日日雑記 May 2001

01 ちくま日本文学全集の川端康成、『巨人ファン善人説』の戸板康二
02 『芝居名所一幕見 諸国篇』が届く
03 毎日新聞の書評が面白い
04 小林信彦の『日本の喜劇人』を買う
05 三月書房の戸板康二俳句集
07 戸板康二と三島由紀夫の往復書評
08 梅崎春生ってどうだろう?
09 戸板康二登場の「日本の名随筆」
10 川島雄三の『わが町』を観た
11 金曜日の日暮れ時の奥村書店
12 文楽初日
13 『六代目菊五郎』について
14 『いろはかるた』について
16 とっておき美術館
17 月の輪書林の目録に大興奮!
18 サントリーホールにて
19 歌舞伎座にて
22 森田誠吾さんの仕事
23 三島由紀夫の『盗賊』、月の輪書林から届いた本
24 『愛の渇き』読了、月の輪書林から届かなかった本
27 映画界の戸板康二、小林信彦の『日本の喜劇人』に圧倒される
28 百鬼園随筆、『明治劇談ランプの下にて』を再読
29 島田正吾のひとり芝居を観た
30 薩摩治郎八と小林一三

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5月1日火曜日/ちくま日本文学全集の川端康成、『巨人ファン善人説』の戸板康二

帰り道、昨日寄った古本屋に今日も寄り道、
今日は、「ちくま日本文学全集」の川端康成を買った。
川端康成の巻の解説は須賀敦子さんで、
その文章は全集ですでに読んでいるのだけど、
肝心の川端康成の方は、いままであまり読んだことがなかった。
前々から読みたいと思っていた『山の音』、
成瀬巳喜男の映画でさらに読みたくなった『山の音』、
先日の長谷散歩の余韻に急きょ読むことに決めたのだ。
それにしても「ちくま日本文学全集」の造本はなんて素敵なのだろう。
好きな書き手の文庫本に別の好きな書き手による解説文が付いている、
というのは本読みの三大幸福のひとつだと思うが(あと2つは探索中)、
今回の川端康成は、好きな書き手の解説文を案内人として、
未知の作家の世界へ入っていくというパターン。
「ちくま日本文学全集」の場合、今回のようなパターンは、
以前、東海林さだおの解説なので一気にそそられ、
未知の木山捷平を読み始めたということがあって、
その後しばらく木山捷平に夢中だったという幸福な巡り合わせがあった。



山口瞳の『巨人ファン善人説』の返却期限が明日に迫ってしまった。
いつの日か古本屋で再会できる日を夢見て、ざーっと読み返した。
なかの「突然の御指名」というタイトルの文章に、
戸板康二のパーティーで山口瞳がスピーチに指名されるというくだりがあって、
《実は、私は、万一の場合にそなえて、話を用意していたのである。
戸板さんは優しい人であるけれど、本質的には癇癪持ちであること、
従って、あの優しさはナミタイテイではないところのサービス精神のあらわれであること。
しかし、私は、一度、頭から怒鳴られたことがあったこと、
それは私が某女優を酷評したのが原因であったこと、
だから、戸板さんがいかに女優が好きであるか(すなわち芝居好き)ということを
話すつもりでいた。ところが、カッとなっている私は、
その話をすっかり忘れてしまっていた。……》
というふうに、『年金老人奮戦日記』における追悼文と同じ話がここにも載っていて、
またもや「いいなあ……」と思ってしまった。

スピーチに失敗した山口瞳が、あとで
《そのときになって、戸板さんが、めったに自分の会を開かない
遠慮深い人であることに気づいたのである。》という一節があった。
終わりの方では、戸板さん作の「老婆は一日にしてならず」という言葉が載っていた。
一瞬のけぞりつつも、「あ、すこし上手いかも」と思ってしまった。
なぜか日に日に、おやじギャグに寛容になっているわたしである。




  

5月2日水曜日/『芝居名所一幕見 諸国篇』が届く

川端康成の『山の音』を読み始めた。

文学作品というものに夢中になり始めたはるか昔のときと同じような感覚の、
ただその言葉のつらなりと、そこからあらわれる立体的な感覚に
身をまかせるにうっとり、というひとときだ。

わたしはすぐに、落ちつきなく先へ先へとページを繰る傾向があるので、
ゆっくりゆっくり大事に読んでいくように気をつけよう。

千石の三百人劇場へ向かう途中、少し時間が余っていたので
神保町で途中下車。東京堂で本を見る。
東京堂から出ると、雨が降り始めていた。

今日の川島雄三は、『しとやかな獣』。

わたしが初めて観た川島映画は、去年秋、
『女は二度生まれる』と『洲崎パラダイス赤信号』だった。
そのときに感じた、川島雄三ってなんだかかっこいいッ、
という第一印象が凝縮されているような素晴らしくかっこいい映画だった。

家に帰ると、スーパー源氏経由で注文した、
戸板康二の『芝居名所一幕見 諸国篇』[*] が届いていた。

歯止めがきかなくなると困るので、
ウェブ経由で古書を買うのは極力自粛しているのだが、
今回の『芝居名所一幕見 諸国篇』は
無視できないくらいお買得価格だったので、つい。
状態と値段とを比較検討しながら選択できるので、
やっぱりウェブ経由は便利なのだった。

この本は、『芝居名所一幕見 舞台の中の東京』[*] の姉妹編。
芝居の舞台になった場所を見開き1ページずつ、
舞台写真と該当箇所の現在の写真に、戸板さんの文章が添えられているという構成で、
該当箇所の写真はもちろん刊行当時のものなので、
今とは違う昔の町の写真を見ることとなり、二重に興味深いものとなっている。

「諸国篇」の方は関西が多いので、この先、旅行に出かけるときの必携になりそう。
「諸国篇」に挙がっている場所で、わたしの行ったことのあるのは鎌倉三ケ所くらいか。

そうそう、去年の年末に行った和歌山県の道成寺があった。
道成寺は、舞台で見るのと同じように、まわりは桜だらけなのだそうだ。
満開のときに行ったら、さぞ幻惑感なのだろうなと思う。

ここで挙がっているのは、すべて戸板さん自らが実際に行った場所であり、
「文献や資料のみで書くのは本意ではないので」とのこと。

そういえば、『忠臣蔵』[*] を書く際にもわざわざ赤穂に出向いたという話があって、
本文には四行くらいにしか反映していないけれども、得難い体験だったそうだ。

このフットワークの軽さが戸板康二なのだ。




  

5月3日木曜日/毎日新聞の書評が面白い

雨降りなので、今日は室内でのんびり。

買ったばかりの『須賀敦子全集 別巻』の対談をペラペラと眺める。

買ったばかりの「暮しの手帖」別冊の料理の本をペラペラと眺める。

毎日新聞のここのページの「今週の本棚」を押すと、
書評欄が読めるので、いつも楽しみにチェックしている。
本のセレクションが好みなのと、書評者で好きな人がわりかし多い。
あと、文章が長めなのもよい。

■ 張競・評『モダン都市の読書空間』

『モダン都市の読書空間』、金子さんのページで知って、急にそそられ買いに行ったのだけれども、
読書論という領域の文章は初めてだったので、ゾクゾクと面白かった。
もう一度、ゆっくり読んでみよう。




  

5月4日金曜日/小林信彦の『日本の喜劇人』を買う

5月の新緑と薫風は私の生活を貴族にする、と萩原朔太郎な気分の一日。

外出の折に足を踏み入れた本屋で、小林信彦の『日本の喜劇人』(新潮文庫)が並んでいるのをみてびっくり。
新潮文庫「今月の掘り出し本」フェアの一冊だ。これはもう即購入。

名著の誉れ高いこの1冊、ずいぶん前から憧れの本だったのだが、なかなか手に入れる機会がなかった。

それがつい二ヵ月ほど前に、オヨヨ書林を初めて訪れた際に、
「戸板康二」で検索をかけてみると、晶文社版の『定本・日本の喜劇人』(1977年)に
戸板康二が序文を寄せているということを知って、興奮のあまり即オーダーして入手した。

そして、その序文がまた、素晴らしく愛情と理解に満ちている文章で、
ちょうど戸板康二のミステリへの、江戸川乱歩による序文を読んだときとまったく同じような感激を味わった。

小林信彦は中学生くらいの頃から、主に小説論や映画の文章を愛読していて、
前から好きだった書き手と戸板康二との思いがけないつながりがとても嬉しかった。

どういう経緯で戸板康二が序文を寄せることになったのか、
はたまた小林信彦と戸板康二のつながりはどんなところにあるのか、
といったことはまだよくわからないのだけれども、追々調べていこうと思う。

そして、今日買った、新潮文庫版の『日本の喜劇人』は、
終章がうまく書けなかったいう晶文社版『定本・日本の喜劇人』を
納得がいくように書き直した決定版、とのこと。

新潮文庫には戸板康二の序文は載っておらず、ちょっぴり残念。

『定本・日本の喜劇人』の著者あとがきは「戸板康二氏の暖かい文章を頂いたことによって、
この本はさらに、幸せになった。私には過ぎた序文というほかない」と結んでいる。

戸板康二による序文には、川島雄三の『幕末太陽伝』を試写で観た筈見恒夫が
東宝の砧の食堂で「一刻も早く、これは見なさい」と叫んでいたのを
目撃したという、ちょっといい話が載っている。

なんだか、最近いたるところに、川島雄三の影がある。




  

5月5日土曜日/三月書房の戸板康二俳句集

三百人劇場へ、川島雄三の『縞の背広の親分衆』を観に行った。

その行きに、池袋に寄り道。イルムスで贈答品をさがすものの、
結局は自分用の食器ばかりを買ってしまう。荷物が重い……。

そのあとにジュンク堂をのぞく計画だったのだけど、時間がなくなってしまった。
ので、映画の帰りにまたもや池袋に寄り道した。
ジュンク堂店内をのんびりとめぐった。かなりの長居。

そんなひとときに、俳句コーナーを気まぐれに眺めていた。
久保田万太郎の句集を探しに来たのだ。

すると! 棚の片隅に『戸板康二俳句集』という文字を発見、
「えー!」とパッと手にとってチェックしてみると、なんと去年の夏に出た書物のようだ。
いままで句集の類にはあまり注意していなかったので、不覚にも見逃していたッ。

冒頭の但し書きによると、生前に三月書房から出版された
3册の句集を一冊にまとめたもの、とのこと。

手にとった感じがとても愛らしい本で、ついうっとりしてしまう。
奥付には「八百部限定」の文字があり、これはもう迷わず購入することにする、
新刊書店で戸板康二の未知だった本を買えるなんてめったにないことなので、
そのよろこびを噛みしめつつ。

