2022.11.29 祈り

bag

仕事の合間に趣味として始めた洋裁も5年は過ぎたかなぁ。(時間を覚えられないのでちょっと不明。ちなみに、自分や他人の年齢も覚えられません。)
真っ赤なバッグを作って「よし!」(何が? 笑)と思ったのも束の間、一年に一度はチャレンジしているコートの製作のことをすっかり忘れていたことを思い出した11月末。
あぁ、ここから怒涛の12月かぁ。何もかもが忙しくなるんだろうな。


フォーレのことは「よくわからないフランスの作曲家」のまま距離が縮まることがないのかな。なんて思っていたけれど、今恋してます。
それは「祈り」というものの本質に理解が起きたからだと思う。
祈りって素晴らしい媒介です。セッションやワークショップのなかで積極的にお伝えしていければいいなぁ。と感じています。

2022.10.11 夢やら希望やら

sunset

子供の頃、将来の夢が無かった。さめた生意気な子供だったと思う。
けれども「朝起きて、ご飯食べて学校や仕事に行って、帰ってご飯食べてお風呂入って寝る。」ことの繰り返しを人生というなら、人生って意味あるの?生きるって何?という疑問を一度抱いてしまったのだから仕方ない。
無論周りの大人たちからは納得がいく説明は受けられなかった。平家物語や方丈記のような真実が匂うようなものに出逢いながらも、そのうちに人生をこなすことに主軸が置かれるようになった。
そして今、ようやく明らかになり、平安に落ち着いた。
全てのことに意味があり、全てのことが起こるべくして寸分の狂いもなく起きている。
そして全てのことには意味はなく、何も起きていない。

2022.9.28 曼珠沙華

flower

flower

flower

flower

昨年お譲りいただいた曼珠沙華の球根。9/24に突然にニョキニョキと花芽を出し、4日で咲ききるという不思議。「あっという間だよ。」とは聞いていたけれど、こんなにも早いとは。私の中では彼岸花は昔から神秘的な位置付けだけど、こうして手元に来て間近で観察していても、その全く位置付けは変わらない。


彼岸を過ぎて、この世の陰陽のバランスの大切さを噛み締めている。
全てはエネルギーの循環の中で起きていること。個人としての身体や感情レベル、家族レベル、国レベル、地球レベルに至るまで、滞りなく循環していればそんなに苦労は感じられないはず。
自然災害や疫病流行は、陰のエネルギーに偏っているのことのサインに感じる。
私自身を見ても、さらに意識的にアウトプットをしていきたいところですね。


不足感でいっぱいになっている人々を見ます。
不足を感じると、無意識に手を外側に向けて対象を自分の方に引き寄せようとします。(引き寄せの法則と言われる「引き寄せ」という語彙に個人的には少し違和感を感じます。)外側から取り入れようとする心の方向性が、自ずと豊かさを遠ざけてしまっているのです。
あとはその心がそのままこの次元に投影されているだけのこと。


そもそも外側から取り入れようとする意図が起こるのは、自分には「ない」という思い込みがあるから。
それは全くの思い込みですよ!
「ある」ことをコツコツと見つけ、それを実践していくのです。
例えば、理由がなくてもほほえんでみる。そのことが大きな一歩になり得るのです。


大切なのはまずは差し出すこと。そのことに重点を置けば自然に受け取ることになります。
エネルギーは常に循環しているので自我の介入さえ許さなければ、与えることと受け取ることは同じことです。
これはまぎれもない摂理です。

2022.8.15 前後際断

tea

今という地平に過去も未来も持ち込まないと決めること。そうするだけで思考が四六時中湧いていることに気づけるし、またその思考は自分ではないことにも気づける。ここにないものは全て来ては去って行く。さぁ、私たちが永遠に所有できるものはありますか?本当に大切なことって、「形」では固定でき得ないことですよね。

本当は関係性なんて無いんです。家族も恋人も、国境も会社も社会も政治も。あったら、今目の前に提示してくださいよ。と言いたいくらい。便宜上の設定に過ぎない。
それを不倫だとか戦争だとか親だから子供だからという関係を決め込んでお互いを固定して、「こうすべき」だという観念に乗っ取られて、それに思い煩う馬鹿馬鹿しさよ。あっちを指差してあれこれ言ってるその指を、こっち(自分)に向けるんだってば!こっちが全てだから。全てはこっちの投影に過ぎないんだから。

何か、書いちゃいけなこと書いちゃった気がします。笑。
それにこんなこと言ってる私ももれなくこの馬鹿馬鹿しい劇に取り込まれます。だからこそ、前後際断。静かにここに落ち着くのです。ここで一緒に落ち着きましょうね。

