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m @ s t e r v i s i o n
Archives 1999 part 3
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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シックス・センス(M.ナイト・シャラマン)

この映画を各回入替制のシネコンで観てはいけない。なぜなら必ずファースト・シーンからもう一度、観なおしたくなるはずだから。また本稿ではルール違反は犯していないが、なるべく白紙に近い状態で観た方が面白い映画なので、先に映画を観てからこの文章を読まれることをお勧めする。 ● 主人公の少年を演じるハーレイ・ジョエル・オスメント君(11才)が素晴らしい。ファースト・カットから観客はこの子に感情移入せずにいられない。しじゅう何かにおびえてる様子で、家から教会までの道のりを必死で走っていく小さなシルエット。若い女と家を出ていってしまったパパの置いていった(レンズのはめてない)メガネをかけて、腕にはやはりパパの忘れていった(壊れて動かない)腕時計。2人暮しのママはパートの掛け持ちに追われてる。かつかつの暮らし。学校から帰ると、その日にあった“架空の”楽しい出来事を(お互いにそれが嘘と知りながら)報告しあうのが悲しい習いになっている親子。自分が望みもしない“シックス・センス”を持っているせいで、友達からは“フリーク”呼ばわりされ、けれど世界で一番愛してるママにまで気味悪がられたら、もう生きてはいけないから、自分の“秘密”のことはママにも話せない。世界から孤立した9才の子供。そんな彼の前に現れたのがブルース・ウィリス扮する小児精神分析医だ。悩める子供相手のセラピスト。市長から表彰されるほどの腕だったのだが、とある出来事をきっかけに地位も名誉も失い、妻との会話も途絶え、かつての自分を取り戻そうと、もがいている中年男。孤独な子供と失意の精神分析医。本作はこの2人が孤独な魂を共有しあい、やがて安らぎを得るまでの物語である。もちろんその過程で2人は身も凍る恐ろしい出来事に直面することになるのだが…。 ● 冒頭にブルース・ウィリスの思わせぶりな“メッセージ”が出るので、ここまでは書いて構わないだろう・・・この映画のストーリーには“ある仕掛け”がある。だが、この映画が優れているのは、「スティング」のように“ビックリさせて終わり”なのでもないし、「ユージュアル・サスペクツ」のように“起こってもいない出来事を描いたアンフェアな映画”でもなく、すべての出来事が始めから観客の前に提示されているにもかかわらず、ラストシーンの後では、それまでの1時間40分が180度違う映画となって観客の前に立ち現れてくるという離れ業にある。すなわちそれまでホラー映画と信じて観ていたものが、じつは極上のラブストーリーだと判明して、観客は愕然としつつも気持ちの良い涙を流すことになる。必見。 ● 脚本は監督自身。伏線の何たるかを熟知したマドラス生まれ/フィラデルフィア育ちのインド人。東洋の死生観と西洋の合理主義を身につけた男、M.ナイト・シャラマン、…只者ではない(劇中、子供が入院する病院の医師として出演もしている) そしてまた、メジャー作品の経験のない29才の新進監督(それもインド人)にブルース・ウィリス主演の大作をまかせて、見事に2億ドル以上を稼ぎ出してみせたフランク・マーシャル&キャスリーン・ケネディの元アンブリン・コンビの慧眼も大したものである。あと、母親に扮したトニ・コレットが生活疲れしたエロスを発散していてなかなかよろしいな。

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海の上のピアニスト(ジュゼッペ・トルナトーレ)

あざとい映画作りには定評のあるトルナトーレ先生の全篇 英語による新作。「1900年に船上で生まれ“1900(ナインティーン・ハンドレッド)”と名づけられ、生涯に1度も船を下りたことがない天才ピアニストの伝説」(いや、もちろん作り話である)…もう設定からして強烈にあざといよなあ。おまけに音楽はエンニオ・モリコーネだ。きっと「寓意に満ちたお涙頂戴の一大クロニクル」でも観せられるんだろうと覚悟して行ったら、意外にあっさりしたファンタジーだった。 ● ジュゼッペ・トルナトーレは決して「下手な監督」ではない。それどころか娯楽映画の呼吸がよく判っている人だ。ただ、それをあざとく使いすぎるのが問題なのだ。今回、脚本も書いたトルナトーレは、主人公のキャラクター設定に思いきりあざとい技を使った代わりに、「豪華客船を舞台にした20世紀前半のストーリー」を書けと言われた脚本家の10人の9人までが書きそうな「ありがちな設定」を敢えて避けている。すわなち(1)グランドホテル形式にしないという事と(2)2つの世界大戦を描写しないという事だ。この潔い構成によって物語が無駄に重くならずに済み、半世紀に渡る物語をなんとか2時間に収めている。 ● まあそれでもあと10分は切れるな。どこが余分かというとラストが長すぎるのだ。ここで主人公自身が「自分が船を下りなかった理由」を延々と台詞で説明してくれるわけだが、これこそ非・映画的な蛇足である。それまでの1時間50分を何のために費やしてきたのか。 ● エンディング・クレジットをヴォーカル曲にしたのも趣味が悪い。ここはやはりエンニオ・モリコーネのテーマ曲をオーケストラで高鳴らせるべきだろう。 ● ティム・ロスは良い役者だし好きな役者の1人だが「エキセントリックな天才」には見えないのでミスキャスト。物語の語り部でもある、親友のトランペッターに扮したプルート・テイラー・ヴィンスが名演。ちょいジョン・グッドマン似の、「ノーバディーズ・フール」で頭の足りないデブを演じてた人だ。楽器屋のクソ親父に扮したピーター・ヴォーンが良い味。

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奇人たちの晩餐会(フランシス・ヴェベール)

原題を直訳すると「マヌケどものディナー」。「イヤミな金持ちどもが毎週水曜日のディナーにマヌケな庶民を招待しては、自分たちの招んだゲストのマヌケぶりを陰であざ笑う」という、いかにも性格の悪いフランス人が考えそうな趣向ではある(←偏見) 本篇の主人公ピエール(もちろんイヤミな金持ち)は「これぞ世界一のマヌケ」ともいえるマヌケ(こちらは愚かでお人好しの庶民)を見つけて狂喜したのも束の間、“事前調査”のためにそのマヌケを自分のアパートに招んだのが運の尽き。想像を絶するマヌケのマヌケぶりによってピエールの人生は崩壊していく…。ま、教訓としては「無遠慮でずうずうしい善人のお節介には気をつけろ」という事ですか。 ● チラシ裏に「ブラックユーモア巨編」とあるのは間違いで、これは「1人のマヌケが状況をどんどん悪化させていく」という正統派のシチュエーション・コメディである。古いといえば古いタイプの映画だし、舞台劇の映画化だけあって場面の9割は主人公のアパートの中で展開するのだが、電話をたくみに使ってストーリーを転がしていく(=混乱させていく)手腕など、鮮やかなものだ。ま、それもそのはず、何を隠そう監督&脚本のフランシス・ヴェベールは、かの「Mr.レディ Mr.マダム」の脚本家なのだった。エドゥアール・モリナロやブレーク・エドワーズの諸作を愛する同好の士にお勧めする。

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ブレア・ウィッチ・プロジェクト[キネコ作品]
(ダニエル・マイリック&エドゥアルド・サンチェス)

そもそも宣伝がそれをウリにしてるのだし、誰もが知ってる事とは思うが、いちおうルールとして断っておく。以下の文章にはネタバレが含まれている。 ● 映画の在り方としては興味深いが、映画単体として観ればコケ脅しにすらなっていない学生映画である。「大学生のヘザーちゃんがお友達のジョシュ君とマイケル君を誘ってブレアの森に魔女のドキュメンタリーを作りに行きました。森には何かが潜んでいて、ヘザーちゃんたち3人はとても怖い目に遭いましたが、感心なヘザーちゃんは死ぬまでカメラを離しませんでした」というお話。学生たちの死後に発見されたフィルム&テープ…すなわち「ドキュメンタリー映画の映像としてのモノクロ16mmと、ヘザーがメイキング映像として写した8mmビデオのカラー映像を編集した」ドキュメンタリーという体裁になっている。だがその割りには「カラーとモノクロの使い分け、および誰がどちらのカメラを写しているのかが明確でない」とか、「当初の予定から3日も4日も余計に森の中にいるのにカメラ&ライトのバッテリーはどうしたんだ」とか、「コンパスが当てにならないのは判ったんだから川沿いに歩いてきゃいいだろよ」とか、あるいは「ヘザーのビデオを嫌がっていたジョシュが次のカットでは自分でカメラをまわして」いたりと論理的な矛盾が多過ぎる。何よりこの方法論には「本当に怖けりゃビデオなんか撮ってる余裕はないはずだし、ビデオをまわさなきゃ本当に怖いシーンは写せない」という致命的なジレンマがある。いや「コリン・マッケンジー」のような、コメディとしてのいんちきドキュメンタリーならそれでもいいさ。だが本当に怖がらせようとして作ってんなら、そうした矛盾は出来得るかぎり排除すべきだろう。「今まで誰もやった事がない」んじゃなくて「ちょっと考えりゃ矛盾が明らかだから誰もやらなかった」だけじゃないの? ● 期待している向きには生憎だが、この映画は最後まで恐怖の正体を見せない。サム・ライミの「死霊のはらわた」や、高橋洋+中田秀夫の「女優霊」のように、見せないなら見せないで、それなりの演出をしているかと言えば、それすらも出来ていない(いや、何しろ“学生の自主映画”だから) ● (劇中劇ではなく)この作品自体は全篇がビデオで撮影されて、ビスタサイズにキネコ(フィルム変換)されている。ビデオ画面はスタンダードサイズなので上映中ずっと左右に黒味が出たままとなる。まあ中味が中味なので画質の悪さは気にならない…というか、効果的ではあるのだが。出演は素人3人。監督は「映像は彼ら自身が写したもの。大まかな打ち合わせをしてあとは即興。本人たちには知らせず脅かしてリアルなリアクションを撮った」などと語っているが、撮影監督がクレジットされてんのはどーゆー訳だ。 ● あとこれは、おれが無知なのかも知らんが「魔女」ってのはあくまでも「魔術を使う人間」であって、死んだらそれは「魔女の霊」では? いやつまり「半人半獣の姿をした毛むくじゃらなもの」はすでに「魔女」とは言わないのでは? ● ともあれ、邪教風の木の人形とかのギミックは面白いので、(アマチュア監督2人が関わらずアルチザン・エンタテインメント主体で作られるという)パート2には、ぜひサム・ライミを監督に迎えてホラー映画はこう作るのだというお手本を見せてほしいものだ(もちろん35mmフィルムでね) ● 「ワイルド・ワイルド・ウエスト」がコケてくれたお蔭で新宿ミラノ座の大スクリーンで観ることが出来たのだが、失敗だった。ミラノ座は非常灯が消えず、上映中も天井灯がいくつか点いたままなので場内が真の闇にならない。ところが、この映画には画面に何も映っていない真っ暗なシーンがいくつもある。ブレアの森でカメラ・ライトを消したら当然そうなるであろう暗黒に、恐怖に震えた出演者の声だけが聞こえてくる。ほんとうなら字幕だって邪魔なくらいなのだ。せっかくの演出も薄明るいミラノ座では台無しである。これから映画をご覧になる諸賢には、上映中は真の暗闇になるシネコンでの観賞を強くお勧めする。

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バッファロー'66(ヴィンセント・ギャロ)

ヴィンセント・ギャロ自身が編集したという予告篇がムチャクチャカッコイイ。全篇スチール構成にもかかわらず作品の空気を的確に伝えている。くわえて選曲とタイポグラフィのセンス! おれが生まれてこのかた観てきたすべての予告篇のなかでベストワンかもしれない。その後、配給会社はなぜか日本製の“普通の”予告篇にさしかえてしまったが…(「抱きしめて」「握手で我慢しろ」というラブホテルのシーンが入ってたら“普通”のほう) ● ショーン・ペンの「インディアン・ランナー」のような映画を想像していたのだが(たしかにスピリットにおいては通じる部分もあるが)、映画の作り方としてはむしろダニー・ボイルの「トレインスポッティング」やタランティーノものに近い感じがする。ヴィンセント・ギャロはナチュラルにああいう人なわけではなくて、じつはかなり計算してあのキャラクターなり世界なりを作っている気がした(まあ、もちろんそれで映画の価値が少しも減じるわけではないが) この人の作為性はたとえば、画面内画面を使った回想手法や4人がけテーブルの切り返し撮影、あるいはラストのスカし方あたりに顕著である。 ● ハリウッド映画には絶対出てこないような、みっともない男と冴えない女の切ないラブストーリー。日本で作るなら「傷だらけの天使」の頃のショーケンと、デビュー当時の大竹しのぶって感じ? 監督は1970年代の神代辰巳か藤田敏八だな。 ● キャストはおしなべて良いのだが、なかでもクリスチーナ・リッチのビザールな存在感が群を抜いている。まあ、言ってしまえばただのブタ女なのだが、グレッグ・レイクの歌声にあわせて踊る彼女の美しさには思わず見惚れてしまう。 ● [以下ネタバレ]「ラストのスカし方」というのはつまり、普通の脚本家ならあそこはギャロが「ドーナツ屋で強盗とまちがわれて殺される」か「道路を渡る際にクルマに轢かれて死ぬ」か、するはずなのだ。そして「何も知らないクリスチーナ・リッチの幸せそうな寝顔」あるいは「モーテルの前で彼の帰りを待つ手持ちぶさたな彼女のぽつんとした姿」でエンドマークになるはずなのだ。あの、いけしゃあしゃあとしたハッピーエンドは明らかに確信犯である。その上、ハッピーエンドであるなら絶対に必要な「再会」のシーンもなく唐突にスチール写真1枚で終わってしまうとは。

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エイミー(ナディア・タス)

ロック・スターの父親が豪雨のライブで感電死するのを目の当たりにして以来、聞くことも喋ることも止め、歌うことでしか周囲とコミュニケートできなくなってしまった9才の女の子の物語。オーストラリア製の、これ、じつは長屋もの人情コメディである(いや、ほんとだって) 母娘が越してくる界隈がメルボルンの極貧横丁。落語でおなじみの貧乏長屋だ。横丁には、女房とケンカばかりしてる暴力亭主とか、ごくつぶしの工員とか、男運のわるいハイミス(死語)とか、潔癖症の小言ババアとか、クルマのホイールキャップを盗むのが趣味の小学生とか、売れないミュージシャンとかが住んでいる。この世界では悪役(=福祉局の役人)はあくまでもステロタイプな憎まれ役だし、貧乏人は(お巡りさんも含めて)みんないい人たちで、最後はもちろんお約束のハッピーエンドが待っている。 ● 女流監督のナディア・タスは、松竹大船の名匠たちほど手慣れてはいないが、意図としては明らかに(繊細なアートフィルムではなく)泣き笑いできる娯楽映画を目指している。ロック・スターを演じてるのが本物の(オーストラリア国内でだけは人気の)ミュージシャンらしく、ライブのシーンが不必要に長いとか、その割りにはキーとなる歌が弱いとか、母娘2人で暮らしてて娘が歌えることを母親が知らないのは不自然だろうとか、いくつか穴はあるのだが、全般的には観ていてたいへんに気持ち良い映画である。 ● ヒロインを演じるのはアラーナ・ディ・ローマちゃん、撮影時8才。心を閉ざした状態からだんだんと心を開いていくまでを台詞なし(でも歌あり)で演じるという、素のままで出来るシーンがまったくない難役を見事にこなしている。

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季節の中で(トニー・ブイ)

脚本:トニー・ブイ 撮影:リサ・リンズラー
アメリカで育った26才のベトナム人監督が撮った、アメリカ資本によるベトナム映画。技術スタッフは欧米人だが、ハーベイ・カイテル以外の俳優はすべてベトナム人でベトナム語をしゃべっている。 ● 舞台となるのは自由主義経済がいやおうなく暮らしかたを変えつつある現代のホーチミン市(サイゴン)。登場するのは、田舎から出稼ぎに来た蓮の花売り娘。本を読むのが好きなインテリのシクロ車夫。路上のガム&タバコ売りのガキ。沼上のあばら家に閉じこもりきりの大金持ち。美しいコールガール。そして、訳ありのアメリカ人旅行者。これらの中で、ある人物とある人物は深くかかわりあい、あるいは一瞬だけすれ違い、それぞれの小さなハッピーエンドを迎える。 ● それは決して「すべてを解決する結末」ではないし、「時の流れ」という現実を解決する術などありはしないのだが、それでもエンドロールが流れるときには、観客はすこし暖かい心もちになっているだろう。いま現在のベトナムの厳しい現実を描いているにもかかわらず、「今昔物語」とか「雨月物語」のような説話集を聞いているおもむきがあるのは、作者が登場人物によせる暖かいまなざしゆえか。美しい映画である。 ● ハーベイ・カイテルのパートが明らかに比重が小さいのだが、まあ、アメリカ人の役を1つ作ることが最低限の興行的保障なのだろう。 ● コールガールが車夫に言う印象的な台詞をひいておく「ホテルに泊まったことがある? あそこは別世界よ。太陽に祝福された人たちが住んでる。わたしたちは影の世界の住人。ホテルがひとつ建つたびに影が広がるの」

ハーベイ・カイテルについて語るトニー・ブイ監督

「彼はスクリプトを読むのに1週間だけ時間がほしいと言った。1週間後、電話がかかってきた『やろう』。彼は出演して製作総指揮を引き受けてくれたばかりでなく、終始こう言って励まし続けてくれた。『自分の声で語るのだよ』とね。そして『お金や名声よりも“映画をどんな風に作っていくか”、そのプロセスが大事なのだ』とも」「結局、彼はギャラを全部、ベトナムの孤児院に寄付してしまったんだ。向こうもびっくりしたと思うよ」うーん、なんていい奴なんだ!>ハーベイ・カイテル。

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ナビィの恋(中江裕司)

沖縄のはなれ島を舞台に描くこの上なくロマンティックなラブ・ストーリー。「義母覗き 爪先に舌絡ませて」に続いて、ここでも古い流行歌「十九の春」が文字どおりの“主題歌”として何度もリフレインされる。歌詞はこうだ…♪わたしが貴方に惚れたのは ちょうど十九の春でした いまさら離縁というならば もとの十九にしておくれ♪(JASRAC未申請) 本篇のヒロイン、ナビィはこの歌のとおり若い頃の結ばれなかった恋をずうっと忘れずにいて、60年ぶりに再会した愛しい人と想いをとげようとする…。そう、タイトルロールである「ナビィ」とは西田尚美ではなく彼女の祖母にあたる70すぎの腰のまがった婆さんなのだ。 ● もちろん婆さんとて独身でいたわけではなく(彼女の過去の恋を知りつつ)一緒になったひとまわり若い(といっても60いくつの)爺さんがいるわけだが、この爺さんがまた傑物である。蛇味線奏者の登川誠仁が演じるこのトボけたジジイは毎朝、婆さんに「ランチはトエルブ・サーチーに届けてね」などと沖縄語・英語ちゃんぽんで昼飯を届ける時刻をこまかく指定すると、首からさげた蛇味線でなぜか「星条旗よ永遠なれ」をひとふし弾いてから仕事に出かけて行く。仕事といっても牧場…というか只の野っ原で牛の世話をしてるんだが、作業もそこそこに日がな蛇味線を弾いているような、フザけたジジイなのだ。 ● 沖縄を舞台にした映画としては「ウンタマギルー」の直系と言えるだろう。マジック・リアリズムが息づく国=沖縄ならではのユニークな登場人物や風俗が違和感なくひとつの画面におさまっている。たとえば、能面をかぶってる門づけのおっさん。のらヤギ。いつもオペラを歌ってるよろず屋のおばさん。少年少女探偵団。狂ったようにバイオリンを弾いているアイルランド人。正装して沖縄民謡を奏している本家の人たち…。 ● 監督が「鴛鴦歌合戦」をお手本にしたというだけあって、にぎやかで楽しい、たくさんの歌と幸福感にみちた映画である。オープニング&エンドロールの曲を、なぜかマイケル・ナイマンが提供している。

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ラスベガスをやっつけろ(テリー・ギリアム)

「ラスベガスをやっつけろ」というよりは「ラスベガスでラリパッパ」という感じ。ほんとファーストシーンからエンディングまでそれだけなのだ。おれのようなベトナム戦争も知らずアメリカ人でもなく映画が舞台としている1971年にはまだ小学生だった観客に出来る事と言えばテリー・ギリアムの奇天烈なイマジネーションから生み出される主観トリップ映像を楽しむだけ。訳わからんけどオモロイというやつですな。しかしこれ、1971年を知るアメリカ人にとっては唾棄すべき映画なんじゃないだろうか? ヒネクレ者のテリー・ギリアムとしてはワザと嫌われる映画を作ったということか。頻繁に登場する星条旗の扱いには明らかに作り手の主張なり感情が込められている。国旗にシンナー染み込ませて吸う描写があるが、それってアメリカじゃ国旗侮辱罪だかなんだかになるんじゃないの? ● ジョニー・デップとベニーチオ・デル・トロはほとんどヤケクソの怪演。特にジョニー・デップは撮影中に「ほんとにこの演技で良いのか?」と不安になった事は1度や2度じゃないはず。全篇が彼のナレーションによって成り立っているのだが、この人こんなに野太い声だったっけ? あと、おれとしてはエレン・バーキン姐さんがちょこっと出てたのが嬉しかったね。他にもキャメロン・ディアスとクリスティーナ・リッチがちょこちょこっと出てくる。

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ターザン(ケビン・リマ&クリス・バック)

ゴリラに育てられた野生児に出会い、恋してしまったイギリスのお嬢様が、文明を捨ててジャングルで幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし…というお話。だが、ターザンとジェーンのラブコメ・パートがちっとも楽しくないし、ディズニーお得意のはずの動物大行進が一向に弾まない。フィル・コリンズの歌にも高揚感がない。ツタからツタへジャングルを駆け巡るターザンを一人称カメラで描いたシーンの「ジェットコースターの主観映像」のようなスピード感は大したものだが、それだけじゃあなあ。退屈してしまったよ。まあ、もともとディズニー派じゃないからな>おれ。ところで、キャラクター・デザインが望月三起也と思ったのはおれだけ?