●『戸板康二俳句集』(三月書房、2000年7月刊)[*]

表紙は戸板康二の自筆の句があしらってあって、
戸板さんの字はいつ見ても、しみじみいい字なのだ。

そして「おっ」と思ったのが、名前の下に押してある「洗亭」の印。
「洗亭」いうのは戸板康二の俳号。洗足に住んでいたことに由来しているという。
どこかの文章で戸板さんが書いていたところによると、
この印章は山口瞳が、戸板さんのためになじみの職人さんに依頼したものだそうだ。

わたしは俳句には全然親しんでいないこともあり、
戸板康二の句集にも今まではあまり関心はなかったのだけど、
今日初めて戸板さんの句集をパラパラとめくってみると、
思っていた以上に胸がいっぱいになった。

五七五のごく短い文字に、戸板さんのまなざしが凝縮されているような感じがして、
句の文字を眺めているとそのまなざしを共有しているかのような気分になって、
戸板ファンとしては実に嬉しい時間であった。

季節ごとに句が並んでいるので、これからも折に触れ、
その季節のページを眺めることになると思う。「わたしの歳時記」状態。

これを機に、俳句全般に親しんでみようかしらと、明日の読書の意欲もわく一方だ。

今日のジュンク堂では『戸板康二俳句集』以外にもいろいろ買ってしまった。
買い物カゴがあるので、ついひょいと入れてしまって、非常に危険である。

歌舞伎関係だと、『落語と歌舞伎粋な仲』(平凡社)という本。
気まぐれに立ち読みしみたらあまりに面白いので、つい。
安藤鶴夫の『わが落語鑑賞』と平凡社ライブラリの『漱石と落語』と合わせて、
わたしのなかではとりあえずの「落語への招待」となる書物。

ジュンク堂の会計は1階のレジでまとめてする方式で、
横一列にずらっと並んでいる会計係の胸には「研修中」の文字のある人が多い。
大学生の新人アルバイトなのかな、この4月から働き始めたのかしら。
一生懸命お仕事をしている光景がなかなか微笑ましく、とてもいい感じだった。




  

5月7日月曜日/戸板康二と三島由紀夫の往復書評

軽い用事があって、都立中央図書館に久しぶりに行った。

その合間に、昭和7年の「演芸画報」を閲覧した。
「菊五郎論」の公募に応募して、17歳の戸板康二が見事選ばれたそうで、
これが戸板康二唯一の投稿なのだそうだ。(『演芸画報人物誌』[*] より)
ので、文章が見つかれば、戸板康二初活字の瞬間、と思ったのだった。
が、わたしの見方が悪いせいか、見つけることが出来ず、残念。
その時代の「演芸画報」の空気がとてもよい感じで、うっとりと眺めるひととき。
十五代目羽左衛門と六代目菊五郎がもっとも頻繁に載っているような印象で、
とりわけ六代目のアグレッシブな活動ぶりは現在の猿之助と印象が似ているなあと思った。
引退説を否定する五代目歌右衛門の文章とか、
早くも島田正吾が登場しているのにもびっくり。
あと、折口信夫の文章がたのしかった。

「演芸画報」で戸板康二が見つからなかった、その心の隙間を埋めようと、
次は、昭和24年の「読書倶楽部」という雑誌を閲覧。
これには三島由紀夫と戸板康二の往復書評が載っているとのことで、
三島由紀夫の戸板康二宛の書評はすでに見ているのだけど
(嬉しさのあまり、思わず書き写してしまっている。>> click)、
さて、戸板康二の方の文章はどんな感じなのだろうと前から気になっていたのだ。

こちらはあっさりと発見。戸板康二の方は、三島由紀夫の『盗賊』への書評だった。
こうして、三島と戸板康二の文章を並べて読んでみると、両者の文体の差が歴然としていて、
なかなか楽しい。そして、戸板康二の『盗賊』への語り口がとてもいい感じで、
『盗賊』は未読なので、ぜひとも読んでみようと決意。

と、そんなわけでさっそく帰り道、通りがかりの本屋で、新潮文庫の『盗賊』購入。
解説が武田泰淳なのも嬉しい。

★ 追記:その後、戸板康二の投稿が掲載されているのは
昭和9年の「演芸画報」だったことが判明して、7月19日に奥村書店で購入。>> click





  

5月8日火曜日/梅崎春生ってどうだろう?

ちくま日本文学全集の川端康成を読み終えてしまった。

雨降りの日の電車の中の『山の音』というのも格別の気分。
この時間がずっと続いて欲しいという感じのひとときだった。

その合間に、実は、殿山泰司の『三文役者あなあきい伝』を読み始めている。
映画のことがいろいろ載っているので誘惑に負けて、Part 2 から。

そうそう、戸板康二と殿山泰司が同じ1915年生れなのが嬉しくて、
「大正四年生れ七人の旋毛曲り」を探そうと目論んでいるのだけど、
ちくま日本文学全集の巻末のリストによると、
梅崎春生が1915年生まれということが判明した。

梅崎春生! いままで全く読んだことがないのだけど、
急激にそそられてしまった。今度は梅崎春生の巻を買いに行こうと思う。




  

5月9日水曜日/戸板康二登場の「日本の名随筆」


作品社の「日本の名随筆」が好きだ。かれこれ十年以上愛読している。

もともとアンソロジーが大好きなのだが、
「日本の名随筆」は数あるアンソロジーのなかでも、
もっとも上質の部類に入るシリーズだと思う。菊地信義のすっきりした装幀も素敵。

好きなテーマに関していろいろな人の文章を読むことで
そのテーマへの視点が深まったりとか、
そのテーマがさらに愛おしくなったりとか、
そのテーマの新たな姿が立体的に見えてきたりとか、
そこに登場するもともと好きな書き手による文章が他の文章の間に収まることで
その書き手の姿が相対化し少し別の角度から見つめ直すことができたりとか、
はたまや思いがけなく好きな書き手を新たに発見したりとか、
そのテーマのブックガイドとして使うといった実用的な面を期待したりとか、
編者の編集の妙に感嘆したりとか、本全体を見ることで
編者の個性がパッと一筋の線を貫いているのを感じたりとか、

そんな感じのアンソロジーの快楽を「日本の名随筆」にはもっとも上質に味わうことができる。

と言っても、そんなにやっきになって「日本の名随筆」を読みあさっているわけではなく、
たまになんとなく気が向いたときにひょいと購入しているだけなのだけど。

わたしの本棚に並んでいる十数冊の「日本の名随筆」から好きな本を選ぶとすると、
まずは、やっぱり戸板康二編集の『芝居』ということになる。

あとはなにがいいかしら、『着物(鶴見和子・編)』、
『珈琲(清水哲男・編)』、『散歩(川本三郎・編)』、『本屋(池澤夏樹)』、
うーん、ちょっと考えただけでも、すぐに収拾がつかなくなってしまいそう!

さて、「日本の名随筆」のウェブサイトの検索コーナーで、
ふと思いついて「戸板康二」で検索をかけてみると、
さすがはエッセイの名手、かなり多くの巻に戸板さんが登場することが判明した。
戸板康二のファンであると同時に「日本の名随筆」のファンでもある身としては、大喜び。

いろいろ検索を重ねた結果、
わたしが次に読みたい「日本の名随筆」は、『蕎麦(渡辺文雄・編)』に決定!
戸板康二が登場する上に、なんと東海林さだおも載っているのだ。
戸板康二と東海林さだおが同時に読める1冊、まさにこの世の極楽である。
さらに、『蕎麦』には獅子文六も登場している。これはもう絶対に見逃せない。
「日本の名随筆」の『蕎麦』の余韻とともにソバ屋で憩う、
なんていうことを夢見て、思わずうっとり。

戸板康二と東海林さだおが同時に読める「日本の名随筆」はあともう1冊、
『常識(関川夏夫・編)』というのがある。うっ、嬉しい。

……というわけで、今後の「日本の名随筆」読みのために、
戸板康二が登場する「日本の名随筆」をリストアップしてみた。
各巻の目次を「日本の名随筆」のウェブサイトで見ることができるので、
直接リンクを張らせていただくとしよう。
こうして眺めてみると、『蕎麦』『常識』と同時に非常にそそられるのが、
『酒(田村隆一・編)』と『読(井伏鱒二・編)』と『音(團伊玖磨・編)』。

それにしても、「日本の名随筆」はなんて素晴らしいのだろう。


【戸板康二が登場する「日本の名随筆」】

● 本巻リスト
11. 酒(田村隆一・編)
19. 秋(山本健吉・編)
25. 音(團伊玖磨・編)
36. 読(井伏鱒二・編)
40. 顔(市川崑・編)
45. 狂(中村真一郎・編)
50. 歌(加藤登紀子・編)
52. 話(木下順二・編)
54. 菓(塩月弥栄子・編)
74. 客(宇野信夫・編)
80. 艶(駒田信二・編)

● 別巻リスト
04. 酒場(常盤新平・編)
07. 奇術(泡坂妻夫・編)
10. 芝居(戸板康二・編)
19. 蕎麦(渡辺文雄・編)
22. 名言(外山滋比古・編)
27. 地名(谷川健一・編)
35. 七癖(阿刀田高・編)
37. 礼儀(草柳大蔵・編)
59. 感動(秋山ちえ子・編)
76. 常識(関川夏夫・編)
96. 大正(宇佐美承・編)





  

5月10日木曜日/川島雄三の『わが町』を観た

わたしにとっては、三百人劇場の川島雄三特集は今日が最終回。

今日は『わが町』を観た。

殿山泰司の『三文役者あなあきい伝』を読みふけっている最中に、
『わが町』を観ることになった、この素晴らしいタイミング!
われながら、幸福なめぐりあわせだったと思う。

いい映画だったなあ……。

個人的には、初めて辰巳柳太郎を見ることができて、
島田正吾の対として、新国劇のあれこれに思いを馳せたりした。

あとやっぱり殿山泰司の文章にメロメロの真っ最中なので、
殿山泰司の姿がとてもまぶしい。まぶしすぎる。
いい味を出している上に、とてもかっこいい。

殿山泰司は隣人の落語家の役で、その高座の場面では、
今はなき人形町の末広が使われたと『あなあきい伝』に書いてあって、
人形町末広といえば、ちょっと前にラジオで聴いた
圓生の実況に感激したりしていて、いろいろ思い入れが深い。

殿山泰司によると、桂文楽がなによりも素晴らしい、とのことなので、
今度、文楽のディスクを買いに行こうかなと計画をたてている。
(って、何につけても、いつも計画を立ててばかり)

