△ 「ニライカナイ」赤の時代:その2


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同時に中年の男が一人現れる。
鈍いノックの音。

「はい」

女、立っていき扉を開ける。

松浦 「只今…お客さんか」
「今さっき久保田さんが見えられて…」
久保田 「お邪魔しております」
松浦 「おお、久しぶり。元気だったかい」
久保田 「おかげさまで」
松浦 「病気の方は、どうだいその後」
久保田 「まあ、ぼちぼち…でもこの病気のおかげで兵隊に取られないで済んでいるんですか
松浦 「馬鹿。滅多なことをいうもんじゃない」

久保田、子供のように笑ってみせる。松浦も苦笑い。

松浦 「で、どうした、今日は」舞台写真
「(茶を供しながら)雑誌を持ってきてくだすったのよ、この雪の中」
松浦 「ほう…(雑誌を受け取って)…相変わらず危ない橋を渡るね、君は」
久保田 「いいものはいい。それだけです」
松浦 「羨ましいね、若いということは。…しかしこれはまた…」
久保田 「ね。素晴らしいでしょう」
松浦 「うむ。(慌てて)馬鹿。こんなところを特高にでも見られたら大変だぞ」
久保田 「そりゃあ先生はね。僕には、失うものなんて何もありませんから」
松浦 「全く君って奴は…。ところでこれだけじゃないんだろう、ここへ来た訳は」
久保田 「え、ええ」
松浦 「(ちらっと女を見て)例の件、かね」
「例の?」
久保田 「いえ、それはまた別の機会に…。先生ならご存知じゃないかと…」

久保田、そういって雑誌の頁をめくる。現れたのは1枚の「赤い絵」。

久保田 「これです」
「まあ…」
松浦 「…ピカソ?いやカンディンスキーか…」
久保田 「違います、若い無名の絵描きの作品です。でも見てください、この赤…」
松浦 「素晴らしいね」
久保田 「素晴らしいの一言では片づけられません。どうやったらこんな赤がカンバスの上に表現できるのか…知りたくてたまらないんです、とても」
松浦 「う〜ん…」
久保田 「作品自体は平凡な、取るに足りないものだと思います。でもこの赤だけは…。どんな画材を使っているのか、自分で調べられる範囲はすべて調べました。でもわからない。わかったのは、たぶんこれが欧州で新しく作られたばかりの色ではないか…それだけなんです」
松浦 「…」
久保田 「でも先生ならお顔も広いし、何より若いころ欧州に留学なさった経験がおありになる。だからもしやこの赤についても、何か情報をお持ちじゃないかと、そう思ったんです」

松浦、しばらく絵を見詰めている。

松浦 「この1枚だけじゃなんともなあ…ここ数年、留学時代の仲間とも連絡を取合ってないし…」
久保田 「そうですか…」
松浦 「いや待てよ、おいこの間横浜の画材屋でもらったチラシがあったろう。書斎の机の右の引き出しに入っている、あれを…」
「え?書斎の本棚ですか」
松浦 「馬鹿、違うよ机の、右の真ん中の…いい、俺が取ってくる」
「すみません」
松浦 「まったく役立たずだなお前は」

松浦、去る。女、小さく舌を出す。思わず微笑む久保田。

「また怒られちゃった」
久保田 「愛情の裏返しですよ、先生、照れ屋だから」
「…そうかしら」

女、赤い絵に見入る。

「綺麗な、赤…」舞台写真
久保田 「見た瞬間『僕に必要なのはこの色だ』って思った、いえ、わかったんです」
「何か描いてらっしゃるの?」

久保田 、頷く。

「…大事なもの…久保田さんがとても大切にしている何か…それを描くのに必要なのね、この赤が」
久保田 「ええ。どうしてもこの赤が必要なんです…その…『テーマ』と出会ったときに、僕の頭の中をさあっと赤い風が駆け抜けて…次の瞬間からその感動を絵にすることばかり考えて考えつづけて…」
「…その絵、完成したら見せてくださる?」
久保田 「もちろん!真っ先にお見せしますよ。その代わり」
「その代わり?」
久保田 「絵の具探し、手伝ってくださいね」

女、楽しそうに笑う。久保田も笑う。

松浦、戻ってくる。久保田に紙切れを渡しながら。

松浦 「ずいぶん楽しそうだな、奥様。…馴染みの画材屋でもらったもんだが、これ、これは違うか?」
久保田 「(紙をくいいるように眺め)…同じ色だと、思います。違うかな…畜生、もうちょっと印刷さえ良ければ…」
「新しい色なんですか」
松浦 「去年の終わりに仏蘭西で開発されたばかりの色だそうだ。とてもじゃないが今の日本ではお目にかかれんよ」
久保田 「…femmefatale 」
松浦 「『ファム・ファタアル』。宿命の女、という名の色だ」
久保田 「…偶然は、恐ろしい…」
松浦 「うん?」舞台写真
久保田 「先生、この絵の具、なんとか手に入れられないでしょうか」
松浦 「無理だよ。だいたいこんなチラシが手に入ったことすら奇跡に近いんだから」
久保田 「でも…」
松浦 「わがままを言うな。考えても見ろ、君と同年代の青年はみんな遠い異国でお国のために戦っているんだぞ。そんな非常時に、絵の具の1本や2本、我慢できないでどうする」

久保田、何か言いかけるが、諦める。

久保田 「…はい」
松浦 「(久保田の様子に満足して)おい、仙台の川鍋君が送ってきてくれた酒があったろう、あれつけてくれ、ぬる燗でな」
久保田 「僕はもう…」
松浦 「いいじゃないか。だいたいこの大雪の日にどうやって高井戸まで帰るつもりだい」
久保田 「はあ」
「そうですよ、今日はゆっくりしてらっしゃい。どうせいつも大したもの食べていないんでしょう」
久保田 「非道いなあ」

3人、笑う。

松浦 「さて、ゆっくり見せてもらうとするか」

雑誌を広げる松浦。その横で目を輝かせて話に興じる久保田。
その様子をいとおしそうに見つめる女。

松浦 「何ぼうっとしてるんだ。酒だよ、酒」
「はい」

女、壷を手に立ち上がる。
舞台の片隅で、壷に肌を寄せる。久保田の、手の感触を慈しむように。

転。

(作:中澤日菜子/写真:広安正敬)

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