2022.7.5 きゅうりのサンドウイッチ

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おうちで野菜を育てている方が、夏になるともぎたてのきゅうりを持ってきてくださる。そのままでももちろん大層美味しいし、軽く下処理してフレンチマスタードと少しのマヨネーズであえて、薄いパンでサンドウイッチにするのが大好物。このサンドウイッチはどれだけ食べても飽きがなく、それで毎日のように紅茶と一緒に頂いています。もう喫茶のメニューにしようか。なんて話しているほどです。この上なく平和で満たされた気分になる。

平和。例えば人が内側の平和に落ち着けたなら、その分外側の仕事も人間関係も健康状態も、あらゆることが平和になると思う。 同じことをマザーテレサもOSHOもヒューレン博士もティックナットハンも永遠なる平和を体得した人は皆同じメッセージを伝えてくれていますよね。
あらゆる宗教が唱えるエッセンスはこれだけ。自分自身が真に内側の平和にくつろぐこと。

2022.6.28 Lily

lily

去年、薔薇の枝に卵を産み付けたカマちゃん(カマキリ)の卵から小さなカマキリたちが誕生した!

薔薇よりもむしろカマちゃんの卵を見守っていた冬から春だったので、喜びもひとしお。
今年はどのバラも小ぶりだったけれど、室内で楽しむお花をたくさん頂いてたっぷり楽しませてもらった。
庭で咲いたという立派な百合の直径1.5センチほどの枝振りには驚きを隠せなかった。そこで私のマインドにはですね、百合の球根買おうかしら。買っちゃおうかしら。という欲望が沸々と湧いてくる今日この頃なのです。自分の怠け癖のこと、ついつい忘れちゃうんですねぇ。

2022.6.11 デトックス

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パラサイトクレンズというデトックスをここ一ヶ月ほどゆるーく続けている。

パートナーは謎の湿疹などが元々見られたので、1クール目も2クール目もなかなかきつそうだった。私は全然へっちゃらで、このまま終わっていくのかな。なんて余裕でいたらこの数日でどかんとダイオフ的な不調が! 
そもそも寄生虫駆除をしようと思ったきっかけは「マインド」のお掃除のため。軽やかな気分を保ちたかったので、一度腸内をクリーニングしてみよっかなぁ。と思いついたわけですが、まぁ思った以上に体力を使う。
昔の記憶がふとした時や夢の中で浮かび上がってきて、こういう思い込みまだ持ってたんだなぁ。ということもしばしば。
そして今、ようやく穏やかな境地。ユーミンのやさしさに包まれたなら。あの感じ、伝わりますか?存在のやさしさにふっと掬い上げられた感じ。
‥‥なーにやってんだか 笑。これも一つの遊びか、そうか。。上がったり下がったり、ジェットコースターにでも乗った気分。その背後には、いつもいつも「やさしさ」があるということを覚えていたいですね。

2022.5.25 よろこび

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リネンで作ったホームウェア。

リネンの季節がやってきた!久々にシャリっとしたリネンに触ってにんまり。ペティパンツとキャミソールなので他人にお披露目することはないものだけれど、見えない裏部分も、ひと手間をかけて折りふせ縫いと袋縫いで仕上げた。 私にとってのソーイングの醍醐味は、肌心地のよい天然素材を使って物作りができること。人工的な素材はあまり好まない。ちょっと表現が難しいけれど、人工的なものはマインドに由来しているから。天然素材は、純粋に存在そのものだからとてもほっとする。ありのままのものは、よろこびにダイレクトにつながるのを感じる。

2022.4.23 大切なことは目に見えない

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今年は例年より早く咲いた鈴蘭。芳しい香りに心踊る春。

星の王子さまの「かんじんなことは目に見えないんだよ。」というフレーズ。
本当だなぁ。と最近しみじみ感じる。肝心なことは目どころか、五感や頭脳でも捉えられない。それはつかめるような対象ではなく、言葉以前のものだから、言葉では説明できない。
般若心経も全く同じことを指し示しているけれど、このことを真に理解している人があまり見られないのも私たちが「現実」と呼ぶこの目に見える世界だけにあまりにも埋没しているからかもしれない。あらゆる問題を脇において、常識だと思っている基盤から疑ってかかる地道なレッスンが求められる。それにしたってやっぱり「真実を知りたい。」という動機がなければ、これまで外側に向かっていた矢印をぐるりと内側に向け直すことは一人ではなかなか難しい道なのだろう。
「遠離一切顛倒夢想」。本当に大切なことは、私たちがこの物質世界で大切だと植え付けられた価値とはまるで逆なんだよなぁ。学問や知識教養では絶対に突破できない、目には見えないこと。