文楽といえば、ちくま文庫の『あばらかべっそん』がとても面白くて、
ちくま文庫にはたくさんの芸ものの名著があって、愉しみが尽きない。

安藤鶴夫の『わが落語鑑賞』と森まゆみさんの『長生きも芸のうち』などなど、
本棚には、未読の本が何冊も並んでいる。




  

5月11日金曜日/金曜日の日暮れ時の奥村書店

銀座で待ち合わせがあるときは、地下鉄を東銀座で降りて、
奥村書店をちょいとのぞいてから、銀座通りへ向かうというコースをたどることが多い。

東銀座までの地下鉄のなかでは、読み終えたばかりの、
殿山泰司の『三文役者あなあきい伝』2冊をペラペラとめくっていた。
ああ、面白かった。殿山泰司、読み逃さないで本当によかった。

殿山泰司の本を買ったのは3月のちくま文庫の新刊、『バカな役者め!!』が最初で、
そのときは藤本義一の『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』(河出書房新社)とセットで買った。

映画の本のコーナーで、ふと川島雄三の本を衝動買いすることに決めて、
目次を見ていると、殿山泰司のインタヴュウが載っていたので、
わたしはたまに購入本の組み合わせを気にする変な癖があって、
殿山泰司の文庫本を組み合わせるのはなかなかオツだ、
ちくま文庫の新刊コーナーでと急に思いついた次第なのだった。

ので、川島雄三の本がなければ、殿山泰司を読みこともなかったかもしれない。
川島雄三の導きで、殿山泰司を読めることになったと言ってもいいかもしれない。

殿山泰司風に言うと、《川島旦那がシッシッシッと笑っている》ということになる。

……という感じに、殿山泰司の読後感で胸がいっぱいになっているうちに、
地下鉄は東銀座に到着、奥村書店をひさしぶりにのぞいた。

実は金曜日の夕方の奥村書店は、胸がワクワクするのだ。
なぜかというと、仕入れの関係上、金曜日に新しい本が入っていることが多い、
という噂をさる筋から聞いたことがあるからだ。

結果的には、ささやかだけど大満足のお買い物。

● 戸板康二『六代目菊五郎』(講談社文庫)[*]
● 戸板康二『いろはかるた』(駸々堂ユニコンカラー双書)[*]

の2冊、各500円、計1000円のお買い物。

『六代目菊五郎』は前々から読みたかった書物で、
今月の團菊祭に間に合ったかたちとなって、本当によかったよかった。

そして! 今までその本の存在をはっきりとは認識していなかった、
『いろはかるた』がもう、実に面白くて面白くて、
これだから戸板康二道はやめられないのよ! と大興奮だった。

おっと、時間がさしせまってきたので、今回の購入本については、次回にも少々。




  

5月12日土曜日/文楽初日

国立劇場文楽初日、『一谷嫩軍記』を観に行った。

一月の歌舞伎座の記憶がまだ新しいので、『熊谷陣屋』の演出を再確認できたり、
『熊谷陣屋』に至るそれまでのストーリーを観ることができたのがよかった。
歌舞伎座の『熊谷陣屋』では雀右衛門の相模が絶品で思わず涙腺が刺激されてしまったが、
人形でも相模の姿が実に美しい。

今回の文楽公演は、夜の部は『曽根崎心中』が上演されていて、
ぼーっとしていてチケットの申し込みが遅れ、売り切れで断念することになってしまった。
文楽で「売り切れ」の事態に遭遇するのは、今回が初めてだ。曽根崎心中、おそるべし。
今回を逃すと、もう玉男さんの徳兵衛は見られないのではないかしら。
うーむ、かえすがえず、残念だ。今度はこんなことがないように気をつけよう。

次回、九月の文楽公演は『本朝廿四孝』の通し上演なのだそうだ。嬉しいッ!
来年五月の文楽上演は『菅原伝授手習鑑』の通し上演なのだそうだ。嬉しいッ!
こういう、歌舞伎の義太夫狂言でおなじみの演目を文楽の通しで見ることが、
わたしにとってはもっとも文楽のよろこび全開の時間なのだ。

『菅原伝授手習鑑』の「道明寺」の菅丞相が至芸だったと、誰か書いていたかと思う。
できれば、来年も玉男さんで見られればと心から願っている。




  

5月13日日曜日/『六代目菊五郎』について

今日は早起きして、新宿伊勢丹の美術館で
《黄金期フランドル絵画の巨匠たち展》というのを見学。
そのあと、地下でサンドイッチを買ってから、新宿御苑をハイキング。
川端康成の『山の音』に刺激され、急に行きたくなってしまったのだ。
木の陰にゴザ(←手回しのいいことにわざわざ持参)を敷いて、
長らくくつろぐ五月の日曜日の午後だった。ああ、風光明媚……。

さて、先日購入した戸板康二のメモ第一弾。

●『六代目菊五郎』(講談社文庫、昭和54年)[*]

この本の初版は昭和31年。わりと初期の著書である。近所の古本屋に1000円で売っていて、
ずっと迷っていたのだけれど、今回の文庫本発見を待っていてよかったと思う。
というのは、文庫本では、初版の編集者の利倉幸一による解説を読むことができるからだ。
小林信彦風に言うと、この文庫本は利倉幸一による解説が付くことで、さらに幸福になった。

戸板康二自身はこの書物を「螺旋階段式の評伝」という言葉で表現しているのだけど、
この言葉を受けて、利倉幸一は、

《戸板君はさりげなく「体系はない、螺旋階段式」と言っているが、
実に稀れにみる近代的な名文章家であることにも拠るが、
なんと言っても、その階段の各階に、ぎっしり材料が積まれていることが大きい。
しかも、その階層はいよいよ高層になっている。
ペンのすべりがなめらかなだけに、とかく、そういう蓄積は見逃され勝ちになるが、
旧い言葉の蘊蓄などでは適当しない、生きた知識、生きた興趣が詰まっている。》

というふうに、戸板康二の歌舞伎のすべての文章に通じることを明快に文章にしてくれている。

特に「ペンのすべりがなめらかなだけに、とかく、そういう蓄積は見逃され勝ちになるが、
旧い言葉の蘊蓄などでは適当しない、生きた知識、生きた興趣が詰まっている」という部分に、
同感することしきり、なのだ。

戸板康二の文章はとても読みやすく、またその語り口を追うのがあまりにも心地よいので、
ついすいすいと読んでしまうけれども、その文章は実は大変に深く、そして密度が濃い。
なので、何回も読み直しているうちにさらに深く心にしみこんでくるというか、
読み返せば読み返すほど、得るものが多くなるという、そういう性質の文章である。

わたしが戸板康二に夢中になったきっかけは昭和20年代の歌舞伎本だったのだが、
なぜそんなにも夢中になってしまったのかというと、なによりも戸板康二の文体ゆえだった。
その夢中になったきっかけだった昭和20年代に比較的近い時期の書物、
『六代目菊五郎』を今回読めることになったこのめぐりあわせに感謝したい。
戸板康二を知ったばかりの頃の初期の感動を思い起こすことになると思う。

それから、今月の歌舞伎座では、わたしの念願だった菊五郎の玉手御前を観ることができる。
以前、梅幸のビデオを観て大感激したことのある『合邦』を菊五郎で観られる。
梅幸も素晴らしかったけれども、菊五郎の場合は、梅幸にはない少し邪悪な色気(のようなもの)が、
『合邦』の演目全体にとてもよい作用をするに違いないと勝手に予想していたのだ。
しかも、俊徳丸は新之助である。これ以上なにを望もうかという理想の配役。

三月に観た『忠臣蔵』の通し上演はなによりも菊五郎が素晴らしく、
忠臣蔵の特に五段目と六段目は、三代目菊五郎から五代目菊五郎へと継承されて
現在に伝わっている音羽屋の型の集積に心酔する時間だった。
そのことがきっかけで、音羽屋について勉強したいなとふつふつと思っていると、
戸板さんの著作で『尾上菊五郎』[*] という本がきちんと用意されていて大感激だった。
(ちなみにこの書物は、現七代目菊五郎誕生を記念して書かれたもの。)
この本でも一番多く言及されている六代目、今回の講談社文庫はその源泉ともいうべきものである。

なので、『忠臣蔵』以来の菊五郎となる今回の『合邦』を迎えるにあたって、
もう一度、「菊五郎」に関するあれこれをたどるよい機会を持つことができた。

あと、六代目菊五郎というと、2年前に早稲田大学の演劇博物館の講座で、
渡辺保の講演を聴くことができたのだけど、そこでの渡辺保の話の土台には、
戸板康二の六代目観が色濃く反映されていることが、
『歌舞伎への招待』の「菊五郎」の項を呼んだだけでも如実に伺えた。

そういう戸板康二の六代目に関する文章を、今読めることになった意義は非常に大きい。

……と、ここまで長々と書き散らしたことを、自分に言い聞かせて、
心して『六代目菊五郎』を読もうと、決心している次第なのだ。




  

5月14日月曜日/『いろはかるた』について

ポリーニのショパンの《バラード集》を聴いている。いよいよ、演奏会はもうすぐだ。
今週は体調を崩さないように、おとなしく静かに暮らそうと思う。

さてさて、先日購入した戸板康二のメモ第二弾。

●『いろはかるた』(駸々堂ユニコンカラー双書、昭和53年)[*]

この本は、江戸時代の町人の間に広まった「いろはかるた」を紹介した本なのだが、
それはやはり戸板康二のこと、単なる紹介にとどまらない滋味あふれる、なんとも楽しい書物となっている。

まずは、江戸の町人文化としての「いろはかるた」を眺めることになる。
「いろはかるた」には上方いろはと江戸いろはとがあり、上方が先である。
のちに尾張いろはも成立している。
それぞれ、使われていることわざが異なるので、まずは比べてみるのが面白い。
ここに民俗学的たのしみを味わえる、ような気がする。

カラーページで、それぞれのカルタの絵柄をふんだんに眺めることができるのだが、
そこで使われていることわざの文字を追うのも楽しいし、
同時に少しキッチュな絵柄もとてもいい感じで、
眺めるだけでも愉しみがどこまでも尽きない。

