロインらしいヒロインすら登場しない。(常套手段ではあるが)時おり挿入されるNYの街の空撮が効果的。撮影は「ロンリー・ブラッド」「摩天楼を夢みて」のファン・ルイス・アンシア。カーター・バーウェルの哀愁を帯びたテーマもグッド。いや満足、満足。香港映画ファンには絶対のお勧め。次はぜひギャンブラーものをお願いしますぜ>ユンファ兄貴。

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真夏の夜の夢(マイケル・ホフマン)

「ダルク家の三姉妹」「ソープディッシュ」「恋の闇 愛の光」「素晴らしき日」というフィルモグラフィからも明らかなように脚色・演出のマイケル・ホフマンて人はいまひとつどん臭いセンスの持ち主である。19世紀のトスカーナという舞台設定は、このおおらかな恋愛喜劇にふさわしいと思うし、当時 流行りはじめた自転車を小道具に使ったのも洒落てるが、せっかくのアイディアがあまり有効に機能していない。燦々とさしこむ陽光がエンディングの幸福感を演出していないし、(カリスタ・フロックハート以外の)出演者は自転車のどことない滑稽さを使いこなせていない。これはもっとドタバタ喜劇として演出すべき映画なのだ。判ってないなあ。それとシェイクスピアの戯曲がもともと抱えてる欠陥なんだが(って畏れおおいことを言うが)この話って3カップルの結婚式で大団円にしたほうが絶対に幸せだと思うんだけどなあ。 ● キャスティングも大いに不満。そりゃケビン・クラインは抜群に上手いけれども、なぜ田舎芝居の大根役者ボトム役がビリング・トップなの? そのせいかこの役が必要以上にクローズアップされていて肝心の恋愛喜劇のパートが霞んでしまっている。好きな男に嫌われても疎んじられても追いかけていく“のっぽで痩せっぽち”の娘にカリスタ・フロックハート。これは適役。アリー・マクビールのまんまのキャラで、踏んだり蹴ったりの目に遭うさまがじつにチャーミング。昔ならゴールディ・ホーンの役だな。で、2人の男の愛を独り占めにしてしまう“チビで小太り”の娘にアンナ・フリエル。「スカートの翼ひろげて」で尻軽美容師を演ったイギリス人女優で、なんか十人並みの器量の田舎娘って感じ。これは“チビで小太り”とくればクリスティーナ・リッチの役でしょう。恋の媚薬でてんてこ舞いされられる若者2人にクリスチャン・ベールとドミニク・ウエスト。ここも若い頃のジョン・キューザックとパトリック・デンプシーとか、そういうコメディ・センスのある役者を使うべきところ。領主のデビッド・ストラザーンと若くて美しい新妻のソフィー・マルソーは文句ありません。妖精の王ルパート・エヴェレットと女王ミシェル・ファイファーについては、誰かナルシストでれでれ演技を止められなかったのかね。エヴェレットはキャスティング自体はいいと思うけど、いま妖精の女王が出来るのはファムケ・ヤンセン様以外いないでしょうに。判ってないなあ。さて「真夏の夜の夢」と言えば、かの北島マヤの持ち役“悪戯ものの妖精パック”である。この映画ではなんとそこにスタンリー・トゥチなどという、名前を聞いただけじゃ顔も出てこないような中年のハゲのおっさんをキャスティテングしてるのだ。ま、狙いは判らんでもないが、途中から(アテネの若者から失敬した)自転車を乗りまわすのも面白いが、それならもっと適役がいるでしょう。自転車が得意で人間ばなれしたキャラの人が。…そう、ピーウィー・ハーマンことポール・ルーベンスが映画界に復帰してるじゃないの。判ってないなあ。

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ハーモニーベイの夜明け(ジョン・タートルトーブ)

