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■ 動物ジャーナル43 2003 春

  やぶのやぶにらみ 第35話 牛の物語(八)

 明治の東京は乳牛でスタート・五(完)牧場移転・都心から郊外へ

植松 文雅


 本年三月二〇日未明の五時四五分、米英軍はイラクに進撃を開始してイラク戦争が始まるが、今、話題の映画『戦場のピアニスト』の冒頭部分、ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻開始も、一九三九年九月一日未明の五時四五分、ここから世界第二次大戦がスタートしていて、今、問題になっている大義なき戦争を仕掛けるのには、丁度よい時間なのかどうかは別にしても、なぜか符丁があっていて、そういえば日本海軍の真珠湾奇襲の第一次攻撃隊の一番機の空母離艦が、ハワイ時間の午前五時五五分、全機突入のトラ、トラ、トラの指令が七時四九分と公表されている。
 一番機に隊長が搭乗した時を発進時間とすると、それからエンジンをかけプロペラを全速に回転させて、機体の調子を点検して飛び立つまでを一〇分とすれば、発進は五時四五分と計算することも可能である。
 日本の戦争で日露戦争までは、ともかく自衛の戦いという大義もあったが、それ以降の戦いは大義なき侵略戦争であり、大東亜共栄圏などと大義を掲げてはみたものの、所詮は辻褄あわせの大義にすぎず、つまらぬ戦争をよくぞ仕掛けたもので、人間も動物の類であれば、戦争ほど動物虐待のまた最たるものはないであろう。

 戦争は夜明けとともに始まるとは限らないが、一昔前の夜明けはオンドリ(雄鶏)とともに始まっていたが、いまや都市の中でのコケコッコーは安眠を破る騒音として、飼い主は苦情の対象となるなどの様変りである。
 その嫌われもののニワトリが、今、終決に近付きつつあるイラク戦争で、イラクの生物・化学兵器の対策として、軍用ニワトリとして数千羽を米海兵隊キャンプ(クエート北部のコヨーテ)に配置したが、ニワトリは神経質で世話が難しく、素人の兵隊さんに管理は難しく、大半が死んでしまったという。
 軍鶏という言葉はあるが、これは一名シャモといい、この軍は戦、つまり喧嘩鶏としてのニワトリという意味で、軍隊で使用する動物という意味はなく、今回、初めて一般的なニワトリが軍鶏として、一時的にせよイラク戦争に登場したことになる。
 鳥類が神経ガスなどに、人間より素早く反応することは科学的に証明されていて、日本のサリン事件でも警察はカナリアを使ったが、米軍もこのカナリアの使用を検討したが、「うるさすぎる」と断念、ニワトリの配置となったようで、そのニワトリの飼育が困難となって、次に登場したのがハトであった。
 ハトは昔から軍用ハトとしてお馴染みの動物で、本誌二五号で『軍用ハト』の歴史を紹介したが、すべてこれらは通信手段としてのハトの活用であって、生物・化学兵器対策として「警報機」がわりに使われたのは、今回のイラク戦争が初めてで、数千羽のハトが各生物・化学対策部隊に配置され、同キャンプにも八羽のハトが配られたと、三月二〇日の朝日の野嶋記者はレポートしている。
 幸いにして今回の戦争に心配された生物・化学兵器の使用はなく、物言わぬこうした軍人に戦死者はなかったようで、物言う軍人と違って彼らは人を殺めることはなく、常に殺められる側にたち、物言う軍人の生命を守り救う側に立って行動を共にする。
 今回の戦争に使われた動物はハトの他に、兵士ともに警備に当たる軍用のイヌ、そしてペルシャ湾で米英軍を揚陸する揚陸艦の周辺に、機雷を探索するために訓練されたイルカが使われている。
 前ヒレに探知様を付けたイルカの写真が、朝日に紹介され、NHKのニュースでは九頭と報じていたが、この活躍は同『動物ジャーナル25』「最近の報道」欄でも、「米イルカ部隊、ハイテク機器しのぐ沖の機雷を発見」と、環太平洋合同演習の成果を紹介している。
 九一年二月一七日に開始された湾岸戦争時にも、欧米の軍隊がハトを予備軍として、当時ヨーロッパにおいて実戦用の伝書ハト飼育国のスイス陸軍から、三千五百羽のハトの貸与を受けて、万一、衛星通信網が使えなくなるとか、フセインの軍隊が未知のソ連製の電波妨害システムを使うといった、不測の事態が起きた時に備えての配置であった。
 山と谷のスイスは無線の使用がしばしば困難になることが多く、そのためにアルプス地方の軍用ハトは山脈を越えて谷から谷へ飛ぶように訓練されていて、九四年にハト部隊はハイテクの完備、充実で解散となり、軍用ハトの組織を維持しているのはフランスのみとなったが、解散前のスイスのハト部隊には、一千人近い組織が二〇部隊あって、三万羽のハトがいつでも出動できる体制をとっていた。