ところで、上方いろはが先に成立しているということで、そこで使われている文句やたとえが
いかにして、人びとに広まっていったか。戸板康二の文章を抜き書きすると、

《歌舞伎や浄瑠璃の作者が、こういうたとえを、その作中にしきりに使ったのは、
「芝居が無筆の耳学問」だった徳川時代に、大衆にわかりやすく聞かせるために、
ことわざを利用したのだろう。
上方いろはかるたで拾ってゆくと、
「地獄の沙汰も金次第」は河竹黙阿弥の「四千両」の大牢の幕切れのセリフに、
「夜目遠目笠のうち」の前半は「仮名手本忠臣蔵」の七段目に、
「氏よりは育ち」は「菅原伝授手習鑑」寺子屋の武部源蔵のセリフに、
「負ふた子に教えられて浅瀬を渡る」は「近江源氏先陣館」盛綱陣屋の佐々木盛綱のセリフに、
「盲の垣のぞき」は「奥州安達原」の袖萩のクドキに使われている。
上方かるたを知らない江戸の大衆も、劇場でこれらの章句をおぼえたはずである。》

その上方いろはかるたが成立したのは天明、その時代のかるたを眺めることで、
遠い江戸時代のデザイン感覚に感激するといった愉しみと同時に、
いつのまにか歌舞伎のことについても別の角度から眺めることができたりもする。

『元禄小袖からミニスカートまで』[*] という本があるのだけれども、
『いろはかるた』もこの本と同じように、江戸時代の風俗を眺めることで、
実はいつのまにか芝居に対する興味もさらに増してしまったりといった、
そういう匙加減が絶妙なのだ。

それから、それぞれのことわざについての戸板康二の私解の語り口が、実に楽しくて、
カルタのキッチュな絵柄と相まって、さらに幸福な時間となる。

たとえば、江戸いろはの「い」は「犬も歩けば棒にあたる」。

戸板さんの文章は、

《かるたの最初に出て来るこのことわざでは、まず絵がぼくは好きだ。
ぶちの和犬で、歌舞伎の「高時」や「丸橋忠弥」に出て来るような、
愛すべき「町内の犬」である。まかりまちがえば、或る朝忽然と横町で
人間になっているかも知れない(落語の「元犬」)犬ともいえる。……》

という感じになっているのだ。ほーら、楽しそうでしょう?(えっ、そうでもない?)

あと、この『いろはかるた』の楽しいところは、
心底戸板さんが「かるた」に惚れ込んでいることがいたるところで垣間見られる点にある。

さらに、「かるた」を眺めるだけで満足する戸板さんではなかった。
戸板さんの趣味は、いろはかるたを作ることだという。

島崎藤村も自撰いろはかるたを作っているそうで、
たとえば、「へ:へそも身の内」「す:西瓜丸裸」という感じになっているのだそうだ。

戸板康二によると、かるたつくりに際してはテーマを作っておいた方がよいそうで、
《枠をまずこしらえて、章句を考え、いろはかるたの形に仕上げてゆく》という感じで、
戸板さん専門の歌舞伎では四種類のかるたを作ったのだそうだ。
それからまた、歌舞伎の演目を「丸本」「丸本以外」「おどり」の三つに分け、
またもやそれぞれこしらえたというから、すごい。
(この三つをもとに、昭和49年の『演劇界』で「新版かぶきかるた」の連載もしていたとのこと)

具体的な話では、一番困るのは、ら行だそうで、特に「る」が少ないのだそうだ。
《しかし、そのけわしい道を乗りこえて、霊感のように、
頭に適当な章句がひらめいた時の喜びは、形容しがたい》とのことで、
とにかく、相当夢中になっているようで、そんな戸板さんの姿がとても微笑ましい。
それから、何人かの同好の士とかるたつくりに興じるという文章を読むと、
社交の達人としての戸板康二の洒脱な姿がまぶたにうかんで、ついうっとりしたりも。

……そんなこんなで、この小さな書物には、愉しみがふんだんに詰まっている。

戸板康二がカルタについて書いたのは、『夜ふけのカルタ』[*] が最初で、
それから、丸ノ内出版から昭和47年に『いろはかるた随筆』という本も刊行されている。
この本も、いつか読める日が来るといいなと思っている。
本当にもう、戸板康二を読むたのしみはどこまでも尽きないのだ。

【いろはかるた関連リンク】

■ 芦屋リバーサイドストーリー
戸板康二の『いろはかるた』に写真が載っているカルタは、芦屋の滴翠美術館に展示されているようだ。
で、さっそく検索をかけてみた。滴翠美術館があるあたりは、『細雪』の舞台なのだそうだ。
いつの日か、滴翠美術館へ行きたいッ、と明日の旅路の夢が広がる。

■ 和田さん制作のいろはかるたのページ
「いろはかるた」について検索をかけてみたところ、さっそく素晴らしいページを見つけてしまった。感激……。




  

5月16日水曜日/とっておき美術館

発売がとても楽しみだった、Pen 最新号バウハウス特集をうっとりと眺めていたとき、
ふと、新潮社の『バウハウスと茶の湯』(だったかな)というタイトルの本を思いだした。

昔5年くらい前に、一年間ほどお茶のお稽古に通っていた時期があって、
「おっ、これはお誂え向きだ」と代官山の本屋さんで衝動買いした一冊だった。

その本を急に見たくなり、本棚を探してみたのだが、どうしても見つからない。
B5 サイズの本だからわりと目立つところにあるはずなのだが、どうしても見つからない。
うーむ、度重なる引越や本棚の整理の合間に、どこかへ行ってしまったのだろうか。
かえすがえずも残念である。

そのかわり、本棚の奥から、これも昔購入してそれっきりになっていた、
池内紀著『とっておき美術館』(講談社、1996年)という本を見つけ、しばし眺めた。

日本全国の著者とっておきの美術館を紹介した本で、なにしろ日本全国なので、
行ったことのない美術館が多いので、あまり真剣に読むこともなく今日に至っていたのだけど、
いま改めて見てみると、なかなか面白い。美術作品を観るたのしみは、
美術館という空間へいく愉しみでもある。その二重性を心地よく文章にしたためている。

外国の美術館は5つ挙がっていて、この本を買った当時は行ったことがなく、
その後、旅行で訪れることになった、ウィーンのクンストハウスと
プラハの国立美術館の記述が個人的にはとてもうっとりだった。
ウィーンはあともうひとつ、連邦銀行芸術館が載っていて、
こちらは未見なので、次回のウィーン訪問(って、いつになるかな)のときは
ぜひとも行ってみようと思う。

しかし、ウィーンだけでなく、まずは関東近辺に行きたい美術館があるのだ。

【近日の訪問を決意している美術館リンク】

■ 河鍋暁斎記念美術館
去年の今ごろ、今はなき池袋の東武美術館で暁斎展を見て、
その図録でこの美術館の存在を知って、ぜひ行ってみようと思いつつ、
それっきりになっていた。今度こそ、実行に移そう。

■ うらわ美術館
暁斎美術館と同じ埼玉にある、うらわ美術館。
こちらは去年春に開館したばかりの新しい美術館で、
「本をめぐるアート」がテーマなのだそうで、もうそれだけでかなり魅惑的。
暁斎美術館と同日に訪問して、埼玉ピクニックということにしたい。

■ 熊谷守一美術館
今日、池内紀の本で初めて知ったのだけれども、もう絶対に行く! 行くったら行くッ!

■ 神奈川県立近代美術館
先日、《岸田劉生展》で初めて訪れたのだが、
今までこの美術館に行ったことがなかったのは、とんだドジであった。
池内紀の文章で、あの日の感激が胸によみがえる。なんてすばらしい空間なのだろう。
結局、《ウイリアム・ブレイク版画展》は見逃してしまったけれども、
次回の《バックミンスター・フラー展》と合わせて、《ゴヤ版画展》を見るとしよう。
近くの鏑木清方美術館も展示替えなので、もちろんこちらも合わせて。




  

5月17日木曜日/月の輪書林の目録に大興奮!

「月の輪書林」というのは、カタログ販売専門の古書店で、
坪内祐三の文章で度々、月の輪の目録は素晴らしいということを目にして、
その度に気になってはいたものの、今まで特に目録を取り寄せたりはしていなかった。

4月にひょんなことから石神井書林の目録を取り寄せて、初めて古書目録の魅惑を知って、
そしてこのたび、いよいよ月の輪書林の目録を取り寄せることとなった。

月の輪書林の目録を取り寄せたのは、さる方からのメイルがきっかけで、
「月の輪書林の目録の最新号が出ましたよ、今回もとにかく凄いですよッ」
という内容のおたよりを目にして、「んまあ、それは大変!」と、
次の日にさっそく申し込んだ次第だったのだ。

なので、さる方からのおたよりがなければ、
永久に月の輪書林の目録を目にする機会はなかったかもしれない。

その月の輪書林の目録は昨日届いていた。とにかくもう、大変な目録であった。

どのくらいすごい目録だったかというと、
昨日の夜ふけ、寝る前にコルト−のショパンなど聴きながら、紅茶を飲みつつ、
「ちょいと、めくってみるか」と軽い気持ちで1ページからめくり始めてみると、
それからがもう大変! ページをめくる指を止めることができないばかりか、
付箋をはさむ指をも止めることができず、あまりの幻惑感にクラクラしながら、
結局最後のページまでめくってしまった。なにしろ400ページの分量なので、
大変な夜更かしになってしまった。

さらに、いてもたってもいられず、さっそく書籍注文のハガキを書き上げ、
今朝、通り道のポストに投函した。電車の中では、読みかけの本そっちのけで、
月の輪の目録をめくっていた。二巡目である。いわゆる中毒状態。
そして、夜、部屋にかえって、またもやいてもたってもいられず、
書籍注文のハガキを新たに書いて、そのハガキは明日の朝、
通り道のポストに投函されることになるだろう。

在庫はすべて一点限り、他の希望者がすでに存在する可能性が高いので、
注文した本が全部届くとは限らないのだけれども、
届いたあかつきにはまたこのコーナーに書き留めるとしよう。
届くまで少し時間がかかるらしいけれども、一冊でも届くといいなと思う。



月の輪書林の目録には索引はなくジャンル名などの記載もなく、
最初から最後まで、ひたすら本のタイトルの羅列である。
(ただ特集は決まっていて今回は「寺島珠雄私記」、
特集と目録全体とのリンクの仕方がまた素晴らしい。
これは実際に目録を見るしかない。)

そして、タイトルの羅列からそのあたりの書物のテーマが浮かび上がって、
浮かび上がったかと思うと、そのテーマはいつのまにか別のテーマへとシフトしている。
そのテーマはさまざま、「永井荷風」「見世物」「日本映画」「モダン都市東京」
「銀座」「演劇」「新宿」「ストリップ」「田中小実昌」などなど、
いちいち挙げていくともうキリがない。

