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TOP mook 動物ジャーナル バックナンバー動物ジャーナル55・「子猫殺し」に関する感想

■ 動物ジャーナル 55 2006 秋

  「子猫殺し」に関する感想

青島 啓子


 日本経済新聞二〇〇六年八月一八日夕刊に、坂東眞砂子氏のエッセイ「子猫殺し」が掲載されるや、世の中騒然となった。と言っても過言ではないだろう。同新聞夕刊には毎週金曜日の 「プロムナード」と銘打つエッセイ欄があり、当該文章は同氏の第七回のものという。
 この「子猫殺し」の衝撃によって、これ以前の分も読み直され、子猫のみならず子犬も殺していたことが明らかになり、人々の怒りは収まりのつかない状況となった。
 インターネット上には怒濤のように糾弾の言葉が溢れた。また、それを整理して、この話題を取りあげたサイト・新聞・雑誌をまとめて提示してくれるサイトも出現した。(私の行き着いたサイトは「鬼畜子猫殺し坂東眞砂子・ニュー速用まとめwiki」)

 私がこの件を知ったのは「きっこのブログ」八月二一日分[猫殺し作家の屁理屈]によってである。
 「きっこのブログ」については、本書四頁・千葉氏稿に簡単な解説がある。私は今年一月、怪我をした外猫さんの安住先へ千葉氏を案内し、その帰りの車中でこのブログを教えていただいた。その日は耐震偽装疑惑問題で国会の問答が展開されていたが、このブログでは、事件が表沙汰になるかなり前から鮮烈な情報が明かされていたという。
以来私ははまった。        
 毎日ではないがパソコンを開ければきっこさんを訪問していた。そのある日がこの八月二一日だった。そのページで、問題の一文を読んだ次第。一読三嘆とは褒め言葉だが、あまりのことに一読惨憺!と駄洒落をとばしたくなる、と思ったのは暫くしてからのこと、読んだ直後は、どうしてこういう風に文章がころがって行くのだろう、訳が分らない…、もう少しはっきり言えば、気持がわるくなった。
 後に続くきっこさんの文章は、例によって歯切れよく、内容もそうだそうだと納得されるばかり、屁理屈たることがきちんと説明されていて、いくらか気持を収めることが出来たが、それは波立つ部分に対してであって、殺された子猫、子どもを取りあげられた母猫の歎きを思い、気分は重く澱むばかりであった。
 「きっこのブログ」では続いて八月二三、二四、三〇日に言及があった。並行して他のサイトを見たり、読者から新聞や雑誌のコピーが届いたり、注進乃至激励の電話をいただいたりで、否応なく
「発言すべし」へ追いやられた。気の重いことこの上ない。

 論点のほとんどは右のような発言の洪水の中で挙げ尽され、言い尽されている。新しいことは言えそうにない。でも私なりに整理しておくことは必要かもしれない。
 というわけで、いささかのことを記しておきたいと思う。
 様々な発言をざっと見渡すと、非難九十七パーセント、擁護三パーセントほどかと思う。非難のポイントは、これも大まかに捉えて、
1、子猫殺しは言語道断。
2、殺害と不妊手術を同列に論ずるな。
3、生の充実は育児にこそある。
4、日経新聞社はおかしい。
となるだろうか。あえて小道に踏み込まず、これにとどめて、私も共感をもってこの非難を肯定する。

 けれども重い気分は消えるべくもない。ひっかかっているのは次のようなことかもしれない。
 坂東氏が自分の飼猫の生の充実を重要視するならば、産まれた子どもたちのそれも同様に尊重すべきである。母猫の個も子猫たちの個それぞれも等価値であろう。それを、どう考えれば差別できるのだろうか。まさか子猫は排泄物? まさか。
 しばらくして「子猫を殺す時、自分も殺している。」というキャプションが目に入った(毎日新聞九月二二日夕刊掲載、同氏寄稿)。この言葉の正確な意味は不明ながら、生物学的死と観念上の死と、ごちゃまぜにできるのか。他者を殺すならば、せめてゲーテのように作品中でウェルテルを殺し (自殺させ)、実害を発生させないでほしい。こういう粗雑さでは、子猫の個に思いを至せという方が無理かもしれない。
 同じ文中に「ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。」ともあった。きっこさんは早速反応した。「どんな飼主だって、ものすごくつらい思いをしてるんだよ! 何も知らないクセに、テキトーなこと言ってんじゃないよ!」と。(ご存じない方にお知らせしますが、こんな調子の文章は滅多に書かない方です。)
 私も、同氏が何も知らなければはっきりさせなければと思い、「そうではない証拠」を提出しておくことにする。(注)

 当初の一文に戻る。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」これは手術と殺害の差をいうらしい。成長過程の問題と考えるのだろうか。不妊手術は、堕胎ではなく、子種を生じさせないようにすることと理解しているが、混乱があるのだろうか。

 感想と言いながら攻撃的なことを書いてしまった。今後このようなことが起らないよう願うのみである。

(注)創刊当初以来、折にふれて「いろはコーナー」という欄を設け、時々の、必要と考えられる言葉について、説明してきた。
 創刊号には「不妊手術について」及び
「不妊手術\\用語として」を掲載した。
 今回、前者はそのまま、後者は『動物ジャーナル11』掲載の改訂版を再録する。下の二項をご覧いただきたい。

(青島啓子・動物虐待防止会代表)


『動物ジャーナル』創刊号(1993年春)いろはコーナーより
不妊手術について

 私は動物に不妊手術を施すことを、必要悪と考えています。
 現在のヒト社会の中で動物たちが暮して行くことは容易でなく、生まれれば不幸になることが目に見えているからです。
 個体を傷つけ、天賦の機能を奪い去ることを、同じ生命を授かった異種の生物に強要してよいとは決して考えません。けれども、現在、仕方ないのです。生まれ出づる者全てを私は扶養しきれないのです。
 かかわってしまった子たちを、手術に送り出す時、 「人間の都合で、ご免なさい」と言うしかありません。こわい思いをするだろう、辛かったろう、痛かっただろう等を考えて、再び迎えた後は、ですから、謝罪の甘やかしが募ることになってしまいます。

(青島)


『動物ジャーナル11』(1995年秋)いろはコーナーより
不妊手術──用語として

 これについては創刊号十三ページに掲載しましたが、通刊十一号を新たな出発とする立場から、もう一度確認の意味で記しておきます。
 動物虐待防止会は、繁殖制限を表現する語として「不妊手術」一語で十分と考え、この語のみを使用しています。
 現在一般的には、繁殖制限手術を指して、「不妊去勢」(手術の語ナシ)が用いられています。
 多分欧米語の訳語として二種類が定着したものかと思いますが、古代文化国家で発明された漢字は、より勝れた機能を持ち、「妊」一字が自動詞(はらむ)も他動詞(はらませる)も表すこと可能なのです。つまり両性に適用できます。
 その上、ヒト医学界では、例えば「目立ち始めた男性不妊」(毎日新聞92年4月30日)などと使われています。そして私情を交えることを許されるなら「去勢」という語の持つ暴力的感触(司馬遷の例を持ち出すまでもなく)が私は嫌いです。
 不妊手術を必要悪と考える私は、せめて言葉の暴力だけでも避けておきたいと思っています。

(青島)