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◆ ブクンダ公園
  (ぶくんだこうえん)    藤井寺市藤井寺1-846-3
  所管:藤井寺市都市整備部農とみどり保全護課  TEL:072-939-1228(農政公園緑化担当)   FAX:072-952-9504
  近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅より南へ約
130m徒歩約(公園北東入口まで)
  府道190号・藤井寺駅前郵便局の向かいを東に入る
   約
140m進んで右折し約50m南下すると「市営藤井寺駅南駐輪駐車場」入口 その横が公園入口
  公園面積  2,391㎡
     開設:1973(平成48)年12月(開設当時の名称は「ちびっこ広場」)
① 新緑の季節の「ブクンダ公園」(東より)
① 新緑の季節の「ブクンダ公園」(東より)   2019(令和元)年5月   合成パノラマ
ブクンダ公園」は外国語由来?
 「ブクンダ公園」という表記を見ると、多くの人は「外国語に由来するのか?」と思ってしまいます。今ではカタカナ表記が普通になっ
ていますが、元々はれっきとした漢字の名前が由来です。この場所は、かつて「仏供田池」というため池でした。「仏供田が『ぶくんだ』
?」と思われることでしょうが、本来の読み方ではありません。「仏供」は普通は「ぶっく・ぶぐ・ぶく」などと読みます。「仏供田」の
地名も各地にありますが、多くは「ぶくでん」の読みです。藤井寺市
(昔の所在地名は岡村)の「仏供田池」については、江戸時代の岡村絵
図に「ぶくでんいけ」の表記が見られます
(藤井寺市史)。つまり、当時は標準的な読みだったわけです。それがどうして「ぶくんだ」に変
わってしまったのでしょうか。これについては、私なりに推測してみましたが、詳しくは別ページ「藤井寺市の川と池-仏供田池跡地」を
参照してください。                              アイコン・指さしマーク「仏供田池跡地-藤井寺市の川と池」
 公園が開設されて数年後に現在の公園名に変更されましたが、漢字の「仏供田公園」では読みにくいことから、「ブクンダ公園」という
表記が採用され、やがて一般化しました。もともと「仏供田池」であったことを知る人もだんだん少なくなっています。
ため池から公園へ
 ブクンダ公園は1973(平成48)年12月の開設ですが、この時の公園名は「ちびっこ広場」でした。それまで都市公園らしいものが乏しかっ
た藤井寺市に、最初に誕生した都市公園でした。当時、藤井寺市はベッドタウン化が進んでおり、人口急増の真っ只中でした。地価上昇が
続く中、駅近の一等地のような場所に公園を造ることができたのは、ここがため池として残っていたからです。
 下の写真③は1961(昭和36)年の仏供田池の様子ですが、まだ高度経済成長が始まる頃で、藤井寺駅周辺も今ほど商業地化してはいません
でした。やっと三和銀行
(現三菱UFJ銀行)がこの場所に移転して来た段階です。この頃の仏供田池には桟橋が見えます。釣り堀に利用さ
れていたことがわかります。駅周辺にもビルらしいものはほとんど無く、まだのんびりしていた時代です。
 この写真の10年ほど後に仏供田池は埋め立てられることになります。人口急増に対応する公共施設の新設が必要とな
っていました。公立
の保育所は、町制時代からずっと2ヵ所体制でしたが、第3、第4の保育所が必要になっていました。また、折からのマイカー時代到来の
中、駅近くに駐車場を望む声も高まっていました。仏供田池の埋め立ては、それらの実現を一気に進めることができ、大きな転換となる事
業でした。こうしてできた公園が「ちびっこ広場」、後の「ブクンダ公園」です。
② 真上から見たブクンダ公園周辺 ③ 昭和36年の仏供田池周辺の様子
② 真上から見た仏供田池跡地の様子  赤線の範囲が昭和
  40年代まで存在した仏供田池の範囲。藤井寺駅と仏供田池跡 地と
  の間の部分が、かつて池だった所。
   文字入れ等一部加工
          〔(GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より
③ 昭和36年の仏供田池周辺の様子
  当時の仏供田池は、釣り堀に利用されていたことがわかる。
                  〔1961(昭和36)年5月30日  国土地理院〕より

                  文字入れ等一部加工
 下の写真④は、ちびっこ広場が開設されてから1年ちょっと経った頃の様子です。植えられた樹木はまだ幼木で、大型遊具や藤棚なども
まだ無く、広々とした様子が見えます。南側の市営駐車場もまだ未舗装で、空き地に車を止めているような状態でしたが、駅近くに駐車場
ができたことでずいぶん便利になりました。その後、駐車場利用者は急増し、立体駐車場への改修が行われます。
 一方、仏供田池は埋め立てられて公共施設新設に貢献しましたが、その一部は残されました。調整池兼防火用水池として必要だったので
す。周囲には密集した商店街や、古刹の葛井寺、辛國神社もあります。万が一に備える用水の確保が重要でした。この残された仏供田池も
現在は屋外駐車場となっていますが、実は駐車場の下に仏供田池は存在しています。