一度あらわれたテーマがシフトしていったかと思うと、今度は違う方面から戻ってきたりもする。
そして、また同じように、今度は違うテーマへとリンクしていく。

自分の好きな書き手やジャンルがどんどんつながっていく! という感じの、
「いもづる」読書は常日頃から誰もがやることだと思うけれども、
月の輪書林の目録を見れば、誰もが自身のなかに思い描いていた「いもづる」を発見して、
狂喜するに違いないと思う。

たとえば、わたしは「戸板康二道」的ないもづるを随所に発見して、大興奮した。

「戸板康二道」とは戸板康二の本だけを読むことを指すのではなく、
戸板康二の文章を読んで抱いた新たな興味が別の書物へとつながっていったり、
戸板康二の関連人物の本を新たに読むことで、別の興味が生じたりする、
その興味が連結して出来上がる有機体を「戸板康二道」と呼んでいるのだ。
なーんて、力説するほどのことでもないのだけど、そんなわたしの個人的な思い込みをも
月の輪書林の目録はきちんと受け止めて答えてくれている。

なんというか、この目録を眺めている時間は、
なにか気持ちのよいライブ会場に居合わせているかのような、大変な幻惑感。
グルーヴ感という言葉もぴったりなような気がする。

【月の輪書林の目録での感動メモ・抜粋】

● モダンガールとかカフェーとか、昭和初期モダニズムが大好きなのだが、
そのあたりの本がたくさん載っている。「モダンガール!」と思って興奮していると、
いつのまにかお化粧やお洋服関連の書物になっていって、
そのなかにはたとえば「新装(きもの随筆)5000円」というアンソロジーがあって、
そこには鏑木清方の名前も! (高くて買えないけど、字面を見てるだけで楽しい)

● 銀座関係のタイトルが並んでいるなあと思っていると、
池田弥三郎の名前が登場してくる。池田弥三郎は銀座生れの町っ子、折口信夫の弟子で、
仏文科に進学しようとしていた戸板康二を国文科に招き入れた人物として知られる。
戸板康二の一年先輩で、終生友人だった。
殿山泰司の『三文役者あなあきい伝』によると、池田弥三郎と殿山泰司は同じ泰明小学校の出身、
『あなあきい伝』に、殿山泰司の卒業する一年前に
優等生総代として卒業式にのぞむ池田弥三郎の姿があった。
……ということを思いだしつつ、池田弥三郎の名前を追うと、
「泰明 創立六十周年記念号 5000円」というタイトルが登場してこのページはおしまい、
次のページを繰ると、あら突然、殿山泰司の書物が何冊も何冊も登場!
この鮮やかな展開に心がふるえる。川島雄三関連の書物も多い。
ここから先、目録はまたモダン都市東京という雰囲気になり、映画本があらわれて、
それから獅子文六が登場。……

● 戸板康二の名前は何度も何度もひょっこりと登場して来るのだけど、
一番多く並んでいるページへの過程は、いとう句会→久保田万太郎という感じになっていて、
戸板康二の書物は久保田万太郎に挟まれたかたちとなっている。これにも、うなった。
戸板康二の著書は3冊、戸板康二道関連は数冊注文したが、全部でいくつ届くかな。
戸板康二の草稿が何点かあって、さすがに草稿趣味はないけど、でも字面を追うだけでうっとり。
戸板康二のあと、久保田万太郎が再登場し、それから渋沢栄一、高田保、
吉行親子、十返肇という感じに流れていく。
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キリがないので、これでおしまい。モダンガールの東京、木村荘八の挿絵、
一葉や鏑木清方、辻潤や野溝七生子、古き巴里と日本文学、演芸画報人物誌的なつながり
数多くの戸板康二道の系譜、などなど、とてもじゃないけど書ききれず。

深沢七郎、武田百合子などなど、他にも興奮材料がたくさんありすぎて、
もう大変! という感じだった。それにしても、びっくりしたなあ、もう。

自身のなかの「いもづる」を発見して大喜びというのと同時に、
月の輪書林の目録から新たに知ったり教わったりすることが非常に多いのだった。




  

5月18日金曜日/サントリーホールにて

昨夜、サントリーホールでポリーニの演奏会を聴いた。
オールショパンプログラムで、アンコールは5曲。

ホールの前には、多数の「チケット求む」の札を持った人が立っていて、
中に入ってみると、プログラム売場は、かつてないくらい長い行列で、
場内はものの見事に満席、終演後の花束娘は果てしないくらい続き、
最後のスタンディングオベーションもいつまでも続く、
もう、なんていうか、なにもかもか果てしないのだった。

花束を渡すお嬢さんたちはみなとても嬉しそうで、
わたしの隣の席のお姉さんも、終演後いつまでもポリーニが出ていったドアを眺めている、
また出てこないかしらとうっとりとしている様子で、
そして、ポリーニがまた出てくると、心底嬉しそうなのだ。

場内の「うっとり」の様子はさながら歌舞伎座における玉三郎の見物客を彷佛させた。
もちろん、当のわたしも。

……という、演奏会のことは The Joy of Music の方に書くとして、
4月10日の日記で、山口瞳の『年金老人奮戦日記』で、
サントリーホールには山崎隆夫の絵が飾ってあって、絵のテーマはすべて音楽、
ということをその追悼文で知って、ぜひ気を付けて見てみようッと思ったのだったが、
結局、われわれの目にうつる範囲では絵は一枚も飾られておらず、ちょっぴり残念だった。
あるとしたら、なかの控え室などといった内部に飾ってあるのかな。




  

5月19日土曜日/歌舞伎座にて

昨夜、歌舞伎座の夜の部を見物。大充実の一夜だった。

菊五郎の『合邦』で女形についてあれこれ思いを馳せ、
浄瑠璃の文句や三味線の音にいちいちゾクゾク、義太夫狂言のよろこび全開。

何の予備知識もなく観た、雀右衛門の『英執着獅子』が
あまりに素晴らしくてびっくり、ずっと見とれっぱなしだった。もう驚異的に美しい。

『伊勢音頭』は2年前の歌舞伎座の仁左衛門の舞台が最高だったので、
今回実はあんまり期待していなかったのだけど、どうしてどうして、とても面白かった。
やはり同じ演目は見れば見るほど視点が変っていって、
面白さが深まるなあと、歌舞伎のよろこび全開だった。

最後の、三津五郎と辰之助の踊り、『関三奴』は江戸の粋の結晶みたいな感じで、
今年の團菊祭の最高のしめくくりになった。

『伊勢音頭』は夏芝居だけあって、登場人物がほとんど
全員団扇を手にしていてその模様が楽しかったりと小道具がきいていて、
あと、貢さんの白がすりの涼しいきもの、菊之助のお岸の水色、
菊五郎の万野の黒の明石、時蔵のお紺の紫、喜助の涼しげな小弁慶!
……などなど、目にうつる夏の季節感のようなものが、
この5月にとても気持ちよかった。

そんなこんなで、今月のブロマイド選びはとても難儀。

3月の『忠臣蔵』の通し以来、菊五郎にメロメロのわたしとしては、
玉手御前と万野はどうしてもはずせない。風格たっぷりの三津五郎、
小弁慶のきものが素敵なのでこれもはずせない、
などなどと5枚ほど選出し(←買い過ぎ)、お会計にのぞんだのだった。

前に並んでいたお姉さんはほとんど新之助だ。
とかなんとか、どうしてもつい軽くのぞいてしまうのだったが、
横に並んでいたお姉さんのご購入ブロマイドがちらりと見え、
それがわたしの選んだものとほとんど同じなのでびっくり。
菊五郎だけでなく三津五郎まで一致するとは!
わたしと同年代と思われる、
藍色の単衣をお召しでエポカのバッグをお持ちのお姉さん、
「同志発見!」という感じだった。

今年の幕開け、歌舞伎座の初日がとても気分爽快で、
21世紀の歌舞伎座皆勤を目指そうと心に誓ったのだったが、早くも今月挫折。
去年、全然『源氏物語』に興味をもてない自分に「歌舞伎ファンとしていかがなものか」と
大いに反省したのだったけど、今年もいざ『源氏物語』と聞くと、
やはりどうしても興味が持てず、自分でも残念である。

チケットの手配をしてくれたお友だちの話によると、
かつてないくらい電話がつながらず、なんと夕方になってやっとつながり、
そのときの心境はまさに「うれしや日の出」という感じだったとのこと。

「うれしや日の出」、いい言葉だなあ。次に『伊勢音頭』をみるときは、
「二見ヶ浦」も見てみたいなと、明日の芝居見物の夢は広がる一方だ。




  

5月22日火曜日/森田誠吾さんの仕事

月の輪書林の目録に大興奮、の余波で、
坪内祐三の本を何冊かペラペラと再読していて、
『文庫本を狙え!』をめくっていたところ、
森田誠吾著『いろはかるた噺』(ちくま学芸文庫)の存在を知った。

森田誠吾さんといえば、先日買ったばかりの『いろはかるた』[*] のなかでも、
その名前を見ることができて、戸板さんとは「いろはかるた」の同好の士であるようだ。
その森田氏のいろはかるたにまつわる著作と聞けば、もう無視は出来ない。

というわけで、昨日、恵比寿の駅ビルの本屋さんで、『いろはかるた噺』を購入して、
友だちを待っている間、コーヒーを飲みながら、ペラペラとめくっていた。

これは実に、素晴らしい仕事である。
かるたに使われていることわざの文句を検証することで、
上方と江戸の文化の違いとか、当時の生活のこととか、
いろいろなことが浮かび上がってくる。
それに、著者の森田さんの語り口がとてもいい。
それにしても、いろはかるたには尽きない愉しみがある。
戸板康二の『いろはかるた』がきっかけで、初めてその世界を知ることができた。

と、ひとりで感動していたのだったが、「森田誠吾」という名前を見て、ふと思いだした。
あ、この人、岩波新書の『明治人ものがたり』を書いた人ではなかったかしら。

『明治人ものがたり』、奥付を見ると、1998年9月の発行だ。
この頃のことは鮮明に覚えている。
ちょうど「明治」のあれこれに心惹かれていた時期で、
この本も発売後すぐに購入して、すぐに読んだ。
この月は、講談社文芸文庫で、田山花袋の『東京の三十年』が発売になって、
これも嬉々として即購入して、『明治人ものがたり』と同じ時期、読んでいたものだった。

『明治人ものがたり』は本の内容もさることながら、
病床の中にあった著者が明治本をむさぼるように読んで、
出来上がったという成立過程がなんだかいい感じで、
巻末の参考文献を見てみると、わたしの読んでいる本と重なっていたこともとても嬉しかった。
あと、わたしが森銑三の名前を知ったのはこの本がきっかけで、
その後、いそいそと岩波文庫の『書物』を買いに走ったりもした。