「ハーモニーベイの夜明け」というよりは「愛は霧のかなたのショーシャンクの空に」という感じ。だいたいハーモニーベイってのは舞台となる刑務所の名前だから、この邦題は二番煎じを自ら認めてるようなもんだぞ>東宝東和。 ● ストーリーを要約すると「アフリカでマウンテンゴリラの生態を研究していた人類学者アンソニー・ホプキンスが消息を絶つ。2年後に森林警備隊員殺害の容疑でアメリカのハーモニーベイ刑務所に移送されてくるが男は檻の中で沈黙している。出世欲に燃える精神鑑定人キューバ・グッディングJr.が真相の解明に挑む。…で、まあいろいろあって隠されていた事実が明らかになり、アンソニー・ホプキンスは自由を手にし、キューバ・グッディングJr.が土砂降りの雨の中で両手を広げて天を見上げるとカメラがクレーンアップしてジ・エンド」というもの。何じゃそりゃ?…いや、ほんとにそーゆー話なのよ。 ● そうした“かつて観たイメージ”を借用して描かれるのは、自由と管理、支配と被支配、奪う者と奪われる者、見える檻と見えない檻、家族の絆と父性、勇気と尊厳、自然と人間の共生etc.といった壮大かつ哲学的なテーマ。2時間の映画としては明らかに欲張り過ぎなのだが、さすがは「クール・ランニング」「あなたが寝てる間に…」「フェノミナン」の演出巧者ジョン・タートルトーブ、場面場面を豪腕で乗りきってしまう。もちろん観終わった後の感想は「で、何なの?」でしかないが(一人類学者が1人で悩んでどうなる問題でもないでしょ) ● アンソニー・ホプキンスは期待される以上でも以下でもないギャラに見合うだけの演技をきっちりと提供する。デンゼル・ワシントン症候群がいよいよ重症のキューバ・グッディングJr.は、文字どおりホプキンスに手玉に取られて不様をさらす。ホプキンスの娘に不機嫌美人のモーラ・ティアニー。グッディングJr.とロマンチックな関係になるのかと思ったら最後までキスひとつしないのは異人種間恋愛コードに抵触するから? グッディングJr.の上司の医大教授にドナルド・サザーランド。 ● カメラはフィリップ・ルースロ。一般映画モードのダニー・エルフマンがジェリー・ゴールドスミスの出来損ないのようなスコアを書いている。ひとつだけ褒めると、この映画に登場するゴリラはすべてスタン・ウィンストン・スタジオ製のメカゴリラなのだが、これは掛け値なしに芸術品だった。

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セイヴィア(ピーター・アントニエヴィッチ)

オリバー・ストーン製作による「サルバドル 遥かなる日々」のボスニア内戦版。主役はデニス・クエイド演じるアメリカ人。かつて大使館員としてフランスに駐在していたとき、イスラム原理主義者の爆弾テロで妻子を殺された彼は、イスラムに対する怨みだけからフランス外人部隊に入隊。(ここ、論理のものすごい飛躍があるけど)イスラム教徒をブチ殺せるという理由だけでセルビアに加担してボスニア内戦に身を投じている。これは、狙撃兵として年端のいかない子供も容赦なく撃ち殺すような男が、失った魂を戦火の中で取りもどす旅を描いた過酷な戦場ドラマである。彼と道行きを共にするのが、敵兵のレイプによって生まれた子供を抱えた若い娘(ナターサ・ニンコヴィック)“セルビアの血を汚した”ために家族からも追われることとなった娘は、生きる気力を失くしており、どうしても赤児に愛情を抱くことが出来ない。ランディ・クエイドは行きがかり上しかたなく、母子を赤十字のキャンプまで送りとどけようとするが…。 ● 監督はユーゴスラビアの人で、この映画もセルビア側からの視点によるものだが、自国の恥部も隠すことなく描いており、クロアチアやイスラム勢力を貶める意図を持った映画ではない、てゆーか、そうしたことの馬鹿らしさを描いた映画であることは言うまでもない。なお、ポスターにランデイ・クエイドと同格で記載されているナスターシャ・キンスキーは、ほんのワンシーンのみの出演。 ● 本作は(こんな地味な映画にもかかわらず無謀にも)上野スタームービーで単館ロードショーされた。石井輝男の「地獄」で改装オープンした同館だが、たしかに、渋谷のようにオシャレな若者の集客を望みようもない上野で「単館上映館」として生き残るにはカルトアニメという選択は正しいと思う。オタクの都=秋葉原から2駅だしな。あとあれか、焼肉屋が多いから韓国映画とか、上野公園のイラン人目当てのイラン映画とか、どうよ(誤解?)