 さて、こんなことを書いていると、本題であるウシの話に中々進まない。まあ鈍足のウシのことゆえに、ハトやイルカのようなスマートなスピードは無理で、鈍牛といわれてもまた仕方がない。しかしこの鈍牛といわれるウシたちが、新しい日本の草創のころに活躍したかと思うと、また今昔の感に堪えないものがあり、確かに日本の、東京の産業を裏から支えていた立役者であったことは事実であって、今回はその最終回を迎えることになる。
 調べてみたら『牛の物語』は『動物ジャーナル34』からウシのヨダレのように延々と、飼い主夫婦のお惚気話を挿入しながら八回を重ねてしまったが、今回は何せ死ぬか生きるかを賭けた、敵味方ともに神の名を方便に使った戦争でもあって、飼われ犬のオレにだって犬識というものがあり、トウチャンとカアチャンの浮かれ話はカットして、我がお仲間さんの活躍ぶりをマクラに披露した。

 それにしても日米戦争ならお互い神の名を出しても、日本なら天照大神、米国ならゴッド、全く異質の神なのでどちらの神が強いのか、戦争が終われば判定は容易だが、今回の戦争は同じ神にそれぞれの指導者が、加護を祈っているので迷惑するのは神の方である。
 フセインのイスラム教も、ブッシュのキリスト教も、今回は関係のないユダヤ教も、みんな共通の旧約聖書を使っていて、これにコーランをつけたのがイスラム教、新約聖書をつけたのがキリスト教であるが、この旧約聖書の中に映画にもなった有名な『十戒』がある。
 この第三条には「神の名をみだりに使ってはいけない」とあり、第六条には「あなたは殺してはならない」と明記されているにも関わらず、お互いが神の名を乱用し合い、お互いが殺し合っている。戦争となれば聖典なんか関係ないようで、戦争は宗教の問題ではなく政治の問題であって、政治家がこれに宗教なんかをからめてくるから問題がおかしくなってくる。
 まあトウチャンとカアチャンの会話を聞いていても、お互い同じ戦争反対にしても、カアチャンの方がブッシュ贔屓、いつもトウチャンを尻に敷きたい思いからすれば、ブッシュ贔屓にもなるだろう。いつも尻に敷かれかねないトウチャンにしてみれば、弱者転落のフセインに肩持つ時もあり、時にトウチャン優位の時は、ブッシュに肩入れする時もあり、同じ夫婦でも時にまた複雑なものがある。

