花鳥風月:
先に仕掛けをリニューアルしたラズパイベースの
フォトフレーム
が好調で、撮り貯めた数万枚の家族の写真を頃合になると一定時間ランダムで自動的に表示くれる。随分とあちこちに旅をして、いずれもついこの間と思っていた旅行先の写真が出てくると、写真に入れ込んだ日付と旅行先のテキスト情報がもう10年も15年も前のことであったと教えてくれる。
リタイア後には相当旅行に出かけたつもりなのだが、それでも海外となるとまだまだ行けていないところも多い。あとどれだけ勝手気儘に旅が出来る元気があるのか今は分からないが、黄金の60代はとうに過ぎて今や黄昏具合も一段と進んでいるのかな、と思わず考えてしまうところもある。
元気に登山をしていた頃、また子供達が小さかった頃などの写真は更に、遥かに遠くなったという現実をそこに表示された日付が冷静に示しているけれど気持ちで負けてはいけない。
旅に出よう、という体力や気力がどこまで維持できるだろうか。今までの日々に後悔はないし、それなりに充実していたとも思う。幸いにも現時点では健康だし家族や経済的な部分にも憂いは無い。先のことは全く判らないので楽観的に考えて日々忙しく過ごすのみ。
旅に出る原動力は「知らない街を歩く」ということなのだけれど、訪ねる先には花鳥風月や寺社仏閣、それに城などを求めるようにもなってきたな~とは自覚している。多分これは歳を重ねれば何も不思議じゃない極自然なことなのかもしれないが、、、
今回は近場の旅行で河津桜を目的に出掛けた。見頃で天気が良い日となると相当の混雑を覚悟しないといけないようなのだが、幸いにもほどほどで約8千本の河津桜がちょうど見頃、原木と云われる桜も何とも素敵。まったりと桜を見ながら程よい気温でそぞろ歩き、古木の大楠木とやらも荘厳、菜の花も彩を添える。加えて旅の醍醐味としてはやはり温泉や料理もはずせない。
河津桜原木もちょうど満開:
オーディオにおいても、理想へは未達としても音楽を聴くこととの幸せはここにあって、未知の音楽の探究も勤しめるストリーミングという環境がある。良き音楽、音源はオーディオ(装置)の欠点を補ってくれるもの。従って、これ以上微細なことに拘って聴く必要も無いのでは、と思えるようになってきたことも背景にある。大事なことは音楽の感動にあり、単純に「いい音楽だ~」と思えるのなら、それは花鳥風月を愛でるようなもので、実は最高のことではないだろうか。
オーディオ的なチャレンジや創意工夫も大事だけれど、日々音楽を楽しめることが結局は肝心なことなので、システムとしての満足度は80点や90点くらいでも妥当性があるのではないかと。
従って、頭の中にある「理想の音」は実現できるものでもないけれど、現実をどこまで許容するか、しないか。これがこの先の自分のオーディオ(人生)の分かれ道かもしれない、とつらつら思ってみている。趣味として楽しめれば良いのか、求道を進めるべきなのか。求道を続けるのなら、平穏では済まないことはもう痛い程理解できている。波風立ててでも突き進むのか、それで「音の浄土」に至れるのか。迷いはある。
高みを知らずして高い次元には至れない。それは間違いのない真実である。一方でやはりオーディオ自体は「音源に依存する」部分が大きい。装置の音は音源によってのみ評価しうる。だから、単純に機器にすべての理想を求めるのは誤りなのかもしれない、という考えも頭を過っている。
感性だけでオーディオ機器を語るのは間違いだと思うし、AIに機器の音を尋ねてみるのもまた真っ当なことではない。良き音をたくさん聴いて、オーディオ耳を鍛え上げるしかないのだ。厳しく評価して聴くことも時には大事。まだ成長できるのか、この点は自分でもわからないが。
数多ある素敵な音楽を、魅力的な音で聴きたい。これは誰しもが求めること。だが、このための要件は何か。絶対条件は何か。実はまだそこが自分では良く判っていない。ここまでやってきても尚手探りであって、未だ皆目分からない、ということに近い。
だが、オーディオ(機器や環境、使いこなしを含めて)にこの先求めて行こう、と改めて思うことは「音源に対するバルネラビリティ(脆弱性)を排除する」ということ。特定の音源であったり、音数の少ないものやダイナミックレンジの狭い音源がそれらしく鳴る、というものであってはならない。時に小口径のスピーカーやフルレンジのスピーカーが素敵に聴こえることはある。だが多くの場合、周波数レンジが広く複数の楽器がダイナミクス大きく鳴る(例えば)オーケストラのような音源では音量を上げれば容易くその再生が破綻してしまうことになる。希望としては、どんな音源に対してもその音楽の魅力を在るがままに提示してくれるような言うなれば「強靭な再生能力」を持つように仕立てていきたいのだ。
伊豆ならではの料理も良き:
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