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スリー・キングス(デビッド・O・ラッセル)

戦争アクションを期待して行くと肩透かしを喰らうので注意。「こげなあっけなく湾岸戦争さ終わっちまったら物足りんで、サダム・フセインがクエートから奪ってきた金塊でも横取りすっぺよ」という四馬鹿大将の独立愚連隊もの。…て、それじゃスリー・キングスじゃないじゃん。ブラック・コメディの傑作「アメリカの災難」ではアメリカを徹底的におちょくってみせたデビッド・O・ラッセル(脚本・監督)だが、さすがに戦争がテーマとなると構えてしまうようで、初めてジョグダイヤル付きのビデオデッキを手にした子供のような、目まぐるしい映像の下から透けて見えるのは意外に保守的でヒューマンな物語だ。この映画に描かれたような湾岸戦争の内幕を我々はすでに知識としては識っているわけで、映画にするんだったら もうひとヒネりしてくれないと面白くない。それに結局あの終わり方じゃ「正義の国 世界の警察アメリカ万歳」ってことにならんか? もっとブラックに徹してほしかった。てゆーか、目が回りそうな編集は百歩譲って認めるとしても、ほんとにこんな白っ茶けたハイコンの画調にする必要があったのか?(お蔭で字幕が読みにくいこと読みにくいこと) こういう撮り方だと役者の演技もあまり楽しめないんだよな。フツーのハリウッド映画とは一味ちがう面白さをお求めの方にお勧めする。

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差出人のない手紙(カルロス・カレラ)

メキシコのカルロス・カレラの第3作。たしかデビュー作の「ベンハミンの女」は(本作でも字幕翻訳をてがけている)間宮敏行氏が個人輸入して池袋のシネマ・ロサで公開したのだった。今度は(シネマ・下北沢などという超マイナーな劇場での公開とはいえ)ちゃんと配給会社がついたようで良かったですな>間宮さん(面識ないけど) ● テーマは「ベンハミンの女」と同じ。すなわち「色恋に不器用な男の本気の恋」である。主人公は郵便局に勤める老人。妻もとうの昔に亡くして今は猫との孤独な2人暮し。判で押したような日常。そこに差出人のない手紙(もちろん恋文だ)が届くようになる。忘れていたはずの感情に心かきみだされる老人。だが調査を依頼した私立探偵が引き合わせたのは、探偵と口裏を合わせた年増のくたびれたお茶ひき女郎だった。老人は嘘と知りつつ彼女にのめりこんで行く…。 ● (観客にははじめから明示されるのだが)手紙を書いたのは上の部屋に住む、本篇のもう一人の主人公である若い女性だ。東スポのカメラマンをしている彼女も、おそらくは地方から出てきたのであろう都会に1人暮しで、夜中に友だちを呼んで騒いでは孤独を紛らわしている。差出人のない手紙は、近所迷惑に苦情を言いにきた老人をからかってやろうとの、ちょっとした悪戯心からだった…。匿名の手紙を書きつづけてきた彼女が、老人の写真を撮るところが本篇のラストシーン。日活ロマンポルノを思わせる、孤独と純情と雨の降りしきる都会を描いた佳篇。

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理想の結婚(オリバー・パーカー)

