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■ 動物ジャーナル63 2008 秋
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「チロの死」殺人に想う
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青島 啓子
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元厚生次官等の殺傷事件が報道されるや「年金テロ」の文字がおどった。
自首した容疑者の口から「保健所に殺された愛犬の仇討ち」と明かされると、「理解不可能」「不可解な動機」と、識者総掛りの探索が始められた。精神鑑定の必要も考慮されているそうである。 しかし、ほんとうに、理解しがたい動機だろうか。
チロは少年の友であり家族であり、愛情を注ぐかけがえのない対象だった。感じやすい年頃、チロの死の痛手がどれほどだったか想像に難くない。
作家・高村薫氏は「犬の死が心の傷として残った。普通なら年齢を重ねるうちに人間関係や社会が広がり、傷は小さくなっていく。」しかし、狭い人間関係の中で生き続け、傷が残ったままになってしまった、と述べておられる。(毎日・12・3)
その傷は三十余年心の底に在り続け、何かのきっかけにより表面に浮上した。それまでの人生の不満足が一挙にそれに収斂され、暴発となった。と、私は推量する。きっかけとは?
埼玉県の愛護団体に所属していたという報道に注目したい。犬猫が本当に好きだったみたい、とその代表は言う。不満足の日常にあって、心の安らぐ時間、チロに思いが至らない筈はなかろう。そしてそこでは、行政の殺処分について様々な情報が語られていた筈。いかに残酷な殺し方か、処分前の犬たちの表情を見よ。愛護団体のこの手法はここ数年のいわば流行である。
チロをいとしく思い続ける彼にとって、殺され方を具体的に知ればいたたまれなくなる。仇討に直行となっても無理はない。動機は不可解ではないと思う。
「不殺生」を理想とする私たちは、殺人も殺処分も容認しない。残酷な殺し方を喧伝することも容認しない。
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