 ところで明治初期の東京の話。今でいえば日本の政治の中枢部、皇居の外堀通りを越えて、丘の上の日枝神社の社前から北に向って延びる急坂、山王坂を上りつめたところが国会護事堂の裏手になり、その先に自民党本部があるが、ここには養豚場があって、その臭気に当時早くも畜産公書として、立退を迫られる新聞記事がある。
 日枝神社の赤坂よりに、民間牧場の第一号が開設されたのが明治三年、やがて麹町の英国大使館前の原っぱに幕臣の阪川牧場は移転。ここから靖国の九段下には榎本武揚、歩兵奉行だった大鳥圭介の北辰社牧場、男爵・松尾臣善の長養軒牧場など、明治三年の記録には四牧場が開業していて、八年になると後に総理となった山県有朋が麹町に牧場を開設、郵便の創始者、副島種臣は霞が関に牧場を開くなど、永田町、麺町界隈は日本の牧場地帯として発展してくる。(『動物ジャーナル35』参照)
 これらは何れも和牛が多く、本格的な海外の乳牛が日本に入ってくるのは明治七年末ころからで、洋牛一頭は和牛一〇数頭にまさるといわれていたが、明治五年から六年にかけて牛疫(リンドルペスト)が大流行、一〇年ころになってようやく終息を迎えたが、牛舎の清潔、管理上の注意によって、この伝染病が避けられることも分かってきて、六年に「人家稠密の地に牛豚の類の飼育禁止」の通達がでて、後に乳牛飼育には運動場の設置が義務づけられるなど、市街地での飼育が次第に困難となって、近郊への牧場移転が盛んになってくる。
 移転先は牛乳運搬の関係から、中仙道、青梅街道、甲州街道、千葉街道、日光街道など、都心に通ずる主要道路に近い地点に放射状に集中しだすが、なかでも巣鴨の牧場集団は有名で、「牛屋横町」の異名があって、確認されているだけでも、五九の牧場が豊島区に生れ、営業していて、明治の末に「牛屋の車はガーラガラ、あとからお日さまキーラキラ」と地元の子どもたちが歌っていた歌がいまも残っている。なお、千葉、日光、青梅、甲州街道関係の牧場については、『動物ジャーナル38・39・40』をご参照あれ。
 首都高五号線を挟んで、「生類憐れみの令」の五代将軍・網吉と、その生母・桂昌院の祈願寺・護国寺と稲荷神社があるが、この神社の境内にトウチャンが起案の、山県有朋の出資した平田牧場他、現在の文京区にあった二〇軒近い牧場紹介の「屋外説明板」が建っていて、他に台東区の浅草神社、墨田区の牛嶋神社、新宿区の元赤城神社の境内にも、それぞれゆかりの牧場紹介の、ステンレス製説明板が、農協法施行五十周年記念事業として建てられている。
 護国寺の墓地にはアフリカでもないのに、ゾウの供養碑があるのも珍しく、それもそのはず、象牙組合の寄進によるもので、綱吉在世中なら象牙細工などは許されなかったであろう。この寺の西側が豊島区との区境で、不忍通りの北に幕府の薬草園があり、現在は雑司が谷霊園になっていて、ここに『我輩は猫である』の夏目漱石の墓もあり、霊園の南に子守の神様「鬼子母神」がある。
 少しあとさきするが、明治八年、維新の元勲、山県有朋が平田貞次郎に出資して、麹町三番町に平田牛乳搾乳所(英華社)を設置するが、当局の規制などで移転を余儀なくされて、ここ雑司が谷村の清戸坂の道ぞい北側に牧場を移転する。
 明治一八年の「東京商工博覧絵」に、牛舎の背後の煙突は煉瓦づくりで、居宅の玄関前に人力車が止まっていて、奥方が玄関に入る優雅な後ろ姿が描かれて、牛舎と隣接したところに牛乳販売の店が見える。
 後にまた榎本武揚の北辰社牧場が飯田橋から、ここ雑司が谷に移転してくるが、その牛舎の全景図が残っていて、鬼子母神の社の屋根が杜の中にそびえ、牛舎つづきの広い運動場には三五、六頭の乳牛が遊び、その向こう側に瀟洒な白い二階建の西洋館の建物と、洋風の庭園があって、マントルピースからの煙が、二本の煙突から優雅な煙をたなびかせている。当時使用された井戸が鬼子母神のすぐ南、雑司が谷三丁目七番地の道添いに残っていて、手押しの汲み上げポンプがついている。