はじめに「1895年 ロンドン・シーズン」とタイトルが出る。そんな季節があるのだなあ。うららかな陽射しを浴びて着飾った上流社会の紳士や貴婦人たちが馬車で行き交う。ふむ。たぶん“ロンドン・シーズン”とはメイティング・シーズン(交尾期)と同義語だな。内容については宣伝コピーがすべてを語っているので そのまま引用する>[嘘つきは、夫婦のはじまり。“理想の夫”をめぐって、淑女と悪女と賢女が 誘って騙して脅かして。] ● なによりもオスカー・ワイルドの原作戯曲の台詞の美しさに惚れ惚れする。ローレンス・フィッシュバーン&ケネス・ブラナー版「オセロ」で監督デビューしたオリバー・パーカー自身による脚色も見事。「恋に落ちたシェイクスピア」が好きな人なら間違いなく気に入るであろう珠玉のコメディ。 ● キャストのアンサンプルが素晴らしい。女房にも秘密にしていた過去のスキャンダルをほじくりだされ危機におちいる国会議員の“理想の夫”にジェレミー・ノーザム。理想主義者で嘘をつくことが出来ない“淑女”妻に、気丈な美しさのケイト・ブランシェット「この世は あなたがいるだけで素晴らしく思えたのに」 ウイーンの社交界から悪徳の種を運びこむ(淑女妻の元同級生の)“悪女”に、輝くばかりに底意地わるいジュリアン・ムーア「過去を買えるほどのお金はないわ。誰にもね」 議員のはつらつとした妹の“賢女”にミニー・ドライバー(この人はミスキャスト。これはもっと若い娘の役でしょう) ● さて、じつは本篇の主役はルパート・エヴェレットである。議員&淑女夫妻の親友にして、悪女の元カレにして、賢女がひそかに惚れる穀つぶし貴族。てゆーか、貴族とは本来そーゆーものなんだが、日がな一日なにもせず、夜は社交界で嫌味と皮肉を言って暮らす「父上、まじめな話は別の日に願います。まじめな話をするのは第一火曜日と決めております。正午から3時までと」TPOに合わせたエレガントな装いでビシッと決め、仁も義も人一倍 心得てはいても、あくまで他者の前では偽悪的に振舞ってみせる「自分を愛す。それが生涯のロマンスだ」まちがっても生産的な生きかただけはしないというダンディズム。そーか、そういう粋人は現代ではゲイとしてしか生き残れないってことか…。 ● ちなみに、パンフレットによるとオリバー・パーカーは本作の後「一転して、クライヴ・バーカーの小説・映画『ヘルレイザー』の舞台版の演出に取り組んでいる」のだそうだ。観てぇー!

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Go!Go!L.A.(ミカ・カウリスマキ)

ポスターにはヴィンセント・ギャロ&ジュリー・デルピーの名前がデカデカと印刷されているがこの2人は助演である。その実は「イギリスの片田舎で葬儀屋をしてる冴えない青年(デビッド・テナント)が、声だけはジュリア・ロバーツそっくりの売れない女優(ヴァネッサ・ショウ)を追いかけてハリウッドにやってくる」という話。ギャロの役は青年に家と仕事(プール掃除)を紹介するラリパッパ男「イカした服だ。おれの人生のすべてを捧げるから舌で脱がさせてくれ」 で、脱がさしちゃったのがヒロインのバイト仲間であるデルピー。カルチャーギャップ・コメディ調の前半は快調なのだが、青年が「自分勝手で子供じみた嫉妬深い本性」をあらわしてくる後半は不快。「こんなヤツ捨てられて当然じゃん」と思ってると、なんと最後は女がイギリスまで詫びを入れに来てメデタシメデタシだと。なんじゃそりゃ>ミカ・カウリスマキ@フィンランド人。 ● レニングラード・カウボーイズが「ギャロのバンド」として本人役で出演。ジョニー・デップがこれまた本人役で不思議な出演の仕方をしている。

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スクリーム3(ウェス・クレイヴン)