2022.3.23 何も選択しない

flower

「紫色をイメージして作ってもらいました。」と言って渡された花束。
普段自分ではなかなか選ばないものをプレゼントされた時の「新鮮さ」をとても気に入っている。
「新鮮さ」とは、毎瞬毎瞬いまここで起きていること。

何もかもを自分で選択して歩んでいるつもりでも、実はそんな事は一切ない。
だからいっそ「何もしない」ということを試してみませんか。
「何もしない」というのは、目の前の仕事や家事はしません!ってことじゃなくて、(それは淡々とただやればいいのです。)人生というのはままならないものだとあきらめて、流れのままに今日1日を過ごそう。ということです。どんなに頑張っても全てを思い通りにコントロールなんてできっこない。苦しいのは「自分の思い通りにならない」からですよね?
だから、何かをコントロールしようとする類の「心の声」を本気で相手にしないことです。小鳥のさえずりぐらいの位置付けでオーケイです。その分、ゆったりまったりしていればいいです。

ただ目の前にやってきた物事を受け入れていくだけで十分。あんまり頭を働かせると、緊張だらけの日々になっちゃいますから。気楽にいきましょうね。

2022.3.18 身体の習慣 こころの習慣

rose

rose

rose

冬の剪定をサボっていたところに急な暖かさが到来して、4種のバラの蕾が開き始めています。
わさわさと新芽が出始めたので、慌てて土のメンテナンスと軽めの剪定に取り掛かった。
この怠け者への季節外れのプレゼントを切らずに楽しむとしよう。

慣性の法則。マインドにとっては既知の繰り返しは安全なこと。急な変化は危険なこと。

週一のペースでコツコツ続けているトラディショナルヨーガ。アーカイブレッスンで好きな時間にできるのでありがたい。もう少し頻度を増やしたいのだけれど、なかなか難しい。
先生が勧めてくださるいくつかの事が新しい習慣となった。鼻うがいや太白胡麻油を使ったうがい、時折マッサージなど。始めるまでは怯んだけど一度体験してしまえば様々な恩恵に感動し、すでに朝の習慣として定着し始めている。
それから、先生がアーサナの前に話してくださるヨーガスートラの八支則が興味深い。心身の習慣を見つめ、それを超えていくことと理解している。禅の守破離にも通ずるものがありますね。
最近面白かったのが、ニヤマという禁止行為の中の「盗む」について。
『人の物を盗まない、人のアイデアを盗まない、人の時間や空間を盗まない』こと。
物を盗まない。は難しくないと思う。アイデア、時間、空間というのは感覚的なことなので線引きが難しいかもしれませんね。「相手の話を遮って自分の話をすること、自分の話に付き合わせて相手の時間を奪うこと。」と先生が話しているのを聞いていて、えー!それってそこら中で起きてることじゃない?と笑った。

これはよく感じるんですが「自分にはない」と思うからよそからから拝借するかたちになっちゃうんですよね。つまりここには隠れた自己否定感があるよ。常に不満足さと一体化してない?とパタンジャリは言っていると思うのです。
そしてそこに気づきがなければ、罪悪感を抱えることになる。
たとえ誰にもバレてなくても、自分で自分を誤魔化せないので必ずどこか罪深く思う。

罪悪感。これって本気で必要のないもの。でも人は後生大事にそれを取っておく癖を持っている。
「過去のあやまち」を記憶に溜め込む習慣、まずはこのことに気づくこと。エゴは変化を嫌がります。どんなに苦しくてもお馴染みの心の習慣を絶対に好みます。だからこそ注意深さが鍵です。
過去を持ち運ばず、「自分にはない」という感覚が錯覚だと気付けば、奪うことを避けられる。
こうしてこころの在り方が無執着の方向にスライドしていけるならシンプルで楽ですよね。

楽になると、何もしないことだけが唯一無二の創造性に繋がっていく道なのだと理解します。
私たちは一つであるにもかかわらず、個性は人の数だけあるのがこの宇宙の不思議です。外に手を伸ばす必要はなく、自分自身に湧き上がってくる内的感覚だけを見ていればいいのです。