 トウチャンの母親は札幌の牛屋の娘でこの四月で百才を迎える。牛乳をたっぷり飲んで育ったせいか至って健康で、女学校を卒業して東京の女子大に遊学させてもらい、その妹も同じように東京の女子大に出してもらっていて、姉妹ともに達者であるが、当時、三〇頭くらいの飼育規模なら十分に豊かな暮らしが出来たようで、トウチャンは二十三歳の時の初子である。
 明治のころの牛乳の値段は、五年ころで当時旧幕府の雉子橋の御厩からの払下が一合・一朱(六銭二厘五毛)が基準となっていたが、牛乳屋が多くなるにつれて、競争も激しくなって、七、八年のころには一合・五銭、一〇年のころには三銭と次第に値下がりを始める。
 乳牛の価格も和牛は一日の乳量が二升から三升少しにとどまっていて、一頭が五、六〇円、洋牛となると一日一斗から二斗も乳が出るので、一頭は七、八○○円と十倍の開きがあった。明治七年の背広注文服一七円五〇銭で、巡査の初任給四円、まんじゅうが一〇年に五厘といったところで、牛乳は薬値なみの高級品でもあった。
 都内唯一の都電の鬼子母神停留所から王子行に乗車して、大塚駅の一つ手前の向原停留所から新庚申塚停留所まで、大塚駅を挟んで南北の地域が、かつて「牛屋横町」とまで呼ばれた、中仙道にそった往時の北豊島郡西巣鴨町である。
 中でも西巣鴨町巣鴨の「愛光舎」は明治三二年、二・六ヘクタールの敷地に円形サイロを有する二八棟の牛舎を持つ近代的牧場で、現在の西巣鴨中学の周辺一帯が牧場であった。ここの舎主・角倉賀道は医師であり、人の病気の天然痘のワクチンである牛痘の製造・販売をしていて、牧場経営と予防接種の普及に努めた人でもあった。
 また愛光舎と前後して「強国舎」が開業したが、本店を日本橋において、〈朝日牛乳〉の名で販売し、舎主の田村貞馬は『牛乳問答』というユーモアのある本を書いてその飲用、普及に努めた人でもあった。場所は現大塚駅南口降りて左側一帯が彼の牧場であった。
 因みに山手線の池袋―田端の開通が明治三六年で、愛光舎、強国舎が設立された頃は、一面広大な原野であったことが、残された写真などが示している。
 明治二一年の東京府搾乳状況によれば、まだこのころは巣鴨界隈における牧場の存在はなく、小石川区大塚の朝麦舎、久堅の保正舎、同心の養浩舎、本郷区では湯島新花の厚生舎、本郷弓町の牧牛舎、真砂の真砂舎、森川の開墾舎、元町の隊養舎、丸山福山町の千里軒、同峯岡牧舎、根津八重垣の千林舎、駒込曙の曙舎、駒込上富士の長養軒、千駄木林の楽牛園、茗荷谷の駒山牧社といったところが名をつらねている。
 そして、時代は下り大正八年の「乳牛畜産組合名簿」を見ると、総組合員二百五十六名中、巣鴨界隈の組合員は、総体の二十三%の五十九名を数え、中でも西巣鴨町巣鴨に居を構える者は二十四名に及んでいて、当時の西巣鴨明細図をみても、小泉牧場、保利牧場、吉川牧場と牧場名が肩を寄せ合うように、隣合って記入されている。
 現在となっては往時の面影をとどめるものは、北辰舎で使っていた井戸だけであるが、当時、流行した牛疫で倒れた牛の供養に、西巣鴨の組合員の手で、明治四三年に東福寺に「牛疫供養塔」が建てられ、これが当時を偲ぶよすがともなっていて、同寺は大塚駅南口下車、南大塚一丁目二六の一〇、巣鴨小学校の北側にあって、山門を上る途中の右側に残っている。

(参考文献)
『日本畜産史』加茂儀一・法政大学出版
『ミルク色の残像―東京の牧場展』豊島区教育委員会
『江戸・東京暮らしを支えた動物たち』植松文雅他・農文協
『江戸・東京農業めぐり』植松文雅他・農文協
(うえまつ みやび・愛隣堂小動物診療所所長)