オーディオ日記 第37章 夢の旅路は続く(その15)2016年4月1日


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Intona USB アイソレーター 導入による電源系ノイズ低減とこれに伴う音質改善効果に大変気を良くして、柳の下の二匹目のドジョウを狙ってみた。今度はS/PDIFデジタル信号に対するデジタル・アイソレーターである。USB DDCからのPCM信号をデジタル用同軸ケーブル(純銀線)にてデジチャンへ入力するスタイルが現在の構成であるが、デジチャン(注記)の直前にこのアイソレータを挿入して使用するというもの。アイソレーションはアモルファスコアによるパルス・トランスというシンプルな内容でこれにより信号線に乗っているノイズを低減する仕組み。厳密にはデジタル・アイソレーターというよりもパルス・トランスと表現する方が妥当かもしれない。なお、この領域のデジタル・アイソレーションに関していろいろと検索してみたが、 情報 自体があまりなく、自作等で使用している事例もほんの僅かしか掴めなかった。オーディオ的に考えて、これが何らかの、あるいはどの程度の音質改善効果に結びつくのか定かではない。となれば、これも試してみるしかあるまい。

(注記)デジチャン(DF-55)においてアイソレーションを行っている可能性は考えられるのだが、カタログ仕様などからは掴めていない。

パルストランスによるデジタル・アイソレータ:
Digital Isolator

アイソレーターの有り、無しによる音の差はかなり小さく微妙であるため、相当の回数繋いだり、はずしたりとやってみた。傾向としては音楽全体が静かでおとなしくなる方向なのだが、一聴でそれと判る程の顕著な効果ではない。音量感も心持ち小さくなるように感じるだが、実はそれは音の素直さに現れていて、そのじわじわっとくるような自然な感触が小編成のクラシック系音楽などには好ましいと思う。メリハリ系の音楽では率直に云ってあまり差が判らない。

アモルファス・コアにトリファイラ巻き:
Digital Isolator

実際のデジタル波形やノイズ状態がどのように変化しているかについてはオシロスコープ等で確認すれば作用している状態が判ると思うのだが、この手の設備を持っておらず聴感に頼るしかないのは辛いところ。ただ、192KHz/24bitなどのハイレゾ音源であっても再生等が不安定になったりするようなことも無く、音に対してマイナスと思えるような要素は全くない。従って、現在のところ音楽のジャンルや内容に拘らず繋ぎっぱなしにして聴いている。最終的な結論までにはもう少し聴き込んでみようと思うが、好きな方向である。なお、PCをベースとするデジタルファイル音源の再生に関して、出来る限りの各種の電源系ノイズ対策に取り組んできたが、これらの総合的な結果としては、非常に穏やかでかつ自然な方向に音楽が変化してくれている。PCオーディオについては、どちらかと云えば、再生ソフトによる音の差や、OS等の差異による議論が中心だと思うが、このような基本的なところにおける対策が本来もっと必要だったんだなと改めて思う。

閑話休題:オーディオ禅問答

オーディオで一体何を目指し、目標としてあれこれと足掻いているのか時に自問する。答えは簡単だ。良い音で音楽を聴きたいから。正にその通り。おそらく、これを否定するオーディオファイルはいないと思う。

だが、問題はその先にある。

オーディオにおける良い音とは何か、である。こうなるとこれはもう千差万別で、その定義にはいろいろな意見が飛び出すと思う。周波数特性、歪率、ダイナミックレンジ、S/N、定位、過渡特性などの基本的要素から始まって、繊細さ、透明感、音の広がり、重厚感、優しさ、柔らかさ、音の艶、色気などのニュアンスに係わる視点に発展し、最後には音楽性にまでたどり着く。そして、果てること無き模索と分析を続けても良い音とは何かを言葉によって「定義」することは叶わない。

オーディオ再生において、厳然と「良い音」は存在する。うまく言葉で定義することは難しいが、それは多分誰でも「聴けば分かる」種類のものだと思う。しかし、その良い音は決して一様ではない。同じ音源であってもオーナーの思想を反映したシステムによってそれぞれに提示される音楽は実はかなり様相が異なる。爆音の快感もあれば、爽やかな音も、柔らかい自然な音も、艶や色気たっぷりの音もそれぞれに良い音として存在する。

しかしまた、その異なる音を定義しようとして、単純に思える要素に分解しようとすればするほど訳が分からなくなって堂々巡りし、その「良い音」どのように作り上げられているのかをきちんと分析することは出来ない。また、その音を自ら造り上げ、そのシステムと同じ音を手中とすること自体もそう簡単にはできない。

これをもってオーディオの奥義云々あるいは難しさと考えるのは本当は違うのではないだろうか、と最近思うようにもなってきた。もっと単純に考えれば良いのかもしれないと。すなわち、オーディオから出ている音を捉えるのではなく、そこにある音楽を受け止めてただ聴くだけ。すなわち、オーディオから出ている音であっても、オーディオ的ではない音。オーディオであることを感じさせない音、オーディオシステムから出ていることを忘れさせてくれるようなもの。ただ単純に音楽のあるがままの感動をもたらしてくれるもの。

それはつまり「いい音楽だ~」と素直に思えるものが奏でられていること。

ただこれも、時として誤解している自分がいる。「オーディオとして」の良い音に納得してしまっていることがあるのだ。電気的機械仕掛けによって出てきた音にすんなりと感動してしまう。良い録音と良いオーディオシステム、それによってもたらされるはっとするようなインパクトのある音に、音楽そのものの是非よりも前に思わず引きずられてしまう自分がいるのだ。これは何故なのだろう。

コンサートなどの演奏会場においては、その音楽がただ単に素晴らしいかどうか、演奏の良否と感動を与えてくれているかどうか、そこにしか注目していないことがほとんどである。音としての是非は問うていない。たとえそこでPA装置が使われていたとしても。これはおそらく自分の意識が「音楽」そのものにしか向かっていないからだと推測している。

かたや、オーディオシステムと向き合う時は、そこで奏でられる音楽は程度の差こそあれ聴き古した音楽で、音楽そのものや演奏がもたらす感動の程度は予め分かってしまっている。このため自ずと意識は音楽全体ではなく、個々の音に向かっていく。ここで打ち鳴らされるこの音がどう聴こえるか、あそこのあの楽器がどう表現されるのか、音の広がりは、エコーの分離は、S/Nは、透明感や繊細さは、ここの周波数がちょっと足りないのかな、出すぎかな、等々。果ては演奏ノイズにさえ聴き耳を立ててしまう。どんどんと聴いていくポイントがより分析的かつプリミティブな方向へ引っ張られる。オーディオで繰り返し聴く音楽には、演奏会における生の新鮮さや驚きが比較すれば少なく、その分緊張感や感動も薄いためにこのような聴き方となってしまうことが理由のひとつとも考えられなくはない。たがこのような時、明らかに心は音楽に集中しているのではなく、オーディオから流れ出す音そのものに耳を傾けてしまっているのだ。

自分の意識がオーディオシステムであることから離れて、声や楽器の音色、旋律、響き、音楽そのものへ意識の鉾先が自然とシフトした時に、ここでの音を「良い音楽」として初めて認識できることになるのであろうか。あるいは、その様に自分の聴き方を仕向けてくれるシステムが本当に良いオーディオシステムなのだろうか。この辺りは何となく論理がぐるぐる回っているようで論旨の整理も表現もうまく出来ずどうしてももどかしさが残る。

オーディオが少しは分かりかけたような気もするし、オーディオ的にも自分の音が何とか纏まってきたと思えることもあるが、それはおそらく自らの願望が手繰り寄せた虚像であって、未だ真理には全然近づいてはいないのかもしれない。あまりシステムを弄りたくなくなる、あるいはその必要性を感じなくなることがオーディオの熟成の尺度のひとつとだと云うこともある。それは限界を悟ったということなのか、設定や構成が落ち着いてきたということなのか。はたまた(これは肯定したくないが)あきらめなのか。

翻って、現在の我が家のオーディオはいったいどうなのだろうか? 最終的には自己満足の世界でしかないとも思うのであるが、おそらく時に程度の差こそあれ、あるいは僅かであっても現状に満足の欠ける部分があるからこそ、あれこれと手を出し、無いもの、足りないものを探してオーディオに精を出すことになっているのではないだろうか。

永い紆余曲折と歴史を経て、心安らかにモーツアルトに聴き惚れることが出来るように徐々になってきたことはささかな僥倖であると思う。オーディオということを少し横に置いて、音楽や音色にも耳を傾けられるようになってきたとも思う。時にそこで奏でられる音楽が至極自然だとも思える時もある。だが、この音がどうして実現できているのか自分では説明できない。単なるオーディオ機器の取捨選択の結果でしか無いようにも思える。また、これが求めてきた自分なりの「良い音」なのだと云える程の自信も無いし、かと言ってほどほどのレベルでまぁいいかと自分自身を納得させてしまうことも出来ない。

現実には、そこここにオーナーによって大切に育てられた良い音のオーディオシステムはたくさん存在している。それは聴けば痛いほどに分かる。ただそれは自分が手にしているものではないし、また自分にとって目指すべき究極のものと同じだと思い切れるものではない、というだけなのである。さすれば、自分にとって究極的に良いと思える音とは一体全体どんなものなのか、これが分かった上で、これを探し、訪ね当てられなければ結局我が道の果ては見えず、ということなのである。

「良い音とは何か」

正にこれは自分自身のオーディオにおける禅問答のような出口無き問いかけだとは思っている。しかし、問わずして答は得られない。


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