ああ、懐かしいなあ。また思いがけないところで、
森田誠吾さんの仕事に触れる機会を持てたわけだ。




  

5月23日火曜日/三島由紀夫の『盗賊』、月の輪書林から届いた本

今日、行きの電車の中で、三島由紀夫の『盗賊』を読み終えた。
鮮烈なラストシーンが素晴らしかった。

三島由紀夫のラストシーンというと、わたしのなかでは、
いまでも10年も前に読んだ『仮面の告白』の、
ダンスホールと階段の踊り場(だったかな)の印象が鮮明なのだが、
それに匹敵する、いやそれ以上の幻惑ラストシーン。

このラストシーンあってこその『盗賊』、
武田泰淳は《三島氏の全小説、戯曲を通じて、私の一番愛好する結末》だと言い切り、
戸板康二は《この三行のために「盗賊」一篇は書かれた。
……僕は、忽然として、書斎の椅子の上に抛りだされた自分を見いだす》と書く。

途中の、どこまでも人工的な小説世界やまわりくどい描写もとても面白く、
わたしは三島由紀夫の文体を見ると笑ってしまうという悪癖を持っていて、
つい何度もクスクスと笑みが浮かんでしまうのだけれども、
そんななかでも、何かの詩の文字を追っているときのような、
さながら宝石箱のような、その文字の放つ言葉の力についうっとりしたり、
胸に響かせて楽しんだりといったことを、随所で味わった。
そういうふうにして『盗賊』の物語が進行していって、そして、あのラストシーン!

と、そんなわけで、電車の中の本がなくなってしまったので、
今日の帰り道、本屋に寄り道して、三島由紀夫の今度は『愛の渇き』を買った。

冒頭でさっそく、ヒロインが阪急百貨店で靴下を買っているシーンがあって、
そこを本屋でチラリと見て、大阪の都市描写がとても好きなので、一気に気に入り、
あと、文庫解説の吉田健一の、《これは三島由紀夫氏の作品の中でも、
最も纏ったものの一つである。……完成と充実がある。》という文字を目にし、
わたしの心は決まった。

で、さっそく帰りの電車のなかで読み始めたのだが、さっそく面白くてたまらない。
ひとつひとつの描写がいちいちねっとりとしていて、その生々しさがすっかりツボだ。
ヒロインは、若尾文子に演じてもらいたいなどと、
川島雄三の大映作品を頭のなかでイメージしたりも。



先週、極度の興奮状態へと誘われ、衝動的に注文までしてしまった、月の輪書林。
配達迅速、荷物は週末に届いていたみたいなのだが、不在がちだったので、
今日になってやっと届けてもらうことになって、ようやく荷物を受け取ることができた。

「これは!」と思ったものは売り切れていたりもしたのだけれども、
きちんと届いた本も多く、とても嬉しい。
と、そんなわけで、ここから先、月の輪お買い物メモを。
(ちょっと散財が過ぎるが、事故だと思って諦めよう……。)

長くなってしまうので、今日は届いた本のメモ、売り切れで届かなかった本に関しては、明日以降に。

目録の表記通りにタイトルを書き留めてみた。

【月の輪書林から届いた本】

● 2679. 新・東海道五十三次(泰淳&百合子) 武田泰淳 昭44
目録ではこのようにしてカッコで但し書きがついていて、
こうしてカッコの中を目にして、一気に大興奮、ということになってしまうのだ。
目録のこのあたりへの経過は、音曲の本が何冊も続いたかと思うと、
次第に芸人、花柳界というふうになって、いつのまにか漫遊ものになっていて、
突如、武田泰淳、登場。すぐ近くに、井伏鱒二原作の松竹映画『集金旅行』の台本もある。
この本の帯には《カー時代の小説東海道! のんきものの〈私〉と
ハリキリ屋のユリ子さんがくりひろげる弥次喜多道中現代版!》なんて書いてある。
あとがきによると、かのロシア旅行に出かけるときに脱稿したとのこと。
杉全直という人の挿絵がとてもいい感じで、挿絵の女の人はまさに百合子さん! 
素敵な地図まで折り込まれてあって、造本もとてもキュート。

● 2862. 香りの記憶 木山捷平鱒二戸板康二 平2
戸板さん登場のアンソロジーと聞くと、無視はできないのだ。この本の存在初めて知った。
それにしても、この3人の並びの見事なこと。多くの人のエッセイが収録されているというのに、
なぜ月の輪さんはこの3人の名を目録に載せたのか。そのあたりの匙加減が超絶。
目録ではこのあたりは「女体」関係の書物が並んでいる。
届いた本のなかには、新潮社編集部からの小島政二郎宛の献本のお手紙が挟んであった。

● 4414. わが戦後(含叔父・池田大伍) 池田弥三郎 昭52
この本は『見た芝居読んだ本』[*] 所収の書評で、
「戸板康二についての雑感」なる章があるのを知って、ぜひ読んでみたいと前々から思っていたもの。
図書館にもあまり入っていなくて、古書店の棚でも見かけたことがなかったので、嬉しかった。
装幀は熊谷守一。当の「戸板康二についての雑感」の文章、胸がジンとなった。
この本に関しては、全章読了後、いずれまたどこかにまとめようと思っている。

● 4508. モダン東京案内(モダン都市文学第一巻) 平凡社 平1
このシリーズ、第二巻の『モダンガールの誘惑』を愛読していた。
先の石神井書林の目録と今回の月の輪書林、一気に昭和初期モダニズム熱が再燃し、
記念にオーダー。目録ではこの本のあたり、全面、モダン都市東京! となっていて実に壮観。

● 4651. 随筆山の手の子(東方新書) 獅子文六 昭30
● 4657. 太平滑稽譚(宮田重雄装) 獅子文六 昭26
実はひそかに、獅子道をあゆんでいるわたくし。と言っても、戸板さんと比べて、
古書店で見かけることがあまりなく、きわめて緩慢な獅子道。
戸板康二と獅子文六の交流というと、どうしても演劇人・岩田豊雄との側面が大きいが、
わたしは獅子文六の小説をもっと読んでみたいと思っている。
このあたりには獅子文六の本がたくさん並んでいて、「牡丹の花」という題の
非売品の獅子文六追悼録(20000円!)には戸板康二の名前も並んでいる。

● 10422. わが交遊記(含久保田万太郎) 戸板康二 昭56 [*]
戸板さんの著作は3冊注文したうち、届いたのはこの1冊のみ。
この本は前から特に欲しかったもので、戸板さんとの交流を知ってはいても、
直接その交友に関する文章をまとめて読むことはなかった人たち、
たとえば、池田弥三郎、串田孫一、山口瞳といった人物に関する文章を
ここでは読むことができるので、そういった意味でもとても貴重である。
装幀もとても愛らしい。

● 10514. 今日の演劇を語る=高田保&戸板康二他「日本演劇」昭19
戸板康二の本があらわれたかと思うと、目録はまた久保田万太郎へと戻り、
そして再び、いとう句会が登場し、徳川夢声、高田保といった人物の書物が並ぶ。
そのなかの1冊がこの「日本演劇」。戸板康二はこの雑誌の編集の仕事を
久保田万太郎のすすめで始めることになり、その当時の「日本演劇」を見たのは今日が初めて。
結構、アカデミックな感じ。戸板康二の、三木竹二に関する文章も載っている。

● 15020. 武田泰淳その存在(対談)深沢七郎&武田百合子「文芸」昭51
泰淳&百合子で始まった今回のお買い物は、奇しくも、また百合子さんで締めることとなった。
武田百合子さんの『富士日記』にかねてより夢中になっていて、
そして、『富士日記』で深沢七郎に興味を覚えて、深沢七郎を読み始めたのだった。
それは数年前のことなのだが、今までの読書体験(のようなもの)が根本から揺さぶられるくらい、
胸がしめつけられて、大変な大ショック体験だった。
いまでも深沢七郎について語ろうとすると、言葉が詰まる。何も言えない。
実は、筑摩書房から出ている「深沢七郎集全10巻」も買い揃えてある。
その全集の月報に武田花さんによる「父母と深沢さんのこと」という文章がある。
そこに、対談嫌いの百合子さんが、深沢七郎とは一度対談したことがある、
《きっと久しぶりに会って、父の話などしたいとおもったのだろう。
張切って、お洒落もして、対談に出かけて行った。
ところが、帰ってきたら、出かける時の元気はすっかりしぼんでいて、
「どうだった? 面白かった?」と訊くと、「負けちゃったあ、
やられちゃったあ……ずるい、深沢さんはずるいよ」と言うのである。
めずらしく悔しそうな顔をして》というくだりがあるのだけれども、
まさしくその対談が、この「文芸」の武田泰淳追悼特集の記事である。
前々から気になっていた対談に、めぐりあう機会まで提供してくれる月の輪書林!
ここは目録でも終わりの方のページで、新宿、田辺茂一、ストリップ、というふうに
ジャンルが変遷していって、そして深沢七郎登場、それから、田中小実昌へとつながってゆく。
目録への幻惑感と相まって、大変胸が熱くなる瞬間だった。

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というわけなので、多少の散財はいたしかたなかったといえる。
(……と、いったいわたしは、何に対して言い訳をしているのか)




  

5月24日水曜日/『愛の渇き』読了、月の輪書林から届かなかった本

三島由紀夫の『愛の渇き』を読み終えた。
吉田健一の文庫解説をなぞるわけではないのだけれども、
始めから結末までのヒロインをはじめとする登場人物の心情描写と
そこからあらわれる世界が、小説として巧妙にまとまっていて、
その一貫性が一分の隙もない完成度の高さだった。

舞台は大阪郊外の農村で、冒頭の阪急百貨店のような
都市小説的描写が続くわけではないのだが、
途中、大阪駅の雑踏が登場するシーンがあって、
そこの雑踏とヒロインの交錯の筆致が素晴らしかった。

『盗賊』では、男女のハイキングのシーンがあって、
そこの自然描写と登場人物の描写、その融合としての小説世界が
とても見事で、そういうディテールにおいてひしひしと感じる
三島由紀夫の天才の片鱗がわたしはとりわけ好きだ。

