2021.12.3 12がつ。

靴下

あー、早い。早すぎる時の経過。
年末までにアレとこれと、ここまでできたらいいかな。っていう小さな目標はきっと一つも成し遂げられないんだろうな。それでも、まぁ、いいか。

「!」っていうインスピレーションは突如起きるもので、例えそれが何にもならなくても、一番に優先します。
だから頭で考えていた小さな目標は、常に後回しなんですね。(笑)
数週間前に、小さな靴下のインスピレーションにとってもウキウキしたので、作っています。
刺繍を施す方は結構な時間がかかってしまう。でも、ウールステッチしてみたかったんです!
お世話になっている方々にプレゼントしようと思います。クリスマスまでにお会いできればの話ですが。
こういう何にもならないアイデアが大好きです。損得勘定が全くないのがいいです。

2021.11.21 カテゴライズ

朝顔

朝顔

この前朝顔の種拾いをしていた時に数センチだった双葉。なんとチビ助が咲きました〜。すごいよ、もう冬なのに。

わたしが精神というものに強く関心を抱いたきっかけは父の病、そして死だったように思います。
弱っていく肉体を見ている日々はどことなく寂しかった。この人がいなくなったら、どうなってしまうのだろう?という不安がいつも心のどこかにあったように思います。そして実際に死がおとずれようとした時、「あぁ。よかった。この人はようやく苦しみから解放される。」という安堵と共に、全くの無音の世界に入り込みました。
死に立ち合った瞬間も、その帰路も、お葬式も、全く悲しくなかった。時折寂しさも込み上げて少し泣くのだけれど、一瞬で去っていく感情。それに不思議と亡くなった後の方が父を強く感じる。とてもイタズラ好きで、ユーモアのあるあのムードを、強烈に。
客観的に自分を見ていると、自分はサイコパスなんじゃないか?と思うほどに冷淡で、冷静で、淡々と葬儀や親族の泊まるホテルの手配に勤しんでいたのを記憶しています。後から聞いた話では、傍にいた母は、わたしの無慈悲に見える態度に驚いていたそうです。
今思うとその時こそ双六でいう「あがり」地点に着地していたことは明らかなんですが、その頃は何もかもが未熟で、自身に起きている体験が異常としか感じられなかったのです。だって皆が悲しい時に、わたしは悲しくならないんだから。そして「わたしと父の間には愛がなかったんじゃないか?いや、そもそも愛って何?」という疑問を握りしめて、精神世界への探求が始まりました。
最初はセラピーをなぞりましたが、運よく根こそぎいってくれるワークに早々に出会え、様々な体験が統合されて、知りたいことはもうなくなりました。
それで、先ほど「サイコパス」という言葉を使ったのですが、例えば他にもアスペルガー、うつ、他にも色々障害としてのカテゴリーってありますよね?性別と同じように年々カテゴリーが増えていっている気がするのですが、要するに社会という枠の中で上手に折り合いがつけられないタイプの人のことです。社会というのは、みんな平均的に同じであることを求めます。一般的な枠から外れると「異常者」になるわけです。そしてそういう「一般枠」を小さな頃から教育として、モラルとして刷り込まれます。個性は社会の中で認められる範疇で。はみ出たら障害という具合です。
多分わたしは、一般枠からはみ出ている「異常者」です。そして異常者の視点としては、「一般枠」にいる大勢の人たちは、「人と違ってはいけない。ルールを守らなければいけない。」ということにいつも一生懸命で、自分自身のハートを置き去りにしがちで、窮屈に見えるんです。
エゴはどこかのグループに属したがります。カテゴライズしたがります。そして知りたがりです。
あなたは男でも女でもなく、一般でも異常でもない。生まれてもいないし、死んでもいない。
分離の癖をやめてみると、ふとあらゆることに境目がないことに気づくかもしれませんね。

2021.10.25 恐怖の本質

朝顔のたね

朝顔が終えて、枯れた枝葉を片付けようと思ったら、ぼろぼろと種が。できる限り拾いました。次の夏に育てたいという方に差し上げていますが、すごい数で。喫茶の方で園芸をするお客さんが来たら、半ば強引に押し付けてます。笑


不安、心配、恐怖。その正体は「失うこと」じゃないですか?
もう一歩。失うことって最終的に「死ぬ」のことじゃないですか?
じゃあ、「死」っていうのは?
エゴは「わたし(エゴ)」の死だけを避け続けます。もし「恐怖」を手放した日には、「わたし」は消滅しちゃいますから、もう必死ですよ。絶対に「苦しみ」だけは手放すまいと。だから問題を生産し続けます。
世の中の常識とはかけ離れますが、「死」って忌み嫌うものでしょうか?わたしからしたら「解放」なんですけどね。
「死ぬ前に死ね!」と古今東西のマスター達が言いますが、エゴがら解放されたら、残るのは「自由な生命」です。
これを思い出すためだけに、あらゆる人が人生をやっている。そんなふうに感じます。

2021.10.11 縁起物

朝顔

朝顔

先日の黄金に輝く田園風景がよっぽど私のハートに刻まれたいたのでしょう。
採れたての稲をいただきました!
あ〜、日本に生まれてよかった。そう思えることの理由を挙げればきりがないですが、そのうちの一つはお米が大切に扱われていること。和食、美しい文化ですよね。
お味噌汁とお漬物があるだけで幸せを感じられる、新米の季節!

そういえば30年来の謎が今朝、解けました。
小さな頃、田舎の祖父母の家で朝方に聴こえた鳥の声が最近ここら辺でも聞こえるんです。一生懸命調べましたら、「キジバト」という鳥でした。そう言われれば鳩っぽい鳴き方。
キジバトの声を聞くと、懐かしさを感じつつ、一方で自動的に幼少期の感覚に同化してしまって「あれ?私っていまおじいちゃんの家にいるんだっけ?あれ?今わたしって、おとな?」という寝ぼけをここ数回しているのですが、はっとしたんですね。あぁ、こうして無意識に記憶を持ち運び続けているだけなんだな。って。
OSHOの講話のお気に入りのフレーズの一部を今日はご紹介します。
"one now, another now,it is a series of now."
私たちは「いま」を記憶の中にたっくさんコレクションして、それを上手に繋げて物語に仕立てる。わたしはこのマインドの連続性を「人生」と呼びます。
こうして「いま」がすっかり抜け落ちた過去と未来で出来上がった「時間」という概念に縛られてしまうのですね〜。
想像してみてください。宇宙飛行士になった気分で、宇宙から地球を眺めるんです。
そこに時間はありますかね?