「スクリーム」のユニークさは、ゴーストマスクの殺人鬼が ただ闇雲にターゲットに襲いかかるのではなく、これと狙い定めた相手にゲームを仕掛けてくるという点にある。ゲームの本場といえばハリウッド。…というわけで3作目はハリウッドに舞台を移して、ロジャー・コーマン製作総指揮(!)の「スタブ3」撮影スタジオが血で染まる…というストーリー。オリジネーターのケビン・ウィリアムソンが製作・原案のみで脚本を書いてない関係もあって、監督のウェス・クレイヴン色が強まっている。劇中映画「スタブ3」のサブタイトルが「再びウッズボローへ」であることからも判るように、これは「エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」のバリエーションである。エルム街の「あの家」を思わせる1作目の殺人現場そっくりの「セット」にヒロインが迷いこむ場面のシュールな感覚。全篇にただよう「壁の中に誰かがいる」にも通じるいびつなユーモア。 ● 毎回 犯人が違うのになんで全員が同じゴーストマスクを被ってるのかとか、怨恨ならヒロイン1人を殺しゃ済むのになんであんな沢山殺さにゃならんのかとか、3作目に至ってもはや「生き残り組」と「新規キャスト」の間の生エネルギーの差があまりに顕著で、最初っからだれが助かるのか歴然としすぎてるとかツッコミどころはいくらでもあるが、まあ、前2作を観ている人なら充分に楽しめるだろう。 ● ヒロインのネーヴ・キャンベルはタンクトップに二の腕の筋骨隆々で完全にシガニー・ウィーバー化してる。てゆーか、演技が1作ごとに下手になってる気がする。突撃レポーター ゲイル・ウェザースという「嫌な女キャラ」だったはずのコートニー・コックス・アークエットが(たぶん本人の強い希望で)いつのまにか「良い人キャラ」になっちゃってるのは興ざめ。てゆーか、これ以上アークエット姉妹を増やしてどーする! その分、大活躍なのが“「スタブ3」でゲイル・ウェザース役を演じてる性格の悪い女優”役の、NYのインディーズ姫パーカー・ポージーである。同じような服で同じヘアスタイル同じメイクの“ふたりゲイル”がギャーギャー言いながら、ばたばたと殺人現場を駈けまわる様はケッサク。デビッド・アークエットは(これもたぶん本人の強い希望で)マヌケ度が減少しててつまらん。 ● 「スクリーム」からはローズ・マッゴーワン、スキート・ウールリッチ、「スクリーム2」からはヘザー・グラハム、サラ・ミシェル・ゲラー、レベッカ・ゲイハートと新進スターの登龍門の役割をはたしてきた本シリーズだが、この「スクリーム3」には目立った新人は見当たらない。ま、もちろん学園ホラーじゃなくなったってこともあるが、ネーヴ・キャンベルやコートニー・コックス・ア(以下略)から「若くてピチピチした子は出しちゃダメ」という強い希望が出されたのだろうな。代わりに、いつのまにやらショーン・ペンのパチモンみたいになってた刑事役のパパパパ、パトリック・デンプシーや、どー見ても殺人犯に見える悪徳プロデューサー役のランス・ヘンリクセンといった人たちが目立っていた。

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マイ・リトル・ガーデン(ソーレン・クラウ・ヤコブセン)

第2次大戦下のポーランドで、お父さんをゲシュタポに連れてかれた少年が、独りで廃屋に隠れてお父さんの帰りを待つ…という話。原題は「THE ISLAND ON BIRD STREET」で、なんで“島”かというと、この少年は自分を愛読書である「ロビンソン・クルーソー漂流記」の主人公になぞらえているのだ。チラシでこの設定を知って、ファンタジー色の強い映画を期待してたんだが、生真面目な優等生映画でちょっとがっかり。こんな辛気臭く撮るよりも、ジョン・ブアマンの「戦場の小さな天使たち」のように軽やかなタッチで演出した方が効果的だと思うんだけどなあ。最後には、お父さんが帰ってきて仲良く親子2人でどこかに去って行くんだけど、これって終戦ってこと? どうしてお父さん無事だったの? なになにどういうことよちゃんと説明してよ。 ● 監督は「ミフネ」のソーレン・クラウ・ヤコブセンだけど、これはドグマ・シリーズではないので普通に照明あてて撮影しているしBGMも付く。イギリス、ドイツ、デンマークの合作映画で台詞は英語。お父さんにパトリック・バーギン。名優ジャック・ウォーデンも出ている。