ところで、今月初頭に、川端康成の『山の音』を読んで、そして今回の『愛の渇き』である。
奇しくも、日本文学の「舅との嫁との交錯」ものが続くことになった。

こうなれば、今こそ谷崎の『瘋癲老人日記』を読まねばならぬ。

そういえば、何ヵ月か前に、金子さんのページの掲示板で、
『瘋癲老人日記』の冒頭に、今は亡き(←涙)宗十郎さんが登場するということを教わって、
「えー! なんですってー!」と大急ぎで買いに走っていたのだけど、
買っただけで満足してそれっきりになってしまっていた。

そんなわけで、今日は部屋に帰ってから、わが愛読書、
小林信彦の『小説世界のロビンソン』の
『瘋癲老人日記』に関する章をじっくりと読みふけった。
福永武彦と三島由紀夫による対談が紹介されてあったりして、
切り口がとても面白くて、ワクワクした。

今度は時間がかかりそうだけど、ゆっくりと読んでゆくとしよう。



ここからは、昨日の続き。月の輪書林に注文したものの、
残念ながら売り切れていて、届かなかった本の覚え書きを。

これらの書物はすべて「戸板康二道」とその系譜にあるものである。
先客はどういう目的でこれらの本を購ったのかを思うとワクワクする。
そういう見えない連帯感(のようなもの)こそが、
町の古本屋さんやウェブ古書店では味わえない、目録注文ならではの醍醐味だと思った。

それにしても、われながら月の輪書林目録の衝動はすさまじかった。
いくらなんでも注文しすぎである。

本が届かなくてがっかりという残念な気持ちと、
その一方で、あまりお金を使い過ぎることがなくてよかったという安堵と、
目に見えない同好の士の存在に胸が熱くなる思いといった、様々な感情が交錯している。

さて、昨日と同じように、下線の表記は目録の記載と同じ。

【月の輪書林から届かなかった本】

● 3746. 女優愛と死と★松井須磨子の一生(パンフ)「マールイ」昭42
月の輪の目録のこのあたりは、映画女優に舞台女優、
帝国劇場やに大正の劇壇に関する書物が掲載されていて、松井須磨子ものが何冊も並ぶ。
このパンフレットはそのなかの1冊で、ここには戸板康二の名前が記載されているわけではない。
しかし! 「マールイ」は金子信雄や丹阿弥谷津子さんによる劇団で、
戸板康二も同人となっていて、そしてこの「女優愛と死と」は、
戸板康二の『松井須磨子』[*] をもとに脚本を起こした芝居なのだ。
松井須磨子を演じたのは丹阿弥谷津子で、その後、戸板さんは彼女に当てて
何本かの脚本をこしらえることになり、その稽古場に獅子文六こと岩田豊雄も何度も姿を現したという。
……ということは、『あの人この人』[*] の「岩田豊雄の食味」に詳しい。
新劇と戸板康二の関わりはとても深いのだが、まだわたしはその方面には詳しくない。
というわけで、当時の情勢をしのぶ絶好の資料だったこのパンフレット。
もしかしたら、戸板さんも文章を寄せているのかしらと期待もして申し込んだこのパンフレット!
先客はどんな方なのだろう。お話を伺いたい、ような気もする。
ちなみに、目録誌上、ここのすぐ近くに、
『思い出の劇場』[*] と『物語近代日本女優史』[*] が載っている。
それにしても、月の輪の目録、素晴らしすぎる。

● 10424. 奈落殺人事件 戸板康二 昭35
● 10432. 團蔵入水(短篇集) 戸板康二 昭55 [*]
目録の並びもさることながら、月の輪書林のすごさは絶妙な価格設定にもみることができる。
決して安価というわけではないが、この値段なら買ってもよいと深く納得してしまうような
まさに適正価格という感じの設定なのだ。ちなみに『奈落殺人事件』は2000円、
初期の雅楽シリーズの単行本ではこの値段でも納得、あと500円高かったら申し込んでなかった。
『團蔵入水』は1500円、奥村書店でも2000円の値がついていたのを見ているので、これも無視できず。
戸板康二の小説本はとても貴重だ。と、嬉々として申し込んだのだったが、やはり先客がいた。
それにしても、『奈落殺人事件』、欲しかった……。

● 10823. 特集薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生!「芸術新潮」平10
この本は、なんと『ぜいたく列伝』[*] の隣りに記載。
目録のここへの過程は、辻潤、野溝七生子から、巴里の辻潤というふうになって、
巴里ものが並ぶ中で、薩摩治郎八関連の2冊として、上記の書物が並んでいるわけだ。
獅子文六の小説に、薩摩治郎八をモデルにした『但馬太郎治伝』という小説があって、
この本は、去年に講談社文芸文庫から発行されて、大喜びで購入して、
そして、わたしの本棚の『ぜいたく列伝』の隣に並べてある。
と言いつつ、『但馬太郎治伝』、まだ未読だった。が、これを機に、
芸術新潮と合わせて読むとするかッ、と張切っていたのだけど、うーむ、売り切れか。
しかし、「芸術新潮」に薩摩治郎八特集があったのを知っただけでも有意義だった。
わりと見つけやすような気もするので、マイペースに古本屋で探してみようと思う。
薩摩治郎八、まさに『ぜいたく列伝』の書物全体に漂う空気そのものを体現している人物だ。
それにしても、月の輪の目録、素晴らしすぎる。

● 13199. マルチイメージ花森安治=植草甚一他「話の特集」昭47
花森安治の特集と聞くと、無視はできない。その上、植草甚一まで登場だなんて!
と思った人は、すでにいたらしく、残念。
このあたり、目録は大東亜戦争関係の本が並んでいて、戦時下のラジオや広告に関する本がある。
そのなかで、花森安治に関する雑誌特集が2冊並んでいる。大政翼賛会がらみか。

● 13837. しぶや酔虎伝(とん平)限定記番 昭57 非売
[ 田辺茂一トニー谷戸板康二新庄嘉章殿山泰司松本克平他 ]
「とん平」という飲み屋は渋谷にあって、『あの人この人』[*] によると、戸板康二はここの常連で、
古川ロッパと戸板さんの交流は「とん平」で始まって、辰野隆も常連だったのだそうだ。
新劇の俳優、ジャーナリストなども多く常連に名を連ねていたとのこと。
その「とん平」に関する非売品のこの書物には、殿山泰司の名前も!
3500円とわたしにとってはわりと高価だったが思わず申し込んでしまった。
目録本誌、このあたりは、町関係の本で、すぐ後ろは新宿、田辺茂一の書物が軒を連ねている。
それにしてもこの本、どんな本だったのだろう。
「酒場の文化史」とか「ドリンカーたちの軌跡」とか、海野弘の著書名を思いだしたり。
こういう、古書店の目録だからこそ知りえた書物。
さすがに、今回は届かなかったけれども、こういう本の存在を知るだけでも、胸は踊った。

この本に限らず、その本の存在を知るだけで満足ということは随所で味わうことができて、
これぞ、まさしく古書目録の醍醐だなあと思った。

石神井書林の目録ともども、実に楽しい時間を味わせてもらったなあと思う。




  

5月27日日曜日/映画界の戸板康二、小林信彦の『日本の喜劇人』に圧倒される

わりと盲点だが(と思う)、戸板康二は映画界とも関わっていたことがあって、
『あの人この人』[*] の「藤本真澄の映画」でその詳細を知ることができる。

昭和31年から46年まで、東宝映画砧撮影所の企画顧問という役職に就いていたとのこと。

日本映画データベースで「戸板康二」を検索すると、二本ヒットする。

■ 女殺油地獄
■ 花のお江戸の無責任

うーむ、いずれもまだ観たことがないのだけど、いつの日かぜひとも観たい。
映画館の暗闇の中で、スクリーンに映るクレジットで「戸板康二」の名を見ることができるなんて、
考えただけで、胸が踊ってしまうではありませんか。

『花のお江戸の無責任』は、クレージーキャッツの絶頂だった頃に、
戸板さんが、幡随院長兵衛と助六を、このグループで演じてもらったらどうでしょう、
と発言したところ、たちまち実現した企画だったのだそうだ。

ああ、かえすがえずもいつの日か、スクリーンで観てみたいものだ。

……と、以上のようなことを頭に思い浮べて、ひとりでうっとりしていたのだったが、
そんなことをしているうちに、ふと、先日購入したばかりの、
小林信彦著『日本の喜劇人』(新潮文庫)のことを思いだした。

こうしてはいられないッ。さっそく読むことにしたのだった。



それにしても、面白い本だった。

読む前は、あまり喜劇人というものになじみのないわたしが、
その内容についていけるかな、という不安がほんの少しあったのだけど、
全体的には、ここに挙がっている喜劇人たちの「業の深さ」のようなものに圧倒され、
なにかの小説を読んでいるときのように、そこに書かれている世界の中に埋没して、
著者の筆致とともに喜劇人の仰ぎみたりとかその成行きを見通したりとか、
そんなふうにして、本読みの時間を楽しむことができた。
伊藤整の『日本文壇史』を読んでいるときと似たワクワク感があった。

と、同時に小林信彦の醒めた批評眼のようなものが素晴らしく、
小説的たのしみと批評的たのしみをもっともよいバランスで味わえたように思う。

『日本の喜劇人』は、古川ロッパで始まる。

小林信彦の喜劇の原体験は1941年の緑波一座を観たときの「からだ中を電流が走るような感覚」、
そこにもう一度身を浸したいという欲求から、喜劇遍歴は始まった。

ロッパと同時代のライバルだったエノケン。その鮮やかな対照。
彼らを扱っている第一章と第二章を読んだだけで、
もうすっかり『日本の喜劇人』の世界の虜になってしまい、
栄光と転落を全て見通した筆者の筆致に夢中になる。

古川緑波というと、わたしはその芸に関してはまったく知らなかった。
ただ、『劇書ノート』という書物を愛読していて >> click
そのインテリさんぶりがなんだかとても好きで、
榎本健一は、黒澤明の『虎の尾を踏む男達』を観たとき、
素晴らしいなあと大感激で、『日本の喜劇人』でエノケンの動きを評した、
《あれだけ、ドタバタをやって、品があるというのは珍しい》という言葉とともに、
『虎の尾を踏む男達』のエノケンを思いだして、ジーンとしたりと、
二人に関しては、その程度の知識だったのだけど、
そんなわたしが読んでも思いっきり翻弄されてしまうというくらい、
『日本の喜劇人』は素晴らしい書物。

絶頂期のロッパとエノケンを描くくだりでは感動で胸が一杯になり、
二人の凋落のくだりにもしみじみ引き込まれる。(特に、エノケンの第二章の最後の場面に泣いた。)