2021.10.01 長野

霧ヶ峰

母が突然「あしたから山小屋行かない?仕事大丈夫?」と電話してきました。
いつもの思いつきです。はい、私もそういうところがあるので笑えませんが。
丁度2日間なら空けられそうだったので流れに乗ることにしました。
富士山は見えなかったけれど、立山連峰は見事に見えました。槍ヶ岳や剱岳の尖りを眺めつつ、目の前の銀に輝くススキと里山の収穫前の黄金色の田園の輝きに「あぁ、久々に大自然に囲まれた。空気が澄んでいて気持ちいいな。」とほっとしました。

2021.9.28 朝顔

朝顔

朝顔

ここ一週間ほど、店に行くと咲き終わった朝顔の名残りを目にしていて。一度ちゃんと早起きして今年はどんな感じなのかを見よう。と昨日思いまして、それで今日の7時半に見に行きましたよ。(私にしては早起きしたんです。)
風に乗ってきたのか、鳥か誰かが落っことしたのかもわからない種が見事に根づいたのが数年前。それ以降、種を収穫するわけじゃないんですが毎年咲くのです。すごいなぁ。
今年はお店の北西の壁一面に群生。ツルだらけ。
2つのバラの苗をつたって(ごめんよ、ナエマとしのぶれど。)、店のドアの上まで伸びました。
手をつける気がしなかったのも納得。
あるがままの自然が一番のアートだと思わされた今朝でした。
図らずも秋のしのぶれど(薄紫色のバラ)と共演してる!開店前に花々に囲まれる喫茶店っていうのもよいではないか。
嬉しいなぁ。気が向いたら来年もよろしく。と図々しくお願いまでしておきました。
それにしても去年と違う色の花が咲くのもまた不思議。今年はとびきりお気に入りの色です。

2021.9.27 ヒーリングと手放し

曼珠沙華

うちからでも歩いていける緑地があります。都会には手付かずの自然などないというのは思い込みですね。初夏まで竹林ではウグイスの合唱も楽しめます。

前回、少しだけ癒しについて触れた時に思い出したことがあったので、書いてみます。
随分前に、パートナーが手湿疹で悩んでいました。
皮膚科に行ったら「これを直したければ、水仕事をやめるしかないね。ステロイドを一応出しておくけどね。」と言われたらしく、もうあの皮膚科には二度と行かないと憤慨して帰ってきました。
丁度その頃、私は動物実験を行っていないメーカーを友達から紹介してもらっていて、シャンプーや化粧品、歯磨き粉などの日用品を見直していて、そのメーカーにハンドクリームの取り扱いもあったので、パートナーにも勧めてみました。
彼はお医者に見捨てられてお先真っ暗状態だったので、藁にもすがる思いで毎日ケアしていました。そしてある時から、湿疹どころか、指先から手首まで膿だらけになってしまったのです。治りかけに大きな毒出しがあって、それを「好転反応」と呼ぶことはあらかじめ聞いていましたが、当人の辛さをそばで見ている私にはどうにもできず、ただ見守るしかありませんでした。
そしてとうとう「痛みに耐えられない。辛い。このクリームやめてもいいかな?」と聞かれ、一途に毎日ケアを続けている彼を誇りに思い、「本当に十分やったよ。このクリームはもう忘れていいよ。」と彼の忍耐強さを讃えました。
拍子抜けするかもしれませんが、物語はここでおしまいです。
数日後だったか数週間後だったかも今となっては忘れましたが、「あれ?そういえば、手はどうなったの?」と聞くと、本人もあれ?という表情。「まじで?自分の手のこと、忘れてたの?」
じゅくじゅくの傷はいつの間にかなくなり、普通にあのハンドクリームを再びぬりぬりしている彼がいたんです。(今でも塗っています。笑)

さて、手放しとは「さぁ、手放すぞ!」と能動的にするものではないという事です。
ひとりでに落ちていく状態のことで、それは受容的です。
手湿疹は最終、外側の努力ではどうにもできませんでした。今、私にははっきりわかるのですが、彼には真摯な祈りがあったはずです。
誰かや何かではどうにもできなくなった時、私たちはどこに願うのかを深い部分では知っています。内側に深く深く入ったのだと思います。
真摯に「自分ではどうにもできませんでした。どうか助けてください。」と願ったはずです。その時はじめて、不可知な領域からのヒーリング(自然治癒)が起きるのです。
自力ではお手上げ状態になって初めて、真摯にそこに向かえるのではないかと感じます。そして、真摯にそこに向かうことだけが重要なのであって、そこには取引(エゴ)はありません。神と取引しようとしても無駄です。愛は損得じゃ計れないから。エゴと神様は一緒にワークできません。
「こうしたら、よくなった。」という成功体験はありふれていますが、大抵は思考の解釈のひとつに過ぎません。だから皆結果が同じということはありませんよね。
よくしようという余力がゼロになり、コントロールという執着が落ちた。もちろん痛みそのものは多少続いたのでしょうが、痛みイコール苦しみではなくなった。だから傷を問題視しなくなった。
DoingからBeingへの意識のシフト、これが手放し、明け渡しです。

2021.9.15 トラウマ

曼珠沙華

曼珠沙華

「庭に咲いていた花なの。」と新聞紙に包まれいただいたのは、お彼岸の花々でした。
水揚げするよう丁寧に手入れしてある白い豪奢な曼珠沙華、手を切る勢いの生き生きしたすすき。このお花をくださった方のお母様が亡くなって一年と少し。お花の先生だったというお母様にお会いしたことはないけれど、お花を通していま出会いを強く感じ、深い感謝が溢れ出す。閃光花火のような小花の枝は、午後遅くから数時間だけ開花する神秘的な花。どなたかが「萩の仲間じゃないか?」とおしえてくださって、納得しました。

身体の内側に生じる感覚的な痛み。例えばお腹がグルグルしたり、ハートがズキズキしたり、発声しづらい喉の違和感など、人それぞれ様々な反応があるんだろうけど、私もそういう痛みを時折感じていた。小さな頃から緊張したり恐怖などの不快感を実感している時に生じる痛みなんだけど、それが日常の中で当たり前に馴染んでいるので、無意識になっていたんです。で、20代半ばにセラピーや瞑想、チャクラという目に見えないエネルギーシステムを知ってからその痛みを「これ、当たり前に見過ごしていたけれど、何だかおかしいぞ。。」と自覚するようになって。そのうちに「あぁ、これが幼少期のショックに基づく痛みで、孤独感のはじまりの一つだ。」と理解するに至りました。
ある時、第2チャクラがグルグルと不快感でいっぱいになったんです。意識的にそれと共にあるわけですが、ふと気づいたんです。
これは「私は大切に扱ってもらえない、私のことちゃんと見てくれていない。」というプライマルな信念だということに。そのエネルギーと無意識に一体化すると、「どうせ私なんて。」という拗ねとして日常生活に影響を与え出すんですね。これには相当な観照が必要でしたが、エゴの働きの巧妙さにはいつも驚くしかないですね。
例えば虐待やいじめなどの相当なトラウマも、私のことで言えば3人兄弟の一番上で、私の後に二人の妹弟が誕生することによって多忙を極めた親が、一人だけに愛を注ぐ場合ではなくなったために生じた傷(「私は大切に扱ってもらえない、私のことちゃんと見てくれていない。」)も、大きい小さいに関係なく「喜びから切り離された経験」には変わりないわけです。
自覚があろうとなかろうと、傷というのは誰もが抱えているんですね。そしてその傷をもとに、新たな「痛み」を次々に生産する仕組みになっている。
そしてその傷は、自分自身にしか感知できず、従って自分自身でしか解決しようがないわけです。
結論から言ってしまえば、その傷は単なる「思い込み」なんですが、そうは思えないほどにリアルに感じますよね。
「ああ、思い込みですか。」ポイッ!と手放すことができれば、みんなこんなにお金や人間関係や病気に痛みを投影して悩んだり苦しんだりしないわけです。
手放すというのは、例えば何十年と硬く握りしめた拳を、開くこと。閉じたままの硬い拳をどう説得すればよいのでしょう?
インナーチャイルドを癒すワークなどが対処療法的には効果があるんだろうけど、私が自分自身をみる限り、そういうものだけではエゴはなかなか落ちていかないです。それどころか、そういうものも自分を強化するエサにしてしまうのです。「今よりいい自分」を目指してしまう。玉ねぎのように剥いても剥いても、次の傷、次の傷、と問題を探求してしまう。
もはや苦しみたくて苦しむ状態を作ってしまうんです。信じられませんよね?でも、エゴが生き残るには「私の」苦しみが必要なんです。
勿論、癒しはとても大切です。でも、癒しというのはそもそも誰がどこに起こすのでしょう?