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ポーラX(レオス・カラックス)

冒頭に「この世のタガが外れてしまった。何の因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!」という「ハムレット」の一節が引用されるが、まさしくタガが外れた映画である。 ● 匿名で発表した処女小説が若者に大人気の新進小説家。その正体は森と泉にかこまれたブルー・シャトーに美しい母と暮らす白衣の金髪の王子様で、金髪の無垢な天使との結婚を間近に控えている。だが、夜の森で出会った黒衣の黒髪の魔女の言葉に惑わされ、家名も財産も美しい婚約者も捨てて薄汚れた服のホームレスとなる。やがて金髪の輝きは失われ黒衣の不精ヒゲのキチガイとなり、武装ロック・カルト集団のアジトに魔女と天使と3P同棲するようになる。最後は殺人犯として警察に逮捕されてジ・エンド。 ● なんのことはない、日本映画が得意とする破滅型文士ものじゃないか。深作欣二ならこの3倍ぐらいの傑作に仕上げるはず。このジャンルは、主人公のワガママが原因で周囲の人間が片っ端から不幸になるのだが、すべては「創作の苦しみ」という大義名分で許されてしまうのが特徴である。ただ本作は上掲のストーリーでもお判りのように、そのトンデモ度が限りなく高い。主人公が血の池地獄の悪夢を見るCG特撮など石井輝男にも匹敵しよう。ただレオス・カラックスが駄目なのは彼がこれを娯楽映画として撮ってるのではなく、本人はあくまでもゲージツのつもりでいる事だ。たぶん東京ファンタで上映すれば爆笑の連続となると思われるが、シブヤのニーチャンネーチャンは神妙な顔で観ておった。 ● 主役のバカ文士にギョーム・ドパルデュー。名の通りジェラルド・ドパルデューの息子で父ゆずりの巨大な鼻のハンサム。美しい母に、胴まわりがキャスリーン・ターナーと化したカトリーヌ・ドヌーヴ、56才。なぜか必然性のまったくない入浴ヌードを披露していて、これを観客サービスと呼んでよいものか悩むところ。劇中では主人公がドヌーヴを「姉さん」と呼ぶので、てっきり年のはなれた姉弟だと思ってたら、チラシ裏のストーリー紹介によると「彼はそんな(美しい)母を“姉さん”と呼び」だと<分からんて そんな事!

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エンド・オブ・デイズ(ピーター・ハイアムズ)

“追っかけ屋”ピーター・ハイアムズの本領発揮の追っかけアクション。今回の追われる者:悪魔の花嫁。追う者:サタン。それを邪魔する者:アーノルド・シュワルツェネッガー。ゲームのルール:1999年12月31日の午後11時から深夜0時の間にサタンが花嫁をFUCKできたら悪魔の勝ち。次の1000年は悪魔の天下。シュワが挿入を阻止できたら神の勝ち。サタンはまた2999年まで待たなきゃならない(ちなみに、この花嫁ってのが律儀にも今年ちょうど二十歳、しかも処女ってのは、地獄にも淫行禁止条例があるのか? サタンてば意外とモラリスト)・・・ま、細かい事言ったら辻褄の合わない処などいくらでもありそうだが、ともかく派手で賑やかな日劇チェーン向けの…つまりあるべき正しい正月映画の姿である。 ● シュワルツェネッガーの役は妻子を失って自暴自棄(=命知らず)のガードマン。つまり「リーサル・ウエポン1」のメル・ギブソン。久々のスクリーン復帰だが、肉体の存在感が希薄になった感じがする。女とヤルためだけに降臨するサタンに、優男ガブリエル・バーン。シュワを(とっとと殺しゃいいのに)しつこく悪の世界に勧誘するとこなんざ、サタンってよりメフィストフェレスって感じ。「ううっ、乳揉みキスおれもやりてえ」と思ってしまったおれはすでに悪魔の手先かも。悪魔の花嫁に「ザ・クラフト」では黒魔術娘だったロビン・タニー。これはミスキャスト。この役は若い頃のジェニファー・コネリーのような正統的長髪美少女であるべき。他に、NYの神父にロッド・スタイガー、キチガイ医者にウド・キア、シュワの相棒にケビン・ポラック。 ● マシンガンで撃たれても電車に轢かれてもゼッタイに死なないガブリエル・バーンのT-1000系SFXは、もちろんスタン・ウィントスン・スタジオ。他にもゲロゲロ関係をKNBエフェクツ、CG怪物をリズム&ヒューズが担当して得意技を披露している。 ● 先ごろキャンペーンで来日したシュワ氏、「この映画は“銃を捨てて、無駄な殺し合いを止めよう”というメッセージだ」などと言ってたが、そりゃアンタ確かに最後には銃を捨ててるかもしらんけど、そこに至るまでに銃を撃ちまくって大暴れしてたやないの! おまけにブチ殺す相手がカソリックの神父だ。そう、本作は史上もっとも多くの聖職者が殺される映画なんである<いいのか、それで? ● あと関係ないけど、この映画によると、悪魔の数字666というのは実は逆さまで、本当は999が正しいのだそうだが、そんなこと言ったら、6月6日の6時に生まれて、今まで自分が悪魔の子だと信じてきたダミアンの立場はどーなる!

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トゥルー・クライム(クリント・イーストウッド)

いつかはこの日が来るのではと怖れていたが、イーストウッドの主演作品が都内単館公開とは…。それならいっそ自社系列のワーナーマイカルシネマズでレイトショー公開でもしてくれりゃいいのに>ワーナー映画。もっとも客席の真下を地下鉄日比谷線が走りぬける銀座シネパトスってのは、新宿ローヤルや浅草中映や新橋文化がよく似合うイーストウッド映画には相応しい劇場かも(おまけに看板が一時的に銀座シネマグナムになってるし:) ● 「ひとりの黒人が今夜、無実の罪で死刑になる。弁護団が6年かけて覆せなかった判決を、とある新聞記者が事件を担当した途端にわずか12時間で解決してしまう」という、主役がクリント・イーストウッドじゃなかったら、んなバカな!という話。てゆーか、イーストウッドであっても、んなバカな!とは思うのだが、そのご都合主義が芸になってるのだな。これは新奇な目新しさではなく定石の気持ち良さを見せる映画だから。 ● イーストウッドのキャラクターは、もちろん持ち役の「はみ出し者のどうしようもない男」というもの。かつては「それでも仕事だけは出来る」って特免条項があったのだが、ここ最近の作品では(自分の老いぼれ度合いにきちんと比例して)仕事においてすら覚束ないロートルを演じている。「あの人も昔はキレ者だったんだけど今じゃねえ」と陰口を叩かれ、それでも態度だけは相変わらずデカイので組織内では疎んじられている…そんなクソジジイだ。本作においても、イーストウッド扮する新聞記者は「記者の嗅覚」だけで生きぬいてきた男で、近頃じゃその嗅覚すら鈍っちまってる。もちろん映画の最後にはなんとか事件に片をつけるのだが、その過程で仕事も家庭も何もかも失ってしまう。残されたのは「それでもおれは仕事を成し遂げた」という自負だけだ(…あれ?星3つじゃ少ないかなあ) これからもずっとクソジジイのアクション映画を作りつづけてほしいと切に願う。 ● イーストウッドの映画に出る役者は幸運である。役者の活かし処を熟知している監督だから。ジェームズ・ウッズもデニス・リアリーも、死刑囚のイザイア・ワシントンも、刑務所長のバーナード・ヒルもじつに魅力的かつ個性的に映っている。劇中でイーストウッドの幼い娘に扮しているのは、本当の愛娘フランチェスカちゃん。前のカノジョのフランセス・フィッシャーとの間にできた子で、そのフィッシャーも共演している。イーストウッドは、こないだどっかのTVキャスターと結婚したはずなんだけど、うーん 度量が広いというか…さすがアニキとしか…。なお、ラストシーンでアニキが粉をかけるオモチャ屋の店員を演じてるエロい(死語)中国娘が、3人目のチャーリーズ・エンジェルに決まったルーシー・リウ(「ペイバック」で出張S女を演ってた娘ね)

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GTO(鈴木雅之)

まあ、この映画はこれでよいのだろうな。各パートが「人気TVシリーズの映画化に求められる仕事」をきっちりこなしている。この映画版だけを観るならば「コミカルな部分が上滑りしてる」とか「生徒たちが鬼塚になつくのが唐突すぎる」とか「藤原紀香の演技はありゃ何だ!」とかいろいろ文句はあるのだろうが<あるんじゃねえか!…いいのだ、これで。ギャグはテレビのトーンで演出したのだろうし、鬼塚の教師としての優秀さはTVシリーズできちんと対象とする観客に伝わっているのだし、藤原紀香はテレビの売れっ子が映画版だけに特別出演してくれたのだから演技力は関係ないのだ。いや、皮肉じゃないぞ、マジで。 ● おれはテレビドラマを観ないので、反町隆史が普段どんなキャラの役者なんだか知らないが、この鬼塚英吉という役柄はピッタリ。おれの中ではチャウ・シンチーに次いで実写版「ルパン三世」候補第2位に浮上だ! 藤原紀香は前述のように「出てれば良い」役なのでノーコメント(どーでもいいけど顔がまんまるだぞ。いいのか?) 田中麗奈は、デビュー作で「がんばっていきまっしょい」をやっちゃったので後が大変、というところ。頑張ってください。 ● あれだな。ひとつ娯楽映画として致命的な欠点を挙げると、鬼塚を誘惑する保健室のグラマーな先生が出て来ない点だな(今なら井上晴美か?)

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ジャンヌ・ダルク(リュック・ベッソン)

エリック・セラのロック・チューンが鳴り響く勇壮な戦争映画・・・を期待して行ったのだが、観せられたのは「宗教キチガイのヒステリー女が2時間暴走して1時間反省する3時間の映画」だった(泣) いまさら芸術家ぶりっこは勘弁だぜ>リュック・ベッソン。ダスティン・ホフマンをすべてカットして、戦闘シーン中心に100分にまとめて、音楽を差し替えたら、もう少し観られるようになるかも。 ● 「“聖人”ジャンヌ・ダルクではなく17才の田舎娘としての人間ジャンヌを描く」というベッソンの方針は間違ってないと思うが、それならば24才のミラ・ジョボビッチではなく、18才のナタリー・ポートマンを(あるいは、より若い子を)使うべきなのだ。もちろんこの映画が「まずミラ・ジョボビッチありき」の企画である事は承知してるし、じっさい彼女の熱演は賞賛に値すべきものではあるが、黄色い声で華奢な体つきの17才の小娘が大の男たちを率いて戦争をするという絵面(えづら)がこの映画のキモとなるべきはずなのに、ミラ・ジョボビッチではどう割り引いても17才の処女には見えんよ。てゆーかリュック・ベッソンの関心は、戦争シーンのスペクタクルを描くことには無かったようで、「ブレイブハート」の肉弾相打つ興奮はついにこの映画からは得られない。「小娘を守る歴戦の勇士の男意気」という魅力的なエピソードもしょせんは点描でしかない。 ● では、主人公たるジャンヌ・ダルクがきちんと描かれているかと言えば、いかんせん「姉をイギリス兵に殺されたトラウマから、神の言葉を聞いたという強迫観念に憑かれて、大人たちにキーキー喚き散らす」というキャラクターなので感情移入のしようがない。そもそも「フランスをイギリス侵略から取り戻して神の手に戻す」っていう考え方自体が日本人には馴染めんよな>あんたらの神は1人じゃないんか? それにしても、自国の英雄を「神の声を聞いたと思いこんだキチガイ女」と決めつけ、しかも全篇が敵国語である英語で製作されたこの映画を、フランス人はどういう気持ちで観るのかね? ● フランス王のジョン・マルコビッチは、怪演のつもりだか何だかよく判らんスタンス。額を剃りあげた皇太后のフェイ・ダナウェイが「スター・トレック」の宇宙人のようでブキミ。ヴァンサン・カッセルが“青ひげ”ジル・ド・レ公ってのは適役かも。ぜひこの配役でもうひとつの物語の方を観たいものだ。 ● ベッソンの盟友、エリック・セラは慣れないクラシック調に挑戦するも、いまひとつ印象に残らず。「レオン」「フィフス・エレメント」「黒猫・白猫」のティエリー・アルボガストによる映像は素晴らしいのだが…。 ● あと、ジャンヌの髪がイギリスに送られた途端に金髪から黒髪になるのは何故?

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極道の妻たち 死んで貰います(関本郁夫)

製作:日下部五朗 脚本:高田宏治 高島礼子|斉藤慶子|東ちづる|原田大二郎 東映京都撮影所
傑作は不意にやってくる。通算12作目、高島礼子版になってから2作目の「極妻」最新作。かのマキノ雅弘の名作からタイトルを借用するとはいい度胸だと思ったら、なんとストーリーそのものが「昭和残侠伝」の現代的再生なのであった。舞台は京都。大文字焼きで賑わう街並みを2人の女が往く、和服の懐にドス呑んで。バックに長山洋子の演歌が流れる…。そこまでするなら役名も花代と風子とかにすりゃ良かったのに。関本郁夫は俊藤浩滋「残侠」で晒した醜態を、この日下部五朗作品で見事に挽回してみせた。そして「鉄道員 ぽっぽや」が東映東撮の意地ならば、本篇は東映京撮の底力を示した作品でもある。 ● 花田秀次郎はもちろん高島礼子。前作は極妻導入篇ということもあってOLから極妻への変貌を見せたが、本篇では最初っからバリバリの岩下志摩。愛する亭主は塀の中という設定なのでホッとする場面がなく、終始しかめっ面なのは、ちと勿体ない。風間重吉には斉藤慶子。これがドスの効いた声で高島以上の貫禄。ちょっと吃驚した。彼女の存在感が本作の成否を決めたと言えよう。高島にライバル心を燃やす成り上がり女に東ちづる。脚本的にはいちばん美味しい役なのだが、それが判ってないらしく、まあ無難に演じてしまっている。残念ながら3女優ともヌードなし。かつてなら藤山寛美や山城新伍の役どころであったワルになりきれないワルを原田大二郎。ほぼ地のまんまと思わせる自在な快演。他に三田村邦彦、六平直政、白竜など。 ● 娯楽映画の醍醐味を味あわせてくれる本作は、しかし前作同様 東映ビデオの製作なので限られた劇場でしか公開されない。その一方では「セカンドチャンス」などという製作意図も興行成算もまったく不明の作品を全国公開してるわけだ。何考えてんだよ>東映。そりゃ今どき「極妻」だって大して客は入らんだろうさ。だが「セカンドチャンス」よりゃ良いだろーよ、どう考えたって。映画の出来だってこっちの方が百万倍は良いし、何より東映らしい映画じゃないか。もう一度 言うが、こんな事やってたら松竹より先に潰れるぞ>東映。

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月光の囁き(塩田明彦)

「どこまでもいこう」の塩田明彦の、これが商業映画デビュー作。足フェチM男の高校生が、17才の女子高生をS女に開発する話…ってわりには官能性とは無縁の、リリカルな仕上がり。ま、しょせん おれはブルマーより中味の方が好きな平凡な男であるので、フェチ性に乏しいのかもしらんが、どうも主人公に感情移入できなかった。これ観てコーフンするか?>諸兄よ。こーゆー精神愛の映画にしたいのなら、かとうあいとか前田愛とかの本物の女子高生を使うべきじゃないのか。本物の美少女を使ってこそ無垢なる残酷さが際立つはず。主演のつぐみは悪かないけど、もう大人だもの。踏まれたいとは思わんよ。前田愛ちゃんのソックス足になら踏まれ…あ、いやいや。つぐみのような脱ぎOKの女優を使うのなら、もっときちんと肉体愛を描いていただきたいものである。まあ、小沼勝のロマンポルノあたりと比較してるおれが、そもそも間違ってる気もするが。

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逢いたくてヴェニス(ビビアン・ネーフェ)

またもドイツ映画…ではあるが、「ラン・ローラ・ラン」「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」「バンディッツ」などの〈新しいドイツ映画の流れ〉とはまったく無縁。「夫が愛人とヴェニスに浮気旅行に行ったと知ったヒロインが、愛人の亭主を拉致して無理やりヴェニスへ追っかけて行く」という、「或る夜の出来事」以来のグッド・オールド・スタイルのロマンティック・コメディである。若い頃の倍賞美津子のようなこのヒロインが子連れってのがイマドキなところ。「愛人の亭主」である、貧乏人をバカにしていた(しかもヒロインの仕事を奪った張本人である)高慢ちきな弁護士が、道中の数え切れないトラブルの中でだんだんと倍賞美津子に惹かれていくのは言うまでもない。 ● ヒロインにして2人の幼い子供のお母さん役、アグライア・シスコビッチは(色気はないけど)いつも溌剌としたところがチャーミング。その分、亭主の愛人が最初から最後までヤリッばなしで色気を振りまくわけだが、この愛人のキャスティングが本作最大の弱点である。なにせただのおばさんなのだよ。だってこれ、浮気相手が美人のパツキン女じゃないと成立しない話でしょ。

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愛と憎しみのデカン高原(ジャヤント)

チラシの文章がすべてを言い尽くしてるので引用する:デカン高原。中学校で習って以来一度も口にしなかった地名。いま口にしなければ死ぬまで口にしないかもしれない土地の名前。そんなデカン高原から映画がやってきた。インド映画の言語別製作本数では、ヒンディー語、タミル語を抑え常にトップにありながら、その実態は長い間“謎”とされてきたテルグ語映画である。愛と憎しみ、ベタなギャグ過剰なカメラワークが灼熱のデカン高原で炸裂する。ローカル、ローテク、ローコスト。インド人の知恵を満載したマサラムービーの隠し玉![引用ここまで] ● B級テイストあふれる泥くさいインド映画。ヒーローの(ヒゲ面の竹内力こと)ヴェンカテーシュ、ヒロインの(顔が若い頃のデミ・ムーアに、胸が豊胸手術後のデミ・ムーアに似てる)アンジェラ・ジャベーリともども、そこはかとないB級感を漂わせている。 ● ストーリーは底抜け。どのくらい底抜けかというとだな・・・「きみを愛してる。きみもぼくのことを愛してくれてるのなら…」「愛してるのなら?」「明朝6時に風船を飛ばしてくれ」…なぜ風船!?などと思ってはいけない。翌朝、彼氏が窓の外を見ると色とりどりの風船が…。めでたく相思相愛であることが判明してハッピーな彼氏だったが、彼女の部屋にしのんで行くと、なんと彼女は風邪で臥せっている「どうしたんだ!?何があったんだ?」「夜中に外で風船100個を膨らませたから…」…アホやで、こいつら。その上、2人して豪華な結婚式を夢想しては、♪ヤレる!ヤレる! 結婚したからヤレる! 結婚の誓いは済んだけど大事なことが残ってる 初夜だ!初夜だ! ヤレる!ヤレる!♪と歌い踊るのである。まいったか。 ● 上映館のキネカ大森を褒める。ここはテアトル系の映画館なので毎週水曜日は1000円均一。さらに独自サービスとして「スタンプ3つで1回無料」とゆーのをやってる。つまり水曜日に4回観れば単価たったの750円なのだ。それで2時間40分。これはもう格安と言ってよいのではないか? あと感心したのは、前半の終わりできちんと休憩を入れている事。インド映画は(LPレコードのように)A面の終わりで一息いれて、また新たにB面が始まるように作ってあるのだから、作り手の意図どおりに例え5分でも休憩をとるべきなのだ。もう1つ、劇中で重要な(というより、脱力する)小道具としてハート形のビスケットが出てくるのだが、わざわざこれと同じ物を仕入れてきてロビーで売っているのだ。売価200円。そんな事したって手間ばかりかかって、たいして儲かりゃせんだろうに、でもそーゆー姿勢が嬉しいじゃないか。それに較べて>有楽町界隈の東宝系映画館、ポテトチップス(それもなぜか輸入物の)1袋を400円などとゆー言語道断の値段で売ってて、お天道様に恥ずかしくないか?