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発狂する唇(佐々木浩久)

団地の屋上の首なし少女の予告篇を観て、高橋洋脚本のホラー新作への期待に胸高鳴らせているそこのあなた、悪いこと言わないから、すぐ映画館に直行しなさい。この映画は予備知識なしで観たほうが絶対に面白いから。 ● バカ映画である。いきなり真っ赤な血の色で「発狂する唇」と殴り書きのタイトル。おお新東宝だあ。妖しく様相を変える万華鏡の絵柄のクレジット画面には、ホラーでございというチープな音楽におどろおどろしい女声のコーラスが、あーあーあーあーあーーー(<ターザンの雄叫びじゃないぞ。「未知との遭遇」の5音メロをゆっくりとソプラノで歌うと雰囲気近いかも) こりゃ確信犯だな。かつての大蔵貢時代のエログロナンセンスB級映画の意識的再生である。ただ惜しむらくは、脚本・高橋洋も監督・佐々木浩久もしょせんは理性的な常識人なので、石井輝男のような本物のキチガイだけが持つ凄みに欠けるのはしょうがないか。 ● 役者陣は全員怪演、つまりまともな演技をしてる俳優が1人もいないという徹底ぶり。薄幸のヒロインに三輪ひとみ。ブラの上辺からこぼれそうな巨乳に玉粒の汗。うーん、エロい。←死語 被虐感あふれる3Pには貴兄もきっとご満足いただけよう。上目遣いが怖すぎる女霊能者に「三月のライオン」の由良宜子。「ご安心ください。怪しいものではありません」って、あんた怪しすぎるよ>阿部寛。そうそう、吉行由実vs下元史朗というピンク映画の黄金カードもあるぞ。

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クッキー・フォーチュン(ロバート・アルトマン)