いざなわれたのは、瞑想でした。
ただあるがままを見る。そうしたら知らず知らずに自分に力が入っていることに気づいて、拳を緩めた。そして拳の中には何もなかった。私はこれを禅と呼びます。
この静かな体験をそろそろ共有するのかもしれない、そう思っています。お問い合わせをちょくちょく頂いているOSHO禅タロットのコースを始めようかな。という心境です。

2021.8.17 まなざし

イタリア

macの写真の中を見ていたら、10年近く前に訪れたイタリアの写真を数枚見つけました。
今日のはヴェネチアの路地裏。おばあちゃん達が愛おしくて撮った記憶が蘇りました。

小さな頃、疑問に感じていたこと。
私は他の人を見ることができるのに、同じように私自身を見ることができないのは何でかな?
私は人には二つの目と、二つの耳と、二つの鼻の穴を確認できる。でも、視力検査や聴力検査や鼻詰まりなどの不調がない限り、実際には一つの目で見ていて、一つで聞いていて、一つで匂いを感じている。なぜだろう?

同じように感じる人がいてくれると思います。見ようも聞こうともせず、その一つのまなざしに静かに溶けていく。これが最近の寝る前に行う趣味です。あなたもこの話を思い出したらぜひやってみてくださいね。

2021.8.15 いのち

cat

cat

有名人のいのちに対する個人的意見で世間がにぎやかです。
発言者本人にとってもその他の人々にとっても、今一度いのちについて向き合うとてもいい機会だと思います。
このブログでも度々「いのち」について書き記していますが、今回の騒動は焦点が的外れなので、本質的な1点さえ看破してしまえば、あらゆる問題は一度に消えます。でも、真実は空気のように捉え所がなく、普遍的で、なかなか見破れないのかもしれません。
個人はそれぞれの身体に一人一個ずついのちを所有している。という集団的幻想。これが的外れな点です。みんなで偽の思い込みを共有している。
本当はいのちはひとつしかなくて、そのいのちが私たちを生きている。いのちを共有しているんです。あらゆる生命が。(肉食を避ける人の多くは、同胞であるいのちを大切に扱いたいという美的感覚に由来すると感じます。)
私たちは自分で生きている気になっていますが、例えば血液の循環ひとつとっても、自力で行えませんよね?
あなたが寝ている時、息をすることを忘れていますが、誰が息を止めずに身体を機能してくれているんでしょう?
「いま、いのち生きている」。そのことを思い出せば「自力」は消滅します。
絶対他力の縁の中で、この地球では70億もの個性的な人間がダンスしている!
思考でさえも、考えようと思って考えているわけではなく、湧いてくる何らかの縁によって生じる。だから、残酷な出来事も、罪悪感も、あさましさも、許せない思いも怒りも、やるせない自己矛盾も、どうしようもない混乱も。そして恐れも。そういうことでさえもこの場で起きることが許されていると言っておきます。存在が表現を許しているんです。だから、起きていることは全部許されている。戦争というのは平和という相対的対象がないと存在できないんです。コインの裏表のように。
どんなことも、ただ一つのいのちしかないことを思い出すためだけに用意された娯楽なのかもしれません。陰陽のコントラストが激しいほど「いま、生きてる!」って実感できるから。

写真は…久しぶりの登場!
「なんだ、君かね。」という表情でカメラを向けてもこの通り一切動じません。お隣のお姉さんがまたプンスカしちゃうかもよ。

2021.8.12 心配から信頼へ

flower

flower

ホームページで圧倒的に人気のページは多分トランスフォーメーションタロット。
あらゆるカードが指し示しているのはたった一つの真実。
その真実というのは不立文字(言葉では現せない)で、したがって70話以上の方便を使ってたった一つのことを指差しています。
この現象界は二元性の世界で、相対的。陰と陽があります。絶対的なことはそれ以前の存在です。陰と陽を包み込む広大な空、それが非二元性。
何でも自力で問題解決し、地の果てまで探求しつくしたと思い込んでいても、結局全てはお釈迦様の掌の上でのことだった。という西遊記の孫悟空。(すごい名前!)
最初からお釈迦様の掌の上にいるから、どうしたって失敗(そして成功も)はあり得ない。ということです。
この見えない掌を信頼することを「信仰心」と言います。
お釈迦様の手のひらの上にいる「わたしたち」はお釈迦様の一部なのだから、実は最初から救われているというのが仏教のおしえです。
海が波を切り離すことができるでしょうか?全体が一部分だけを愛さないなんてことは無理です。あまねく隅々までその存在が認められている。
「すべき」ことなどない。そもそも事は起きているだけで、やっている「あなた」はいない。
だから、心配や不安という思考から意識的に離れて、今起きている流れを信頼することです。

ぐるぐる巻かれた包装紙を開けたら、出てきたのは白と緑の涼やかな花束でした!
とびきり嬉しかったです。

2021.7.28 ジェネレーションギャップ

羊歯

オリンピックで注視しているのは、新しい世代の選手の感性。
ここ数年、カフェに来る若い方々に対して「何だか空気感が変わってきている」と深く実感していたので、オリンピックで多く活躍するであろう世代を楽しく観察している。
ここまで世代による意識の違いが起きるのか。と感心できるのも、それなりに自分が年齢を重ねてきたからかもしれない。
「考える」より「感じる」タイプが多く、年上の大人世代より静かで軽い。(お財布もそれを入れる鞄もとても小さいのには毎日のように驚くのですよ!)
スケートボーディングで目撃した選手たちは、ひたむきに「今」にいた。空気に乗る感覚を、彼らはあまり言語化しない。競争よりもお互いの尊重に意識がシフトしている。
波乗りする選手は競技後、海岸で海に向かってひざまずいていた。その脱力に彼は自分にできることはなく、自身は自然に生かされていることを深く理解しているように見えた。

絶対他力。
あらゆる宗教の根本にある真髄を、彼らは肌で感じ取っているように思える。

2021.7.15 楽天主義2

おやつ

もうひとつ楽天家さんの話を思い出しました。
これも一年前、加齢に伴う白内障の手術をしてもらった母。
目が復活して楽譜が見やすくなったので、ここ数年弾けなかったピアノを楽しみ始めたようです。
「指鳴らしにノクターンを弾いてるんだけどね、久々にたった一音だけなんだけど、音が底まで届いてね、すごく胸がキュンとして、愛が広がったの。」
「素敵ねぇ。私も久しぶりに鍵盤触りたいなぁ。多分、プロも初心者も、みんなその瞬間に出会うためだけに弾き続けるんだろうね。」と返答したら、「そう!そうなのよ。神との出会いよ。だから私は音楽を人に教えられなかったのよ。こんなもの、出会うしかないんだから。」だそうです。(瞑想にも啓発にも全く同じことが言えますね)

