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■ 動物ジャーナル 42 2003 夏
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能 鵜 飼(うかい)
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安房国清澄(あわのくにきよすみ)に住する僧が、甲斐国行脚(かいのくにあんぎゃ)を思い立ち、六浦(むつら)の渡り、鎌倉山、都留(つる)の郡(こおり)、と道中を続け、ようやく甲斐国石和(いさわ)に着いた。その里で宿を求めたが、旅人を泊めること禁制(きんぜい)とのこと、やむなく、とあるお堂に上り、長旅の疲れを休めることにした。
夜半、どこからともなく老人が現れた。
この御堂にあがり、鵜を休息させよう、月の明るい間は、と、ひとりごちながら、慣れた様子でお堂に上ってきた。先客を認めて
「御僧はどちらから?」と聞く。
「御身は? この夜更けに、ご高齢のようだが…」
「私は鵜を使う者、月のある間はここで休み、月が入って後、鵜を使って魚をとるのです。」
「それは…。これほどのお年で、そのような殺生の業、罪深いことです。どうかこの業を止められ、他の仕事で暮しを立てられますよう。」
「仰せはよくわかります。しかし若年よりこの業で身を立ててきて、今さら何を…」
その時、供の僧が自分の体験を語った。何年か前、ここ石和よりずっと川下、岩落(いわおち)という所を通りかかった時、このように鵜を使う男を見かけ、殺生を止めるよう忠告したところ、その男は素直に話を聞いてくれ、わが家に案内して、一夜丁重にもてなしてくれた。
供の僧が思い出すままに語っていると、老人が「その時のお坊さまで?」とおどろく。
続けて、「私がその時の鵜使いです。そして、今のこの身はその亡霊です。この業のために空しくなりましたので…」
「それはまた、どういうことがありました?」
「聞いていただければ罪もかろめられるかもしれません。その時の有様を、語りましょうほどに、跡を弔って下さい。」
老人は居ずまいを正して僧に向い、物語った。
そもそもこの石和川の上流下流へかけて三里の間は、殺生禁断とされています。その下の岩落辺りには鵜使いが多く、なかなか目指すほどの魚が獲れません。それで、人知れずこの石和川に上り、夜な夜な鵜を使って収入を上げていました。が、いつか人の知るところとなり、或る夜待ち伏せして捕えようという計画、私は夢にも知らず仕事にとりかかったところを、人々はばっと寄り、一殺多生(いっせつたしょう)の理に任せ、彼を殺せと言いつのります。さまざまの言訳も聞き入れられず、とうとうこの川波に沈められてしまったのです。
「何ということ。今となっては弔うことしかできませんが…。せめて御身の罪障消滅のため、今の苦しみの因となった鵜使いの業を、ここにお見せください。及ばずながらねんごろに跡を弔ってさし上げましょう。」
老人は鵜使いのさまを再現する。
湿(しめ)る松明(たいまつ)振り立てて 藤の衣の玉だすき 鵜籠(うかご)を開き取り出し 島つ巣おろし荒鵜ども この川波にばつと放せば 面白の有様や 底にも見ゆる篝火(かがりび)に おどろく魚を追ひ廻し 潜(かつ)き上げ抄(すく)ひ上げ 隙なく魚を食ふ時は 罪も報いも後の世も 忘れ果てて面白や
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夢中になって続ける中に、ふと気付くと篝火の光が薄くなっている。月が出たのだ。これで今夜はおしまいにせねば、と悲しく闇路をたどり帰るのですと言いつつ、老人は消えた。 |
旅僧は川辺の石を拾い上げ、お経の文字を一つの石に一字ずつ、妙、法、と書きつけ、一石ずつ波間に沈め、心をこめて老人を弔った。
供養すること何時ばかりか、思いがけず閻魔大王が現れた。そして僧に向って説く。
「かの鵜使いは、若年(じゃくねん)の昔より江河(ごうが)に漁(すなど)って罪を重ねてきた。故に、無間(むけん)の底に落ちてしかるべきであるが、僧侶を宿に泊め、手厚くもてなした功徳があったので、極楽へ送ってやろうと決めた。鵜舟を即ち弘誓(ぐぜい)の船とし、実相の風に済(たす)けられて、仏所に至るであろう。貴僧は法華の行者として、修行を怠らぬように。」
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このようなことがあったのを思えば、大切なのは慈悲の心、往来(みち)の弱く疲れた者を救うことこそと考えられるのであった。
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〔蛇足〕
以前ご紹介した「善知鳥(うとう)」ほど趣旨の徹底された作品ではありませんが、現在、夏の風物詩としてもてはやされ、観光の対象となっている鵜飼いも、このように大きな罪と認識される時代があったことをお伝えしたく、とり上げました。
(青島)
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