たまたま読んでいた小冊子の中の文章、先ずご覧下さい。
おそらく「近代主義」そのものが問題なのではない。それを無条件にあがめたてまつるわれわれの知性・心性、外来の思想ならばすべて尊重すべきだと信じ、難解な概念ならすべて高尚だとみるナイーヴな感覚こそ、問題である。
学説や理論・知識は、すべからく外来語で表現し立論すべし。古くは漢語、新しくはカタカナ語の概念、それを駆使すれば、とりもなおさず知的であるとみなす「知識人」がおびただしい。(中略)外来の難解な漢字・漢文で知性をつくりあげてきた日本人の歴史的習癖であって、かつての漢字・漢語が横文字に置き換わっただけ、知の組成・体質はいま現在も、変わっていない。あらゆる分野で同断であろう。
これは、「近代日本がみつめた中国(最終回) 日本人のまなざし」 岡本隆司 (講談社『本』二〇一五年十二月号)の結論部分にありました。日本人の中国理解に関する論考で、こういう崇拝
が中国への対応に過ちを生んだと指摘されますが、ここでは深入りいたしません。
ただ他人事(ひとごと)ではないと心配になりましたので、とりあえずご紹介しておきます。
|