真の芸術家は、信頼だけがある。行為と一体になることで自分を超え、存在への帰依が容易く起こるのかもしれない。

2021.7.15 楽天主義

ミナペルホネン

急に一年ほど前の母との会話を思い出して、これはひょっとしたら誰かの役に立つかもしれないので書いてみます。
足を怪我して病院に行ったら、何かの数値がよくないというのでMRIを。という運びになったらしい母。
「MRIって何だか気分悪いじゃない?だからほら、そういう時には昔から、例の気分転換やるじゃない?そうしたらね、結構楽しくなっちゃって、あっという間に終わったの。」
・・・「例の気分転換」の話、あなたの娘40年以上やってきて初めて聞いたんですけど。笑
今回はどういうふうに気分転換したの?って聞いてみたら、嬉しいこと考えたり、今思いつく曲や歌を心の中で歌うんですって。
これって大人気の「引き寄せの法則」ですね。もちろん本人はそんな法則の存在を知らないんですが。感情というのはあなた自身ではないので、いかようにも解釈し直せるという話です。
(私の理解では、引き寄せの法則は色即是空でいう「色」の世界の話。「空」を理解せずに「引き寄せられないじゃん!」って人が多いと思います。本当は引き寄せる人と引き寄せられる対象に分離がないことへの信頼が必要です。このことについてはまた今度、気が向いたら書きます。)

昨年お土産にいただいた手拭い。今年こそはこれであずま袋を作りたいです。

2021.7.12 蝉の声

芍薬

巷に溢れる「〇〇らしいよ」。噂話にテレビやネット、SNSの情報。
真実を最も遠ざけるトラップ。それらにはあまりエネルギーを注がないようにしている。
頭が知りたい情報。記憶として蓄積された過去たちが頭の中を占領し、まんまと「いま」を逃す。
部分的に切り取った情報に良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そういう相対のラベルを貼る遊びも楽しいけれど、多くの人がそれに無自覚に苦しむ。その循環が人生だと感じる。「一切皆苦」ですね。
芭蕉の俳句のようなありのままを感じるには、常に湧き続け、自動的に同一化する思考から離れること。
ただ場だけが展開している。思考を使わなくともつつがなく流れているこの有機的な事実を目撃できたなら、あくせくうごく「私」のちっぽけさを笑いとばせる。特別なことなんて何もなく、ただ在るだけ。こうしてわざわざ書き記すのも、私もこのことをうっかり忘れてしまうから。
名古屋は蝉の声が聞こえ始めました。夏が始まりました。

2021.7.11 なんとなく、しおめ

リバティ

ここ数日、瞑想中に身体がないことをより体感しています。
これは物理や科学でとっくに証明されていて、人体をクローズアップして、細胞の原子レベルまで突き詰めると、最後は空っぽだそうです。その他の地球の自然も人体も全く同じ原理で、つまり、あらゆる生命は同じものでできているということです。
人間だけが色々なものに名前をつけて記憶を強化する能力を持っているので、まぁややこしくなるんでしょうが。なんか、それが今弱まっている気がする。
こういう時だからこそ、私が普段心掛けていることをシェアしてみます。
体調が悪い方は、まずは精神的なケアをするのがいいです。瞑想などで徹底的にくつろぐ。
精神的に大変な人は、身体のメンテナンスから入るのがいいです。整体やヨガやストレッチなど。
それとあれこれと手を出しすぎるのはあまりよくないです。「あれこれ」っていうのはマインドの特性で、散漫なエネルギー状態です。難しいけど、何もしない。大丈夫、必要なことはひとりでに起きるから。存在を信頼することです。

そんなこと言いつつおまけに色即是空の色の世界のはなし。画像の今季のリバティ生地にニマニマしてます。大英図書館所蔵の架空の地図。大好物!

2021.6.27 一度に更新しました

ねこ

みなさん、お久しぶりですね。過去に記しておいた記事を5つアップしました。
macのOSが新しくなって、今日は記事をアップするための転送ソフトをアップグレードしました。半年経った今も右往左往しています。
今日、自転車置き場で見かけたので、遠くからズームアップして写真を撮りました。
お隣のお姉さんが最近とてもピリピリしたムードを醸し出している原因はこれだと推測します。
自転車カゴはしっかりファスナーが閉まっていて、その上にペットボトルがたくさん入っているのですが、ご覧のありさまです。(というか、ペットボトルのラベルを外さないと意味ない気がするんですが。笑)まるで我が家のようにすやすや寝ています。ホモサピエンスが作ったルールは彼らの世界にはありませんものね。このくつろいだ様子、右手の愛おしさよ!

2021.5.10 特別であること

レモン

琵琶

あんな人になりたいな。ってよく聞くフレーズですけど、これはエゴの基本システムだと認識していて、ここから派生するのが「比較」や「判断」です。
自分より上を設定してしまえば、自然と自分より下も設定されてしまい、常に比較の世界にはまってしまうわけですが、劣等感(優越感も一緒です)を強める作用があるように思います。

禅は、まずは自分自身の権威を取り戻せと言います。
例えば、瞑想をしていて、目の前に尊敬するブッダが現れたとしても、そんなものはさっさと切り捨ててしまえ。という具合です。なぜなら、それは単にイメージに過ぎないから。イメージっていうのは、来ては去っていく風のように実在しない思考です。
人間は社会の中で無意識的に自分より上や下の存在を設定してしまうんですね。
禅のいう真実は、宙に浮くことができたり、過去世が見えたり、天使とお話ができたり、そういう精神世界で言われている特別な存在ではなく、ただただありのままを生きている「ふつー」の存在に全肯定があるということです。ただ在るだけで十分だと深く理解している人がマスターです。

「特別であること」ってエゴの仕組みの一つなんです。人と違った特別な何かを主張する。これは分離を強調します。
特別性を主張している人ほど、それと同量かそれ以上の恐れを自身が抱いていることをどこかで知っているはずです。この自己欺瞞は劣等感からきます。 「特別な存在」でいないと、自分が無価値だと感じるからです。


あなたは一人ぽっちで宇宙に放り出されたような孤独感をなぜか持っている。
自分だけが、愛から切り離されたような気がする。
自分だけが、大きな孤独感に包まれているような気がする。
このどうにもならない独りぼっち感を、実はほとんど全人類が深いところに持っているということ、知っていますか?


本当は、みんな一緒。
どんなに偉そうに見える人も、惨めそうに見える人も、お金持ちも貧乏人も、家族がいる人もいない人も、ちゃんと皆それぞれに同じ孤独を抱えながらも、あろうことか一つの同じいのちを生きている。
そのいのちは、大きな安心で、とてつもなくあなたを愛し、あなたを赦している。
ただそれを忘れてしまっただけ。忘れているだけで、今もつながっている。というか、離れたことなど一度もないのです。
だからあなたはリラックスして、ただただ在れば十分なんです。

画像は頂き物のレモンとびわ。お土産でいただいたどっさりの無農薬瀬戸内レモン。図らずもすごく美味しいお茶のレシピが誕生したので、来年は瀬戸内レモンを取り寄せます!コロナで帰省できない友人からは無農薬のびわが届きました。コンポート、がんばって作りました。

2021.4.25 いま以上の何か

アンブリッジローズ

ミスティパープル

お金、関係性、健康。
人間の現象界の悩みは大体この3つに集約されています。
いま以上の収入、いま以上の人間関係、いま以上の健康や美容。

誰もが記憶にあると思いますが、得られたと思って一時の満足をしても、次の「欲しいもの探し」が間もなく始まりますよね?こうやって、人類はアレクサンダー大王すらも得られなかった永遠の幸福の約束を、自分だけは得られるかもしれないという希望を持ち続けるわけです。

