前回「はじめに」で次のようなことを書きました。
「ベートーベンはその生涯中にピアノの音域拡大を経験したと思われます。
これは、
生涯を通じて書かれたピアノソナタの音域を年代順に追って行くと明かです。
〜 中略 〜
出現音符のヒストグラム(出現回数の棒グラフ)を作ると(もちろんピアノ曲に限ります)、
鍵盤の音域の両端で徐々に0に近づくのではなく、
めいっぱい音域が使われていて、
音域外でストンと0に落ちるのです。
(だから前の段落のような推測ができるのです) 」
今回はこれについてもう少し詳しく説明しましょう。
実は私は実際にヒストグラムを綿密に取ったわけではなく、
経験上そう確信していただけです。
現代はMIDIデータなどがあるでしょうから、
ヒストグラムを取るプログラムを書いて実行することはそう難しいことではないでしょう。
でも実際にそういうプロジェクトを実行するほどの余暇があるわけでもありません(やりたいことはいろいろあるのに一人でできることは限られています)から、
今回それに準ずるデータとしてべートーベンのピアノソナタ全32曲とピアノ協奏曲第1,4,5番について目で早送りスキャンし、
最高音と最低音を記録しました。
これならものの1時間ほどで出来ます。
その結果を次に示します。
楽譜はヘンレ版を使いました。
作曲当時のピアノの音域を超える音が後日書き加えられた場合、
ヘンレ版では括弧付きの音符になっているので、
それを含めないようにしました。
明らかなことは、
1804年(ソナタ20番)まではソナタの調性にかかわらずほとんど常にF1からF6までが使われています。
(全音楽譜を使った前稿(1999年7月24日)を憶えておいでの方はより例外が少なくなりソナタ9番だけになっていることがわかるでしょう。)
これはベートーベンのピアノがこの音域の61鍵だったことを示唆しています。
また上の結果には明示されていませんが最低音と最高音が一つのソナタの中で何回も使われています。
要するにベートーベンには61鍵では足りなかったのです。
鍵盤不足のため音型を変えたと思われる例を挙げましょう。
次はソナタ第11番ト長調第1楽章の第2主題の直後(第43小節目)と再現部における対応部分(170小節目)です。
第170小節目の方がずっと音楽的ですが、
それと同じことを第43小節目でやろうとするとF6#まで使わなければなりません。
ピアノの音域が彼の作曲に影響を与えていたと言っていいでしょう。
歴史に「もし」はないと言いますが、
たとえばもしベートーベンがもっと早く音域の広いピアノを手にしていたならば
「悲愴」第1楽章や「月光」第3楽章などは広い音域に渡る音楽になっていたに違いありません。
他にはどんなピアノソナタが書かれていたことでしょう?
その答えはピアノソナタ第21番以降にあります。
ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」ではF1からA6までの音が使われています。
この高音のG6やA6は絶対に代替できない音です。
(第3楽章ロンドのテーマでG6が二回打たれるところが幾度かありますが、
これは1オクターブ下のG5では代用できませんね。)
したがってこの時点でベートーベンは少なくともA6まである65鍵のピアノを手にしていたことが確信できます。
一年後の「熱情」ではC7がしきりに出てくるので、
「熱情」の時点ではC7まである68鍵のピアノを手にしていたことがわかります。
「ワルトシュタイン」の時点ですでにC7まであったかどうかについては現時点での私の調査では定かではありません、
と前稿(1999年7月24日)で書きましたが、
その後「ピアノを読む本」(1994年ヤマハミュージックメディア)という本を見つけ、
それに「ベートーベンは1803年頃得たF1〜C7の68鍵のピアノでワルトシュタインを作曲した」とありました。
しかしベートーベンがワルトシュタイン作曲に全力を注いだこととこれがハ長調であることを考えると、
C7まで使わなかったことが不思議ではあります。
それはともかく「熱情」は当時これ以上のピアノの表現力はないほどの力作で、
ベートーベンは自らこれを越えるのが難しいと思ったのでしょうか、
しばらく大曲ピアノソナタから離れていました。
その間ピアノ協奏曲第4番(1806年)や5番(1809年)を作曲していました。
ピアノ協奏曲第5番(1809年)と次の大曲ソナタ第26番「告別」(1810年)では最高音がF7にまで達しています。
すると音域はF1からF7までの73鍵で、
この年急に拡大したわけです。
さらに29番「ハンマークラヴィア」になるとC1〜F7までの78鍵になります。
これ以降ベートーベンはこの音域を逸脱する曲を書いていません。
実はショパンもこの78鍵を逸脱する曲を書いていません。
ショパン最晩年のピアノはA7まである81鍵のピアノでしたが(別記事参照)...
ベートーベンに話を戻すと、
「ハンマークラヴィア」ではじめて78鍵がめいっぱい使われました。
ベートーベンが「ハンマークラヴィア」でピアノの表現力を最大限追求しようとしたことは明かです。
それ以降は音域をめいっぱい使うことに注意を払うより音楽そのものを優先させたのでしょうか。
最後の三つのソナタは音域の問題など忘れさせるほどの至高の作品となっています。
ソナタ32番も78鍵に近い音域が使われていますが、
ちょっと面白いことに初稿ではC7を超えないように考慮した形跡があります(次の譜例を見てください)。

これはちょっと不思議ですね。
既にF7までのピアノを持っているのですからこんなことをする必要はないのに。
ハンマークラヴィアのような最新楽器のための実験的楽曲ではなく純音楽作品なので、
普及しているC7までのピアノで弾けるように書いたのでしょうか。
今ではどの出版も132小節でE♭7まで使うようになっていますが。
いかがでしょうか。
以上の考察から、
仮にヒストグラムをきちんと取った場合に両端までめいっぱい広がって急にストンと落ちるであろうことや、
年代によって(おそらく新しいピアノが設計されるたびに)ヒストグラムの両端が不連続的に拡大して行く様子、
そしてピアノの音域が作曲に影響を与えている事情がわかると思います。以上がベートーベンの場合でした。
<追記1> 最初の譜例にショパンの嬰ト短調ポロネーズでF7まで使われたことを書いておきましたが、
これで言いたいのは次のようなことです。
既に巨匠だったベートーベンにピアノメーカーから真っ先に新製品が届けられたであろうことは想像に難くありませんが、
その最先端のピアノが(ドイツから見れば片田舎のワルシャワ郊外の家庭教師の息子である無名の)少年ショパンに与えられるのに約10年しかかかっていないということです。
ショパンの先生ジーブニーやエルスナーやショパンが聴いたコンサートの質の高さも併せて考えるならば、
少年ショパンの才能が埋もれず開花した背景にはこのような第一線から遅れていない環境の整備がポーランドにあったことが大きかったと考えられます。
これを日本に焼き直すなら、
世界の第一線から遅れていない音楽環境の整備が普通に存在するようになったのはほんのこの間
−
戦後の復興が終わり高度経済成長が達成されてから
−
と言っていいでしょう。
ですから単純に考えると日本にもこれから歴史に残るような天才が出現し音楽(や科学)もこれからさらに発展すると期待したくなります。
(ただし、
天才の若者を囲い込まずよりよい環境に送り出す度量のある教育者が当時のワルシャワにはいたわけですが、
今の日本にどれくらいいるのか? 精神面での環境整備はこれからという気もしますが)
<追記2> ベートーベンのピアノ協奏曲第2番と第3番について触れていないのはなぜ?と思いませんでしたか?
2番は1番より前に書かれ(ショパンみたいですね)あまり本格的な作品ではないので省略しました。
3番はくせものです。
この素晴らしい協奏曲は1800年に書かれたことになっていますが、
その後ベートーベン自身によりカデンツァ(1809年)が書かれるとともに、
細かな音型がところどころ改作されています。
それはC7にまで達しています。
改作の年代を含めこの事情についてきちんと書かれた楽譜があまりない(ヘンレ版ですら!)のでここでは含めませんでした。
それにしても第3協奏曲は本当に名曲です。
ベートーベンが第1協奏曲を出版社に送ったとき「もっといいのがもうすぐできる」と言っただけあります。
少し昔の録音です(音は古くない!)が、
私はゲルバーの演奏が大好きです。
赤く透き通ったLPレコードが懐かしいですね。
[1999年7月24日 記/2000年9月11日改訂]