2022.2.19 MOON RIVER

moonriver

moonriver

久々に訪れた宿。前回も今回もたまたま満月の日の滞在だと宿泊先の方が伝えてくれた。前回は雨、今回は晴れ。おかげで海に広がる月の光を眺めることができました。上は日没前、下が日没後。小さな写真ですが、皆さんのこころもより照らされますように。
部屋からは海と空と水平線、時折往来する船。自然しか目に入ってこないので、癒されました。

一日中静かにこの風景と共に居ると、いまここ以外は空に浮かぶ雲みたいなものだと実感します。
空っぽの空間に無目的に現れては消えていく。

この瞬間瞬間の変化そのものが真実。記憶を持ち運ばない限りは、常にこの瞬間は未知で新鮮なオープンシークレット。過去も未来もつかまないで、この瞬間を信頼してごらん。

何も記すことがないので、この風景の中で深く体験した大好きな歌を。
この句から「一休」という号を授けられたと言われる、一休禅師の詩です。

有漏路より無漏路に帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

もう一句。

ひとり来てひとり帰るも迷いなり 来らず去らぬ道をおしえん

2022.1.14 カルマとダルマ

門松

カルマとは元々「行為」と言う意味のサンスクリット語ですが、精神世界では「因縁」として認識されているように思います。そしてダルマとは「法」です。
今日ふと、カルマは恐怖ベース、ダルマは愛ベース。と言う直感があったのでこうして忘れぬうちに記しています。
例えば人に嫌われるからとか、迷惑だからだとか、こんなことは許されない。といような思いがある上での行為は、恐れがベースです。(法律や日本で教えられる道徳のほとんどが「恐れ」ベースです。)ところが、世間では許されなかったり非常識だというレッテルを貼られている行為をしたとしても、そこに「恐れ」がなければ、新しい秩序として受け入れられる事はしばしばあります。不可思議ですが、そもそも「ダルマ(法、秩序)」とは、あらかじめ決められたことに従うことではなく、いまここに信頼して開いてさえいれば、自発的に現れ自然に調っていく様子ではないでしょうか?つまり仕組みや決まり事は縛りになりがちなので、そういう外側には依存しないということです。(OSHOはこれを「反逆」と言う表現をしています。言葉が指し示すものの難しさを感じつつも、このニュアンスから私は途方もない自由と創造性、そして「こえろ!」という励ましと成熟を感じます。)じゃあ、何を頼りにすれば?と言われれば、ハートを感じることだけなんです。

パートナーは喫茶店仕事を長くしていて、興味深い話をよくしてくれますがその中でダルマの話を一つ。
前に勤めていたお店では「こんなことされちゃ、たまらないよね。」ということがあった時、あくまで個別対応で終わらせ、それを店全体として主張することをしてこなかったそうです。例えば張り紙やメニュー表に「〇〇は御遠慮ください。」とか「〇〇してください。」という決まりごとを記すことです。
それを聞いて、そこにいた人達って本当にすごいなー。と感心したことを覚えています。
自我は傷つくなんて嫌だ!と思って守りに入る性質を持つのでルールを作りがちです。勿論、ケースバイケースでルールも大切なのですが、やはりそれ以前にゆったりと愛の状態でいることに重きが置かれていると、立ち現れるものの質は変わります。
そこに恐怖がなければ、恐怖は現れようがない。そういう見えない品性を前の店で培ってきたのでしょう。たとえとんでもないことが起きても、淡々と対処し、すぐにいつもの静けさに戻る。そうすればまた場が生き、自然な流れのがおとずれるという話です。

画像は有元利夫カレンダー2022。毎年買いそびれていたけど、今年は忘れずに買いました!

2022.1.7 役割

ティーコジー

オーダーをいただいていたティーコジーが年末に出来て、年明けにお渡し。
大層喜んでいただいてよかった。ウールのタッセル!という直感があって、ウール刺繍糸を何日もかけて探し回った。お渡しするご家族のほっこりした雰囲気によく合うと感じたから。

喫茶店の店員をしていたり、ものづくりをしていたり、セッションをしていたり、家事をしたり怠けたりのこの人間。
もうここまでくると役割という概念自体がないのかもしれません。
目の前に起きることにただ取り組むだけで、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかよく見られたいとか、よく見せようとか。そういうところに沢山のエネルギーは使わない。
こんなに執着せずにいられるのも、過去や未来に見切りをつけているから。ここで究極的なことを書くと長くなるので控えますが、普通のおばさんがただ普通にここにいるってだけです。大切なのは、今、目の前のわたしやあなたに、ただひらくこと。

2022.1.5 仮想現実

カルマ

この世はマーヤ(幻想)だ。なんてブッダもOSHOもマハリシも言ってるけど、じゃあリアリティってなんなのよ。って思う方々がこの日記を読んでくれていると思うのですが、いかがでしょう?