多くの人たちが必死になって獲得しようとしているもの。
それは常に思考の中に漫然とあり続ける欠乏感を埋めるための代替品に過ぎないんです。

今以上の何かを獲得するための問題解決に、希望を与えるセッションに力を注げなくなりました。

一時的な慰めをしたところで、それが根本的な救いには繋がらないどころか、同じ所をぐるぐる回り続けるだけで、苦しみは依然としてあり続ける。

そんなことを感じていたら、去年あたりからは会社経営者の方々のセッションが増えてきました。
今度はお金も関係性も健康も、一通り手に入れた方々です。
物質次元では満たされきったはずなのに、依然として欲求不満だと感じる。
つまり、欠乏感や分離感が決して形あるものでは埋められないことを経験を通して知らされた人々です。
もう欲しいのもがないのに、満たされない。これは絶望的です。絶望とは、文字通り望むものが絶たれた状態のことです。
人生がどん底でもう生きる術がない。という人も同じですが、絶望を感じた時、人はようやく今までとは異なるベクトルに導かれていくようです。
いつからか当たり前に「いま以上の何か」を求めてしまうこの思考システムそのものにようやく疑問を抱けるのです。何かが足りない。「足りない」はどこからくるのか?

いずれにしても、このへんぴなセッションルームに勇気を持ってきてくださる方々は「あれ?この世界ってちょっとおかしいぞ?自分って一体何なんだ?」と気づいている少数派の方々です。
その「自分」に目を向けて、広い世界の中にちっぽけな自分が生きているのではなく、大きな大きな自分の中に世界物語が展開していることを共有できればなー。なんて思います。

2021.4.10 スズラン

鈴蘭

鈴蘭のプレゼントをいただきました!
部屋中がとってもいい香り。
言葉が出てこないので、今日はこれでおしまい。

2021.1.30 トラディショナルヨーガ

笑う地面

色々なところで歳とったな〜って実感するんですけど、一つは時間の流れが早く感じること。
みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。
こうやってテキストを起こしているんですが、macを10年ぶりに新調したら、10年分の進化にまごついています。このテキストのアップもいつになることやら。です。htmlファイルが開けないなんて!photoshopも開けないなんて。おそろしや。ちなみに今日載せるつもりの画像は、新しく作家さんから迎えた絵画なのですが、多分小さすぎて十分にお見せできていないと思います。PC作業が億劫なこの頃です。
ただひとつ、様々な分野でオンライン化が進んでくれたお陰で、近所では習うことのできなかったトラディショナルヨガを習い始めました。
やっぱりスポーツ化したヨガとは違いますね。パタンジャリの教えのおかげで座るのが楽になりました。しかもヨガの後は本当に身体がないんじゃないか。っていうくらい楽です。

2020.11.11 お久しぶりです

しのぶれど

あっという間に前回の日記から月日が経っていました。
私は元気で、おかげさまで存在に恵まれながら日々を過ごしています。
ここ一年で、セッションの内容もかなり変わってきました。
沈黙の中でしか伝えられないこと、静けさの中での直接体験でしか真実に触れられないことに皆さんが気づき始めています。
私は幸運なことに、あれこれ語る前に黙って坐れ。という先生たちに恵まれてここまできました。
本当にありがたいです。本当に。
社会に反しろとも、社会に溶け込め。とも言わず、彼らは、無言で社会を超えろ。と伝えてくれたのです。
このことに深く気づけたのは最近のことのように思います。
というのも、実体験を持って言えるのですが、どうやっても社会と真実は相容れないのです。
社会の中に瞑想を持ち込むのは難しいです。
瞑想というのは極めて個人的なプロセスなんですね。そういう意味で、一人につき宇宙はひとつという表現がしっくりくるかもしれません。
極めて親しい関係性の中でも誤解が生じ得るのは、ひとりひとりの違った世界の見方がある所以です。
社会の中ではそのことに気づいていることだけが肝です。
現状を良くすることも、悪くすることもコントロールできない。でも、ただそれがいま起きただけ。これを見つめている、その認識だけで十分じゃないですか?
これまでのことも、一切合切、終わったこととして忘れるのがいいです。もう終わってしまったことはどうにもできないんですから。
未来もそうです。取り越し苦労して、あなたが気が楽になったことって、ありますか?
はっきり言いますが、未来に「起きる事実」なんて、誰にもわかりませんよ。
心理学や占い師、あるいは遺伝子学といえば分かりやすいでしょうか。それが「読める」のは、過去のパターンに基づいた思い込みがあるからです。
「よめる」と言われるものは自身の「過去の記憶」に基づく「後天的な慣習」です。育った環境や社会の中で身につけた条件付けのことです。
条件付けに沿っていけば、あらかた予測は可能です。
真実は、起きることが起きた。それだけです。これからだって、起きることしか起こらない。しかも起きることって「いま」しかないんです。いま、あなたは今にいるでしょう?
「いま」というものだけが、ここの次元に息づいているんです。過去や未来はあなたの頭の中にしか存在できない。
あなたがいまひらけば、ただただ世界はもっと広がります。
過去や未来の物語を一旦脇に置いて、いまここでまったりしませんか。

2020.4.30 わからない、にひらく

瞑想について

過去のウェブログのアップもままならないまま、この日記を載せることにします。
いま、世間が新しい疫病のことでてんやわんやですから。
私個人の生活でいうと、何も変わっていません。ちょっとヴィパッサナー瞑想の時間が増えただけかしら。
でも外を見渡すと、殺伐としたムードで、結構びっくりです。
私は常々、自分の内側を注視することに夢中で、世間が賑やかな十数年前から、わざわざ外界とのコンタクトをシャットアウトするリトリートに参加し続けていましたし、休みの日は外に出ることの方が少ない気質です。
パートナーは7年前に小さな喫茶店を開業しましたが、3密といわれる以前から、ほどよいスペースと音楽を優先する空間をベースに、着実に事業を展開していました。その中で、彼が瞑想に深く魅了されていくという過程は自然なことだったように思います。
つまり、我々にとって今なお依然として心地いい環境なのです。外側で起きていることは全く関係無く。まったく、です。
コーヒーや紅茶を飲んで、ほっと緩むお客様を毎日お見かけし、安心できる空間を保つことの恩恵を感じています。
恐怖はあまりありません。誰かが決めたルールにも振り回されません。
「自分」で何とかできるから大丈夫、といようりも存在が運んでくるものを信頼しています。
物事に対して、「こうあるべき」というものはなく、「それは正しい、間違いだ」ということもなく、ただ、あるがままです。
どうなるかわからない。けれども、今できる精一杯を今に注ぐ。それだけです。
でも、これを読んでくださるみなさんに振り返ってみてほしいのですが、今までもそんな感じでしたよね?
何が起きるかわからないし、何とかなってきたから、今があるんでしょ?だったら大切なのって「いま、どう感じるか」じゃない?
最近、インスピレーションが頻繁にあります。
「安心したいなら、いますぐくつろげばいいよ。君たちは、いつも順序が逆なんだ。上手くいったらくつろぐんじゃないよ。まず、リラックスしてごらん。そうしたら、君が望んでいることを届けるから。ちょっとだけタイムラグがあるけど、待っていてよ。絶対にそれを届けてみせるから。信じて待っていてね。」
これは、私の大切なクライアントさんたちにもきっと大きな助言になると思います。
だからまず、あなたの中を空っぽにしてみてくださいね。本当にくつろいでいるときは、あなたの頭は機能停止します。その空っぽの時にだけ、神様がお仕事ができるんです。自分が頑張ろうとすることを、引き算する。--ちょっと目を閉じてみてください。
難しいと感じる人は、まずはテレビを消してみてください。そうするだけで、「コロナウィルス」があなたの頭の中にしか存在していなことに気づくかもしれませんから。