④ 公共施設に変わった仏供田池 ⑤ 仏供田池跡にできた「ちびっこ広場」(北東より)
④ 公共施設に変わった仏供田池  文字入れ等一部加工
    仏供田池の大部分は、公園・保育所・市営駐車場と
   なった。 〔1975(昭和50)年1月24日  国土地理院
〕より
⑤ 仏供田池跡にできた「ちびっこ広場」(北東より)
   後方左の建物は市立第3保育所。後に改修されて写真の
  池はなくなった。    『藤井寺市勢要覧1981』より
 写真⑥はちびっこ広場開設から4,5年後の様子です。当時の公園、市営駐車場、保育所、仏供田池の様子がよくわかります。右の写真
⑦が同じ場所の現在の様子です。GoogleEarthの
3D化機能による疑似鳥瞰写真です。市営駐車場は立体駐車場に変わり、残っていた仏供田
池も屋外平面駐車場になっています。公園の周辺には、需要の高まりに合わせてコインパーキングがいくつも誕生しました。その一端をこ
の写真でも見ることができます。写真③の頃と比べると、大きく変貌していることがよくわかります。
   アイコン・指さしマーク「ブクンダ公園-藤井寺市の桜名所」 ⑦ 現在の様子(北西より)
⑥ 仏供田池の一部と跡地(北西より)
⑥ 空から見た仏供田池跡地(北西より) 1978(昭和53)年頃
   『カメラ風土記ふじいでら』より
 文字入れ等一部加工
⑦ 写真⑮の場所の現在の様子(北西より)
          〔GoogleEarth 3D画像 2015(平成27)年11月〕より
藤井寺市の公園
 藤井寺市サイトの農とみどり保全課ページに、「藤井寺市内 公園・緑地一覧表」というのが載っています。そこには、都市公園29ヵ所、
児童遊園
43ヵ所、緑地8ヵ所、ポケットパーク13ヵ所の名称・所在地・開設年度・面積が一覧になっています(2020年)。都市公園は開設
順の一覧ですが、その1番は「ブクンダ公園」です。つまり、都市公園として最初に造られた公園がブクンダ公園
(旧ちびっこ広場)だった
のです。そこから、市内各地域に計画的に順次開設されて行き、今では約
30ヵ所にまで増えました。ちびっこ広場ができる前には、児童遊
園が
10ヵ所ほどあっただけだったのです。
 もともと市域面積の少ない藤井寺市で、大規模な都市公園を造ることなどは無理なことでした。まして、急速に市街化が進む中ではなお
さらのことです。幸いにも便利な場所に仏供田池があったことで、ブクンダ公園を造ることができました。今では、広い古墳公園を別にし
て、藤井寺市の代表的な公園と言えるでしょう。
 これ以後、藤井寺市は小規模な公園を数多く各地域に造ることを進めて行きます。児童遊園もずいぶんと増えました。市はこれらの事業
を進める中で、新設公園の名前にその場所の小字
(こあざ)名を付けるということも行ってきました。小山五反並・小山下大船・大井垣添・北條
馬場・オオガイト・道明寺西山畑・大井佃などがそうです。これらに合わせるように、ちびっこ広場も
「ブクンダ公園」に改称されました。
また、昭和
30年代に開発された住宅地・梅が園町の梅が園公園も都市公園として整備され、「梅が園善徳保公園」という小字名入りの名称
に変わりました。                       アイコン・指さしマーク 藤井寺市サイト「藤井寺市内 公園・緑地一覧表」
変遷した「仏供田池」
 公共施設建設のために埋め立てられた仏供田池ですが、実はこの時の池の形
・大きさは、昔からのものではありませんでした。すでにそれ以前に、池の約
半分が埋め立てられて写真③のような形・大きさになっていたのです。戦前の
昭和
10年代のことでした。
  1922(大正11)年、大阪鉄道
(現近畿日本鉄道)が池のすぐ北側に新線(現南大
阪線)
を開通させ、藤井寺駅を開業させます。これによって、駅周辺の様子が少
しずつ変わり始めました。仏供田池の北側半分を住宅地に転用することが当時
の町議会で承認されています
(『藤井寺市史』)
 右の地図は、それ以前の仏供田池の様子を知ることのできる数少ない資料の
1つです。埋め立て前の仏供田池は、このような形をしていました。写真③の
大きさの倍以上の面積があったようです。藤井寺駅と辛國神社の間の区域の大
部分を占めるような存在であったことがわかります。
 ところが、仏供田池の変化はそれだけではなかったのです。右の地図の頃よ
りもずっと以前の明治時代中頃に、もともとの仏供田池が拡張されて、右図の
ような形大きさになっていたのです。つまり、明治中頃までの仏供田池が一度
⑧ 地図で見る昭和初期の仏供田池
⑧ 地図に見る拡大された仏供田池    昭和初期
  1/2万5千地形図大阪近傍九号・和歌山五号大阪東南部ノ四
 『古市
』〔昭和4(1929)年6月発行 大日本帝国陸地測量部〕より
                 文字入れ等一部を加工
拡張されて大きくなり、それが昭和10年代にほぼ元の大きさに戻り、そして昭和40年代に埋め立てられて見えなくなった、ということな
のです。仏供田池は、その名前だけではなく、形・大きさについても少しばかり複雑な背景を持っている池でした。詳しくは別ページで紹
介・説明しています。再掲しておきます。                    アイコン・指さしマーク「仏供田池跡地-藤井寺市の川と池-」

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