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一瞬の夢(ジャ・ジャンクー)

その部屋には、壁を背にして粗末なベッドが横向きに置かれている。ベッドの上には女と男が壁にもたれて、こちら向きに座っている。左に女、右に男、2人の間には30cmほどの距離。男はけちなスリ。女はカラオケスナックの店外デート嬢。腹痛で仕事を休んだ女の部屋に男が見舞いに来たところ。湯のみ茶碗でお腹を暖めていた女のために、男が薬屋で湯たんぽを調達してくる。女は湯たんぽを腹にあて布団をひざに掛けて、両手でかかえ持ったお茶をすする。ぽつり、ぽつりと、身の上話。子供の頃から歌が好きだった。スターになるのを夢見てた(親には「北京の音楽学校に通ってる」と嘘をついてる) 何か歌ってくれよ、と男が頼む。女は(中国本土で大ヒットした)フェイ・ウォンの「天空」を歌う。それはこんな歌だ。♪わたしの空は涙を溜めてる わたしの空はさえない顔なの 世界の向こう側にただよってる寂しさが だんだんと押しよせてくる 大空は長い長い想いを断ち切ってしまう♪ 窓からはいってくる町の騒音に消されそうな、美しい歌声。今度はあんた何か歌って、と女が言う。歌えないよ。何でもいいから、ね? じゃあ目をつぶって。女が目を閉じる。男はライターを取り出して、女の耳元で火をつける。蓋を開けるとオルゴールが鳴る安物のライターだ。女は、ふっと笑って男に近寄り、男のひざに身体をあずける。 ● ・・・じつに美しいラブシーンである。「一瞬の夢」というタイトルも“ラブ・ストーリー売り”を狙ってのものだろう。だが(そういう場面を引いておいてナンだが)これはラブ・ストーリーではない。原題は「小武(シャオウー)」。主人公の名前だ。3人兄弟の末っ子だから“小武”。中国は山西省・汾陽(フェンヤン)に暮らす1人の掏摸(スリ)を描いた青春映画である。汾陽といったら北京から、東京と青森ほども離れた山の中だ。だがそんな辺鄙な地方都市にまで自由主義経済の波は押し寄せてきていて、古い建物は次々と取り壊され、町の景色も人の心も変わって行く。子供の頃からの不良仲間で一緒にスリの腕をきそってた親友は、今じゃいっぱしの実業家で、結婚式の招待状すらよこさない。この埃っぽい町はおれを拒絶してるみたいだ…。 ● チラシで(例によってゴダールやカサベテスを引きあいに出しながら)蓮實重彦が褒めていたので観るのをやめようかと思ったのだが、いや観にいって正解だった。27才の新鋭ジャ・ジャンクー(賈樟柯)のデビュー作。香港の資本によって中国政府の検閲を受けないまま完成させた“アンダーグラウンド映画”だそうだ。ぼさぼさの長髪に黒縁メガネ。冴えない風体の小武は、そのいじけ具合といい、ひねくれ方といい、白けっぷりといい、まるで1970年代の日本映画に出てきた青年像だ。かつてなら下条アトムの、今なら田口トモロヲの役どころ。カメラはこの、経済改革から置いてけぼりを食らった1人のスリにズンズンと無遠慮に近寄っていく、まるでドキュメンタリーのように。叙情性とは無縁のカメラワーク(撮影:余力爲 ユー・リクワイ)、劇伴もない。カメラはただじっと、このスリの“青春の蹉跌”を見つめるだけだ。声高に何を主張するわけではない。けれど作者の叫びは胸に届く。確実に。

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ファイト・クラブ(デビッド・フィンチャー)

原作:チャック・ポーラニック 脚本:ジム・ウールス 撮影:ジェフ・クロネンウェス
編集:ジェームズ・ヘイグッド 特殊メイク:ロブ・ボッティン
ファイト・クラブのルールその1「ファイト・クラブの話をするな」、ファイト・クラブのルールその2「ファイト・クラブの話をするな」・・・という訳で、おれはキンタマ切り取られたくないのでストーリーには一切、触れない。 ● この映画の魅力は、その巧みなストーリーテリングと、テーマの挑発性にある。「ゲーム」の時は最後の最後でうっちゃりカマされてアタマに来たデビッド・フィンチャーだが、今回はいちおうその辺の事にも配慮した構成になっている。いや今回も後から考えれば辻褄の合わない所だらけなんだが、香具師の口上のような説得力でその場その場は納得させられてしまうのだ。多彩な映像表現を駆使して、CG画像などもバンバン使っているが、MTVタッチにはならず(実際にそうかどうかは別にして)アナログ編集の味を残している辺りが、若手のタランティーノ・フォロワーたちと明確に違うところ。なお、本作で撮影監督として1人立ちしたジェフ・クロネンウェスは、1996年に亡くなった「ブレードランナー」の撮影監督ジョーダン・クロネンウェスの息子である。 ● さて、問題は描かれる中味だ。タイトルから予想される通り「暴力」が大きな要素となっているのだが、それも、日常と遊離した絵空事のバイオレンスではなく、痛みをともなう皮膚感覚としての暴力を描いている。劇中のブラッド・ピットのキャラクターや、彼のやろうとしている事は恐ろしく魅力的である。それゆえに青少年に与える影響は「バスケットボール・ダイアリーズ」の100倍デカいと思う。いや、勘違いしてほしくないが、どんな映画だって作るのは自由だ。だがアメリカではR指定(17才未満は要同伴)を受けている取り扱い注意の映画を、お正月映画として堂々と全国公開していいのかね? ● 全篇の語り部を務めるのがエドワード・ノートン。小手先の技が鼻につく感じがして、今まであまり好きではなかった役者だが、本作でのモノローグの上手さは認めざるを得ない。なにしろ観客が耳にする台詞のたぶん7割近くは彼のものなのである。ブラッド・ピットは(字義本来の意味で)カリスマの輝きを放ち、筋骨隆々のボディも眩しく観客を「ファイト・クラブ」へ誘惑する。疫病神女にヘレナ・ボナム・カーター。こういう魅力的な汚れ役ヒロインを出来る女優はハリウッドにはめったにいない。ミートローフが珍しく演技力の必要な役で出演して、普段は仕舞ってある演技力を使っている。 ● ストーリーとも関係あるので詳しくは書かないが、この映画には(おれが気付いただけでも)3〜4箇所のサブリミナル・カットが仕掛けられている。1/24秒の映像では、ビデオででも観ない限り「何かが」映ってるのは判っても「何が映ってるか」までは(おれの眼では)判別できんが、しかしサブリミナルってアメリカじゃ法律で禁止されてるんじゃなかったっけ? ● いちおう文句もつけとくと、相変わらずの読めないオープニング・タイトルは何とかしてほしいって事と、ラストの音楽が流れはじめるのがちょっと早過ぎ。音楽が流れた瞬間に「ああこれで終わりか」と判ってしまうのは勿体ない。 ● もう一度 警告しておくが、はっきりと好き嫌いの分かれる映画である。激しい不快感や、猛烈な拒否感を覚える可能性もあるので覚悟して観に行くこと。 ● [追記]初稿にて映倫への罵倒を書いたのだが、ちゃんとPG-12(12才未満は要同伴)に指定しているそうだ。悪かった>映倫。

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御法度(大島渚)

まずは大島渚の復帰と、松竹映画ひさびさのヒットを素直に祝福したい。…と言って、別に大島渚が贔屓の監督というわけではないんだが。おれは大島渚の映画で1番好きなのが、いまだにデビュー作の「愛と希望の町」という人間だし、大島は映画監督としてよりもアジテーターあるいはオルガナイザーとしての才能の方が数段上だとも思ってる。それでも…いや、それだからこそ大島渚は宣伝コピーで「俺はすべての御法度を破ってきた」と豪語するだけの事をやってきた。これほどの巨大な個性を放っておくのは日本映画界の損失だ。「マックス・モン・アムール」以来、13年ぶりになる新作はそのアジテーター/オルガナイザーとしての資質をフルに活かした ★ ★ ★ ★ 級の傑作である(最後の は復帰祝とヒットの御祝儀だ) ● 「新撰組と同性愛」というのは、おそらくやおい同人誌などではお馴染みのテーマだろう。「ある集団が1人の魔少年(魔少女)によって崩壊する」話というのも、とりたてて目新しいものではない(しかしこれ、ほんとに司馬遼太郎原作なのか!?) これを大島渚は巨匠としての風格すら漂わせつつ、耽美的な、そして意外とコミカルな判りやすい娯楽映画として仕上げてみせた。「スタッフとキャストが決まった時点で監督の仕事は8割がた終わったようなもの」という大島の台詞は、大島渚の映画に限ってはおそらく正しい。それでも「長年 組み慣れたスタッフがプロの俳優を起用して作った映画」よりよっぽど刺激的でちゃんとした映画を作ってしまうあたりが、大島渚が一流のオルガナイザーたる所以である。松竹京都映画の蓄積された技術と、栗田豊道のハリウッド仕込みの撮影&照明、そしてワダエミのシャープな衣裳デザインが素晴らしい。坂本龍一の音楽は残念ながら「戦場のメリークリスマス」ほどのインパクトを持ち得ていないが。 ● 日本映画はいま「時代劇ブーム」などと言われているが、聡明な大島はこの作品から時代劇臭さをほぼ排除している(それは松竹としては珍しくまともな宣伝戦略も同様だ) 俳優たちはほとんど現代語で台詞をしゃべる。ただそれでも(おそらく大島渚の映画に初めて触れるのであろう)若い観客たちには時代劇特有の用語はちょっと難しかったようだ(てゆーか、おれも) これからご覧になる諸賢は、せめて「衆道(しゅどう)」と「懸想(けそう)」だけでも辞書を引いてから出かけるように。あと、字幕で出てくる「局内御法度」も、もう少し現代日本語に近い言葉に直した方が良かったのでは? ● 松田龍平は適役。演技力とは一切関係なく存在感でキャスティングするという大島渚の方法論がピタリとはまった。おれは(かつての東映仁侠映画のような精神的なものを別にして)男同士のラブシーンを見せられるのは苦手なのだが、松田龍平の片肌脱いだ寝姿にはドキッとしたぞ<それってカミングアウト?<だから違うって。 視点的な主役はビートたけしの土方歳三。演技は相変わらず下手なんだけど存在感で魅せてしまう。ただ、画面の説明にしかなっていないモノローグは不要でしょう。 大島流キャスティングの真骨頂がトミーズ雅と神田うの。雅は台詞まわしの「ぎこちなさ」さえ味にしてしまっているし、神田うのに至ってはワンシーン。しゃなりしゃなりと歩くだけで台詞すらないのに「写楽」の葉月里緒菜の100倍ハマッている。ちなみに、冒頭で斬首される四番隊組長が(ピンク映画男優でもある)田中要次だ。お見知りおきを。

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ゴースト・ドッグ(ジム・ジャームッシュ)

「武士道を信奉する黒人の殺し屋ゴースト・ドッグ」って設定は抜群に面白いんだから、普通のB級映画の監督に撮らせたら100倍は面白い映画になったはず。ジム・ジャームッシュはオフビートな映画ばかり撮ってるから娯楽映画の呼吸がわかってない。だって最初の殺しまで20分もかかるんだぜ(ダメでしょ、それじゃあ) 「組織に裏切られた殺し屋が組織に復讐する」というプロットなのに、肝心の「裏切られた」という部分をきちんとやらないから、その後の「復讐」がエモーショナルにならない。殺し屋が失うのが「鳩」だけってのも弱いと思う。ここはやはりヒロインを設定して彼女を犠牲にしたいところ(それじゃただのB級映画になっちゃうって? そーゆー映画が観たいんだよ、おれは) ● この映画のもうひとつの独創は「組織」を「ロートルばっかりのショボいイタリアン・マフィア」に設定した事。老眼鏡だの、階段で息を切らすだの、家賃の督促だの、およそ強面のマフィアとは縁のなさそうなエピソードがいちいち可笑しい。ドンをヘンリー・シルヴァが演ってるってのもポイント高し。ゴースト・ドッグに撃たれたマフィアの「少なくとも最期はギャングらしい死に方が出来てゴースト・ドッグに感謝してる」って台詞が泣かせる。 ● あと、どーでもいいけど、あの「黒犬」はあれだけかい?(もっとなんか絡むのかと思ったが) ● ゴースト・ドッグを演じたフォレスト・ウィテカーは適役。ウータン・クランのリーダーRZAが手掛けた音楽がえらくカッコ良い。 ● なお、おれはジム・ジャームッシュのあまり良い観客ではないので、上記の「欠点」はジャームッシュのファンにとってはすべて「長所」と映る可能性が高い事をお断りしておく。


ゴジラ2000 ミレニアム(大河原孝夫)

ううう、やっぱり観なけりゃ良かった…。4年ぶりとなる「ゴジラ」の新作だが、新しくなったのは東宝映画のロゴだけ。後は旧態依然のダメダメ「ゴジラ」のままだった。いちいち突っ込んでたらキリがない酷い脚本(「奴は地球の大気を変換しようとしてる。キーワードは…ミレニアム」ってキーワードって何だよ!キーワードってよ?) いま考えると、どうして「誘拐」のような映画が撮れたのか、あれは何かの間違いだったのかと思わせる大河原孝夫の、眠気を誘う弛緩しきった演出。なぜかセンタースピーカーから鳴らず、背景音のように頼りなく流れる音楽(ミキシング設計のミスか、日劇東宝のスピーカー・セッティング不良かは不明) 「スーパーX」こそ登場しないものの「スーパーX」以上に恥ずかしい新兵器や造語の連発(そのくせテクニカル・タームであるべき部分に手を抜いている) 今どきオプチカル合成か?というほどレベルの低い、合成丸判り、画質最低荒れ荒れの合成画面。家庭用PCだってもう少しマシなのが作れんだろってほど手抜き&質感サイテーの円盤CG。ラストの「ゴジラァァァァァ!」という意味不明の絶叫から逆算しての事ではあろうが、誰か注意してやれよ>阿部寛の時代劇演技。村田雄浩がべらべら喋る、生硬で不自然な日本語によるテーマ剥き出しの気恥ずかしい台詞の数々。だいたいゴジラを水中で泳がせてみたり、巨大UFOを出してみたり、何が悲しゅうて「ゴジラ」をメチャクチャにしたローランド・エメリッヒの映画をパクらにゃならんの?

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ランダム・ハーツ(シドニー・ポラック)

「この謎は挑発だ!」「哀しみは一瞬のうちにサスペンスに変わった」って、あのう…これ、どこがサスペンスなんですか?>ソニー・ピクチャーズ。 ● じつは「不倫カップルが飛行機事故死して、残されたそれぞれの妻と夫が出逢う」というシドニー・ポラックらしいラブ・ストーリーである。夫に不倫されて死なれたクリスティン・スコット・トーマスの下院議員はきっぱり忘れようとするが、妻に不倫されて死なれたハリソン・フォードの刑事は、妻の隠し事をすべて明らかにしようと躍起になる。「もう忘れましょう」と言うクリスティンに向かって彼は言う「旦那には女がいて、2人で天国から僕たちをあざ笑ってるんだぞ」…これじゃ誇大妄想狂である。もちろんそれは愛する妻を忘れるための、不器用な刑事ならではの片のつけ方ではあるのだが、なにせ演じるのが怒った顔と困った顔の2つしかレパートリーのないハリソン・フォードだから、ただの迷惑な奴にしか見えんのだよな。こーゆーしっとりとしたラブ・ストーリーには繊細な心の揺れを表現できる役者が必要なのだ。これでは残された2人がくっつくのが単なる仕返しにしかならんじゃないか。 ● クリスティン・スコット・トーマスは今や希少なよろめき女優(死語)としての役目を充分に果たしている。彼女の旦那をピーター・コヨーテが演っていて、飛行機事故であっという間に退場しちゃうもんだから、おれは絶対こいつが生きていて恐怖のストーカー亭主と化して襲ってくるもんだと確信していたんだがなあ(いや、だってサスペンスだって言うからさあ、ハリソン・フォードだし…) 監督のシドニー・ポラック自身も選挙のメディア・コンサルタントとして出演していて、じつはこの映画も「『アイズ・ワイド・シャット』で味をしめたポラックが自分で出演したいがために作った」って辺りが“真相”なんじゃねえの?

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ゴージャス(ヴィンセント・コク)

製作順に並べると「フー・アム・アイ?」→「ラッシュ・アワー」→「ゴージャス」となる、香港では1999年の旧正月映画として公開されたジャッキー・チェンの最新作。なんとロマンティック・コメディである。とは言ってもジャッキー映画にアクションがなかったら客席で暴動が起きるのは必至だから、ファン・サービスのコミカル・アクションや本格的格闘場面もちゃんと入っている。そのせいでラブコメとアクションのパートが互いに独立したまま最後までほとんど交わらない〈アクション・ラブコメ〉とでも呼ぶほかない奇妙な映画が出来あがった。てゆーか、別の言い方をすれば、監督が「008 皇帝ミッション」のヴィンセント・コク(谷徳昭)なので、チャウ・シンチーの映画にジャッキー・チェンがゲスト出演したみたいな変テコな、だけどキュートな代物と相成った。 ● で、そのキュートな部分を一心に背負うのがスー・チー。「台湾の漁村からやってきた田舎娘」という自分自身のような役でほとんど主役。そして、コメディ・パートを担当するのが、なんと一枚看板トニー・レオン。ゲイのスタイリストという「ブエノスアイレス」のセルフ・パロディのような「今さらそんな役しなくても…」という役を嬉々としてこなしている(香港人魂…) 肝心のジャッキー・チェンは大富豪の国際的ビジネスマンという、香港の映画館でならその設定だけで大爆笑必至の、イメージに似つかわしくない、けれどじつは実像に一番近いかもしれない役で、神妙にスー・チーとラブコメを演じる。もちろんチャウ・シンチー組には欠かせないロウ・ガーウィン(羅家英)は、今回も絶妙の爆笑リリーフ。そして、ここまで読まれた諸賢には察しがついておられるだろう、本作は香港映画史上に残る歴史的な共演が実現した映画でもある(!) ● 今回、ジャッキーは主演・武術指導のみ。おそらくチュウ・イェンピンの「炎の大捜査線」の時のような契約上の雇われ仕事なのだろうが、〈お正月映画〉に相応しい楽しくにぎやかな一篇ではある。


ラヴ・ゴッド(フランク・グロウ)[キネコ作品]

何を言うんだ、おれは怒ってやしないぞ。端からこれは学生の卒業製作レベルのC級トラッシュ・ムービーだと承知で、それでも、もしかしたら「バスケット・ケース」のような拾い物に出会えるかもしれないと一縷の望みを抱いて観に行っただけのことだ。例え30分で退出したからって、思った通りのクズ映画だと確認できただけで1700円の価値はあったってもんじゃないか。だから怒ってないったら怒ってないってば。


大いなる幻影(黒沢清)

チラシ裏より黒沢清の言葉を引く「私にはどうしても、二人の愛は永遠であるように思える。だが、世界はその永遠性を保証するのに、生殖や結婚といったシステムしか用意しない。このシステムを拒絶した二人にとっては、おそらく愛はひとつの不幸だ。やがて自分自身をも見失う。愛こそが二人を翻弄する。それでも二人は永遠の愛の中で生きていこうとする。たとえそれが大いなる幻影であったとしても」・・・黒沢清が何を言わんとしてるか、諸賢にはお判りか? おれにはまったく判らん。だが驚くなかれ映画はこの文章以上に意味不明な代物なのである。これ、脚本が凄まじいんだと思うが、どうしたらこれだけ意味のない場面が書けるのか? 普通、どうしたって多少は物語性に囚われるもんだと思うが、ここでは個々の場面が見事なまでに意味を剥ぎ取られ前後の脈絡なく羅列されている。もしかしたら画期的な実験映画なのかもしれない。そんなものを金取って観せるのは止めてくれ。1時間で退出。

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ペルディータ(アレックス・デ・ラ・イグレシア)

ラテンの邪悪なジョン・ウォーターズが撮った「ナチュナル・ボーン・キラーズ」。「邪悪で破壊的で同情の余地のないノー・トゥモローなカップルが、拉致した金髪の白人カップルを道連れに、胎児を満載したトラックで地獄へまっしぐら」という話。限りなく猥雑で暴力的で反社会的な物語だ。それでいて悲劇的な結末にかぶるスクリーミン・J・ホーキンス(出演もしてる)のシャウトが胸に沁みる。 ● セックスと殺人が何より好きなヒロイン、ペルディータ・ドゥランゴを演じるのはロージー・ペレーズ。強烈な郷ひろみ声とサル顔で最初っから最後まで飛ばしまくり。盛大に脱いでるけど、脱いでもらってもなあ…。同じラテン女なら、ジェニファー・ロペスかサルマ・ハエックで撮ってほしかったと思うのは贅沢? サンタリアの血の司祭、ロメオ役には「ハモン・ハモン」「月とおっぱい」「ライブ・フレッシュ」の(と作品を並べても、今回あまりに変身してしまってるので、何処に出てたんだかまったく判らない)スペイン人男優、ハビエル・バルデム。間抜けな刑事役でアレックス・コックスが出演している。監督は「ハイル・ミュタンテ! 電撃XX作戦」のアレックス・デ・ラ・イグレシア。これは適任だった。

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ワイルド・ワイルド・ウエスト(バリー・ソネンフェルド)

イマジナリー・フォーシズの手になるオープニング・タイトルが素晴らしい。ブルーノートのLPジャケット調の洒落た画面分割&タイポグラフィ。エルマー・バーンスタインの軽快な音楽も本篇への期待をかきたてる。だが、良かったのはそこまで。演出にテンポがないのが致命的だし、脚本も「大人向けの洒落た映画」にするんだか「若者受けするMIBチックなコメディ」にするんだか、どっちつかずの印象を受ける。よーするに、つまらん。 ● ウィル・スミスもケビン・クラインもサルマ・ハエックも活きが悪い。キチガイ博士役のケネス・ブラナーのみ1人ブチ切れてるが「バットマン」のジャック・ニコルソンの域には及ばず。 ● だいたい明るい娯楽映画であるべき本作で、メインのギャグがウィル・スミスとケネス・ブラナーによる身障者差別ネタと黒人差別ネタの応酬ってんだから観ていて気分の良いものではない。え?自分はカタワでもニグロでもないから気にしない? いやいや字幕にこそ訳出されてないものの、ウィル・スミスの逆鱗に触れたトドメの台詞は「テメエ、見かけはクロだが中味はイエロー(腰抜け)だろ」だぜ。

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キス・オア・キル(ビル・ベネット)