2019.12.3 This, too, shall pass away

瞑想について

この一年で、お客さんや友人からよく聞き、よく響いたワードは「これもまた過ぎ去る」です。
これはスーフィーの有名なお話で、他のタロットで語られる真実同様、この物語の背景もまた深淵でシンプルです。
どこで受け取るかによって、深みが違うのです。マインド(あたま)での理解とマインドの手の届かぬ領域での理解は全く次元が異なります。
タロットの解説では、追っ手に迫られ、もうここまでか。という王様が指輪の裏の刻印を見るところで終わりますが、実はその続きをOSHOは語っています。
もうここまでか。というピンチを逃れたソロモン王は、逃走に成功し、さらに再び国の繁栄を獲得しました。国中が祝福するそのカーニバルの佳境で、王は再び指輪の裏の刻印を意識的に見つめることになりました。
「これもまた過ぎ去る」ーー

この「これもまた過ぎ去る」はどこからの誰の声でしょう?
この格言は、わたしたちが現実と思っている「山あり谷ありのせかい」より、ひとつ奥の次元からのメッセージです。
いつもあなたの頭の中で流れる物語を眺めている「いま」の余白。決して、世界に巻き込まれることのない、無色透明の「それ、そこ」。それは、あなたが小さな頃から馴染みのあるスペースなはずです。そのスペースに他のものを持ち込まずにどれだけ垂直にダイブしていけるか。できればそこで、とことんくつろぐ。それを私は瞑想と呼びます。
このせかいでは「外側から手に入れる」ことに価値が置かれる一方、瞑想は「空っぽになる」ことです。外側から得る知識と内的洞察は全くの別物です。「自分(のもの)だと思い込んでいたものを見つめては消え、見つめては消え、気づいたら空っぽ。変化するものは表れては消えていく。そもそも失うものもなければ得るものもない。最初から大丈夫だったんだぁ。」という体験に私は救われました。これはお金や権力や、愛の言葉では代用できないほどの根本的な安堵です。逆に言えば、お金や名声や愛情の欠乏感はこの安堵を知らない限り、埋まらないどころかもっともっと次々と求め続け、不足意識を抱き続けることでしょう。本当はどこにも問題なんてありません。問題は頭の中にだけあるんです。このことを、体験を通して理解することができれば、この世界をさらに自由に創造し、楽しめると思うんです。

写真は先日お客様から頂いた蜜蝋のロウソク(手作りだそうです。すごい!)とりんごの燭台。アドベント期間のお祈り用に作られたもののようです。暖かい蜜蝋キャンドルに癒されます。クリスマスまでの静かなカウントダウンを楽しみますね。ありがとうございます!

2019.9.19 台湾

taiwan

台湾へ行ってきました。
楽しみは台湾烏龍茶と台湾紅茶、それからレストラン巡り。
あとはマッサージをしてもらってホテルでゆったり。
印象的だったのは、台湾の人々の素朴さとやさしさ。
接する人みんなみんな、ハートで接してくれました。
感謝に溢れる旅だったなぁ。
お土産話をひとつ。最終日の終盤に、整体マッサージを受けました。鉛のように重かった体がまるで羽根のように軽く感じられて、本当にびっくりしながらふわふわ歩いていたら、ホテルの脇の大きな段差につまづいて、捻挫。状況だけ見ると、まるで天国から地獄。でも、そんなドラマティックな自分を見つめたら、大笑い。心配して駆けつけるドアマンたちをよそに、こけた人間が笑っている。
まさに転ぶその時、私の頭の中は「チェックアウトまであと15分。ちょっと急ごうかな。」でした(笑) 頭の中のドラマに没頭すると、この通りです。

2019.8.30 おみやげ

コンフィチュール

イタリアンロースト

立て続けにヨーロッパのお土産をいただきました。
旅先のお話を楽しそうに語ってくれるお姿を見ると、まるで今、一緒にその地に旅行している気分になって、嬉しい。
上の写真はパリから来てくれたライムとはちみつとハーブのコンフィチュール。初めての組み合わせにどきどきしています。お魚のムニエルに合いそうです。工夫次第でサラダのドレッシングにもなるかもしれない。わくわく。
下の写真はイタリアはナポリから。エスプレッッソ用に挽かれた、(多分)イタリアンロースト。一杯目はネルドリップしてみたら、目詰まりを起こしたので、2回目以降はエスプレッソ仕様でエアロプレスで抽出。少ないお湯でトロっとろに淹れて、たっぷりのミルクを注いで。想像を超えるおいしさでした!「天国のカフェラテ」という名前をつけました。
いつもいつもありがとうございます。

2019.7.21 刺繍糸

刺繍糸

叔母が趣味の刺繍を終わらせたようで、大量の刺繍糸がいきなりやってきました。
「捨てると言うから、もらってきたよ。」by 母。
「……あ、ありがと。」by私。
あなたも私も、断捨離どこいった?人の断捨離したもの貰ってくるってどうなってるんだろう?笑
しかもその数日前に、スモッキングのための刺繍糸を大塚屋で目を皿にして、厳選して買ってしまったわたくし。この感じだと、絶対同じ色あるよなぁ。(実際にもらった刺繍糸は写真に載っている倍の量です。。)
こういうのってあるあるですよね。
この前も「そうだ、レタス!」と思ってそそくさと買いに行ったら、その日のうちに2人のお客様からレタスを1玉づついただきました。 3個のレタスで野菜室いっぱい。旬の野菜やフルーツなんかはかなりの確率でこれが起きますね。そういえば数年前の12月にはシュトーレンがいくつか集まってきて、軽いパニックになりました。いい思い出です。

2019.5.14 瞑想について

瞑想について

セッションにお越しくださる方によく瞑想について聞かれます。
瞑想ってなんだろう?
瞑想"法"と言われれば、それが起こりやすくするための技法なんですが、瞑想そのものは私には語彙では表現できないのです。そういえば以前、納得いく論理的表現を聞いたことがあります。「瞑想とは人生という土俵から一旦降りること」。
自身の役割から一切手を引き、くつろいで、今起きていることに気づいていること。------なにもしないこと。
実は、無意識ながらもあなたは毎日この状態を体験しているはずです。
そう、夢を脇に置いて、ぐっすり寝ている時!
瞑想に対してちょっとハードル高いな。っていう人に単純なを提案してみます。起きている時に、意識的に自分をまるで寝る時のようにくつろいだ状態にもっていく。思考と一体化しないために、自分の呼吸を見つめているとよいかもしれません。これならちょっと気楽にできそうじゃありませんか?コーヒーカップを持っている時でも、通勤電車の中でも、ちょっとした待ち時間にでも、あなたの頭の中を駆け巡る、そのお喋りに気づいてあげて、一度「ストップ!」してみましょう。「意識的に」というくだりはかなりのポイントです。その時、それを認識している存在。目撃者。それが「瞑想、即ちあなた」です。
それと、もうひとつ。瞑想(なにもしないこと)は恐怖とは無縁です。宗教は特に、人々を一定の信念に縛り付けるために「正しいやり方じゃないとよくないことが起きるよ。言った通りにやらないと、バチがあたるよ。」みたいな条件付けを与えてきました。祈りそのものを良いとか悪いとか、どっちかに偏らせるのは無意味です。
あなたが真にくつろいで、はたして神様が怒るでしょうか?
あなたに愛ではなく、恐怖を与える存在は「エゴ」と言われているものです。「リラックス」が基なのか「恐怖」が基なのか。そこに立ち返ることができるのならば、きっとあなたは瞑想とすてきなお友達になれることでしょう。皆さんがご自身にあう瞑想を見つかればいいなぁ。と思います。

2019.5.10 薔薇の季節

ミカエル

ミスティパープル

今年も薔薇たちが満開!芳しい香りに包まれる毎日。
昨年死にかけたミカエル。復活して、10センチは優に超える大輪!