いやあ名人芸だねえ。御歳75才、ロバート・アルトマンの新作は、のほほん&ひょうひょうと笑わせて、しっかり毒もある。まるで小さんの落語のようだ。 ● 物語の幕を開けるのは女性シンガーが低い声で歌う物憂げなブルース「I'm Comin' Home」。ミシシッピー州ホーリー・スプリング。南北戦争で北軍を打ち負かした地だってことが、いまだに唯一の自慢であるような南部の小さな町を舞台に選んだ時点で映画のトーンが決定した。南部独特の節をつけての間延びしたしゃべり方。黒人俳優チャールズ・S・ダットンのゆったりとしたリズムをきざむ歩き方。アルトマンの演出も悠々たるテンポで「ひとつの死がまき起こす田舎町の大騒動」を描き出す。ささくれだってヒリヒリしてる「ショート・カッツ」がLAの街に対するアルトマンの愛憎なかばする気持ちの現われだとすれば、「クッキー・フォーチュン」にあふれている大らかさや温かさこそ南部人監督が故郷に寄せる偽らざる愛情の発露だろう。「なぜ彼が無実とわかるのだ」「なぜなら彼は…釣り仲間だ」 ● いつもの事ながら役者のアンサンブルが素晴らしい。タイトルロールの“クッキー婆さん”を演じるのは往年の名女優(と言ってもアルトマンより1つ歳下だけど)パトリシア・ニール。この映画は「クッキー刀自の書き置きが失われたために混乱がはじまり、その遺書が公表されることで収束する」話だと言える。クッキー婆さんの姪に当代の2大女優が扮して火花を散らす。すなわち“高圧的で裏表ありありの偽善的なオールド・ミス”の姉に(なぜか黒柳徹子そっくりの)グレン・クローズ。“ちょっとトロくて従順な未亡人”の妹に、いまが旬の売れっ子ジュリアン・ムーア。クッキー婆さんの世話をしてる“夕方のニュースの前には決して酒を口にしない、実直で正直者の黒人”に名優チャールズ・S・ダットン(実質的な主役はこの人だ) “田舎者の善人”を絵に書いたような白人保安官にネッド・ビーティ「こんな時に単語ゲームを?」「そのうち誰かが来て真相を解明してくれるさ」 ジュリアン・ムーアの娘でただいま家出中の“気立てのいいヤリマン娘”にリヴ・タイラー。髪をショートにしてタンクトップから筋肉質の二の腕を覗かせた一本気な南部娘キャラがベリー・キュート。その元カレの“まぬけな保安官助手”の好青年にクリス・オドネル。そのほかに“むっつりスケベの なまず屋のおっさん”でライル・ラヴェットが出てくるが、これはスティーブ・ブシェーミの役だな。なお、撮影はレギュラーのアラン・ルドルフ組から師匠のアルトマン組へ昇格(?)した栗田豊通。南部の田舎町の暖かい陽射しを軟らかくとらえている。 ● ひとつ文句をつけておくと、「隠された秘密」の解明が台詞だけで処理されてしまうので、字幕のカタカナ役名なんてテキトーに読み流してる おれのような人間には一瞬「えっ?誰と誰がどうなったって??」状態になってしまうのだ。ここはやはり市川崑「金田一」にならって、回想フィルムのフラッシュバックでも挿入しといてほしかったね。あとそれと、800円もするパンフのカラーページをすべてリヴ・タイラーの写真で埋めるってのはアルトマンの映画を観に来る客層を勘違いしてるのでは?>K2エンタテインメント。

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フェリシアの旅(アトム・エゴヤン)

撮影:ポール・サロシー 編集:スーザン・シプトン 音楽:マイケル・ダンナ
まず予告篇を褒める。だれが構成・演出したものかは知らないが、明らかに日本で製作されたとおぼしき「フェリシアの旅」予告篇は掛け値なしの傑作である。普通の予告篇がそうであるように本篇のシーンをただ繋ぐのではなく、本篇の絵と音をバラバラに(しかし映画の本質を見失うことなく)再構成して、本篇同様の緊張感みなぎる編集をほどこし、宣伝コピーの出し方ひとつにも繊細な神経が払われた、まさしくそれ自体が3分間の短篇映画といって差しつかえない完成度。こういうのってやっぱり専門のディレクターがいるのかねえ? ● で、本篇。こちらもファースト・カットからエンディングまで不安に満ちた緊張感が途切れることがない、フィリップ・リドリーの「柔らかい殻」や三村晴彦の「天城越え」と同様、一瞬たりとも観客の目を画面から背けさせまいという作者の強固な意志が感じられる(悪く言えば観てて疲れる)傑作。「少女の成長の旅を描いた感動篇」を想像させるタイトルはミスリード以外の何ものでもなく、その実体は極上のサイコ・サスペンスである。だから腰くだけのエンディングがじつに残念。あそこはやっぱり少女の残酷さをきっちり出すべきでしょう。 ● アイルランドから恋人を追って1人でイギリスのさびれた工業都市バーミンガムにやって来た「青い服の少女」を演じるのは、りんごの頬も初々しいアイルランドの新人エレーン・キャシディ。バーミンガムの工場の社員食堂のコック長で、いつもスーツ姿にベストを着てネクタイをきっちりとしめている「人の良いイギリス紳士」に名優ボブ・ホスキンス。

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アデュー、ぼくたちの入江(マニュエル・プラダル)