そもそもそれは言葉では表現しようもなく、だからそれじゃないものを仮に言葉で提示するしかやりようがないんだと思うんです。言葉というのは、物事の境目を示すための道具です。だから、常に背後にあるものに気づきたいという意欲が大切です。いうまでもなく、そのために瞑想や座禅があります。わたしは毎日の習慣になっていますが皆さんはいかがですか?

例えば、音はドレミファソラシというふうに音階がある。音楽や落ち葉を踏む音を聴くとき、ドとレの間は分断されていませんよね。まるでグラデーションのように連なっています。あとから皆で共有しやすいように音符として記号化されただけのこと。ドが「レってなんかかっこいいな。いつかあんな音になりたいな。あぁ、いい加減自分の嫉妬深さに嫌気がさしてきたぜ。」なんて思うことはあり得ないのです。ドはド。レはレ。それ以上もそれ以下もない特性ですよね。
同じようにあなたも産まれた時はまっさらです。まっさらな生命に、仮に「山田みずき」という名前が授けられたとします。
自分が「みずき」だと自覚するのに2年ほどかかります。最初は「みずき」が自分だと自覚できないので、周りの人間が呼ぶ「みずき」を自分に対して客観的に使います。「みずき、おなかすいた。」という感じです。自我のない子供は自身を「私や僕」とは捉えません。大人を観察しながら日々の習慣の中で、この「みずき」は「私や僕」という言葉で主体的に用いることを刷り込まれ、全くの無から、言葉と五感で物事を分類しながらスポンジのごとく情報を吸収します。そうして「私」と「私以外」という概念が確立され、マインドを中心にした世界が展開します。
「自分=山田みずき」の同一化がなされて仮想現実のセッティング、完了です。
私は太郎というお父さんと、花子というお母さんという役割の人の間に産まれた「山田家の子、みずき」。ここで「家族」というグループの概念も疑うことなく設定完了。ちょっと前まで誰でもなかった生命が、山田家のみずきという軸を所有し、記憶の量に比例して「みずきの世界観」が強固になっていきます。いずれみずきは大人になり、結婚して子供を授かり…これが人生です。この世界の中で生きていれば、それはどこまで行っても仮想世界の中でのこと。膨大な記憶や知識を握りしめて、私という円の周りを生まれ変わりを重ねながらグルグル回り続ける。(つまりは輪廻転生も仮想世界の中での概念の一つに過ぎず、幻想です。あ、言っちゃった。。) 
「私」にまつわる知識のコレクションがごそっと落っこちた時、そこにあるのがリアリティです。あらゆる存在の基盤にすでにあるものです。「山田みずき」以前の存在を思い出すこと。これが人が本当に望んでいることです。皮肉にも、産まれた時は完璧にその状態なのに、早い時期から情報を詰め込まれてしまって、忘れちゃうんですね。で、どこかの時点で情報を減らしていくといいよ。っていう情報を仕入れて(笑)、今までの「増やす」とは逆の「減らす」習慣に取り組むわけです。情報が減っていくほどに気づきそのものに落ち着く頻度が高まり、何もないけど全てある、という本来の視座を思い出す。だからですね、これは気づけば大笑いしちゃうんですが、スタート地点とゴール地点が一緒なんですよ。もう、これは笑うしかないんです。「なに?なに?なに?これ、どこにも進んでなーい!とんだ茶番だ!」となるんです。これが意識のシフト。ここにシフトするだけで大分楽だと感じられませんか?
長文になってしまいましたが、わたしから皆さんにできることはただ一つ。今年もいまここで、一緒にリラックスしませんか?と言う提案です。

2022.1.2 あけましておめでとうございます

門松

みなさま、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます!

いやはや、バタバタな怒涛の2021年12月が一瞬のようにして終わり、ようやく昨日今日と何もしないお正月です。

30日に「よーし!大掃除やるぞ。キッチンからだ。」と思って、先程ガスを使ったことを忘れて、五徳をつまんでしまいまして。いきなり火傷。 笑
そこに寝ぼけ眼で起きてきたパートナーが「どうしたの?」と声をかけてくれ、説明をしましたら、「ウケる〜。まだ何もしてないのに火傷だけ早速した朝?」と言われ、私も大笑い。痛いし笑えるし、結局キッチンの大掃除はパートナーが全部してくれたし。消えた指紋が数日で復活してくれたので、iphoneも触りやすくなりました。こうして年中おっちょこやってるのが私という現象です。みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。