この春、人生初のブラームスのブームが到来。グールドの弾く間奏曲にぞっこんです。
瞑想をする人ならきっと好きになるはず。今までロマン派はちょっと。と遠ざけていた自分に言えることはひとつ。
「苦手の奥には大きなギフトがある!」
以前から何となく、ブラームスからは宇宙的な大きなスケールを感じていたのだけど、やっぱりそうだな。と感じる。いのちの源泉からこんこんと湧き続ける流れ。それが永遠に漂う、究極的な「やすらぎ」の間合い。
もはやあらゆることに意味や目的などはじめから無かったことに気づかされる。

無常。

そういえば間奏曲に初めて真剣に耳を傾けた時、「川の流れは絶えずして〜」の方丈記が脳裏をよぎった。まぁ、表現方法はブラームスの方がロマンチックですが、本質的には伝えたいことは同じことのように思えます。

2019.4.27 すずらん

すずらん

年々小さくなりながらも咲いてくれるヒヤシンスの鉢。
今日、何気に見たらびっくり。。。なぜかスズランが!
いつか植えたまま忘れていたのかなぁ。

2019.4.8 ジャッジメント

さくら

誰かに何かを言われたり、されたりして不快感が湧いてくること、ありますよね。
大抵は誤解なんですが、要はそれをどう受け取るか。あなたの「受け取り方」次第でストーリーの展開は変わっていきます。
そもそも不快感に乗っ取られた時点であなたには「被害者意識」があります。「こんなことされてあんなこと言われた!私は傷ついた!」といった具合に。
外側に向くエネルギーを、反転して自分の内側に向けてみるだけで、相手を裁かずに済むかもしれません。裁きとは、決めつけ。その決めつけは、あなたが相手にも自分にも下した判断で、それが後々自分を苦しめることになり得ます。「こんなことされた」と思っている自分の痛みをじっくり見てみてください。あなたのちょっとした思いの癖が浮き彫りになってくるかもしれません。

荘子のボートの話を思い出しました。自我から解放された状態がいかに楽か。という物語です。
「あなたが小舟に乗っていて、後ろから無造作に別の小舟がぶつかってきたとする。あなたはきっと怒るだろう。でも振り向いて、そのボートに人が乗っていなければ。ボートが空だとしたら、あなたは怒らないだろう。」
もしあなたが空っぽでいられたなら、問題は起きません。気楽にいきましょうね。

2019.4.2 シルバー磨き

シルバー

断捨離、ぼちぼちやってます。
アクセサリーの見直しがてら、シルバーの手入れをしました。ぴかぴか。
いろいろなものを手放しつつ、久々にこれこれ!という直感のもと、迎えたものがあります。
月桃の苗を沖縄から取り寄せました。
まだ20cmくらいの小さな苗で、さっそく葉も変色してきてちょっと気がかりですが。
名古屋の気候で育ってくれるかどうかわかりませんが、気長に育ててみます。
お花がついたら、こちらでお披露目しますね。

2019.3.30 風を聴く

ショコラティエエリカ

ドラジェ

過去の体験を持ち運ぶことの無意味さについて。
信じられないかもしれないけれども。数年前、私に起きたある日の事故を書いてみます。
パウリーニョノゲイラの「Chico Buarque」というCDをカフェで聞いていた時。どこかどんよりした心持ちで、なんとなく音楽に耳を傾けていました。
終盤に笛から始まる曲があって(多分フルートだと思うのですが)それを聞いた瞬間。私のハートに風が吹き抜けたんです。
漫画みたいな表現なんですが、前方から風が来て、ハートを貫通して背中を通っていった感じ。その瞬間、風そのものだった。うーん、違うなぁ。ハートの部分が中空の竹のようで、そこを風が吹き抜けていった。という感じかなぁ。それまで私の一部になっていた小さな不満感みたいなものが、一瞬で風と共に消えました。
その一瞬の永遠、とてつもない至福とくつろぎがハートに満ちていました。
笛って風を通す楽器なんですね。同じように、ハートってただただ人生を通過させていくものなんでしょうね。

画像はいただきものの「ショコラティエ エリカ」さんのチョコレート。
このエメラルドグリーンの箱にロイヤルブルーの帯。これを見ると、いつも背筋が伸びて、なんだか「ちゃんと」した心持ちになる。「ちゃんと」ってどんなふうか、そこも表現が悩ましいけれど、今日パートナーに打ち明けてみたらなんと!毎度わたしと同じように感じていたそうだ。(彼は「ピッ!」としているという表現だった。)きっと作り手の意識そのものなんでしょうね。
開けてみたら卵のようなつるんつるんが!!
ドラジェという、アーモンドにチョコレートがコーティングされたお菓子。
なんてシンプルで美しいのでしょう。

2019.3.20 循環

コッツォルズのお菓子

どんどん出てくる、モノたちよ!其処此処にあるのが「当たり前」だと決めつけていた物質たちが、活かされていなかったことにこんなに気づいていなかったなんて!
このゲームに「おわり」はないことはわかっている。
それを証拠に、手放せば手放すほど、何かしら入ってくる。それをコントロールしようとすれば、それはそれでまた別の罠だ…!
この変化の中で循環を楽しもう。まわしてまわして、まわしまくってやりますよ!
今日だってイギリスの湖水地方のスイーツをいただいて、小躍りしましたからね。土産話に「うわぁ。」ってなって、一緒に旅行させてもらったような幸せ気分までいただいちゃいましたから。
さて、ポイントは「自分にとっての心地良さ」を見いだすこと。
こればっかりは自分で見つけるしかない。人様にならったり、比べたりしたらたちまち、謎のヴェールに包まれて遠回りになることは間違いない。
さて、私にとっての心地よさとは?この問いかけがきっと断捨離の醍醐味なんだろうな。

2019.3.13 断捨離

灯り

100冊の本や雑誌の処分を皮切りに、久々の断捨離はじまりました!
インスタグラムで「ミニマリスト」という言葉を知りまして、その検索をしてみたら、まぁ。すごい。そこまで持たないの?という暮らしっぷり。そういう人を何人か見てみたんですけど、みなさん見事に人格もさっぱりしている。内側がそっくり暮らしぶりに反映されているんです。
特徴的な一面として、彼らは「ない」ことに不安や不満を感じないので、どこにもしがみつかないんですね。ほんとうにすっきりしてるんです。
その上でご自身の豊かさに意識的にフォーカスしている方は、削ぎ落とされていって最後に残った個性みたいなものがきらりと光っている。ここまでのブッダはなかなかお見かけしませんが、調和がとれていて、丁度よさが伝わってくる。これはとっても楽だろうなあ。と思って、私もせっせと物を減らしています。自分自身が心地い空間。それは外側も内側もですが、その空間という存在は少なくとも「物質という仕切り」がないと存在できないんですね。おもしろいパラドックス。