避暑地リビエラ。無愛想な不良少年と挑発的な14才の少女。少女ならではの大胆さでアメリカの水兵たちとの火遊びに興じるヒロイン、ヴァヒナ・ジョカンテは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の頃のジェニファー・コネリーにちょい似。裕福な実家を飛び出してホームレスな暮らしをしてる少年フレデリック・マルグラの、胸板のまだ薄い華奢な肉体。典型的なひと夏の体験ものである。前半はじつに良い雰囲気で演出も快調なのだが、後半 2人が一緒になってからがだらだらと退屈。起承転結が雲散霧消するフランス映画の悪い面が出てしまった。しまいにゃ因果律を無視したエンディングに唖然。 ● あとでチラシ裏を読んだら、少年は「金持ちのぼんぼん」ではなく「ジプシーの少年」という設定なんだそうだ。てことは冒頭のシーンで少年が大きな屋敷に忍びこむのは「こっそり実家に戻った」んじゃなくて「盗みに入った」ってことか。じゃあ「盗みに入られた」屋敷の女が思わせぶりにその後何度も登場するのは何故?(少年の母か、姉さんだとばっかり思ってたんだけど…)

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UMA レイク・プラシッド(スティーブ・マイナー)

年に1度のお楽しみ、東宝東和のクリーチャー映画シリーズ。「レリック」「ザ・グリード」「ヴァイラス」と来て今年は「UMA」だ。UMAとは「未確認生物」という意味なんだそうな。でも、ほんとのところはUMAじゃなくてWANIだ。「体長10mのアジア産クロコダイルがメイン州の静かな湖(=レイク・プラシッド)にあらわれてさあ大変」という巨大生物パニックもの。 ● 製作&脚本は「アリー・myラブ」などでエミー&ゴールデン・グローブ総なめの大物プロデューサー、デビッド・E・ケリー(ミシェル・ファイファーの旦那) テレビで儲けた金で趣味に走ってみましたというところか。だがテレビのシチュエーション・コメディで鍛えた腕はダテじゃない。台詞が上手い。キャラクターが立っている。パニック・ホラーというよりドタバタ・コメディといったおもむきなのだ。この手の映画としては珍しく、ここに出てくる“怪物”は「秘密軍事工場からの廃液で突然変異した」のでもなく「超自然的な悪魔的存在」でもないただのデカいワニである。最後の対決にも核爆弾やオキシジェン・デストロイヤーといった非現実的な兵器が使われることはなく、ライフルと網で捕まえましょうというつつましさ。上映時間わずか80分あまり。これ以上、何を加えても別の映画になってしまうであろう、極上の屋台ラーメンのようなB級映画の佳作。ロン・アンダーウッド「トレマーズ」のとぼけたユーモアを愛する人にお勧めする。 ● 監督はひさびさにジャンル映画に戻ってきた「13日の金曜日 PART2&3」「ガバリン」「ワーロック」のスティーブ・マイナー。音楽のジョン・オットマンが良い仕事をしている。主役の巨大ワニは、スタン・ウィンストン・スタジオ製のメカニカル・ワニと、デジタル・ドメイン印のCGワニの豪華2匹1役。「カレシに振られて、おまけに田舎が大嫌いなのにNYの博物館からメイン州の片田舎に飛ばされてしまったツイてない女の子」というアリー・マクビールみたいなキャラのヒロインにブリジット・フォンダ。蚊が出たといっては殺虫剤を撒き散らし、テントで寝ると言われてギャーギャー騒ぎ立てるという、水辺のホラーなのに透け乳がないのも許せる好演。男性側主役は そんなブリジット・フォンダを見て困った顔をしてればよいのでビル・プルマン適役。これにデブで変人のワニ研究家オリバー・プラットと「嫌味で皮肉屋の都会人」が大嫌いな田舎者の保安官ブレンダン・グリーソンの凸凹コンビ…いや凸凸コンビがいちいち笑わせる。だが一番キョーレツなのは湖畔に暮らす偏屈ばばあベティ・ホワイト。「フラッド」で洪水に呑まれて死んだとばかり思ってたら、ちゃっかり生き延びてメイン州の湖であんな事をしてたとは!

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