ビル・ベネットといえば「サンドラ・ブロックの 恋する泥棒」の監督だ。この人もともとオーストラリアの監督だそうで、ハリウッドに招かれて撮った「恋する泥棒」が散々な出来で、けちょんけちょんに貶されて故郷に逃げ帰っての、起死回生の1作がこの「キス・オア・キル」というわけ。その甲斐あってオーストラリアのアカデミー賞では作品賞/監督賞ほか5部門に輝いた(って、それほどの映画か、って気もするが) ● 「ツーリスト専門の美人局(つつもたせ)で稼いでいるケチなチンピラ・カップルが、間違ってカモを殺しちまって、その上、有名人のヤバいブツを手に入れてしまって…」という、よくあるサスペンスだが、坂を転がり落ちるようにどんどんドツボにハマッていくカップルの逃亡劇を描く脚本は、しごく快調。「子供の頃のトラウマでヒロインに夢遊病の気があり、自覚のないサイコ・キラーかもしれない」という設定がミソ。オーストラリア映画なので、キャストは馴染みのない顔ばかりだが、エリザベス・マクガバン+ジェニファー・ティリー系統のヒロイン、フランシス・オコナーは気に入ったぜ。

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狂弾 MAD BULLET(佐々木正人)

新宿のヤクザ映画専門館・昭和館で1週間のみの封切興行。清水宏二朗主演のヤクザものVシネマである。長崎慶造という茶髪のヤンキー兄ちゃんが素人同然の演技力にもかかわらず、なぜか清水宏二朗の向こうを張って極悪非道の悪役を演じている。しかもクレジットには「原案・製作:長崎慶造」の文字が。まさかとは思うが、もしかしてこの映画、シロートの兄ちゃんが金を出して趣味で映画を作らせたのか? まあ一応、プロの映画にはなっているので問題ないと言えば問題ないんだが…。

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アフターグロウ(アラン・ルドルフ)

製作:ロバート・アルトマン 撮影:栗田豊通 音楽:マーク・アイシャム
ひさびさの「チューズ・ミー」「トラブル・イン・マインド」路線とあってアラン・ルドルフ本領発揮の1作。20代の若夫婦と50代の中年夫婦のスワッピング・コメディである。 ● 成功した実業家の夫が仕事で忙しく、構ってもらえない若妻マリアン(ララ・フリン・ボイル)は、(幸せな家庭の象徴たる)子供がほしくて堪らないのだが、夫にセックスを拒否され「誰も自分を愛してくれないのでは」という強迫観念にかられている。かたや夫のジェフリー・バイロン3世(ジョニー・リー・ミラー)は「この絶望的な世界にあえて子供を産む必要などない」という考えで、自分なりに妻を愛しているものの、やたらとセックスをねだる妻を疎ましく感じている。彼はじつは年上の女好きである。かつてB級映画女優だったフィリス(ジュリー・クリスティ)は、娘が「女優時代の浮気がもとで出来た子」だという事が本人にバレて家出され、失意の中にいる。ラッキー・マンなどというフザケた名前の夫(ニック・ノルティ)は、妻の浮気が発覚してから夫婦のセックスが途絶え、今では商売の「何でも修理屋」の仕事先で、なかば妻公認の浮気にはげんでいる…。 ● この4人の男女はそれぞれに喪失感を抱え、途方にくれている。まあ、喪失感なんて代物は「好きな映画観て美味いもの食ってれば幸せ」という充足レベルの低い人間(>おれ)には一生縁のない感情だし、マイク・フィッギスの映画同様 良く言えばスタイリッシュ、一歩間違えばナルシスティックな映画なので、そうしたものを受け付けない観客にとっては「勝手にすれば?」な世界なのだが、何故だかこの(自分の人生とシンクロする部分の一切ない)アラン・ルドルフの可笑しくて哀しい大人のお伽話とは妙に波長が合うのだ。登場人物たちを揶揄しつつ愛情を寄せる、コミカルとシニカルの配分が絶妙な脚本は、もちろんアラン・ルドルフ自身の筆によるもの。描き方こそ違うものの、ウディ・アレンの映画に登場するキャラクターに通じるものを感じる。 ● キャストの中ではジュリー・クリスティが圧倒的に素晴らしい。56才にしてこのセクシーさ! ジェフリー君ならずともお願いしたくなるというものだ(火暴) 「堕ちた恋人たち」に次いでの登板となるララ・フリン・ボイルはコメディ・パート担当。オーバーな演技で笑わせてくれる(鶏ガラ一歩手前の美しい裸身も披露してくれる:) ニック・ノルティは「粗野にみえて繊細」という、おそらく本人もそうなのであろうキャラクターを軽妙にこなして、知的な俳優であることを示す。ジョニー・リー・ミラーは「トレインスポッティング」のシックボーイ役だったそうだが、とても同一俳優とは思えないなあ。 ● ちなみに「アフターグロウ」とは、地平線に沈んだ夕陽の「残照」のこと。

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無問題 モウマンタイ(アルフレッド・チョン)

マギー&サモ・ハンの「恋はいつも嘘からはじまる」、ユン・ピョウ&パット・ハーの「オン・ザ・ラン 非情の罠」、そしてパート4まで作られたドゥドゥ&レオン・カーファイの「彼女はシークレット・エージェント」以来だから、ずいぶんと久しぶりの日本公開となるアルフレッド・チョン(張堅庭)最新作。吉本興業が金を出して岡村隆史が主演する、香港映画である。 ● 「ジャッキー・チェン事務所に就職する」と書き残して出て行ったカノジョを追って、岡村隆史が香港に渡り、なぜか香港映画のスタントマンになってしまう件りをスラップスティックに描く前半は、ギャグが上滑りして苦しい展開だが、後半、岡村と カノジョと 恋人を捜して密入国(とは今や言わないか)してきた中国娘との三角関係になってからは、アルフレッド・チョンの本領が思う存分発揮されて切なく胸にひびくラブストーリーになっている。 ● 岡村隆史は決して上手い演技者ではない。だが、もともとブルース・リーやジャッキー・チェンのファンである自身の企画だけあって、劇中の役柄そのままにスタント・アクションに(実際に骨折までして)体当たりで挑む姿には好感を押さえきれない。クライマックスの決死のスタントに挑むにあたって「プロジェクトA」の時計台落下シーンに言及し、「なんや知らんけどおれ、家に帰って涙がポロポロ出てきてなあ」などと台詞とも思えん台詞をしゃべる奴が、悪い人間であるはずがないではないか。どこから見ても立派な香港映画の役者である。ヒロインには台湾の新人で、フェイ・ウォンをふっくらさせたみたいな顔のジェシカ・ソン(宋雲[シ猗])。手垢のついてない可愛さという、アイドル女優としての第1条件は充分に満たしてるだろう。もう1人のヒロイン 佐藤康恵は役回りとしては憎まれ役なのだが、1人のキャラクターとしてきちんと敬意を持って描かれているので、憎めない憎まれ役になっている。他にもロー・ワイコン(慮恵光)、ン・ジャンユー(呉鎮宇)といった香港映画ファンにお馴染みの役者たちが助演しているほか、サモ・ハン大哥が特別出演して岡村クンにマジ蹴りをプレゼントしている。 ● ま、声を大にして傑作というほどの映画ではないが、香港映画ファンなら観て損はしないはず。

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DEAD OR ALIVE 犯罪者(三池崇史)

いやはやスンゲーものを観ちまったぜ。監督個人のエネルギー量が日本映画総体のそれを凌駕している驚異の〈1人プログラムピクチャー〉三池崇史の面目躍如。とんでもないエネルギーに満ちた快作である。 ● ウリは何と言っても哀川翔と竹内力の初共演。1999年の日本で誰よりも主演作品の多い、誰よりもビデオを売りまくる、誰よりもベルトの位置が高いビッグ2である。バックアップする製作陣も、プロデューサーが大映の土川勉(「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」)と東映の黒澤満(「共犯者」)そして監督が三池崇史という超強力な面子。 ● 話はアル・パチーノvsロバート・デ・ニーロの「ヒート」。哀川翔が新宿署のマル暴刑事、竹内力が中国残留孤児2世ギャング団のリーダーとなって対峙する。映画は短いカットを無数に繋ぎ合わせた、大音量のロックが鳴り響く、台詞の一切ない10分間のモンタージュから幕を開ける。そこは歌舞伎町であって歌舞伎町ではない。街中にセックスとバイオレンスが満ち満ち、カオスが秩序を駆逐した〈架空の街〉…そう「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」の歌舞伎町である。三池崇史はエネルギッシュなオープニングでこの映画の世界観を提示した後、驚愕のラストまで105分、一気に突っ走る。フィクションとしてのエンタテインメントを極限まで高めた傑作。必見。 ● 本作を「シベリア超特急」や「幻の湖」あたりと比較する向きもあるようだが、それは断じて違う。作り手の未熟さ/勘違いから生まれた無意識な怪作と、意図的に枠組をぶち壊して〈超虚構〉へと突き抜けてしまった確信犯・三池崇史は、到底くらべられるものではない。 ● 東京国際映画祭の上映会場には、やけにヤンキーっぽいネエちゃんが多いと思ったら全員、竹内力のファンだった。舞台挨拶で黄色い声援を送られて低い声で一言「ういーっす」…うーん、虚構が現実を侵食してるぞ。竹内力は、ドラマ的な部分を哀川翔と他の共演者にまかせて、自分は何もせず格好つけてるだけ。だが最後の最後で「この役がなぜ竹内力でなくてはならなかったのか」がはっきりする。つまり「信じられない事を信じさせるのがスターの力」なのだ。それがイーストウッドだから、それがシュワルツェネッガーだから、どんな虚構も受け入れられるのである。 ● 哀川翔はチンピラのイメージを払拭して大人の男の顔になった。他にも石橋蓮司、小沢仁志、鶴見辰吾、本田博太郎、田口トモロヲといったVシネ・オールスターズが期待される通りの怪演を見せている。吃驚したのはヤクザの組長に扮した(おそらくは背の低さでキャスティングされたのであろう)映画評論家の塩田時敏で、今まで数々のピンク映画などにチョイ役出演して演技のエの字も出来ないことを示してきた素人役者が、ここでは並いるプロを向こうに回して堂々の存在感を示すのである。つくづく役者というものは演出家と使い方次第なのだなあ。そして誰より賞賛さるべきはこれが映画デビューとなる元モデルの甲賀瑞穂。ギャング団のメンバーでもあるストリッパーの役で、まだ台詞もないうちから胸出しまくり。徹頭徹尾の汚れ役で、情感もヘッタクレもない、これ以上ないというほどヒサンな最期を遂げる。「あたしのモデルとしてのキャリアは何だったの!?」てな役なのに、映画祭の舞台挨拶では「この映画でデビューできてシアワセ」と大喜びしておった。見上げた役者根性だ。「両親が会場に来てる」とも言ってたが、親は泣くと思うぞ、娘の姿 見て。 ● なお、蛇足ながら本作のテーマを解説すると「日中友好クソ食らえ! 朱鷺はブッ殺せ!」ということである。

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ハイロー・カントリー(スティーブン・フリアーズ)

今更おれなんかが講釈垂れるまでもなく、カウボーイをカウボーイたらしめている所以は、テンガロン・ハットやウェスタン・ブーツではなく、ましてやガンさばきなどではない。「牛の群れの輸送を生活の糧とする」という職業によってだ。この映画が舞台としているのは戦後のニューメキシコ州ハイロー。牧場経営は会計士の領分となり、金と人手のかかるカウボーイによる「牛追い」は、急速にトラック輸送に取って代わられようとしていた…。 ● ウディ・ハレルソンが演じるのは、そんな時代にあってあくまで牛追いに固執する「最後のカウボーイ」。本篇の語り手ビリー・クラダップは彼にあこがれる弟分。ウディ・ハレルソンはライバル牧場の主任の妻であるパトリシア・アークエットと不倫の関係を続けていて、ビリー・クラダップもまた(メキシコ娘のガールフレンドがありながら)心中ひそかにパトリシア・アークエットに横恋慕している。 ● サム・ペキンパーの幻の企画だそうだが、ペキンパーが意図していたのは、男同士の関係を軸とした「西部への挽歌」だろう。だがNYのマーティン・スコセッシが製作して、イギリスのスティーブン・フリアーズが監督したとなれば、どうしたって男女の三角関係を描いた「文芸メロドラマ」になるのは仕方がない。 ● いや、いいのだ別に。文芸メロドラマでも。どうせ今のハリウッドに「最後のカウボーイ」を演じられる役者など居やしないのだから。だがそれならファム・ファタルがパトリシア・アークエットってのは無いだろうよ、いくらなんでも。2人の男が命を賭けるに足るだけの女には到底 見えんよ。特にビリー・クラダップの場合は、いい仲になった娘がいながらそっちへ走るわけだから、観客が「うん、この女ならそういう非道な行ないも致し方ない」と納得しない限りは、主人公に感情移入できない事になる。ところが、だ。なんと可哀想なメキシコ娘を演じてるのは(なぜかスペインから呼ばれた)麗しのペネロペ・クルズ様なのである。これは誰がどう見たってペネロペ・クルズ様のほうがパトリシア・アークエットより百万倍イイ女じゃないか。そんな彼女をヤリ逃げしたビリー・クラダップはサイテーの鬼畜野郎である。うーん、許せん(って感想はそれだけかい!>おれ) ま、要は製作・監督・主要キャストがすべてミスキャストという事だな。

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ウィズアウト・ユー(フィル・ジョアノー)

U2のプロモを作ってた甘ちゃんディレクターがハリウッドに招ばれて映画を撮るが、「エロと暴力さえ見せときゃいいんだ」という商業主義にズタズタにされて、大切な恋人にまで逃げられてしまう、という話。誰がどう見たって「U2 魂の叫び」を撮ったフィル・ジョアノーの自伝的内容だし、誰がどう見たってフィル・ジョアノーのハリウッドに対する私怨もしくは被害妄想である。「ぼくのカノジョを返せ」たって、そりゃテメエの問題だろうよ。「ハリウッドの所為でおれの映画はメチャクチャにされた」なんて映画作られた日にゃあ、今まで「ステート・オブ・グレース」や「愛という名の疑惑」や「ヘブンズ・プリズナー」に携わってきたスタッフ&キャストは救われんよなあ。 ● 主人公が観客に語りかけるという「フェリスはある朝突然に」スタイル(巻末の献辞にジョン・ヒューズの名前があったのは何故?) ハイスピード撮影とスローモーションを多用しての語り口は、ライトなロマンティック・コメディを目指していると思われるが、監督の余計な思い入れのせいでヘヴィでウェットな映画になってしまった。 ● 自分勝手でわがままな主人公にスティーブン・ドーフ。クリスチャン・スレーターだったら少しは愛すべきキャラになったかも。ファッション・モデルのヒロインに、ジュディット・ゴドレーシュ。こちらも薄っぺらなキャラで、ただヌードになってくれても嬉しくないんだよなあ(うそだけど) 主人公が衝動的に結婚してしまうバンド娘のケリー・マクドナルド(「トレインスポッティング」)が可愛い。おれならフランス女は忘れて、このイギリス娘と一緒になるね<訊いちゃいないって。なお、監督の“個人的なお友達”であられるU2のボノが本人の役で特別出演。U2の「ポップマート・ツアー」の模様が劇中に織りこまれている。


セカンドチャンス(水谷俊之&富岡忠文)

これなら空いてるだろうと思って映画の日に観に行ったんだが、場内に入ってショックを受けた。公開5日目(しかも映画の日)だというのに、丸の内東映の最終回は客が9人だった。おれを含めて9人だ。大日本東映艦隊のフラッグシップである丸の内東映で9人てことは、「客は1日1ケタ、最終回はゼロ」という沈没寸前の映画館が全国でザラにあるはずだ。もはや、からかいの気持ちは失せ、本気で心配になった。この映画、美容サロンのダイアナの紐付きらしいが、エステ屋が何枚チケットを買ったんだか知らねえが、こんな事やってたら、本当に、間違いなく、確実に、松竹より先に潰れるぞ>東映。長く辛い「ドリームメーカー」の日々がやっと終わったと思ったら、今度は「セカンドチャンス」の日々に堪えなければならない大日本東映艦隊の乗務員の諸君&諸嬢には深くご同情申し上げる。ああ、海ゆかば…。 ● しかも映画の中身も最低だ。30分X3話のオムニバス形式。一般映画に進出後、まだ1本も当たりのない水谷俊之による第1話は、ブライダル・サロンで不快な女と不快な女が、聞くに堪えない不快な台詞を怒鳴りあう話。今年 聞いた中で最も陳腐なダイアローグ(脚本:山田耕大)が頻発される。ヒロインは清水美砂。前々から疑問なんだが清水美砂って誰が美人だと思ってんの? 普通ならさっさと出てくとこだが「これはオムニバスだ。次は別の監督だ」と自分に言い聞かせて拷問に堪えた。 ● で、“待望の”第2話は痴漢ものVシネで名を揚げた富岡忠文監督。運転代行をしてる元ピアニストのキチガイ女が、妻子持ちの元愛人にキチガイじみた行動をする話。いや、ホラーではないぞ。脚本の櫻井武晴は「ちょっといい話」のつもりだ。東映HPによると「櫻井氏が造詣が深い“ピアノと運転代行”というユニークな道具立てから、切ないラブストーリーが誕生した」んだと。ピアノと運転代行に造詣が深いってなんだよ一体? 今年 観た中で最も不可解な設定。救いは男が橋爪功なことで、どんなに酷い台詞にもそれなりの説得力を与えるのだから大したもの。ヒロインは鈴木砂羽。「愛の新世界」「極妻」で登場した頃のビッチな魅力はどこへやら。すっかり油っけが抜けてちゃってる。ここまでで本日分の我慢を使い果たしたので、同じく富岡忠文の第3話(倍賞美津子篇)は観ないで退出。

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200本のたばこ(リサ・ブラモン・ガルシア)

脚本:シェイナ・ラーセン タイトルデザイン:ニーナ・サクソン
時は1981年の大晦日。処はNYのイーストヴィレッジ。「新年の朝を独りで迎えるなんてゼッタイヤダ!」とニューイヤーズ・イヴ・パーティーでの出会いを物色する若者たちの、夜8時から新年まで4時間の物語。1981年という時代設定は「エイズの事を考えなくてよいギリギリのところ」という事かな。 ● 「ウェディング・シンガー」に続いての1980年代もの。「ウェディング・シンガー」ではアダム・アントがゲスト出演していたが、本作にはエルビス・コステロが顔を見せている。もちろん当時のヒット曲が満載(まんまとサントラ盤を買わされる奴>おれ) 音楽だけでなく作劇自体も「ダイナー」(1982)や「セント・エルモス・ファイアー」(1985)を彷彿させる群像劇になっている。まあ、とりたててどうと言うことのない軽いスケッチだが、総勢16人もの登場人物の、ひとりひとりがちゃんと印象に残るというのは、やはり脚本と演出の手腕の賜物でしょう。 ● キャスティング・ディレクター出身だという女性監督のコネゆえか、ヤングスター(死語)が総出演。なかでもチャーミングなのがコートニー・ラブとケイト・ハドソン。コートニー・ラブはヤングスター(死語)といいつつ もう34才だけどイイ女だなあ。カノジョに振られた男友達を「じゃあ、あたしとオマンコしなさいよ」と慰めてあげるヤリマン女の役で、それなのに、この男はまだカノジョに未練があって、せっかくの据え膳を食わない大馬鹿者なんである。てゆーか、ジャニーン・ガラファロとコートニー・ラブだったら最初っからコートニー・ラブを取るだろ、フツー? ケイト・ハドソン(こちらは20才)は、とんでもなく優柔不断で要領が悪くていつも失敗ばかりしていて、そのせいで昨日まで処女だった女の子で、そんな自分を変えたくてしようがなくて意を決してニューイヤーズ・イヴのデートに臨んでるんだけど相変わらず優柔不断で要領が悪くて失敗ばかりしていて、それでもって決まりが悪いのを誤魔化すために鼻でクシャッと笑った笑顔がとてもチャーミングでおおゴールディ・ホーンだ!と思ったら、なんと実の娘さんとの由。ファレリー兄弟あたりが、この娘 主演でドタバタ・コメディを作ってくれないかなあ:) あとこの時期、恵比寿ガーデンシネマはもう1館で「I love ペッカー」を上映していて、はからずもマーサ・プリンプトン特集だったのだが、撮影順から言ったら あっちのオコゲ姉さんよりこっちのダサい姉ちゃんの方が後だってのがなんか納得いかん。他にクリスティーナ・リッチ、ベン・アフレックらが出演。


ドニー・イェン COOL(ドニー・イェン)

監督デビュー作の「ドラゴン危機一発'97」の、あまりの自意識過剰ぶりに辟易したドニー・イェン。嫌な予感がしつつ観に行ったこの「COOL」もまた、ナルちゃん大爆発の独り善がり芸術ぶりっこ映画だった。「アクション・スターが自分を主演にして撮ったアクション映画」のくせに、あまりに映像が凝りすぎてて画面で何が起こってるのかよく判らない。あほか。付き合っておれん。20分で逃げ出した。もうドニー・イェンの「監督作」は2度と観に行くものか。

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地獄(石井輝男)

これは初めて真正面から例のカルト集団を描いた映画である。地獄巡りという枠組みも、申し訳程度に出てくるミヤザキツトムハヤシマスミのエピソードも、すべてはカルト集団を映画化するための方便に過ぎない。「元信者の女の子の前に閻魔大王が現れて、地獄の業鏡に映るカルト集団の悪行の数々と、教祖や最高幹部がやがて地獄で受ける事になる容赦のない責め苦を見せて改心させる」という設定で、ソックリさん達によってワイドショーの再現映像のようなチープなドラマが演じられ、そしてそのソックリさん達が地獄で舌を抜かれたり、皮を剥がれたり、人間バーベキューにされたりするわけである。 ● まさしく石井輝男が新東宝や東映で作ってきた安っぽいエログロ映画の正統的な継承。これはゲージツでもないし、ご立派な娯楽映画でもない。ましてや社会派の問題作などでは更々ない。しょせんは見世物・ゲテモノ・キワモノの類である。だが、そんな誰も作りたがらないゲテモノを、個人のプロダクションで(おそらくは少なからぬ借金をして)脚本・監督・製作した石井輝男の戯作者精神は尊敬に値しよう。石井輝男の本音は、教祖の裁判を傍聴した元信者の娘の台詞として呟かれる「アタシたち、知的じゃなくて良かったネ」 ● この娘、閻魔大王に「これからは怪しい宗教などに惑わされず永遠なるものに祈りを捧げるのじゃ」と諭されて(<諭すかね?閻魔様が)、「永遠なるもの?」「例えば太陽じゃ」というわけで、元女性信者数人で全裸で朝日に祈りを捧げてメデタシメデタシ。…って、ぜんぜん洗脳が解けてないぞ。どこまでマジなんだか…>石井輝男。 ● 信者の娘にピンク女優の佐藤美樹(=さとう樹菜子) まあこれは脱げれば誰でもいい役なので…。いちばんの存在感を示すのは(なぜか女の)閻魔大王に扮した前田通子。「日本映画で初めてヌードになった女優の42年ぶりの銀幕復帰」だそうだが、本作では脱いでないので安心してくれ。終盤で丹波哲郎が突然、1973年の石井輝男作品「ポルノ時代劇 忘八武士道」の明日死能(という主人公)の扮装で出てきて、地獄の鬼どもを切りまくった挙句、「生きるも地獄、死するも地獄。まだ切り足りぬ…」などとほざいて去って行くという観客を唖然とさせるパフォーマンスを見せるのだが、このキャラって(c)小池一雄じゃねえの? ● 美術監督を、特殊造形の原口智生が担当していて、おそらく実費のみで(下手したら材料費持ち出しで)ミニチュアや地獄の鬼のマスクを製作している。 ● 最後に指摘しておきたいのは、石井輝男は「ミヤザキツトムが地獄でノコギリ挽きにされるスプラッター的描写」はしても、「ミヤザキが少女を殺害して遺体切断する描写」は一切していないという点である。平気で子供の死体を直接描写する森田芳光と較べて、どちらが品性下劣かは明らかだろう。

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サラリーマン金太郎(三池崇史)

またしても三池崇史、である。今年に入ってからだけでも5月に「日本黒社会 LEY LINES」を公開して、東京映画祭に新作2本(「オーディション」「DEAD OR ALIVE」)を出品してるから、この「サラ金」が4本目の映画になる。それだけじゃなくて、例の羽賀健二&桜庭あつこのVシネも撮ってるし、WOWOW用のミニシリーズも手掛けている。しかもその1本1本に注ぎ込まれたエネルギー量がハンパじゃないのだ。とても人間業とは思えん。絶対シャブとかやってるな>三池崇史。 ● 話としては仁侠映画。「関西の悪徳政治家と東北の腐れ役人に苛められた関東の正義の土建屋が最後に爆発して怨みを晴らす」ってもの。前半は製作を手がけた木下プロダクション=東芝日曜劇場のお家芸である“泣かせ”をたっぷり。で、後半が本宮ひろし原作が本来 持っている荒唐無稽なバイオレンスと大ボラの世界へと突入。クライマックスは、金太郎の召集に応じた元「関東八州連合」の暴走族2,000台が東北へ向けて爆走するって設定で、おーケンカだケンカだあ「男一匹ガキ大将」だあ!と喜んでいたら、あっさり道交法違反で逮捕されちまいやがんの。でもって裁判中に、検察が政治家と役人を捕まえてメデタシメデタシだと。ちゃんちゃん。<ちゃんちゃん じゃねえっての! 仁侠映画のヒーローが他力本願で困難を解決してどーすんだよ。 ● まあ、かようにヒドい脚本ではあるが、三池崇史はそんな中にも精一杯、娯楽映画の滋味をブチこんで飽きさせない。なんと言っても、煮ても焼いても食えねえ東北営業所の訳あり所長を演じる(ひさびさ!)山崎努が素晴らしい。主演の高橋克典が何者なんだか おれはまったく知らないが、なかなかの好男子。適役。ヒロインの羽田美智子も奥山和由の呪縛を逃がれて伸び伸びと演じている。あと(テレビのトーンを引き摺ってるんだろうが)津川雅彦はちょっとやり過ぎだな。野際陽子は(あんなバカみたいな白髪のカツラを着けてても)ちゃんとした芝居してたぞ。


ナイル(和泉聖治)

「はるか4,000年のミステリー・ロマン」がなんで渡瀬恒彦になる訳?「ファラオの哀しみ」がなんで哀川翔で、名高達男で、片桐竜次で、高野拳磁で、宍戸開で、津川雅彦で、夏樹陽子なんだよ? なぜVシネのキャストをエジプトまで輸出せらゃならんの? いや、ダメな映画だという事は予告篇で一目瞭然であって、それを承知で観に行ったおれが悪いのかもしれん。だが「せめてVシネマ程度には面白いかも」というささやかな期待を誰が責められよう? ● 「早稲田大学教授の吉村作治がエジプトで遺跡発掘中に、発掘チームの仲間の誰にも気付かれずに世紀の大発見をするが、その事を発掘チームの仲間には黙っている。しかし、なぜか世紀の大発見のことを謎の国際シンジケートに知られてしまい、誘拐されて、殺される。日本にいる幼い息子まで謎の国際シンジケートに誘拐され、はるばるエジプトに連れ去られる。作治センセイは誘拐される直前に、世紀の大発見の場所を記したEメールを日本に送信していたが、それは暗号文なので誰にも読めない。一方、エジプト女と結婚した通信記者の渡瀬恒彦は、その妻をアフガン内戦取材で失って以来 傷心していたが、謎の国際シンジケートのボスの女が、亡くなった妻と同じ顔をしていたので恋に落ちる。しかし、その女もまた死んでしまう。謎の国際シンジケートのボスは渡瀬恒彦に銃を向けるが、早く撃ちゃいいものを格好つけて火のついた葉巻を投げ捨てると、それが横転したジープから漏れ出したガソリンに引火して自爆」という支離滅裂な話である。大金はたいてエジプトくんだりまでロケ隊くり出す前に、誰か脚本をチェックしろよ>東映。てゆーか、チラシには「原作:吉村作治」と大書きしてあるが脚本の表記が一切ないので、もしかしたらもともと脚本がない映画なのかも。ほんと、こんな事やってたら松竹より先に潰れるぞ>東映。

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母の眠り(カール・フランクリン)

娘は父が大好きだった。大学教授で作家で文芸評論家。著作の数も全集が出るほど。父はあらゆる事を教えてくれた。一方、娘は母とはソリが合わないと感じていた。明るくて家庭的でお節介焼きの母。専業主婦であることに何の疑問も持たない人生。父が属している世界に比べて、それはあまりにつまらない事のように思えた。だから、娘は父のような大人になった。ハーバードを出てNYの雑誌社の記者に。辛いけれどやり甲斐のある仕事。母が癌で倒れたのはそんな時だった。娘は父に乞われて、母の看護をするために帰郷する…。 ● ほぼ100%家庭内の話で、典型的なメロドラマ。下手すると最初から最後まで役者が怒鳴り合うような映画になりがちな素材である。だが「青いドレスの女」のカール・フランクリン監督による抑制された聡明な演出が、見応えのある静かなドラマに仕上げた。母にメリル・ストリープ。まあいつもの“演技派”メリル・ストリープなのだが、今回はそれほど臭みがないので抵抗なく観ていられる。父にウィリアム・ハート。オーバーアクトとは無縁の人で、最後に“妻を愛するひとりの男”が浮かび上がる演技設計がじつに見事。そして本篇の主人公である娘に、お多福娘レニー・ゼルウィガー。名優2人に挟まれて一生懸命頑張ってる姿がドラマの内容とマッチしての好演。

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トーマス・クラウン・アフェアー(ジョン・マクティアナン)

「エントラップメント」に続いてまたも「ルパン三世」ものである。美術館での二度目の盗難のシーンなんて「ルパン三世」にまったく同じネタがあったぞ。但し、ここには「追う者と追われる者の虚々実々の駆け引き」とか「不可能を可能にする華麗なる盗みのテクニック」あるいは「恋と使命の板ばさみで揺れる女心」はたまた「ビル・コンティのモダーンなBGM」、そして何より「ヒロインのヌード」という、「エントラップメント」に欠けていた要素がきちんとすべて揃っている。良く出来た大人のエンタテインメント。 ● ルパン三世にピアース・ブロスナン。ジェームズ・ボンドのスマートなイメージが上手い具合に流用されている。峰不二子にレネ・ルッソ。「リーサル・ウエポン」シリーズなど、今まで意識して男っぽい役を選んできた印象があるが、本作で元モデルのゴージャスな女っぷりを全開。となると、銭型警部がデニス・リアリーでは、どうしたって貫禄負けしてしまう。あとフェイ・ダナウェイがピアース・ブロスナンの精神分析医の役で出ていて、もちろんオリジナルの「華麗なる賭け」への敬意なんだろうけど、はっきり言って不要な役では? ● UIPは例によってこれが「華麗なる賭け」のリメイクである事を隠していて、チラシ裏にも一言の言及もない。言うに事欠いて“「ネットワーク」でアカデミー主演女優賞を受賞した”フェイ・ダナウェイだとよ。

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白痴(手塚眞)

脚色:手塚眞 撮影:藤澤順一 音楽:橋本一子
美術:磯見敏裕 セットデザイン:花谷秀文 タイトルバック絵画:恒松正敏
ドストエフスキーの…ではなく坂口安吾の短篇「白痴」の映画化。舞台は昭和20年の東京。3月10日の大空襲で一面の焼け野原と化した、まだ燃え残りの煙でかすむ帝都には巨大なバベルの塔がそぴえている。そこは国民の娯楽とニュースを支配する国営テレビ局。焼け跡に置かれた白黒テレビの画面からは国民的アイドル“銀河”のミュージック・クリップが流れる。そんな、絶望と偽りの希望が支配する世界で、主人公の青年はテレビ局でADとしてゴミ以下の扱いに堪えながら映画監督を目指している…。 ● どこが坂口安吾じゃあ!と思われるかもしらんが、いやいや手塚眞は驚くほど原作に忠実である。映画会社がテレビ局に変わってるだけで、青年の下宿に白痴女が転がり込むくだりはまったく原作通り。そして原作が坂口安吾の真情を吐露した私小説であるように、映画「白痴」もまた手塚眞の私映画である。手塚眞の創作である“銀河”絡みのテレビ局内の描写は、1981年の8mm「MOMENT」や1985年の初35mm「星くず兄弟の伝説」から一貫して変わらぬ手塚眞ワールドであり、1999年の今だからこそアクチュアルなテーマでもある。そして原作とは微妙に違う、明日へのほのかな希望を感じさせるラストの処理・・・つまり、これは21世紀へ向けた手塚眞のマニフェストなのだ。そりゃ娯楽映画としては明らかに2時間26分は長過ぎるし、★ ★ 程度が妥当な評価なのかもしらんが、これだけの巨大なプロダクションを完遂する確固たる意志を、時代に真摯に向き合ったこれほどの気高い志を、他のどこで見つけられるというのか。断言しよう、映画「白痴」は傑作である。 ● 惜しむらくは軽快に幕を開けた悲喜劇が途中から重厚な本格派へと転じてしまう事。最後までポップ&チープなトーンで通してほしかった。そう「MOMENT」や「星くず兄弟の伝説」のように。そしてテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」のように。クライマックスの、この世のものとも思えない美しい炎上シーンでかかるべきは壮麗なオーケストラ曲ではなく“銀河”の歌う安っぽい歌謡曲であるはずなのだ。 ● …ま、堅苦しい話を抜きにしても、圧倒的なヴィジュアルを見てるだけでも楽しめる事は確か。敗戦直前の焦土と近未来のテレビ局が、パースペクティプの狂った路地裏とシュールリアルなスタジオが、カラーとモノクロが、8mm映画とCG画面が、違和感なく混在する奇妙に魅力的なSF的世界。さすがに自らの職業を「ヴィジュアリスト」と名乗るだけの事はある。 ● 死人として登場して紅蓮の炎の中で生命を吹き込まれる青年に浅野忠信。興行的な要請もあっての起用だろうが、ちょっとカッコ良過ぎ。だいいち物語全体のトーンを決定づけるモノローグがあまりにも酷い。例えば加藤賢宗という選択肢はなかったのか。一方、タイトルロールの白痴=甲田益也子は文句なし。存在感の希薄さが理想的。“銀河”を演じる新人・橋本麗香はクサい…というかハッキリ下手なのだが、この安っぽい演技こそが、本来この映画に求められるべき資質だという気もするしなあ。 ● あとパンフにベネチア映画祭のレポートを書いてる金原由佳なる“映画ライター”に質問だが、「被写体の的になっていた」なんて日本語あるのか? 「正式記者会見」ってのはひょっとして「公式記者会見」の事か? それとまがりなりにも“映画ライター”と名乗っている以上、まさかとは思うが「8月のラプソディー」ってのは黒澤明の「八月の狂詩曲」の事じゃあるまいなあ?


黒い家(森田芳光)

不快なキャラクターの不快な行動を不快な描写でえがく・・・「39」に続く 森田芳光の“悪達者”シリーズ第2弾は、大竹しのぶ主演の「悪魔のいけにえ」である。松本清張ばりのヒューマン・サスペンスであるべき素材を不快な映画に仕上げてしまった「39」と違って、本作はホラーなので どれほど不快であっても差し支えない。実際、ホラー映画としては ★ ★ ★ ★ 級の傑作だと思うが、「子供の首吊り死体を直接描写している」という理由で星1つとする。 ● この映画ではすべての俳優が神経症的なカリカチュアライズされた演技を強要される。普通の映画では、キチガイがマトモな人間を殺すのだが、マトモな人間の出てこない本作においてはキチガイがキチガイを殺すわけだ。とうぜん「主人公に感情移入して映画を観る」なんてことは望んでも無駄。1800円払って不快な気持ちになりたい人にお勧めする。 ● 脚本(大森寿美男)は根本的な構成が間違っている。映画が始まって1時間近くは(大竹しのぶではなく)夫の西村雅彦こそが鬼畜殺人鬼であるというミスディレクションがなされてるのだが、そんなこと観客も出演者も(森田芳光にいたるまで)誰一人信じないので、時間の無駄づかいである。それに、ああいう着地をさせるのなら、「“心のない鬼畜”であるはずの大竹しのぶが、なぜあそこまで内野聖陽に執着するのか」を説明しないと納得できん。 ● こうした極度に人工的な世界では、役者の力量がはっきりと出る。映画に芝居が負けてしまっているのが内野聖陽、西村雅彦、田中美里など。西村雅彦なんかあれなら中島らも本人を使った方がずっと怖いぞ(天然だしな) 対して、映画に負けない強靭な個性を持っているのが大竹しのぶ、石橋蓮司、小林薫といった役者たちである。中でも大竹しのぶの凄さが際立つ。あれだけ不自然な台詞まわしを強要されながら それでも「大竹しのぶ」以外の何者でもない。「乳しゃぶれぇ」なんて台詞で観客を戦慄させられる女優が他にいるか。文字どおり化け物だな、ありゃ。

★ ★
黒の天使 Vol.2(石井隆)

おれは石井隆の熱烈なファンである。だから、お藏入りしていた本作が(たとえ都内単館とはいえ)陽の目を見たことは大変に喜ばしい。劇画の画風が好きではなかったおれにとって、石井隆の名はまず〈ロマンポルノの脚本家〉として鮮烈な印象を残している。それゆえに本作での脚本の酷さが目に余る。本作で天海祐希が演じる〈黒の天使〉とは女殺し屋のこと。数々の修羅場をくぐり抜けてきた伝説のプロフェッショナルである。そんな冷酷非情なプロが目撃者の女を“救うため”に単身、敵のアジトに乗りこむという設定にリアリティがないし、命がけで救った女を連れて敵に正体を知られている女の家にのこのこと連れ帰るのも大馬鹿。案の定、またたくまに敵に包囲されて袋のネズミだ。どれほどスタイリッシュな映像を積み重ねようと脚本が馬鹿まるだしではアルバート・ピュンと一緒だ。 ● 天海祐希は宝塚OG特有の人間臭さのない無機質な演技なので、石井隆 独特の、傷ついて堕ちていくことによって輝くヒロイン像が似合わないのが致命的。この女優さんにはターミネーターとかレプリカントとか山田風太郎の女忍者なんかが似合うんじゃないか? ● 本作はもともと、奥山和由が松竹傍系のシネマジャパネスクで企画を起ち上げ、製作を手掛け、完成させた映画である。だが公開された作品のどこにも彼の名前は残っていない。坊主憎けりゃ袈裟までという訳だ。たしかに奥山和由は社員プロデューサーとしての立場で松竹から給料をもらって、この映画を製作した。だが、彼の“作品”であることに変わりはないのである。松竹を追われた時点ですでに完成していた作品から、クレジットを剥奪するってのはちょっとやり方が酷すぎないか>松竹。

★ ★ ★
ヴァーチャル・セクシュアリティ(ニック・ハーラン)

17才で未だバージンの女の子がヴァーチャル・リアリティ・マシンに理想のカレシを入力したところ、そのイメージが実体化して…という、「ときめきサイエンス」をひっくり返して、「転校生」をブレンドして、「恋しくて」で仕上げたイギリス製SEXコメディ(…って、まるきり太木実 氏「地獄日記」のパクリになってしまったが、事実そーゆー映画なんだから仕様がない) 脚本としては「転校生」を混ぜたところがミソ。ただ主人公が女なので、他愛のない「ときめきサイエンス」に比べると欲深な感じがするのはおれの性的偏見? 主演のローラ・フレイザーはジュリア・ロバーツを4割安にした感じ。さえない童貞おたく少年にマシュー・ブロドリック系のルーク・デ・レイシー。


アイ・ラヴ・ユー(大澤豊&米内山明宏)

聾唖の主演女優と聾唖の監督(米内山明宏)による聾唖もの。日本のこの手のジャンルの不幸は善意あふれるNHK教育テレビ的感性の作り手が、使命感に燃えて作ってるという点に尽きる。彼らは聾唖者たちとは真剣に向き合ってるかもしれないが、観客の方を向いてない。つんぼが作ってつんぼが観てるようではダメだ。西村知美や黒柳徹子ではなく、藤原紀香や田中麗奈じゃなきゃダメなんだ。 ● もう一方の監督である大澤豊(非・聾唖者)はこの手の作り手としては珍しく、まともな感性を備えたしっかりした映画を作ってきた人だ。過去に「遥かなる甲子園」という佳篇を撮っている。それは「聾唖学校の野球部が甲子園を目指す」という話だったが、優れていたのは「少年たちが聾である」という設定が、「監督がアル中である」とか「ピッチャーが女の子である」というのと同じ意味で、物語を面白くするために機能していた点だ。そう「暗くなるまで待って」や「愛は静けさの中に」と同様に。ところが本作ではヒロインが唖であるという事そのものがテーマとなってしまっている。いや、教育映画ならそれでもいいさ。だが大澤豊が個人で借金までして製作して(公民館の上映会などでなく)町場の映画館で一般興行を打つのは、広く一般の観客に観てほしいからだろう。ならば映画音痴の教育バアサンではなく「踊る大捜査線」の観客に受ける娯楽映画を作れ。20分で途中退出。 ● 最後にひとつ褒めておく。おれがそもそもこの映画を観る気になったのは唖の主演女優、忍足亜希子(おしだり・あきこ)が可愛かったからだ。これはとても大切な事である。本篇では若いお母さんの役だったが、ラブストーリーのヒロインも充分に務まるだろう。次回は“普通の”映画に“普通に”出演しているところを見てみたいものだ。ピンク映画なんかどうかね? すぐ主役が演れるぞ。手話ピンクなんて面白いと思うんだがなあ。あと「唖は芸名をつけちゃいけない」って法はないんだから、もっと可愛い名前にしたら?<大きなお世話。

★ ★
ヘンリー・フール(ハル・ハートリー)

地区再開発でWAVEビルが取り壊されるのに伴って1999年末で閉館したシネ・ヴィヴァン・六本木のラスト番組(正確にはその後「CUBE」のアンコール上映をしてたけど) おれは15年間でこの映画館に50回近く足を運んでる。 ● 「NYの下町でゴミ収集人をしてる頭の弱い(と思われている)男が、“愚か者/道化”という名前を持つ流れ者に、詩作の才能を発見されて一躍 時代の寵児となる」という、まあ寓話である。寓話だから台詞もいちいち思わせぶりで、ちょっとおれはその嫌らしさに付き合いきれず1時間ほどで退出してしまった(この映画は2時間20分もあるのだ) “NYインディーズの女王”パーカー・ポージーがヒロインを演じている。

★ ★ ★ ★
君のいた永遠(とき)(シルビア・チャン)

この映画は観客の年齢層によって随分と印象が違うだろうなあ。おれは当然、46才のシルビア・チャンに近い立場で映画を観てるわけで、もし貴君が高校生なら こんなノスタルジックな映画には ★ ★ の価値しかない。人生に後悔は1つや2つじゃないという大人の観客にお勧めする。 ● まだ処女のジョシコーセーのときに付き合ってて、ヤラなかったカレがいて、そのカレとは大人になってから日本で再会してHしたんだけど、その時カレは別の女と結婚していて、結局アタシも別の人と結婚しちゃったけど、今でもカレとの想い出はアタシの中では輝いてるの、…ってお話。 ● 映画は「中年の女性映画監督が、自分の初恋を映画化すべく脚本家に想い出を語る」というスタイルで進行する。「恋する惑星」のコン・チーリョンによる編集は、現在と過去を巧みに行き来しつつ、いくつかの意図的な順番入替が仕掛けられ、また時制の異なるクロス・カッティングという荒技が効果をあげている。 ● 監督・脚本、そして現在のヒロインを自ら演じるのはシルビア・チャン。本作がすでに8本目の監督作だが、日本で公開されるのはこれが初めて。ヒロインをメインで演じるのはジジ・リョン。今までどこか陰気なジトッとした印象だったが、本作では17才の初々しい女子高生から、20代の大人のOLまでをしっかりと演じ分けて演技派開眼か。金城武は最初から最後までアンニュイな顔ひとつで押し通す。まあ、この役はこれでいいのかも。ヒロインの親友にカレン・モク姉御。今回は出番少なめで残念。 ● 注目すべきはジジ・リョンとシルビア・チャンは同一人物ではないという点である。いや、いまさらシルビア・チャンに女子高生を演られても困るが、そーゆー意味ではなくて、2人は役名も別(シェリル/シューヤウ)だし、ラストでは学生証の写真も入れ替わってる。金城武の役が現在時制だけは別の平凡な中年男性によって演じられるのも同じ理由。つまり、ここで描かれているのはヒロインの記憶の中で美化された美しい想い出(の一部分)に過ぎない。だが、いいじゃないか。想い出が生きてく力となる事だってあるのだ。おれはラストで泣いたね。 ● 「君のいた永遠(とき)」という邦題は東宝東和が一般公募したものだが、原題(心動 TEMPTING HEART)より邦題の方が内容にマッチしている稀有な例だと思う。

★ ★ ★ ★ ★
フー・アム・アイ?(ジャッキー・チェン&ベニー・チャン)

これぞジャッキー・チェン! 香港では1998年の旧正月映画として公開された本作は、じつに「プロジェクト・イーグル」以来7年ぶりの監督作となる。まあ、監督を他にまかせた映画でも多かれ少なかれ自分で演出しているのだが、堂々と自身の名を“導演”としてクレジットしているだけあって、気合の入り方が違う、スケールが違う。「ポリス・ストーリー 香港国際警察」に匹敵する傑作。必見。 ● この世界には、ほんのひと握りの1作家=1ジャンルの人たちがいるが、ジャッキー・チェンはそうした特権的な映画人の1人である。例えば、タランティーノのフォロワーは腐るほどいるがジャッキー・チェンの映画は誰にも作れない。アクション・スターは星の数ほどいるがジャッキー・チェンの真似は誰にもできない。いや、それだけではない。車寅次郎=渥美清なき今、老若男女を問わず日本人にいちばん親しまれている映画スターはジャッキー・チェンではないか。こうして1年に1度 我々の前に帰ってきて(役柄は変わっても)いつも変わらぬキャラクターで我々を楽しませてくれる。人間のポジティブな面だけを信じて、後味の悪い映画は絶対に作らない。まさしくワン・アンド・オンリー。映画の宝である。 ● 本作はスタンリー・トンが監督した「ファイナル・プロジェクト」にも通じる007もの。記憶を失ったCIAの特殊工作員が南アフリカから、オランダはアムステルダムを股にかけて大暴れする、という話。手を替え品を替え、アクションとコミック&サスペンスを織りまぜ、一瞬たりとも休むことなくラストの大ネタまで突っ走る。肉体vs肉体のカンフー・アクションもたっぷり入ってる。コミカルな山本未来と、シリアスなミシェル・フェレのダブル・ヒロインも魅力たっぷり。娯楽映画はかくあるべしというお手本である。見逃すなかれ。

★ ★ ★ ★
将軍の娘 エリザベス・キャンベル(サイモン・ウエスト)

まあ、おれは「コン・エアー」をその年のベストワンに選んだような人間だから、何を言っても信憑性に欠けるかもしらんが・・・本作は「ア・フュー・グッドメン」と同工の、見応えのある軍隊ミステリーである。ベストセラー小説を名脚本家ウィリアム・ゴールドマンが脚色。「南部の陸軍基地で起きたスキャンダラスな全裸レイプ殺人。被害者の女性大尉は“将軍の娘”だった」という話で、探偵役を務めるのが陸軍捜査部に所属するジョン・トラボルタ。「パーフェクト・カップル」に続いて微笑ましい南部訛りをあやつっている。どうみても切れ者には見えないが、本作は「探偵が超人的な推理で事件を解決する話」ではなくて「事件の解明と共に、隠されていた醜い真実が見えてくる」というジャンルのミステリーなので、このくらいの木偶の方が効果的なのだ。アシスタント役を務めるレイプ事件捜査官にマデリーン・ストウ。毅然としたキャラクター・イメージが、「男の中に女が1人というシチュエーションに ひるむ事なく むくつけき男たちに挑んでいく」役柄に説得力を与えている。ただ、トラボルタの元カノジョという属性は(カットされたのかもしれないが)物語上まったく活用されないので必要ないのでは? 被害者の父親で、捜査を妨害する基地の将軍に名優ジェームズ・クロムウェル。他に、ジェームズ・ウッズ、ティモシー・ハットンらがアンサンブルに厚みを与えている。

★ ★ ★
歌う色男、愛・ラブ・パラダイス!(デビッド・ダワン)

スゲー邦題だなあ。しかも中味がこのタイトル通りだったりする処がもっとスゲーんだけど。 ● 「金持ちの主人公がボンベイに美人の妻がありながら、負けず劣らぬネパール美女と重婚し、結局は倫理的責任を問われることなく両手に花のハッピーエンドとなる」という、いまやインド以外では映画化不可能なモラルコード・フリーのラブ・コメディである。2時間13分という、インド映画としては短い上映時間ながら、前半、子供のない息子夫婦になんとか子宝を授からせようという親父殿の「セックス&再婚押し付けコメディ」、中盤、ヒンディー語の通じぬネパールでの「コミュニケーション不能からくる勘違いコメディ」、そして後半の「美女妻2人の鉢合わせコメディ」と盛り沢山の内容。もちろんインド映画だから歌と踊りと人情も満腹だ。 ● 主人公のぼんぼん口髭の三浦友和といった風貌のアニル・カプール。1980年代のヒンディー語映画のスーパースターだそうだ(チョウ・ユンファのような感じか) ボンベイ妻にラヴィーナー・タンダン。レネ・ルッソ似の都会的なモデル顔でプロポーションはプレイメイト級。そして比重からいくとこちらがヒロインのネパール妻に、「アルナーチャラム 踊るスーパースター」で社長秘書を演っていたランバー。男なら一度は顔を埋めてみたい巨乳と、男なら一度は顔を挟まれてみたいムチムチ太腿の持ち主の、親しみやすい白人顔美女である。 ● よく判ったのは、ネパールって国は(宗教的な理由なのだろうが)正直者の国なのだな。劇中の描写が正しければ、この国では結婚詐欺には「衆人環視の前で剃髪され、卵やトマトをぶつけられ、無理やり乞食坊主にさせられる」という恐ろしい罰が待っているのである。「嘘…? ネパールで嘘を?」という台詞でいきなり音楽が高鳴り、サスペンスが盛り上がるのには笑ったな。

★ ★ ★
カスケーダー(ハーディ・マーティンス)

こりゃ看板に偽りありだなあ。「ノーCG!ノー・ストーリー!…スタント・オンリー!」と謳ってるけど、ちゃんと「レイダース 失われたアーク」ばりのストーリーがあるじゃないの。ドイツのスタント馬鹿が作ったC級映画かと思ったら、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのB級アクションほどには金も理性もあるじゃんか。ちょっとガッカリ。…って、ちゃんと作ってあってガッカリもないもんだが、前売券が1,000円だったので許す>クロックワークス(「思い切ってドイツと同じ値段にしました。」「こんなに安くしたのはドイツだ!」だと。ばか^^) ● 製作・監督・スタント・主演はハーディ・マーティンス(←スタント馬鹿) あと、編集者だけはもっとマトモなのを雇った方がいいと思うぞ。客にきちんと見せなきゃ命がけスタントも無駄骨だからな。

★ ★ ★
アナライズ・ミー(ハロルド・ライミス)

これはひとえにロバート・デ・ニーロを楽しむ映画である。演技派俳優であることを止めてプログラムピクチャーの役者となったデ・ニーロの素晴らしさが十二分に堪能できる。「ストレスから泣き上戸になっちまって精神分析医の扉をたたくマフィアのドン」という役どころなら、例えばハーベイ・カイテルだってデ・ニーロ以上に上手くこなしてみせるだろうが、それでは別種の映画になってしまう。それを心得ているから共演陣は喜んでデ・ニーロの引立て役にまわり、演出も撮影も音楽もひたすらデ・ニーロに奉仕する。本作は、そうして生まれた幸せな娯楽映画なのだ。 ● 気弱な精神科分析医のビリー・クリスタル、短気で単細胞な商売敵チャズ・パルミンテリ、クリスタルの不幸な目にばかり遭う婚約者リサ・クードローなど、みな分をわきまえた好演。なかでもデ・ニーロのまぬけな乾分を演じたジョー・ヴィッテレーリが特筆ものの可笑しさ。

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シュウシュウの季節(ジョアン・チェン)

女優ジョアン・チェンの処女監督作。文革哀史の中国映画かと思ったら(北京語ではあるが)完全にアメリカ映画だった。しかもこれ「ロリータ」だ。 ● 文革末期の1975年。四川省・成都に暮らす少女が「下放」政策で親元を離れ独りきりでチベット高原へ送られる。放牧を学ぶため、モンゴル式のテントに無口なチベット人の男と2人きりの生活。はじめは半年の約束が、革命本部からの迎えを待って待って待ちぼうけ。いつしか文革は終結。辺鄙な地に送られた少女の事は忘れられてしまう。そしてテントには「帰宅許可証」という甘い餌をチラつかせた役人たちが通ってくるようになる…。 ● ロリータ役のルールー(李小[王路])が素晴らしい。ジョアン・チェンの若い頃を思わせる、撮影時16才の美少女。ほんの中学生ぐらいの無邪気さから、少女の柔らかな宝石のような輝き、そして娼婦の倦怠までを完璧に演じきる。しかもやたらと行水好きだ(てゆーか、そもそも原題が「天浴」=露天行水のことなんだけど) ボディダブルながらヌード/SEXシーンまである。これもジョアン・チェンがハリウッドで身につけたサービス精神か(嬉しいけど) ハンバート・ハンバート役は小林稔侍 似のロプサン。チベットの名優だそうだ。若い頃のケンカの制裁でチンポコを切断されたという設定で、少女を愛しつつ、ただ見守るしかない・・・無知無学ゆえ少女を救う術を識らず、その転落を見ているしかない・・・哀しい男。この辺りは「春琴抄」か。 ● 1人で製作・監督・脚色を手がけたジョアン・チェンは1961年、上海の生まれ。つまり劇中の少女と同世代である。本人は14才で上海撮影所に入所、16才で女優デビューしてるから下放の経験はないはずだが、同世代の少女たちが味わった苦難を知らぬはずもない。本作は、その内容ゆえに政府から撮影許可が下りず、中国奥地でゲリラ撮影を行なったとの事。国内で上映される機会は永遠に無いだろう。そればかりか二度と入国許可が降りないかも。ジョアン・チェンはそれでも断固として祖国へ落とし前をつけたかったわけだ。

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スパイシー・ラブスープ(チャン・ヤン)

あれ?これ中国映画なのか。予告篇を観て台湾映画だとばかり思ってた。クレジットタイトルが簡体字じゃなかったら、最後まで台北の話だと思ってたかも。いまや北京の暮らしは台北あたりとまったく変わらないレベルなのだな。てゆーか、この映画がそれだけ垢抜けてるってことか。 ● オープニングは結婚間近のカップルのスケッチ。初めてのカノジョの両親との会食で緊張気味のカレシ。おまけに前日のデートで食べた火鍋にアタッたらしく朝から腹痛が。とうとう我慢できずにトイレに駆け込んだその個室のドアにクレジット「監督・脚本:チャン・ヤン(張揚)」 このセンス!…29才の新人監督である。 ● このマリッジ・ブルー気味の結婚準備中カップルのスケッチをブリッジにして、(1)録音マニアの中学生の初恋、(2)“マージャンお見合い”をする初老の寡婦、(3)オモチャ遊びにハマる倦怠期の夫婦、(4)両親の離婚を阻止すべく奮闘する小学生、(5)街角で運命的な出会いをしたカップル…のエピソードが描かれるオムニバス映画。(1)以外にはすべて中華料理が効果的に使われていて(別の映画の原題だけど)まさしく「飲食男女」といったところ。人間を信じる基本線に貫かれた脚本が抜群に巧い。登場人物たちに注がれる“視線の位置”は「ラブゴーゴー」「熱帯魚」のチェン・ユーシュンに通じるものがある。(5)だけ突然ウォン・カーウェイ調なのでありゃりゃと思ってると、これも鮮やかなオチがつく。お見事。次回作を待望する。

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梟の城(篠田正浩)

(キネマ旬報のインタビューに答えて)「知れば知るほど司馬(遼太郎)作品には手をつけまいという思いは強くなった。なぜなら、人物描写だけでなく、うねるような時代のダイナミズム、歴史の背景やスペクタクルまできちんと描かなければ、物足りないものになってしまうから」・・・そこまで判っていて なぜ作るかなあ?>篠田正浩。 ● ということで司馬遼太郎の匂いは一切なし。娯楽忍者活劇としてもゆるゆるのぬるぬるなんだが、絢爛たる時代絵巻として絵ヅラを眺めてる分にはそこそこ楽しめる。篠田正浩がダメなのは、血沸き肉踊るアクションやサスペンスの醸造をないがしろにして、主人公の忍者が秀吉を暗殺すべく寝所に忍びこむ全篇のクライマックスとなるべきシーンで、勘違いも甚だしい芸術映画ごっこを始めてしまう辺りの無自覚さだ。いい加減、他人の金つかってオナニーするのはやめてくれ。てゆーか、引退宣言したんじゃなかったのか?>篠田正浩。 ● 主演の中井貴一は、ともかく時代劇の芝居をしようとしている点を評価する。浮いて見えるのは中井の所為ではなく、まわりが時代劇の芝居をしてないからだ。特に鶴田真由・葉月里緒菜の女優2人と上川隆也は最悪。台詞ひとつまともに言えないのなら時代劇には出るなって。あと、これは脚本・演出の責任だが「鶴田真由が服部半蔵に仕込まれたスリーパーくノ一で、いつ冷酷非情な暗殺者としての本性を現すか判らない」というサスペンスがまったく伝わらないので、ラストの隠れ里のシーンが「中井貴一と鶴田真由が2人で呑気に暮らしている」ようにしか見えん(おれは後で監督インタビューを読んで初めて理解した) 意外な収穫は敵方の甲賀忍者を演じた永澤俊矢。ヤクザもののVシネだけじゃなく時代劇もいけるじゃないか。あと、小沢昭一が出てたのは嬉しかったね。 ● CGのお蔭で今までは不可能だった「安土桃山時代の城下の全景」などというカットや、撮影使用不可の国宝建築物と役者の芝居を合成するなんて力技も可能になったわけだが、合戦のシーンの旗竿や幟などを見るとまだまだ合成のエッジが甘い。これは技術の所為か、時間の所為か、予算の所為か…。

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あつもの 杢平の秋(池端俊策)

「あつもの」とは「厚物」、モンブラン・ケーキのように肉厚に咲く(=咲かせる)観賞用の菊花のこと。この映画はその「あつもの」の栽培に人生のすべてを賭けて、身を持ち崩しちまったジジイたちの物語である。菊を作らせたら日本一だが、人間的にはスケベで強欲で、人を騙して何とも思わないクソジジイを演じるヨシ笈田(よし・おいだ)が素晴らしい。いちおう物語の中心にいるのは(タイトルロールでもある)緒形拳のクソ面白くもない真面目ジジイなのだが、「自分に降りかかってくる物事をすべて呆然と受け流すしかない、自分からは何もしない、できない、愚直な老人」という役なので、ヨシ笈田の堂々たる変態ぶり(c)今村昌平の前では、すっかり霞んでしまう。ま、もちろん緒形拳がきっちり受けに回ってるって事だけど。でもってあんまりジジイばかりでは華がないので、小島聖が「小遣い銭欲しさに援交する音大生」というリアリティあんだか無いんだかよう判らん役柄で風呂上りの巨乳ズドンとした裸身を披露している。 ● 監督・脚本はこれがデビュー作の池端俊策。テレビの世界で脚本家として名を成した人だそうで、なるほど脚本の完成度は完璧かもしれん(地味だけど) 菊の花はもっと妖しく撮ってもよかったのでは?

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I love ペッカー(ジョン・ウォーターズ)

ジョン・ウォーターズのホームタウンである、変人奇人のホワイト・トラッシュばかりが暮らす愛すべき街、ボルチモアへの愛にあふれたご近所コメディの佳篇。その一方で、大都会ニューヨークは「スノッブ連中がスカしてるだけの嫌味ったらしい街」として描かれる。とても“バリー・レヴィンソンのボルチモア”や“マーチン・スコセッシのニューヨーク”と同じ街とは思えないが、これは決してジョン・ウォーターズが意図的に歪曲して描いているわけではない。彼の目には世界がこのように映ってるってだけの事。 ● ジョン・ウォーターズの世界観はオープニング・クレジットから明らか。彼は、前作「シリアル・ママ」では白い皿の上にベチャッと叩き潰された蝿の屍骸に、そして本作ではゴミ缶の中でシャカシャカ交尾にはげむネズミの画面に「監督・脚本:ジョン・ウォーターズ」と署名するのだ。 ● 主人公のカメラ少年、ペッカー君にエドワード・ファーロング。この所なんとなく陰気な感じだったが、本作では田舎者の好青年を自然に演じている。コインランドリーのマネージメントに情熱を燃やす、地元大好きなヒロインに、不機嫌顔がとってもキュートなクリスティーナ・リッチ。無自覚な悪意にあふれたNYの画商にリリ・テイラー。「ホーンティング」の似合わない役から開放されて見違えるようにイキイキしてる。そうそう、やはりアナタはこちら側(<どちら側?)の人なんだよ。 ● ちなみに、このタイトルって「ちんちん大好き!」って意味だぞ。いいのか?>ヘラルド映画。

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ハード・キャンディ(ダレン・スタイン)

高校でブイブイいわしてる3人娘が、悪ふざけで友だちを死なせてしまい…という話。メインタイトルが出る前には死体が出来あがってるテンポの良い語り口。いわばジョン・ウォーターズのテイストと、テリー・ギリアムのスタイルで描いた、ブラックな「25年目のキス」である。もうちょっとエロがあれば文句なかったんだがなあ。しかし明らかにティーン向けの企画であるのに、こういうバッド・テイストな映画がフツーに作られてしまうアメリカ映画の現状ってのは、喜んでいいのか…(←なぜか突然 良識派の発言) ● 「たかが友だちを殺したぐらいで人気者の座をドブに捨てる気はないわ」と隠蔽工作にはげむ悪魔のような女子高生にローズ・マッゴーワン。顔にでっかくビッチと書いてあるブタ女。最後に報いを受けて酷い目に遭っても観客がこれっぽっちも同情を感じなくて済む、という これ以上ない適役と言えよう。良心の呵責から仲間を離れる善玉女子高生にレベッカ・ゲイハート。シャーロット・ランプリング系の鶏ガラ顔がなかなか。地味で奥手な醜いアヒルの子として登場して、ローズ・マッゴーワンの手ほどきでスーパー・ビッチへと変身する娘にジュディ・グリア。変身前の方がゼッタイ可愛いと思うのは、おれがギークな証拠?(火暴) 地味な担任教師にキャロル・ケイン。「オフィスキラー」まんまのキャラなので、いつ生徒を殺し始めるかとハラハラしたよ(うそ) 女刑事にパム・グリア姐さん(なぜか途中で消えちゃう) 監督・脚本のダレン・スタインはこれが長篇2本目の26才。 ● これ、原題が「JAWBREAKER(アゴ外し)」つって、テニスボール大のバカでっかいアメ玉の事なんだが、「ハード・キャンディ」って日本語タイトルは原題のスケベなニュアンスまで移し変えた素晴らしい邦題だと思う。

★ ★ ★
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(トーマス・ヤーン)

これもドイツ映画。「悦楽晩餐会」「ラン・ローラ・ラン」「バンディッツ」など、最近公開されたドイツ映画には例外なく「○○○○(←ハリウッド大作の名が入る)を押しのけてドイツで記録的ヒット」てな惹句がついている。本作のチラシ裏にも「本国ドイツで350万人を動員、その年のドイツ映画動員数1位を記録し、ドイツ映画史上空前の大ヒットとなった」と書いてあるんだが、どれが本当の1番なんだか誰か教えてくれ。 ● 脳腫瘍と骨髄癌で死を宣告された2人の若者が、トランクに大金の入ったギャングのクルマを盗んで海を目指す。だって死ぬ前に海が見たいから。いろいろあって、やっとのことで海へ辿りついた所で力尽きる。ドイツのバンドがカバーしたタイトル曲が流れる「♪母さん、バッジを外してくれ。もう用なしだ。昏くなってきた。よく見えないよ。どうやらぼくは天国の扉をノックしてるみたいだ」・・・なんか書いててサイテーの映画って気がしてきたが、実際はそれほど酷くはない。最後まで退屈しないし、「主人公たちを追いかけるマヌケなギャング2人組」というお約束のキャラもそれなりに笑いを取る。ま、それだけだが。「最後に出てきて美味しい台詞をちょろっと喋る」という丹波哲郎のような役どころでルトガー・ハウアーが特別出演している(別にカメオじゃないのにチラシでは言及なし。なぜ?>K2エンタテインメント)

★ ★ ★
皆月(望月六郎)

これは「痛み」を描いた映画である。イタイ、イタイタシイ、イタマシイ、イタタマレナイ、イタワル…そんな感情についての映画だ。原作が花村萬月なので痛々しいバイオレンスに満ちている。脚本が私脚本家・荒井晴彦なので居たたまれないセックスに満ちている。監督が望月六郎なのでハードボイルドな厳しさに満ちている。でもってエンディングの主題歌は下田逸郎・作、山崎ハコの歌、下田逸郎&憂歌団の内田勘太郎のギターによる「早く抱いて」だ。…ま、統一のとれた世界観では、あるな。 ● 奥田瑛二はクソ真面目な建築設計士。巨根だけが取柄のつまらん男で、ある日とうとう女房に貯金ごと逃げられちまう。その女房の弟ってのが新宿2丁目あたりを縄張りにしてるヤクザで、なにかと世話を焼いてくれる。高級ソープ嬢を巨根でメロメロにしたりもする。こうして前半1時間かけて、平凡な男がだんだんと変容していく(道を踏み外していく)様を描く。で、後半が、奥田瑛二と義弟とソープ嬢の3人で、寒風吹きすさぶ北陸能登半島へ、逃げた女房捜しの旅に出るという展開。 ● 奥田瑛二はいつもの奥田瑛二。望月六郎には奥田瑛二と石橋凌 禁止令を出したほうがいいんじゃないか。その分、映画をさらって行くのが義弟役の北村一輝。得意とするエキセントリックなヤクザ役なので新味はないが、過去最高の名演技。ヒロインに吉本多香美。ソープ嬢なので当然、脱ぎまくり&ヤリまくり。スケベ椅子の前に膝をついて背中と尻をクネクネさせてるのを上から見下ろしたショットなんかもう…あ、いや。文字通り体当たりの演技で、映画の進行とともに1人の女優が誕生する瞬間がフィルムに焼き付けられている。逃げた女房に荻野目慶子。顔がコワ過ぎ。白塗りしてるみたいだぞ。


M/OTHER マザー(諏訪敦彦)

別れた女房が交通事故に遭って9才の息子の面倒が見られないので、主人公の中年男は仕方なく子供を自分の家に連れて来る。すると同棲している若い女は同情するより先に「なんで前もって相談してくれなかったの」と不貞腐れる。この後 2時間もこのブータレ女に付き合うのは真っ平なので20分で出てしまった。 ● デビュー作の「2/デュオ」を未見なので これが初見となる諏訪敦彦だが、虚構のエンタテインメントを愛するおれとしてはこの手の、かっちりとした脚本もなく 現場でのインプロヴィゼイションを重視した、作為を否定するかのような映画は無駄が多すぎて嫌いだ。

★ ★
マーサ・ミーツ・ボーイズ(ニック・ハム)

「マーサはフランク、ダニエル、そしてローレンスと出会った」ってのが原題。ま、その通りの内容で、たいして可愛くもないヤンキー娘がロンドンで、自信家の金持ちチビ、イヤミな貧乏役者(元子役)、甲斐性なしのウジウジ男と出会うが、じつは彼ら3人は親友同士だった!という話。当然この3人が1人の女をめぐって争うんだと思って観てると、なんと女は最初からウジウジ男と互いに一目惚れしてしまうのだ。普通は それじゃ話にならんのだが、作者はこれを時間差叙述トリックで切りぬけようとする。つまりチビの一人称(フラレる)→イヤミの一人称(フラレる)→ウジウジの一人称(結ばれる)という具合に。そんな事してもストーリーが無い事実に変わりはないぞ。 ● おれの評価が冷やかなのは、よーするにヒロインのモニカ・ポッターが魅力的じゃないからだ。魅力的なワガママ娘という役柄から「魅力的」という形容が抜けたらただのワガママ娘である。相手役のジョセフ・ファインズもしょせんウジウジ男だし。イヤミ男に(ケネス・ブラナーの「ハムレット」「オセロ」でも眼光鋭い存在感を見せていた)「ダークシティ」のルーファス・シーウェル。

★ ★ ★ ★
プリティ・ブライド(ゲイリー・マーシャル)

自分の魅力的を知りつくしたスターと、スターを輝かせる術を一から十まで心得た監督による横綱相撲。結婚式の最中に3度も「逃げた花嫁」(=原題)などというどう言いつくろっても説得力のないキャラが、この上なくチャーミングに見えるのはそれがジュリア・ロバーツだからだ。それまでさんざん女性をコキおろすコラムを書いてきた無神経な都会男が、高級車で乗りつけた田舎町ですんなりと受け入れられても不自然に見えないのはそれがリチャード・ギアだからだ。正確に言えばゲイリー・マーシャル監督が、ジュリア・ロバーツをジュリア・ロバーツらしく、リチャード・ギアをリチャード・ギアらしく見えるように演出してるからである。じつはサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーでも代替可能なストーリーなのだが、それではここまで幸福な映画にならないのは言うまでもない。 ● 「ノッティング・ヒルの恋人」が100%ヒュー・グラントの映画だったように、本作は完全にジュリア・ロバーツの映画である。まるでアテ書きのように役にハマッていて魅力全開。脇にもジョーン・キューザック、リタ・ウィルソン、ヘクター・エリゾンドなど芸達者が揃っているのだが、シチュエーション・コメディの法則からすれば、もう少し脇役の奇人度が高くても良かったかも。それと1時間55分は長過ぎ。

★ ★ ★ ★
どこまでもいこう(塩田明彦)

多摩ニュータウンに住んでいる小学5年生の男の子を主人公にしたハードボイルド・ドラマ。あらすじだけ聞けば、何てことはない小学5年生の日常スケッチなのだが、これが2本目となる新人・塩田明彦は「ワンパク○○○」といったタイトルの公民館でやる類の児童映画にはせず、かといって大林宣彦が撮るようなノスタルジックなジュブナイル映画にもせず、(たまたま子供が主人公の)友情と別離のドラマとして真剣に向き合って描いている。そう、それが10才の子供であっても、この人生 なかなか大変なのだ。 ● 子供たちがみな良い顔をしてる。中でも、はかなげな声の同級生を演じた鈴木優也が素晴らしい。ヒロインの芳賀優里亜はすでにこの歳で男を手玉にとる堂々のファム・ファタル。撮影はピンク映画でも活躍中の鈴木一博。リアリズム調の画なので勘違いされがちだが、これは100%事前に計算されて作られたエンタテインメントである。主人公の親友をダークサイドへと引きずりこむ悪の転校生の描き方を見よ。「史上最大の作戦」のテーマが高らかに鳴りわたる75分の傑作。 ● あと、これは観た人にしか通じないが、ラストはあの絵で終わった方が良かったのでは?

★ ★ ★
娼婦ベロニカ(マーシャル・ハースコビッツ)

衝撃のラストってのはこの事だな。ミステリーじゃないのでネタを割ってしまうが、これ、なんとハッピーエンドなのである。舞台は16世紀のベニス。身分差ゆえに結婚できぬ恋人との愛に生きるため、自由恋愛を許された唯一の職業である高級娼婦の道を選んだ1人の女。だが、恐怖の宗教裁判が自由と芸術の都ベニスにも及んできた。…ってこの展開でどうして「欺瞞よりも愛を選んで、毅然と死んでいくヒロイン」以外の終わり方があるというのか! ある意味「歴史は夜、作られる」でタイタニックが沈まなかったとき以来の衝撃といえよう。おれはエンドロールの間、開いた口がふさがらなかった(いやマジで) ● じつを言うと予感はあったのだ。脚本も演出もキャスティングも、あまりにも判り易いハリウッド映画そのものだったから。いや、判り易いのは結構だが、いくらなんでも時代劇にはもう少し見栄とか様式ってもんが必要じゃないのか。少なくとも、姉妹篇として宣伝されている「恋に落ちたシェイクスピア」にはそうした格調が備わってたぞ。 ● 娘に「彼と結婚できないの」と言われて「じゃあ娼婦になればいいのよ、…私みたいに」「え、母さん、娼婦だったの!?」と唖然とする娘を、率先して美しく聡明な高級娼婦に仕立て上げる母親にジャクリーン・ビセット。もう相当の歳だと思うが、美貌はこれっぽちも衰えず。ヒロインのベロニカには「スカートの翼ひろげて」のキャサリン・マコーマック。なるほどジャクリーン・ビセット系の美人で、娼婦の役だからヌードも大盤振舞い…って別にヌードにならなくても成立する話だと思うが、これも前述のハリウッド式サービス精神ってやつか(嬉しいけど)

★ ★ ★ ★
タイムトラベラー きのうから来た恋人(ヒュー・ウィルソン)

こりゃ「ビッグ」だな。なるほどブレンダン・フレイザーはトム・ハンクスだったか。 ● 「常識知らずの純真さが現代社会の非常識をあぶり出す」あるいは「何も持っていない者が我々に欠けているものを思い起こさせる」というアメリカ映画の古き佳き典型を「ポリス・アカデミー」「不機嫌な赤いバラ」「ファースト・ワイフ・クラブ」の手だれヒュー・ウィルソンが品良く料理したハートウォーミング・コメディ。ゲイのルームメイトが、ヒロインに恋心を自覚させるシーンの、使い古されたパターンだが、今なお新鮮に胸トキメかずにはおれない演出の上手さを見よ。エンディングのランディ・ニューマンの主題歌もお約束。 ● 今までマヌケさばかりが目立っていたブレンダン・フレイザーはジミー・スチュワート以来の伝統キャラを見事に体現。ヒロインはアリシア・シルバーストーン。いろいろ辛い時期もあったようだが、いつの間にか大人の女優になっていて何より^^) そして、この2人なかりせば本作は成立しなかったであろう怪演を見せてくれるクリストファー・ウォーケンのコミュニスト嫌いの人道的マッド・サイエンティスト父ちゃんと、シシー・スペイセクの呑気な母さん!

特集上映「若松孝二の軌跡」

新しく出来たラピュタ阿佐ヶ谷という映画館に若松孝二の特集上映を観にいった。北口商店街の雑然とした路地の奥、洒落た造りの4階建てビルが出現する。映画館はその2階部分。わずか50余席ほどの こぢんまりとした瀟洒な場内だがBGMがいきなり三上寛だ(土地柄か?) ● 本日の1本目は「聖母観音大菩薩」(1977) ★ ★ ★ ★ 「『愛のコリーダ』で藤竜也と本番ファックの松田瑛子 主演」てのがウリのピンク映画。こいつが極めつけのトンデモ映画だった。舞台は福井県 敦賀湾に面した海岸の町。松田瑛子は人魚の肉を食って800年生きた尼僧、八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の生まれ変わりと信じてるキチガイ女の役で、海岸の掘建て小屋に住み着いている。女と一緒に暮らしてるのが第五福竜丸で被曝した全身ケロイドの老人(殿山泰司)で「故郷を追われてここまで流れ着いたが、おれをこんな身体にした奴は形を変えておれを追って来やがる」カメラが切り替わると敦賀湾の向こうには…敦賀原発! 不老不死の女は「わたしの生を吸って長生きしてぇ」と激しいセックス。だが無理な運動を強いたために老人は頓死「…生を吸ってたのはわたしの方だったのね」<おい。 次に掘建て小屋に逃げ込んで来たのは官憲に追われるアイヌの青年(蟹江敬三)。女に襲いかかると「ヤマトの女を片っ端から犯して、おれの子種を広めてやる!」この青年も追っ手につかまり、ほどなく退場。次に登場するのは盲瞽女(めくらごぜ)(鹿沼えり) 敦賀原発の所長に襲われていたところを助けて掘建て小屋に連れてくる。瞽女が言うには「わたし実は狐憑きなんです。あなたが本当に比丘尼なら わたしを助けて!」「わたしに出来ることといえば…さあ、わたしの生を吸って長生きして」で、レズ・セックス<おいおい。とはいえマン汁すすったからって助かるはずもなく、狐憑きの瞽女は悲しくコーンと鳴くと入水自殺。残された女は海岸で瞽女の遺した三味線をジャカジャカ弾きながら「あなたの生がわたしの中に!」<おい、こら! さて、瞽女を襲った敦賀原発の所長はインポで、カタワの女にしか興奮しない変態である「いまは良い時代だよ。世界中のどこかしらでテロや戦争をやってるからカタワの女には事欠かん」自分の性向を知った以上、生かしてはおけないと、ヒロインを襲うが、おお我がしなだれチンポがビンビンに!「そうか!今まで異常な女を求めてきたが、異常な女がいなければ、異常な状況を作ればよいのだ」というわけで、所長は変態から痴漢レイプ魔にめでたく転向。お次は、親兄弟&村の衆から「死んでお詫びをしろ」とリンチに遭っていた爆弾過激派の若者(石橋蓮司) 「おれは死にたくない。生きて革命をこの目でみたい」という若者に「じゃあ わたしの生を(以下略)」で激しくセックス。でも結局、若者は絶望して自ら爆死・・・というわけで結局ヒロイン以外は皆殺しである。それって聖母観音大菩薩じゃなくて疫病神では? でも、実はいちばん恐ろしいのは、これ、決して冗談で作ってるわけじゃなくて、脚本の佐々木守と若松孝二は100%マジで左翼映画を作ってるつもりだって事だよな。ちなみに本作には、巫女のバイトをしてる女子中学生という もう一人のヒロインが登場する。不老不死の松田瑛子への対照として純真さを象徴する存在なのだが、これを浅野温子が演じている。「スローなブギにしてくれ」のさらに4年前だから、まだ16才。リンゴほっぺ&お餅唇の初々しい少女である。この作品、どうも彼女の公式プロフィールからは抹消されているようだが、もちろんピンク映画だからヌードありだ:) ● 「明日なき街角」(1997) ★ ★ ★ 「標的 羊たちの哀しみ」(1996/ビデオ上映) ★ ★ ★ は共に北方謙三の原作。お得意の北方節、躯のなかに獣の血を秘めた男たちの物語である。「明日なき街角」は金子賢と的場浩司の共演。敵同士として登場した2人が獣の血を共鳴させて壮絶な共闘を展開する話。「標的」は平凡なサラリーマン(佐野史郎)が獣の血を目覚めさせる話。日本のハードボイルドを映画化するときに必ずつきまとう問題として「小説では気にならなくとも、現実の俳優が口にするとコッ恥ずかしい台詞の存在」というのがあるわけだが、コツは「いかに照れずにやれるか」である。撮ってる本人が照れてちゃ絶対にダメなんだが、その点、若松孝二の“熱さ”はハンパじゃないのでこうした原作とも充分に拮抗できるのだ。 ● 封切り当時「こんなキワモノ面白いわきゃない」とバカにして観なかった「エロティックな関係」(1992) ★ ★ ★ は、意外にもちゃんとフォーマットに則ったハードボイルドだった。篠山紀信という名前の自己陶酔タイプで女に甘い私立探偵が内田裕也。“俳優”内田裕也をきちんと使いこなせる監督は若松孝二だけだ(きっと若松孝二のほうがケンカが強かったって事なんだろうな) キュートでしっかり者の探偵助手りえちゃんに宮沢りえ。まだ健康的で可愛かった頃の宮沢りえの魅力が全篇にあふれていて、彼女だけを見ていて見飽きる事がない。そして、奥山って名前のいかがわしいバブル紳士にビートたけし(この映画は奥山和由の製作なのだ)


飛ぶは天国、もぐるが地獄(若松孝二)[ビデオ上映]

(承前)で、レイトショーが出来立ての新作。いわゆる山荘ホラーである。「吹雪でバスが立ち往生、とある山荘に泊まる事になった旅行客が何ものかに襲われる」という話。これ本当に若松孝二が監督してるのか? だって製作費数十万円の自主ビデオのような貧しさと下手さだぞ。製作と脚本を月蝕歌劇団の高取英が手掛けているので、見知らぬ役者陣はおそらく劇団員のノーギャラ出演と思われるが、こいつらが目も当てられぬ酷さ。なにしろ、脱ぎ要員で出ている栗林知美の演技が一番マトモなのだから、他の悲惨さは推して知るべし。なお、女流作家 室井祐月が出演して無意味な乳出しを敢行している。 ● 若松孝二はピンク映画時代から素人役者を巧く使って熱気あふれる映画を撮ってきたはずなのに、ここでの演技指導も所作指導も放棄したかのような投げ遣りぶりは何故だ。まるでシロート映画のような切り返し繋ぎはなんなんだ! 脚本には出口出 名義がクレジットされているので若松本人も脚本に参加しているはずだが、若松らしい熱い志のカケラもない。フィルモグラフィの汚点(あ、フィルムじゃねえか) ● それと、これがビデオ作品のプロジェクター上映だという事を情報誌にもチラシにも劇場にも一切、告知してないってのはやっぱマズイだろよ。

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クルーエル・インテンションズ(ロジャー・カンブル)

こりゃ少女漫画だな。現実感の薄い舞台設定、キメキメの台詞、オーバーアクト、わざとらしい筋立て、おまけに主人公の名前がキャサリンとセバスチャンだ(いや、まあ原作がそうなんだが) およそ確信犯的な、これらすべての要素がプラスに作用して、下品で安っぽいソープドラマの傑作に仕上がった。なるほど人を傷つけて平気でいられる残酷な恋のゲームのプレイヤーとして、NYの金持ち高校生ってのはうまい処に目をつけたものだ。だからこそクソ面白くもない勧善懲悪のエンディングが残念でならない。ここは是非インモラルな終わり方にしてほしかった。 ● 残酷なゲームの仕掛け人をイキイキと演じるサラ・ミシェル・ゲラーは水を得た魚のよう。役者のレベルと映画のレベルがピタリと一致した好例である。プレイボーイ高校生に「54」のライアン・フィリップ。これもティーン・アイドルとしては完璧なパフォーマンス。きっと全米の女子中高生はウットリと股間を濡らしたことであろう。解せないのは、穢れを知らぬ百合の花のような処女ヒロインがリース・ウィザースプーンだって事。そりゃ達者だし愛嬌もあるが、胸だってそこそこデカいが、顔が濱田マリだぞ。いいのかそれで。

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1000の瞬き 都市情縁(ジェフ・ラウ)

香港映画特集に紛れてひっそりと1週間のみ上映。それも毎朝11時からのモーニング・ショー、しかも場所がキネカ大森くんだり・・・まったくどないせえちゅうねんという公開の仕方ではあるが、映画館で上映してくれただけ良しとしよう。「黒薔薇vs黒薔薇」「チャウ・シンチーのチャイニーズ・オデッセイ(西遊記)」のジェフ・ラウ監督、1994年の作品。 ● じつは「アンディ・ラウの逃避行(天若有情)」の“自発的な”パート3である。主演が前2作と同様、ン・シンリンであり、ヒロインの名前も1作目と同じジョジョ。また男側の保護者/厄介者的存在としてン・マンタ(呉孟達)が大きい役で出るのも同じ。ただヒーローを演じる役者がアンディ・ラウ→アーロン・コク→そして本作のレオン・ライと徐々にスケールダウンしているのはシリーズゆえの宿命か。心なしか出演者にも「また同じ役で同じ話かよ」と嫌々やってるような気配がうかがえる。そのような映画が面白いはずもなく、すべてが惰性の産物という悲しい映画である。 ● 脚本上の大きな計算違いは、レオン・ライ演じるチンピラがただのバカにしか見えないところ。何しろグレたきっかけが「小学生の時、悪ガキに取り上げられた蒸しパンを、親父が体を張って取り戻してくれなかった事を逆恨みして、親父に意気地なしのレッテルを張り、以来、非行に走る」ってんだから、何をか言わんや。おまけにこのバカは、いい大人になっても、しつこくその時の話を持ち出してはネチネチと、しがない仕立て屋で細々と生計を立てている親父を苛める人間のカスで、やがて人殺しの汚名を被せられた息子をかばって、親父が刑事たちに多勢に無勢で片ちんばになるほどボコボコにされて、初めて親父を赦すのである。何様のつもりなんだよオマエは!…いや、つい興奮してしまった。かようなバカを前にして観客が「どうかヒロインと結ばれて幸せになって欲しい」と願うと、本気でこの脚本家は考えたのか? 救いようのないバカである。 ● ちなみに邦題は「せんのまたたき」ではなく「せんのまばたき」と読むらしい。ヒロインの「千回まばたきをしたら好きな人と再会できる」という何の根拠もない思い込みに基づいている。

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グレイスランド(デビッド・ウィンクラー)

1959年型キャデラック・コンバーチブルの車体をえぐる無残な傷痕と、もがれたままの運転席側のドアが、2つの事を観客に明示する。すなわち「このクルマの持主は心に深い傷を負ったまま走りつづけている」という事と「これから物語られる映画はファンタジーである」という事だ。そう、これは「フィールド・オブ・ドリームス」と同種のファンタジーである。もっとも、甦ってくるのは父の亡霊ではなく、自らをエルヴィスと名乗る、プレスリーとは似ても似つかぬ外見のハーベイ・カイテルなのだが。 ● 前半は得体の知れないオヤジを乗っけちまって困惑する若者との厄介者ロードムービー。そして後半、田舎のカジノでのソックリさん大会の辺りから「リメンバー・ザ・キング」というエルヴィスの口癖が切実に観客の胸に迫ってくる。これはエルヴィス生存説をネタにしたファンタジーだが、本当に彼が生きているかどうかは問題の本質ではない。すべては自分の心の在り様なのだ。その意味では同じくハーベイ・カイテルが出演している「フェアリーテイル」にも通じるテーマ。 ● 監督はこれがデビュー作となるデビット・ウィンクラー。初めてとは思えぬ確かな腕前。ハーベイ・カイテルは文句なし。「サスピシャス・マインド(邦題わからん)」のステージングも完璧。マリリン・モンローのソックリさん役でブリジット・フォンダ。あのメイクとあの鼻にかかった声で1曲 披露するのは微笑ましいが、なにもフルコーラスやるこたあ無いんじゃないの?

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HEART ハート(チャールズ・マクドゥーガル)

「英国きっての人気脚本家ジミー・マクガヴァン最新作」だそうだがどうにも不可解な脚本である。「溺愛する息子がバイク事故死、その心臓が臓器提供される。息子を忘れられない中年女と、その息子の心臓を移植された中年男が出会う…」という設定からは、「男の体内にある息子の心臓を付け狙うサイコ・スリラー」か「息子の心臓を宿した男とのラブ・ストーリー」にしか持って行きようがないと思うのだが、なぜかこの脚本家は「男」と「男の妻」と「妻の浮気相手」の「ドロドロ愛欲三角関係もの」にしてしまう。<それじゃ主役の中年女の出る幕がないじゃないか!…いや、まさしくその通りで、結局、中年女を蚊帳の外に置いたまま、話は決着してしまう。また「他人の心臓を移植された男は、その心臓の影響を受けて性格が変わったりするものなのか?」という興味深い問題も、一言セリフで語られるだけで素通りされる。結局この脚本家は、面白くなりそうなポイントをわざとスカして、ただのつまらん話にしてしまった訳だ。 ● 主役の中年女に「バタフライ・キス」のサスキア・リーヴス。これはもっと「女」を感じさせる女優がやるべき。中年男に「エリザベス」でノーフォーク公を演じていたクリストファー・エクルストン。コスチューム・プレイでの武闘派将軍役から一転して普通の中年男を好演。男の妻にケイト・ハーディ。最初から最後までヤリまくる役なんだが、いかんせんアニー・レノックス似の不美人なので嬉しくない、…あ、いや、亭主が嫉妬に狂うだけの説得力がない。その妻の浮気相手に「ノッティング・ヒルの恋人」でヒュー・グラントの同居人を演じたリス・エヴァンス。相変わらずものすごい訛りでサイテーな嫌味野郎をイキイキと演じている。 ● あと、中年男の職業が小型機のパイロットなんだが、心臓に疾患のある奴に飛行機の操縦させるなよな、頼むから。

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go(ダグ・ライマン)

おれは「パルプ・フィクション」を世評ほど高く評価するものではないが、それでもニヤリとさせるところはあったからなあ。この、誰が観ても「パルプ・フィクション」を想起させるであろう30分x3のオムニバス映画を観ても、(1)「ユマ・サーマン(の偽物)が素人のくせにドラッグ商売に手を出して死にそうな目に遭いました」ふーん。 (2)「いかにも『トレスポ』や『ロック、ストック…』を思わせるイギリス人の若者が、ラスベガスのストリップ・バーで乱痴気さわぎをしました」だから? (3)「TV俳優のマイケル・J・フォックス(の偽物)は刑事に弱みを握られてドラッグの囮捜査をさせられました」それで?…ってなものだ。それって短篇としては致命的では? まあ、決してつまらない訳ではなくて、おれが「合わない」ってだけかもしらんが。 ● ちなみにソニー・ピクチャーズは、本作と、他に「クルーエル・インテンションズ」「ハード・キャンディ」「ヴァーチャル・セクシュアリティ」を、ハリウッドのニュー・ティーン・アイドルたちの映画、すなわち“NPG(ニュー・パワー・ジェネレーション)”という括りで宣伝していて、そのうち「クルーエル…」を除く3本を都内1館で連続ロードショーしている。まあ要はB級ティーン・セックス映画なのだが、パッケージする事によって若者にアピールしようというソニーの狙いは悪くない(と思う) だが、その上映館ってのが新宿ピカデリー4だ。ご存知ない方のために解説すると此処は元・雀荘で席数は50席ほど。ロビーすらない。しかも手を伸ばせば天井に届くほど天井が低い、つまりスクリーンが死ぬほど小さい(目測でタテ1.5m、ヨコ2.5mほどか) おれは名画座育ちなので映画館に対しては寛大で、ガード下の新橋文化や、地下鉄の真上の銀座シネパトスでも全然 気にならないが、その おれの基準からしてもこの新宿ピカデリー4(と新宿東映パラス3と新宿文化シネマ3&4)は映画館とは認めたくない・・・そんなコヤなのである。ダメじゃん、それじゃ。

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バーシティ・ブルース(ブライアン・ロビンス)

高校アメリカン・フットボールの熱血青春もの。「あのMTVが製作した映画」と聞くと、中身のない、映像と音楽だけで見せる映画かなと想像するが、どうしてなかなかまっとうなスポーツドラマである。 ● 「ノース・ダラス40」以来の伝統として、ここでも戦う相手は〈相手チーム〉や〈自分自身〉というより、非人間的な選手管理を強要する鬼コーチ(&それに代表されるアメフト産業&それに依存するアメリカの社会システム)なのだが、同じ人気スポーツを題材にした映画でも、アメフトだとそーゆーシリアスなテーマになって、ベースボールだとより単純で能天気なやったるぜ!映画になるのは何故なんだろう? ● おれがこの映画に好感を抱くのは、脚本がキャラクターひとりひとりに敬意を払って書かれているからだ。例えば猪突猛進のラインマンの百貫デブがいて、こいつが「蒼白な顔で頭痛を訴えてるのに、コーチが無理やり試合に出させる」という展開があって、普通なら間違いなくこいつを殺してドラマを盛り上げるべきところなのに、この脚本家はそれをせず、最後にはこのデブに大活躍の場を用意して観客の喝采を招く。あるいは、典型的なブロンド美人のチアリーダーがいて、カレシであるスター・クォーターバックが骨折して将来を棒に降ったと知った途端に、本篇の主人公である控えQBを家に呼んで、おっぱいとアソコにクリームを塗ったくっただけのすっ裸で「アタシを食べてぇん」と迫って来る。ま、当然この手の展開の常として主人公は誘いを(勿体なくも)断ってしまうわけだが、作者はこの浅はかな女の娘を酷い目に遭わせたりはせず、あくまでも愛情を持って遇するのである。そうした態度は、弁護の余地のない悪役である鬼コーチのジョン・ボイトに対してすら一貫していて「ついに悪を打ち滅ぼした。バンザイ、バンザイ!」という演出はせず、静かにフィールドを去る名優の威厳ある姿をカメラに収める。こうした場面から感じられる爽やかさは、登場人物が1人としてストーリー進行の犠牲になっていない事から来るものだ(ちなみに、こうした作劇の対極にあるのが、話を面白くするためなら赤ん坊でも平気で殺す香港映画<それはそれで好きだが) ともあれ、安易なパターンを避けたことが、結果としてドラマの質を高めている。 ● 主演はテレビシリーズ「ドーソンズ・クリーク」のドーソン役で人気が出たジェームズ・ヴァン・ダー・ビーク。しゃくれ顔のパトリック・スウェイジという感じで、ハリウッドでの一枚看板はちょと厳しいか。場をさらう百貫デブのビリー・ボブに、新人コメディアン、ロン・レスター。こちらはジョン・キャンディ亡きいま、これからの活躍が期待できそう。

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ベオウルフ(グラハム・ベイカー)

「ハイランダー」以来(…って事は、ほぼ「映画俳優としての全キャリアを通じて」って意味だが)物語の設定や主人公の名前が変わっても同じ役を演じつづけているクリストファー・ランバートの新作。「ベオウルフ」ってのは英国古来の作者不詳の英雄叙事詩だそうだが、その「邪神と人間の間に生まれた子が、自分の存在を正当化するために、邪悪なる者を滅ぼす終わりなき旅を続ける」という設定だけ借りて、「モータル・コンバット」の製作者が映画化、…つまり、アクション・シーンになると大音量のハードコア・テクノが鳴り響くドラマ不在&CG多用の映画にしあげた。 ● 終末戦争を経て中世の暗黒時代に逆戻りしたような近未来。アーサー王の時代のコスチュームや倫理観と、現代のテクノロジーが共存する奇妙な世界設定がなかなか魅力的。「七変化の妖怪淫獣とのセクシュアル・デス・バトル!」とソニー・ピクチャーズがアオるほどにはエロ全開じゃないのが残念だが、色っぽいネエちゃんが色っぽい格好で登場してくれるので、まあ良しとしよう。 ● もう少しマトモな監督を連れて来れば、“かなり見られる映画”になると思うので、どうせ作るつもりであろうパート2の際には、よく考慮するように>関係者。

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ディープ・ブルー(レニー・ハーリン)

“人間ドラマに興味のない男”レニー・ハーリンがアクション映画魂を爆裂させたサメ映画。「密室に閉じ込められた数名の人間が、人知を超えた敵に一人また一人と食われていく」というだけのストーリー。シンプルな状況を設定したら、あとはひたすらサスペンス演出に全精力を集中。食われる人間は(観客に区別がつくように)最低限のキャラクターだけ与えられ、個々のドラマはいさぎよくすっ飛ばされる。本作においてすべての登場人物は「サメに食われる餌」以上の意味を与えられない・・・アクション映画の監督として、じつに正しい態度である。レニー・ハーリンはキャストの事をおそらく迷路に放った二十日ネズミぐらいにしか考えていない(もちろん彼の興味の対象はネズミにではなく迷路の仕掛けの方にある) 観客は余計なサイドストーリーに煩わされることなく、最後まで手に汗にぎって楽しめばよい。そしてエンドクレジットが流れ始めた瞬間に、キレイさっぱり内容を忘れてしまえば良いのだ。いやあ、じつに正しいアクション映画ではないか。おれも、これ以上べつに書くことはない。あ、ヒロインの「エイリアン」風サービスショットあり。


駅弁(梶俊吾)

100%の確信をもって断言できるが、日本映画を駄目にしたのはこいつのような連中だ。爆笑問題の太田光に似た この梶俊吾という男は、日活芸術学園を卒業、今はAVメーカーのオーナー監督。AVを商売にしているのにAVを見下してる、AV女優のおかげでお飯が食えてるのにAV女優をバカにしてる、社員を育てることも出来ず、女優を怒鳴り散らすことを演技指導だと勘違いしてる、そんな、鼻持ちならない人間のクズである。「撮りたいものがない奴は辞めちまえ」だと? 映画監督ってのは技術職なんだよ バカ。お前のような自意識過剰の、芸術家きどりの、独り善がりが日本映画を駄目にしたのだ。自分の仕事に誇りも持てないような奴がまともな作品を撮れるわけもない。「確定申告の職業欄に“AV男優”と、屋号は“チョコボール向井”と書く」と語り、駅弁ファックのヤリ過ぎでギックリ腰になってもAV男優を続けるチョコボール向井のチンポのカスでも煎じて飲むべきである。 ● ま、これは自作自演ドキュメンタリーの形式をとったフィクションだし、実名で本人役を演じてるこの男も、ある程度は作ったキャラなんだろうが、何のためにこれほど不快な人物にする必要があったのか。今年いちばんキライな奴だ。普通なら10分で出てしまうクズ映画を白鳥さき(=里見瑶子)目当てで最後まで観てしまった自分が情けない。 ● しかし英語字幕が付いてるのは何のためだ? まさか、こんな恥さらしな代物を海外に持って行くつもりじゃあるまいな。

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迷宮のレンブラント(ジョン・バダム)

「サタデー・ナイト・フィーバー」「ブルーサンダー」「ウォー・ゲーム」「ショート・サーキット」「張り込み」「バード・オン・ワイヤー」「ハード・ウェイ」「アサシン」「ニック・オブ・タイム」とタイトルを並べてみると、今更ながらジョン・バダムとはじつに可もなく不可もないプログラム・ピクチャーの名手なのだなあと変に感心してしまう。だがそうした職人技をもってしても、この「迷宮のレンブラント」は御しきれなかったようだ。 ● 「贋作者が殺人事件に巻き込まれて、裁判で自分の作品を偽物だと“証明”しなければならなくなる」という逆転の発想は面白い。この裁判部分のプロットが本筋とならず中途半端な逃亡サスペンスでお茶を濁してしまうような脚本の未整理が敗因。見所は贋作を仕上げる過程のテクニカルな興味のみ。 ● ジェイソン・パトリックとイレーネ・ジャコブというメインキャストもいかにも地味(いちおう濡れ場もあるんだが) 元画家で、贋作者である息子の自身の名前での成功を願う父親に扮したロッド・スタイガーが、出番は少ないながら出色。ほんま、役者やのう。 ● この映画、東京ローカルでは↓の「…ワイルド」と同じ劇場で入替上映していて、「迷宮のレンブラント」は昼の部で、夏休みでもないのに最終回がなんと午後1時50分だ。いったい誰に見せるつもりなんだよ!>東宝東和&日比谷シャンテ・シネ。

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Born to be ワイルド(ウィリアム・ディア)

ワンパク三兄弟が夏休みにアリフレックスの16ミリ担いで、野性動物もとめてアメリカ大陸を東へ西へ、というお話。わりと正統的な(出来のぬるい)ワイルド・アドベンチャーもの。チラシによると三兄弟は3人とも「全米ティーンのアイドル」だそうだが、おれは1人も知らん。ナショナル・ジオグラフィックなどで有名なドキュメンタリー映像作家で、本作のプロデューサーでもあるマーク・ストーファーの自伝的作品だそうだが、ドキュメンタリストの自伝がこんなホラ話みたいなお気楽な代物でいいのか? エンドロールに(マーク・ストーファーが撮ったとおぼしき)ドキュメンタりー映像が流れるのだが、これが本篇より面白い。

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家族シネマ(パク・チョルス)

朝鮮人のパチンコ屋一家の娘が、成人してAV女優になる。崩壊/離散した家族の惨状を監督に話したら「ぜひ君の家族をドキュメンタリー映画にしたい」って事で、散り散りになっていた家族がひさびさに再会、“家族シネマ”の撮影が始まる…って話で、おれはとーぜん「逆噴射家族」「家族ゲーム」「木村家の人々」のような狂騒的コメディを期待して観に行ったのだが、原作者の私怨に満ちた辛気臭い私小説だった。日韓混合スタッフ/キャストによる作品だけあって、日本映画の貧乏臭さと、韓国映画のジトッとした部分が相乗された、なんとも堪えがたい映画。映画にするならエンタテインメントにしろよな。30分で退出。

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ホーンティング(ヤン・デ・ボン)

一見 ホラー調だが、じつのところ誰も死なないファンタジー映画。では子供向けかというと、それにしてはストーリーが重たい。だいたい「お化け屋敷映画」を楽しみにきた客に向かって、いきなりヒロインの辛気臭い身の上話から語り始めるのは如何なものか。その上、次のシーンでは登場人物みずからが物語上の秘密をべらべら喋り始めるし。頭悪いんじゃねえか>脚本家。どう考えたってキャストが三々五々、お化け屋敷に集まるシークエンスから始めるべきだろうよ。 ● 「大学教授が“不眠症の実験”と称して被験者を屋敷に集める」って設定なのだが、被験者が4人だけってのはちょっと少ないよな。おまけにそのうち1人と教授の助手は、早々に屋敷から立ち去ったまま最後まで戻ってこないのだ。どうなったんだよ、あの2人は?>脚本家。ま、好みで言わせてもらえば、ここはやはり被験者を10人ぐらい集めて「13金」式にバカスカ殺して欲しかったところである。 ● 主人公はリーアム・ニーソンでもなくキャサリン・ゼータ・ジョーンズでもなく、なんとびっくりリリ・テイラー。いや、おれはリリ・テイラーは嫌いじゃないが、こういう役をやらせるならもっと普通のキレイな女優さんがいくらでもいるだろうよ。 ● 従って本作の見所はILMとフィル・ティペットが手がけたSFXと、とてつもなく手間と金のかかった(その割りには全く活用されてない)仕掛け満載のお化け屋敷の、壮大なセット美術のみ。 ● 本作は「たたり」(ロバート・ワイズ/1963)のリメイクだそうだが、おれは未見。

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ユニバーサル・ソルジャー ザ・リターン(ミック・ロジャース)

カロルコの倒産によって続編の権利が叩き売られ、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの出演しない安いテレビシリーズとなった。で、「おれが本物の『ユニ・ソル』を見せてやる!」と思ったのかどうかは知らないが、ヴァン・ダム主演による7年ぶりの続編が作られた。…ところが、やはり安いのだ。もう、どうしようもなく安いのだ。バッタ屋で二束三文という感じ。とてもメジャーなスタジオの映画とは思えん(だいたいトライスター・ピクチャーズって消滅したんじゃなかったか?) ● 「新世代のユニ・ソルがまたしても叛乱を起こして、ヴァン・ダムが単身それに立ち向かう」という話。ヴァン・ダムは初代ユニ・ソル、…つまり「戦死した兵士を科学技術で蘇生させた半ゾンビ/半サイボーグ」だったはずだが、本作では すっかり人間人間してて なんと白髪まである。サイボーグって老いるのか? とか、軍が作った新世代ユニ・ソルが未来的な威力抜群の重火器を携帯しているのに陸軍はなぜか旧来の銃を使ってたりとか、8キロ四方の電力・通信網が遮断されてるはずなのにストリップ・バーだけは煌々とライトを点けて営業してたりとか、たとえ自分の書いた脚本であっても、都合の悪い設定はすべて無視するという方針が最後まで貫かれている。監督がスタントマン出身で本作がデビューだそうだから、まあ仕方がないか。 ● 「アクションがダメならせめてネエちゃん」といきたいところだが、ヒロインがこれまた最悪。自分勝手でワガママで可愛げがない。おれなら敵を倒す前にまずこのカエル顔女を撃つね。WCWのトップ・レスラー、ゴールドバーグが出ているのだが、感情のない新世代ユニ・ソルの役なので「ただのゴツいおっさん」でしかなくて残念。 ● 脈絡のないストーリー。根拠のない科学設定。必然性のないエロ。アクション・シーンになると鳴り響くハードロック。無意味に派手な爆発。確実に観客の脳細胞を死滅させる映画である。そこまでB級香港アクションに忠誠を尽くさなくてもいいと思うが>ヴァン・ダム。

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リスキーブライド 狼たちの絆(タムラ・デイビス)

東京は新橋駅高架下の新橋文化で堂々のロードショー。ドリュー・バリモア出演しているB級青春映画版「狼たちの午後」。これ1997年の映画なのだが、てゆーことは「バットマン・フォーエヴァー」(1995)よりも「スクリーム」(1996)よりも後だぞ。なにゆえ今さらこんなB級作品に、しかも序列5番目ぐらいの助演で出演したのか・・・じつは監督のタムラ・デイビス(♀)が、ドリュー・バリモアが更正期に出演した「ガンクレイジー」(1992)の人なんである。意外と義理堅いのか?>刺青娘(元ヤク中) ということで主演は「ヤング・インディ・ジョーンズ」以来、鳴かず飛ばずのショーン・パトリック・フラナリー。町の保安官でフレッド・ウォードが出ている。 ● 映画の出来は ★ ★ の通りで、脚本がぬるい。各エピソードが中途半端だし、何より主犯が銀行に押し入った動機が、今どきジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」ってのが勘弁してくれって感じである。臨場感を出そうとしてか、時おりざらついた画面のドキュメント・タッチのシーンが挿入されるのもしゃら臭えって感じ。「ガンクレイジー」といい本作といいこの監督、ニューシネマ・コンプレックスでもあるのか?

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パトリシア・アークエットの グッバイ・ラバー(ローランド・ジョフィ)

有名広告代理店に勤めている兄弟。兄(ドン・ジョンソン)は有能で人望もあるエグゼクティブ。弟(ダーモット・マルロニー)はアーティスト・タイプのお天気屋でアル中の不良社員。独身の兄は、弟の色っぽい妻(パトリシア・アークエット)と不倫を続けている。人目をしのんでの逢引きに嫌気がさしたジョンソンが関係を清算しようと切り出すと、アークエットは逆に夫の殺害計画をほのめかす…。 ● 二転三転するストーリーの面白さでみせる「誰が誰を騙しているのか?」スタイルのクライム・サスペンス。最後まで退屈せずに楽しめる出来で及第点だが、終盤が尻すぼみなのと、この手の話のポイントである「女はコワい」と思わせる描写が弱い。なにせ監督が「キリング・フィールド」「ミッション」「シティ・オブ・ジョイ」「スカーレット・レター」の正義と良識の使徒ローランド・ジョフィだからなあ。 ● パトリシア・アークエットはいかにもの役を予測される通りに演じていて、あまり面白味なし。一方、わが愛しのメアリー・ルイーズ・パーカー様が重要なパートで出演しているのがポイント高し。惜しむらくは両女優のヌードシーンがあったら星もう1つアップだったんだがなあ…(火暴) テレビシリーズ「エレン」で有名な(っておれは観たことないけど)エレン・ドゥジェネレスが、がさつな女刑事役で存在感を示す。この人、ゲイだって事をカムアウトしてて、実生活ではアン・ヘッシュのカレシだと知って観るとより味わいが増すはず。ヴィンセント・ギャロがこれまたいかにもの役で出てくるのだが予想の範囲をひとつもはみ出ないお行儀の良い演技で、ジョフィの“常識人ぶり”を裏付けている。 ● ストレート・ビデオによくある羊頭狗肉タイトルと違って本作は正真正銘パトリシア・アークエット主演なので、邦題(↑)は嘘ではないが、それにしてもパトリシア・アークエットの名を冠することで何らかの商売的なプラスがあるのだろうか? わからん。

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