2019.3.5 理由はない

灯り

あなたにあえて、嬉しいなぁ。

よろこびは私たちの源。だから、喜びに理由はない。

なにか特別な理由がなくても、今日という1日を、わたしやあなたの存在をお祝いしよう。
わたしたちの奥にはいつでもずっと、こんこんと湧き出る祝福がある。その泉を見つけたら、きっとわくわくしたり、じんわりしたり、やさしい心地になれる。

今日、あなたに会えて嬉しかったなぁ。

2019.2.6 音楽

耳の記憶

昨年末、かかりつけの歯医者さんの待合室で雑誌「婦人画報」を見ていたら、坂本龍一さんのコラム「耳の記憶」で紹介されている音楽を収めたアルバムが発売されることを知った。このコラムを見るのは歯医者での楽しみの一つでもあったし、毎度聴いてみたいなぁ。と思っていた。すっかりそのことを忘れていた数日後、歯医者さん帰りのパートナーが、件の婦人画報を嬉々として買って来た。「耳の記憶」から数曲をピックアップした付録CDが付いているからだ。そのCDを聴いて、すぐに「耳の記憶」の前編、後編を予約した。

楽しい。私の中で解釈不能のブラームスも、なんだか近しくなってきている。
大好きなグールドのピアノが多いのも嬉しいし、バッハ、ベートーベン、サティ、ラヴェルは改めてすんなり入ってくると気付いた。
特にベートーベンは、最近そのシンプルさに禅的魅力を感じる。月光は月光だし、英雄は英雄だ。
見るままにそのままに。あまりにもシンプル。無意識に余計なフィルターをかけていた気がする。
その話を母にしたら、面白いシェアをしてくれた。母が小さな頃、そのタイトルを知らずにピアノの先生の演奏に耳を傾けていたら、一面に黄金色の麦畑が風にそよいでいるイメージが浮かんだのだという。その後、それが田園というタイトルだと教えられて納得した。と言っていたけれど、そういうシンプル故の力強さがある。ベートーベンが身近に感じられるこのごろ。

2019.1.18 人格

アップルパイ

久々に見たOSHOの講話の中で、私たちの思考に関する興味深い表現があったので、シェアしてみます。グルジェフの人格を比喩するストーリーです。

ある時、立派なお屋敷の主人が巡礼の旅に出ることにした。「旅にはどれくらいの時間を要するかはわからない。10年かかるかもしれないし、ひょっとしたら3ヶ月もしないうちに帰ってくるかもしれない。なんとも言えないけれども、私がいつ帰ってきても、お屋敷を万全な状態にしておくように。」と召使いたちに伝え、旅に出た。
召使たちは言われたとおりによく働いたが、数年の月日が流れると少しづつ主人のことを忘れはじめた。それではいけないと、召使たちは1時間ごとに「主人役」を交代に演じることにした。主人の洋服を着て、主人らしく振舞う。外でご近所さんに「この立派なお屋敷のご主人はどちら様ですか?」と尋ねられたら、「主人は私です。」と各々が答えた。主人役を長く続けた召使たちは皆、とうとう自分こそが主人なのでは、と勘違いし始めた。主人は旅に出る時点で大分齢を重ねていたので、帰ってこない可能性が高い。すっかり油断した召使たちは、主人の座で自分こそが主人だと振舞っていた。
ある日突然、主人が帰ってきた。自分の服を着ている召使たちを見て言った。「一体何が起きているんだ?」
召使たちはパニックを起こし、主人の衣服を脱ぎ、あちらこちらをいったりきたりしながら言い訳をした。「申し訳ございません。あなた様がすっかり不在だったものですから…」


あなたには、どれほどの役割があるでしょう?父親としての私、母親としての私、子供としての私、妻としての私、恋人としての私、独身の私、社長や社員としての私、お金持ちの私、貧乏の私、病気の私、優しい私、意地悪な私、疲れた私、言い訳する私、自信満々な私、嬉しい私、心配する私、焦る私、不安な私、特別な私、みじめな私…
1時間どころか、現代は10分ごとに召使たちがあなたになりすまし、主人の振る舞いをします。
たまには、彼らにお休みを与えてあげたらいかがでしょう?(^^)

2019.1.16 只管みつめる

絵画

ただ、見つめる。ということが今年に入ってからさらにゆったりと起きています。見つめる、というのは、自分自身の内側のこと。
自我が芽生えた頃から持ち続けている感覚。馴染みすぎていて、なかなか気づけなかったパートがついたり離れたりの繰り返しで、それを色々な角度から注意深く見ています。調子が悪いとすぐに自己同一化する。まずは身体が反応して、次に感情として湧き上がってくる、そしてお馴染みの思考が物語を紡いでいくーー。毎度これを見つめ続けるのは気分のいいものとは言えない。

もやもやを打ち破るように、何年も前に知り合いにオーダーしていた絵が突然届く。その頃、この時計の横に鮮やかな絵画があったらな。と願っていたんですが、すっかり忘れていました。鮮やかでよい絵です。

2019.1.13 変化とそれを見つめる者

紅茶

カフェの方によく来ていただいていたニルギリがお好きな女性。
昨年の暮れ、ちょっとした会話から同郷だとわかり、華やかなコミュニケーションが生じた。その時に新年を迎えたら帰郷するのだと聞いた。

きのう、最後にお食事に来てくださった。バタバタしている中、店頭で売っている手作りの布巾をささやかな餞別としてお渡しして、どうかお元気で。と送り出し、彼女がむかえる新たなステージでの幸せを祈った。
あくるひ、手作りの品を持って、改めて挨拶に来てくださった。

仕事上、お別れが多い。長年接していた人とのお別れには一抹のさみしさがある。
これで最後という時にこそ、目と目が合って、その瞳の奥と奥でお互いに認識する静けさがある。
わたしはあなた あなたはわたし。
過ぎ去っていくことと、決して損なわれることの無いもの。流れ続ける映画を映すのは、まっさらなスクリーン。世界はそういうふうなんだ。

コトコトとゆっくり煮込まれたであろう、つるつると光る大豆煮。その形を美しく残したままの果肉がゴロゴロのイチゴのジャム。すべての工程に意識が注がれたお料理。彼女の静かな眼差しが感じられる。ここからも、すてきな旅を!

2019.1.2 迎春

お雑煮

祖父母の家の押入れに新品のまま何十年も仕舞われていたという漆のお重がやってきた2018年の暮れ。
一度断ったものの、「じゃあ処分するわね。」と言われてしまったら、「ちょ、ちょっと待って。それなら私が引き取るから。」という流れになり、私が育った家でもなければ嫁いだ家のものでもない、見覚えのない家紋が配された黒くて四角い重箱。ちょっと気が重い感覚を持ちつつテーブルに置いてじーっと眺めていたら、笑いがこみ上げてきた。
ようこそ、お重さん!とりあえずこのお正月はどうぞよろしく!
そういうわけで忙しい年末、お重に詰めるものを仕事の合間にせっせと作りました。決まった形式にするつもりもないので、和洋折衷で。パートナーには照り焼きとポテトピューレが好評だった。

ようやく静かに新年を迎えることができました。
おせちのおかげで、なんにもしなくていいお正月です。(画像はお雑煮です。)
みなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします!