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    ◆◆◆ 梅が園善徳保公園・道明寺東小学校前道路 ◆◆◆
            う め が え ん ぜ ん と く ほ こ う え ん  ど う み ょ う じ ひ が し
  藤井寺市梅が園町27番 他
    近鉄南大阪線・土師ノ里
(はじのさと)駅より北東へ約930m(公園入口まで) 徒歩約15
           道明寺
(どうみょうじ)駅より北へ約1km(公園入口まで) 徒歩約16
    近鉄道明寺線・柏原南口駅より南へ約830m(公園東入口まで) 徒歩約13
学校前のみごとな桜景観
 近鉄南大阪線の土師ノ里駅から北東に向かって歩き、道明寺東小学校の校舎
が見えてくると、すぐ横に見事な桜の並木が目に入ってきます。この並木は、
手前の数本を除いて道路面ではなく少し下がった法面に植えられています。
 学校前を通るこの道路の土地は、道路の両側よりも高く盛り土
されています。
大きな川の堤防と同じで断面が台形をしています。実はこの道路がある盛り土
部分はもともとは堤防で、副堤とか控え堤と言われるものです。
 学校の敷地を挟んで南東側には石川が流れています。その堤防の内側にもう
1本の堤防が築かれているのです。ここより南側の上流部分で石川の堤防が切
れた場合、この控え堤から北側を守りました。昔はこの控え堤と石川堤防との
間に切れ目が設けられていて、洪水後には流出した石川の水を元に戻す通り道
となりました。切れ目があっても、普段は河川敷が隔てているので水が流出す
@道明寺東小学校前の道路沿いにある桜
@ 道明寺東小学校前の道路沿い桜並木(南西より)
       道路の左側は梅が園町。この道路を直進すると石川の
      堤防道路に合流する。
       2020(令和2)年4月
ることはないのです。よく考えられた先人達の智恵だったのでしょう。江戸時
代には実際に石川の堤防が近くで決壊して洪水が起きています。
 この堤防上の道路は江戸時代から利用された街道の一部で、「東高野街道」
といいます。名前の通り高野山へと続く参詣街道の一つで、京都の石清水八幡
宮から生駒山麓を南下して現在の河内長野市を通り、紀伊の国
(和歌山県)へと
入りました。大阪平野を南下する高野山への参詣街道は主に三つがあり、最も
東寄りのルートだったので「東高野街道」の名で呼ばれてきました。その途中
に位置したのがこの地域です。江戸時代には国府
(こう)村と言いました。道路の右
側、学校がある方は今でも地区名が国府です。桜のある側も国府村でしたが、

50
年ほど前に新しく住宅地が造成されて、現在の梅が園町となる別名の地区が
できました。
 この控え堤の道路の法面に植えられた桜が大きく育ち、街道沿いに見事な桜
景観を見せてくれています。公園部分を除いた法面の桜だけでも
38本のソメイ
ヨシノが咲き誇っています。
A 写真@の先に見える桜の様子(南西より)
A 写真@の先に見える桜の様子(南西より)
    桜並木の左側は梅が園善徳保公園。写真右端に小さく見える標識
  は、近鉄道明寺線の道明寺2号踏切。
   2020(令和2)年4月
水田地帯から住宅街へ
 このページで紹介する桜の木は、すべて新たに誕生した住宅地の梅が
園町内に植えられたものです。年数を経て大きく育ち、町内の人たちは
勿論、学校前道路を行き来する人々の目も楽しませてくれます。現在の
このみごとな桜景観からは
昔のこの地域一帯の姿は想像もつきません。
桜どころか、住宅も一軒も無かった水田地帯だったのです。
 下の写真Dが、梅が園町の宅地造成が行われる数年前の様子です。赤
線の枠内が梅が園町の範囲ですが、すべて水田を中心とする農地であっ
たことがわかります。道明寺東小学校もまだできていません。梅が園町
に住宅が並び始めてから数年後に道明寺東小学校は開校しました。学校
が建てられた場所も水田地帯でした。日本が高度経済成長期に入り、大
 
B 学校前道路から梅が園善徳保公園へ(南西より)
 B 学校前道路から梅が園善徳保公園へ(南西より)
     写真@とAの中間位置より撮影。
     2020(令和2)年4月
都市圏への人口集中が進み始めた頃、大阪市の近郊であった藤井寺市(当時は美陵町)にも都市化の波が押し寄せていました。各地に新しい
住宅地が次々と誕生し、小学校や幼稚園、保育所が次々と開設されていくこととなります。
 
C 現在の梅が園町周辺の様子 D 住宅地造成前の様子
C 現在の梅が園町周辺の様子
     〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より
             文字入れ等一部加工
D 住宅地造成前の様子   一面の田園地帯で
    あったことがわかる。
  枠線入れ等一部加工
   〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より
 写真Cの現在の様子を見ると、半世紀を経てほとんどが市街化していることがわかります。道明寺東小学校の南西側に農地があり、かつ
ての水田地帯の名残を留めています。もう1ヵ所、国府遺跡の一帯も市街化していない部分です。ここは貴重遺跡として保存措置が取られ
れており、順次公有地化が進められてきました。国府遺跡は旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代へと続いて重なっている複合遺跡で、多
数の縄文人骨が出土したことで世に知られることとなりました。今後もこの一帯が市街化することはないでしょう。 「国府遺跡」
E 梅が園善徳保公園(南西より 正面入口) F 公園内の様子(西より)
E 梅が園善徳保公園(南西より 正面入口)  2014(平成26)年4月
     建物は地区集会所「梅が園会館」。右側道路沿いの桜が写真Aの部分。
F 公園内の様子(西より)   2020(令和2)年4月  合成パノラマ
  公園には遊具やトイレも整備され、親子連れにも過ごしやすい公園となっている。
桜で囲まれた公園
 梅が園善徳保公園
は、以前には梅が園公園と呼ばれていました。公園自体は住宅地が造られた時からあったのですが、1995(平成7)年
に現在の名称
となりました。昭和50年頃から市は市内の公園整備増設を進めてきましたが、その時に、公園名にその場所の昔の小字(こあざ)
名を付けた公園を各地に新設しました。最初が藤井寺駅の南側で池を埋め立てて造られた「ブクンダ公園」でした。もっとも、この公園は
造られた時には「ちびっこ広場」という名前でした。数年を経てから今の名前に変わりました。「ブクンダ」は元の池の名前「仏供田池
(ぶ
くんだいけ)
」からきています。その後次々と小字名公園が誕生しました。そんな中で、梅が園公園も改名されました。「善徳保」もこの場所
の昔の小字名ですが、現在の公園の範囲よりも広い区域でした。
 せっかくの改称でしたが、長年「梅が園公園」の呼び名で慣れてきた地域の子どもたちは、その後も知ってか知らずか、「梅が園公園」
と以前と同じ名前で呼んでいます。                 「梅が園善徳保公園」    「ブクンダ公園」
 梅が園善徳保公園の桜は、公園横の道路法面の部分も含めて、34本のソメイヨシノがあります。公園の内側に沿って公園全体をほぼ囲む
ように並んでいます。法面の草の緑やケヤキの新芽の色などもあ
って、ほどよい色合いに見えています。
 この梅が園町
道明寺東小学校前道路エリアの桜は合計72本あり、上の方の写真でわかるように、見る角度によってはみごとな桜のうね
りとなって圧巻です。学校前道路を車で通って、ちょっと止めて眺めるだけでも値打ちのある桜景観だと思います。
G 東入口より見た公園の桜(北東より) H 写真Gの左側道路上から見た公園の桜(北東より)
G 東入口より見た公園の桜(北東より) 2014(平成26)年4月
     写真Fの反対方向から見た様子。
   合成パノラマ
H 写真Gの左側道路上から見た公園の桜(北東より)
                   2020(令和2)年4月

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