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TOP mook 動物ジャーナル バックナンバー 動物ジャーナル88・追悼・植松文雅先生

■ 動物ジャーナル88 2014 冬

追悼・植松文雅先生   ──秘められた覚悟

飯田あきら


「京都 大原 三千院」で始まる歌のタイトルは何だっただろう……。二番のはじめは「京都 栂尾 高山寺」だったはず、この高山寺を再興した坊さんで貴族から庶民にまで愛されたのが明恵上人である。法然などの「念仏仏教」とクロスオーバーする時代の人で、華厳宗という少し古い仏教をひたすら修行していた方である。新しい宗派を興したわけでも、仏教界にそれまでと異なる潮流を作ったわけでもないから、宗教史における位置づけは法然や親鸞に比するべくもない守旧派だが「阿留辺畿夜宇和=あるべきようは」この一文で、今も多くの人に知られている。
 「京都 大原 三千院」で始まる歌のタイトルは何だっただろう……。植松先生宅を辞して、青島さんと並んで歩きながら、しばらくそればかりを考えていた。

 先生から最初に届いた原稿には驚かされた。
 武蔵野の自然描写をさり気なく入れて季節を感じさせながら、そこで暮らす小さな動物病院の内外で起きるドタバタが、飼い犬の妙に冷めた目で語られるのだが、この犬がまたとんでもない博識で、時代を遡っては東京を中心としたヒトと動物の?がりを毎回語っていくという、皆さんよくご存知のスタイルが最初から出来上がっていたのだった。
 雑誌の創刊から間もない時期に、獣医さんが創作エッセイを連載してくれたことで、この雑誌は雑誌として一段と奥行きを持った。以降「ヤブのヤブにらみ」が連載されていることは雑誌の財産であり続けたのだが、一方で植松先生にとっても、この連載は自らの内なる鉱脈を掘り進める、大変な作業になったと私は推察する。
 獣医師(科学者)である者が信仰の原典(バイブル)と対峙する時、自らの持つ科学的知識、仕事で直面する生と死の問題、その宗教が育ってくる歴史的背景、時代の考証等々、複雑に絡み合う要素を整理しながら、なお現代に通じる普遍性を解説することに充分な覚悟が必要であることは、私のような門外漢が想像する以上に困難な作業であろうと思われるからである。
 「あるべきようは」は巷で愛される「あるがままの」でも「あるべきように」でもない。本来どうあらねばならないかを常に考えよという問いかけであり教えである。
 「ヤブのヤブにらみ」のテーマを見てみると、植松先生は何事に対しても、この「あるべきようは」という問いに対して、軽やかさを失うことなく自覚的だったような気がするのである。それが、ご両親の教えなのか、戦争体験なのか、信仰によるものなのか、今となっては尋ねることもできない。私があちらに行って先生と再会した折には、ぜひ訊いてみようと思う。先生は科学者でかつ、信仰の徒である者にとっての「あるべきよう」を示された。「あるべきようは」かくのごとし……、お見事である。
 
 久しぶりに訪れた先生のご自宅は、主の不在が静寂となって空間を満たしていた。
 先生に全幅の信頼と限りない愛情を注がれていた奥様の悲しみは深く、お体に障らないか心配されるほどであった。
 先生が奥様と出会った後、どのように奥様にアプローチされたのか、アプローチというより猛烈なアタックというべき行為とは。奥様がその時だけは嬉しそうに語られたものを、ここで公開するわけにはいかない。(奥様がいいって言われても、先生のお許しはもらえてないから)
 人によっては一歩後ずさりしてしまいかねないほどの猛烈なアタックは、それを奥様がどう思うか以前に「私はこんなに夢中になるほど愛おしい女性と巡り会いました」という先生の宣言であり、人生を謳歌するのに遠慮はいらないという先生の中のルールなのだろうと思われる。
 旅行が好きで、大工仕事が好き。何か発見があったり、創造性のあることが好き。でも奥様が一番好き。先生がそうだったことは奥様もわかっておられる。だから、きっとその華奢なお体に少しずつ体力をつけて、元気なご様子を植松先生に見せてあげていただきたい。

 私の知っている人生の達人が、静かに逝ってしまわれた。
 「愛隣堂小動物診療所」の看板はすでにない。
 奥様に見送られ、東大和の静かな住宅地を歩く。ありがとうございました。と呟いた。何にありがとう? いや、よくわからん。だけどあの時、そう呟いた。植松先生、ありがとうございました。