そんなこんなで、始めの二章からして思いっきり引き込まれてしまい、
『日本の喜劇人』、つい一気読みということになってしまった。

「業の深さ」に圧倒されるのと、それを描く小林信彦の筆致に心が震える。

フランキー堺の章を締めくくる文章が、川島雄三にひたっていた身からすると、
本から顔をあげて、しばらくボーッとしてしまうくらい胸に迫るものがあった。
《フランキー堺の演じた rise and fall は若くして功成った才人の一つのケースであろう。
『幕末太陽伝』という伝説的な栄光を背負って歩かねばならない辛さが、
フランキーには、つねに、つきまとう。あれは、とにかく、一生に一つ、という傑作であった。》

一分の隙もない大傑作の『幕末太陽伝』だけれども、
おかしさのなかにもどこか悪魔的ともいえる不気味さがあって、
川島雄三の業の深さをそのまま体現しているような映画だ。
そこのキラキラ輝くフランキー堺の姿を頭に思い浮かべて、しばらく腑抜けになってしまった。

その一方で、あの「忙しい佐兵次が羽織を投げ上げ、
落ちてきたところですっぽり着る有名な場面」が
歌舞伎座の勘三郎の浴衣づかいを真似たものだったという、
豆知識的なことを知る愉しみも、『日本の喜劇人』では随所で味わえるのだ。



印象的なところを挙げようとするとキリがないのだが、
藤山寛美の第十一章で、筆者は《私が初めて緑波の舞台に接したのは、昭和16年7月だから、
それから丁度、30年の歳月が流れ去っていた。長い長い喜劇遍歴の果てに、
私はようやく、幻を上まわる舞台にめぐりあえたのであった》と書いている。

その藤山寛美の芸を描写するくだり、たとえば、

《〈涙と笑い〉ではなく、泣きも笑いも渾然一体となっているのが、寛美の芸であり、
それはかたまりきらぬゼリーみたいなものである。
そういうものが、ぶるぶる、ふるえているというイメージが彼の芸の核にはある。》

寛美の昼夜六本の「阿呆祭り」を観たあとの、

《私は昼夜通して見たのだが、少しもモタれない。どんなうまい演技でも、
昼夜見たら、たいてい、モタれるはずなのだが、そういうふうにはならない。
天ぷらでいえば、油が良いのである。
芝居にコクがあって、あと味が軽い――どうしてこう軽いのだろう、
と、私は、夏の夜道を、演舞場から銀座に向って歩きながら考えた。
最後の『鼻の六兵衛』で、完全に、とどめを刺されながら、
なおかつ軽い快よさはどういうことなのだろう?……》

といった感じのくだりにうなる。



そうそう、「醒めた道化師の世界」の宍戸錠にも大感激だった。
わたしのこころは俄然、「シシド!」に向っている。

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とかなんとか、『日本の喜劇人』についてはとても書ききれない。
日付けが変る前に切り上げることにしよう。

今週末は、いろいろと出歩いて楽しかった。ああ、明日は月曜日か……。




  

5月28日月曜日/百鬼園随筆、『明治劇談ランプの下にて』を再読

昨日の日記に書きそびれてしまったのだけれども、
日曜日に会った友だちから、旺文社文庫の内田百間著『百鬼園随筆』をもらった。

友人がいうことには、ひさしぶりに百間先生を読もうと、
本棚から旺文社文庫の『百鬼園随筆』を取出し、しばし読んでいた折に発見したところ、
あっ、文庫解説を書いているのは戸板康二ではないか、
もう読んでしまった本だし、もしわたしが持ってないようだったら恵んでやろう、
ということで持ってきてくれたとのこと。

うっ、涙が……。

内田百間の『百鬼園随筆』、わたしは見たことも読んだこともなかったし、
戸板康二がここに解説を寄せていることもまったく知らなかった。

未読の内田百間が読めると同時に、戸板康二の解説も読める。
もしくは、戸板康二の解説と合わせて、内田百間を読むことができる。
こんなに見事な組み合わせは、そうあるものではない。

と、そんなわけで、嬉しさのあまり、頬ずりしたいくらい。

『百鬼園随筆』の文庫解説の冒頭で、戸板康二は、内田百間の本について、

《鴎外、漱石、芥川龍之介、志賀直哉、太宰治、
そういう作家の全集とはまったく別の感触で、
「内田百間全集」を、本棚の手近な所にならべて、
随時手にしてはページを開き、そのまま三十分あるいは一時間、
読みあさり、百間と遊んでしまうことが、ぼくには始終あるのだが、
この魅力は、尋常なものではない。》

というふうに書いているのだけれども、それはそのまま、
わたしが戸板さんの本に接するときと、まったく同じではないですかッ。



先週読み終えた『六代目菊五郎』[*] の余波で、
2年ぶりに、岡本綺堂の『明治劇談ランプの下にて』(岩波文庫)を全体を通して再読している。

六代目菊五郎の生涯をたどってみると、明治の名優・五代目菊五郎を父とし、
九代目團十郎の薫陶を大いにうけ、十五代目羽左衛門や初代吉右衛門など
それぞれ六代目とは資質がまったく対照的な同時代の名優がいて、
そして、戦後亡くなっている。

三宅周太郎の『演劇五十年史』という書物のことを思いだしてしまった。
この書物は、明治26年の黙阿弥の死で始まり、敗戦後の劇壇までの50年間を書いている。

なので、六代目菊五郎の歩んだ道のりも、ほぼその五十年と重なっているわけだ。
『六代目菊五郎』の読後感とともに、まずは明治の劇壇をたどってみたくなり、
『明治劇談ランプの下にて』のことを思いだした次第。

前に読んだときから現在までの2年間で、
思いっきり戸板康二に夢中になってしまったわけで、
戸板康二の文章を通して知ることができた
歌舞伎とその歴史や劇評にまつわるあれこれが
現在のわたしの身にいろいろしみこんでいる。

そんななか読む『ランプの下にて』は、前読んだときよりも
またさらに面白いのは言うまでもない。そのなんていう幸せな時間。

『ランプの下にて』は戸板康二の愛読書でもあった。

『夜ふけのカルタ』[*] の「芝居・一冊の本」という文章で、
戸板康二は、『ランプの下にて』について、

《もともと岡本さんの文章は、淡々として、特に飾り立てたところがなく、
描写が確かで、感動が読者に静かに伝わってくる、文字どおり達意の名文である。》

というふうに書いているのだけれども、それはそのまま、
わたしの戸板さんの本に抱く気持ちと、まったく同じではないですかッ。




  

5月29日火曜日/島田正吾のひとり芝居を観た

今日は、新橋演舞場で二日間かぎりの、島田正吾ひとり芝居の一日目。

今年の演目は、北條秀司作『司法権』。島田正吾は児島大審院長を演じていて、
柄によくあった役で、かっこいい島田正吾を堪能する上でも、
往年の新国劇に思いをはせるうえでもとてもぴったりだった。

最後の口上では、これからも「無理をしないで、無理をして」芝居をしたいとおっしゃっていて、
いいなあ、無理をしないで、無理をして、いい言葉だなあとジンとした。
あと、「皆様お元気で、これからも芝居を愛しつづけ、頑張って下さい」なんて、
観客全員が島田正吾に対して抱いているであろうことを、
先に島田の方から言われてしまったりもして、うん、頑張ろう、と思った。

外に出ると、空にはきれいな三日月。

今日は変な天気で、なんだか楽しかった。

今、『司法権』の音楽で使われていた、
シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》を聴いている。
カラヤン指揮ベルリンフィル。
ひさびさに浴びるような気持ちで、管弦楽の響きにうっとり。
(と、あとで The Joy of Music に書こう)




  

5月30日水曜日/薩摩治郎八と小林一三

阿佐ヶ谷の映画館で成瀬巳喜男特集が始まっていて、
さっそく今日寄り道して、『秀子の車掌さん』を観た。
原作は井伏鱒二の少女小説で、バス好き必見の、
走るバスをとりまく各ショットが冴えまくりの可愛い映画だった。

と、その映画が始まるまで、中途半端に時間が空いていたので、ちょいと古本屋へ。

先日、月の輪書林の目録で買い損ねた、芸術新潮のバックナンバーの
「薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生」特集の号があればいいなあ〜、
などと思って、ここまでやって来たのだったが、
わたしの目論見通り、何冊も積んである芸術新潮の一番下にひっそりと
「薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生」を発見、すかさず引っこぬいた。

価格は300円、月の輪の三分の一以下である、結果としてはラッキーだった、
と、セコいよろこびにうちひしがれているうちに、さらに気をよくし、
薩摩治郎八と同じく、戸板康二の『ぜいたく列伝』[*] に名を連ねている、
小林一三を特集した「東京人」のバックナンバーもあるといいなあ〜、
などと思って、東京人がありそうな棚に行ってみると、
わたしの目論見通り、こちらもめでたく在庫ありで、価格はこちらも300円、
「『ぜいたく列伝』を雑誌特集から捉えなおそう」計画は嬉しいことに早くも実現である。

【本日のお買いもの】
・薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生「芸術新潮」1998年12月号
・小林一三ってどんな人?「東京人」1998年5月号



帰りの電車のなかで、さっそく芸術新潮の薩摩治郎八特集を読みふける。

かなり長めの鹿島茂による文章がとても面白く、グラビアも楽しくて、
ついクスクスと笑みが浮かんでしまうような誌面である。

薩摩治郎八と小林一三、ふたりとも、さながらバルザックの人間喜劇に出てきそうな人物だ。

ふたつの雑誌の誌面をみているうちに、なんとなく、
《この目録を眺めていると、日本の近代、可能性としての近代が、
実は、とてつもなく面白い時代であったことが見えてくる。》
という、坪内祐三が月の輪書林の目録を評した文章を思いだしたりも。

面白いなあ、もう。後日、ゆっくり読むとしよう。

とりあえず、わたしの部屋の本棚の『ぜいたく列伝』の左隣には、
獅子文六の『但馬太郎治伝』(講談社文芸文庫)が並んでいるので、
右隣の方に、今日買った「芸術新潮」と「東京人」が並べおこうと思う。



ところで、薩摩治郎八が主催した、フランスの現代音楽を日本に初めて紹介した
1925年秋の帝国ホテルにおけるジル・マルシェックスのピアノ演奏会、
薩摩治郎八自らが編纂したプログラム全63曲の実に過半数が日本初演だという。

その演奏会の模様は、梶井基次郎の短篇『器楽的幻覚』で伺うことができるのだそうだ。

このくだりを目にして、本棚の奥から、新潮文庫の『檸檬』を取り出した。

と、そんなわけで、いま現在、寝るまでの間、実に十年ぶりに、
梶井基次郎再読の時間を過ごそうというところ。




  

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